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古市古墳群白鳥陵地区の古墳と遺跡 阪南大学国際観光学科 4 回生樋口侑華 Burial mounds and Sites in the Hakucho-ryo Section of Furuichi-Kofungun Yuka Higuchi 安閑陵古墳 Burial Mound Ankan-ryo

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古市古墳群白鳥陵地区の古墳と遺跡

阪南大学国際観光学科4 回生 樋口侑華 Burial mounds and Sites in the Hakucho-ryo Section of Furuichi-Kofungun

Yuka Higuchi

安閑陵古墳

Burial Mound Ankan-ryo

羽曳野市古市 5 丁目にある。考古学では「高屋城山古墳」もしくは「高屋築山古墳」と いい、宮内庁は「安閑天皇古市高屋丘陵 継体天皇皇女神前皇女墓」と命名している。近鉄 古市駅西口から最短距離を歩いて11 分 (620m)で拝所に到着する。石川の西岸にそって隆 起する高尾丘陵の北端に主軸を東西にとって築かれた墳丘長122mの前方後円墳である。直 径78mの後円部から西に向けて広がる前方部は幅が 100mもあり、前方部が発達した特徴 から、古市古墳群では比較的新しい、6 世紀前半に築造された古墳であると推測されている。 『古事記』『日本書紀』(以下「記紀」と省略)には安閑天皇の陵が「古市郡高屋」にある と記され、近くにさらに大きな古墳がないことから、第27 代安閑天皇(466-535)の真陵であ る可能性が高い。安閑天皇は広国押建金日命といい、継体天皇の長子として66 歳で即位し たが、わずか4 年で没した。宮内庁が名を連ねる神前(かんさき)皇女は継体天皇の娘で、記 紀には異母兄である安閑天皇の陵に合葬されたという。 古墳は天皇陵に治定されているため、フェンスに囲まれて立ち入ることができないが、 周濠や墳丘の裾は眺めることができる。周濠は丘の上であるにもかかわらず、水が貯えら れ、2 ヶ所に渡り土堤があるが、これは幕末の修陵時に増設されたものであるらしい。測量 図を見ると、前方後円形がいびつになっており、急斜面の北側に対し南側の斜面は崩れて 緩くなっている。これは中世に墳丘が高屋城の本丸として転用された結果であると考えら れる。墳丘には葺石が施され、円筒埴輪や朝顔形埴輪が出土している。また。江戸時代に 墳丘の崩れた所からササン朝ペルシャ製のガラス碗(重要文化財、東京国立博物館蔵)が発見 された。拝所は旧国道 170 号線に面し、車が頻繁に前を横切るため、環境はあまりよくな い。むしろ東高野街道の通る東側から墳丘を眺めるほうがよい。 安閑陵古墳の墳丘と周濠

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春日山田皇后陵古墳

Burial Mound Kasuga-Yamada-Kogoryo

羽曳野市古市 5 丁目にある。考古学では「高屋城八幡山古墳」といい、宮内庁は「安閑 天皇皇后春日山田皇女古市高屋陵」と命名している。直線距離では安閑陵古墳の南210mば かりの位置にあるが、道を歩けば、拝所から拝所までは450mほどである。安閑陵古墳と同 様、高屋丘陵の上に築かれ、高屋城の二の丸に組み込まれていた。元来は南北に主軸をと り、北に向かって前方部が開く墳丘長 85mの前方後円墳であったが、わずかに残った前方 部が宮内庁によって守られ、安閑天皇の皇后陵に治定されている。住宅地となった後円部 は中世に高屋城が築かれたときか、天正3 年(1575)に高屋城が信長軍に落とされたときに削 平されたものと考えられている。残念ながら高屋城跡は宅地開発で破壊されたが、その時 の発掘によってこの古墳を巡る馬蹄形の周濠が確認されている。出土した土器によって、6 世紀初頭に築かれたものと推定されている。拝所の北に残る墳丘は、一辺約30~40m、高 さ約7.2mの方墳状になっている。宮内庁所管陵墓であるため、立ち入ることはできないが、 周囲は住宅地の道路となっているため、全方向から墳丘 を眺めることができる。 春日山田皇女は第24 代仁賢天皇の娘で、66 歳で即位 した安閑天皇の皇后となったが、子女はない。仁賢天皇 のあとをうけた武烈天皇で天皇家の血筋が途絶え、皇族 とはいっても、かなり傍系である継体天皇が皇位を継承 したあと、仁賢天皇の娘である手白香皇女を皇后として 迎えている。安閑天皇も同じように仁賢天皇の皇女を迎 え、皇室の血統を濃くしたのではないかと言われる。そ ういう歴史を拝所に立って感じられるよう、拝所の近く に説明板が欲しいところである。 春日山田皇后陵の拝所 高屋八幡山古墳の墳丘復原図 『羽曳野市史』第 3 巻(1994)より(一部加筆・着色) 拝所 残存する墳丘

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高屋城跡

Site of Takaya-jo Castle

羽曳野市古市5~7 丁目にまたがる。石川西岸の高屋丘陵を利用した戦国時代の平山城で あり、守護大名の畠山氏が河内支配の根拠地とした居城である。丘陵の北端付近にある安 閑陵古墳の墳丘を本丸にして、南側へ二の丸、三の丸を拡張した、東西 550m、南北 800 mばかりの城である。昭和30 年代後半から急速に進んだ宅地開発によって大半が破壊され てしまったが、土塁や堀のあとは戦後まもなく撮影された米軍の航空写真をみると、良好 に遺跡を留めていたようである。 城の本丸に転用された安閑陵古墳は墳丘が古いびつに変形して、二の丸に向かう南斜面 が緩斜面になっている。その南北200mを二の丸、さ らに南 250mを三の丸として結合する構造となって いる。本丸・二の丸・三の丸の間にはそれぞれ土塁と 堀が設けられて防衛が図られていた。城内を南北に貫 く東高野街道が古市の町に向かって下る坂が不動坂 で、城の搦め手(裏口)である。 高屋城の歴史は、文献では室町時代の応永年間 (1394-1428)に畠山基国が築いたことになっているが、 出土遺物などの年代から、およそ応仁の乱以後に築か れたものと推定されている。城主はめまぐるしく変わ り、家督相続をめぐる内紛で何度も城内で戦いが繰り 返され、そのつど建物が焼けたという。最後は天正3 年(1575)に織田信長の軍勢に焼き討ちされて滅んだ。 発掘では火災を受けた土が何層も確認されている。戦 争の絶えない城であった。 高屋城の縄張り 『羽曳野市史』第 3 巻(1994)より(一部着色) 高屋城不動坂の説明板

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白鳥陵古墳

Burial Mound Hakucho-ryo

羽曳野市軽里3 丁目にある。考古学では「前の山古墳」もしくは「軽里大塚古墳」といい、 宮内庁は「景行天皇皇子日本武尊白鳥陵」と命名している。近鉄古市駅から最短距離を歩 いて430mで墳丘を眺められる外堤に到着する。南から北へ流れる大乗川の旧河道(1704 年 に付け替え)の西岸台地上に築かれた、墳丘長 200mの前方後円墳である。主軸を東西にと り、前方部を西に向けている。後円部の直径は 106mであるのに対し、前方部の幅は 165 mもあり、1.5 倍も広く、高さも 3mばかり高い。築造年代は 5 世紀後半と推定され、その 時期から前方後円墳の前方部が大きくなってゆく。その典型的な例である。北側のくびれ 部には半円形の造出しが設けられ、その部分が周濠に向かって膨らんでいる様子が肉眼で も確認できる。周濠の幅は30~50mと幅広く、広い水面に墳丘の森が映る景色がこの古墳 の見どころである。周濠の外に築かれた外堤の幅も 20mと広く、さらにその外に幅 4.5m の溝が巡らされている。北側の外堤には竹内街道が通り、今は歴史の道としてカラー舗装 され、墳丘の側面を眺めながら歩くことができる。フェンスには飛び立つ白鳥をデザイン した銅板もつけられ、古墳の外観を楽しむ環境が整えられている。一方、前方部の西に設 けられた拝所は、周辺の宅地開発が進行中で、そちら からの景観が破壊されつつあるのは残念である。 宮内庁が被葬者とする日本武尊は第 12 代景行天皇 の皇子であり、記紀には、西は熊襲、東は蝦夷の討伐 に出かけ、伊吹山の神に害されて亡くなった悲劇の英 雄として語られる。その体は大きな白鳥に変わり、三 重県亀山市の能褒野(のぼの)から奈良県御所市の琴弾 原(ことひきはら)を経て、古市で羽を曳いて天に飛び立 ったと『日本書紀』に記されている。羽曳野の名の由 来である。それぞれの地に陵が設けられ、白鳥三陵と 呼ばれている。古市では明治13 年(1880)にこの前の山 古墳が日本武尊陵に治定された。 白鳥陵古墳の測量図 『羽曳野市史』第 3 巻より(一部着色) 白鳥陵古墳の測量図

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小白髪山古墳

Burial Mound Koshiraga-yama

羽曳野市西浦1 丁目にある。白鳥陵の拝所から歩いて 300m弱の距離にある。位置は白鳥 陵の南西、清寧陵の真東に当たり、両古墳の間に築かれた古墳である。主軸を東西にとる 墳丘長 46mの小型前方後円墳で、後円部の直径が 24m、前方部の幅が 23mと、ほぼ同じ 幅である。規前方部を清寧陵の方向(西)へ向け、両者の主軸がほぼ一直線に重なることから、 密接な関係が感じられる。そのことに よって宮内庁は清寧陵の陪塚として治 定し、「河内坂門原陵い号陪塚」と命名 している。墳丘はフェンスに囲まれて 立ち入りが禁じられているが、墳丘の 樹木は伐採され、芝生の山のようにな っているため、前方後円墳の形状がよ くわかる。周辺は宅地開発が進んでい るが、発掘により幅約10m、深さ 1m の濠が巡っていたことが確認された。 小さいながらも周濠はしっかりと掘ら れたようである。出土した埴輪は清寧 陵古墳の埴輪と同じ特徴を持ち、築造 年代は6 世紀前半と推定されている。 縦に並ぶ清寧陵古墳と小白髪山古墳 『羽曳野市史』に転載された 宮内庁陵墓地形図より 小白髪山古墳 清寧陵古墳 小白髪山古墳の墳丘 (一部加筆・着色)

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清寧陵古墳

Burial Mound Seinei-ryo

羽曳野市西浦6 丁目にある。新国道 170 号線(外環状線)の西に隣接し、小白髪山古墳とは 道を隔てて縦一列に並ぶ。考古学では「白髪山古墳」といい、宮内庁は「清寧天皇河内坂 門原(さかとがはら)陵」と命名している。およそ東西に主軸をとる墳丘長 115mの前方後円 墳で、後円部の直径63mに対し、西向きに開く前方部の幅は 128mと極端に幅広くなって いる。前方部が極度に発達した前方後円墳の代表的な例である。埴輪の年代から 6 世紀前 半に築かれたものと推定されている。北側のくびれ部に造出しがあるが、そちらの方向か らは宅地や工場があって近づけず、車庫の隙間からかろうじて眺められるに過ぎない。周 辺の開発が著しく、バッファゾーンを設けることができなかった例としてあげられる。前 方部の南北に渡り土堤があり、文久の山陵図では、このあたりを通過する巡礼街道が 2 筋 の渡り土堤を通り、前方部の端に密着していた。その道を文久の修陵時に付け替え、今の ような、拝所に押されるように弧を描く道となった。渡り土堤が本来のものであるかどう かは不明であるが、それによって分けられる周濠の高低差は2~3mはある。古墳の西側に 丘が迫り、全体に西から東に向けて下る斜面になっているため、当初から周濠を分けてい た可能性はある。 第22 代清寧天皇(444?-484)は生まれたときから白毛であったことにより、白髪皇子と呼 ばれ、その名が古墳の名に反映されている。雄略天皇の皇子で、父のあとを受けて即位し たが、子がなく、そのため播磨に隠棲していた億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟 を呼び寄せて位を継がせた。清寧天皇の崩年である5 世紀末と考古学的な年代である 6 世 紀前半とがさほど離れておらず、なおかつ陵名の坂門原が古墳周辺の「サカト」という地 名と共通することから、白髪山古墳が清寧天皇の陵である可能性もある。

古市大溝跡

Site of Furuichi Irrigation Channel

羽曳野市から藤井寺市にかけての広い範囲に通された水路の跡。その掘削時期については、 古墳時代中期説・後期説・飛鳥時代説の3 説がある。5 世紀末から 6 世紀初頭にかけて築か れた軽里地区の古墳を破壊して開鑿されていることから、時期はそれ以後の可能性が高い。

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石川の上流(河南橋付近)から水を引き、白鳥陵古墳の外堤をかすめ、仲哀陵古墳から津堂城 山古墳の方面に向かう流路が推定されている。その用途については灌漑用説や運搬用説が あるが、幅8m、深さ 4~5mの水路が 15 ㎞の長さで掘削されており、実に大規模な工事で ある。イズミヤ古市店の西側では細長い駐車場になって痕跡を留めている。

翠鳥園遺跡 Suicho-en Site

羽曳野市翠鳥園にあり、遺跡公園として一部が保存されている。古市駅から西へ歩いて 12 分 (640m)ばかりで到着する。二上山産のサヌカイトを運び、打製石器を製作した旧石 器時代の生産遺跡である。時期はおよそ2 万年前と推測されている。生産場所は 30 ヶ所あ まりも確認され、500 点ばかりの石器と石器製作の過程で出た剥片 2 万点あまりが発見され た。旧石器時代の遺跡の少ない関西では極めて貴重な遺跡である。平成3 年(1991)の建設工 事に伴って発見され、平成10 年(1998)に遺跡公園として整備された。公園の一角にはゆで 卵を切って割ったようなコンクリートのモニュメントが建てられ、各所に出土状況や石器 製作技術を示すジオラマが設けられている。公園にはJardin des Paleolithuques(ジャル ダン・デ・ペイリオリティク)という洒落たニックネームがつけられている。フランス語 で旧石器時代の庭という意味である。ただ、施設のメンテナンスが必要な個所も目立つ。 翠鳥園遺跡公園

駐車場になった古市大溝跡

参照

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