Ⅰ はじめに 1) 背景と目的 2) 研究の方法
Ⅱ 鳥取県の観光行政とソーシャル・ツーリズ ム
1) 鳥取県政における観光行政
2) 鳥取県観光行政とソーシャル・ツーリ ズム
Ⅲ 鳥取県における様々なソーシャル・ツーリ ズム
1) 「青空教室」の実施 2) 国民宿舎の建設
3) その他のソーシャル・ツーリズム事業
Ⅳ 鳥取県観光行政の先進性とソーシャル・
ツーリズムの限界
Ⅰ はじめに 1)背景と目的
わが国の観光政策を振り返ってみると,その重 点は国際観光,特にインバウンドの振興に置かれ ていたことがわかる.戦前から昭和 30 年代にか けては外貨獲得の手段として,現在はアウトバウ ンドとの不均衡是正あるいは人口減少下の地域振 興策として目下推進されているところである.こ うした方向性は基本的には経済的志向の強いもの であるが,観光政策は一方で,国民福祉的な意 味合いを有している.その一つの考え方として,
ソーシャル・ツーリズムがある.ソーシャル・
ツーリズムは第二次世界大戦後,急速に発達した 観光事業の一分野である.ソーシャル・ツーリズ ムを推進し,国際的に組織化するために,国際観 光機関連盟( IUOTO )
1)は 1948 年に総会におい てこの問題を取り上げ,「ソーシャル・ツーリズ ム研究委員会」を設置している. IUOTO はソー
鳥取県におけるソーシャル・ツーリズムの展開
A Study on Social Tourism in Tottori
*
佐 野 浩 祥* SANO, Hiroyoshi
Abstract: This paper aims to clarify Social Tourism in Tottori prefecture in 1950s which is unique example in the history of tourism policy in Japan. “AOZORA KYOSHITSU” as the first approach of social tourism since 1950, aimed to improve and disseminate the ideas of tourism for citizens. Then, ahead of the nationwide, “KOKUMIN SHUKUSHA” as the afford- able inns operated by local governments, was developed in 1957. But, social tourism came to the end with the 1960s by the alternation of prefectural governor and the resignation of the chief in tourism division.
Key words: 観光政策( tourism policy ),観光立国( tourism nation ),鳥取県( Tottori ),ソー シャル・ツーリズム( social tourism )
*立教大学観光学部・助教
Rikkyo University Bulletin of Studies in Tourism No.15 March 2013
シャル・ツーリズムを次のように定義している.
『ソーシャル・ツーリズムの基本的目標は,旅行 資金に乏しいか,または旅行になじんでいない か,或は教育の不足ないしは旅行事情にうとい等 のために今日まで観光旅行の埒外にあった大きな 国民層を観光往来に参加させるのに必要な状態を 作りあげることである.』(入沢,1957).また河 村(1957)は次のように説明している.「観光事 業活動には基本的な二つの目的がある.その一は 知的なもので,出来得る限り多数の人間を美しい 地点,この生ける世界において何等かの意味で人 の関心を唆る地点に接触せしめることである.そ の二は物質的なもので,旅客移動によって惹起さ れる富の流通循環から最大限の利益を収めること である.然らば,新しく抬頭したソーシャル・
ツーリズムは,これらの二つの目的に対していか に作用しているか.今日のソーシャル・ツーリズ ムの動向は疑もなく第一の目的に適っているもの であるように思われる.しかし一般的にいって必 ずしも満足すべき状態において行われているわけ ではない.」
わが国でも 1950 年 11 月に観光事業審議会に
「ソーシアル・ツーリズム研究部会」が設置され,
それまで外貨の獲得を目的とした観光政策から,
政策としての国民旅行の本格的研究が始まる(薄 木,1980).部会は 1960 年 9 月に「国民旅行の育 成及び健全化に関する基本方針(案)」を発表,7 項目の方針を提示し,これらが国内観光政策の柱 となった.その後,国民観光のための低廉宿泊施 設の整備が進んだが,それらの利用状況などから みると,ソーシャル・ツーリズムの考え方が定着 したとは言い難い.
田原(1993)は 1970 年代の西欧諸国における 観光政策を概観し,多くの観光政策は観光産業の 発展を企図して策定されてきたが,その目標は,
地方政府と中央政府で大きく異なる場合があるこ とを指摘している.すなわち,中央政府の目標は,
通例経済的極大化が強調されるのに対し,地方政 府は多くの場合,地域社会全体のニーズを問題に するので,観光の経済的便益は,他の経済部門の 必要や地域住民の利害に照らして評価されるので ある.
本研究では地方政府の一例として鳥取県をとり あげる.鳥取県は戦後まもなく 全県観光地 を 合言葉に観光行政が展開されてきた地域である.
1950 年からソーシャル・ツーリズム推進の一環 として県民を対象とした「青空教室」という主催 旅行を実施したり,国民宿舎やユースホステルな どの低廉宿泊施設の整備を積極的に進める中で,
県内および近隣府県の農村部から多くの観光客が 訪れ,観光事業審議会専門委員も視察するような 先進地であった.当時の鳥取県の観光行政はこの ような先進性を有していたにもかかわらず,その 実態については全く明らかにされていない.本研 究はこのような鳥取県におけるソーシャル・ツー リズムの実態とその展開について明らかにするも のである.
2)研究の方法
鳥取県がソーシャル・ツーリズムに力を入れて いた昭和 20 年代後半から昭和 30 年代前半までの 観光行政に関する審議会議事録や行政資料を渉猟 し,限られた史料の中ではあるが当時の鳥取県に おけるソーシャル・ツーリズムの全体像を把握す るとともに,詳細な内容については新聞記事や地 元雑誌,関係者へのヒアリングで補足し,その実 態と展開を明らかにする.
Ⅱ 鳥取県の観光行政とソーシャル・ツーリ ズム
1)鳥取県政における観光行政
戦後鳥取県の観光行政は,1947 年 4 月に県知 事に就任した西尾愛治の三セン政策にはじまる.
当選が確定した 4 月 6 日に,西尾は日本海新聞社 の取材に応じ,一期目の抱負について次のように 語った.「思うようになるかならぬかやってみな ければ解らないが私は鳥取県に関する限り平素か ら三セン政策ということを考えている.大山,温 泉,借銭だ,スイスにいたころ感心させられたの だが,物的に貧困な本県では大いにこの三セン施 策を考えなくてはならない」.(米子市史編纂協議 会,2008)
西尾が一期目の公約とした三セン政策とは,第
ウム含有量東洋一を謳った三朝温泉をはじめとす る「温泉」群の活用である.この二つを軸とする 観光立県を目指そうというものであった.この三 セン政策は,県民の一定の支持を受けていたと思 われる
2).
しかしながら,当時の鳥取県には食糧難やイン フレなどの喫緊の課題が多く山積しており,観光 立県の実現はほど遠い状況であった.西尾知事は 県政運営にあたって,六三制の新学制の完全実 施,社会厚生施設の整備,食糧問題の解決,農家 経済の合理化,商工・水産・林業の振興,観光事 業の発展,大山開拓事業の推進,港湾修築,道路 改築事業の促進,民主警察体制の確立の九項目に わたる重点施策を示したが,当面の問題としては 食糧,特に米の供出と,インフレの高進する中で 県政を如何に推進するかにかかっていた(鳥取 県,1969 a ).
結果として,窮乏した県財政の実状から,均衡 予算を編成したため,観光などの積極的企画を予 算に反映させることが不可能となり,総花的に終 わる傾向を免れなかった.したがって西尾の掲げ た「大山・温泉・借銭」のいわゆる「三セン政策」
は,中途半端な計画として終わるのではないかと いう懸念が濃厚であった(鳥取県,1969 a ).
その後,3 選を目指した西尾を破り 1954 年 12 月に県知事に当選したのは,革新系の遠藤茂で あった.遠藤知事就任後しばらくして,ようやく 県に観光課が設置される.
遠藤知事時代の事業としては,ウラン鉱開発,
小鹿発電所と春米発電所の建設,大山出雲特定地 域総合開発事業推進,中海干拓の調査と一部着 工,観光事業の推進,北条・湖山砂丘灌漑等の各 種土地改良事業,漁業公社の設立,戸倉トンネル 開通と道路整備事業などが挙げられるが,その大 部分は西尾知事時代に企画・着工されたものの完 成であった(鳥取県,1969 a ).西尾知事時代の末 期に胎動した県の観光行政は,遠藤知事時代に順 調に発展するのである.遠藤は鳥取県の観光政策 のあり方について次のように述べている.「本県 の観光事業がもう一つふるわない.ですから県で も商工課の中に観光係を置いておったのが今まで
は観光資源を活用するのが県勢を伸す一つでもあ り,もっとも手っとり早い一番有効な方法である と感心して,観光係を独立して観光課に拡大して これを知事直属の知事公室にもって来たわけで,
こういう基本的立場に立ってこれから大いに観光 政策をやろうと思っています.さしずめ方針とし ましては,従来の鳥取県,島根県の観光というこ とではなしに,山陰の観光という,いわゆる一丸 とする観光政策でなければいかん」(遠藤,1955)
と,県の観光政策を積極的に進めるため,観光担 当部署を昇格移動させた.
しかしながら,遠藤知事時代は 1 期で終わり,
1958 年 12 月に県知事に就任したのは,石破二朗 である.県の予算規模は七十億余円しかないこと を鑑み,知事就任前に建設省の事務次官であった 石破の当面の課題としては,国とのパイプを活か して国の事業計画を本県に誘引することであった
(鳥取県,1969 a ).石破は,これまでの観光行政 を基本的に引き継ぐものの,観光立県ではなく,
工業立県を目指したため,観光行政の相対的地位 は低下することとなった.
「砂丘,砂丘と郷土の誇りのようにいわれとる が,私はあれは鳥取の恥だと思っとるんです.日 本にも鳥取以外砂丘のあるところは静岡,茨城,
鹿児島いろいろあるやありませんか.それらがな ぜ有名にならんかというと,みんな先祖が努力し て林をつくったからや.鳥取の先祖はなにをし とったかということになる.もっとも最近は観光 客がたくさんきてくりゃはるので,まあちょっと 大事にしたろかというとこです」.石破知事は,
鳥取県の将来は砂丘の観光にあるのではなく,米 子,境港両市を中心とした西部地域の工業開発に ある(読売新聞,1960)と取材で答えている.
また,石破知事にとっての観光行政は,ハコモ ノ行政に他ならなかった.「観光客をよぶのも道 路をよくするという一語につきるですね」(石破,
1959)という発言にある通り,彼にとっての観光 行政は,交通インフラ整備という公共事業に集約 されるのであり,事実,石破知事の時代に鳥取県 内の交通網は飛躍的に整備されたのである.
その後,石破は鳥取県知事を 4 期務め,鳥取
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県は国の事業をとりこんだ工業立県へ邁進して いく.
2)鳥取県観光行政とソーシャル・ツーリズム
西尾県政下で産声を上げ,遠藤県政下で大き く発展した
3)観光行政全体の中に占めるソーシャ ル・ツーリズムの位置づけはそれほど大きいもの ではなかった(図 1).その多くは対外的観光宣 伝であり,他県同様,鳥取県の観光行政も近隣府 県からの集客がその主眼であったことがうかがえ る.しかしながら,早い時期から「県民のための 観光」を僅かながらもその施策に取り入れた鳥取 県観光行政は,具体的にどのように展開したので あろうか.
当時の鳥取県観光行政の中で大きな役割を果た したのは,1955 年 4 月に観光課が設置されて以 降 1961 年 4 月まで観光課長を務めた原田一雄で あった.当時の遠藤県政は県民からの評価が高 かったとは言えず,一期でその立場を追われるこ とになったが,それでも観光行政は「プラス県
政」として評価されており,その旗振り役が原田 であった.原田は観光課長に抜擢される前は財務 課予算係長であり,それまで観光行政の経験はほ とんどなかったものの,鳥取県観光行政を大きく 発展させた人物として評価されている
4).観光課 は「昭和 33 年度観光事業の足跡」というリーフ レットを作成しているが,その序文は原田自身が 考える観光行政のあり方を示していると考えられ る.以下,一部引用する.
「観光の概念というものを,二・三のものの本 から要約してみると,それは旅行者は観ることで あり,その土地もしくは国は観せることである.
つまり観ることも観せることも観光である,と いっている.こういうところに,観光の複雑な性 格が構成される,もろもろの要素があるわけで,
その複合性も競立性(原文ママ)も,多角性も変 動性も,あるいは全体性も奉仕性もすべてどれ一 つとして欠くことのできない分子となっている.
観光の間口の広い割に奥行の深い理由もここにあ るわけである.(中略)現在のブームがおきるま
図 1 昭和 35 年度鳥取県観光総合計画とソーシャル・ツーリスム施策(網掛部分)
(鳥取県観光課(1960)に筆者加筆)
ちの現象はその宣伝によって将来されたというよ りも,むしろ小市民的経済の安定と旅行概念の健 全化が理由であるといってよいと思う.しかしい ずれにしても今度は日本中どこの観光地も受け入 れ施設に重点をおいて整備をはじめたのだが,し かしその性格からして本来は車の両輪として,ど ちらも均衡のとれた姿で事業を行うことが,観光 の概念にぴったりするように思われる.」(鳥取県 土木部観光課,1958)
原田は県職員としては異例の 6 年間継続して観 光セクターに関与することとなったためか,観光 行政とは何か,どうあるべきかを深く考究してき たことが上記の序文から推察できる.だからこ そ,図 1 のようなハード・ソフト両面がバランス され体系化された県の観光施策が可能となったの であり,その中でソーシャル・ツーリズムの必要 性を認めたのであろう.
以上,鳥取県政における観光行政およびソー シャル・ツーリズムの位置づけについて確認し てきたが,次章でその具体的施策についてみて いく.
Ⅲ 鳥取県における様々なソーシャル・ツー リズム
1)「青空教室」の実施
鳥取県のソーシャル・ツーリズムの展開の中で も,特筆すべき事業は,「青空教室」である.こ の「青空教室」は,鳥取県のソーシャル・ツーリ ズムの展開の中で,最も早く開始された事業で ある.
「青空教室」は,県観光連盟と日本海新聞社と の共催で,次のような趣旨で運営されていた(原 田,1957).
県民の観光観念の普及向上を目指す
大自然の景観に親しませるとともに名勝史跡 天然記念物についても広く鑑賞させる 地域は原則として県内とするも場合によって 隣接県にも出かける
行程はすべて日曜・祝祭日などの日帰りを建 前とする
する.
この「青空教室」は,萩原治郎(鳥取県教育委 員)と山部憲太郎(日本海新聞社)が中心となっ て発案したと言われている(鳥取県,1969 b ).
1950 年 10 月 8 日に第 1 回「青空教室」が開催 され,大成功をおさめ,その後徐々に規模が拡大 していき,1960 年 10 月 30 日の第 68 回(大安興 寺での青空教室)まで続いた.「青空教室」とは 具体的にどのようなものだったのか.以下,第 1 回の様子を見てみよう.
第 1 回「青空教室」は,1950 年 10 月 8 日(日)
午前 9 時半〜午後 5 時にかけて,美歎水源池方面 を目的地として開催された.
「青空教室」のねらいは,「日曜日ごとに家族づ れで参加できる教室を県下の東西各地にわたって 開き,それぞれその道の権威者を講師に招いて史 跡,名勝,民芸をたずね科学,●●(判読不能),
経済文化を実地に研究観察し,あわせて広く紹介 する」(日本海新聞,1950 a )こととされ,中学生 でも老人でも広く参加できるものであった.
「それぞれの道の権威者」として第 1 回の講師 に招聘されたのは,県立図書館司書で現地の歴史 に詳しい荻原直正,俳人の松本穰葉子,そして鳥 取市水道課技師の 3 名であった
5).
当日の行程は,「臨時バスで鳥取駅前を出発,
宮ノ下口で下車,初代池田光仲氏公をはじめ歴代 の藩主眠る池田家墓地を訪問,ついで武内宿彌を 祭る宇部神社に参り,萩原司書の話を聞きながら 稲葉山に登り,同所で昼食,鳥取市水源地に下 る,ここで六万市民を養う市水源地の構造規模の 説明を聞き,土地の人の好意による因幡名物傘踊 を見物,最後に国の行政廰跡を訪ね千数百年前の 行政,建築のあとをしのぶ」というもので,開催 の結果,「お年寄りから若夫婦,親子連れ,カメ ラマンや若い娘さん」など,90 名以上が参加し,
「非常な成功を収め」(日本海新聞,1950 b )た(図 2,写真 1 〜 4).
出発地点の鳥取駅から到着地点である稲葉山ま
では,直線距離で 5 km 程度の非常に短い距離で
あり,果たして日常生活圏を離れる観光行為にあ
たるのかどうかは議論の余地は残るものの,参加
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者の感想からも,非日常的な体験をしたことは確 かである.
当時,観光という言葉には,水商売といった偏 見や公序良俗に反するイメージがつきまとってい たことから
6),「青空教室」のような健全な観光 を一般市民に実体験させた意義は非常に大きいと 考えられる.さらに,こうした一般市民の観光へ の理解が,県の観光行政に対する理解へとつな がっていったものとも考えられよう.
2) 国民宿舎の建設
当時の観光課長であった原田は,以前より自治 省に業務連絡等で度々上京しており,同省内地方 課の自然保護課にも出入りしており,特に厚生省 の内部事情にも詳しく,国民宿舎の目的や資金運 用面などの情報をいち早く知り,早速県に持ち 帰って関係各課と協議を進めた
7).協議の結果,
皆生温泉と三朝温泉がその建設候補地として浮上 した.これを各自治体に打診したところ,米子市 長は快諾したが,三朝町長は温泉組合の大反対に より断念することとなった.そのため,原田課長 はじめ県は困り,再度協議の結果,原田課長は,
長年県会議員などで活躍した東郷町長の松田昌造 氏に詳細を延べ,受入を打診したところ,承認さ れた.この背景には,原田課長が東郷町と同じ東 伯郡の北条出身であり,原田課長自身,松田氏と は交流のあったことも,承認への後押しとなった と考えられる.
こうした原田の努力が結実し,1957 年 7 月に
「ぶな林」(米子・大山)(現存せず)が,同年 9 月「水明荘」(東郷温泉)が全国初の国民宿舎と して開業し,多くの観光客が訪れることとなった
(写真 5,写真 6).
3)その他のソーシャル・ツーリズム事業
以上のような,県民の観光観念普及向上を狙い とした「青空教室」や,観光をより身近なものに する低廉宿泊施設「国民宿舎」の建設の他にも,
ソーシャル・ツーリズムに関する様々な施策が講 じられた.
県民一般のみならず,観光事業者に対しても観 光観念の普及対策を講じている.旅館経営者に対 して旅館経営講習会を開催,県内バス会社のバス ガイドに対して観光観念教育講習会を開催してい る(鳥取県観光課,1960).
また,当初は観光宣伝のために製作した天然色 観光映画を,県外のみならず,県内でも上映して いる(1960 年実績で県外 20 回,県内 21 回)(鳥 取県観光課,1961).これは県内観光の振興はも とより,県民の観光熱の昂揚を目的として上映さ れたものであり,ソーシャル・ツーリズムの理念 に沿うものである.
こうした県民の観光に対する施策の必要性とし て,原田の後任の山田観光課長は「公徳心の涵養」
であると説明し,その効果として「近年非常に大
方の自覚がうながされて来ているのですが,もう
図 2 第 1 回青空教室の訪問地います」(山田,1963)と,自己評価ではあるも のの,一定の効果を得ていると述べている.
Ⅳ 鳥取県観光行政の先進性とソーシャル・
ツーリズムの限界
このような昭和 20 年代後半から 30 年代前半に かけての鳥取県のソーシャル・ツーリズムは,当 時の観光事業審議会委員がソーシャル・ツーリズ ムの先進地として鳥取県を相次いで視察したこ と
8)や,1956 年に鳥取県の大山地区が伊豆大島 と並んで運輸省の「ソーシャル・ツーリズムモデ ル地区」に指定されたこと等,当時としても先進 的であった.現在,国が観光立国を進める中で都 道府県も観光政策に力を入れているところである が,当時の鳥取県のように観光行政のあり方の考 究から出発して施策を体系立て,その中に「県民 のための観光施策」を位置づけているケースは稀 ではないだろうか.
一方,原田が退職後の鳥取県観光行政において は,ソーシャル・ツーリズム的要素が欠落してい く.図 1 は昭和 35 年の鳥取県観光課の全体業務 体系を示しているが,昭和 40 年代の同図と比較 すると,「観光映画作製」や「観光教養観念の普 及」といった観光宣伝の中のソーシャル・ツーリ ズム的事業が削減され,もっぱら観光施設の整備 において「国民宿舎」「ユースホステル」等ハー ド整備にのみソーシャル・ツーリズム的要素がみ られる.この結果,原田課長が退職後の鳥取県観 光行政は全国の自治体から注目されることはなく なっていくのである.
鳥取県観光行政におけるソーシャル・ツーリズ ムは,荻原や山部といった市井の知識人から「青 空教室」という形で生まれ,観光を主産業に据え た歴代県知事の理解もあり,原田一雄という行動 力のある県庁職員の力で発展した.しかしなが ら,石破知事の登場によって県政の方向は観光振 興から工業立県へ舵が切られ,原田観光課長が退 職すると,観光行政はハコモノ行政へと転化して いった.原田の後任である山田観光課長が,県民 の観光に対する意識を醸成させるため,大きな県
ていたが,結局県主導では困難だったということ であろう.
その後,鳥取県の観光入込客数は 1973 年まで 順調に増加していくが,石油危機を契機として 1974 年に減少に転じ,その後横ばい傾向が続い ている.果たして,ソーシャル・ツーリズムは鳥 取県観光にとってどのような意味があったのか,
本稿では十分に明らかにすることができなかっ た.現在に残るのは,国民宿舎のようなハコモノ であり,「青空教室」のようなソフト施策はすで に消滅した.当時「青空教室」に参加した県民は,
その後どうしているのだろうか.
地方観光行政は,国同様,トップの交代によっ てその扱いが大きく変わってしまう可能性は否定 しえない.観光は ミズモノ とはいうものの,
持続可能な観光を志向するのであれば,県知事や 観光課長の交代などによっても揺らがない政策・
施策があるべきで,その土台となる理念が必要で あろう.我々は観光行政のあり方に真摯に向き合 い行動した原田の一役人としての姿勢に学ぶとと もに,持続可能な観光政策を実現するためのビ ジョン,すなわち現代におけるソーシャル・ツー リズムの意義を考究していかなければならない.
注
1)国際観光機関連盟(
IUOTO
)は,会員諸国の観光経 済の発展を図り,かつ,各国間の友好的,社会的,文 化的関係の増進を図るため,国際観光往来を促進する ことを自的とする政府機関レベルの国際機構である.1925 年に発足し,1975 年に世界観光機関(
WTO
)に 改組されている.2)鳥取県の地元新聞である日本海新聞の主筆湧島義博 は,三セン政策の方向性について次のように一定の評 価を与えている.「(三セン政策の一つである)借銭は 感心せぬが鳥取県で自慢になるのは大山と温泉で観光 遊覧の値打ちがある.あるひは浜坂の大砂丘があり,
甘露ともいうべき「ニ十世紀梨」があって,日本一の 貧乏県もこうしたホコリをもっている.その点では西 尾さんの三セン政策は決して県政に反していない.そ の政策を強力に実現しなかったから県民から西尾さん は離れ去ったのである.」(湧島,1955).一方で,西尾 知事を破り新知事に就任した遠藤実知事の観光政策に ついても次のように述べている.「遠藤知事を囲んで 五月末倉吉で懇談会がもたれた.出席した知事はその
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ときこんなことをのべている.「私は三朝,東郷,浅 津,関金地区を鳥取県のジュネーヴにしたいと考えて いる.この地区を中心に大衆観光地として,早急に,
観光道路,開拓道路,林道の建設に着手する.大山に は東京方面から一流のホテル業者を誘致したい.」まこ とに結構なお考えであるが,果たして「早急に」そう なるかどうか疑わしい,この考えが西尾さんとどれほ ど変わったおのでない.たれが知事になってもこの程 度のことを構想する鳥取県なのである.」と,西尾知事 と遠藤知事の観光政策に対する姿勢はそれほど変わり ないことを指摘している.
3)遠藤知事は観光課を設置したことに加え,観光客の実 態と観光政策の効果を把握するために 1955 年以降県内 観光地における観光客数調査を開始するなど,鳥取県 の観光行政を発展させたと認められる.そのブレーン は,当時の原田観光課長であったと考えられる.鳥取 県における気鋭のジャーナリストであった竹本節は,
遠藤県政下の観光行政を次のとおり好意的に評価して いる.「たとえば,観光行政などは,全国各府県庁の 注視の的となっている.大山,東郷松崎の国民宿舎な どをはじめ,各般にわたる観光行政の実績は,大いに 賞賛されてよいのである.最近発行の観光雑誌「花」
「観光研究」「旅行春秋」などをひもとくと,いずれも,
鳥取県のソーシャル・ツーリズムを,詳細にとりあげ,
「以て全国の範とするに足る」旨を全国民に紹介してい る.ある人々は,『それは知事の功績ではない.原田一 雄観光課長の功績である』と論難する.しかし,これ こそ曲論というものである.人材原田課長は,恒松知 事の部下でもなく,三木知事の部下でもない.まぎれ もなく遠藤知事の部下である.(中略)いまや「日本一」
とまでいわれるに至った観光行政を,『遠藤知事の観光 行政ではない』などというものは,ことさらに『知事 は無為,無策,無能である』と宣伝し,『より有為,有 策,有能のものに,知事の座を明け渡すべし』という,
特定の政治的意図をもった酷評であって,公平な功罪 評定ではあり得ない」(竹本,1958)
4)地元誌に一地方官吏である原田が次のように「日本一 の観光課長」として紹介されていることからも,地元 から評価されている証左であろう.「鳥取県の観光が 急速に伸び,今や全国的に有名になったことは,何と いっても,その実質的担当者である観光課長原田一雄 氏の行政手腕にまつところが大きい.だから氏の存在 が,日本一の観光課長として,他から高く評価されて いることも,あながち過褒ではあるまい.(中略)学歴 もあり,経験もある他府県の観光課長を抜いて,而も 観光行政について日が浅く,渺たる日本一小県の観光 課長が,全国的存在として大きくクローズアップされ たことは,先般全購連会長に就任して一躍全国的脚光 を浴びた三橋氏と並んでわが鳥取県の誇りであると共 に,原田氏が日本一の観光課長と称せられる所以であ ろう.」(原田,1958)
5)詩人の松本穰葉子は,共に第一回「青空教室」で講師 をつとめた荻原直正の死に際し,当時の状況を振り 返った文章を寄稿している.「かつて第一回の「青空教 室」が催された時,先生と私がその日の講師とされて 秋の一日を同行したことがあった.何でも藩主池田家 の墓地から先生の御説明を皮切りに,宇倍神社から裏 山へ上り,因幡の山を眺めたり,古墳を訪ねたりして,
美歎の水源地を見学し,ここで私が解説して青年によ る傘踊を見せてもらったのを最後に高岡まで歩き,バ スに乗って帰ったのであったが,そのころの先生はと てもお元気で,同行の少年達にも遅れないで,共に芒 原をくぐり,或いは石ころの山路を歩き廻ったことを 覚えている.」(松本,1961)
6)例えば,1950 年代に刊行されていた「日本観光新聞」
を見ると,その内容は明らかに成人男性に対して性を 売り物にしたものであった.
7)本節の記述については,水明荘の元支配人であり,長 く東郷町役場に務めた赤川忠雄氏からいただいた手紙 の内容に拠っている.
8)入沢文明ほか内閣観光事業審議会のソーシアル・ツー リズム専門委員が先進地視察として鳥取県の現地を訪 問したことが記されている(入沢,1958).
文 献
石破二朗(1959):県政裸問答 石破知事談論風発す―後 進性打破のチャンピオン―:山陰評論,8(3),
p.
33 入沢文明(1957):ソウシアル・ツーリズムについて:観光研究,46,
p.
2入沢文明(1958):鳥取県の国民宿舎:観光研究,48,
p.
23 薄木三生(1980):観光事業審議会及び観光政策審議会の歩み:月刊観光,
p.
26遠藤茂(1955):対談私の歩んだ道(その一)良二千石閑 暇放談:山陰評論,1955 年 12 月号,
p.
30河村宜介(1957):ソーシャル・ツーリズムについて―丁 扶有給休暇法を中心として―:関西大学商学論集,2
(1),
p.
4竹本節(1958):遠藤県政三年の功罪を論ず―三功・三罪 の及第県政―:山陰評論,1958 年陽春号,
pp.
9-
10 田原栄一(1993):観光政策の構造と課題:大分大学経済論集,44,
p.
200鳥取県土木部観光課(1958):昭和三十三年度観光事業の 足跡,
p.
1鳥取県観光課(1960):昭和三十五年度 観光事業の足跡,
p.
11鳥取県観光課(1961):昭和三十六年度 観光事業の足跡,
p.
12鳥取県(1969
a
):鳥取県史近代第 2 巻(政治編)鳥取県(1969
b
):鳥取県史近代総説編第 1 巻,p.
317 日本海新聞(1950a
):1950 年 10 月 7 日付日刊 2 面 日本海新聞(1950b
):1950 年 10 月 9 日付日刊 2 面ム推進の一方法:観光研究,47,
pp.
24-
25原田一雄(1958):【人物評定】日本一の観光課長 原田一 雄氏―短時日にのし上がった偉材―:山陰評論,1958 年 陽春号,
p.
33松本穰葉子(1961):「落ちている文学」荻原先生を偲ぶ:
月刊鳥取,昭和 36 年 9 月号,
p.
9ク見参 鳥取県観光課長 山田芳美氏:山陰評論,13
(10),
p.
53米子市史編纂協議会(2008):新修米子市史第四巻,
p.
454 読売新聞(1960):1960 年 4 月 13 日付夕刊 4 面湧島義博(1955):遠藤知事にもの申す―『山びこ』政談―:
山陰評論,1955 年 8 月号,
p.
16■
Rikkyo University Bulletin of Studies in Tourism No.15 March 2013
佐野:鳥取県におけるソーシャル・ツーリズムの展開
写真 1 池田家墓地
(2013 年 1 月筆者撮影)
写真 2 宇倍神社
(2013 年 1 月筆者撮影)
写真 3 因幡国庁跡
(2013 年 1 月筆者撮影)
写真 4 旧美歎水源池
(2013 年 1 月筆者撮影)
写真 5 竣工当時の水明荘 写真 6 現在の水明荘
(2012 年 6 月筆者撮影)