[資料] 神奈川県南足柄市での関東大震災の跡 −石碑に見る農村の復興−
全文
(2) §2. 南足柄地域の被害 現在の南足柄市は当時、4 村からなり, 足柄上 郡に属していた. 4 村のうち北足柄村は一部が現 在の山北町に属している. この地域を通る足柄街 道は小田原から箱根の外輪山のふもとを北上し南 足柄市大雄町から南足柄市中心部の関本を通り, さらに狩川に沿って進んで, 矢倉沢から足柄峠を 超えるルートで, 江戸時代以降に箱根路が整備さ れるまでは, 東海道の主要ルートであった. 震災 当時の町村で言えば, 小田原町から足柄村(現在は 小田原市)を通り, 岡本村, 南足柄村, 北足柄村の 順に現在の南足柄市を通過している. 足柄峠は北足 柄村の静岡県との境界に位置し, その坂を足柄坂と 呼んだ. 関東を坂東と言うのはその東という意味であ るらしい[山北町(2006)]. 一方鉄道は, 道了尊として有名な最乗寺への参詣 鉄道として, 1922(大正 11)年から大雄山線の建設が 始まっていたが, 震災で大きな被害を出した熱海線 の復旧工事などの影響を受けて完成は 1925(大正 14)年となった[武村(2008)]. ルートは小田原から酒 匂川の支流である狩川に沿って南足柄市の中心部. 表 1 南足柄地域の被害[諸井・武村(2002、2004)] Table 1 Summary of damages for old municipalities in Minami-Ashigara City area. 旧町村 岡本村 南足柄村 福澤村 北足柄村 合計. 世帯数 580 641 478 341 2040. 被害世帯数 全潰率. 全潰 焼失 248 2 60 75 53 436 2. (%) 42.76 9.36 15.69 15.54 21.37. 死者数 28 3 4 4 39. の関本までで, 現在, ほぼ平行して県道 74 号線が 走り, 南足柄地方への主要幹線道路となっている. 表 1 に諸井・武村(2002, 2004)を元に, 対象地域 の各町村の被害状況をまとめた. 全潰率は全ての町 村でおおむね 10%を越え, 揺れは震度 6 強に達して いたことが分かる. 特に南部の岡本村は全潰率が高 く, 震度 7 に達していたと評価される. 一方, 死者数 をみると, 南足柄市の地域全体では 39 名の死者が あり, そのうちの 28 名が岡本村での死者で, 和田河 原, 塚原, 沼田などを含み, 大半は住宅の倒潰によ って命を落としたものと思われる.. 図 1 南足柄市での調査地域 Fig.1 Map of the survey area in Minami-Ashigara City.. -2-.
(3) §3. 調査地点 調査範囲を図 1 に示す. 調査地点は合計 18 地 点で, 対象物は 23, そのうち一つは 1632(寛永 9)年の寛永小田原地震に関するものであり, 二つ は 1703(元禄 16)年の元禄地震によるものである. 調査結果は, 南部, 中部, 北部, 西部の 5 地域に 分けてまとめる. 碑文は改行位置も含めできる限り原文に忠実に 記載することにした. このため本文中で改行できな い場合にはその位置に/を入れ改行を表すように した. また南足柄市教育委員会の「南足柄石造 物」や岩本(2000)などに碑文が記載されている場 合, 誤りがあれば訂正し(注)として訂正箇所数を 記した. 3-1 南足柄市南部 旧岡本村に対応する地域を対象とする. (1) 浄土宗西念寺(南足柄市沼田) 大雄山線相模沼田駅西約 400m にある. 山門左 側に大きな地蔵像が建ち(図 2), 前に以下のよう に記した立札がある. 大正十二年九月一日十一時五十八分 大震災の時小田原御幸座にて 義弘地蔵 壓死の我が子の菩提の為 (以下二行墨が消えていて読めない) 義弘地蔵 (台座背面) 安藤政吉次男義弘/九才大正十二年九 月一日午前十一時/五十九分大震火災 ノ為 小田原町御/幸座ニテ焼死ス茲 ニ七回忌ヲ修スル/ニ當リ地蔵尊ヲ造 立シ靈位ノ追福ニ/資益スト云爾 昭和四乙巳杢/五月五日成就 小田原町/初音新地/菊本樓主 発願功徳人/安藤政吉/記一 (注)岩本(2000)の記載 4 カ所訂正 この地蔵像は, 安藤政吉の次男義弘 9 才が震災 で命を落としたのを悼み, 父親が七回忌に建立した ものである. 子供が亡くなった御幸座は現在の小田 原市浜町 1 丁目にあった芝居小屋で, 関東大震災 で倒壊・焼失した. その際の犠牲者の一人であろう. また, 父親は初音新地の菊本楼主とある. 初音新地 は現在の小田原市栄町付近にあたり当時遊廓があっ. 図 2 西念寺の義弘地蔵(上)と震災犠牲者集合位 牌(下) Fig.2 Giko-Jizo and the mortuary tablet for victims at Sainen-ji Temple in Numata. た地域である. 菊本楼は 6 軒あった妓楼の一つであ る[日本遊覧社(1930)]. 住職の話では, 地元沼田には安藤姓が多く, 建立 者の安藤政吉はおそらく沼田の出身者で寺の檀家 の一人であったとのこと. 寺には本堂に関東大震災 で亡くなった檀家 16 名の集合位牌「大正十二年九 月一日關東大震火災横難横死諸靈位」がある(図 2). 16 名の戒名のうちの1人が「震義善童子 小田原政 吉子」とあり, 本人のものと確認できる. 表 1 で指摘したように南足柄市域のうち岡本村で の被害が一番大きい. 義弘地蔵の場合のように他地 域で亡くなった人も含まれているとは言え, 集合位牌 はそのことを直接物語るものである. (2) 塚原路傍(南足柄市塚原) 大雄山線塚原駅南西約 1km(塚原 2845 番地). 駅から南足柄岡本福祉館(隣が消防署岡本分署)を 目指し, 福祉館に当ると右に折れる. すぐに岡本コミ. -3-.
(4) ュニティセンターの看板がある. そこを過ぎて 100m 位行くと道路右手の民家の隣に広場があり多くの石 碑が建っている. 途中道路を挟んだ左手側に岩原城 跡がある. 敷地には, 7 基の石碑が建ち, その中に大 震災記念碑がある(図 3).. 図 3 塚原の大震災記念碑 Fig.3 Memorial tower by the road side at Tsukahara erected for the soul of victims.. 大震災記念碑 (正面) 大正十/二年九/月一日/午前十/一時五/ 十八分(題額) 大震災紀念/䑓河原中 (注)岩本(2000)の記載1カ所訂正 元は台河原児童館(塚原 2780 番地)付近にあっ たものをこの地に移したという[岩本(2000)].. 図 4 天王院の檀信戮力碑 Fig.4 Memorial tower of the recovery for Tennoin Temple in Tsukada.. (3) 曹洞宗天王院(南足柄市塚原) 大雄山線塚原駅北西約 1km. 塚原駅から県道 74 号線に出て狩川に架かる駒千代橋の手前で川に沿 って上ると山下橋がある. そこを過ぎると「天王禅院 参道」と書かれた 1972(昭和 47)年建立の石碑があ り, それにしたがって塚原保育園の横の真っすぐな 道を進むと山門に出る. 山門の右横に大木があり, その前に碑が建っている(図 4). 檀信戮力碑 (正面) 肇國紀元二千六百年紀念 檀信戮力碑 (背面) (右半分) 曩ノ大正十二年九月一日午前十一時五十八分突如 トシテ起リシ所謂關東大地震ニ依リ當院ノ罹リタル災 /害ハ全伽藍中一物タモ存セサルヲ以テ何如ニ其 惨状ノ甚大ナリシカヲ想起スルニ足ル是地勢上止ム ヲ得/サルニ屬ス然シテ是レニ對シ檀信徒諸彦ヨリ 寄與セラレシ深厚ナル同情ト喜捨セラレシ巨額ナル 浄財ト/ハ唯感激ノ外言辞ノ以テ顯ス可キ何物ヲモ 有セサルナリ時恰モ肇國紀元二千六百年ナル最モ 意義深キ佳/節ヲ迎フルニ膺リ豫想以上ノ復興ヲ大 成シ得タルハ一ニ是諸彦各位ノ淳真ナル戮力ノ結昌 ニ外ナラス而/シテ今茲ニ勒スル所ハ但事業ノ大綱 數項目ノミニ止マル然シテ尚各人箇々ニ亘レル事蹟 ハ當院須要ノ寺/誌ニ載録シ永遠ニ至寶トシテ傳ヘ ント期ス嗚呼許樣廣大ナル戮力ノ功徳ハ各位カ始祖 先考ノ冥福ヲ資助/シテ餘リアリ更ニ復各位カ家門ノ 繁榮ト桂子蘭孫ノ隆昌トヲ祈念シテ息マス 至禱至禱 (左半分:上段) 本堂及諸堂 大正十三年十二月起工昭和二年十月落成 昭和三年八月十五日認可 道路及石垣 大正十三年新旧道路開設復興 同 十四年秋石垣復旧及竣成 水路及隧道 大正十三年初夏竣功 耕地整理組合事業 河添路新開 大正十三年秋着工同十四年春開通 山下部總員主トシテ奉仕 山林植樹 大正十五年春及昭和二年春ニ至ル 観音平五千百十六番地山下部員奉仕 (左半分:下段) 飲用水堀鑿 昭和十二年四月着手 同年六月噴出. -4-.
(5) 石垣新工事. 昭和十五年二月起工 同年三月完成 天王社編入 昭和十五年三月三十日 境内堂宇祭祠許可 紀念碑建設 昭和十五年五月大吉祥日 本堂及諸堂 大正十三年十二月起工昭和二年十月落成 昭和三年八月十五日認可 道路及石垣 大正十三年新旧道路開設復興 同 十四年秋石垣復旧及竣成 水路及隧道 大正十三年初夏竣功 耕地整理組合事業 河添路新開 大正十三年秋着工同十四年春開通 山下部總員主トシテ奉仕 山林植樹 大正十五年春及昭和二年春ニ至ル 観音平五千百十六番地山下部員奉仕 (左半分:下段) 飲用水堀鑿 昭和十二年四月着手 同年六月噴出 石垣新工事 昭和十五年二月起工 同年三月完成 天王社編入 昭和十五年三月三十日 境内堂宇祭祠許可 紀念碑建設 昭和十五年五月大吉祥日 (注)「南足柄石造物」(四)の記載 19 カ所訂正 17 年もの歳月をかけて, 正に「戮力協心」檀信徒 全員が力を結集し一致協力して復興に当った様子が よく分かる. 事業歴がこれほど明確に書かれている復 興碑も珍しい. 塚原保育園の横から山下橋に通じる 道は, 碑文の「河添路新開 大正十三年秋着工十四 年春開通 山下部総員主トシテ奉仕」に対応するとの ことである[岩本(2000)]. (4) 塚原大神宮(南足柄市塚原) 大雄山線塚原駅西約 1.5km. 天王院を出て日向 公民館(塚原 3543 番地)の前を通り天王院の西側の 坂道を登ると富士ゼロックスの研修所がある. その坂 道を西方にさらに上ると周りが開け, 整備された塚原 大神宮の境内地がある. 塚原大神宮の社殿は境内 地の割には小型で, その左側に 3 つの石碑と一つの 石仏が同じ台座に載った石造物がある. 3 つの石碑 の内, 右側が 1919(大正 8)年建立の「社殿修繕馬 場改設記念」碑で, 左側が 1932(昭和 7)年建立の. 図 5 塚原大神宮の震災により死亡した馬を弔う馬 頭観世音塔(まん中奥の小さい石碑) Fig.5 Memorial tower for a killed horse by the earthquake at Tsukahara-Shrine. 足柄上郡畜産組合寄進の「馬頭観世音」塔である. その間奥の小さな馬頭観世音塔が, 刻まれた日付か ら震災によって命を落とした馬の慰霊碑であると思わ れる(図 5). 馬頭観世音塔 (正面) 大正十二年 馬頭観世音 九月一日 髙嶋初五郎 (注)岩本(2000)の記載通り. 「南足柄石造物」(四) の記載は不正確. 3-2 南足柄市中部 旧南足柄村に含まれる関本周辺と大雄町を対象と する. (1) 時宗龍福寺(南足柄市関本) 大雄山線大雄山駅北約 400mにある. 足柄街道を 駅から右手にゆくと竜福寺の交差点がある. 龍福寺 の境内, 本堂の右側にひときわ大きい石碑が建って いる(図 6). 下田隼人の碑 題額に下田隼人翁碑とあり, 正面には下田隼人の 行蹟が書かれている. また背面には「實成者」として 足柄上郡と足柄下郡の町村が名を連ねている. 下田 隼人については多くの文献があるが, 石碑の経緯を 要約すると以下のようになる[たとえば本多(1994)]. 1632 年(寛永 9)年に, 幕府老中であった稲葉正 勝が小田原城主として入府した. 入府の翌年に寛永 小田原地震が発生し, 小田原城下は壊滅的な被害. -5-.
(6) 図 7 関本小宮邸の馬頭観世音塔 Fig.7 Memorial tower for a killed horse by the earthquake at the house of Mr. Komiya in Sekimoto.. 図 6 龍福寺の下田隼人の碑 Fig.6 Memorial Tower for Hayato Shimoda at Ryufuku-ji Temple in Sekimoto. を受けた. 翌年に将軍家光の上洛の際に宿泊が予 定されていた小田原城も甚大な被害をこうむり, その 修復に莫大な費用を費やした. さらに城下の復興に も多額の出費が強いられ, これらが原因の一つとなっ て藩財政がひっ迫する. このため 2 代目正則は本年 貢とは別に麦の収穫に新たに年貢をかけようとした. これに対して, 関本の名主惣代の下田隼人は, 1660 (万治 3)年, 藩主稲葉正則の行列に直訴. 嘆願は 聞き届けられて, 麦への年貢は中止されたが, 隼人 はお上をも恐れない者であるとして, 入牢の上, 万治 3 年 12 月 23 日に死罪となり, 下田家は田畑屋敷没 収, 妻子は追放処分となった. この石碑は 1922(大 正 11)年に, 当時の南足柄小学校校長関野光之助 が中心となって子孫の下田政造らとともに下田隼人 の遺徳を偲んで建てたものである. 以上の経緯からこの石碑を寛永の小田原地震との 関連で見ることができる[温泉地学研究所「地震の石 碑」2012 復刻版]. また一方で, 1922(大正 11)年に 建立された碑は, 翌年の関東大震災でまわりの石垣 は崩れたが台石と仙台石の石碑は崩れなかったと言 われており[向山(1983)], 石碑の巨大さを目の当たり にすると, 信じられないような震災に関するエピソード と捉えることもできる. (2) 小宮正昭邸内(南足柄市関本) 大雄山駅北西約 400m(関本 957 番地)に位置す る. 竜福寺の交差点で足柄街道を西へ進むと, 一つ 目の交差点で県道 74 号線と別れる. そこを過ぎると 市役所入口のバス停がある. 左側の 3 軒目, 奥まっ たところに小宮正昭邸がある. その裏に回ると庭に赤. い鳥居がある. 稲荷神社の祠の右隣に複数の小さな 石碑があり, そのうちの一つに馬頭観世音と書かれ ている(図 7). 馬頭観世音塔 (正面) 大正十二年九月一日 馬頭観世音 小宮菊次郎建之 塚原大神宮のものと同様に, 日付から震災で亡く なった馬の慰霊碑だと思われる. (3) 飯沢路傍(南足柄市飯沢) 伊豆箱根バス参道一丁目で下車し, 大雄川に架 かる大真橋の西詰脇の小道を川の下流方向に進む. 100m ほどゆくと大雄川が上総川に合流する. 上総 川に面して高橋工務店(飯沢 510)があり, 川に面す るブロック塀にぴたりと接して石碑が建っている (図 8). 恵徳泉の碑 (正面) 有志者建之/恵徳泉/大正十三年九月總持石禪書 (背面)現在はブロック塀で読めないので, 「南足柄 石造物」(七)に書かれているままを記載する. 大正十二年九月一日大震災記念碑 飯沢浦山用水涸渇ス幸現湧水ノ為ノ渇ヲ凌ク地主勝 田喜一氏へ報恩ノ意ヲ表スル 飯沢浦山有志建設 高橋工務店の前には勝田茂行政書士事務所があ り, そこを訪ねて兄の勝田昭二氏を紹介していただき お話を伺った. 石碑は震災で用水が枯渇し, 困った. -6-.
(7) 人々が勝田喜一氏所有の土地の湧水で渇きを凌い だことに対する感謝の碑である. 関東大震災の時に 人々を救った湧水があったところは, 現在の高橋工 務店の敷地内で, 1981(昭和 56)年に工務店が移転 してくるまではワサビ田があったとのことである.. 典座呵々大笑シテ答フ此ハ是當寺ノ總門也吏呶々 シ/テ止マズ典座言ク吾國未ダ屋根ヲ葺キタル鳥居 アルヲ聴カズ是總門タル所以ナリ吏白眼シテ去リ遂 ニ事ナキヲ得タリ世人傳テ大雄山ノ/華表門ト称ス大 正十二年九月関東大震災ニ遭テ顚覆破壊セリ本町 思案観音堂修繕ニ際シ其ノ舊時ノ一部ヲ保存シ以テ 後鍳トナス 維持昭和十六巳年九月當山獨住第十一世觀法誌之 (注)大変読みにくく特に後半部はほとんど読めない ところもあり, 「南足柄石造物」(七)を参照しながら推 定した.. 図 8 飯沢の高橋工務店脇に建つ恵徳泉の碑 Fig.8 Memorial tower of Keitoku Fountain in Iizawa (4) 参道三丁目路傍(南足柄市大雄町) 伊豆箱根バス参道一丁目の前に華綾幼稚園があ る. そこから坂道を仁王門方向へ上ると 300m ほどで 左側に南足柄消防団第 4 分団第 2 部の小屋がある. その上に小さな公園があり石碑とともに鳥居の残欠に よる記念碑が 2 つ建っている(図 9). 一つには「整理 改修燈籠移轉」と刻まれ. もう一つが「大雄山華表門 舊址」と書かれた記念碑で, どちらも大震災で折れた 鳥居の残欠を用いて 1941(昭和 16)年に建立された ものである. 鳥居の由来については後者に詳しく記 載されている. 華表門旧址碑 (正面) 大雄山華表門舊址/大雄山主観法書 (右面)奉 (左面)大坂炭屋町/石工 みかげや新三郎 (背面) 抑モ大鳥居一基元治元年九月大阪炭屋町石工みか げや新三郎明尊 薩埵ノ靈感ヲ得テ寄附スル處也海 路小田原ノ濱ニ着シ移テ茲ニ建設/セリ 明治維新 廢佛毀釋ノ聲幕々タル時當寺某典座潜ニ鳥居ノ頂 上ニ板屋根ヲ蓋フテ沈黙待機セリ果シテ明治三年吏 員出張シ神社以外/ニ鳥居ヲ許サズ速ニ除去セヨト 命ズ典座言ク當寺ニ鳥居ナシ吏指シテ曰ク是何物ゾ. 図 9 参道三丁目にある華表門旧址碑(右側の大き い方) Fig. 9 Memorial Tower of Kahyo Gate at Sando 3-chome. 神仏分離政策が取られた明治の初めころに, 寺院 から鳥居を撤去させようとする官吏に対して, 鳥居に 板屋根をかけてあくまで総門だと言い張って鳥居を 守った典座(てんぞ)の話が書かれている. この鳥居 は 1864(元治元)年に, 大坂炭屋町の石工であった みかげや新三郎が薩埵(道了尊)の霊感を得て奉納 したものである. 典座とは禅宗寺院で修行僧の食事 や, 仏や祖師への供膳を司る役で修行経験が深く篤 実温厚な人物が任命される場合が多いという. その 様な人が必死で守った鳥居が震災で倒れてしまい, 思案の末にエピソードを刻んで記念碑にしたと書か れている. なお, 左面, 右面に刻まれている文字は 元の鳥居に刻まれていたものである. (5) 曹洞宗最乗寺道了尊境内(南足柄市大雄町) 伊豆箱根バス道了尊で下車, 石段を登り三門を潜 ると鬱蒼と茂る杉木立の中に境内が広がっている.. -7-.
(8) 図 10 最乗寺道了尊境内の地図[平塚市博物館(2011)に加筆] Fig.10 Map of the area of Saijo-ji Temple 最乗寺の歴史を簡単に述べると以下のようになる[平 塚市博物館(2011)]. 最乗寺の開山である了庵慧明 禅師は, 最初曽我の里に竺土庵を結んだ(竺土庵は 小田原市上曽我にある現在の竺度寺のこと). ある日 大鷲の啓示を受けて, 1394(応永元)年に足柄の山 中に大雄山最乗寺を建立したという. その際, 了庵 禅師の下に参じてその大事業を成し遂げたのが修験 道の満位の行者であった道了大薩埵である. そのた め, 道了大薩埵は大雄山最乗寺の守護として御真殿 にご本尊として祀られている. 最乗寺が通称道了尊と 言われる由縁である. また, 道了大薩埵は了庵禅師が遷化されたあと, 「以後山中にあって大雄山を護り多くの人々を利済 する」と五大誓願文を唱えて姿を変え, 火焔を背負い 右手に拄杖左手に綱を持ち白狐の背に立って, 天 地鳴動して山中に身をかくされたと伝えられている. このことから道了さんは, その死後天狗になったとい う言い伝えが広がり, 最乗寺境内には天狗にまつわ る寄進物がたくさん寄せられている. 図 10 に最乗寺の伽藍配置を示す. 20 番の三面大 黒殿前の広場にも天狗にまつわる石碑が建っている (図 11).. 図 11 三面大黒殿前広場にある八天狗再建碑と境 内のあちこちにある天狗像 Fig.11 Memorial tower for the recovery of Eight Tengu pictures in front of Sanmen-Daikoku Temple.. -8-.
(9) 八天狗再建碑 (正面) 八天狗 太郎坊/次郎坊/僧正坊/飯縄坊/伯耆坊/相模 坊/半僧坊/三尺坊(題額) (裏面) 大雄山八天狗/銅像は明治十/九年元開心感/ 應講の奉納に/して大震火災/に破損を受け/ しを今回各位/の喜捨の下に/復旧せし者也 寄附者芳名 岩瀬榮太郎(など 62 人の氏名と東京天眞講, 信榮講 元) 維持 昭和十二年五月吉日 發願人 別所覺太郎 (注)「南足柄石造物」(七)の記載 3 カ所訂正 境内にはあちこちに色々な姿をした天狗の銅像が 立っているが, 震災で傷んだこれらの像を再建したと いう記念碑である. 図 10 の地図を見ると, 本堂(9 番)など多くの伽藍 が集まるエリアから, 結界門(18 番)を潜ると右側に道 了大薩埵を祀る御真殿(17 番)への長い階段があり, 左側に三面大黒殿(20 番)を経由して奥の院に通じ る階段がある. 三面大黒殿までのくの字になった 2 つ の石段(玉垣)を石段 1, 2, 三面大黒殿から先の御真 殿のあるエリアまでのくの字になった石段(玉垣)を石 段 3, 4 とすると, それぞれに以下のような記載がある (左, 右は下から見た時の方向). 平塚復興講奉納石段 石段1 (11 段) (図 12) 左下石柱 (正面)平塚復興講 (内面)ドライブインはるみ仲ミヨ子. 図 12 三面大黒殿への階段(石段1) Fig.12 Stone steps 1st for Sanmen-Daikoku Temple.. 右下石柱. (正面)平塚復興講 (内面)パティオはるみ仲ミヨ子 左右側桁 (内面)初詣/大正十三年六月 講元平田忠心 左上石柱 (正面)平塚復興講 (内面)パティオはるみ仲ミヨ子 (背面)奉納 昭和五十三年八月吉日 仲ミヨ子 右上石柱(正面)平塚復興講 (内面)ドライブインはるみ仲ミヨ子 (背面)奉納 昭和五十三年八月吉日 仲ミヨ子 石段2 (13 段) 左下石柱 (正面)平塚詠歌講 (内面)昭和八年五月七日初参 大雄山平塚詠歌講/講元平田忠心 右下石柱 (正面)平塚復興講 (内面)大正十三年六月二十三日初参 大雄山平塚復興講/講元平田忠心 左側桁 (内面)昭和五十三年十一月二十五日 三面大黒殿参道敷石及 奥の院登山道玉垣奉納 大雄山/平塚復興講/平塚詠歌講々中一同 有限会社/小笠原工務店/平塚市 平田成夫(など 5 名)/平塚市 右側桁 (内面)昭和五十三年十一月二十五日 大雄山平塚復興講/講元平田忠心 役員 嶋本藤市(など 14 名) 大雄山平塚詠歌講/講元平田忠心 役員 岡本ミ子(など 7 名) 大雄山/平塚復興講/平塚詠歌講々一同 山口芙美恵(など 8 名) 左上石柱 (左下石柱と同じ) 右上石柱 (右下石柱と同じ) 石段3 (34 段) (図 13) 左下石柱 (正面)平塚詠歌講 (外面)平塚詠歌講/講元 平田忠心 昭和八年五月初参 右下石柱 (正面)平塚復興講 (外面)平塚復興講/講元 平田忠心 大正十三年六月初参 (手摺支柱に左右で約 200 余名の氏名を刻す) 石段4 (27 段) 左側桁 (内面)大雄山平塚復興講 大正十三年六月廿三日初参/世話人(5 名). -9-.
(10) 図 13 三面大黒殿と奥之院へ向かう階段(石段3) Fig.13 Sanmen-Daikoku Temple and stone steps 3rd for Okunoin Temple. 講元 平田忠心/役員 嶋本藤市(など 14 名) 昭和五十三年十月建設 (33 個人と竹田組・相模鉄工所) 講元 平田忠心/平塚復興講 平塚詠歌講昭和五十三年五月建設 平田光三(など平田姓の 6 名) 右側桁 (内面)大雄山平塚御詠歌講 昭和八年五月七日初参/世話人(8 名) 講元 平田忠心/役員 岡本ミ子(など 5 名) 昭和五十三年十一月八日建設(54 人の氏名) 左上石柱 (内面) 知客/單頭/副寺/副紀綱/後堂/紀綱/ 山主(各 1 名)/大雄山最乗寺獨住第十八世 (正面)平塚復興講 (外面) 代香/直歳/真殿司/知庫/札場主任/ 立願司/知殿(各 1 名) 昭和五十三年十一月八日 普山 右上石柱 (正面) 平塚御詠歌講 知客(しか)や直歳(しっすい)などは僧侶の役職名 である. 記載をみると, 平塚復興講と平塚御詠歌講 がいずれも 1978(昭和 53)年に奉納した石段で, そ れぞれ初参拝が 1924(大正 13)年 6 月と 1933(昭和 8)年 5 月とあり, 講元はいずれも平田忠心と記されて いる. 平塚市博物館(2011)によれば, 平田忠心は 1898 (明治 31)年平塚町平塚新宿(現・平塚市明石町)に 生まれた. 小間物商を営む家業の手伝いで少年時 代から自転車に乗っていた. 1914(大正 3)年 17 才 のとき, 非常にあらたかな神様であると近所の人たち. から聞いて, 大雄山最乗寺の道了尊に自宅から自転 車で参拝した. 当時夢中になっていた自転車競技に ついて一流の選手にしていただきたいと願をかけ, 以後, 平塚から道了尊まで毎月自転車で参拝した. その甲斐あって出る競技のすべてに優勝できるよう になる. 1915(大正 4)年, 道了尊登山一周年を記念 して自転車店を開業, 同好の士を募り, 大雄山自転 車遠乗参拝団を組織した. 1920(大正 9)年には貸切 自動車業を開業する. 1923(大正 12)年 9 月 1 日, 道了尊へ参拝する客 を車に乗せて松田町にさしかかったとき, 大地震に遭 遇した. 幸い本人にも客にも怪我はなく, 道了様に救 っていただいたという感謝の念からさらに信仰を強く した. 一方, 武村・篠原(2010)でも述べたように平塚町 は震災で大打撃を受けた. 荒廃した人々の物心両面 を道了様のお力で復興しようと思い立ち, 1924(大正 13)年 6 月に 136 名の商店主で平塚復興講を開講, さらに 1933(昭和 8)年 5 月に平塚御詠歌講を開講し た. 氏は 1988(昭和 63)年に 89 才で亡くなるまで生 涯にわたって両講の講元を務め, その遺志を継いで 両講は今も続いているという. つまり, 震災復興を願って設立された道了講が震 災後 55 年を経て奉納したのが上記 4 つの石段(玉 垣)である. 一方, 三門を潜って大雄川に沿って参道を登ると 最初の橋が相生橋で, それを渡ると坐禅石と呼ばれ る石がある(図 10 参照). その横の杉の大木の下に いくつかの奉納碑がある. その中の一つが平塚平和 講の石碑である(図 14).. - 10 -. 図 14 相生橋近くにある相生橋新設記念碑 Fig.14 Memorial tower of newly constructed Aioi-Bridge in 1925 at Saijo-ji Temple..
(11) 相生橋新設記念碑 (正面) 奉納(題額) 大正十四年八月 相生橋新設紀念 平塚町平和講 平塚町平和講は平塚にあったもう一つの道了講で, こちらは震災の前年に石井和一によって開講したも のである. 平塚の「平」と和一の「和」を取って命名さ れたもので, 現在は活動していない[平塚市博物館 (2011)]. 上記の記念碑は相生橋を奉納したときのも のである. 震災との関連は明確ではないが, 奉納の 時期から考えて震災復興への願いと感謝の意味が込 められているのではないかと思われる. なお, 現在の橋はコンクリート製で, 「寄進株式会 社竹田組」と記されている. まだ新しく, 震災直後に 奉納された旧橋を架け替えたものであろう. 竹田組は 石段 4 にも名前が刻まれている. 3-3 南足柄市北部 旧福沢村に対応する地域を対象とする. (1) 曹洞宗大松寺(南足柄市竹松) 大雄山駅北東約 1.5km にある. 大雄山駅から竜 福寺の交差点を過ぎて県道 78 号線に沿ってゆくと隧 道があり, それを過ぎると市場の信号がある. さらに 進み竹松の信号との中間を南へ入る. 寺は県道 78 号に背を向けて建っている. 山門の左側に駐車場が あり, その南西隅に頌徳碑がある(図 15).. 図 15 大松寺にある三橋源之助頌徳碑 Fig.15 Memorial Tower for Gennosuke Mihashi in Daisho-ji Temple in Takematsu.. 三橋源之助頌徳碑 (正面) 頌徳(題額) 三橋源之助氏ハ明治十八年四月四日綱五郎三男ト シテ福澤村竹松ニ生レ開/成小學校卒業後ハ農業 ニ従事スルノ傍ラ大松寺ニ於テ山口法山及ビ貞孝両 /氏ニ就キ漢學英語ヲ修ム氏早クヨリ盡忠報國ノ志 アリ同三十八年海軍々人/ヲ志願シ佐世保海兵團 ニ入團ス其ノ成績抜群ニシテ大正十年兵曹長ニ累 進/シ勲六等瑞寶章ヲ授ケラル次イデ同十二年抜 擢セラレ兵學校ニ入學スベキ/内命ヲ受ケシニ偶々 同年九月一日關東大震災ニ遭ヒ郷土ノ惨状ヲ目撃ス ル/ヤ慨然トシテ之ガ復興ヲ決意スルト共ニ榮譽ア ル入學ヲ断念シ歸郷スルニ/及ビ専ラ之ガ復興復舊 ヲ圖リ産業組合設立ヲ急務トシ之ヲ村民ニ諮リ同志/ ヲ糾合シ同十三年有限責任福澤村信用販賣購買利 用組合ノ設立ヲ見タリ推/サレテ組合長ニ就任ス爾 来確固タル信念ヲ以テ農村ノ更生ハ産業組合ノ充/ 分ナル機能ニ俟タザルベカラズトシ機會アル毎ニ組 合精神ヲ説キテ息マズ/殆ンド寝食ヲ忘レ身命ヲ賭 シテ其ノ伸展ヲ期セシカバ幾何モナクシテ其ノ/基 礎ヲ固メ組合ノ順調ナル發達ヲ見本村ノ復興ト經濟ノ 更生トニ稗益シタ/ル功績偉大ナリ惜イ哉病魔ノ襲 フ處トナリ遠大ナル抱負ト絶大ナル經倫ヲ/有シ乍ラ 昭和六年六月二十八日四十七歳ヲ一期トシテ長逝 セラル惟フニ氏/ノ如キ人格髙潔志操堅固ニシテ而 モ愛郷ノ念ニ燃ヘタルノ士ハ稀ニ見ル所/ニシテ郷 土ノ誇リトナスベシ茲ニ其ノ美徳ヲ慕ヒ永ヘニ之ヲ顯 彰ス 昭和八年十月 保證責任福澤村信用販賣購買利用組合 (ワク外) 従四位/勲四等 草柳正治 縣屬 福田晃書 注)「南足柄石造物」(五)の記載 6 カ所訂正 三橋源之助は碑文にもあるように, 郷土福沢村の 震災復興を福沢村信用販売購買利用組合に託し, 村の復興と経済更生に尽力した人である. 同組合は 当時, 産業組合と呼ばれた組織で, 詳細は考察に譲 るがその役割は戦後, 足柄農業協同組合に引き継 がれた. (2) 怒田路傍(南足柄市怒田) 大雄山駅北約 1.8km. 県道 74 号線の切通しの交差 点(箱根登山バス足柄高校前)を左折し足柄高校の 前を洞川に沿ってゆくと, 道路が洞川と分かれる辺り. - 11 -.
(12) 図 16 怒田の路傍に建つ震災復旧記念碑 Fig.16 Memorial tower for the recovery from earthquake damages by the road side in Nuda.. に「秋羅の画廊と喫茶」の看板がある(その後ろが諸 星産業倉庫(怒田 1361 番地)). そこから坂道になり 50m 位上ると左手の道端に大きな石碑が建っている (怒田 2818 番地) (図 16). 震災復旧記念碑 (正面) 震災復舊記念(題額) 神奈川縣知事従四位勲三等 池田宏題額 時維大正十二年九月一日午前十一時五十八分異様 ノ鳴動ト共ニ大震災突發シテ關東地方ノ悲惨名状ス ベカラズ特ニ當/地方ノ被害激甚ヲ極メ家屋ノ倒潰 十八戸死者一名ヲ出シ山岳ノ崩壊耕地ノ亀裂破損 用水路ノ潰滅交通ノ杜絶等殆ド舊/態ヲ存セズ住民 ハ居所ヲ失ヒ飢渇ニ迫リ其惨状言語ニ絶ス部落民ハ 之レガ前後ノ處置ニ對シ協心同力獻身ノ勇ヲ鼓シ/ 努力スルモ救急奔走ノ際容易ニ之レガ復興ノ方法ヲ 講ズル能ハザリキ是ニ於テ耕地ノ所有者相謀リテ震 災復舊耕地整/理組合ヲ組織シ其筋ニ認可ヲ申請 シタルニ大正十四年九月認可ヲ得組合員六十七名 整理ノ区域ハ字八幡平水神洞西洞/蛇ケ尾中尾幕 坪其他頗ル擴汎ニ亘リ耕地面積二十二町一段歩余 ニシテ本縣農林技師佐藤吉太郎氏及農林技手福島 正廣同/出縄三好ノ両氏ニ設計并ニ工事ノ監督ヲ委 嘱シ仝年十一月着工爾来晴雨ヲ論ゼズ毎日數十人 ヲ督シ翌年三月無事完成/ヲ見タリ工事ノ主要ナル モノハ道路堤塘水路溝畔橋梁護岸堰堤及畦畔地均 等ノ復舊ニシテ就中十三個所ノ堰堤十八箇/所ノ橋 梁ハ頗ル完全ナルモノニシテ用水交通上多大ノ至便 ヲ與フルヲ得タリ而シテ第二期工事トシテ字原及筆付 ノ急/坂改修ヲ計劃シ昭和二年二月着工四月完成. ス由來右二個所ハ各部落最重要ナル道路ナルニモ 拘ラズ急坂頗ル險悪ニシ/テ住民ノ困苦多年ナリシ ガ改修ノ結果新面目ヲ施シ其利スル處ヤ多大ナルモ ノタルベシ工費ハ第一期六万二千圓餘第/二期一 万一千圓余合計七万三千圓余ニシテ縣ノ補助金一 万六千五百三十二圓低利資金ノ供給七千圓其残額 ハ開墾助成/法ノ適用ニヨル交付金四千三百余圓ト 各自ノ醵出トヲ以テ本事業ヲ完結ス要スルニ該事業ノ 結果交通上農耕上物資ノ/搬出搬入上ニ一新紀元 ヲ劃シタルハ實ニ組合役員ノ努力組合員及字民ノ犠 牲的援助工事請負諸氏ノ精励ト相俟ツテ官/ノ指導 監督其宜シキヲ得タル賜ト謂フベシ爰ニ斯碑ヲ建テ 震災及工事ノ實績ヲ永遠ニ記念ス 昭和二年四月十五日 従四位勲四等 農學士 山崎延吉 撰文 勲八等 玉寶山 衲蓮田優 鎫書 (背面) (1 段目) 監督官 神奈川縣知事 池田宏 農務課長 草柳正治 農林技師 矢儀平一 仝 吾郷精造 仝 佐藤吉太郎 農林技手 福島正廣 仝 出縄三好 (2 段目) 怒田耕地整理組合 組合長正七位 市川實太郎 組合副長 髙橋宇三郎 役員 井川才三郎(など 9 名) (3 段目) 創立委員 小栗壽親(など 2 名) 建碑委員 飯塚直蔵(など 6 名) (注)「南足柄石造物」(五)の記載 19 カ所訂正 本碑は当時の福沢村のうち旧怒田村の震災復旧 記念碑であると思われる. 住家被害や人的被害は, 家屋倒潰 18 戸, 死者 1 名で比較的軽微であるが, 山岳の崩壊や耕地の亀裂破損, さらには用水路の 潰滅や交通の途絶など農業を行う上で大きな打撃を 受けたことが分かる. 復旧には公の援助を得るために 怒田耕地整理組合を組織して当った. 詳細については考察に譲るが, 国の交付金や県 の補助金さらには組合員自らの醵出金を合わせ, 労 働力も提供した. 県が設計, 工事監督をする形で,. - 12 -.
(13) 道路, 堤防, 水路, 畦畔の復旧整備が行われた. 1925(大正 14)年 9 月から始まり, 1927(昭和 2)年 4 月まで約 1 年半で工事が完成した. なお, この後で 説明するように慶伝寺に顕彰碑が建つ市川實太郎が 耕地整理組合長を務めた.. 市川實太郎は 1879(明治 12)年 1 月に上怒田に 生まれ, 大阪府立農学校に学び卒業後愛知県立農 事試験場に勤務するが 1924(大正 13)年に母親が 逝去. 父親の孤独を慰めるために帰郷, 以後郷土の 農業の発展に尽力し 1954(昭和 29)年 11 月に亡く なった. その間に関東大震災の復興にも尽くした. 先 に指摘したように怒田耕地整理組合長としても活躍し た. 建碑の賛同者は上怒田を中心に主に福沢村の 各地から集まった人々である.. 図 17 慶伝寺にある市川實太郎の顕彰碑 Fig.17 Memorial Tower for Jitsutaro Ichikawa at Keiden-ji Temple in Nuda. (3) 臨済宗慶伝寺(南足柄市怒田) 富士急湘南バス怒田バス停を過ぎると石灯籠が立 つ三叉路がある. そこを左に折れて 300m ほど行くと 慶伝寺がある. 山門にのぼる坂の左側に大きな石碑 が立っている(図 17). 市川實太郎顕彰碑 (正面) 顕彰碑/圓覺宗源(題額) (前略)帰郷された翁は同年怒田耕地整理組合長に 就任震災後の耕地並に道路水路の復旧整備を/完 了営農上の面目を一新し昭和三年福沢村農会長と なり献身的に努力されたので会務は刷新されその成 績は著しく向上/した. (後略) (背面) 賛同者(かっこ内は人数) 上怒田(56)/下怒田(9)/斑目(11)/千津島(9)/ 壗下(5)/竹松(5)/足柄神社(1)/埼玉県(1)/ 福沢農業協同組合/遺族会福沢支部 建設委員(11 名うち 1 人が顧問) 題字/撰文 円覚寺派管長朝比奈宗源襌師 石工 海老名町河原口 前場光雄 昭和三十六年八月吉祥日建立 (注)「南足柄石造物」(五)の記載 2 カ所訂正(引用 部分のみ). 図 18 珠明寺の墓地にある箱根底倉での震災犠牲 者の墓石 Fig.18 A tomb stone for a victim by the earthquake at Shumei-ji Temple in Nuda. (4) 臨済宗珠明寺(南足柄市怒田) 三叉路に戻り 300m ほど北上すると運動公園の手 前に珠明寺がある. 階段を登り石柱の山門を通ると 正面が本堂で右に庫裏がある. 庫裏の前を通り回り 込むと段々になった墓地がある. 中腹に目指す墓石 がある(図 18). 住職に尋ねて過去帳の記載から開 成町の遠藤幸雄氏の墓地にあることが分かった. 遠藤家の墓 敷地中央に大きな墓石があり, その右側のやや小 ぶりの墓石が震災の犠牲者のものである. (正面) 大正十二年癸亥/醒震儀活上座/九月一日 (左側面) 故遠藤儀三郎者大地震 之節於箱根底倉活埋歿 至今遺形不顯矣 (右側面) 酒田村岡野 大正十四年九月建之 遠藤善次郎. - 13 -.
(14) (注)「南足柄石造物」(五)の記載1ケ所訂正. 犠牲者は酒田村岡野(現在の開成町)の遠藤儀三 郎で箱根の底倉の土砂崩れで埋没して今も遺体が 見つからないと書かれている. 底倉は箱根の中でも 土砂崩れの被害が大きく, 犠牲者も多数出ている[田 邉(1926)]. そのうちの一人の墓所である.. 図 19 福沢神社の文命用水碑 Fig.19 Memorial Tower of Bunmei-Waterway at Fukuzawa Shrine in Nuda. (5) 福沢神社(南足柄市怒田) 富士急湘南バス大口下車, 酒匂川に架かる新大 口橋の袂を堤に沿って川沿いに下流方向へ進む. その堤が南足柄市指定文化財の文命堤である. しば らく行くと右側に福沢神社があり, 鳥居の右側に大き な石碑と文命堤の説明板が立っている(図 19). 文命用水碑 (正面) 文命用水之碑(題額) 農林大臣 島田俊雄閣下題字 酒匂川ハ往昔氾濫ノ害激甚ナリシガ享保年間丘隅 田中翁幕命ヲ奉ジ現地/ヲ精査シ遂ニ治水ノ計ヲ定 メ穴水門, 二之水門, 根又, 武永田, 九尺, 髙䑓ノ 六堰/ヲ築キ本川ヲ導キ下流七百餘町歩ノ水田ニ灌 漑シ爾来二百有餘年禾穀穣/々生民鼓腹以テ明治 ニ及ベリ然ルニ近時水源荒廢河底隆起シ洪水毎ニ 堰/門破損補修ノ費年々多キヲ加ヘ居民憂色アリ偶 大正十二年ノ大震災ニ逢/着シ水路崩壊復舊容易 ナラズ縣ハ之ガ匡救ノ為メ用排水幹線改良事業ニ/ 據リ六堰ヲ併合統一シ更ニ水路ノ落差ヲ利シテ發電 ヲ企畫ス關係町村亦/耕地整理組合ヲ起シ相呼應 シテ改善ノ途ヲ講ジ昭和三年七月起工仝八年/三. 月竣工シ文命用水ト命名セリ工費総額五十七萬餘 圓其大部ハ國縣及發/電企業者之ヲ分澹シ地元出 資僅ニ一萬六千餘圓ニ過ギズ而モ用水ハ勞セ/ズ シテ自然ニ流入シ電力ハ洽ク文化ヲ農村ニ齎ス自今 足柄一帯土沃ヘ水/饒カニ農産豊富生民永ヘニ其 恵澤ニ浴セン洵ニ偉蹟ト謂フ可シ茲ニ之ヲ/頊珉ニ 勒シ關係者ノ功勞ヲ後代ニ傳フ 昭和十一年七月 従四位勲四等 草柳正治撰 神奈川縣農會長 小串清一書 (背面) 文命用水契約書 (横書き) まえがき 酒匂川右岸土地改良区(以下甲と称す)と東京電 力株式/会社(以下乙と称す)は神奈川県所有に係 る文命用水路(/以下本水路と称す(神奈川県は 水路の維持管理権を酒匂/川右岸土地改良区に移 管した))を灌漑発電併水路として/使用するにあた り次のとおり契約する (第 1 条から第 11 条) 上記契約の証として本書 2 通を作成し甲乙各一通を 保有/する 昭和 39 年 2 月 11 日 甲 酒匂川右岸土地改良区 理事長 辻村君造 乙 東京電力株式会社 取締役社長 木川田一隆 立会者 神奈川縣農政部長 桑名精二 (注)「南足柄石造物」(五)の記載 6 ケ所訂正(引用 部分のみ) 関東大震災で大きな被害を受けた各所の農業用 水路を統合して生まれたのが文命用水である. 文命 用水については考察でさらに詳しく述べる. 水路の 落差を利用して発電も企画し 1928(昭和 3)年 7 月に 起工し 5 年半の歳月をかけて 1933(昭和 8)年 3 月 に竣工した. 背面は東京電力との用水使用に関する 契約書で, 全文が刻まれている. 文命用水は一ノ堰, 二ノ堰等の水門から主に酒匂川右岸の開成町, 南足 柄市等の水田を灌漑している. 福沢神社には, この他に 1707(宝永 4)年の富士 山の宝永噴火以降相次いだ酒匂川の水害と人々の 戦いを伝える文命堤に関する石碑などが数多く残さ れているが, 調査結果は, 山北町に残るものとともに, それらのまとめは武村(2015)に譲ることにする. なお, 福沢神社の鳥居の建立年は 1932(昭和 7) 年 10 月であり, 震災で倒壊し再建された可能性があ る.. - 14 -.
(15) 3-4 南足柄市西部 旧南足柄村の一部と旧北足柄村の一部地域を対 象とする. (1) 足柄神社および周辺(南足柄市苅野) 箱根登山バス苅野駐在所前下車, 矢倉沢方向を 向くと道路右側に足柄神社入口の立札がある. その 坂を少し上った左側に石碑がある(図 20).. 図 20 足柄神社入口に建つ弘西寺堰碑 Fig.20 Memorial tower for the recovery of Kosaiji Waterway near Ashigara shrine in Karino. 弘西寺堰碑 (正面) 弘西寺堰碑(題額) 神奈川縣知事従四位勲三等池田宏題額 南足柄村灌漑水渠十數條アリ弘西寺堰ヲ最ト為ス往 昔ノ開鑿ニ係ル安/政ノ大震ニ遭ヒ遂ニ全ク絶ツ大 久保候供資之ヲ修ス爾来七十餘星霜大/正十二年 九月一日午前十一時五十八分突如激震起リ天地晦 暝天柱折レ/地維碎ク乃チ堰路梗塞一水ヲ通セス 是ニ於テ有志奔走議ヲ練リ計ヲ立/テ耕地整理組合 ヲ設ケ同年冬官ニ陳シ翌年二月設立並ニ起債認可 ヲ得/即チ起工ス工ニ從フ者獻身努力同十五年八 月無事竣功ス此業隧道六所/二百七十間暗渠五個 百二間無接合管二十七間明渠千七十二間水槽二個 /是ニ伴フ道路橋梁畦畔ノ改修並ニ支線延長數千 間地區面積二十五町八/段歩其費八萬餘金組合戸 數六十有六設計ノ精緻斬新以テ現在ニ誇ルニ/足 ル是レ顧フニ官廨輔導ノ宜シキト當事者和衷協同ノ 堅キトニ因ルノ/ミ後昆此意ヲ體シ其業ヲ繼カハ或ハ 永ク撃壌ノ樂ヲ享クルヲ得ンカ/頃者衆議シテ以テ 将來ニ告ケント欲シ來リテ文ヲ予ニ請フ余郷土ヲ共/ ニシ等シク慘苦ヲ嘗メ其状ヲ審ニス即チ辭セズ敢テ. 之ヲ叙スト爾云 足柄上郡教育會長 足柄上郡聯合青年團長 正七位 關野光之助撰 昭和戊辰二月 猪瀬博 愛書 (背面) (1 段目)神奈川縣 知事 池田宏/農務課長 草柳正治/神奈川縣技 師 野呂勇之/仝 田中十三男/農林技師 矢儀平 一 吾郷精造(など 3 名)/農林主事補 末廣得(な ど 3 名)/松田耕整出張所長 農林技手 佐藤吉太 郎/仝 (2 名) (2 段目 15 人の氏名) 農林技手 福島正廣(など 4 名)/(肩書不詳 2 名) 郡長 田中鉐雄/書記(2 名)/(肩書不詳 2 名) 村長 井上宗環/仝 助役 関野光之助 組合役員 組合長 實方富士太郎/副長 内田政吉 (3 段目 14 人の氏名) 庶務係 副長 礒崎智造/会議係 評議員 礒崎藤 造/仝(7 名)/建碑發起人 礒崎新之助(など 5 名) (4 段目)組合員(21 名)/ (5 段目)(つづき 22 名) (6 段目)(つづき 20 名)/ (7 段目) (つづき 1 名) 苅野五十八名共有/弘西寺三十九名共有 建碑敷地買収/石佐太郎 (注)「南足柄石造物」(一)に碑文の記載無し 背面は大変読みにくい. 村長は南足柄村長で, 撰 文を担当した関野光之助は, 正面記載の役職の外 に, 同村助役でもあったことが分かる. また, 碑の建 立年は「戊辰」とあり 1928(昭和 3)年である. 内容は, 狩川水系の用水の一つである弘西寺堰 用水の復旧について書かれている. 冒頭, 同用水が 安政の大地震に遭って杜絶したことが書かれている.. - 15 -. 図 21 現在の弘西寺堰用水 Fig.21 Kosaiji Waterway in present.
(16) 小田原藩 8 代藩主大久保忠愨(ただなお)の時代で, 碑文の大久保候とは忠愨のことであろう. 二宮尊徳を 登用し藩政改革を行った 7 代目藩主の忠真(ただざ ね)の孫にあたり, 1856(安政 3)年まで尊徳は健在で あった. 安政の大地震としては, 素直に考えると 1854(嘉 永七(安政元))年の安政東海地震の可能性が高い. 1923(大正 12)年の関東大震災まで 70 余星霜という 表現もほぼ妥当である. 震度は 6 程度であったろう [宇佐美・他(2013)]. 関東大震災での震度も表 1 の南足柄村の全潰率 から判断すると 6 程度である. それによって, 用水が 破壊され閉塞して水が流れなくなった. このため住民 は耕地整理組合をつくって公的助成を受け 1924(大 正 13)年 2 月から 1926(大正 15)年 8 月の 2 年半を かけて用水の復旧と道路, 橋梁, 畦畔の復旧整備を 実現させた. 石碑の立つ位置からすぐ上に水路があり, これが 弘西寺堰用水である(図 21). 2011(平成 23)年に水 路整備が行われた時に建てられた説明板があり, 整 備前, つまり関東大震災後に整備された水路の写真 も掲載されている.. 月の建立である. 」と書かれている. 元禄地震により 焼失したことと関東大震災では倒壊せず現在に至っ ていることが分かる. (2) 苅野原路傍(南足柄市苅野) 足柄神社前バス停から足柄街道を狩川上流へ向 けて行くと, 5 つ目のバス停が苅野原である. そこから 矢倉沢方面に 150m 位行くと左側に狩川の谷へ降り る分かれ道があり, その手前にフェンスで囲われた形 で石碑が建っている(図 23). 分かれ道には「矢倉沢 下庭」という標識がある.. 図 23 苅野原の路傍にある川入堰碑 Fig.23 Memorial tower for the recovery of Kawairi Waterway by the road side at Karinohara.. 図 22 足柄神社の社殿 Fig.22 The main hall of Ashigara Shrine in Karino 社殿 弘西寺堰碑の前から坂道を上ってゆくと, 登りきっ たところに足柄神社がある(図 22). 鳥居を潜ると社殿 があり, 右側に 1969(昭和 34)年建立の由緒碑があ る. 由緒碑には地震に関する記述はない. ただし, 神奈川県神社庁ホームページの足柄神社(御由緒, 参拝の栞)によれば, 「社殿 元禄十六年(1703 年) 十一月廿二日, 大震災により焼失, 安永九年(1780 年), 再建, 現在の御社殿は慶応二年(1866 年)三. 川入堰碑 (正面) 川入堰碑(題額) 神奈川縣知事従四位勲三等清野長太郎篆額 北足柄村矢倉澤有川入堰其開鑿之由来不詳拠 口碑安政年間探川入分狩川之水引之云同六年 地大震水路梗塞用水全絶住民苦之懇請領主大 久保候起工漸復舊爾来村内關場及隣村一色部 落灌漑田畝供給飲料浴其潤澤經幾十星霜矣而 大正十二年九月一日地又激震家屋壊倒山地崩 潰死傷不少其惨害不可名状加之諛水路陷歿忽 缺用水之便住民困憊達其極於是有志五十六名 組織耕地整理組合始複舊工事翌年九月十日竣 功其費金五萬八千五百圓徭役一千五百人水路 延長千八百間就中屬暗渠者千二百間施工最難 然纔過一箇年而完成興廢田十二町歩複数十戸 之炊飲使住民安堵如故者可謂當事者戮力協心. - 16 -.
(17) 之結果他頃日衆議将來該事績恐堙滅欲建碑記 其功請予文乃快諾叙之傳于永遠云爾 大正十三年十一月 足柄上郡長従七位勲七等田中鉐雄撰並書 (背面) (上枠) 神奈川縣農務課長 草柳正治 神奈川縣技師 田中十三男 農林産業技師 矢儀平一 吾郷精造 神奈川縣産業技手 佐藤吉太郎 神谷四郎 福島正廣 森美太郎 神奈川縣産業主事補 川田萬吉 (下枠) (上段) 足柄上郡長 従七位勲七等 田中鉐雄 北足柄村長 勲八等 礒崎金造 南足柄村長 関野長治 組合長 総務係 武井良哲 組合副長 工事係 柏井孫三郎 組合副長 庶務係 礒崎新之助 評議員庶務係 柏木喜久太 仝 工事係 矢後留吉/仝 柏木平太郎 仝 会計係 杉田清三郎/仝 柏木林蔵 評議員 矢野伊太郎(など 8 名) (中段) 敷地所有者 矢野谷右エ門 建碑發起者 柏木金太郎(など 20 名) (下段)(つづき 21 名) 泉蔵院石工 内山 瀬戸宗吉 (注)「南足柄石造物」(一)に碑文記載無し 撰文と書は足柄上郡長の田中鉐雄によるもので漢 文で記されている. 碑文の構成は弘西寺堰碑とよく 似ており, 最初に安政年間の地震のことが書かれて いる. ここでも大久保候が住民の願いを聞いて復旧 工事を行ったことが書かれている. ただし, 地震の年 が安政 6(1859)年とあり, 宇佐美龍夫・他(2013)を 見ても, その年に当地方に大きな被害をもたらすよう な地震は見当たらない. 仮に 1854(安政元)年の誤 りとして安政東海地震であるとすると, 言い伝えとされ てはいるが, 川入堰により狩川から水を引いたのが安 政年間であるという記述との整合があまりよくない. また, 川入堰用水の灌漑範囲は関場および隣の 一色とある. 関場は旧矢倉沢村の一部で震災当時は 北足柄村, 一色は旧苅野村の一部で震災当時は南 足柄村に属し, 両村の村長が裏面で名を連ねている. 意味が分かる. ここでも復旧には耕地整理組合を組 織し, 震災直後から用水の復旧に取り掛かりほぼ1年 の歳月を経て翌年 9 月 10 日竣功したと記されている. 耕地整理組合のメンバーは 56 名と書かれている.. 図 24 栗原橋からみた北沢と矢倉沢本村の江月院 Fig.24 Kitazawa River and Kogetsuin-Temple (3) 曹洞宗江月院(南足柄市矢倉沢) 矢倉沢バス停から内山方向へは県道 726 号線が 分かれ, 箱根登山バスの一つ目のバス停が本村であ る. そこからさらに県道沿いを進むと栗原橋がある. この橋は, 内川に合流する北沢を渡るもので, その 上流を望むと曹洞宗江月院が見える(図 24). 江月 院には 1703(元禄 16)年の元禄地震の記録として, その後の大雨によって北沢に土石流が起ったという 記録が次のように残されている[内閣府(2013)]. 「去る年霜月(元禄 16 年 11 月)大地震に付, 当村之 内北たけ山ゑみわれ, くみ込罷有候所に, 昨日(元 禄 17 年 2 月 2 日)之雨にてわれめへ水入候や, 段々 昨晩夜中迄に山崩落流申候に付, 北沢入より土ろ水 押出」(当時は光月院). 関東大震災では同じ場所で土石流被害は無かっ たが, 周辺一帯では多数の山岳崩壊が報告されてい る[内閣府(2013)]. (4) 内山路傍(南足柄市内山) 県道 726 号線を内川に沿ってすすみ箱根登山バ ス川越石橋で下車する. 内川沿いに坂を下ると神工 舎建築工房という事業所があり, それを過ぎると道が 左にカーブする. 右側にカーブミラーがあり, その背 後の敷地に石碑が建っている(図 25).. - 17 -.
(18) 図 25 内山の路傍に建つ震災復興碑 Fig.25 Memorial Tower for the recovery of Kita-Ashigawa Village by the road side in Uchiyama. 震災復興碑 (正面) 震災復興碑(題額) 神奈川縣知事正五位勲四等堀切善次郎題額 維持大正十二年九月一日關東地大震亘一府六縣如 我郡北足柄村山岳崩壊/耕地亀裂家屋倒潰五十八 戸死傷十三名加之交通杜絶用水缺乏電燈亦滅住/ 民失居所迫飢渇其惨害不可名状當局者速協議立策 以救火急次加修理者役/場費千六百圓隔離病舎費 二千七百円北足柄小學校費二千四百円矢倉澤小/ 學校費千七百円翌年一月請官受指揮期三年間始復 舊工事乃村道十五個所/橋梁八個所隄防二个所此 工費二萬七千二百四十二圓別設耕地整理組合整/ 理荒地内山組合員二百三十一名土地六十二町道水 路六千七百間此工費十/六万三千五百四十四円平 山組合員百二名土地三十八町道水路七千八百間/ 此工費四万七千七百九十円矢倉澤本村組合員八十 五名土地三十二町道水/路三千五十間此工費四万 九千四百二十円地蔵堂組合員廿五名土地七町道/ 水路千皕丗間此工費一萬九千六百圓川入組合員関 場地内二十九名土地五/町三段道水路千間此工費 三萬円又棚倉神社巳改造内御前社先年社殿以歸/ 烏有企再建而関係者戮力以従事見工事之完成将在 近頃日欲建碑實績傳于/永遠請予文仍敍其梗概 足柄上郡長正七位勲六等田中鉐雄撰文 正八位勲八等長坂邨太郎書 大正十五年六月 (背面) (1 段目)監督官 土木課長 高田景. 農務課長 草柳正治 地方課長 安藤喜八 神奈川技師 田中十三男 農林技師 矢儀平一/同 吾郷精造 土木技手 佐藤盛亮/同 小澤利一 土木助手 長窪一治 農林技手 佐藤吉太郎/同 土橋慶三郎(など 7 名) 足柄上郡書記 瀬戸保雄(など 4 名) (2 段目)吏員職員 村長 礒崎金造 助役 鈴木平太郎/同 瀬戸蔦次郎 収入役 清水理助 書記 小澤輝忠 村会議員 和田見治(など 18 名) (3 段目)村会議員(つづき 2 名) 帝国在郷軍人會北足柄村會会長 瀬戸艶次郎 同 小澤正晴 北足柄村青年團長 岡本弘道/同 鈴木重信 區長 米山喜三郎(など 11 名) 土木委員 礒崎庄之助(など 7 名) (4 段目)土木委員(つづき 10 名) 内山第一/第二耕地整理組合 組合長 矢後松晴 組合副長 矢後富士太郎/同 原林之助 役員(8 名) (5 段目)役員(つづき 13 名) 平山/平山柑橘耕地整理組合 組合長 礒崎為治/同 小瀬惣平 組合副長 小瀬谷三郎/役員(5 名) (6 段目)役員(つづき 6 名) 矢倉澤本村/矢倉澤柑橘耕地整理組合 組合長 杉山常次郎/同 杉山辨之助 組合副長 杉山熊太郎(など 3 名)/役員(8 名) (7 段目) 地蔵堂耕地整理組合 組合長 和田見治 組合副長 和田一覺 會計 和田富八/役員(5 名) 川入堰耕地整理組合/関場部 組合副長 柏井孫三郎/同 柏木金太郎 役員(7 名) (8 段目) 建碑委員/建碑委員長 礒崎金造 建碑委員 礒㟢為治(など 14 名). - 18 -.
(19) 筆工/執筆 岡本萬洲/石匠 瀬戸宗吉 (注)「南足柄石造物」(六)の記載 20 カ所訂正 冒頭北足柄村の被害が述べられ, 家屋倒潰 58 戸, 死傷 13 名, 交通の途絶, 用水の欠乏, 停電など, 住 民は居所を失い飢渇した. 当局は速やかに復旧に取 り掛かり, 役場, 隔離病舎, 北足柄小学校, 矢倉沢 小学校, 村道, 橋梁, 隄防などの復旧費用が書かれ ている. また, 土地や水路の復旧整理には, 各集落 で耕地整理組合を設立した. 内山, 平山, 矢倉沢本 村, 地蔵堂, 川入堰関場部などである. さらに棚倉 神社の復興にも触れている. 平山は, 現在山北町に属しているが, 他は全て南 足柄市に属している. また, 北足柄村と南足柄村に またがっていた川入堰耕地整理組合では, そのうち の北足柄村に属す関場部のメンバーのみが記載され ているようである. 本碑の川入堰耕地整理組合に組 合長名がないのはそのためである. 川入堰碑では耕 地整理組合の構成員の数は 56 名と書かれているが, 本碑では関場地内 29 名とある. また, 本碑裏面に書 かれている川入堰耕地整理組合の役員は 1 人を除き 全てが川入堰碑の方にも記載されている. 本碑は北足柄村全体の復興碑という性格があるの であろう. その点は, 限られた旧村(大字)地域が対 象である怒田の復旧記念碑や弘西寺堰碑や川入堰 碑などと異なっている. §4.考察 酒匂川の本流や支流からの農業用水路や各集落 の震災復興について考察する. 日 比 野 ・ 他 (1999) に よ れ ば , 江 戸 時 代 初 期 の 1603(慶長 8)年に大久保忠隣(ただちか)により大口 堤, 岩流瀬堤, 春日森堤を築いて洪水を制御したの を「酒匂川瀬替え」と言い, これ以後, 酒匂川の流路 がはじめて定まった. その後, 酒匂堰などの用水路が造られ, 新田開発 が急速に進展した. ところが 1703(元禄 16)年には 元禄地震が起こり, さらにはその 4 年後の 1707(宝 永 4)年には富士山噴火が起こり, 大量の降砂により 河床が埋まり, 堤防が度々決壊するようになった. こ れに対し, 1726(享保 11)年に田中丘隅らにより改修 工事が行われ, 文命西堤(岩流瀬堤)と文命東堤(大 口堤)が完成した. 福沢神社にある文命堤の説明板によれば, この命 名は, 丘隅が治水, 護岸を祈願して, 改修した両堤 の上に中国の治水の神である㝢(う)を祀る文命宮を. 建立したことによる. その後も堤は大雨で決壊, 復旧 を繰り返すが, 明治になって本格的な復旧が行われ 関東大震災を迎えることになった. 現在の福沢神社は文命東堤の内にある. 境内に ある「社殿移築完成記念」(平成 21 年)の説明では, 福沢神社は 1909(明治 42)年に福沢村内 11 社を文 命社に合祀し文命堤内地に建立されたものとある. ま さに文命宮の末裔と言える神社である. なお, 福沢村の名前は, 福沢諭吉が度々訪れたこ とによると言われている. いきさつは東京三田に福沢 諭吉ゆかりの龍源寺という寺があり, 親交のあった住 職大島仁宗和尚が, 1876(明治 9)年に隠居して当 地の千津島村にある天福寺の住職として移住した. このため, 諭吉は度々この寺を訪れ, 地元住民との 交流も深まったという. そのため, 1889(明治 22)年 の町村制の施行の際に他の数村と合併してできた村 を「福沢村」と呼ぶことになったというのである. 話を酒匂川の治水に戻すと, 酒匂川の治水は一 進一退を繰り返しながらも人々の努力によってすす められた. それと共に, 酒匂川やその支流には多く の灌漑用の堰や用水路が造られ, 足柄平野の農業 生産を大いに拡大させてきた. そのような施設に大き な打撃を与えたのが関東大震災であった. 酒匂川本流のうち左岸に沿う山北町地域には岩流 瀬堰があり, 1924(大正 13)年の田植えの時期までに は震災から復旧した[長坂(1927)]. 一方, 右岸の南 足柄地域では文命東堤に伴う六水門から水を引いて おり, 復旧に際し, それらの用水路を文命用水として 統合整備する大規模な工事が行われ, 竣工は 1933 (昭和 8)年になった. その記念碑が福沢神社の文命 用水碑である. 青木(1989)によれば, 震災後の後遺症は大変な もので, 山崩れによる土砂と倒木が大雨ごとに酒匂 川に流出し, 河床が高くなりまた流木で河床が見え なくなる. その度に住民は用水路からの取水が不可 能になることを防ぐために, 水門や堰にたまった土砂 や流木を取り除く必要があった. その苦労は並大抵 ではなかった. ちょうど同じ時期に, 酒匂川に既にい くつかの発電所を持っていた富士瓦斯紡績株式会社 の電気事業部が 2 つの発電所を新設すべく計画して いた. 足柄上郡長の田中鉐雄と開成町出身で神奈川県 農務課長だった草柳正治は, 村々に耕地整理組合 の創設を薦め, 富士瓦斯紡績の計画と結び付けて, 従来の六水門を廃止し, 新設発電所と共用の水路か. - 19 -.
(20) ら各村内の河川や堰に通水するよう仕向けた. その ようにして生まれたのが文命用水である. 用水には福 沢第一, 第二の 2 つの発電所が併設されている. な お富士瓦斯紡績は 1927(昭和 2)年に発電部門を切 り離して富士電力株式会社を独立させた. このため, 文命用水碑にも記されているように総工 費 57 万余円のうち地元負担はわずか 1 万 6 千余円 で後は, 国, 県と発電企業の負担するかたちとなった. 文命用水の完成は同じく震災で大きな被害を受けて いた酒匂川下流部の左岸地域へ, 文命用水の流末 である武永田付近より取水する酒匂川用水の建設を 促した. 文命用水碑が 1936(昭和 11)年 7 月の記名である のに対して, 背面の契約書の碑文が 1964(昭和 39) 年 2 月 11 日になっている理由について, 青木(1989) は聞き取りの結果を述べている. 要約すると次のとお. りである。「二代目開成町長辻村君造が酒匂川右岸 土地改良区理事長に就任した時に, 文命用水の契 約書が存在しないことに気づいた. 早速, 県当局や 富士電力を引き継いだ東京電力など関係機関も調 査したが何処にも存在しないことが分り, 早速作成し たのが当該契約書である. その際, 所在不明となっ た前例を考慮して文命用水碑の背面に敢えて刻まれ たものであるらしい. 」 一方, 酒匂川の本流に対し, 支流の狩川でも震災 前から多くの堰や用水が造られ, 地域の灌漑や生活 用水の確保に大きな役割を果たしてきたが, こちらも 震災で大きな被害を蒙った. 川入堰や弘西寺堰もそ の一つである. これらの復興記念碑に加え, 地域の 復興を伝える怒田や内山にある復興記念碑から, 復 興に当って, 地域住民がその地域毎に耕地整理組 合を組織して, 国や県からの助成を受け, 畦畔や灌. 表 2 耕地整理組合を巡って震災復興に係った主な関係者名簿 Table 2 Name list of persons concerned to the recovery of Waterways and Villages written on the memorial towers 怒田、震災復旧記念碑 (昭和2年4月建立). 内山、震災復興碑 (大正15年6月建立) 神奈川県知事 池田宏 土木課長 高田景 農務課長 草柳正治 農務課長 草柳正治 農林技師 矢儀平一 地方課長 安藤喜八 五郷精造 県技師 田中十三男 佐藤吉太郎 農林技師 矢儀平一 農林技手 福島正廣 吾郷精造 出縄三好 土木技手 佐藤盛亮 (上記3名が設計ならびに 小澤利一 工事監督) 土木助手 長窪一治 農林技手 佐藤吉太郎など. 怒田耕地整理組合 組合長 市川實太郎 . 組合副長 髙橋宇三郎. 川入堰碑 (大正13年11月建立) 神奈川県 農務課長 草柳正治 県技師 田中十三男 農林産業技師 矢儀平一 吾郷精造. 弘西寺堰碑 (昭和3年建立) 神奈川知事 池田宏 農務課長 草柳正治 県技師 野呂勇之 田中十三男 農林技師 矢儀平一 吾郷精造など 産業技手 佐藤吉太郎など 農林主事補 末廣得など 産業主事補 川田萬吉 農林技手 佐藤吉太郎 (松田耕整出張所長) 農林技手 福島正廣など 足柄上郡書記 瀬戸保雄など 足柄上郡長 田中鉐雄 足柄上郡長 田中鉐雄 北足柄村 北足柄村長 礒崎金造 南足柄村 村長 礒崎金造 南足柄村長 関野長治 村長 井上宗環 助役・収入役・書記・村会議員 助役 関野光之助 在郷軍人会北足柄村会会長 北足柄村青年団長 区長・土木委員 内山第一/第二耕地整理組合 川入耕地整理組合 耕地整理組合 組合長 矢後松晴 組合長 武井良哲 組合長 實方富士太郎 平山/同柑橘耕地整理組合 組合副長 柏井孫三郎 組合副長 内田政吉 組合長 礒崎為治 組合副長 礒崎新之助 矢倉沢本村/同柑橘耕地整理組合. 組合長 杉山常次郎 地蔵堂耕地整理組合 組合長 和田見治 川入堰耕地整理組合/関場部. 創立委員(2名) 建碑委員(6名). 組合副長 柏井孫三郎 柏木金太郎 建碑委員長 礒崎金造 建碑委員(14名). 敷地所有者 矢野谷右エ門 建碑発起者(41名) . - 20 -. 建碑発起人(5名).
図
関連したドキュメント
地域 東京都 東京都 埼玉県 茨城県 茨城県 宮城県 東京都 大阪府 北海道 新潟県 愛知県 奈良県 その他の地域. 特別区 町田市 さいたま市 牛久市 水戸市 仙台市
宮城県岩沼市で、東日本大震災直後の避難所生活の中、地元の青年に
It is found out that the Great East Japan Earthquake Fund emphasized on 1) caring for affected residents and enterprises staying in temporary places for long period, 2)
高崎市役所による『震災救護記録』には、震災 時に市役所、市民を挙げて救護活動を行った記録 が残されている。それによれば、2 日の午後 5
東日本大震災被災者支援活動は 2011 年から震災支援プロジェクトチームのもとで、被災者の方々に寄り添
1997 年、 アメリカの NGO に所属していた中島早苗( 現代表) が FTC とクレイグの活動を知り団体の理念に賛同し日本に紹介しようと、 帰国後
Methods of housing reconstruction support include features common to all reconstruction funds, such as interest subsidies, as well as features unique to each reconstruction
Ever since G O TO – Shinpei (1857–1929), Home Minister at the time of the Great Kanto Earthquake of 1923, adopted the term fukko – to describe recovery and reconstruction from