小説
Shane と映画 Shane との比較研究
山 根 明 敏
はじめに
西部劇というジャンルは、一部の熱烈なファンはいるものの,映画産業のな かで斜陽をかこっている分野であることは間違いあるまい。その原因は次に引 用する部分に端的に示されている。 ハリウッド製映画西部劇は第 2 次世界大戦まではインディアンを駆逐する勇 壮な建国神話として国民的人気を博していたが、戦後、先住民族抑圧の歴史 への自戒を込めた西部劇が製作され始めると、ジャンルとしての人気に翳り がさす。1952年にはまだ年間108本の製作数を誇っていた西部劇が、四半世 紀後の1977年には 7 本にまで激減する。つまりアメリカ国内の人種問題の政 治的解決と社会的同意の結果として、インディアンを敵役とする西部劇は社 会的に認知不可能なジャンルとなり、西部劇は冒険活劇としての明確な敵を 喪失する。(『事典現代のアメリカ』1094)ハ リ ウ ッ ド 西 部 劇 の 中 で も 映 画Shane( 監 督 George Stevens、 脚 本 A.B.
Guthrie Jr)は牧畜業者とホームステッダーとの抗争を描き、ネイテイヴ・ア メリカンが映像に一人も登場しないという稀な作品であることが幸いし、映画 としての評価は今なお高いものがある。本論文は映画Shane と、Jack Schaefer
作の小説Shane とを比較検討し、単独のテクストを参照したのでは不可能な新
たな解釈の可能性を探るものである。先行研究としては、Michael T. Marsden の “The Making of Shane: A Story for All Media”があげられる。しかしこの研究 では小説版から映画版への変更がなぜ行われたのか、深く掘り下げた論考は行 われていない。
1 .Marian の人物像の変化
以下の引用は。小説版の語り手の Bob が当時の一家の住居を描写している 部分である。
We had wooden floors and a nice porch across the front. The house was painted too, white with green trim, rare thing in all that region, to remind her, mother said when she made father do it, of her native New England. Even rarer, the roof was shingled. I knew what that meant. I had helped father split those shingles. Few places so spruce and well worked could be found so deep in the Territory in those days.(65)
映画版では Starrett 一家の住む家は、他のホームステッダ-の家と同様、簡 素な丸太小屋である。ところが小説版では引用部分にあるように Marian の嗜 好を反映したニューイングランド風の建物であり、 “shingled”の部分から、そ の建物が木造軸組に板葺きのイギリス風系コロニアル住宅であることが明らか にされている。さらに 小説の冒頭部に Joe が Marian に Shane を紹介する場面 を引用してみよう。
“Good evening, ma’am,”said our visitor. He took her hand and bowed over it. Mother stepped back and, to my surprise, dropped in a dainty curtsy. I had never seen her do that before. She was an unpredictable woman. Father and I would have painted the house three times over and in rainbow colors to please her、70) 小説版と映画版の相違点の一つは Marian の人物描写である。小説版におい て彼女は東部生まれの女性とされ、住む家に関しても自分の意志を夫に実行さ せる自己主張する女性として描かれている。また Shane に挨拶する部分からは、 彼女のエキセントリックな面が窺われ、夫の Joe と息子の Bob が振り回されて いることが描写されている。 小説版における Marian に関するこのような描写には、当時の女性がおかれ ていた社会的状況が反映されていると考えられる。フロンティア社会において は男性に比べて女性の数が少なく、家庭における女性の発言権は大きかった事
は事実である。それに伴い女性の社会的地位は高まり、アメリカ合衆国におい てはじめて女性が参政権を得たのは1869年の準州時代のワイオミングであった。 Shane の舞台はまさしくこのワイオミングであり、小説版における Marian の 人物造形は時代・地理的背景を考慮するならば、殊更不自然ではないと考える のが妥当であろう。 それに対して映画版における Marian の人物造形は、夫に対して従順で、受 動的で物静かな、伝統的な「家庭の天使」としての妻のイメージである。映画 版の冒頭で Marian は Shane に正式に挨拶することすらなく、彼女の最初の台 詞は Joey に対する “You know better than to point guns at people.”と Joey が旧式 のライフル銃を Shane に向けた事をたしなめる言葉であり、息子を教育する母 親としての発言である。映像において、Marian は無表情で、小説版のような エキセントリックな要素は完全に排除されている。映画版では小説版にはない Ryker による脅しの場面の後、彼女は Shane を食事に招くニュアンスの発言を するが(“Supper’ll be ready in a little while, Joe. Won’t be very long.”(22)あく まで仄めかしであって、最終的な判断は夫に委ねている。小説版では Shane を 最初に夕食に誘うのはやはり Joe であるが、Marian は “If Joe hadn’t called you back, I would have done it myself. You’d never find a decent meal up the valley.” (70)とたとえ夫の意向に反しても、自らの意思に従って行動することを明言 し、同時に自分の料理の腕前を Shane にアピールしている。彼女の発言は、東 部出身の女性であるという誇りさえ窺われるものとなっている。Marian に関 して、自己主張する女性から、夫を支え子供を育てる良妻賢母への書き換えが 行われている。 2 .Bob から Joey へ Marsden は小説 Shane の視点の問題に関して重要な指摘を行っている。 Several critics have noted that the novel is filtered through the innocent eyes of a young boy. But I would suggest that the story is told by an older man looking back at his youth as in a romance. The novel is not just another “coming of age” novel, but rather is structured like a gospel, the Western Good News, as told by the singular, individualistic apostle left behind to grow up straight and tall and honest as
a man was meant to. A misleading of the novel’s point of view would seem to have led several critics astray, for its message cannot be as easily explained away as only the fabric of a dream. (345)
小説と映画の相違点の一つは視点の問題である。小説は成長した Bob(映画 では Joey)が過去の出来事として一連の出来事を語る。そのため Bob の語り には、Shane に対して距離をとった、批判的とも言える発言が含まれている。 例えば冒頭の次の箇所である。
The stranger nodded again.“Call me Shane,” he said. Then to me:“Bob it is. You were watching me for quite a spell coming up the road.”
It was not a question. It was a simple statement.“Yes...” I stammered.“Yes. I was.”
“Right,” he said. ①“ I like that. A man who watches what’s going on around
him will make his mark.”
A man who watches…②For all his dark appearance and lean, hard look, this
Shane knew what would please a boy. The glow of it held me as he took care of his horse, and I fussed around, hanging up his saddle, forking over some hay, getting in his way and my own in my eagerness.(68-69)
下線部①は小説・映画とも Shane が Bob(Joey)に対して発する最初の台詞 である。既に指摘されているように、用いられている “watch”という動詞は、 Bob(Joey)がこれから起こる出来事を「見る」役割を暗示する重要な意味合 いを帯びている。小説ではこの台詞の後に下線部②の Bob のコメントが付け 加えられている。「シェーンは何が男の子を喜ばせるか知っていた」という表 現は、成長した Bob が過去を振り返り、Shane の発言が相手の反応を計算した ものである事を示している。それに続く当時の自分のはしゃぎようの描写から は、Shane の意図したように行動した幼い自分に対する冷静な視線が存在する ことがうかがわれる。 それに対し、映画版における視点は大部分の場面において(Shane が農作業 用の服を買いに行く場面は Joey は同行していない)Joey はリアルタイムで出
来事を目撃する設定になっている。そのため小説版で見られる、成長した視点 からの考察は皆無と言ってよい。小説版では出来事が起こった当時の Bob と 成長した Bob との二つのレベルの語りが存在するのに対し、映画版では Joey の語りは単一のレヴェルに留まり、情報は事件当時の Joey が見たり聞いたり 判断したことに限定される。小説版の Bob が成熟した視点から、過去の出来 事を整理し、振り返りつつ時には批判的に語るのに対し、映画での Joey は終 始幼い子供の目撃者として行動する。 小説版の Bob と映画版 Joey の相違点を論ずる際に、見逃すべきではないの は、名前が変更されていることである。小説版では Robert MacPherson Starrett であるのに対し、映画版では Joey となっている。姓の Starrett の起源はスコッ トランドであり、Starrett 一家はスコットランド、あるいはスコティシュ・ア イリッシュ系の移民である可能性が示唆されている。小説版におけるミドル ネーム MacPherson はスコットランドの有力なクランの名称であり、一家がケ ルト系であることを更に強く示すものである。映画版での Joey への変更は、 一家がケルト系であることをあからさまにするのを避ける意図があったと考え られる。 映画版において何故 Starrett 一家がケルト系であることを薄める必要があっ たのか。この問題を考察するに当たっては、Starrett 一家達ホームステッダー と対立する牧畜業者の名前が、小説版では Fletcher となっているのに対し、映 画版では Ryker となっていることに注目する必要がある。Fletcher がイングラ ンドに多い姓であることを考えるならば、、Starrett と Fletcher との対立は、ケ ルト系移民とアングロ・サクソン系移民の対立とみなすことが可能である。両 者を対立させることは、旧移民同士の確執を再現することを意味し、敵役であ る放牧業者をアメリカ移民の主流をなすアングロ・サクソン系にすることは、 アメリカ国内の民族的な対立という問題のために避ける必要があったのではな いだろうか。Joey は父親の名前 Joe と同じくイエス・キリストの父ヨセフに由 来するものであり、母親の Marian とともに、作品における宗教的な寓意性を 強めているとともに、アングロサクソン系対ケルト系の対立という図式を崩す 結果をもたらしていると言える。その意味において、小説版・映画版ともに中 立的な立場をとり、紛争を収めようとする町の商店主 Grafton がアングロ・サ クソン系の名前である事は興味深い。
3 .小説版と映画版の銃に関する描写の相違 小説版の Bob は拳銃の携帯について興味深いコメントをしている。それは、 当時この地方に住む農民は何かを撃つ時には、ライフルかショットガンを使い、 拳銃は農作業の邪魔になるので使われなかったが、身づくろいとして拳銃を農 民が携帯することはごくあたりまえであり、父親の Joe も外出の際にはコルト を携帯していたというものである。それに対し、映画版ではホームステッダー で拳銃を常に携帯しているのは射殺される Torrey のみであり、Joe が拳銃を手 に取るのは Torrey の死の後 Ryker に呼び出された場面のみである。Bob の拳銃 に関するコメントによって作品の意味合いは大きく変化する。小説版ではホー ムステッダーも日常的に銃を使用し(狩猟の目的と考えられる)、拳銃を携帯 しているのに対し、映画版ではホームステッダーの中でも武闘派である元南軍 兵士の Torrey のみが町に行く際に拳銃を携帯するのである。日常的に銃を携 帯するホームステッダーから銃を日常は持たないホームステッダーへの書き換 えがここでは行なわれている。 映画版では Torrey は武闘派で、南北戦争での実戦経験があるという自信を 持っていたがゆえに、殺し屋 Wilson に挑発され先に拳銃を抜いてしまい、射 殺される。ところが小説版では Wilson に殺されるのはネイティヴ・アメリカ ンの血を引くという噂のあった Ernie Wright であり、Torrey は事件の顛末を Joe と Shane に報告する。以下の引用は Wilson が Ernie を挑発する場面である。
“I’m Mr. Fletcher’s new business agent. I’m handling his business affairs for him. His business with stubborn jackasses like you.” Then he said what showed Fletcher had coaxed him to it. “You’re a damn fool, Wright. But what can you expect from a breed?”
“That’s a lie! shouted Ernie. “My mother wasn’t no Indian!”
“Why, you crossbred squatter,” Wilson said, quick and sharp, “are you telling me I’m wrong?”
“I’m telling you you’re a God-damned liar!”(214)
Wilson はネイティヴ・アメリカンへの差別的な発言で Ernie を挑発する。と ころが映画版では、挑発されるのはもと南軍兵士であった Torrey である。
Jack : They tell me they call you “Stonewall.” Torrey : Anything wrong with that?
Jack : That’s just funny. I guess they named a lot of that... Southern trash after Old Stonewall.
Torrey : Who’d they name you after? Or would you know?
Jack : I’m saying that “Stonewall” Jackson was trash himself. He and Lee, and all the rest of them Rebs. You, too.
Torrey : You’re a low-down, lying Yankee. Jack : Prove it.(116)
映画版では Ernie Wright は Ryker の度重なる嫌がらせを受け、最初に脱落す るホームステッダーであるが、ネイティヴ・アメリカンの血をひいている可能 性には全く言及されていない。小説版であからさまに表現されているネイティ ヴ・アメリカンに対する差別的な発言は完全に消し去られ、西部劇でしばしば 描かれる誇り高い元南軍兵士である Torrey のプライドを、北部人である Wilson が冒涜する図式へと置きかえられている。小説版と映画版のネイティ ヴ・アメリカンに対する見解の相違は小説版で Shane が Bob に拳銃の撃ち方 を教える次の部分からも窺われる。
“How many you knocked over so far, Bob?”
Could I ever repay the man? My gun was a shining new weapon, my hand steady as a rock as I drew a bead on another one.
“That makes seven.” “Indians or timber wolves?” “Indians. Big ones.”
“Better leave a few for the other scouts,” he said gently. “It wouldn’t do to make them jealous. And look here, Bob. You’re not doing that quite right.” (136) 映画版で Joey が持っているのは、拳銃の形をした木片であるが、小説版で は Grafton に貰った本物の銃である(ただしひびが入っている)。映画版では 上のやり取りはカットされている。映画版においても冒頭の場面で Joey が旧
式のライフルを持っていることに示されているように、Joey の銃への興味は 描かれているものの、この場面ほど露骨にではない。小説版で Bob が拳銃の 的に想定しているのは、生きた人間であるネイテイヴ・アメリカンである。そ れに対する Shane のコメントはネイテイヴ・アメリカンを殺すことに何の良心 の呵責も感じていない残酷なものである。映画版ではこのやり取りを消去する ことにより、小説版で描かれている Shane と Bob が持つ残虐性を消し去って いる。映画版で描かれるのは、ダーティな側面を著しく減じられた Shane と、 あくまで純粋で無垢な Joey の姿である。 Shane のダーティな面に関しては、小説版の彼の拳銃に関する描写にも表現 されている。
It was clean and polished and oiled. The empty cylinder, when I released the catch and flicked it, spun swiftly and noiselessly. I was surprised to see that the front sight was gone, the barrel smooth right down to the end, and that the hammer had been filed to a sharp point.(127)
小説版において、Bob は Shane の拳銃に関する詳細なデータを読者に提示す る。それによると彼の銃は当時の最新式のコルトであるが、陸軍で使われてい るものとは形状が異なり(127)Shane 自身が改造を加えたものである。引用 部分から普通の拳銃にあるはずの銃口の照準がなく、銃身が滑らかである事が わかる。この事は銃の所有者と使用目的を考える上で重要である。照準がない のは不要だからであり、あるとかえって邪魔になるからである。すなわち、こ の銃が使われるのは至近距離からのガンファイトに限定されており、ガンファ イトにおいて照準を合わせる時間はない。必要なのは、いかに早く銃を抜き、 照準で狙う事なしに至近距離の相手に正確に命中させるかという事である。拳 銃を引き抜くときに銃身に照準などの出っ張りがあれば、ホルスターに引っ掛 る可能性があり、ガンファイトにおいて致命的なミスに繋がる可能性がある。 これらの事から Shane は拳銃に独自の工夫を凝らしたのではないだろうか.こ の事実から浮かび上がってくるのは、Shane の銃は至近距離から人間を殺す事 のみを目的としているという事である。 ネイティヴ・アメリカンに対する発言や拳銃に関する記述など、小説版では
Shane の暗黒面を示す描写があるのは事実であるが、Shane が自らの過去に苦 悩する姿もまた描写されている事は注目に値する。Shane が Bob に拳銃の打ち 方を教える場面からの引用である。
“Shane! Shane! What’s the matter?”
He did not hear me. ①He was back somewhere along the dark trail of the past.
He took a deep breath, and I could see the effort run through him as he dragged himself into the present and a realization of a boy staring at him. He beckoned to me to pick up the gun. When I did, he leaned forward and spoke earnestly.
“Listen, Bob. A gun is just a tool. No better and no worse than any other tool, a shovel-or an axe or a saddle or a stove or anything. Think of it always that way. A gun is as good-and as bad-as the man who carries it. Remember that.”
②He stood up and strode off into the fields and what I knew he wanted to be alone. I
remembered what he said all right, tucked away unforgettably in my mind.
(139-140) 該当する箇所を映画版から引用する。
Shane : A gun is a tool, Marian. No better or no worse than any other tool, an axe, a shovel, or anything. A gun is as good or as bad as the man using it. Remember that.
Marian : We’d all be much better off if there wasn’t a single gun left in this valley, including yours.(92) Shane の銃に関する発言は、映画の中の名セリフの一つとされている。小説 版ではこの発言の前に下線部①、直後に下線部②が挿入されることにより、 Shane が自らの過去を後悔しながらの発言である事が示されている。「銃は持 つ人間によって良くも悪くもなる」のくだりには、銃を悪事に使ってきた過去 に対する自責の念が込められていると考えられる。他方、映画における発言は、 Joey にではなく Marian に対するものであり、Marian の絶対的な平和主義を目 指す発言と併置されることによって、銃の必要性を強調するものとなっている
(この発言が銃規制に反対する最大の団体である全米ライフル協会のモットー とほぼ一致するのは興味深い)。そこには、自らの過去を悔む感情は全く感じ られない。小説版で Shane は Bob に対し、これからの人生において、自分の ような誤った銃の使い方をしないよう諭しているのに対し、映画版の Shane は 正義の為に銃を使用する正当性を何のためらいもなく Marian に主張する。 Patrick McGee は次のように、興味深い指摘をしている。
Shane can be read as the ultimate Cold Warrior who is the final line of defense against communism, with the Ryker brothers representing the communist totalitarians and their range war the authoritarian stat’s threat to hard-working entrepreneurs who believe in private property. This reading is certainly possible and may be close to the “dominant fiction” of post-World-War Ⅱ America. When Shane or anyone else fires a gun in this movie, it sounds like roar of a nuclear blast; and nuclear tests were among the signature events of the fifties.(18-19)
McGee は Shane を冷戦を戦う戦士の最後列に位置付け、Ryker を共産主義者 になぞらえる。McGee の論は映画版に基づくものである事は興味深い。小説 版の Shane には銃という暴力を用いることに対する揺らぎがあり、冷戦を戦う 戦士の比喩は適当ではない。正義と信ずる事に対しては、暴力の行使を肯定す る、映画版によってこそ、このような読みは成立する。さらに McGee は Shane における銃を核兵器と結び付けている。この発想は、核兵器=究極の暴 力と考えれば、荒唐無稽であるとは思われない。暴力の行使に対し二律背反的 な感情を示す小説版の Shane から、正しい人間によって行使される暴力につい ては微塵のためらいも示さない映画版の Shane への変遷から、核兵器を実際に 使用した国としての重荷を背負ったアメリカと、冷戦構造の中で、共産主義と の戦いにおいては核兵器の使用を辞さないアメリカへのイメージの変遷を垣間 見ることが出来る。 4 .家族像の相違 既に考察したように、小説版の Marian はプライドが高く、夫を意のままに 動かし、自らの料理の腕を自慢するエキセントリックな女性として描かれてい
るのに対し、映画版では受動的で、夫に従い、子供にとっては良き母である、 「家庭の天使」としての色彩が濃い。このような Marian の描かれ方の違いは、 一家の住む住居にも反映されている。小説版ではこの地方では珍しい東部風の 家であるのに対し、映画版ではフロンティアの象徴であり、そこに住んでいる ものが真のアメリカ人であるとされる丸太小屋に変更されている事によって、 Starett 一家の持つ意味合いは大きく変化している。Marian に関しては個性的な 女性から1950年代に理想とされた良妻賢母型の女性に、住居に関しては周囲と は異質で個性的なニューイングランド風の家から、典型的アメリカ人を想起さ せる丸太小屋へと、個性的な家族から、理想化された家族へと大幅な変更が行 われている。 Starett 一家に関する変更点の一つに、小説版においては言及がない、Joe と Marian の結婚記念日に関する場面・描写がある。二人の結婚記念日は 7 月 4 日の独立記念日とされており、ホームステッダーたちは星条旗の下でダンスを し、讃美歌を歌う。このことにより、Starett 夫妻を中心とするホームステッ ダーたちは、愛国心に富み、同時に敬虔なクリスチャンであることが示されて ている。この場面においてもやはり理想のアメリカ人像が映画版には付与され ている。更に小説版、映画版ともに牧畜業者対策を話し合うホームステッダー たちの会議の場面がある。この場面の存在によって、ホームステッダーたちは 議論によって物事を決していく民主主義の実践者として描かれている。愛国 心・信仰心・民主主義という三点において、やはり理想のアメリカ人としての イメージが映画版では付与されている。 小説版と映画版とを比較するにあたって注目すべきなのは、ホモ・エロ ティックな要素の取り扱いである。この問題に関しては McGee が Shane とカー ボーイの Chris との殴り合いの場面を引用し、 映画版ではこの動作がカットさ れていると指摘する。また Blake Allmendinger は次のように指摘する。
The bond between Shane and Joe is tested and strengthened by their mutual affection for Marian. The task of removing the stump merely redirects the men’s sexual energy. When Marian comes outdoors to model a hat, she only briefly distracts the two laborers. “[S]top bothering us. Can’t you see we are busy? Says Joe, who then goes back to work(20). The triangular relationship among the three
characters generates what Eve Kosofsky Sedgwick called “homosocial desire. In the process of competing for Marian, Shane and Joe establish an erotic rivalry that bind them each other as well as to the woman they love. (225)
Shane と Joe が協力して切り株を取り除く場面を Allmendinger は引用し、 Marian を媒介とした Shane と Joe のホモソーシャルな関係に着目する。しかし、 Allmendiger は直前の部分の Joe と Marian の会話の持つ重要性を無視している。
She went up close to the stump. Those two choppers were so busy and intent that even if they were aware she was there they did not really notice her.
“Well,” she said, “aren’t you going to look at me?” They both stopped and they both stared at her.
Have I got it right?” she asked Shane. “Is this the way they do it?” “Yes, ma’am,” he said. About like that. Only their brims are wider.”
And he swung back to his root.
“Joe Starrett,” said mother, “aren’t you at least going to tell me whether you like me in this hat?”
“Lookahere, Marian,” said father, “you know damned well that whether you have a hat or whether you don’t have a hat on, you’re the nicest thing to me that ever happened on God’s green earth. Now stop bothering us. Can’t you see we’re busy?” And he swung back to his root.(95-96)
Bob の目にはこれまでで最も美しく見えたほど 帽子にブーケをあしらって 御洒落をした Marian に目もくれず、男性二人は切り株を抜くことに熱中する。 Marian は女性としての魅力に関心を示さず、共同作業に熱中する二人に苛立っ ている。この場面で彼女が「私を見ないつもりなの?」という問いを発してい る事は興味深い。この発言は、男性二人が Marian を媒介とした絆では結ばれ ていない事、すなわち Sedgwick の言うホモソーシャルな関係ではない事を暗 示している。女性を共有するのではなく排除し、同性同士共同作業に熱中する Shane と Joe の姿にホモエロティックな欲望を読み取ることは、あながち的外 れではあるまい。
映画版では Marian は普段着のままであり、このやり取りも削除されている。 小説版では Shane はいずれ去っていく人だから好きになりすぎてはいけないと Bob を諭すのは Joe であるのに対し、映画版では同様の発言を Marian が行う。 更に、小説版では Fletcher に呼び出されて行こうとする Joe を Shane が会話の 隙をついて一撃で気絶させるのに対し、映画版では憎悪に満ちた激しい殴り合 いの末にピストルの柄で殴り気絶させる。これらの変更は、Shane と Joe との 男性同士のホモエロティックな欲望の存在を消し去るために行われていると考 えれば説明可能である。
まとめ 小説版と映画版との間に
小説版が執筆されたのは1949年、映画の公開は1953年である。この間に起 こった出来事を挙げると、次のようになる。 1949年 9 月 ソ連の原子爆弾保有の発表。 10月 中華人民共和国の成立。 12月 国民党政権が台湾に移る。 1950年 1 月 トルーマン大統領による台湾への軍事不干渉の表明。水素爆弾 の製造指示が行われる。 2 月 ジョセフ・マッカーシー上院議員による国内の共産主義者を摘 発する演説が行われる(マッカーシズムの嵐は1954年12月上院 でマッカーシー議員非難決議が採択されるまで続く)。 6 月 朝鮮戦争が勃発(1953年 7 月板門店で休戦協定が結ばれる)。 以上の事を勘案すれば、小説版が出版された1949年と映画の上映の1953年の 間に、現代アメリカ史における重大な転回点となる出来事が起こっている事が 理解できる。小説版と映画版との間に、アメリカに対する共産主義の脅威が大 きく高まっていることが明らかになっている。銃に関する Shane の見解の相違 は、アメリカが唯一の核兵器を使用した国でありかつ唯一の保有国であった時 期と、ソ連の核保有によって核戦争の危機が現実味を帯びた時期との違いと重なり合う。また映画版で Starrett 一家やホームステッダーたちが模範的アメリ カ人として描かれていることは、共産主義との戦いに備えて、国民を団結させ るために理想の国民像を提示するものであると考えれば説明可能である。さら にホモエロティックな要素が映画版では著しく削除されていることに関しては、 1950年以降アメリカを席巻したマッカーシズムが同性愛を共産主義とともに敵 視し、摘発の理由にしていた事と関連づけることが可能であろう。このように 考えるならば、Shane の小説版から映画版への変遷は、まさにアメリカという 国家の変遷と一体のものであった事が理解されるのである。
引用文献
小田隆裕・柏木博・巽孝之・能登路雅子・松尾弌之・吉見俊哉編『事典現代の アメリカ』大修館書店、2004. 猿谷要『西部開拓史』岩波書店、1982. シーファー、ジャック.『シエーン』、清水俊二訳、早川書房、1971. 横山仁視監修『スクリーンプレイ・シリーズ150 シェーン』スクリーンプレイ、 2010.Allmendinger, Blake. “The Queer Frontier”. The Queer Sixties Ed. Patricia Juliana Smith. New York: Routledge, 1999. 223-236
French, Philip. Westerns. Manchester: Carcanet Press Limited, 2005.
Marsden, Michael T. “The Making of Shane: A Story for All Media.” Shane: The critical
Edition.
McGee, Patrick. From Shane to Kill Bill. Malden: Blackwell, 2007.
Schaefer, Jack. Shane: The Critical Edition. Lincoln: University of Nebraska Press, 1984.