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1964 年東京大会のごみ・し尿対策

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【 特 集: 東京オリンピック・パラリンピック競技大会の持続可能性対策と資源管理 】

1964 年東京大会のごみ・し尿対策

稲 村 光 郎 *

【要 旨】 東京都は戦災からの復興を狙いオリンピック招致を行った。その東京大会開催 (1964) の準 備にあたっては,「関連事業」として,オリンピックを第一目標とするものではない,長期計画のため の施策を選定し,巨費を投じた。その中で清掃局に係るいくつかの事業を,外国人の視線を意識した衛 生と美化の観点から「関連事業」に選定した。それは,①それまで都民から問題視されてきた不規則 で不衛生,かつ自動車交通や防火にも問題のあった収集体制を,可搬型の容器を利用した定期的な収集 方式に改めること,②東京都区部の下水道普及率が 20 % 台で,多くの家庭ではし尿汲取りが行われて いたため,便所の水洗化へ金銭的支援をすること,③道路や河川が汚れていたため,清掃を強化する ことであった。この間および翌年の全国的状況とも照らしあわせれば,大会開催は,東京都の現在にま でつながる廃棄物行政の始まりであった。 キーワード:オリンピック,復興,容器収集,定時収集

1.戦災復興とオリンピック

古橋廣之進は,長距離水泳界の世界記録をいく度か塗 り替え,敗戦国・日本の国民的ヒーローとなったが,オ リンピックでは全盛期の活躍をみることができなかった。 ベルリン大会 (1936) 以来,12 年ぶりに開催されたロ ンドン大会 (1948) に,日本の参加が許されなかったか らである。やむなく,わが国ではオリンピックと同日に 日本選手権大会を開催し,古橋がオリンピックの優勝記 録を上回る世界記録を更新することでせめてもの留飲を 下げた。こうした口惜しさと,これに遡る東京大会 (1940) の開催返上とを併せ,オリンピックには国民の 特別の思いがあった。東京都 (以下「都」と称す) が, わが国の戦勝国からの独立 (1952) を期に,開催へ名乗 りを上げたのには,そうした背景がある。 しかし,都としての狙いは別であろう。当時の東京は, 銀座をはじめ下町がことごとく焼け野原に化してからわ ずか 7 年しかたっておらず,特別区部の人口もまだ旧に 復していなかったが,一方で都は急激な人口増に応じた 教育や住宅等の諸課題に追われていた。すなわち戦災復 興の途上であって,その見通しは暗かった。敗戦直後の 限られた財政では,緊急の生活問題を解決するにも不足 であり,復興計画の鍵となる土地区画整理事業について も,「財政上の理由から,中止保留のやむなきに至り, 重大な挫折をした1)」有様であった。全国の多くの都市 も戦災に遭っていたことから,東京の復興だけが優先さ れるはずもなく,1951 年には国の予算措置を期待し, 「首都建設法」を議員立法で成立させたが,それも実効 性の乏しいものに終わった。そこで戦災復興のため,国 や民間の資金が東京に集中することを期待し,国際的イ ベントであるオリンピックに眼をつけたと考えられる。 越澤がいうように,「インフラ整備に対する財政の集中 投資が国レベルにおいても自治体レベルにおいてもイベ ント開催時に限って正当化され,許容化される2)」から である。 その目的は,1959 年に 1964 年オリンピック東京大会 (以後,「大会」と称す) の開催が決定し,1960 年から 「いよいよ激化する過大都市のゆきづまりを解消するた めに,当面の目標としてオリンピックを目指して,道路, 港湾,上・下水道,地下鉄などの産業基盤と都市施設基 盤に都財政の大半をつぎ込んだ3)」ことによって,「史 上空前の都市改造4)」として,果たされた。中でも, 「都のオリンピック準備事業は,競技場や選手村の建設 という直接的なものにとどまらず,道路,街路,高速道 路,公園,下水道,清掃,都市美化,道路標識,交通安 原稿受付 2020. 3. 31 * 稲村技術士事務所 連絡先:〒 191-0032 東京都日野市三沢 1-20-21 E-mail : [email protected]

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全施設などにわたる広範な関連事業を含むものであっ た5)」とする「関連事業」は,都が大会に備え特に重視 した事業であった。ちなみに主催者の都とは別に,総理 府では大会に係った費用の内,競技施設等整備費 157 億 円に対し,関連公共施設整備費 2,730 億円,輸送施設整 備費 6,150 億円と,関連施設整備への巨額な投資を試算 している6) これら関連事業が「準備事業」と称しながらも,「オ リンピックを第一目的とするものではなく,住民の福利 を最大の目的とするものであって,…大会以後も継続し て進められるもの7)」であったことは,なによりも都の 意図を物語っている。とはいえ,既に戦災から 20 年近 く経て区部人口も戦前戦時最大時のそれを 200 万人も超 えた 880 万人となり,高度経済成長のただ中にあったこ とからすれば,これら関連事業は,「戦災復興」という より,今後の発展を見据えた「東京都長期計画」の柱で ある都市施設整備のためであった8)。しかし,それら関 連事業の中で,清掃事業 (廃棄物処理事業) は,「オリ ンピックを第一目的」としない点では他の関連事業と同 じだが,施設整備を目的としていない点では大きく異な るものであった。

2.衛 生 と 美 化

それでは,大会準備に際し,なぜ清掃事業が「関連事 業」となったのか。その第 1 は衛生である。名演説とし て知られた平澤の大会招致演説 (1959) は,「東京は近 代都市の資格を充分に備えております。流行病の怖れは 無く,水質は良好」と述べている9)。招致演説では,諸 外国の東京での開催に対する疑問や懸念を払拭させねば ならないから,ここで「流行病」と,衛生問題を取りあ げたことは,当時のわが国の衛生状況が対外的にどのよ うにみられていたか,またそれをわが国自身がいかに自 覚していたことを物語っており,それは杞憂ではなかっ た。わが国の「流行病」の患者数は,腸チフスやパラチ フスこそ終戦直後の数 % 以下に抑えることに成功して いたが,赤痢については 1960 年代初頭になっても終戦 時とさして変わらず年間 9 万人を超え,開催時の 1964 年にも激減してはいたが,なお 5 万人を越えていた。さ らにポリオ (急性灰白髄炎) に至っては準備期間中の 1960〜1961 年に流行が社会問題化した。大会直前に, 大会衛生責任者が「伝染病発生時期を考えに入れ…もっ ともよい時季を選ぶ必要があった。…目下の東京におい ては赤痢以外さほど要心を要するものも見あたらない。 また東京の衛生状況は清掃,そ族昆虫駆除を励行すれば まず心配はない10)」と述べていたことが,当時の衛生環 境を物語っていた。すなわち平澤演説の「流行病の恐れ なし」は,関係者の期待であり,いわば国際的な公約と して現実をそれに近づけることを表明したとみるべきだ ろう。ちなみに「水質は良好」にも似たところがあり, 開催年の夏には東京の渇水が大きな社会問題となった。 さて,こうした経口伝染病に対し,わが国では永く罹 患者への対症療法を主としてきており,公衆衛生が重視 されるようになったのは戦後である。占領軍によって持 ちこまれた薬剤による有害昆虫対策は,占領終了後には 厚生省が主導し,地域住民に協力を呼びかける「蚊やハ エの駆除運動」として展開されていた。しかし,昭和 34 (1959) 年度「厚生白書」が,「蚊とハエの発生は依 然として後進国の域を脱せず,はなはだ嘆かわしい状態 である。これはわが国のふん尿やごみの処理方式に問題 があることに加えて」と述べたように,根本には市町村 のごみやし尿対策の遅れがあり,たとえば「(都内では) イエバエの発生源である厨芥 (生ごみ) が一日 240 トン は増え続け,…クロバエの発生源である汲取り便所が年 間 2 万 3 千戸は増え…11)」と,新聞は報じていた。とり わけ,し尿は都区内でも公共下水道の普及率が 20 % 台 で12),都区民の約 7 割のし尿処理は都の清掃部局および 農民の収集処理が担っており,その作業方法と処理が, 大会を迎える都には大きな課題となっていた。その当時, 厚生省の幹部が「(外国人観光客に) 恥ずかしいのはや はり…屎尿の問題である13)」と述べたような桶と柄杓を 使用した汲取作業こそ,次第に図 1 のようなバキューム カーによる作業に代わりつつあったが,それで便所が衛 生化されるものではなかった。 第 2 は美化である。これは 1962 年度からの図 2 のよ うな知事を先頭とする「首都美化運動」の展開に代表さ れるが,国でも同年に「国土をきれいにする運動」の衆 議院決議がなされた。実際に東京の街は汚れており,ご 出典:東京都清掃局「清掃事業のあゆみ」(1977) 図 1 バキュームカーによるし尿汲取

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みの不法投棄によって,1959 年度の都内河川清掃ごみ 量は 1 万 ton を,また道路や空き地等への投棄量は 3 千 ton を超え,その量が減る状況ではなかった。61 年から は,歴史を誇ってきた隅田川の花火大会も川の汚れのた め中止された。川崎市の工藤庄八が「国際オリンピック が,くさいオリンピックの印象で終わらぬよう願う14) と述べたのも,皮肉とはいえなかった。 この時の首都美化運動は,都民へ公徳心の向上を訴え, その協力を得るための運動として展開されたが,石坂に よれば,そもそも「都市の美化」の概念は,返上した 1940 年東京大会の準備過程で新聞紙上に頻繁に現れる ようになったことが始まりで,当時の都市美協会や一部 商業組合連合がオリンピックにむけて都市美化運動に取 り組んだ,その特徴は「オリンピックを目的に来日する 外国人の視線を前提に据えている…都市の景観は文明国 としての尺度を表し,外国人に恥じることのない日本を 見せることが必要だ,という決まり文句が主張されてい く」ことだったという15)。さらに戦後も,その由来につ いて小野は 1954 年の「街をきれいにする運動」からの 連続性とともに,その際に招致運動中のオリンピックと の関連が強調されていたことを指摘している16)。こうし た経緯からもわかるように,1962 年度に始めた首都美 化運動も,大会に来日が期待された外国人の視線を意識 した運動であった。それは当時の都副知事で都政の実力 者であった鈴木 (後に知事) の「ごみの臭いやこぼれご みを外国の人に見せるのは恥ずかしい。そこで…容器収 集に切り替えた17)」との述懐でも推察できる。 すなわち,清掃事業が大会関連事業の対象となったの には,一般国民がまだ自由に海外渡航ができず,また外 国人の入国も少ない時代状況の中で,外国 ― といって も,この頃の認識からすればヨーロッパや米国 ― の諸 都市と比べ,東京は非衛生的で汚いとする,今日からみ れば過剰と思われるほどの引け目を感じていたことが あった。

3.オリンピックに備えた清掃関連事業

都の報告は,大会開催にあたり,当時は都が実施して いた 23 特別区の清掃事業の状況と,その「関連事業」 選定について,次のように述べている18) 「大会準備期の清掃局におけるオリンピック関連事業 の選定に当っては,大会への協力,(施設周辺等での) 清掃対策におけるように,オリンピックに直接関連して 事業を行なう,というのではなく,大会の東京招致決定 を機に,収集,運搬,処分の全面にわたる清掃事業の近 代化のための諸計画を強力におし進めることとし,その 諸計画のうち数項目を選んで,これを清掃局の関連事業 としたのである。 オリンピック関連事業計画は 1960 (昭和 35) 年度を 初年度として発足しているが,この計画の策定時におけ る清掃局の事業はいまだその近代化への第一歩を踏み出 しはじめたという段階にあった。ごみ処理作業において も,路上のごみ箱から収集が行なわれており,伝統的に 採用されていた人力による手車収集から収集用自動車に よる収集方式への切替えもその計画進行中にあり,また, 新しい清掃工場も一カ所建設されているに過ぎなかった。 一方,わが国の都市清掃事業を特色づけている糞尿処理 作業においても,東京都においてはごみ処理作業の場合 と同様に収集自動車 (バキュームカー) による収集方式 への切替え途上にあり,都内にはまだ,ハニーカーとの 異名さえとった肥桶車が往来する図がみられていたので ある」 そこで「事業の近代化のための諸施策を推進すること がそのままオリンピック大会に関連する清掃対策の効果 にも帰結する」とし,以下のア〜オの項目を関連事業と して選定した。 ア ごみ容器による定時収集作業の実施 この報告のとおり,そのころまでの都の清掃事業は戦 後の窮迫した財政も手伝い,近代化が遅れ,とりわけご み処理については国の関心も薄かった。しかし,1940 年代末には年 20 万 ton 程度であった東京区部の収集ご み量も,1958 年度には約 80 万 ton と戦前のピークに並 んだ。都では,その増加に応じ,報告中にもある「人力 による手車収集から収集用自動車による収集方式への切 替え」が,1958 年度から「機械化 5 か年計画」として 進められていた。しかし,それは単に,手車を自動車に 置き換えただけに過ぎず,都民からの「収集回数が少な い」などの不評は変わらなかった19) そのころの都の収集体制で特に問題視されたのは,ご 出典:東京都提供 図 2 知事の朝の掃除 (首都美化運動)

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み収集車の巡回が不定期になりがちなことであった。そ の収集は「かなり作業に融通性20)」があるとされたが, それは人員や資材に余裕がない中では成り行き次第とい うことであり,作業の実態は「集めやすい商店街を回る。 勢い一般家庭がなおざりに21)」され,「週によって月水 金のことも,火木土のこともあり,前もって知らせてく れない。一応,午前中となっているが,午後になること もしばしば22)」等の批判を招いた。 ちなみに都では,厨芥と雑芥 (紙,草木等) との分別 収集をしていたが,それは昭和初期の深川塵芥工場にお いて排煙公害を起こし,その対策として実施されたもの であった。すなわち,厨芥は 1〜2 日ごとに作業員が手 車で地域を巡回し,振鈴を合図に各家庭から持ち寄るこ とになっており,手車が自動車になってからは振鈴に代 わりスピーカーからのオルゴールとなったが,その収集 形態は図 3 のように変わらず,また不規則なため,各家 庭ではその合図に気を使っていた。また雑芥は各家庭の 前に定置されたごみ箱 (木製またはコンクリート製) 中 のそれを 3〜6 日ごとに収集することになっており,そ の作業は作業員が腰をかがめ手づかみで回収するもので あった。といっても,1958 年度の焼却率は約 7 % にと どまり,厨芥を対象とする養豚飼料やコンポスト化も同 程度でごみの大半は埋め立てられていたから,職員や都 民に分別収集の意義や戦前の経緯は忘れられたとしても 不思議はなかった。雑芥を対象とするごみ箱へも無思慮 に厨芥が投入され,それが盛夏であれば「ごみ箱からは ウジ虫がはい出し,ハエは黒山23)」となることも珍しく なく,それも批判された。 ごみ箱には,こうしたハエやネズミの温床としてだけ でなく,それへの放火事件が頻繁に続出していたことも あり,さらに 1960 年 12 月には「道路交通法」が施行さ れることとなり,警視庁から道路状況によっては「ごみ 箱が路上に置けなくなる」との警告がなされていた。美 観上からも「(東京オリンピックを数年後に控えている のに,外観上は) 相変らず24)」といわれた (図 4)。 そこでこうした批判に応え,実施されたのが持ち運び の容易な容器を利用した定時定点収集で,かつ厨芥と雑 芥とを一括して排出させる混合収集であった。かねて都 では 1958 年開催のアジア大会時に,銀座通りで「ゴミ 箱追放運動」を行い,ごみ箱に代わる容器の斡旋を行う などした先行事例があり,1960 年には,容器収集が杉 並区等,住宅地に拡げたモデル地区で,定時収集とセッ ト化し試行された。この試行が非常に好成績なため「自 信を持てたので,翌 1961 年度を初年度とする 3 カ年計 画で 23 区全域でこの制度を実施する方針を決定した25) のである。また建設省も 1962 年夏には通達を出し,路 上に常駐したごみ箱の撤去について清掃部局と協議に入 ることを指示している26) 容器収集そのものは,欧米では古くから行われ,わが 国でも知られてはいたが,金属製であったため,「あん なのを日本で置いていたら,持って行かれてしまうので はないか27)」との懸念もあり,普及することはなかった。 しかし,新たに登場したプラスチック容器は比較的安価 で軽量,きれいだとして歓迎された。なお厳密にいえば, 当時の都広報は「容器は 3〜4 日分のゴミを入れられる もので蓋がきちんとでき,軽くて丈夫で持ち運びのでき るものならなんでも結構です。ごみが容器に入りきらな いときはビニール袋に入れて,きめられた時に,容器と いっしょに出してください28)」とし,容器の材質等は指 定していない。しかし,プラスチック容器メーカーがオ リンピックと関係づけた広告を出すなど29),大会がこの 容器定時収集の計画推進に大きな雰囲気作りを果たし, 都清掃局が取り組んだ関連事業中,もっとも強い印象を 与えた (図 5)。 イ 水洗便所の普及助成 出典:町を清潔にする運動推進本部「ごみ 清掃革命は始 まっている」六月社 (1964) 図 3 収集車に生ごみを持ち寄る 出典:町を清潔にする運動推進本部「ごみ 清掃革命は始 まっている」六月社 (1964) 図 4 ごみ箱の並ぶ風景

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ウ し尿浄化槽設置資金の貸付 ともに便所の水洗化が目的である。イは,下水道普及 区域において水洗化が実施されていない便所に対し改造 資金を助成する制度で,1949 年度から継続して行われ, 1959 年度と 1963 年度に増額して水洗便所の促進を図っ た。またウは,下水道が敷設されない地域の世帯に対し, その汲取便所の水洗化を促進するとして計画され,1960 年度を初年度として発足し,1964 年度まで実施された。 この両者には併せて 11 億円強が都の「大会関連事業 費」として見込まれた。「大会関連事業費」の定義はあ いまいだが,清掃局のそれは総額 17 億円弱と見込まれ ていたから30),その 2/3 に当たる。上記の容器によるご みの定時収集作業の開始は,数 10 億円を要したが†,表 向きの「大会関連事業費」としては 1 億円強を見込んで いたにすぎず,この便所水洗化への多額の事業費は,大 会を迎える都が便所の水洗化を大きな悲願としていたこ との表れである。そのことは,都が大会関連事業のうち で「とくに重要なものは,道路建設と下水道建設31)」と 下水道の普及を急いだことでも明らかだが,実際には大 会開催時になっても「その普及率は区部面積の約 23 % にすぎない32)」状態であった。またウの浄化槽設置資金 の貸付事業は未普及地域のためのものだが,区部全域の 下水道完備の目標を 1973 年度末としていたから限時的 な施策であり,大会翌年度には廃止された。ちなみに, この時期の都のし尿処理は,主に「海洋投入 (50 %) に頼っている33)」現状だったが,新たなし尿処理施設を 区部に計画することはなかった。すなわち,清掃事業と してのし尿対策は暫定的なものとみなされ,大会にあ たっても,開催期間中には競技場等の施設周辺で収集作 業を避けるなどの弥縫策にとどまった。 エ 道路清掃作業の強化 オ 河川清掃作業の強化 道路や河川の汚れや不法投棄については,既に述べた。 都では,清掃局が主な都道や都知事管理の主要河川の清 掃を行ってきたが,道路清掃には人力による作業と機械 力 (ロード・スイーパー) による作業があり,後者は大 会準備の強化策として,1961 年度から導入され,当初 の 2 台から大会開催時には 10 台となった。1964 年度で 前者のごみ量は日平均約 200 ton,後者は日平均約 40 ton であった。また河川清掃は,都内 32 河川の浮遊ご みを 16 隻の船で行い,1964 年度のごみ量は日平均約 20 ton であった。これも図 6 のような手作業であったが, 同じく強化策として 1961 年度から 1964 年にかけ航行し ながらごみ回収のできる三隻の機械船が就航した。

4.ごみ処理行政のスタート

ごみ処理行政にとって,大会に向けた取り組みとされ た容器による定時定点収集システムは画期的であった。 振鈴やオルゴールを用いた古い収集方法が,路上を流す 物売りにも似て,音声を聞きつけ駆けつけた者にしか対 応しない,一方的で不定期になりがちなシステムであっ たのに対し,定期的かつ悉皆的な回収であったから,行 政サービスの質は大きく改善された。しかし,その実施 には資材の大幅増が必要で,効率性からみれば難があり, 高度経済成長下で都税収入が増収していたとはいえ,そ の財政措置に大会が大きな支援となったことは明らかで ある。それは,先述の鈴木の外国人の眼への意識を建前 として,当時は清掃局作業部長として容器定時収集の実 施に取り組んだ横田 (後に副知事) の「(都民の苦情に †東京都「清掃事業概要」(1962, 1963 年度) によれば,予算上 は両年度とも 10 億円以上の定時収集作業関連費用を見込んでい た 出典:東京都清掃局「清掃事業のあゆみ」(1977) 図 6 手作業による河川清掃 出典:東京都清掃局「清掃事業のあゆみ」(1977) 図 5 容器収集の風景

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対し定時収集の) 約束以外に方法はなかった34)」とする 現場の本音を,「関連事業」とみなすことで可能となっ た。 清掃事業のすべてがうまくいったわけではない。大会 関連施設として水路に蓋をするような高速道路の建設が 始まり,また可燃ごみの 1970 年全量焼却を目標とした 計画によって今後の埋立量が少なくなるとの机上の空論 もあって,ごみを海面埋立地に輸送するための自動車か ら舟への積換所の廃止が進んだ。その上,戦後の水路埋 立や地盤沈下も手伝い,江戸時代から輸送システムの根 幹で関東大震災後には強化もされた舟運は衰退し,それ に代わる道路容量の不足が,後の東京ゴミ戦争の要因の 一つとなった35)。また,先に述べた戦前の深川塵芥処理 工場の苦い歴史的経験が忘れられ,十分な技術的検討の なされないまま厨芥と雑芥との混合収集としたことで, 焼却施設が混合ごみに対応できず,公害問題や作業環境 の悪化をもたらした。その結果,特に大会直前に急ぎ建 設された 3 施設は 7〜9 年の短命で終わり,都の処理計 画を大幅に遅らせた上,都民に焼却施設は迷惑施設との 印象を後々まで強く与えた。 わが国の廃棄物行政の動向でいえば,この間に焼却施 設への国庫補助金が開始されるようになり,また大会の 翌 1965 年には「清掃法」が改正され,国としても戦後 ながく清掃行政の中心となっていたし尿問題に一区切り をつけた格好となった。一方,同年には東京で夢の島の ハエ騒動 ― 埋立地で大量発生したハエが市街地へ飛来 した事件 ― が,世間をにぎわし,他方,大阪市では同 年にごみ発電を開始するなどし,処理処分に焦点が移り, 産業廃棄物問題も一部都市で顕在化した36)。そうした現 在につながる道程からみれば,都は大会への準備を通じ, そのスタート地点に立ったといえる。 参 考 文 献 1 ) 都政 20 年史編纂委員会:都民と都政の歩み 東京 20 年, 東京都,p. 196 (1965) 2 ) 越澤 明:東京都市計画物語,ちくま学芸文庫,p. 291 (2001) 3 ) 東京都政調査会:東京都の財政 昭和 39 年度版,p. 33, 47 (1964) 4 ) 都政 20 年史編纂委員会:都民と都政の歩み 東京 20 年, 東京都,p. 302 (1965) 5 ) 都政 20 年史編纂委員会:都民と都政の歩み 東京 20 年, 東京都,p. 300 (1965) 6 ) 文部省:オリンピック東京大会と政府機関等の協力, p. 19 (1965) 7 ) 東京都オリンピック準備局:オリンピック東京大会関 係資料,p. 39 (1964) 8 ) 都政 20 年史編纂委員会:都民と都政の歩み 東京 20 年, 東京都,p. 299 (1965) 9 ) 福島慎太郎編:国際社会の中の日本 平澤和重遺稿集, 日本放送協会,p. 146 (1980) 10) 小林 彰:オリンピックの医事衛生,日本公衛誌,第 11 巻,第 11 号,pp. 722-723 (1964) 11) 読売新聞:1960 年 7 月 2 日都民版 12) 都政 20 年史編纂委員会:都民と都政の歩み 東京 20 年, 東京都,p. 427 (1965) 13) 聖 成稔:昭和 36 年度を迎えて,都市清掃,第 47 巻, 第 54 号,p. 2 (1961) 14) 日 本 環 境 衛 生 協 会:ご み 処 理 の 理 論 と 実 際,p. 27 (1961) 15) 石坂友司:東京オリンピックのインパクト‐スポーツ 空間と都市空間の変容,坂上康博,高岡裕之編,幻の 東京オリンピックとその時代,青弓社,pp. 110-113 (2009) 16) 小野美里:東京都における『街をきれいにする運動』 (昭和 29 年) に関する基礎的考察,東京都公文書館調 査研究年報 Web 版 (第 4 号) p. 16 (2018) 17) 鈴木俊一:発刊によせて,僕は裏方 (横田政次著), ぎょうせい,p. 1 (1992) 18) 東京都:第 18 回オリンピック競技大会東京都報告書, p. 150 (1965) 19) 読売新聞:1961 年 7 月 7 日都内版 20) 東京清掃労働組合:東京清掃労働組合 20 年史,p. 23 (1970) 21) 横田政次:僕は裏方,ぎょうせい,p. 44 (1992) 22) 町を清潔にする運動推進本部:ごみ 清掃革命は始まっ ている,六月社,p. 55 (1964) 23) 読売新聞:1961 年 7 月 7 日都内版 24) 読売新聞:1960 年 3 月 16 日夕刊 25) 手塚正三:東京都清掃事業の現況とその問題点につい て,公衆衛生,第 28 巻,第 5 号,p. 1 (1964) 26) 道路局長:道発第 327 号 路上ごみ箱の撤去について (1962) 27) 岩井重久,海渕養之助,大橋文雄,久保 赳,早川 登, 内藤幸穂,河西 晃,後藤正宏:座談会「海外の汚物処 理」,資源,第 101 号,p. 5 (1961) 28) 東京都:都のお知らせ No. 97 (1963) 29) 朝日新聞:1964 年 3 月 3 日広告他 30) 東京都議会:オリンピック東京大会準備に関する各局 事業調,p. 40 (1961) 31) 都政 20 年史編纂委員会:都民と都政の歩み 東京 20 年, 東京都,p. 300 (1965) 32) 東京都オリンピック準備局:事業概要,p. 6 (1964) 33) 東京都オリンピック準備局:オリンピック東京大会関 係資料,p. 45 (1964) 34) 横田政次:僕は裏方,ぎょうせい,p. 111 (1992) 35) 石井明男:東京ごみ戦争はなぜ起こったのか,廃棄物 学会誌,第 17 巻,第 6 号,p. 30 (2006) 36) 松島 茂:工場廃棄物外洋投棄構想,都道府県展望,第 2 巻,第 77 号,p. 42 (1965)

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Waste Treatment Measures Initiated for the 1964 Olympic Tokyo Games

Mitsuo Inamura

Inamura Professional Engineering Office (20-21, Misawa 1 chome, Hinoshi, Tokyo 191-0032 Japan)

Abstract

The Tokyo Metropolitan Government (TMG) welcomed the Olympics Games with an aim to begin reconstruction following WWII devastation. In preparation for the Tokyo Games in 1964, TMG did not make the Olympics itself a primary goal, but opted for “related projects,” among which included long-term plans and heavy investments accordingly. TMG selected several projects under the Waste Management Bureau as “related projects” from the viewpoint of hygiene and beautification, taking into account the approval of foreign visitors.

These included : 1. Revision of the collection system from the irregular, unhygienic collection system that citizens considered to be a problem, not to mention traffic and fire prevention issues, to a regular collection system that utilized portable containers ; 2. Encouragement to introduce flush toilets as the sewer penetration rate in the Tokyo Metropolitan area remained at a 20% range and urine was being collected manually from many households ; and 3. Enhanced road and river clean-up schemes. One year after the Olympic Tokyo Games, incidents such as the fly outbreak at Yumenoshima offended the public, the launch of garbage-fueled power generation in Osaka City, and the problems that arose due to industrial waste in some cities, affected administrations when it came to the issue of waste management. Thus, the Olympic Tokyo Games actually created modern waste management systems that led us to our present-day situation. Keywords : Olympic Games, reconstruction, portable containers, regular collection system

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 冷凍庫及び冷蔵庫周辺の温度を適正な値に設定すること。

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