Author(s)
盛口, 満
Citation
沖縄大学人文学部紀要 = Journal of the Faculty of
Humanities and Social Sciences(18): 1-10
Issue Date
2016-03-07
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/20405
沖縄大学人文学部紀要 第 18 号 2016 〈論文〉
琉球列島におけるシュロ
(Trachycarpus excelsus) の消失
盛口 満
要 約 琉球列島の里山は 1960 年代以降、大きくその姿を変化させてきた。そのかつての琉 球列島の里山を有用植物に関する聞きとり調査から復元しようと試みている。シュロ はすぐれた繊維利用植物として各地で使用されてきた。現在も本土では普通にみられ るシュロは、琉球列島においてその姿を見ることがほとんどない。しかし、かつては 池間島などの例外を除くと、各島で利用されていたことが明らかとなった。 キーワード:琉球列島、里山、有用植物、シュロ はじめに 九州から台湾にかけて連なる琉球列島は、多様、かつ固有の生物相がみられることで知られ ている。例えば沖縄島北部、やんばると呼ばれる地域で見られる両性爬虫類の 83%は固有であ るとされる(当山 2010)。一方でこれらの島々には、古くから人々の暮らしも営まれてきた。 つまり琉球列島の島々においても、人々の暮らしによって強い影響を受けた里山と呼ばれる環 境が存在した。里山とは、民族植物学者の阪本寧男によれば、「人里近くに存在する山を中心に、 それに隣接する雑木林・竹林・田畑・溜池(貯水池)・用水路などを含む空間的広がりのなかで、 人びとが生活してゆく上でさまざまな関わり合いを維持してきた生態系」と定義されるもので ある(阪本 2007)。ここで里山が「存在した」と書いたのは、琉球列島の島々においては、現 在の人里周辺の自然環境は、かつてのそれと大きく姿を変えてしまっているためである。かつ ては琉球列島の島々においても、田んぼを中心とした耕作地が里山を形成していた。しかし例 えば沖縄島の場合は 1963 年の大旱魃を直接的な原因とし、田んぼの急激な減少と、それに続く 耕作地におけるサトウキビ栽培のモノカルチャー化が顕著となった(盛口 2011)。このため、 かつての琉球列島の里山の姿は伺うべくもないような現状となってしまっている。そこで年配 者の記憶の中に残っている琉球列島の里山の様子を聞き取り調査によって明らかにし、かつて の里山の様子を復元できないかという試みを続けている。その結果、島々ごとといっていいほど、 多様な里山が存在していたのではないかということがわかってきた(盛口 2011)。 琉球列島の里山を復元するうえで、いくつか、キーを握る植物や、植物利用が存在すること が聞き取り調査から明らかになりつつある。例えばソテツとその利用がその一つである。ソテ ツは救荒植物として各島で利用されたが、それだけでなく例えば田んぼの緑肥として利用する 島もあった。耕作地の緑肥としてどのような植物を利用していたのかを聞き集めると、奄美大 島を中心に、沖縄島北部、久米島にかけてソテツの利用がみられた。一方で沖縄島南部以南で はマメ科のクロヨナの葉を緑肥として利用していたことがわかった。この利用の違いは自然環境の違いだけでなく、薩摩藩の奄美支配という歴史による影響が強いものと考えられる(盛口 2015)。琉球列島の里山は多様なだけでなく、このような地域区分がみられることもわかって いる。一方、里山の多様性を見て取る指標として、魚毒植物の利用に注目すべきであることが わかってきた(盛口 印刷中)。本稿では加えて、繊維利用植物、中でもシュロに注目し、かつ て琉球列島の里山の在りようについて、さらなる考察をおこなうこととする。 1.調査方法 琉球列島の各島(種子島、屋久島、奄美大島、加計呂麻島、徳之島、沖縄島、久米島、池間島、 伊良部島、石垣島、波照間島、与那国島)に居住しているか、居住していた方で、「田んぼのあっ たころ」(1960 年代 ただし、石垣島などでは現在もまだある一定面積の田んぼが作り続けら れている)を記憶されている方々に、2007 年以降、2015 年に至るまで、継続的にかつての植 物利用についての聞きとりをおこなってきた。なお、2014 年、15 年は特にシュロに留意した 聞き取りを、石垣島、徳之島、沖縄島で行った。本稿では、聞き取り調査の中で繊維利用植物 について判明した結果を取りまとめる。 2.調査結果 現在のようにビニールやナイロン製品のない時代、植物繊維は農作業も含む日常生活に必要 不可欠の存在であった。聞き取り調査の結果及び、文献調査からわかった琉球列島の繊維利用 植物をリストにすると、表1のようになる。ただし聞き取り調査では主に農作業やそのほかの 日用品として利用する繊維利用植物を対象としたため、衣服の原料としての繊維利用植物(ワ タなど)や紙の原料としての植物(アオガンピなど)などについては表1にあげられていない ものもある。 繊維利用植物は、①野山の野生植物を利用する場合、②人里周辺に半管理的に植栽されてい る植物を利用する場合、③繊維利用植物として管理されている植物を利用する場合と大きく三 つに区分ができる(同じ植物でも集落によって区分が異なる場合がある)。このうち、リストに 挙げられた植物の種類が最も多いのは①になる。 ①クロツグやトウツルモドキ、ハスノハカズラなど ②ゲットウが代表。集落によっては里にオオハマボウが植栽されている場合があった。 ③シュロが代表。ほかにカラムシ。 また、琉球列島の各島や集落によって、利用していた繊維利用植物にどのような違いがあっ たのかを表 2 にまとめた。聞き取りをおこなった調査地を通じてもっとも広く利用がみられた のがシュロであり、これは琉球列島の北端から南端の島にかけて利用範囲がみられ、そのうち 池間島と与那国島でのみ利用が聞き取れなかった。ちなみに前者は繊維利用植物としてアダン の気根が重要であり、後者ではほかの調査地では聞き取ることのできなかったビロウの利用が 存在していたことが特徴的である。シュロ同様に広く利用が聞き取れた繊維利用植物としては アダンの気根がある。ただしアダンの利用は、当然、アダンの自然分布の北限以北にあたる種 子島・屋久島ではその利用は聞き取れていない。これらに準じる利用頻度の高い繊維利用植物 はオオハマボウとクロツグであり、一方、ヒョウタンカズラやアコウなどは唯一の調査地での み利用が聞き取れたものであった。
琉球列島におけるシュロ (Trachycarpus excelsus) の消失 表1:琉球列島における繊維利用植物リスト ――――――――――――――――――――― タコノキ科 アダン キジカクシ科 アオノリュウゼツラン ヤシ科 シュロ クロツグ ビロウ トウツルモドキ科 トウツルモドキ イネ科 イネ ススキ チガヤ バショウ科 イトバショウ ショウガ科 ゲットウ アケビ科 ムベ ツヅラフジ科 ハスノハカズラ マメ科 シイノキカズラ ウジルカンダ モダマ クワ科 アコウ イラクサ科 カラムシ アオイ科 オオハマボウ サキシマフヨウ マタタビ科 シマサルナシ アカネ科 シラタマカズラ ヒョウタンカズラ ヘクソカズラ キョウチクトウ科 リュウキュウテイカズラ サカキカズラ ―――――――――――――――――――――
表2:琉球列島の魚毒植物利用の分布 種 ● 屋 ● 清 ● ● ● 摺 ● ● ● ● ● 犬 ● ● ● ● ● ● 花 ● ● ● ● 奥 ● ● ● ● ● ● 渠 ● ● ● ● 仲 ● 池 ● 伊 ○ ● ● ○ 登 ● ● ● ● ● ● 白 ● ● ● ● 波 ● ● ● ● ● ● ● 与 ● ● ● ○ ○ ○ ● 注1:地名は以下の通り 種 (種子島 ・太田 )屋 (屋久島 )清 (奄美大島・清水 )摺 (奄美大島・摺勝 ) 犬 (徳之島 ・犬田布 )花 (徳之島 ・花徳 )奥 (沖縄島・奥 )渠 (沖縄島・仲村渠 ) 仲 (久米島・仲地 )池 (池間島 )伊 (伊良部島 )登 (石垣島・登野城 )白 (石垣島・ 白保 )波 (波照間島 )与 (与那国島 ) 注2:●(聞き取り調査の結果)○(文献上の記録) 注3:テイカカズラはリュウキュウテイカカズラ、リュウゼツランはアオノリュウゼツランの こと。 注4:伊良部島ではほかにススキとチガヤを利用(文献)。与那国島ではほかにサカキカズラを 利用(文献)。波照間島ではほかにヘクソカズラを利用(聞き取り)。石垣島・登野城ではほか にモダマを利用(聞き取り)。 以上のように琉球列島の各島・集落においてシュロは広く栽培がみられた植物であり、その 利用方法については、以下のような内容(A1 ~ A17)を聞き取ることができた。 A1「馬に鍬をひかせるときの縄は稲わらを使いました。シュロ縄はあんまり強いので、鍬が すぐにいかれてしまうんです。(中略)シュロ縄のほうは馬の背に結わえ付けたりするときに使っ
琉球列島におけるシュロ (Trachycarpus excelsus) の消失 ていました。あと、蓑はシュロですね。シュロは畑の脇の土手に生えていました」(種子島・太田) A2「シュロはどこの畑にも 1 本ありました。どこの家も必需品。特に戦後はいろんなものを作っ たから。船の櫓綱とか。背負子とか。船のまいはだにも使ったかもしれない。(中略)1,2 年前、 一湊のお寺の鐘楼を作った。そのとき鐘を突く棒にシュロがいいという話になって、どこかに ないかと探したことがありました。シュロの木だと打っても鐘を傷めないから……と」(屋久島・ 一湊) A3「シュロは一番いい。長く持つもんね。そうとう植えてあったです。(中略)蓑笠もいいも のはシュロで作った。これは雨が降るだけ降っても漏らん。昔は種をまいた」(奄美大島・清水) A4「シュロは荷ない籠の紐を作りましたですね。ただシュロはあまりみなかったですが」(奄 美大島・蘇刈) A5「シュロはツグと言います。縄や蓑、細引きにして、いろいろな使い方がありました」(奄 美大島・摺勝) A6「ツゥグ(シュロ)は小さいものがあるでしょう。初めは繊維が短い。だからきれいにけ ずらんばいかん。そうしておいておくと繊維が長くなる。葉の付け根のところを鎌で切って、 皮をとって、もんで広げてそこから繊維を引き抜いてなうわけ。それをやりよった。昔はロー プもないし、牛の綱もツゥグ使ったわけ。ツゥグはテル(背負い籠)の紐、それと牛の綱」(加 計呂麻島) A7「シュロの縄は特に上等でした。縄を作ったり、蓑を作ったり」(徳之島・犬田布) A8「シュロの皮をむいて、ツバキ油を搾るときの袋を作りました。皮を二重に重ねて、その 中にツバキの種を入れて、松の木に穴を掘って、そこに袋を入れて絞ります。シュロの皮だと、 こうしても破れないんです。(中略)背負い籠の紐もシュロの縄で作りました」(徳之島・花徳) A9「ここいらで使っていたのはシュロです。シュロの皮をはいで縄をないました。これは水 に強くてめったに腐りません」(沖縄島・仲村渠) A10「縄を作る材料には、ほかにシュロとかもありました。(中略)シュロも水に強いですから。 ただ、このあたりはユーナ(オオハマボウ)を使うことが一番多かったです。シュロはそんな にはありませんでしたから。それこそ金持ちの人の蓑はシュロでしたが、金のない人の蓑はワ ラだったように」(沖縄島・小谷) A11「シュロは相当ありました。屋敷の外回りはシュロ……チグといいますが、これが植え てありました。ただし、屋敷の中に植えるのはよくないといっていたのですが。家々の半分ぐ らいには、チグが植えられていたのではないでしょうか。(中略)ハチジナという、女性が頭に 載せて荷物を運ぶときに、頭の上に載せるわっかのようなものや、馬の腹帯はチグで作りました」 (沖縄島・底仁屋) A12「奥では各家庭にシュロを植えておった」「シュロの繊維はスルナーといいます。(牛の 鼻綱は)シュロで作ると、牛が痛いわけです(代わりに柔らかいアダンの気根の縄を使った)」(沖 縄島・奥) A13「シュロの皮はシュロガーと言いました。シュロがないときは、しょうがなくてクバ(ビ ロウ)の皮を使いました。昔はシュロは各家にあったものです。雨の日には年寄りがシュロの 皮で縄をなって。シュロの縄は水で腐らないんです。釣瓶のつるとか、もっことか、そういう のにも使いました」(久米島・仲地) A14「シュロはある家にはありました。(中略)昔はシュロで牛の鼻綱を作りました。シュロ
で作ると長持ちします。あと、井戸の釣瓶の紐もシュロで作りました。釣瓶の紐は水に入るから、 シュロがいいわけです。シュロで作れない人はワラを使いましたが、これは切れやすい」(石垣島・ 川平) A15「シュール(シュロ)は強い綱をなうために使います。蓑笠も作りました。夏の蓑は日 よけ用で丈を短くします。戦後までシュロを年寄りは使っていました。ビニールと同じように 強いから。(中略)昔は年寄りのいる家には 1 本ずつありました。貴重なものだったんです。1 年に何枚も葉がでないものですし。屋敷の石垣のそばに植えてありました」(石垣島・登野城) A16「シュロで細い縄を作って、クバ笠とかも作りました。シュロは各家庭に二つか三つはあっ て、枯れないようにきれいに皮をはいでいました」(波照間島) A17「シュロ?シュロというのはわかりません」(与那国島・祖納) 与那国島など、少数の例を除くと、琉球列島の里山において、シュロは重要な位置を占めて いた植物であり、多くの話者にとってもなじみが深い存在であったことがわかる。 ところが、現在、琉球列島の多くの里山からはシュロはほとんどその姿を消してしまっている。 それに関する聞き取りの内容は以下(B1 ~ B12)のようである。 B1「うちの畑のわきにも 10 本くらいあって、どうするかなぁ……と思っています。畑の邪 魔になるから切ろうかと思うが、まだ残しています」(種子島・太田) B2「もう、シュロの木もないですな。シュロは毎年、皮を剥がさんと、木がダメになります」 (屋久島・永田) B3「シュロは 1 本枯れたら、みんな枯れる木」(奄美大島・清水) B4「シュロは手入れをしないと、木の下に芽生えがでてこなくて絶えてしまいます」(奄美大 島・摺勝) B5「シュロはすっかり姿を消してしまいましたね」(徳之島・犬田布) B6「シュロは消えてしまいました。戦前は畑の周囲に植えてありましたよ。家の庭に植えた 人もいます」(沖縄島・仲村渠) B7「シュロも、今はほとんどありませんね。シュロは昔、種を配られたということも聞きま したが」(沖縄島・小谷) B8「シュロが無くなったのは復帰後じゃないかな」(沖縄島・奥) B9「シュロはタイワンカブトで枯れたと思うんです。(中略)おもしろいことに、山にはシュ ロが生えていません。シュロは外来植物なんですね」(久米島・仲地) B10「(シュロは)もう、今は見えませんね。シュロの役目が終わってしまったんですね」 B11「(シュロは)戦後しばらくありましたが、消えてしまった。(中略)シュール(シュロ) はある程度大きくなると倒れてしまうので年寄りが苗を植えていました」(石垣島・登野城) B12「シュロは私(注・昭和 18 年生まれ)が幼少のころは 2,3 軒にあったようですが、今 は見えないです」(石垣島・白保) 3.考察 シュロは日本の暖地に広く栽培され、九州南部に自生するものがあるとされている(佐竹ほ か 1989)。ただし、九州南部原産ではなく、中国原産であるとする文献もある(岩槻ほか監修
琉球列島におけるシュロ (Trachycarpus excelsus) の消失 1997)。シュロはすべてのヤシ科植物のなかで最も耐寒性がある(岩槻ほか監修 1997)と されているため、暖地に広く栽培栽培されるだけではなく、たとえば宮城県南三陸町周辺でも 普通に見ることができる。 シュロの利用は古く、室町時代からシュロの繊維を利用した縄が存在していたという(飛田 2004)。戦前、シュロ皮を生産していた都道府県は 40 に上る。また、昭和 25(1950)年の シュロ皮の全国生産量は 50 万貫(1875 トン)に上り、そのうち約半分が和歌山県で産出され た。シュロ皮の繊維は、「強靭で弾力性があり特に水中、塩水中において変化、腐朽しないこと は非常な強みで漁具、船具、網場用として他に代替を許さない優秀性をもって」いたためであ る(松本 1952)。和歌山県の中では紀北山間部がシュロの主生産地だったが、この地は漁業の 先進地域を間近にひかえていたため、シュロ繊維の大量産出を成し遂げていったという歴史が ある。和歌山では伝承によれば 13 世紀ごろからシュロの栽培が始まり、明治後半から第 2 次世 界大戦前にかけて縄やロープの需要が伸びた(村上 1999)。シュロ皮は苗を植栽後、10 ~ 12 年目ごろより収穫でき、1 本の木から標準では年に 6 ~ 8 枚の皮が収穫できるが、植栽されたシュ ロは 30 年~ 50 年ほどで絶えるとされる(松本 1952)。 琉球列島に目を向けてみると、聞き取りの中に、「昔、種を配られた」(B7)や、「年寄りが苗 を植えていた」(B11)にあったように、琉球王朝時代をはじめとし、明治期になってもしばら くはシュロの植栽が奨励されていたことが記録に残っている。 文久 3(1863)年~明治元(1868)年までの徳之島の島役人であった琉仲為が書いた日記「仲 為日記」には「シュロ、ソテツ、竹、イトバショウの植え付け届けを今月中に出すように仰渡 されていたが、植え付けができたにため日延べするように申し出あり云々(文久 3 年 9 月)」と いった大意の記述がみられることから、シュロ栽培は個人の采配ではなく、行政的に指導され ていたものであることがわかる(先田編 2015)。 また、明治期に記録された島尻(沖縄島・南部一帯)の間切(琉球王朝時代の行政)ごとの 原勝負(琉球王朝時代の 1814 年に始まったとされ、耕作方法や作物の生育状態、雑草の有無など、 農作業や農村の環境全般にわたり、優劣を競うもので、明治期になっても続けられた『大里村 史』)の項目にもシュロが取り上げられている(例えば若いシュロがきちんと手入れがなされて いるかどうかが勝負の項目の一つとされる)間切が多く、具体的な勝負の項目の記載がある 9 間切のうち 7 間切までにシュロに関する項目が存在している(小野編 1932)。救荒食料とし て重要視されていたソテツに関する原勝負の項目が 2 つの間切においてしか記載がみられなかっ たことと対比すると、シュロが当時いかに重要視されていたかということが推定できる(表3)。 このように重要視されていたシュロであるが、合成繊維の普及とともに、需要は急減し顧み られなくなることとなった。しかし、ほぼ時を同じくして、関東地方以西では、シュロは栽培 下から逸出し、里山周辺や都市部において、野生化した個体の生育が広く見られるようになった。 目黒の自然教育園の場合は、1954 年のフロラ調査のときに栽培種として初めてシュロは記載 されたが、1966 年になると園内に広く分布するようになり 1977 年ごろには、いたるところに みられるようになった(萩原 1977)。
表3 原勝負の項目にみるシュロと ソテツ 間切名 ソテツ シュロ 小禄 兼城 ○ 真壁 玉城 ○ 知念 ○ ○ 佐敷 ○ 大里 ○ 南風原 ○ ○ 真和志 ○ ○は言及があるもの (小野編 1932 より作成) 京都・下鴨神社における調査ではクスノキが優先している 9.08 ヘクタールの樹林においてみ られた木本実生 37 種 1502 本のうち、最も個体数が多かったのはシュロで、総計 639 本であっ た(田端 2007)。シュロの発芽実験の報告によれば、シュロの発芽率は 80%以上であり、シュ ロは発芽率が高く、実生の耐陰性も高いことが、栽培下からの逸出、野生化の要因のひとつで あろうとされる(萩原 1977)。 その一方、琉球列島においては、シュロの繊維利用が顧みられなくなると同時に、栽培下に おけるシュロの個体数が急減した。 シュロの個体数の減少については、移入種であるタイワンカブトの害によるものであるとい う認識を語ってくれた話者がいる(B9)。タイワンカブトは中国南部からインド、スリランカ、 台湾、フィリピン、インドネシア等に広く分布する甲虫であり、日本においては 1922 年に石垣 島で初めて見つかった。その後 1955 年には沖縄島でも見つかった。確かにタイワンカブトは ヤシ科植物を食害するが、タイワンカブトの食害がシュロでもみられるという文献は現在のと ころ見つけられないでいる。またシュロの減少要因がタイワンカブトであるとする意見に対し、 明確に否定する話者もいる(「シュロが減ったのは、タイワンカブトのせいではない」 沖縄島・ 奥)。シュロの減少にタイワンカブトが関係したかについてはさらに調べる必要がある。では、 タイワンカブトの食害以外で考えられる、シュロの減少とかかわる要因は何であろうか。 植栽したシュロは 50 年ほどで寿命を迎えるようであり(松本 1952,B11)、また琉球列島 の場合、管理が悪いと枯死する場合がある(B2)という。この点については奄美大島で園芸業 を営む前田芳之氏から「シュロは案外暑がる。チャボジュロなんかは奄美・沖縄では全く育た ない」というコメントをいただいた。どうやら琉球列島はシュロの生育にとっては適地とはい いがたく、里山のそれも人間の栽培管理下でなければ、個体群の維持が難しいものであるようだ。 実際、「山にシュロはない」(B9)という言葉通り、琉球列島の島々を巡っていても、本土のよ うに逸出、野生化している個体を見ることがない。 興味深いことに、鹿児島大学構内の植物園を散策してみたところ、シュロの成木と実生がみ られた。植物園を紹介した文献にあたると、どうやらもともとシュロは植栽木ではないものと
琉球列島におけるシュロ (Trachycarpus excelsus) の消失 思われた(『鹿児島大学植物園の樹木たち』)。つまり 1.13 ヘクタールの植物園内にみられた 3 本のシュロの成木も、33 本の実生(または若木)も、鳥によって種子が運ばれ、定着した個体 であるようだ。このように鹿児島ではシュロは栽培下から逸出、野生化することができている。 琉球列島において、北限の種子島などでも野生化した個体はみられないかどうかについては、 未確認である。また、このような逸出野生化が、外気温によって左右されるとしたら、それは 何度からなのかという点についても未詳である。ともあれ、本土の里山ではごく普通に見られ るシュロが、琉球列島の里山においては動態が異なっていることに着目したい。 現在琉球列島の里周辺の自然環境が、かつてのそれと大きく姿を変えている。今回の調査に よって、シュロのように、現在はほとんど姿を消してしまっている琉球列島の里山の構成種も あることもわかった。このような事例が存在することを念頭に、さらに琉球列島の里山の復元 を試みていく必要がある。 引用文献 いらぶの自然編集委員会編(1995)『いらぶの自然 植物編』伊良部町 岩槻邦男ほか監修(1997)『朝日百科 植物の世界 11 種子植物 単子葉類③裸子植物』朝日 新聞社 大里村史編集委員会(1982)『大里村史 通史編』大里村 小野武夫編(1932)『近世地方経済資料 第 9 巻』吉川弘文堂 鹿児島大学植物園の樹木たち編集委員会編(2004)『鹿児島大学植物園の樹木たち』鹿児島大学 阪本寧男(2007)「里山の民族生物学」丸山徳次・宮浦富安編『里山学のすすめ―<文化として の自然>再生に向けて』昭和堂,pp28-50 先田光演(2015)『奄美・徳之島の重要古文書 仲為日記』南方新社 佐竹義輔ほか編(1989)『日本の野生植物 木本Ⅱ』平凡社 飛田範夫(2004)「シュロ縄とワラビ縄 都市のおける植物文化―江戸時代の大阪 10」『グリー ン・エージ』31 巻 2 号,pp.46-49 田端敬三ほか(2007)「下鴨神社糺の森における林冠木の枯死とそれに伴う木本実生の侵入定着 過程」『日緑工誌』33 巻 1 号,pp.53-58 当山昌直(2010)「沖縄―沖縄島やんばる」野生生物保護学会編『野生生物保護の辞典』法政大 学出版局,pp.232-262 萩原信介(1977)「都市林におけるシュロとトウジュロの異常繁殖 Ⅰ 種子の散布と定着」『自 然教育園報告』7 号,pp.19-31 松本由友(1952)『林業普及シリーズ しゅろ』林野庁 村上弥生(1999)「ヤシ科シュロの利用―和歌山県紀北山地の事例を中心に―」『日本民俗学』 218 号,pp.92-104 盛口満(2011)「植物利用から見た琉球列島の里の自然」安渓遊地・当山昌直編『奄美沖縄環境 史資料集成』南方新社,pp335-362 盛口満(2015)「琉球列島の里の自然とソテツ利用」安渓貴子・当山昌直編『ソテツをみなおす 奄美・沖縄の蘇鉄文化誌』ボーダーインク,pp111-119 与那国町教育委員会(1995)『与那国の植物』与那国町教育委員会
The disappear of
Trachycarpus excelsus
in Ryukyu Archipelago
Mituru MORIGUCHI
Abstract
The change of Satoyama at Ryukyu Archipelago is considerably after 1960’s. This investigation is oral history of useful plants , that purpose is restoration of Satoyama.
Trachycarpus excelsus is very useful plant for fiber. T. excelsus is generally in main land, while it is disappear now at in Ryukyu Archipelago. However it was used all islands of Ryukyu Archipelago except Ikema Island etc.