5 放送通訳市場
放送通訳については、会議通訳市場ともっとも需給面で連動していながらも、会議通訳 市場と異なるいくつかの特徴や特殊性があるため、本項において、別途検証する。 5.1 会議通訳との違い 会議通訳との違いは、まず時間厳守の絶対性である。会議通訳であっても時間制限はあ る。まず、会議運営の厳しい時間管理の中で、スピーカーに大枠の持ち時間が割り当てら れ、通訳者にもスピーカーが話し終えるのとほぼ同時に通訳を終えることが求められてい る。ただし数秒遅れたとしても咎められることはない。スピーカー本人ですら、自らの持 ち時間をオーバーすることはしばしばである。スピーカーが持ち時間をオーバーしたから といって席を立つ人が出ることはまずないし、会議運営側にクレームの電話が入ることも ない。また、秒単位で持ち時間が元から定まっているわけではない。一方、放送通訳業務 の場合は、放映時間が秒単位で定まっている。番組スポンサーのコマーシャルが入る時間 も決まっており、番組を財務面で成り立たせてくれるスポンサーに失礼がないように、放 送局は神経を尖らせている。よって、時間をオーバーすることは断じて許されない。放送 通訳を行う前の元音声のほうでも、厳しい時間制限がしかれており、それを超えることは 人気キャスターであっても許されていない。専従のタイムマネージャーがすぐ横で秒数の 読み上げや指示出しをし、定まったタイムスケジュールにのっとって放映がなされるよう、 神経を尖らせている。そのような中での放送通訳業務は、内容をすべて訳すことではなく、 時間内に訳すことのほうか重要視される。 会議通訳の場合は、その会議の講演中に、多少の脱線があったり、言い回しに不自然な ところがあったり、咳をしたり、水を飲んだり等々の人間的な「蛇行」がままあるのが通 常である。また、蛇行だけではなく、後からその講演テープをテープ起こしすると、咳払 い、水のみ、いい損ない、言い直し等の「無駄」が多くあることがわかる。それらの話の 「無駄」な部分は、通訳者が繰り返す部分ではない。その「無駄」(訳さなくていい部分) がある分、時間的に楽になる、とも言える。一方、放送通訳の場合、無駄が一切ないよう に、タイムキーピングのプロによって計算された原稿を、しゃべりのプロであるアナウン サーや報道記者が読むのを通訳する。よって、「無駄」による猶予は一切ない。一寸の無駄 な時間もないように、原稿の言葉遣いもその読む速度も注意深く管理されており、すべて 秒単位で計算されている。このような全く無駄もすきもない読み原稿を完全に再現通訳す るのはまず不可能である。アナウンサーの元原稿ではたとえば読むのに2分19秒かかる 文字数・情報量だったとしても、それをその場で即座に訳した場合にすべての情報を入れ ようとして、2分19秒では収まらない。たとえ時間をかけて、事前にアナウンサーの元 原稿を丸まる翻訳し、通訳者用読み原稿を作成したとしても、言語が異なれば、発するべ き音和数や発音、発話法が違うため、同じ時間内で訳文が入らないのは当然である。一方、 早口にまくしたてて、訳出しスピードをやみくもに上げれば一般視聴者にとっては聞きにくいニュースとなってしまう。したがって、中身を少し削って、情報量がやや落ちたとし ても、時間内に収まる、聞きやすい言葉を流すことが放送通訳業務にとっては重要である。 時間の管理が、特に肝要となるのが放送通訳なのである。 次に、元音声の性質が異なる。会議通訳業務の場合、通訳するのは、特定分野の会議に 招かれた特定分野の専門家のスピーチや講演などである。スピーカーはその会議主題の専 門家ではあっても、ニュースキャスターのような「しゃべりのプロ」ではないため、わか りにくい話し方をする専門家も多い。発話法や発音等に癖のある演者も多い。会議通訳者 は、いろいろな勘を働かせて、言い損ないの中にも言いたかったであろう意味を捉えて訳 さねばならないし、回りくどい冗長な言い回しも、なるべくそのまま忠実に訳さねばなら ない。この点、放送通訳の場合は状況が異なる。元から万人にわかりやすい言葉遣いでキ ャスター用原稿が作られているうえ、アナウンサーはしゃべりのプロであり、聞きやすい 表現と発話法で原稿を読む。 また、訳語の単語選定においても若干の違いがある。会議通訳の場合、会議参加者は主 題に関する専門家集団であるため、会議通訳者は、難しい専門用語を正確にそのとおり訳 して、参加者がそのままわかるという想定のもと通訳をしている。一方、放送通訳の場合 はそうはいかない。すなわち、通訳を聞いている人々は不特定多数の人々であり、誰にで もわかりやすい表現で訳出しをしなくてはならない。 必要な知識を蓄え、仕事に備えるための準備内容にも差がある。会議通訳のように、数 日間、丸一日もしくは数時間、ひとつのテーマを掘り下げて議論する場での通訳ではなく、 放送通訳の場合は、テーマはひとつに定まらない。ある話題を数秒間取り上げ、次の話題 にすぐに移っていく。ひとつの話題を専門的に取り上げるのではなく、非常に幅広いトピ ックを複数取り上げるため、通訳者がそれに対応するためには深く狭い知識ではなく、浅 く非常に広い知識が必要となる。 一方、会議通訳の場合は、担当する会議の分野を徹底的に知ることが重要である。参加 者も演者もその分野のスペシャリストであるため、通訳者もその話題についていくために は、議論される中身を事前に頭に入れていく必要がある。事前に資料を入手し、これを読 み込み、専門用語を理解しておく。これが準備作業となる。他方、放送通訳者は、そのと きに取り上げられている事件や現象など、時事的な事情に通じている必要がある。ニュー スキャスターはひとつの分野の専門家ではなく、一般の人にわかりやすく伝える役割を負 ったしゃべりのプロである点、放送通訳者の機能と似ている。平易な分かりやすい表現で アナウンサーが話す内容を、通訳者も、同じく平易で分かりやすく、なるべく簡単な用語 で伝えることが要求される。そのためには、放送通訳者は難しい専門分野の議論の中身を 理解することではなく、そのときに一番ホットな内容を国内海外問わず、網羅的に把握し ていることが求められる。南米チリの経済政策にたいする民衆の反応はどうなっているの か、アメリカの選挙戦では民主党と共和党、それぞれどのような世論となっているか、ア イルランドの首相の名前を聞いてピンと来るか、南部アフリカ地帯で広がっている疫病の
名前が分かるか、などきわめて広い範囲での時事問題の把握がキーとなる。したがって、 放送通訳者の準備作業は、インターネットやその他種々の媒体を通じて、なるべく早く世 界各国の情勢を毎日入手し、それに通じていることである。スポーツ新聞は、スクープニ ュースの報道が一番早い情報媒体なので、毎日スポーツ新聞をチェックすると言う放送通 訳者もいる。一線の放送通訳者であっても、しばらくニュースを聞いていないと、復帰す るのに時間がかかるという。今の時点で何が世界でおきているかを頭に入れてからでない と、現場に戻ってこられない。ニュースで取り上げられる話題についていけることが放送 通訳者に必要とされる要件であるからだ。 また声だけでなく、映像が情報伝達の主要な役割を果たすことも放送通訳の特徴である。 一般会議の場合には、たとえビジュアルが準備されていたとしても、その役割は補助的な ものであることが多いが、一方テレビの場合には音声と同じくらいの重みが影像にも与え られている。すなわち放送通訳者が提供する音声情報は多分に映像で補ってもらえる面が ある。 さらにもうひとつの特徴は、実名で通訳者の名前がテロップで映像に載せられ、テレビ 画面を通して社会的に放映されることである。番組によっては放送通訳者の名前が出ない こともあるが、過半数の地上波のニュース番組では放送通訳者の名前が画面に出る。一方、 会議通訳者の場合は、通常パンフレットや資料に名前が出ることはない。この氏名が公に なるという点は、放送通訳者の職業観、意識、就業スタイル、また社会における認知度等 に影響があると思われる。たとえば、自分の通訳パフォーマンスに対する評価が実名で上 がってくる。放送局によれば、早口すぎる、という苦情などがよくあるという。また一方 で、素敵な声の主に対するファンレターが届く放送通訳者もいるという。 なぜ放送通訳者の名前が画面上で公表されるのか、この点をNHK情報サービスネット ワーク社というNHKの放送通訳者養成と派遣を行っている子会社の部長である山田茂氏 に尋ねたところ、特に思い当たる理由はないという。ただ、従前より、ニュース放送に携 わったさまざまなスペシャリストを最後にテロップで流すのは慣習として存在していたそ うである。たとえば、照明担当者やメイク担当者の名前も必ず出ている1。 緊急手配も、放送通訳のひとつの特徴である。会議通訳の場合は、念入りに準備する ことが求められる場合もあり、今すぐに来てほしいという依頼が入ることは、急病人の穴 埋めなどでない限り、まずない。しかし放送通訳においては、急な大ニュースが発生した ときなど、間髪入れず地元のニュースを生同通で流したり、声明文や公式発言を通訳した りすることがある。緊急手配の際は、通常の放送通訳者にだけではなく、会議通訳者にも 連絡が行く。通常の放送通訳者の多くは、生同通2ではなくセミ生3か時差通訳4しか慣れて 1 ただ、番組によっては(例:NHKナイトライン)通訳者の名前が出ない場合もある。そ れについては、以前からそうだったという以上の特別な理由はないそうである(山田氏)。 2 生同通:生放送中、即興で同時通訳すること 3 セミ生:何が話されるかについてなど、多少放送内容の事前情報やスクリプトがあり、準 備が事前に可能な同時通訳
いないからである。会議通訳者の方が、完全に生で、即興で通訳する能力に長けているの が一般的である。そこで緊急発生ニュースの場合は、完全な生同通にも対応可能な会議通 訳者に連絡が行く場合が多い。 論文執筆時の2003 年 1 月 31 日の深夜 11 時頃、著者がちょうどパソコンに向かって本 論文を打ちこんでいた時、ちょうどNHKテレビで、緊急ニュースが伝えられた。アメリ カのスペースシャトル「チャレンジャー」が到着間近で無線連絡を立ったことを伝えた。 スペースシャトルの到着予定が、日本時間で11 時 6 分だったが、その 15 分前に無線連絡 が途絶えたのである。数ヶ月前の2002 年 9 月 11 日には同時多発テロが発生していたため、 その関連で爆発の疑いも持たれ、大きなニュースとなった。このニュースは他局でも伝え られていた。 とっさに、まもなく放送通訳が流れてくるだろうと思い、NHKテレビに目を向け耳を 傾けた。案の定、数分後に、NHKでは地元ABCなどの現地放送を日本語化して流し始 めた。同時通訳者「高山絵美」とテロップも出てきた。 そのうち 11 時半過ぎ頃、著者の下にも電話連絡が入ってきた。時折、緊急ニュースの 生同通(いきなり本番・生放送・同時通訳)依頼で電話がかかってくる某エージェンシーか らであった。以前も何度か生同通をこのエージェンシー経由でしたことがある。フジテレ ビにこれから向かい、できれば夜中中、ABCやBBC,CNN等の現地放送をフジテレ ビスタッフに向け同通し、アメリカの政府当局の宣言や公式発言が出た際は、オンエアで 生同通してほしいという。その時点で著者は風呂上り状態で、身支度もできていなかった ため、出発できるまで小一時間かかるといったが、それでも構わないと言われた。また、 夜通しすると翌日の仕事に響くので、せいぜい 3 時間しかできないといったが、それでも よいと言われた。著者の前に通訳者が一人入るため、午前 3 時までは一人は確保できてい るということであった。その通訳者はおそらく11 時から 3 時までの四時間という時間に同 意したのであろう。著者は支度後タクシーを捕まえ、ラジオで最新ニュースを聞きながら、 お台場のフジテレビに急行した。結果的に午前2 時から 6 時までを担当した。 著者の知る限りでは、今回の報道で同通が一番早く入ったのはNHKであった。これは おそらくNHKが直接普段通訳依頼している通訳者に連絡を取ったからではないか。エー ジェンシーを経由すると、それだけで少なくとも数分の遅れが生じる。いったんエージェ ンシーに連絡をして、エージェンシーが通訳者に電話をするという二重のプロセスが必要 だからである。 5.2 放送通訳者の就業スタイルとエージェンシーの存在 放送通訳者と日本で名乗っている人数は、全言語でおおよそ 300 人から 400 人ほどと 推定される。その中でも日常的に仕事をしているのは100 人以下であり、その 8∼9 割は日 4 時差通訳:事前に放送の収録ビデオを見て、発言のスクリプトを用意し、訳付けを行って から、ボイスオーバーを行う形態の放送通訳
英の放送通訳者と推定される(複数の放送通訳者への著者インタビューより推定)。 放送通訳が特殊性を持った専門職であるにもかかわらず、会議通訳職と同様に、放送通 訳者の業界団体や統括官庁は存在しない。 放送通訳を行う人材については、テレビ局が直接管理している場合と、外部に委託して いる場合とがある。例えばNHK は、子会社において放送通訳を行う人材を養成し、登録さ せている。イギリスの放送局BBC インターナショナルは、海外勤務で通訳者を募集する際 に独自で直接採用をしていた時期もある。それは日本国外では手配が難しいため、安定供 給のためには社員として常勤で確保するしか方法がなかったためである。 しかし、放送局や番組制作者が直接通訳者を雇用するより、エージェンシーを通じて手 配されることのほうが圧倒的に多い。NHK の場合でも、子会社で養成は行っているものの、 子会社自身がエージェンシーのような存在であるため、通訳者がNHK の社員や NHK の子 会社の社員になるわけではない。その場合、放送通訳者は皆、何の義務も補償もない自由 の身のフリーランスである。よって放送通訳者の手配も、会議通訳者の場合と同様、業務 請負契約の形態で行われる。エージェンシーによる放送通訳者の紹介と斡旋は、その都度 業務ごとに請負契約が交わされる5。 会議通訳の音声は会議出席者にしか届かない一方、放送通訳者の音声は日本全国の人口 に届く。電波に乗って音声が届く範囲を考えるときに、放送通訳者の影響はかなり大きい。 何か通訳事故が発生したときにその及ぶ範囲も広い。したがって、有能な人材が必要に応 じてきちんと供給される信頼性の高い体制は非常に重要である。 それならば、テレビ局がカメラマンやタイムキーパーを社員として専属に抱えるように、 通訳者も専属社員にすれば安定供給が実現されるのではないかと考えることができる。同 じ人たちが絶えず通訳をしていれば、局内の共通用語にも精通するし、スタッフとの息も 合い、品質水準も一定する。ビッグニュースが発生したときにあわてて手配する手間が省 け、万が一手配できないかもしれないというリスクもなくなる。ビッグニュースの折は、 どの局も通訳者確保に奔走し、優秀な人ほど先に埋まってしまい、他局に押さえられてし まうからである。 なぜフリーランス通訳者を随時手配する体制を取るのか、通訳者を利用する放送局側に インタビューで尋ねてみた。すると専属社員として放送通訳者を抱えられない理由につい ては、それだけ仕事の量を保障できないからというのが答えだった。完全に囲うほどは仕 事を保障できないが、あまり遠くに行かれては困るというのが本音ではないか、つかず放 れず、鵜飼のような距離感が望ましいのだと、ある放送通訳者は言う。 また、一人に頼りすぎないよう、数名を循環させるのが望ましいという思惑もエージェ ンシー側では存在する。特定の通訳者がクライアントとあまり緊密になれば、エージェン シーの存在意義が薄れてきて、エージェンシーを排除する動きが生じないとも限らない。 通訳者個人への依存を防ぐ動機がエージェンシーには存在する。 5 書面上の契約ではなく、口頭の約束である場合も多い。
現在放送通訳者が定期的に仕事をしている番組は相当数ある。地上波、BS、CS、ケー ブルテレビなどの媒体すべての番組数を合計すると 100 を超えると推定される。各番組の 放送通訳手配体制を知ることは不可能であるが、おそらく直接採用して、フルタイムでそ の番組の通訳のみを専従で行う放送通訳者が存在する場合と、放送通訳者斡旋エージェン シーを通じて、そのつど業務請負形式で通訳者が手配される場合と両方あるであろう。 視聴者数が多く、放送通訳者も長期間にわたり多く手配されている主な番組は2002 年 現時点ではBBC インターナショナル、CNBC、CNN インターナショナル、NHK である。 BBC インターナショナルは、5年ほど前は英字新聞等の媒体を通じ放送通訳者の直接採用 を行っていた。CNBC と CNN は、大手エージェンシーや放送通訳に特化した小規模エー ジェンシーを介して通訳者を手配している(論文執筆現在)。NHK の放送通訳者に関して は、原則的にNHK が独自に内部養成をし、採用している。「NHK 情報ネットワーク」と いうNHK 子会社の放送通訳者養成校が、放送通訳者を目指す人材の募集を行い、実際の放 送通訳者による実践的トレーニングが行われ、卒業後は優秀な人材についてはNHK での採 用が可能としている。ただし、正社員としての採用ではなく、アドホックで仕事があると きに声をかけてもらえる可能性があるというだけであり、声をかけてもらえる候補者のリ ストに名前が載るというだけである。この登録者数は現在約200 名である。 NHKが放送通訳者に求めることは、世界情勢をフォローしていることと、差別用語な どを使用しないようNHKが定める用語統一に準拠することである。NHK 情報ネットワー クが設立した養成スクールもあるが、そこのスクールを出ていることは必ずしも要件では ない。放送通訳においてもセンスや向き不向きがあるため、学校を出て訓練を受ければ皆 なれるものではなく、逆にスクールを出ていなくても資質と実績を持っている人は登録で きることになっている(山田茂NHK 情報ネットワークセンター長)。 今後BS 放送や CS 放送の普及により、海外番組が日本で放映されることも多くなるこ とが予想される。また、グローバル社会の進展により、海外の出来事が国内でも関心を集 めるようになってきている。海外ニュース番組をリアルタイムで日本で放映するための放 送通訳の需要は高まりつつあり、今後、市場規模の拡大と共に、人材養成の余地が残され たエリアでもある。 5.3 放送通訳の歴史と概略 放送番組の同時通訳がはじめて全国規模でオンエアされたのが1969 年アポロ月面着陸 の放送時だと理解されている場合が多いが、これは間違いである。アポロ月面着陸の模様 を同時通訳した西山千氏は、1962 年に当時アメリカの司法長官であったロバートケネディ 夫妻の来日時に、テレビ対談を同時通訳したと書いている。(西山千、1988、P3)ただし、 西山氏自身が書いているが、現在の放送通訳の水準からすると幼稚なレベルだったそうで ある。今アポロの同通をテレビ局で流したら視聴者には受け入れられないであろうと言わ
れている。これは要求される品質水準がライフサイクルに応じて変遷してきたことを意味 する。 60 年代は、テレビで外国のニュースが見られるだけでも比較的珍しい時代であった。今 は何でもインターネットで見られる時代であるが、当時はそんなものが存在しない時代で ある。ましてや、人類未踏の月面探査の模様がテレビで生に見られる、その宇宙飛行士の 声を理解できる、というのはセンセーショナルなことであった。機材一つをとっても当時 は高額稀少の放送通訳用機材を使っていた。その新技術とともに放送通訳の出番も増え、 1960 年代の同時通訳付きの外国ニュースは、新型のニュース放送として放送業界のみなら ず日本社会におけるセンセーショナルな話題であった。 70 年代、経済の高度成長期においては、外国との接点を持つビジネスマンが増え、外国 のニュースを聞く需要が増えた。そしてバブル経済の時代を通じ、視聴者を増やしたいテ レビ局の思惑があり、さまざまな海外ニュース番組が日本でも放送通訳を持って流される こととなった。89 年にはBSテレビでワールドニュースというプログラムが始まり、ABC ニュースのPeter Jennings Tonightなど、世界各地のニュースが放映されるようになった。 海外ニュースが日本で流されるようになり、外信が同時通訳されるようになった。 80 年代から 90 年代においては、米国ロケットのチャレンジャー打ち上げ失敗や、湾岸 戦争の話題など、日本国内でも世界ニュースへの注目度も高まった。また、海外からの日 本訪問者が増えるに連れて、国内ホテルでもケーブル局と契約をし、ホテル内でニュース を含む海外番組を流すことが増えた。 このような国際化の流れとともに、世界の動きに対する日本の世論、また日本の動きに 対する世界の世論が、一般の人の関心事となっていき、海外放送の日本語同時通訳化がす すんだ。 一方、海外ニュースを日本語で聞く英日通訳だけではなく、日本語ニュースを英語で聞 く日英通訳の需要も増えていった。日本の国際化に伴い、日本在住の外国人人口が増えて いき、日本の国内ニュースを英語で聞きたいというニーズが生まれてきたのである。元来 から、海外在住日本人のためにNHKニュースを海外で流すことはされていたが、日本社 会の国際化が進むにつれて、日本に住む外国人のための放送の需要が発生していったので ある。 90 年代後半から 2000 年以降にかけては、BS や CS 放送といったメディア技術と衛星 通信等の媒体の多様化が進んでおり、放送通訳の需要を増やしている。地上波テレビだけ ではチャンネル数と放送時間の限度があり、放送通訳の需要も一定以上には増えない。た とえば前述のNHK情報ネットワーク社の山田茂センター長によれば、同ポストに着任し てからのここ6 年ほど放送通訳を要する番組数は横ばいであるそうだ。しかし、BS、CS、 またさらにはケーブルテレビといった放送チャンネル数が増えれば、その増加にしたがっ て、それだけ番組数(コンテンツ)も増えるため、放送通訳の需要は増えると考えられる。 たとえばオリンピックの試合中継など、日本では放映されない試合の中継が、米国ではケ
ーブルテレビなどのスポーツ専門局で放映されることがあり、こういった専門チャンネル の番組が日本のBS、CS、またケーブルチャンネルで放映されることが増えている。このよ うな海外番組の放送通訳は全般的には増えることが見込まれる6。 ただし、放送通訳業界ではマクロ経済との連動が強く作用する。不況期は放送通訳ビジ ネスの需要も減り、事業売上も減少する。というのは、景気が悪いと番組にスポンサーが つかなくなるからである。スポンサーがつかなければ、通訳をつけて番組を放映しても採 算が合わない。したがって、景気低迷は放送通訳需要が減ることにつながる。90 年代後半 から始まっていたBS放送に加え、2000 年頃からは CS 放送も開始されたが、スカイパー フェクトTVの立ち上げにもかかわらず、日本経済全般の不景気により、契約者数は伸び ず、スポンサー不足により番組も立ち行かないことが多かった。CS 衛星放送の中では、専 門チャンネルが多くあり、海外のケーブルテレビなどの番組をそのまま日本語にして持っ てくる予定のチャンネルも多く存在した。潜在的には放送通訳市場の大幅な伸びが見込ま れたが、結果として90 年代中はそれほどの伸びは見られなかった。日本経済全般の不況に よりCS やケーブルテレビ等、新メディアの一般家庭における普及が遅れたからである。せ っかく二ヶ国語放送にしてもスポンサーがつかないのでは採算が合わないため、局側にお いても慎重な発注となった。 一方、世界的に不況であっても、放送通訳ビジネスが盛況な場合もある。たとえば2002 年9 月 11 日に米国でおきたニューヨーク同時多発テロの影響をみると、テロの影響で交通 機関が麻痺し、国際会議が開催不能となり、会議通訳の仕事がなくなった例は多くあった が、他方、放送通訳者は、世界各地の動きを伝えるため、大量に各放送局で手配された。 同時多発テロの発生後しばらくは、各国ニュースが断続的に日本メディアで放映されるこ ととなり、テレビ局には放送通訳者が24 時間体制で貼り付けられていた。その頃は通常の 手配に加えて、同時多発テロを特別カバーする体制として一局あたり毎日約16 人追加の手 配があった (NHK、BS ワールドニュース、デスク担当根本道夫氏)。 2000 年以降は、世界同時多発テロやアフガン情勢、イラク戦争など、ますますグローバ ルな話題がより身近に感じられる時代となってきている。今後も特にCNN や BBC、CNBC 等の海外ニュース専門局の日本放映ニーズが高まるとが予想され、海外ニュース番組の放 送通訳需要は増えると見込まれる。海外ニュースをオリジナル音声で直接聞きたいと言う 外国人人口も増えるであろうが、日本語できちんと理解できる形で海外ニュースを放映し て欲しいと言う国内需要も益々増えると考えられる。 放送通訳者を取り巻く近年の環境変化としては、日本の放送業界に外資が参入するよう になったことや、ニュース伝達ツールが増え、記者が携帯電話、インターネット、デジカ メなどを利用することにより、ニュースやとくだねの伝達スピードが速くなったこと等が 6海外ドラマの場合は、その場で行う放送通訳ではなく、日本語吹き替えが主流となっている。 ドラマの日本語化放映の場合は、放送権を局が購入した後、いったん映像翻訳に特化した下請け 会社に出され、そこで台本を元に翻訳が行われ、声優がボイスオーバーをする。すなわちドラマ の場合は、放送通訳者ではなく、映像翻訳者と声優がその日本語化を行う。
あげられる。またインターネットの普及によりさまざまな不特定多数のソースから周辺情 報が伝わるようになったことにより、放送通訳者の仕事準備がしやすくなったと同時に、 情報筋からの第一報が修正される頻度が増えたことも挙げられる。 5.4 今後の見通し 今後の需要の伸びについては、可能性は十分にある。色々な番組で、外国人の起用が増 える兆しが見られるからである。たとえばワールドカップの開催時には、世界各国の選手 へのインタビューがテレビ番組中に実施され、日本人のみならず世界各国のサッカーの専 門家がコメンテーターとしてテレビ出演した。インターネットの普及によりますます社会 とメディアのグローバル化が進む中、外国人が日本メディアに登場することや番組への出 演が増えることは十分に想定される。たとえばテレビ東京で放映されている「お宝鑑定団」 の番組には、自分の家宝の鑑定をしてもらうために登場する外国人が増えている。外国人 のアーティストがテレビ朝日の「ミュージックステーション」に生出演することも珍しく ない。番組中に通訳者が外国人に付き添い、番組の進行に合わせ、随時番組中の発言を訳 していく場面はますます増えるであろう。ニュースだけではなくエンターテインメント領 域への放送通訳者の供給・流入が起きれば、放送通訳サービスの市場拡大が見込まれるで あろう。 一方、放送発信局一局あたりの放映可能時間は一日最大24 時間に限定されているため、 この放映可能最大値まで到達した以降は、放送局が増えない限り、プログラム数も大幅に は伸びえない。だが、放送メディアの媒体が多様化し、チャンネル数が今後も増加するこ とは十分に考えられる。放送局数すなわちチャンネル数が増加するということは、それだ けコンテンツが増えることとなり、それらのコンテンツに対する通訳需要が発生すること になる。海外番組に対する日本人の関心の高まりから、今後も海外コンテンツが日本に輸 入され、放送通訳が伸びることが予想される。 更に今後は英語以外の言語からの放送通訳需要も増えると考えられる。スポーツ選手な ど、世界各国の有名スターがインタビューに答えるとき、英語以外の言語が使われるケー スも増えている。今まではインタビューを受ける側が英語を母国語としない場合でも、英 語をある程度使えれば英語で取材に応じるケースがほとんどであったが、最近は英語を使 えたとしても自国の母国語で受け答えするケースが目立っている。例えばフランス語での 会見を頻繁に行ったサッカーの全日本元監督トルシエ氏をはじめとして、多くの選手と監 督が、自分の母国語で発言している。よって、英語外言語の放送通訳需要が今後増えると 考えられる。 今後の就業形態としては、現場にいなくても放送通訳ができる環境作りがすすめられる ことが考えられる。現在では放送局に同時通訳室や同時通訳音声機材があり、放送局の同 時通訳ブースの中で、アナウンサーや海外放送の音声を拾い、その訳出しを行い、声が電 波に乗るわけであるが、遠隔管理技術の進歩により、自宅やその他の場所でもこの一連の
放送通訳業務が可能となる日が来るかもしれない。 しかし現在ではこのような動きはまだ見られていない。今後もよっぽどの技術革新が起 きない限り、自宅で放送通訳を行える日はなかなか来ないであろう。放送通訳機器を通訳 者の自宅に設置するとなると、そのメンテナンスは素人では難しいし、通訳者が通訳しな がら音声の調整作業を行うのは無理だからである。放送通訳の時間制約の性質上、ミスは 許されない。また、報道やニュースが「現場性」を重視することを踏まえると、黒子スタ ッフが分散した場所で仕事をするスタイルは早急には進まないと考えられる。ただし、電 話による通訳はありえるだろう。どうしても緊急に通訳者が必要となった場合、付近に人 が見つからないときは、自宅にいる通訳者が電話上で通訳をすることはありえると考える。 また、自動翻訳や通訳チェックに関しては、今まで理工系大学研究室などでさまざまな 取り組みがなされてきたが、いまだ実用化の道筋は見えていない。機械による通訳や通訳 チェックには限界があり、現在では通訳の機械化の取り組みは、放送局では追求されてい ない(NHK 情報ネットワークセンター長、山田茂氏)。
5.5 BS/CS 放送の新チャンネルのライフサイクルとの連動 放送通訳サービスの需給トレンドは、BS/CS 放送など新メディアのライフサイクルと 連動する。そのため新メディアの放送サービスのライフサイクルを追って、通訳需要との 連動を検証する。 5.5.1 新メディア放送開始期(図 5-1) BS/CS 放送やケーブルテレビなど、新しいメディア媒体では、まず初期段階にスポン サーを獲得するために視聴者に人気のあるコンテンツを放送する必要がある。しかし独自 にコンテンツ開発をするのはコストがかかる。そこで海外の番組を日本に持ってくれば、 権利を購入し日本語化するだけですみ、手軽にコンテンツ不足が解消できる。海外番組で も日本語で流せばスポンサーはつくため、広告収入がつく。広告収入の資金が入ればもっ といい番組が作れるようになる。したがって、ライフサイクルの初期では海外番組の日本 語化された放映が増えるという仕組みになっている。よって、それを訳す放送通訳の需要 も、新メディア放送開始時においては大きい。 (図5-1) 2003/08/06
新メディアの放送開始初期
S1 50人 D1 全日7~5万• Launch of New Media
(著者作成) 通訳者数
5.5.2 新メディア成長期(図 5-2) 多くの同業者(放送局)が新チャンネルを立ち上げる新メディアの成長期においては、 当面、番組の数分の通訳者を確保するための需要が増える。需要曲線はD1 から D2 へと移 動する。ただし、供給数(放送通訳者数)が足りず、すぐには補給がされない。また、価 格の硬直により、供給を受けられるクライアントと受けられないクライアントが発生する。 そこで従来水準(高品質)の供給が手薄くなり、スクールを卒業したての若手の通訳者や 経験の浅い通訳者が市場に投入されることとなる(S2)。幾分品質を落とした供給となる。 (図5-2) 2003/08/07
新メディアの成長期
S1 50人 D1 7~5万 10万• Competition Amongst the New Channels
D2 105人∼ 不足分 約55人 S2 (著者作成) 5.5.3 新メディア安定期(図 5-3) 安定期に入ると、もはや番組数やチャンネル数等の全体パイの広がりはなくなり、価格 競争が徐々に始まる。需要は絶対量としては若干増えるため、上方の移動はあるが、価格 弾力性は小さくなる(D2 ⇒ D3)。放送通訳者の訓練が進み、放送通訳に特化した放送通 訳者の供給も増える一方、会議通訳者の放送通訳分野への流入もおき、価格弾力性が大き くなる(S2 ⇒ S3)。社会における放送通訳も珍しくなくなり、より高品質サービスへの要 求が高まる。一定の高品質化が起きた後は、価格競争が加速する。同質のサービスが、よ り低価格で供給されるようになる。 現在地上波放送の市場は、ここ5年ほどの成長期を経た現在、安定期を迎えているとみ る。特にニュース番組については、チャンネル数も、放映時間数もすでに頭打ちの状況で あり、これ以上放送通訳サービスを活用するニュース番組数が増える見込みはないとみら れる。放送通訳者を派遣するエージェンシー数も増え、各社とも市場占有率を上げるため、
価格を下げているという。その結果、通訳者への支払い料金が下がっているエージェンシ ーも見られる(放送通訳者、鶴田知佳子氏)。 (図5-3) 2003/08/08
新メディアの安定期
S2 50人 D3 7~5万 10万• Stabilization of the New Channels
D2 100人 4~3万 S3 140人∼ (著者作成) しかしどこまでも価格が下がるということはない。価格が下がれば供給も減るからであ る。現在放送通訳サービス供給者である人材は異業種の職業に転向する柔軟性が高い。価 格に対して供給の弾力性は大きい(S2 ⇒ S3)。放送通訳以外の通訳業態に移行できるほか、 英語教師やバイリンガル秘書、その他大学講師など、放送通訳者として身につけた幅広い 見聞と英語運用力を利用した転職が可能である。現在放送通訳者の中で他職業と兼業して いる人も多い。大学で非常勤講師として通訳法やメディア論を教えたり、自らの体験をエ ッセー風に書き綴り、それを出版したり、と多方面で活躍している人材が多く見られる。 このような特殊技能と経験を有する放送通訳者らの多くは、通訳料金があまりに下がれば 他の仕事に重きを置くようになり、いずれは完全に転職する可能性もある。すると、高品 質な通訳サービスを提供するのに欠かせない有能な人材が去ってしまうこととなるため、 エージェンシーもクライアントも価格をある程度は維持する必要がある。下げ止まり点が どのレベルにあるかは断定できないが、会議通訳料金とそれほど大きく乖離することはな いといえる。大きく乖離する時点で、会議通訳者への転向が加速すると見られるからであ る。