序 明 治 四 十 五 (一 九 一 二) 年 七 月、 明 治 天 皇 の 容 態 悪 化 が 政府により公表されると、皇族並びに政府関係者をはじめ、 教育関係者等の参内が相次ぎ、既成仏教教団の一つである 真宗教団も例外なく教団を代表する人物が参内し、天皇を 見舞っ た。また、この知らせをうけ、ただちに真宗教団の 本 願 寺 派 は「訓 告」 を、 真 宗 大 谷 派 (以 下、 大 谷 派) は 「諭達」を発し、教団の意思を宗門全体に周知した。 本研究で取り上げる明治天皇の死去及び大喪は、後の御 大 典 (天 皇 代 替 わ り) と い う 国 事 と と も に、 仏 教 教 団 が 目 に見える形で天皇・皇室との関わりをみせる重要な事態で ある。しかし、真宗教団の諸対応については、本願寺派は その実態が明らかであるのに対し、大谷派は未だ十分論じ られていな い。筆者は、拙稿にて大正期の御大典に際し、 大谷派が教育の補助機関として位置づけ結成した「仏教学 会」という組織が刊行した『御大典と真宗』という講義録 ( )1 ( )2 ( )3 ( )4
《研究レポート》
明
治
天
皇
の
死
去
及
び
大
喪
に
お
け
る
真
宗
大
谷
派
の
諸
対
応
──真宗大谷派教団史研究の一環として──
親鸞仏教センター研究員谷
釜
智
洋
に着目し、当該組織が果たした役割について論じ た。しか し、そこでは大正期の御大典という国事についてのみ取り 上げたため、明治天皇の死去及び大喪に対する大谷派の諸 対応について追及することが課題として残された。 そこで本研究では、右の点を明らかにするために、第一 節では日本政府が明治天皇の死去及び大喪をどのように報 じたのかを確認していく。第二節では、政府が報じた内容 を捉えたうえで、大谷派がいかに明治天皇の死去及び大喪 に対応していったのかを検討する。第三節では明治天皇の 死去に伴い大谷派の学僧等によって刊行された『先帝と東 本願寺』の刊行意図と構成について分析を試みる。 これらを検討することによって、明治天皇の死去から大 正期初頭にかけておこなわれた天皇代替わりによる一連の 儀式に対して大谷派がとった立場、そして時代の潮流に応 じていく過程も明らかになるものである。 一 『官報』にみる明治天皇の死去と大喪 明 治 四 十 五 (一 九 一 二) 年 七 月 二 十 一 日、 政 府 発 行 の 『官報』号外において明治天皇の容態が報告された。これ 以 降、 『官 報』 は 立 て 続 け に 号 外 を 発 行 し て、 明 治 天 皇 の 死去及び大喪について告知していく。大谷派はこれら『官 報』の告知に則る形で当派機関紙において死去及び大喪に 応じていくことになる。従ってここでは『官報』の記述を 順に追って確認していく必要がある。 本節では『官報』の記事を通じて、①明治天皇の容態悪 化について、②死去と大喪の各種儀式について、政府がど のように報じたかについて検討する。 ㈠ 明治天皇容態悪化について 明治天皇の容態悪化をうけ、政府は国の機関紙『官報』 に そ の 経 過 を 告 知 し て い る。 明 治 四 十 五 (一 九 一 二) 年 七 月二十一日に発行された『官報』第八七二七号に付録され た号外の「宮廷録事」欄には、明治天皇の容態が次のよう に報じられている。 天 皇 陛 下 御 容 態 七 月 二 十 日 午 前 七 時 三 十 分 (岡 侍 医 ( )5
頭、 侍 医 田 澤 敬 興、 侍 医 高 田 寿 拝 診) 御 体 温 三 十 九 度 四 分御脈百○二至御呼吸三十二回御嗜眠ノ状ハ今午前中 ト御同様ナルモ御醒覚時ハ午前ニ比シ御明瞭ニアラセ ラレ御食気ハアラセラレルモ強テ重湯及少量ノ牛乳ヲ 進献セリ… (中略) …其他御総体今朝同様ニ伺ヒ奉ル 今 二 十 一 日 午 前 九 時 (岡 侍 医 頭、 青 山 東 京 帝 国 大 学 医 科 大 学 教 授、 三 浦 東 京 帝 国 大 学 医 科 大 学 教 授 拝 診) 御 体 温 三 十九度三分御呼吸三十回御脈ハ百至ヲ算シ不整ニシテ 前 日 ニ 比 シ 其 力 少 シ ク 弱 ク … (中 略) … 今 二 十 一 日 午 後 三 時 三 十 分 (岡 侍 医 頭。 西 郷 侍 医、 侍 医 田 澤 敬 興、 侍 医 高 田 寿 拝 診) 御 体 温 四 十 度 三 分 御 呼 吸 二 十 八 回 御 今 朝 同様… (中略) …午後六時 (岡侍医頭、森永侍医、侍医樫 田亀一郎診) 御体温四十 度… このように、明治天皇の容態は二十日から二十一日にか けて悪化したのであるが、その経過が詳細に報じられてい る。 さ ら に、 七 月 二 十 八 日、 再 び の 容 態 悪 化 に 伴 い、 『官 報』 号 外 が 発 行 さ れ た。 「宮 廷 録 事」 欄 は 次 の よ う に 報 じ ている。 今 二 十 八 日 午 前 三 時 (岡 侍 医 頭、 青 山 東 京 帝 国 大 学 医 科 大 学 教 授、 三 浦 東 京 帝 国 大 学 医 科 大 学 教 授 拝 診) 今 朝 以 来 御体温漸次上昇シ午後二時三十分ニ至リ三十九度八分 ニ 達 シ 御 脈 ノ 不 整 結 代 甚 シ ク … (中 略) … 尚 ホ 御 重 態 ノ 御 容 態 ニ ア ラ セ ラ ル … (中 略) … 今 二 十 八 日 午 後 七 時 (岡 侍 医 頭、 青 山 東 京 帝 国 大 学 医 科 大 学 教 授、 三 浦 東 京 帝 国 大 学 医 科 大 学 教 授 拝 診) 御 体 温 三 十 九 度 五 分 … (中 略) …甚タ御危険ノ御状態ニアラセラ ル こ の 号 外 で も 明 治 天 皇 の 容 態 は 詳 し く 報 じ ら れ、 「重 態 ノ 御 容 態 ニ ア ラ セ ラ ル」 状 態 か ら、 「甚 タ 御 危 険 ノ 御 状 態 ニアラセラル」と、報じられる。 ㈡ 明治天皇の死去と改元について 明 治 天 皇 の 死 去 は、 明 治 四 十 五 (一 九 一 二) 年 七 月 三 十 日に発行された『官報』第八七三四号に付録された号外の 「告示」欄で宮内大臣と内閣総理大臣の連名で、次のよう に告知された。 ( )6 ( )7
天皇陛下今三十日午前零時四十三分崩御アラセラル 明治四十五年七月三十日 宮内大臣 伯爵渡辺千秋 内閣総理大臣 侯爵西園寺公 望 また、明治天皇の死去は同号外の「宮廷録事」でも報じ られている。 昨二十九日午後八時頃ヨリ御病状漸次増悪シ同十時頃 ニ至リ御脈次第ニ微弱ニ陥ラセラレ御呼吸ハ益ゝ浅薄 ト為リ御昏睡ノ御状態ハ依然御持続アラセラレ終ニ今 三十日午前零時四十三分心臓麻痺ニ因リ崩御アラセラ ル洵ニ恐懼ノ至ニ堪ヘ ス ここでは、二十九日夜より次第に容態が悪化し、三十日 の深夜に死去したことが報じられた。明治天皇の死去を受 けて、皇嗣は直ちに「践 祚」の儀式を執りおこなうのであ るが、同号外の「宮廷録事」欄にはその「践祚」すなわち、 前帝の崩御・譲位直後におこなう剣璽と継承の儀式につい て次のように告知している。 践祚ニ付キ今三十日午前一時掌典長ヲ シ マ テ マ 賢 所ニ 祭典ヲ行ハシメ 皇霊殿 神殿ニ奉告セシメラレ同時 宮中ニ於テ 剣璽渡御ノ儀ヲ行ハセラレタリ 御名御璽 明治四十五年七月三十 日 こ の 天 皇 代 替 わ り の 最 初 の 儀 式 は『登 極 令』 の 第 一 条 「天皇践祚ノ時ハ即チ掌典長ヲシテ賢所ニ祭典ヲ行ハシメ 且践祚ノ旨皇霊殿神殿ニ奉告セシ ム」という規定に基づい て 行 わ れ て い る。 「践 祚」 を 終 え る と、 新 天 皇 か ら「詔 書」が発せられ新元号を次のように通達した。 朕非徳ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ霊ニ告ケテ満機ノ政ヲ 行フ 茲ニ 先帝ノ定制ニ遵ヒ明治四十五年七月三十日以後ヲ改メ テ大正元年ト為ス主者施行セヨ ( )8 ( )9 ( )10 ( )11 ( )12 ( )13
御名御璽 明治四十五年七月三十 日 こ の よ う に、 「先 帝 ノ 定 制 ニ 遵 ヒ」 と、 明 治 天 皇 が 明 治 元 (一 八 六 六) 年 九 月 八 日 に 発 し た「明 治 改 元 ノ 詔」 に な ら い「詔 書」 を 以 っ て 改 元 を 公 布 し て い る。 な お、 「詔 書」による改元の公布は『登極令』第二条「天皇践祚ノ後 ハ直ニ元号ヲ改ム元号ハ枢密顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定 ス」並びに、第三条「元号ハ詔書ヲ以テ之ヲ公布 ス」に基 づいている。 ㈢ 『官報』にみる明治天皇の大喪について ここでは明治天皇の「大喪」による一連の儀式のうち、 大 正 元 (一 九 一 二) 年 九 月 十 三 日 に 執 行 さ れ た 天 皇 並 び に 皇族の本葬である「斂葬ノ儀」を取り上げる。この一連の 儀式について『官報』がどのように告知していたのかにつ いてみておきたい。 大 正 元 (一 九 一 二) 年 八 月 二 日 発 行 の『官 報』 第 三 号 か ら 新 た に「大 喪 彙 報」 欄 が 設 け ら れ、 「大 喪 使 事 務 分 掌 規 定ヲ去月三十一日左ノ通定メタ リ」と、明治天皇の大喪に 向けた準備が進められていることが報じられた。そして大 正 元 (一 九 一 二) 年 八 月 十 二 日 に 発 行 さ れ た『官 報』 号 外 の「大喪彙報」欄には、明治天皇の大喪に関する一連の儀 式が次のように報じられた。 大喪儀諸次第御治定 殯宮移御ノ儀、殯宮移御後常御 所祓除ノ儀、殯宮日供ノ儀、殯宮移御翌日祭ノ儀、殯 宮二十日祭ノ儀、殯宮三十日祭ノ儀、殯宮四十日祭ノ 儀、斂葬前日殯宮拝礼ノ儀、斂葬前日陵所祓除ノ儀、 霊代奉安ノ儀、斂葬当日殯宮祭の儀、轜車発引ノ儀、 斂葬ノ儀 、斂葬翌日権殿ノ儀、権殿日供ノ儀、斂葬翌 日山陵祭ノ儀、山陵日供ノ儀、権殿五十日祭ノ儀、山 陵五十日祭ノ儀左ノ通定メラ ル (傍線部、引用者) 右 記 引 用 の「大 喪 儀 諸 次 第」 は 本 葬 に あ た る「斂 葬 ノ 儀」 (傍線部) を含めて、十九の儀式からなる。この「大喪 ( )14 ( )15 ( )16 ( )17 ( )18 ( )19
彙報」欄によれば、明治天皇大喪の一連の儀式は八月十三 日の「殯宮移御ノ儀」に始まり、九月十七日の「山陵五十 日祭ノ儀」まで勤められることになってい る。そして本葬 にあたる「斂葬ノ儀」は二つの儀式からなる。九月十三日 に執り行われた「第一 葬場殿ノ 儀」と九月十四日・十五 日の「第二 陵所ノ 儀」である。このうち「葬場殿ノ儀」 の準備と参集の時刻は次のように定められた。 九 月 十 三 日 午 後 六 時 葬 場 殿 ヲ 鋪 設 ス (大 喪 使 事 務 官 奉 仕) 其 儀 左 右 後 三 面 ニ 壁 代 (白 色 帛) ヲ 作 リ 前 面 ニ 御 蒹 (緑白色帛蒹) ヲ垂レ其ノ半ヲ搴ク 午後九時大勲位親任官大臣待遇新任待遇勅任官同待遇 有爵者朝鮮貴族従四位勲三等以上ノ有位帯勲者ノ夫人、 高等官六等以下ノ奏任官、奏任待遇、従六位勲六等以 上ノ有位帯勲者、 門跡寺院ノ住職 、宮内省并任官総代 各部局一人、各官庁并任官総代一人、各市長、各市会 議長、東京市参事会員、東京市各区長各区会議長、東 京 商 業 会 議 所 会 頭、 褒 章 受 領 者 … (中 略) … 葬 場 殿 ニ 先著シ幄舍ニ参集 ス (傍線部、引用者) このように、十三日午後六時に大喪係事務官が会場を設 営し、同九時から各人が参集するようにとされた。また、 会場には「門跡寺院ノ住職」 (傍線部) も参集することが指 示されている。なお、この「大喪彙報」には、各儀式の日 程や諸規定について細かく記されているのであるが、例え ば「斂葬ノ儀」の参列者の服装は「男子ハ大礼服、正装、 制 服、 服 制 ナ キ 者 ハ 通 常 礼 服 各 喪 章 ヲ 附 ス 女 子 ハ 通 常 服 (喪 服) 関 係 諸 員 亦 同 シ 神 仏 各 宗 派 管 長 及 住 職 ハ 之 ニ 相 当 スル 服」とされている。 大 正 元 (一 九 一 二) 年 九 月 十 四 日 に 発 行 さ れ た『官 報』 号 外 の「大 喪 彙 報」 に よ れ ば、 「斂 葬 ノ 儀」 を 構 成 す る 二 つ の 儀 式、 「葬 場 殿 ノ 儀」 と「陵 所 ノ 儀」 は 次 の 経 過 を 以 って執り行われたという。 大喪儀 昨十三日午後七時二十分霊柩殯宮ヨリ出御御車寄ニ於 ( )20 ( )21 ( )22 ( )23 ( )24
テ轜車ニ奉還同八時霊轜御出門同十時四十分葬場殿著 御同十一時ヨリ斂葬ノ儀ヲ行ハセラレ今十四日午前一 時四十分霊旧汽車ニ乗御同二時青山仮停車場御発車ア ラセタ リ 大喪儀 昨十四日午後五時十分霊柩桃山仮停車場著御同六時葱 華輦ニ奉還シ同六時三十分霊輦陵所ニ進御同七時三十 五分陵前ノ祭場殿ニ著御今十五日午前七時斂葬ヲ終リ 同九時御祭典ヲ行ハセラレタ リ こ の 報 告 か ら、 「葬 場 殿 ノ 儀」 と「陵 所 ノ 儀」 は 予 定 通 り 勤 め ら れ、 「斂 葬 ノ 儀」 は 滞 り な く 終 了 し た こ と が 分 か る。 二 明治天皇死去に伴う大谷派の対応 明 治 四 十 五 (一 九 一 二) 年 七 月 二 十 一 日 発 行 の『官 報』 号外において明治天皇の重態が報じられると、大谷派では 機関誌『宗報』の「彙報」欄において明治天皇の病状に関 連した記事を掲載するようになる。三十日に死去が正式に 報 じ ら れ る と、 『宗 報』 の 号 外 (以 下、 「宗 報 号 外」 と 表 記) を発行し、教団として明治天皇の死去に関する見解を公表 した。これを契機にその後も「宗報号外」を発して死去及 び大喪に関する記事を掲載している。また、定期的に発行 された『宗報』においても「達令」欄及び「彙報」欄に明 治天皇死去に関連した法要次第や天皇を偲んだ記事が掲載 された。 本節では『宗報』及び「宗報号外」の記事を手がかりと して、明治天皇の容態悪化、死去及び大喪に際して大谷派 がいかに対応し、取り組んでいったのか検討していく。 ㈠ 明治天皇容態悪化に伴う大谷派の対応 大谷派は『宗報』第一三〇号の「彙報」欄に「聖上陛下 御不例」という見出しを掲げて、明治天皇の容態の悪化に ついての記事に次のように報じた。 ( )25 ( )26
聖上陛下には去る十四日より御腸胃に御故障あらせら れ、十五日稍や少しく御嗜眠の傾きありしが、十八日 より御食気も減少し、十八日午前より少しく御精神御 恍惚の御状態にて、十九日夕方突然御発熱あらせられ たるが、尿毒の御症にて御重態なるやに承る、億兆は、 恐懼惜く能はず、 只管御平癒をのみ懇望する処なるが、 折から御東上中の法主台下には廿日前法主台下と 天 機御奉伺遊ばされ、本山よりは特に別欄の通り門末一 般に諭達を発せられた り 。 (傍線部、引用者) この記事では『官報』の「宮廷録事」に合わせて、明治 天皇の容態を細かく報じられたものである。傍線部は、明 治 天 皇 の 容 態 悪 化 を 受 け、 法 主 彰 如 (大 谷 光 演、 一 八 七 五 ─ 一 九 四 三) 並 び に、 前 法 主 現 如 (大 谷 光 瑩、 一 八 五 二 ─ 一 九 二 三) に よ り 病 状 を 見 舞 っ た こ と が 報 じ ら れ て い る。 ま た、 大谷派の対応として「諭達」により門信徒に周知している こ と を 告 知 し て い る。 こ こ で い う「諭 達」 と は、 『宗 報』 第一三〇号の「達令」欄に掲載された、寺務総長大谷瑩 誠 (一 八 七 八 ─ 一 九 四 八) に よ り 七 月 二 十 二 日 に 発 せ ら れ た 「諭達第六号」を指す。その「諭達」は次の通り発せられ た。 畏クモ 今上陛下本月中旬已降 玉体御不例ニ在ラセラレ候処数日来御重病ニ渡ラセラ レ億兆実ニ恐懼ニ堪エサル儀ニ有之而シテ複我カ 二諦 相依ノ教旨ヲ服膺スル輩ニ於テハ誡恐誡懼感傷ノ情更 ニ切ナルベキハ勿論ニシテ 既ニ 両門跡ニハ御山内 天機御伺申上サセラレ候条 此際一派門葉ハ緇素ヲ論セス戒慎恐懼 玉体ノ御平癒ヲ跂望シ奉リ且ハ臣民ノ本分ヲ盡クシ且 ハ 王法為本ノ宗風ニ背カザランコトヲ期スヘク殊更 僧侶ノ面々ハ言行ヲ慎シミ門徒ヲ誡諭シ不心得ノ次第 無之様注意ヲ怠ルヘカラ ス (傍線部、引用者) ここでは「彙報」の記事と同様に、明治天皇の容態悪化 を受け、法主が天皇を見舞ったことを「諭達」したもので あ る が、 注 目 す べ き は 傍 線 部 の 記 述 で あ ろ う。 み ず か ら ( )27 ( )28 ( )29
「二 諦 相 依 ノ 教 旨 ヲ 服 膺 ス ル 輩」 と 称 す る と と も に、 「王 法為 本」の思想を順守するよう僧侶や門信徒に求め、くれ ぐれも「不心得ノ次第無之様」にと訓戒している。 ㈡ 明治天皇の死去と大喪における 大谷派の諸対応 明 治 四 十 五 (一 九 一 二) 年 七 月 三 十 日、 明 治 天 皇 の 崩 御 が『官報』号外に報じられると、同日に「宗報号外」が発 行 さ れ た。 「宗 報 号 外」 に は 大 谷 光 演 (法 主 彰 如) の 名 で 以 下の「垂 示」が発せられている。 差乎光演等宿縁厚カラス永ク 聖明ノ治下ニ立ツコトヲ得ス今ヤ卒然 大行天皇升遐ノ凶音ヲ拝承スルニ遇ヘリ衝哭及ハス哀 感何ソ己ン恭シク惟レハ大行天皇聖文神武維新中興ノ 大業ハ烈ヲ 祖宗ニ並ヘ立憲垂範ノ鴻徳ハ沢ヲ万世ニ貽スノミナラ ス列国ノ交誼ハ歳月ト与ニ親キヲ加ヘ 帝国ノ威名ハ居諸ヲ追フテ愈々栄ヘ民利供ニ興リ版図 古ニ倍ス加之 萬機ノ暇 聖慮ヲ大法ノ擁護ニ注カセタマヒ我宗祖中興ノ両位ニ 追諡ノ 聖恩ヲ拝シ又 宸翰ヲ揮フテ扁額ヲ 祖堂ニ掲ケシメタマヒ本山 先皇ノ遺掟ヲ奉シテ堂宇ヲ再建セントスルヤ内帑ヲ出 シテ助工ノ貲 ヲ賜ヒシノミナラス 聖眷深キ寤寐ニ忘ル能ハ サル所ナリ而シテ複客歳宗祖大師追遠ノ法要ヲ修メシ 際 恩賜ノ厚キ 光演実ニ門末ト共ニ感涙ニ咽ヒシ所ナリ 然 ル ニ 今 ヤ 感 涙 未 タ 涸 カ サ ル ニ … (中 略) … 大 行 天 皇 諒闇ノ間ハ先ツ 国家ノ定制ニ従ヒ宗門ノ先蹤ヲ尋ネ戒慎恐惧哀慼ノ赤 誠ヲ致シ所謂ル ( )30 ( )31
朝家ノ御為国民ノ為メ念仏候ヘシトノ祖訓ヲ服膺シ二 諦相依ノ宗風ヲ愆ル勿ランコトヲ望ム 明治四十五年七月三十日 光 演 (傍線部、引用者) ここでは、明治天皇の死去を偲ぶとともに天皇在位期間 に日本が発展を重ねたことが称賛されている。また、明治 天 皇 か ら 真 宗 の 宗 祖 親 鸞 (一 一 七 三 ─ 一 二 六 二) 並 び に 中 興 蓮 如 (一 四 一 五 ─ 一 四 九 九) へ 諡 号 が 下 賜 さ れ た こ と、 宸 翰 された諡号の勅額を祖堂に掲げたことや、天皇が本堂再建 の た め 私 財 を 投 じ た こ と、 明 治 四 十 四 (一 九 一 一) 年 に 執 り行われた大師すなわち親鸞の遠忌法要に際しては特別の 恩賜を受けたことを取り上げ、明治天皇への恩が強調され た。ここで注目したいのは傍線部である。諒闇中の心がけ として、親鸞の消言の文言に基づき「朝家ノ御為国民ノ為 メ 念 仏 候 ヘ シ ト」 と い う 一 文 が 記 さ れ て い る。 そ の 上 で 「二諦相依ノ宗風」から外れないようにと要望している。 この七月三十日の「宗報号外」には、上掲の「垂示」の ほか、 「諭達」 、「所達」及び、 「部達」でも明治天皇に対す る恩が記されている。特に「所達」においては大喪期間の 寺務所役員並びに一般末寺僧侶の服制や各末寺による明治 天皇の中陰法要の式次第を告知している。なお、これらの 通 達 は、 こ の「宗 報 号 外」 発 行 日 が 明 治 四 十 五 (一 九 一 二) 年 七 月 三 十 日 で あ っ た た め、 皇 嗣 が 践 祚 を う け、 改 元 を発表する以前の記事であったといえる。 大 正 元 (一 九 一 二) 年 八 月 八 日 に 発 行 の「宗 報 号 外」 で は「告示第一号」として明治天皇の大喪の期間について以 下のように告知されている。 大喪ハ一カ年ニシテ三期ノ区分ハ左ノ通ニ付心得違無 之様致スヘシ 第一期第二期 各五十日 第三期 残日数 大正元年八月八日 寺務総長 大谷瑩 誠 このように、大喪は一カ年とし、その期間を三期に分け ることが周知された。この区分によれば、大喪の第一期が 七月三十日から九月十八日まで、第二期が九月十九日から 十 一 月 五 日、 第 三 期 は 十 一 月 六 日 か ら 大 正 二 (一 九 一 三) ( )32 ( )33 ( )34
年七月三十日までとなる。また、当号外の「所達第一号」 には「明治四十五年所達第五号第六号国民喪中ノ下第一期 ノ三字追加 ス」と、追加修正がなされた。 こ の「第 一 期」 と い う 三 字 が 追 加 さ れ た 明 治 四 十 五 (一 九 一 二) 年 の「宗 報 号 外」 に 掲 載 さ れ た「所 達 第 五 号」 並 びに「所達第六号」とは大喪期間の服制を定めたものであ り、 大 正 元 (一 九 一 二) 年 八 月 八 日 の「所 達 第 二 号」 並 び に「所達第三号」には第二期以降の服制が定められている。 その服制を示せば表一の通りに整理される。 表一の通り、大喪期間の服制は、寺務所役員等と一般末 寺僧侶では異なるなど、細かく制定されており、国民喪中 の間は宗門全体が威儀を正すように通達したものである。 これら服制の周知徹底には、大谷派が一丸となって明治天 皇の喪に服そうとする姿勢が打ち出されているものとみな すことができ る。 次 に 大 正 元 (一 九 一 二) 年 八 月 二 十 五 日 に 発 行 さ れ た 『宗報』第一三一号の「彙報」欄において「再度の宗報号 外発行」という記事に次のように報じていることに注目し たい。 大行天皇曩に御不予の事ありしに際し、他宗派の挙げ て神仏に赤誠を籠めて御悩御平癒を祈祷したる中にも、 当派は教旨の根底に基き、只管至急の御平癒を跂望し 奉りたるが、不幸登遐の悲報に接するや、本山よりは 急遽宗報号外を以て門末に諭示する処あり、曳いて又 第二号外を発行して些の遺漏なからしめん事を期した り、本号巻頭に再録する即ちそれな り (傍線部、引用者) ここでは、真宗は教義上の理由で他宗派のように祈祷は 行 わ な い が、 「教 旨 の 根 底 に 基 き、 只 管 至 急 の 御 平 癒 を 跂 望し奉りたる」と述べている。ここでいう教旨とは、真宗 の 真 俗 二 諦 論 を 指 す と 考 え ら れ る。 大 谷 派 は 明 治 十 九 年 (一 八 八 六) に 制 定 し た「真 宗 大 谷 派 宗 制 寺 法」 第 十 七 条 に真俗二諦論を「宗義」として定めているのだが、真諦は 「諸仏ヲ念セス余行余善修セス一心ニ阿弥陀如来一仏ニ帰 スルヲ以テ往生浄土ノ安心トスコノ一念発起ノトキ往生ノ 業事成弁スルカ故ニ爾後偏ニ称名念仏ノ一行ヲ以テ報謝ノ 経営トス」と、俗諦は「皇上ヲ奉載シ政令ヲ尊守シ世道ニ ( )35 ( )36 ( )37 ( )38
背カス人倫ヲ紊ラス以テ自己ノ本業ヲ励ミ以テ国家ヲ利益 ス」と、定められている。このことからも「教旨の根底」 すなわち真諦に基づけば祈祷する必要がなく、それゆえ祈 祷は行わないが俗諦も重んじるから「御平癒を跂望」した ということを説明しているのだろう。また、明治天皇死去 の際には大谷派はただちに「宗報号外」を発行し、死去に ついて門末に諭示したこと、遺漏を避けるために新たに号 外を発したことなどが報じられている。ここで諭示したも のとは前掲の明治天皇死去に際して大谷光演が発した「垂 示」を指す。更に、八月八日に発行された「宗報号外」を 表一 明治天皇喪中における服制の規定 寺務所/寺務出張所/教務所其他役員の服制 一般末寺の服制 第一期 一国民喪中ハ必ズ白服着用ノコト 一黒依又ハ役衣 一鼠色無地輪袈裟又ハ墨袈裟 一国民喪中ハ必ズ白服着ノコト 一素絹道服、院家己上白又ハ萌黄ニ限ル 一五条及青袈裟、鼠色無紋又ハ萌黄、茶紋白及ビ青袈裟ニ限リ着用スルコト得 一法服七条 総テ着用差控フベシ 一輪袈裟、畳袈裟等、鼠色無地ハ着用スルコトヲ得 一念珠 木珠 一中啓 鈍色 第二期 一寺務所役員 第一期に同シ 但地方ヘ出張ノ場合ハ地方ノ例ニヨル 一寺務出張所並教務所其他役員 第二期第三期ハ通常役服ニ喪章ヲ附 大喪中第二期第三期間一般末寺僧侶ハ通常衣体ニ喪章ヲ附スヘシ 但喪章ハ左方胸部ニ蝶形ヲ用ユルモ妨ケナシ 第三期 通常役服ニ喪章ヲ附ス
「第 二 号 外」 と 位 置 づ け、 『宗 報』 第 一 三 一 号 に 号 外 を 再 録したことが述べられている。実際にこの『宗報』第一三 一号「達令」欄は、全十九の通達が掲載されているが、そ の う ち の 十 三 通 は 明 治 四 十 五 (一 九 一 二) 年 七 月 三 十 日 の 「宗 報 号 外」 と 大 正 元 (一 九 一 二) 年 八 月 八 日 の「宗 報 号 外」 の 再 録 で あ る。 再 録 で は な い 通 達 の う ち「所 達 第 七 号」には「大行天皇御中陰法要九月十九ヨリ二十三日マデ 本堂ニ於テ御執行アラセラ ル」と、大谷派として務める中 陰法要の日程が定められた。この日程は大喪の期間の第二 期にあたる。 次 に 大 正 元 (一 九 一 二) 年 九 月 七 日 に 発 行 さ れ た「宗 報 号 外」 を 確 認 し た い。 「達 令」 欄「所 達 第 九 号」 に お い て 明治天皇の死去について次のように通達された。 畏クモ去ル七月三十日 明治天皇崩御御アラセラレ候ニ付一派ノ緇素真俗ニツ キ心得方ノ儀ハ当御門跡親シク御垂示アラセラレ今日 ニ於テ覶縷ヲ及ハスト雖モ来ル十三日ヨリ御葬歛御埋 棺等ノ御式典ヲ行ハセラレ候ヘハ一派ノ門葉左ノ各事 項相心得謹慎奉悼ノ赤誠ヲ致サルヘ シ ここでは、再び明治天皇死去に際して大谷派の僧侶並び に門信徒への心得を訓告した「垂示」について言及してい る。さらに、九月十三日から執り行われた「斂葬ノ儀」の 儀式においては次に掲げる事項を実施するように発してい る。 一、一派ノ寺院ハ来ル十三日午後八時 霊轜御発引ノ時刻ヲ始メトシ梵鐘一百八声ノ奉撞 スヘシ 其奉撞ノ緩急ハ梵鐘ノ大小ニヨリ一様シ難 シト雖モ凡二分間ヲ以テ一下ヲ鳴ラスベシ 猶 山城国所在寺院ニ於テハ十四日午後五時十分凡 霊轜列車桃山着御ノ時刻ヲ始メトシ同様梵鐘一百 八声ヲ奉撞スヘシ 一、 一派ノ門末ハ霊轜御通過ノ沿道ニ於テ精々奉送シ 能ハサルモノハ前項梵鐘奉撞ノ時刻ヲ以テ手次其 他最寄寺院ニ参籠シ哀悼ノ赤誠ヲ致スヘシ 寺院ニ於テハ本尊前即 ( )39 ( )40
先帝尊儀奉安ノ正面外陣ニ香炉卓ヲ出シ一般参拝 者ヲシテ謹慎焼香セシメ候様取計フヘク尚尊前ノ 荘 厳 ハ 所 達 第 七 号 (七 月 三 十 日 宗 報 号 外 並 ニ 八 月 宗 報 登 載) 御 中 陰 別 時 法 要 ニ 準 ス ヘ シ 又 其 際 左 ノ 差 定ニヨリ読経ノ上 当御門跡御垂示ヲ捧頌候モ差 支ナシ … (中略) … 一、御大喪儀ハ 本月十三日十四日十五日ヲ以て行ハセ ラレルベキニ付キ 右日限中ハ精進ト心得ヘシ 一、 前 項 奉 送 ニ 於 ケ ル 装 束 ハ 所 達 第 六 号 (七 月 三 十 日 号外及八月宗報登載) ノ通リ … (傍線部、引用者) こ こ で は 傍 線 部 に あ る よ う に、 「斂 葬 ノ 儀」 に お い て 一 般末寺には「葬場殿ノ儀」の開始時刻の頃に併せて「梵鐘 一 百 八 声 ノ 奉 撞 ス ヘ シ」 と し、 「山 城 国」 す な わ ち 現 京 都 府南部の所在の寺院は十四日「霊轜列車桃山着御ノ時刻」 に合わせて梵鐘を打つとされ、さらに「霊轜御通過ノ沿道 ニ於テ精々奉送」がかなわない門信徒に対しては、梵鐘が 打たれる時刻に併せて手次寺すなわち門信徒が所属する寺 院、または最寄りの寺院に参籠し、哀悼の意を表すように とされた。また、これら事項の中には、上掲の「垂示」も 読み上げることも差し支えないとしている。なお、これら の「斂葬ノ儀」において大谷派は大喪の期間、第一期の奉 送 に て は、 表 一 に 掲 げ た 装 束 と さ れ た。 ま た、 「告 示 第 五 号」には「明治天皇御葬儀ニ付、参列ノ為メ当御門跡来ル 九 日 御 発 程 御 東 上 ア ラ セ ラ ル」 と さ れ、 「葬 場 殿 ノ 儀」 に 「門跡寺院ノ住職」として参集することが報じられ た。 次 に 当 該 号 外 の「彙 報」 欄 に 注 目 し て お き た い。 「先 帝 御中陰法要」に関する記事が次のように報じられているか らであ る。 本山に於ける 明治天皇御中陰法要は宗報第百卅一号 所載の如く、当月九月十九日より二十三日迄五日間、 本 堂 に 於 て 御 執 行 (法 要 差 定 は 宗 報 八 月 号 参 照) 前 法 主 台下にも青山御大葬参列の上、御帰山慇懃に厳修遊ば さるべく、 陛下四十余年雨露の聖恩に対し、涓埃の奉 答を期せらるゝ所なれば、此際一派門末にありては緇 素を論せず、一同御趣意を体し上京参詣之れあるべく 、 ( )41 ( )42 ( )43 ( )44
殊に僧侶の面々は率先して精々参勤、罔極の聖徳を奉 讃し、哀悼の赤誠を抽すべし。 右日限は二十日より二十六日迄の例年秋季の彼岸会と 同時にして、而も桃山に於ける 明治天皇御陵前祭は 十五日に終わらせ給ひ、十七日その五十日祭を行はれ、 十八日より三十日迄普く庶民の御陵前拝体を御差許し 相成べきやに漏れ承れば、上京参詣には甚だ便利なる べく … (傍線部、引用者) こ こ で は、 『宗 報』 第 一 三 一 号 の「所 達 第 七 号」 に お い て告知されたように、再び、明治天皇に対する中陰法要の 日程が報じられた。また、傍線部にあるように、大谷派の 僧侶のみならず門信徒もこの法要に参詣するように促して いる。更に、二十日から二十六日まで通例の彼岸会が勤め ら れ る こ と、 明 治 天 皇 大 喪 の 一 連 の 儀 式 の 最 後 に あ た る 「山陵五十日祭ノ儀」の終了後、十八日からはちょうど一 般の天皇陵への参拝が許されることから、そのために上京 する時には「明治天皇中陰法要」にも参詣することを勧め ていることが分かる。ここには教団をあげて中陰法要を務 めようとする大谷派の姿勢が鮮明に打ち出されているとい えるだろう。 最後に、同「彙報」欄において「号外の最終」という見 出しの下「明治天皇御不予より遂次号外を発行して、緊要 なる御垂示達令等を一派も門徒に伝へたる宗報は、今号外 第四号を以つてその最終とな す」として、明治天皇の死去 に伴い逐次発行してきた「宗報号外」は、この第四号を以 って閉じられている。 以上にみてきたように、大谷派は明治天皇の死去以降、 七月三十日・八月八日・九月七日に三回に亘って「宗報号 外」 を 発 行 し た。 ま た、 『宗 報』 第 一 三 六 号 の「彙 報」 欄 の「大正元年度記要抄録」という記事に「二十二日先帝御 不例に付諭達所載の宗報号外第一号出 づ」とあることから、 『宗報』第一三〇号に収録された七月二十二日付の「諭達 第六号」を「宗報号外」の第一号と位置づけてい る。この ことから、明治天皇に関連した号外は合計四回に亘り発行 したことが分かる。 ( )45 ( )46 ( )47 ( )48
三 『先帝と東本願寺』刊行にみる 大谷派の取り組み 明治天皇の死去が公にされると、仏教界からも天皇の遺 徳を偲んだ報道や行事がなされるとともに、天皇を崇めた 多数の書物が出版された。例えば、大谷派のものとしては 法藏館から『先帝と東本願寺』が刊行されている。また、 同社から『明治大帝と仏教』 ・『明治天皇嘆徳談』等といっ た書物が刊行され、興教書院からは本願寺派のものとして 『先帝と本願寺』が刊行されてい る。 そこで本節では、大谷派の対応が読み取ることができる 『先帝と東本願寺』を手がかりに、明治天皇の死去及び大 喪に関連する大谷派の取り組みについて検討しておきたい。 ㈠ 『先帝と東本願寺』の刊行意図 『先 帝 と 東 本 願 寺』 は、 大 正 元 (一 九 一 四) 年 九 月 十 日 に 法 藏 館 か ら 刊 行 さ れ た 書 物 で あ り、 菊 判 (現: A 5 相 当) 全 二 〇 三 頁 か ら な る。 定 価 は 四 十 銭、 著 作 者 は 内 記 龍 舟 (一 八 六 一 ─ 一 九 二 二) 並 び に 猪 飼 法 量 (沼 法 量、 一 八 八 一 ─ 一 九 五 三) の 二 名 で あ る。 巻 頭 に は 天 皇 か ら 下 賜 さ れ た 「見真額」 ・「銀香炉」 ・「御経卓」の写真が掲載されている。 本書の編集意図と構成は当該書物の刊行時に出された「広 告」と本書の「凡例」から読み解くことができる。 また、本書の内容をあらわす一四六に亘る事項は、基本 的には資料を掲げ、解説が加えられているのに対して、こ れら「広告」と本書の「凡例」には大谷派として本書を発 行すべきという意思がはっきりと打ち出されている。この ことに加えて、本書は編者が内記龍舟と猪飼法量により法 藏館より刊行されていることから、教団の意思に基づく出 版 で な い と 解 さ れ る 可 能 性 も あ る が、 二 年 後 の 大 正 三 (一 九 一 四) 年 三 月 二 十 日 に 大 正 天 皇 の 即 位 に 当 た っ て 発 行 さ れ た『御 大 典 と 真 宗』 の 著 者 (内 記 龍 舟 他 二 十 八 名) 、 編 集 者 (沼 法 量) 、 及 び 発 行 所 (大 谷 派 本 願 寺 寺 務 所 宗 報 通 信 部 内 仏 教 学 会) を み れ ば、 大 谷 派 の 意 思 が 反 映 さ れ た 書 物 で あ ることは明らかであ る。 ま ず は『先 帝 と 東 本 願 寺』 の 刊 行 に 先 立 ち、 大 正 元 (一 ( )49 ( )50 ( )51
九 一 二) 年 八 月 に 発 行 さ れ た『宗 報』 第 一 三 一 号 の 巻 末 「広告」に宣伝がされているので、その広告を通じて編集 の意図を探ってみることにする。 嗚呼、先帝陛下御宇四十有五年、仏教外護の聖慮を万 機の暇に用いさせ給ふや篤し、維新当初、我本願寺は 旧来情状の連綿するものありしも、私情を大義に裁断 し、 一 派 は 挙 り て 至 誠 を 陛 下 に 捧 げ ま つ り、 陛 下 亦溢るヽばかりの恩命を度々に下し賜りぬ。恩遇の聖 旨は今来に遺れども、先帝は早や神隠れ給へり。爰に 本書を謹集して酬徳の一端に擬せんとする所以な り 。 (傍線部、引用者) 傍線部のように、明治天皇と大谷派の関係について述べ た の ち、 「陛 下 亦 溢 る ヽ ば か り の 恩 命 を 度 々 に 下 し 賜 り ぬ」と、上掲「垂示」でも述べられていたように明治天皇 から受けた種々の恩に報いるべく本書を編集したという。 そしてまた、次のように続ける。 本書叙する所、先帝御幼幼沖の頃なりし、文久元年よ り、崩御の悲しき明治四十五年まで、五十六年間に於 ける件々の首尾を以てす、 若し夫れ我が本願寺が一派 と共に、罔極聖恩に浴しつヽ、如何に真宗王法為本の 尽忠に抽んでたるかは本書に委曲 す 。 (傍線部、引用者) 本 書 は 明 治 天 皇 の 幼 少 の 頃 で あ る 文 久 元 (一 八 六 一) 年 か ら 明 治 四 十 五 (一 九 一 二) 年 の 死 去 ま で の、 大 谷 派 に 関 連した出来事を取り上げているというのであるが、ここで 注目されるのは傍線部である。真宗教団が「王法為本」を 掲げてひときわ忠誠を尽くしたことが本書に記述されてい るという。そして最後に、 本書一面、宗祖六百回忌以降の本願寺史を知るとヽも に、亦以て明 法 ママ 仏 教 史の一面を明らかにすることを得 るべし。諒闇の愁雲遽かに開かれず、世の同朋、徐に 本書を繙きて、須らく天恩無窮の聖徳を偲ぶべからず や (傍線部、引用者) ( )52 ( )53 ( )54 ( )55
このように、本書は親鸞六〇〇回忌以降の本願寺史を知 ることができるとともに明治仏教史の一端を知ることもで きるので、諒闇中の間は門信徒に対して本書を読み、天皇 の遺徳を偲ぶべきだと結んでいる。 次 に 本 書 の「凡 例」 を 通 じ て、 『先 帝 と 東 本 願 寺』 の 特 徴を確認していきたい。 一謹んで按ずるに 明治天皇其徳龍の如し、草莽の窺 測すべき所の非ず。此篇唯外護感恩の一諦を録する のみ、管見の罪、固より辞せざるなり。 一此篇、文久元年より、明治四十五年七月に至る五十 一年間を以て首尾とす。応に題して『先帝外護録』 若しくは『外護感恩記』といふべし、名けて『先帝 と東本願寺』といふ、書肆の請に応じるのみ 一其の資料としては、一に我本願寺所蔵の『日記』を 初め『配紙』及び『宗報』等に至るまで、此種の材 料を集め、編年体に之を謹纂せり、記事の具略を免 れざる所以なり 一此篇録する所、苟くも聖徳に係る、当に謹厳の筆を 用ひ、終始斉整なるを要す、然るに急遽の際、両人 事に随ひ、猶助けを同人に仮る、随ひて録し、随ひ て印し、修整に暇あらず、故に記事詳略一ならず、 行文雅俗自ら混ず、読者鹵莽を尤むるなければ幸な り こ の よ う に 本 書 は、 「唯 外 護 感 恩 の 一 諦 を 録 す る の み」 と記して、ひたすら明治天皇への恩が記されたものであり、 『先帝外護録』並びに『外護感恩記』ともいうべき書物で あ る と い う。 す な わ ち 真 宗 の「真 俗 二 諦 論」 の う ち「俗 諦」面について記された書物と位置づけていることが注目 される。また、本書に掲載の記録は東本願寺所蔵の日記、 『配紙』並びに『宗報』といった機関紙などに至るまで調 査し、それを編年体にて整理したものである。最後に短期 間 の 資 料 収 集 と 編 集 の 作 業 に あ た っ た こ と か ら、 「苟 く も 聖徳に係る、当に謹厳の筆を用ひ、終始斉整なるを要す」 ものであるけれども「行文雅俗自ら混ず」と、文体が不統 一であることを予め読者に断っている。 最後に、本書に掲載した文書の中には本山による朝鮮及 ( )56
び中国開教に関連するものも含まれ、明治天皇の恩とは直 接関係がないけれども「王法為本の宗風」をあきらかに示 し、天皇の恩に報いるとの立場から、掲載することにした ということが内記龍舟と猪飼法量の連名で結ばれている。 その内容は以下に掲げる通りである。 一所載の本山、朝鮮支那の開教の如きは 王室に関せ ざれば、或は当に割愛すべし 然れども亦是れ王法為本の宗風を闡揚し、外護の報 恩に擬するに在り、故に録せり。此他猶ほ之に類す るものあり、請ふ之を恕せよ。 大正元年八月二十八日 龍舟 法 量 ( )57 表二 『先帝と東本願寺』年代別掲載事項(文久元~慶応三) 年 代 事 項 文久元年 ・六百回祖忌御下賜 文久二年 ・亀山帝尊牌 ・聖忌御下賜 文久三年 癸亥 ・国事献金 元治元年 ・皇陵の拝展 ・光郎前法主の遷化 慶応二年 ・皇陵奉修の叡感 ・諸寺均霑を奉請す ・皇考崩御 慶応三年 ・明治天皇践祚 ・孝明帝諒闇 ・諒闇法要 ・御遺物御下賜
表三 『先帝と東本願寺』年代別掲載事項(明治元~九年) 年 代 事 項 明治元年 ・勤王の発表 ・御即位料奉献の申請 ・枳殻邸駐輦 ・大阪への天機伺い ・難波別院臨御 ・記念御下賜 ・還奉再び枳殻邸入御 ・神仏判然 ・即位奉賀 ・大津別院駐輦 ・孝明帝聖忌 ・立后奉祝 明治二年 ・廃寺合寺献白 ・門末懇諭 年 代 事 項 明治三年 ・北海道開拓 ・開拓の計書 ・門末への告示 ・開拓道中の順路 ・開拓の新道路 ・道場の新設と別院及末寺 明治四年 ・廃仏に非ざる朝旨決定 ・枳殻邸献納 明治五年 ・置物下賜 ・法主叙位 明治六年 ・法嗣再補教導職 ・大教院分離 明治七年 ・法嗣叙位 明治八年 ・大教院を解く 明治九年 ・支那開教 ・宗祖追諡
表四 『先帝と東本願寺』年代別掲載事項 (明治十年~十九年) 年 代 事 項 明治十年 ・大谷行啓 ・本山行幸啓 ・御祭典参拝 ・諡号供養会 ・法主の巡化と救恤 ・隠岐の開教 明治十一年 ・御巡幸御駐輦 ・朝鮮の開教 明治十二年 ・勅額下賜 ・再建発表 ・勅額奉告式 ・再建に付恩賜 明治十三年 ・裏方拝謁 ・御巡幸御駐駐輦 ・宮御殿の御下賜 ・聖恩奉告と勅願奉掲 年 代 事 項 明治十五年 ・中興へ賜諡 ・賜天杯 明治十七年 ・中興諡号供養会 明治十八年 ・姫路別院御駐駐輦 明治十九年 ・仁孝帝式年祭参拝 ・高齢に付恩賜 表 五 『 先 帝 と 東 本 願 寺 』年 代 別 掲 載 事 項( 明 治 二 十 年 ~ 二 十 九 年 ) 年 代 事 項 明治二十年 ・皇太后宮御伺 ・名古屋別院御駐輦 明治二十二年 ・観梅御宴御陪席 ・法主譲職 ・東宮御下賜 明治二十三年 ・名古屋別院行在 ・参内供養 ・皇后陛下の懿旨 ・奉伺并拝謁
年 代 事 項 明治二十四年 ・光佐宗主年忌御下賜 ・露国太子と参内 ・御紋袈裟恩賜 ・皇太后宮行啓 明治二十五年 ・酬徳会法要を創む ・前法主薨去御尋ね 明治二十七年 ・名古屋別院駐輦 ・名古屋別院御駐興 明治二十八年 ・天機奉伺 ・両堂落成に付御下賜 ・平和克複に付奉伺其他 ・祝捷并追弔法要 明治二十九年 ・法主叙爵 表六 『先帝と東本願寺』年代別掲載事項(明治三十年代) 年 代 事 項 明治三十年 ・皇太后崩御 ・聖賀奉迎 ・太后百箇日御法要 ・御遺物下賜 明治三十一年 ・東宮枳殻邸行啓 ・天機奉伺 明治三十二年 ・東宮松雨荘御立寄 表七 『先帝と東本願寺』年代別掲載事項(四十年代) 年 代 事 項 明治四十一年 ・法主譲職 ・天機奉伺 ・詔旨諭示 明治四十二年 ・戦役殊功行賞 明治四十三年 ・両門修築菊章認許 明治四十四年 ・宗祖遠忌に付御下賜 ・前法主陞位其他
㈡ 『先帝と東本願寺』の構成 前 述 し た 通 り『先 帝 と 東 本 願 寺』 は 文 久 元 (一 八 六 一) 年 か ら 明 治 四 十 五 (一 九 一 二) 年 ま で の 間 が 編 年 体 で 構 成 されている。取り上げられた事項の中、大谷派との関係が 読 み 取 れ る も の に 絞 っ て、 こ れ を 年 代 順 に て 示 せ ば 表 (二 ~七) の通りとなる。 こ の 表 か ら も 窺 え る よ う に、 『先 帝 と 東 本 願 寺』 で は、 親鸞六百回忌から明治天皇死去までの間に切り結ばれた、 大谷派と天皇・皇室との密接な関係が編年史的に綴られて いる。この表を一瞥するだけでも、本書は大谷派と天皇・ 皇室との密接な関係を一般末寺並び門信徒に周知する役割 を担うものであったことが分かる。この双方の関係を提示 することは、同時に天皇・皇室に対する恩を寺院及び門信 徒が抱くように求めることでもあったといえる。従って明 治天皇の死去をうけて刊行された『先帝と東本願寺』には、 大谷派が「王法為本」の「王法」を天皇に結びつけようと する姿勢が現れているとみなすことができるのである。 結 以上、真宗大谷派が明治天皇の死去及び大喪に際しどの よ う に 対 応 し た の か に つ い て、 『官 報』 を 確 認 し た 上 で、 大 谷 派 の 機 関 誌『宗 報』 の 記 事、 『先 帝 と 東 本 願 寺』 の 発 行の意図とその構成を通して検討した。これによって以下 の取り組みが明らかになった。 一、大谷派による明治天皇の重態から死去までの対応 は『官報』の「宮廷録事」欄に報告されたものに基 づいて実施されていることが明らかになった。 二、明治天皇の重態から死去に際して、大谷派は四回 に亘り「宗報号外」を発行していた。そこでは明治 天皇の死去から大喪までを三期に分けて、一連の儀 式に備えていた。 年 代 事 項 明治四十五年 ・法主陞位 ・天皇御不予と諭達及び垂示
三、 大 谷 派 は 明 治 天 皇 死 去 に 際 し て『先 帝 と 東 本 願 寺』を刊行し、その中で大谷派と皇室の密接な関係 を綴っていた。これは宗門の一般末寺の僧侶及び門 信徒に向けて大谷派と天皇・皇室との密接の関係を 周知する目的と、天皇に対する恩を示す姿勢も窺わ せるものであった。 以上のことから、大谷派は明治天皇の死去及び大喪に関 する対応として再三にわたり機関誌で報じるに留まらず、 教団の人物等によって『先帝と東本願寺』を発行し、大谷 派と天皇・皇室の密接な関係を一般末寺並びに門信徒に周 知することで天皇への恩を示していた。 本研究は、大谷派の機関紙を中心に、明治天皇の死去及 び大喪における教団の諸対応を検討してきたものであるが、 一般末寺並びに門信徒に要請した種々の事柄が実際にどの ように受容されたのかについては言及できていない。これ らを明らかにするには、例えば『中外日報』等といった宗 教誌や当時の新聞記事を検討する必要があると考える。ま た、明治天皇の死去及び大喪による本願寺派の取り組みに ついては、既に先行研究で明らかになっているが、更に本 願寺派からも『先帝と本願寺』という書物が刊行されてい ることから、大谷派の取り組みと比較検討することで、真 宗教団としての動向がより明確になると考えられる。それ らについては今後の課題としたい。 【註】 本願寺史料研究所編『増補改訂 本願寺史』第三巻、本願 寺出版社、二〇一九年、六一〇頁~六一一頁を参照。 前掲、六一一頁。 「御大典」とは「御大礼」とも称し、朝廷の重大な儀式の 一 つ で あ る。 近 代 に お け る「 御 大 典 」 は、 明 治 二 十 二( 一 八 九 九 ) 年 に 制 定 さ れ た「 皇 室 典 範 」 に「 即 位 の 礼 」 と 「大嘗祭」をあわせた一連の儀式として規定された(村上重 良『 天 皇 の 祭 祀 』 岩 波 書 店、 一 九 七 七 年、 一 四 五 頁・ 一 八 五頁を参照) 。 本 願 寺 派 に よ る 近 代 の 天 皇 死 去 並 び に 代 替 わ り の 諸 対 応 を 取 り 上 げ た 先 行 研 究 と し て、 赤 松 徹 眞 氏 に よ る 論 文「 天 皇 の 代 替 わ り と 真 宗 ─ ─ 西 本 願 寺 教 団 の 場 合 ─ ─ 」( 『 龍 谷 史 壇 』 第 九 六 号、 龍 谷 大 学 史 学 会、 一 九 九 〇 年 ) が あ げ ら れ る。 氏 の 論 稿 で は 天 皇 代 替 わ り に つ い て 明 治 期・ 大 正 ( )1 ( )2 ( )3 ( )4
期・ 及 び 昭 和 期 の 代 替 わ り を そ れ ぞ れ 取 り 上 げ、 本 願 寺 派 (西本願寺)の対応が検討されている。また、本願寺史料研 究 所 編 纂 の『 増 補 改 訂 本 願 寺 史 』 第 三 巻、 「 第 八 章 国 家 の 諸 政 策 と 教 団 の 対 応 」 の「 四 天 皇 代 替 わ り と 本 願 寺 」 に お い て も、 明 治 天 皇 崩 御 か ら 昭 和 天 皇 即 位 と い っ た 本 願 寺 派 に よ る 天 皇 代 替 わ り の 諸 対 応 が 編 年 体 で 著 さ れ て い る (『 増 補 改 訂 本 願 寺 史 』 第 三 巻、 六 〇 九 頁 ~ 六 二 二 頁 を 参 照) 。 大 谷 派 の 天 皇 代 替 わ り に つ い て は 近 藤 俊 太 郎 氏 の 論 文 「天皇制国家と『精神主義』──三教会同・天皇代替わりを め ぐ っ て ─ ─ 」( 『 佛 教 史 學 研 究 』 第 五 二 巻 第 二 号、 二 〇 一 〇 年 ) に お い て、 明 治 天 皇 の 代 替 わ り に つ い て 取 り 上 げ ら れているが、 「精神主義」運動の観点が中心的な課題であっ た。 拙 稿「 真 宗 大 谷 派「 仏 教 学 会 」 の 研 究 ─ ─「 仏 教 学 会 」 が「 御 大 典 」 待 受 に 果 た し た 役 割 」( 『 印 度 学 佛 教 学 研 究 』 第 六 七 巻 第 一 号、 日 本 印 度 学 仏 教 学 会、 二 〇 一 八 年 ) を 参 照。 なお、拙稿では「仏教学会」が発行した『御大典と真宗』 に つ い て、 筆 者 は 冊 子 と 位 置 づ け 論 じ て い る。 し か し 実 際 には「仏教学会」が発足と同時に刊行した『仏教通信講義』 の臨時増刊と位置づけられるものであった。 『官報』号外、印刷局、明治四十五年七月二十一日、一頁 ~二頁。 『官報』号外、印刷局、明治四十五年七月二十八日、二頁 ~三頁。 『官報』号外、印刷局、明治四十五年七月三十日、一頁。 同前。 所功『近代大礼関係の基本史料集成』 (国書刊行会、二〇 一八年八月、二〇五頁)を参照。 こ の 記 述 を は じ め と し た、 各 引 用 文 に あ る 一 文 字 ま た は 二字文の空白は、 「闕字」である。 『官報』号外、印刷局、明治四十五年七月三日、一二頁。 『登極令』第一条、明治四十一年十二月十七日。この『登 極令』とは、 「明治二十二年(一八八九)に制定された『皇 室 典 範 』 に 基 づ い て、 皇 位 継 承 = 登 極 に 伴 う 代 始 の 諸 儀 に つ い て 規 定 し た 細 則 」 で あ る( 所 功『 近 代 大 礼 関 係 の 基 本 史料集成』 、二〇五頁) 。なお、 『登極令』各条項の引用は国 立 公 文 書 館 デ ジ タ ル ア ー カ イ ブ に 公 開 さ れ て い る 資 料 を 使 用 し た( 国 立 公 文 書 館、 請 求 番 号: 枢 〇 〇 〇 三 六 一 〇 〇 .URL:https://cutt.ly/hjOJ0ky ア ク セ ス 日: 二 〇 二 一 年 一月十八日) 。 『官報』号外、印刷局、明治四十五年七月三十日、三頁。 村 上 重 良 編『 正 文 訓 読 近 代 詔 勅 集 』、 新 人 物 往 来 社、 一 九八三年、三八頁・二一二頁を参照。 『登極令』第二条、明治四十一年十二月十七日。 ( )5 ( )6 ( )7 ( )8 ( )9 ( )10 ( )11 ( )12 ( )13 ( )14 ( )15 ( )16
『登極令』第三条、明治四十一年十二月十七日。 『官報』第三号、印刷局、大正元年八月三日、二十七頁。 『官報』第十一号付録号外、印刷局、大正元年八月十二日、 一頁。 『官報』第十一号付録号外の「大喪彙報」欄には、八月十 三 日 か ら 九 月 十 七 日 に か け て 執 り お こ な う と さ れ た 一 連 の 儀式の日程等が細かく定められた。 同前、一六頁。 同前、一七頁。 同前、一六頁。 同前、一六頁。 『官報』号外、印刷局、大正元年九月十四日。一頁。 『官報』号外、印刷局、大正元年九月十五日。一頁。 『宗報』第一三〇号、真宗大谷派本山本願寺寺務所文書科、 明 治 四 十 五 年、 六 頁。 (『 宗 報( 七 )』 「 宗 報 」 等 機 関 誌 復 刻 15、真宗大谷派宗務所出版部、一九九四年、一六〇頁) 大谷瑩誠 赤松徹真他編『真宗人名辞典』 (法藏館、一九 九九年、五二頁参照) 。 『宗報』第一三〇号、真宗大谷派本山本願寺寺務所文書科、 明治四十五年七月、一頁( 『宗報(七) 』一五五頁) 。 こ の「 王 法 為 本 」 と は、 本 願 寺 第 八 世 蓮 如( 一 四 一 五 ─ 一 四 九 九 ) の『 御 文 』 第 三 帖 目 第 十 二 通 に あ る「 ま ず 王 法 を も っ て 本 と し、 仁 義 を さ き と し て、 世 間 通 途 の 義 に 順 じ て、 当 流 安 心 を ば 内 心 に ふ か く た く わ え て、 外 相 に 法 流 の す が た を 他 宗 他 家 に み え ぬ よ う に ふ る ま う べ し 」 と い う 文 言を根拠に使用されている。 (『真宗聖典』東本願寺出版部、 昭和五十三年、八一二頁) 。 「垂示」とは『教化研究』九二/九三号によれば「管長に よ る 文 書 で の 対 社 会、 対 世 間 に お け る 門 末 の 態 度 に 関 す る 教え」とされている( 『教化研究』九二/九三号、真宗大谷 派宗務所、一九八六年十二月、二七四頁を参照) 。 「 宗 報 号 外 」、 真 宗 大 谷 派 本 山 本 願 寺 寺 務 所 文 書 科、 明 治 四 十 五 年 七 月 三 十 日、 一 頁 ~ 二 頁( 『 宗 報( 七 )』 一 七 五 ~ 一七六頁) 。 こ の「 垂 示 」 は 真 宗 大 谷 派 教 学 研 究 所 の「 資 料・ 真 宗 と 国 家 Ⅱ 」( 『 教 化 研 究 』 九 二 / 九 三 号、 五 頁 ~ 六 頁 ) に も 収 録されている。 少 し 後 の も の に な る が、 内 記 龍 舟 は、 次 の よ う に 解 説 し ている。 宗 祖 聖 人 は 高 弟 性 信 坊 に 遣 は さ る ゝ 御 消 息 に( 此 御 消 息 は『 御 消 息 集 』 に 載 せ て あ る ) 念 仏 行 者 が 天 恩 の 辱 き こ と を 忘 れ て は な ら ぬ ぞ と、 懇 ろ 示 さ せ ら れ た 御 辞 …( 中 略 ) … 高 弟 へ の 御 示 し な れ ば、 我 々 へ の 御 示 し と 心 得、 此 度 の 御 大 典 に 付、 愈 天 恩 を 畏 み 人 道 を 践 み 今 上 陛 下 御 擁 護 の 下 に、 仏 法 弘 ま れ か し と 心 得 よ と の 御示しである。 ( )17 ( )18 ( )19 ( )20 ( )21 ( )22 ( )23 ( )24 ( )25 ( )26 ( )27 ( )28 ( )29 ( )30 ( )31 ( )32 ( )33
内 記 龍 舟「 御 消 息 略 解 」、 八 頁( 沼 法 量 編『 御 大 典 と 真 宗』 、仏教学会、大正三年三月) 。 「 宗 報 号 外 」、 真 宗 大 谷 派 本 山 本 願 寺 寺 務 所 文 書 科、 大 正 元年八月八日、一頁( 『宗報(七) 』一七九頁) 。 同前。 こ の 服 制 に 制 定 に つ い て、 寺 務 所 職 員 と 一 般 末 寺 の 共 通 事 項 に 第 一 期 の「 必 ズ 白 服 着 ノ コ ト 」 と、 あ る。 つ ま り 「色服」着用を禁止したものであり、その他の細かい装束の 指 定 か ら も 国 民 喪 中 の 間 は 威 儀 を 正 す よ う に 規 定 し て い る こ と が 分 か る。 第 一 期 に 関 わ ら ず そ の 他 の 装 束 の 規 定 は、 前 年( 明 治 四 十 四 年 ) 勤 ま っ た 親 鸞 の 遠 忌 法 要 が 本 年( 大 正 元 年 ) に は 末 寺 で 勤 め ら れ る こ と、 真 宗 で 務 ま る 最 も 重 要 な 法 要 で あ る 報 恩 講 が 控 え て い る こ と、 な ど と 照 ら し あ わ せ る こ と で、 そ の 意 味 合 い を よ り 深 く 読 み と く こ と が 可 能であろう。別稿にて詳しく論じるべき課題と考える。 『宗報』第一三一号、真宗大谷派本山本願寺寺務所文書科、 大正元年八月二十五日、一四頁( 『宗報(七) 』一九四頁) 。 明治十九年制定の「真宗大谷派宗制寺報」第二編「宗制」 第一章「宗義」第十七条には次のように規定されている。 諸 仏 ヲ 念 セ ス 余 行 余 善 修 セ ス 一 心 ニ 阿 弥 陀 如 来 一 仏 ニ 帰 ス ル ヲ 以 テ 往 生 浄 土 ノ 安 心 ト ス コ ノ 一 念 発 起 ノ ト キ 往 生 ノ 業 事 成 弁 ス ル カ 故 ニ 爾 後 偏 ニ 称 名 念 仏 ノ 一 行 ヲ 以 テ 報 謝 ノ 経 営 ト ス 之 ヲ 真 諦 門 ト イ フ 皇 上 ヲ 奉 載 シ 政 令 ヲ 尊 守 シ 世 道 ニ 背 カ ス 人 倫 ヲ 紊 ラ ス 以 テ 自 己 ノ 本 業 ヲ 励 ミ 以 テ 国 家 ヲ 利 益 ス 之 ヲ 俗 諦 門 ト 云 フ ス ナ ハ チ 真 諦 ヲ 以 テ 俗 諦 ヲ 資 ケ 俗 諦 ヲ 以 テ 真 諦 ヲ 資 ケ 二 諦 相 依 ヲ現當二世ヲ相益ス是ヲ二諦相資ノ法門トス 『本山報告』第十五号、真宗大谷派本山本願寺寺務所文書 科、 明 治 十 九 年 九 月、 四 頁( 『 本 山 報 告( 一 )』 、「 宗 報 」 等 機 関 誌 復 刻 版 三、 真 宗 大 谷 派 宗 務 所 出 版 部、 一 九 八 八 年 一 七頁) 。 こ の よ う に、 真 宗 の「 真 俗 二 諦 」 が 宗 義 と し て 寺 報 に 定 められている。 『宗報』第一三一号、真宗大谷派本山本願寺寺務所文書科、 大正元年八月二十五日、三頁( 『宗報(七) 』一八三頁) 。 「宗報号外」第四号、真宗大谷派本山本願寺寺務所文書科、 大正元年九月七日、一頁( 『宗報(七) 』二〇一頁) 。 同前。 同前。 な お、 こ の「 達 令 」 欄 に は「 告 示 第 六 号 」 並 び に「 告 示 第 七 号 」 も 発 せ ら れ て い る。 そ こ で は「 所 達 第 九 号 」 と 同 様、 十 三 日・ 十 四 日 に 上 述 し た 時 刻 に 梵 鐘 を 百 八 回 打 つ こ とや装束等について公示されている。 この記事にはこの他に、法要の開始時刻が付されている。 ま た、 再 び 装 束 に つ い て 公 示 さ れ て い る。 基 本 的 に は 第 一 期 の 服 制 に 則 っ て い る。 な お、 門 信 徒 に つ い て は「 門 徒 の ( )34 ( )35 ( )36 ( )37 ( )38 ( )39 ( )40 ( )41 ( )42 ( )43 ( )44
参 詣 に は 通 常 の 法 要 の 通 り に て 別 段 の 規 定 な き も、 喪 章 を 付する事勿論なり」とされた。 「宗報号外」第四号、真宗大谷派本山本願寺寺務所文書科、 大正元年九月七日、二頁( 『宗報(七) 』二〇二頁) 。 同前。 同前。 『宗報』第一三六号、真宗大谷派本山本願寺寺務所文書科、 大正二年一月二十五日( 『宗報(七) 』三三九頁) 。 明 治 天 皇 崩 御 以 降 に 発 行 さ れ た、 七 月 三 十 日・ 八 月 八 日・ 九 月 七 日 の 号 外 は、 い ず れ も 別 紙 に て 発 せ ら れ た が、 号外第一号に位置づけられた七月二十二日の「諭達第六号」 に つ い て は、 毎 月 二 十 五 日 に 定 期 的 に 刊 行 さ れ て い た『 宗 報 』 の 巻 頭 に 収 録 さ れ て い る。 な お、 こ の 記 述 は、 前 掲 の 『宗報』第一三一号の「再度の宗報号外発行」の記述が誤り であったことも示している。 本資料について中西直樹氏は、 「近代以降の真宗大谷派の 歴史を包括的にしるした書物」として紹介している。また、 氏 は『 先 帝 と 本 願 寺 』 を「 明 治 期 の 東 西 本 願 寺 の 歴 史 を 知 る 上 で 貴 重 な 史 料 で あ る 」 と 述 べ て い る( 中 西 直 樹『 明 治 前 期 の 大 谷 派 教 団 』 法 藏 館、 二 〇 一 八 年、 ⅰ 頁、 十 一 を 参 照) 。 沼 法 量 の 生 い 立 ち や 活 動 に つ い て は、 中 川 剛「 宗 教 映 画 『 毛 綱 』 の 成 立 過 程 」( 中 川 剛「 宗 教 映 画『 毛 綱 』 の 成 立 過 程 」『 同 朋 仏 教 』 第 五 十 号、 同 朋 大 学 仏 教 学 会、 二 〇 一 四 年)に詳しい。 『 御 大 典 と 真 宗 』、 仏 教 学 会、 大 正 三 年 三 月。 な お、 本 書 の 構 成 並 び に 編 集 の 特 徴 に つ い て は 前 掲 拙 稿「 真 宗 大 谷 派 「仏教学会」の研究―「仏教学会」が「御大典」待受に果た した役割」 (二七八~二七九頁)を参照されたい。 『宗報』第一三一号、真宗大谷派本山本願寺寺務所文書科、 大正元年八月二十五日、二十頁( 『宗報(七) 』二〇〇頁) 。 同前。 ここでいう「明法仏教史」とは、 「明治仏教史」の誤植で あろう。 「宗報号外」第四号(大正元年九月七日発行)に掲 載 さ れ た「 広 告 」 に お い て は、 修 正 さ れ た も の が 掲 載 さ れ ている。 『宗報』第一三一号、真宗大谷派本山本願寺寺務所文書科、 大正元年八月二十五日、二十頁( 『宗報(七) 』一八三頁) 。 『先帝と東本願寺』法藏館、大正元年、巻頭。 同前。 ( )45 ( )46 ( )47 ( )48 ( )49 ( )50 ( )51 ( )52 ( )53 ( )54 ( )55 ( )56 ( )57