2013年度人間学研究所主催公開シンポジウム
共催:京都文教大学人間学研究所共同研究プロジェクト
「大学教育の視点から本学の教育を考える」
「日本の大学、このごろ焦ってませんか?
~『社会に役立つ大学』の価値を問う~」
日時:2014年2月11日(火・祝)14:00-16:30
会場:キャンパスプラザ京都 第4講義室
<シンポジスト>
藤本 夕衣(東京大学 大学総合教育研究センター特任研究員)
藤田 尚志(九州産業大学 国際文化学部 臨床心理学科 講師)
井上 義和(帝京大学 総合教育センター 准教授)
<開会あいさつ>鑪 幹八郎
(京都文教大学学長)<閉会あいさつ>平岡 聡
(京都文教大学副学長)<司会・コーディネーター>黒宮 一太
(京都文教大学総合社会学部専任講師) 間学研究所主催公開シンポジウムをはじめたい と思います。本日、司会進行役を務めます京都 文教大学総合社会学部の黒宮一太と申します。 どうぞよろしくお願いします。(拍手) 正直申しまして、今日こうやって会場に足を 運んでみるまで、何名の方に来ていただけるか 非常に心配しておりました。ひょっとしたら数 名の方しか来てくださらず、ゼミ形式で顔を突 き合わせて議論することになるのでは、それも また面白いかもな、などと思っていたほどです。 ところが、僕の予想をはるかに超え、大勢の人 に集まっていただき、非常に感謝しております。 ちなみに、大学教育をテーマにしたシンポジウ ムですから、会場にいらっしゃる方の多くが大 学の教職員の方、または学生の方でしょうか。 いや違う、という表情をされている方も少なく ないようですね。どうやら最近では、大学教育 が大学外の方からも注目を集めているというこ となのでしょうね。それはともかく、本日のシ ンポジウムの趣旨など、詳しい内容につきまし ては後ほどあらためてお話しするとしまして、 まずはそれに先立ちまして、本学学長の鑪幹八 郎より、皆さまに開会の挨拶をさせていただき 黒宮一太:どうも、皆さん本日は寒いなか足を 運んでいただきまして、誠にありがとうござい ます。ただいまより、2013年度京都文教大学人ます。鑪先生、お願いいたします。 鑪幹八郎:皆さんこんにちは。今紹介いただき ました京都文教大学の学長を務めています鑪と 申します。どうぞよろしくお願いします。 今日は、「日本の大学、このごろ焦ってませ んか?」という、ちょっと刺激的な題になって おりますけども、中身は非常に硬い話になるん ではないかというふうに期待しております。 京都文教大学には人間学研究所が創立以来ご ざいます。毎年このような一般に関心の高いテ ーマで先生方にお集まりいただいて、シンポジ ウムを開かせていただいております。昨年もた くさんお集まりいただいて、大変興味深いシン ポジウムをこの場所で開かせていただきました。 今回は、この大学教育のあり方についての話 ですが、われわれとしては、最も本質的な問題 について話し合いができるというのを大変うれ しく思っております。大学の問題というのは、 京都文教大学はちっちゃな大学ですけれども、 同じように、やはり経営・運営については、非 常に苦慮しているところです。日本全体におい て、大学の問題というのは、今非常に難しい岐 路にあるのではないかと思っております。 こういう中で、大学に関するさまざま研究を されている若い3名の先生をお招きして、シン ポジウムを開くことができるというのは、意義 深いと思っています。これからの日本の大学の 現状をしっかり見ながら、将来どのようになっ ていくのかと。今進んでいる方向が実学主義と いうかたちですすみ、本来大学のあるべき姿と 違うのではないかというようなことが、私自身 の実感でもあります。これらをどのように認識 しながら、次の大学の将来に向かって展望を開 くかということが、今回のシンポジウムの大事 なところではないかというふうに、私は思って おります。 そういう意味で、このシンポジウムが実りあ るものになるのを期待しております。今日は皆 さまお集まりいただきまして、ほんとにありが とうございます。どうぞよろしくお願いします。 (拍手) 黒宮:鑪先生、どうもありがとうございました。 では、あらためまして僕から、簡単にではあ りますが、本日のシンポジウムの趣旨を説明い たします。その前に、本日のシンポジウムの流 れを確認しておくことにします。まず前半部で、 後ほど紹介いたします3名の方に、それぞれ20 分程度問題提起をしていただきます。その後15 分ほどの休憩を挟みまして、後半部は、前半部 で提起された論点について、僕と3名の方とで 1時間ほどディスカッションをします。ディス カッションでは本日来てくださっているみなさ まからの質問、意見を参考にして議論を進めた いと考えておりますので、差し支えなければ、 質問内容の追加説明をお願いすることもあるか もしれませんのでご記名のうえ質問カードを提 出していただければと考えております。どうぞ よろしくお願いいたします。 では、本シンポジウムの趣旨、僕なりの問題 意識を話します。先ほど鑪学長からも、本日の シンポジウムのタイトル、「日本の大学、この ごろ焦ってませんか?~『社会に役立つ大学』 の価値を問う~」にかんする言及がありました。 おそらく想像するに、ここに来てくださった方 のほとんどが、このタイトルをご覧になって「何 や、これは」と、興味を示してくださったので はないかと思います。どなたかは申しませんが、 前にいらっしゃる方のうちの1人からは、「何 とも大胆なタイトルで、貴学に敬服いたします」 と「お褒め」の言葉を頂戴しました。 じつは人間学研究所は、この「大胆さ」を「売 り」にしているんです。今日は所長も来ていま すので、「黒宮くん、それは違うぞ」と言われて しまうかもしれませんが、僕はそのように理解 しています。実際、ご存知の方もいらっしゃる かもしれませんが、昨年度は「春画」をテーマ にしたシンポジウムを開催しました。この国の 大学では初の試みだったようですね。そして今 年度は、「大学、このごろ焦ってませんか?」な どと「挑発的」なタイトルを付けてしまいました。 ですが、単なるアジテーションではありません。 すこし真面目に、大学教育の議論において近年 流行している教育方法論や制度改革論ではなか なか問われることのない「大学とは何か」とい
うことを議論したいと思っているんです。 といいますのも、非常に厳しい環境の中に置 かれているいまの日本の大学には、いくつかの 「焦り」が見られるのではないかと考えるから です。それは何より、「人材育成」への焦り、と いってよいでしょう。 一方で、グローバル化の進展にともなって国 家間の競争・対立が顕在化してきたなかで、そ の競争に生き残るために必要な「グローバル人 材」の育成という役割を大学が担うことになっ ています。その背景には、優秀な人材の国外流 出を食い止めようという狙いもあるのでしょう。 優秀な高校生から日本の大学が選ばれないとい う事態も生じているようです。ご存じの方も多 いと思いますけれども、「グローバル30」でし たか、いくつかグローバル人材育成事業を積極 的に進めるような大学が選ばれて、そこに対す る支援事業が国によって行われています。 その他方で、近代化、すなわち合理化の進展 の帰結として、たとえば、高卒労働力への需要 が低下し、いまや大学進学者が同一年齢人口の 50%に達しています。いわゆる「大学のユニバ ーサル化」、または「大学全入時代」への突入 が指摘されています。それにより、大学では、 大学での学習に対する準備が不十分な学生、学 ぶ意欲・関心が低い学生が大量に入学し、学生 の「大学教育への志向」の変化に即応しようと 「教育改革」に必死です。いずれも、「社会に出 て役立つ」教育を提供することが、いま大学に は求められているのです。 しかしながら僕は、「社会に役立つ」などと 言うこと自体、すこし躊躇してしまいます。と いいますのも、僕が専門にしている学問をしい てあげるとすれば「政治思想」「政治哲学」「社 会哲学」になりますが、ひょっとしたら僕は、 生きるために最低限の知識以上の、あるいは以 外の学問・知識に携わっており、そのために多 くの時間を費やしているのではないか、そうだ とすると、やっていることは「余計なこと」な んじゃないかと考えているからです。僕は、こ の社会からすれば「余計者」なのではないかと 言うこともできるわけです。実際、僕は、大学 4年間を終えて大学院に進学し、15年もの間勉 強してきましたが、その間、親父や祖父、伯父 などから、「いつまで勉強しているんだ、はや く働いたらどうか」と言われつづけてきました。 ですから、いまだに大学で学問をやっている僕 は「余計者」ということになるのでしょう。そ ういうわけで、僕は、そんな「余計者」として 存在していることへの「気まずさ」「気恥ずか しさ」のようなものが、つねに消えません。「社 会に役立つ」なんてことを言うこと自体、非常 に気恥ずかしいんです。 しかも、あろうことか、「余計者」である僕 ら大学人は、4年間も「社会」の生産活動から 離れて過ごすことを推奨し、毎年多くの学生を 大学に招き入れています。「余計なこと」を周 りの多くの人に勧めているんです。それも、小 声でならともかく大声で。そして、「余計者」で あることを推奨しておいて、いまの大学では、 「社会に役立つ」教育を提供しています、など と言って、教育「改革」に精を出している。「余 計なこと」をやっているという自己不安を慰撫、 払拭させようとしているのでしょうかね。いず れにしても、僕はここに「違和感」を感じずに はいられません。 そこで今日は、僕のこの「違和感」をすこし でも「言葉」にしたいと思い、とかく「焦り」 から拙速に即効性のある教育方法論や制度改革 論を求めがちななか、それらとは趣を異にする 大学論を展開してくれるであろう3名の方に来 ていただきました。前に座っていらっしゃるの で、面倒ですが立ち上がってもらいましょう。 発表順に紹介いたします。まずは藤本夕衣さん です。チラシをお持ちの方もご覧になっていた だければ分かるように、現在、東京大学の大学 総合教育研究センターで特任研究員を務めてら っしゃいまして、ご専門は大学教育論、教育思 想です。つづいて、藤本さんの右側、皆さんか ら向かって左側が藤田尚志さんです。藤田先生 は、九州産業大学国際文化学部の専任講師をさ れておりまして、大学教育論のシンポジウムな のになぜ、と思われる方もいらっしゃるかもし れませんが、フランス近現代思想を専門とされ ています。そして、皆さんから向かって右側が 井上義和先生です。現在、帝京大学総合教育セ
ンターの准教授でいらっしゃる井上先生は、教 育社会学、歴史社会学を専門とされています。 井上先生には、本日のトリを務めていただこう と思っております。 以上、僕も含めて、40歳前後という、大学で は「若手」になるらしいですけれども、4人で 少し真面目に「大学とは何か」という議論をし ていきたいと思いますので、2時間半もの長い 時間になりますが、どうぞ最後までお付き合い ください。 では、早速ですけれども、まずは藤本夕衣さ んから話をしていただきます。藤本さん、よろ しくお願いします。 「『社会』にたいする『大学』の責任を問う― 『アカウンタビリティ』という責任回避―」 藤本夕衣(東京大学 大学総合教育研究センター 特任研究員) 藤本夕衣:ご紹介にあずかりました藤本と申し ます。よろしくお願いいたします。先ほどから 今日のシンポジウム全体のタイトルが話題にな ってますが、このチラシにあるように、最初私 は、「現代の『社会』における『大学』とは?」 というタイトルでお話させていただこうと考え ていました。でも、このチラシを見ると、どう も全体のタイトルに比べて、自分のタイトルが 少し地味だなと思いまして、せっかく挑戦的な タイトルを付けていただいてお話するのであれ ば、もう少し私も挑戦的にいきたいと思い、変 更させてもらいました。「『社会』にたいする『大 学』の責任―アカウンタビリティという責任回 避」というタイトルで、今日はお話したいと思 います。 先ほど少しご紹介いただきましたけれども、 私は今、東京大学の大学総合教育研究センター というところで、大学教育を改善するプロジェ クトの下働きをしております【スライド1】。東 京大学では今年度より、大学院生向けのプログ ラムを始めています。将来、大学の教壇に立っ たときの心構え、シラバスの書き方や授業デザ インの方法など、そういった内容を指導するプ ログラムの補助をしています。 東大の仕事はこれで2年目になりますが、そ れ以前も同様の仕事をしておりました。京都大 学の高等教育研究開発推進センターで4年半、い わゆる教育改善、FD といわれるプログラムの 下働きをしてまいりました。そのように、今の 大学改革の片棒を担ぐというか、片棒を担ぐと いうほどもしてなくて、片棒担いでいる人の足 元の泥をぬぐう、といったぐらいのことをずっ としてきました。 一方で、研究のほうでは、私は今の大学改革 の動向に対して非常に批判的な立場を取ってい ます。今の大学改革では、どちらかというと軽 視されている「教養」とか、あるいはもっと具 体的には、「古典を読む」といったこと。そう したことにどのような意義があり、現代の大学 においてどのような意味を持ち得るのか、とい うことを、ずっと問い続けてきました【スライ ド2】。今日は、「大学改革の片棒を担ぐ人の足 スライド1 スライド2
元の泥を払う」ことで見えてきた部分と、あと は研究でずっと問い続けてきた部分と、この両 面から、大学と社会のかかわり方、その責任と いうことを問い直してみたいと思います。 「象牙の塔」から「社会に開かれた大学」へ 「大学と社会の関係」を考えた時に、まず思 い出されるのが「象牙の塔」という大学像です。 「象牙の塔」というのは、大学が学問の真理を 追究する、ということを大事にしている大学像 です。社会の役に立つか立たないかということ とは関係なく、大学が独立して、真理を追究し ている。それだけで、社会から認められていて、 権威を持ち得た。象牙の塔とは、そういった大 学のイメージだったと思います。 しかしながら、その象牙の塔という大学のイ メージは、今の大学改革の流れとか現状の中で は、どちらかというと否定的に受け取られてい る。この写真は東京大学の安田講堂の写真です けれども、これは天高くそびえる塔というか、 いわゆる象牙の塔のイメージに近いものだと思 います【スライド3】。ところが最近は、東京 大学ではこういう写真が使われているんです 【スライド4】。この写真では、安田講堂が左の 隅に置かれ、奥に都市の風景が広がっている。 大学の権威を主張するというよりは、どちらか というと社会の中に大学があるということを強 調した写真だと思います。 こういう写真が、どういうものに使われてい るかというと、これは2年ほど前に作られた三 つ折りのパンフレットですが、たとえば、この パンフレットの表紙に使われています【スライ ド5】。写真のなかのタイトルには「社会とと もに歩む東京大学」といった言葉がうたわれて います。そして、「社会とともに歩む東京大学」 ということについての中身の説明を見ると、「社 会に開かれた大学として」という文言がありま す【スライド6】。日本の中で最も象牙の塔の スライド4 スライド6 スライド3 スライド5
イメージに近い東京大学ですら、このように「社 会に開かれた大学」という言葉を使い、象牙の 塔のイメージとは違うところを目指していく。 それだけ「社会に開かれた大学」が重視される 時代にある、ということがよく分かるかと思い ます。 このように、「社会に開かれた大学」が目指 されている中で、当然社会の側から大学に対し て、さまざまなことが問われてくる。たとえば その一つとして、<大学は果たして即戦力とな る社会人を育成できているのか?>ということ が問われます。このイラストを見てパッと何か 分かられる方、どれぐらいいらっしゃいますか 【スライド7】。これは「社会人基礎力」と呼ば れる経産省が提案した三つの力を絵で表したも のです。一番左側が「前に踏み出す力」。真ん 中が「考え抜く力」。一番右が「チームワーク で働く力」。これが社会人基礎力を表す。こう いうものを経産省が提唱すれば、即それに応じ るようなかたちで、文科省が学士力というもの を規定して、社会からの要求に即したことを大 学で教えるように、というような流れが生じる わけです。 最近では、「学士力」というワンクッション を置かずに、「社会人基礎力グランプリ」とい うイベントや「社会人基礎力授業30選」という 募集が行われています。いかにこの社会人基礎 力を学生に身に付けさせているのか。その効果 の高い授業のベスト30をランイナップしていこ う、ということまでなされるようになっている わけです。こうした事例は、即戦力になる社会 人を大学は送り出せているのか、ということが 問われていることを示しています。 もう少し違う観点からは、<大学は社会貢献 をしているのか?>ということも問われていま す。たとえば、今日のシンポジウムを主催して くだっている京都文教大学の人間学研究所のホ ームページを見ますと、「学際的共同研究の成 果を広く一般社会に向け発信する」という言葉 があります【スライド8】。先ほど紹介ありま したように、昨年も春画のシンポジウムを主催 されており、他にも数多くのシンポジウムを行 い、研究成果を社会に積極的に発信されている。 こうした取り組みもまた、<大学は社会貢献を しているのか?>という社会からの問いに対し て、応じるようなかたちで行われているといえ ます。 他にも社会貢献の形としては、大学が学生を ボランティアに送り出すなどの取り組みがあり ます。さまざまな大学がボランティアセンター スライド8 スライド7 スライド9
を設立し、学生が具体的なかたちで社会貢献を することを推奨しているわけです【スライド9】。 このように、「社会に開かれた大学」という のは、現代の大学改革の動向を非常に強く規定 しています。そこで、改めて立ち止まって「社 会に開かれた大学」というのは、一体どのよう なところから語られ始めて、それは今どういう 行く末になっているのかということを、少した どってみたいと思います。 「社会に開かれた大学」という物語 当然まず、これもよく見る表だとは思います けれども、社会に開かれた大学ということが言 われ始めるきっかけとしては、進学率の上昇と いうことがあります【スライド10】。これは 進学率ではなく学生数の推移を見たものですが、 1949年の時点では12万人しかいなかった学生が、 今では280万人を超えている。それぐらい伸び ている。最近は、若干少子化等の影響があって 伸び悩んでいるというか、停滞しているように なっていますけれども。学生が増えれば当然、 教員も増える【スライド11】。教員数のほうは、 最近でも伸び率がほぼ変わっていなくて、1950 年前後は7,000人しかいなかった大学教員が、今 では17万人もいる。つまり、どういうことかと いうと、大学が乱立するような状況が生まれる ということです。現在では770校近い機関が「大 学」という名前を持っている【スライド12】。 このように大学数が増えて、大学が乱立する状 況が生まれれば、当然、いかにその質を保証す るかということが問われてくる。 これは大学評価学位授与機構というところが 出している認証評価のマークです【スライド 13】。大学は何年かに1度、文科省が規定する 評価団体の評価を受けて、きちっと研究活動を しているかどうかということを、社会に説明す る。説明責任を果たさなければいけないという ことになっています。 スライド11 スライド13 スライド10 スライド12
そうした法的な評価というものがある一方で、 例えば、これはタイムズ紙が出している大学世 界ランキングです【スライド14】。こうした ものも、最近では、普通のテレビのニュースな どでも取り上げられるほど注目されています。 東京大学が20何位だとか、ベスト100の中に日 本の大学は何校入ったとか、そういうことが注 目されるわけです。 このように、進学率が上がって、大学が乱立 して、その中で質を保証するという観点も加わ る中で、大学を評価するという流れができます。 そうすると、大学の中では、自分たちのしてい ることを可視化していく、説明責任を果たすと いうことが重視されるようになってきます。 たとえば、教育では、シラバスをきちっと作 っていこうという流れが生まれます。シラバス をきちっと作るということは、2つの意味があ りまして、1つはカリキュラムを体系的にして いくということ。もう1つは、各教員が15回の 授業をいかに計画して組み立てていくのか、そ の知識をいかに構造化するのか。構造化して学 生に提示するのか。そういうところが重視され ていくようになります。 もっと言えば、1つの授業に対しても、分刻 みのタイムスケジュールを計画するような授業 デザインシートという、こういうものが配られ、 学生にグループワークをさせたり、どういうタ イミングで教員が説明をするのかとか、そうい うことを設計するということが求められるよう になってきます。 最終的にカリキュラムを体系化し、計画的に 授業を編んでいって、いかに効率よく就職でき る学生を育てるのかというのが求められていく。 就職に強い大学というのが、学生も保護者も社 会も要求していることだというふうに考えられ ていく。 さらに、このように効率よく学生を育ててい く、授業をデザインしていくという流れの中で、 も と も と 品 質 管 理 の 分 野 な ど 使 わ れ て い た 「PDCA サイクル」といった言葉が大学の中に も持ち込まれるようになってきています【スラ イド15】。PDCA サイクル、馴染みのある方 もいらっしゃるかと思いますけれども、例えば、 授業についてきちっとシラバスを書き、「計画」 を立てる。それで授業を「実行」してみる。そ れで、学生の授業評価アンケート、あるいはピ ュアレビューで「評価」を受けて、その評価に 基づいて自分の計画をもう1度「改善」すると。 「これは評価をしっぱなしではダメで、きちっ と次の計画の改善につなげることが大事です」 というふうなことが、例えば、PDCA サイクル の効果を説明するときに言われるわけです。 私も東大での仕事は、この PDCA で回すよう に言われて、日々こうした流れを意識しながら 仕事をするように求められています。この図で は、ただぐるぐる回るだけのようにみえますが、 これはただグルグル回るだけではなくって、改 善して計画をさらに練り直してと、螺旋的にど んどんそれは良くなっていくだという話になり ます。ただ、この PDCA サイクル自体はこの螺 旋の先にどこに行くのかとか、そもそもこの最 初の計画の意義は何かなのかとか、そういうこ スライド14 スライド15
とを問う視点というのは、PDCA サイクルのな かにはないわけです【スライド16】。 そういうことを考えたときに、この PDCA サ イクルを使って、例えば授業改善をするとか、 そういうことを行うことで、見過ごされている ことは一体何なんだろうということを立ち止ま ってみることができると思います。 もう1つ、進学率が上昇すると出てくるキー ワードとして「研究から教育へ」という流れが あります。かつては、エリートのみが大学に通 っていた時代には大学の教員というのは、自分 の研究をしていることを学生に話すことで授業 が成り立っていた。 しかし、今は例えば、初年次教育やキャリア 教育といった、そういった研究とはかけ離れた ところで教育を行うということが、非常に重視 されてきています。 このスライドの左側は、昔からある講義室の 風景です【スライド17】。右側は、これは東 大の駒場キャンパスにある KALS と呼ばれてい るところの写真ですが、一方向的に教員が前に 立って、前を向いている学生に対して話をする のではなく、机もいすも可動式で自由に座れて、 例えば学生同士でディスカッションしたり、そ こに教員が加わることができるような教室です。 そこでは、アクティブラーニングと呼ばれるよ うな双方向的な授業実践が、どんどん取り入れ られています。 一方的に教授するということから互いに学び 合うという、そういう流れが生まれている、と いうことです。これは、先ほどの右側にあった ところの教室での授業風景としてサイトに挙げ られていたものです。この教室では、ICT 環境 もすごく整っているので、そういうものも使い ながら相互に学び合うといった実践がこういっ た教室で繰り広げられています。 このように、就職率を上げるという目標のも と、授業計画を綿密に組み立てつつ、学生の学 びあいを重視するような傾向が進んでいってい ます。しかし、研究とは離れたところで、教育 の改善に取り組んでいくなかで、大学だからこ そできている教育とは何か、それが非常に見え づらくなってきている。専門学校や就職予備校 と変わらなくなってしまっているのではないか というふうに考えることができます。 大学の教育の面を考えたときに、大学独自の 存在意義を喪失しているというような言い方が できるかと思うんです。次に、いかに大学が自 分の存在意義を見失いつつあるのかということ を、大学の広告を事例にみてみたいと思います。 これは南山大学の広告です【スライド18】。 スライド17 スライド16 スライド18
南山大学は、外国語学部など、国際的な学部が あるためか、「南山で学ぶことで世界が分かる」 ということを掲げています。このキャッチフレ ーズ自体の抽象度は高いのですが、なかに小さ く「ここで世界を知るきっかけをつかんだ」と 書いてあります。つまり大学で学問を学生に伝 えるということを重視し、学問を通して世界の 見方を変えること、そうしたことを大学の役割 として提示しています。この広告は、大学の学 問を学ぶことの意義を提示した例としてみるこ とができると思います。 しかし、例えば、これ【スライド19】。と ある大学の広告で、「お母さん、大学を面接し ませんか」と書いてあります。まず完全に保護 者に向いているところにも驚きます。この下に 小さく書いてあるのです。「ここの大学のオー プンキャンパスでは、保護者相談のコーナーが あります」と。そういうことを売りにしていて、 じゃ、一体この大学が何を大事にしてるかとい うことは、ここからはまったく分からない。 ただ、これもでもまだ内容があるほうで、さ らに言うと、この広告は、これはもうちょっと どう言っていいのか、ただ学生が笑ってる【ス ライド20】。楽しそうではあるんですけれど、 お互いに顔をつまみ合って笑っているという、 すごく奇妙といえば奇妙な写真です。××大学、 のち、スマイル」と書いてあるので、その大学 に行ったら楽しい学生生活が待っているよ、と いうことを言いたいんだとは思うのですけれど も。でも、じゃ、大学の教育とか、学問との関 係とか、ここからは何も伝わってこない。さら に、これはこの大学のホームページから得た情 報ですが、大宮駅、渋谷駅、自由が丘駅と1カ 月もの間、すごく大きなスケールで掲示されて いたようです。つまり、一体、何万人の目にこ れがとまっているのかをおもうと、これをそれ だけ多くの人の目にさらすっていう感覚も、理 解に苦しんでしまいます。 先ほど「専門学校化」と言いましたけれども、 ここまで来ると専門学校のほうがよほど具体的 なことを提示している【スライド21】。これ はある専門学校の広告ですが、「理学療法士に なりたいという思いに応える」ということで、 「本気のあなたへ」とあり、具体的です。大学 が専門学校化しているというふうに言われると、 専門学校は非常に迷惑ではないかと。それほど 大学は、自分の自己像というのを見失いつつあ るんではないかというふうに考えられます。 しかしさらに驚くのは、大学の広告の内容の なさそれ自体よりも、こういう広告を見て行き スライド19 スライド21 スライド20
たい、この大学に行きたいと思ってきた学生を 集めて、その学生の学習意欲がないからといっ て、彼らの学習意欲やモチベーションを上げさ せるために教員が授業デザインをして、PDCA サイクルを回して、という流れです。それで説 明責任を果たしている、そう言ったところで、 それは一体何なのか、と思うわけです。 つまり、自分の大学の存在意義について、自 己喪失をしている状態で、説明責任を果たすと いうことは、果たして責任を果たしていること になるのかということを問うことができるんで はないかというふうに思います。 「社会に開かれた大学」の物語の外へ 今、お話してきましたように、「社会に開か れた大学」の物語は、進学率が上昇し大学が乱 立するところから始まります。大学が乱立する と、その質を保証するための評価が重要になり、 そこから大学の教育のあり方を可視化していく という流れが生まれる。けれど、その過程をた どった結果、いかに大学の自らの存在意義が見 失われているか、ということが問題となってき ている、といえると思います。 もちろん、これはあくまでも一つの見方です けれども、そういうふうに見ると、説明責任と いうものが、非常に空虚にみえてくるわけです。 そうであれば、説明責任とは違う形で、大学の 責任の果たし方を考える必要がある、というこ とになります。そしてそのためには、社会に開 かれた大学ということの物語の外に立ってみる、 ということが大事になるのではないかというふ うに考えられます。 私のあとにお話しされる藤田先生、井上先生 も、時間の観点、あるいは、学生をどう捉える のかという観点に立って、この今の一般的にな っている「社会に開かれた大学」ということか ら一歩離れて、大学を考え始めるきっかけをく ださると思います。私のほうからは、<社会は 一体どこにあるのか?>という問いを提起して、 お話を終わりたいと思います。 お配りしたレジュメに書いてありますけれど も、1つは、「評価のための空虚な社会」という のが考えられると思います。大学が乱立してき た結果、認証評価が求められるようになってい ると先ほど言いましたが、認証評価の目的には 次のように書かれているわけです。認証評価を することによって、大学の評価を社会に問うこ と。その社会を通して大学はまた自己改善をす るということが認証評価の目的である、と。と ころが、ほとんどの人は、認証評価の実際の具 体的な文章を目にすることはないと思うんです。 先ほどの広告のほうがよっぽど何万人もの目に 触れているわけで、大学の認証評価の目的にお いて、評価を社会に問うというときの社会とい うのは、ほぼ実態のない、中身のない空虚な社 会であると考えられると思います。そして、現 在、大学改革の中で、もう1つ社会というもの に内実があるとすれば、社会人あるいは、産業 界というときに使われる「経済活動の場として の社会」ということだと思います。学生が就職 して社会に出る、というときの社会です。それ はほとんど経済活動の場として、学生が将来ど こかの企業で働くということを前提に考えられ ているわけです。 しかし、もう一つ、「学生にとっての社会」と いうことを考えた場合、単に就職して企業で働 くだけではなく、家族との時間があったり、あ るいは友人とのかかわり、趣味の時間があった り、「地元」といった地域コミュニティがあっ たり、そういうさまざまなかかわりが社会とい う言葉の中には含まれているということが想像 できます。そうであれば、「学生にとっての社会」 においては、さまざまな関わりの中で生きてい くことが、一体どういうことなのかというのが、 切実な問いとしてあるのではないかと考えられ るのです。 そう考えた場合、こうした問いに大学の学問 は、どう答えていけるのか、応じていけるのか、 というところから、大学と社会のかかわり方、 大学の責任の果たし方を考えていく。アカウン タビリティという言葉とは別のかたちで考え始 めることができるのではないか。このような問 いを、私ほうからの問題提起とさせていただき たいと思います。 最後に、これは最近話題になっている『ハン ナ・アーレント』という映画ですけれども、こ
の作品をご覧になったことのある方、どれぐら いいらっしゃいますか。ありがとうございます 【スライド23】。この映画は、ユダヤ人の哲学 者であるアーレントが、ユダヤ人のホロコース トの問題を哲学的に考え抜いていったことと、 社会とのかかわりを描いている作品です。大学 自体は中心的なテーマではないのですが、随所 で大学が登場するんです。学生とのやりとりが 出てきたり、講義シーンがあったりします。今 日のコーディネーターの黒宮先生が、アーレン トを研究されているということもありまして、 最後にスライドにのせてみました。大学の責任 のあり方ということを問うのに、この映画は考 えるポイントをいろいろくれる映画だと思うの で、後ほどディスカッションの中で触れること ができればいいなと思います。あるいは、まだ ご覧になっていない方、別に回し者ではないで すけれども、これを見て、また今日のテーマを 考えていくきっかけにもなると思い、この映画 をご紹介させていただいて私の話を終わりにし たいと思います。どうもありがとうございます。 (拍手) 黒宮:どうもありがとうございました。最初か ら「刺激的」すぎたかもしれませんが、2番手 は藤田さんです。お願いいたします。 「大学の時間」 藤田尚志(九州産業大学 国際文化学部 臨床心 理学科 講師) 藤田尚志:よろしくお願いします。九州産業大 学の藤田と申します。私の専門はアンリ・ベル クソンという20世紀初頭の哲学者を中心とする フランス近現代思想です。ではなぜこのシンポ ジウムでしゃべるのかということなんですけれ ども、日ごろ思っているのは、大学論をもっと 開かれたものにしなければいけない、というこ となんです。大学論というと、やはり大学論の 専門家が語るものという風に思われがちですが、 しかし考えてみると、知というものはウィルス のように空気感染していくものですから、大学 論の専門家ではない大学教員はもちろんのこと、 自分は大学なんか何の関係もないと思っていら っしゃる一般の方々でさえも、何らかの形で実 は皆さん大学にかかわっている。だとすれば、 それぞれの方が自分なりの「大学」像、自分な りの「大学論」をもっていたほうがいい。 その際、大学論や高等教育論について、ある いは現代の大学が置かれた政治的・経済的・社 会的・文化的状況について、できるかぎりの知 識をつけたうえで思考し、発言することが理想 的なのはもちろんですが、最も大切なのは、実 はそういうことではないと思うのです。むしろ、 「自分はこの分野について無知だから何も言う 資格はない」という見かけの知的誠実さを隠れ 蓑にして沈黙してしまわないこと、そういった “自主規制”から解放されることがまずは大切 ですし、さらに決定的に重要なのは次の点です。 つまり大学教員であれそうでなかれ、皆さんそ れぞれご専門のほうで深い学識をお持ちなわけ ですから、それを何らかの形で利用して、ご自 分なりの独創的な仕方で大学について論じるこ とができるし、また積極的に論じていくべきな のではないかということです。冒頭で「大学論 を開かれたものにしなければいけない」と申し 上げたのは、そういう意味です。 そういうわけで、蛮勇を奮って、自分自身の 専門である哲学を用いて、私が大学について考 えている二三の事柄をお話ししてみようとやっ スライド23
てまいりました。そうやって「非専門家による 大学論」のサンプルを提供することで、みなさ んがそれぞれなりの「大学論」を作り出される きっかけになれば、と思った次第です。 時計の時間と心の時間 さて、私が中心的に研究しているのは、アン リ・ベルクソンという20世紀前半に活躍したフ ランスの哲学者なんですけれども、彼は「持続」 という概念で有名な、「時間の哲学者」という ふうに言われています。では、それはいったい どういった考えなのでしょうか。 普通私たちが「時間」と言うとき、時計の時 間を思い浮かべますよね。それは計測可能なも のである。ということは、一分とか一秒とか単 位がある。ということは、等質的で可逆的であ る。千年前の一秒も今の一秒も同じ単位でない と意味がないし、比較できない。どこを測って も、どの一秒も同じ意味を持っている。客観的 な時間である、と。 では、時計の時間だけが時間かというとそう ではない。心の時間というものがある、とベル クソンは言います。これは測ることができない。 なぜかというと、同一基準の単位つまり尺度が ないからです。例えば、大好きな人と待ち合わ せして待っているときのもどかしい五分という のはとても長い。しかし、会っているときの高 揚した五分はあっという間に過ぎていく。 逆に、学校でしばしば見かける現象ですけれ ども、楽しい休み時間はあっという間に過ぎて いくのに、退屈な授業はものすごく長い。何か 果てしなく続く拷問のように感じてしまう。今 この話がそうでないことを祈っておりますが (笑)。心の時間には一瞬たりとも同じ時間とい うものはなく、常に微妙なニュアンスの違いが ある。つまり異質的で、不可逆的で、主観的な 時間だということです。 ところで、普通私たちは客観的に計測的でき るものは実在すると思っている。そして、主観 的で計測不可能なものは、思い込み・妄想・フ ィクションであるというふうに考える。けれど も、例えば、長さの単位というのは、昔は寸と か尺だったわけです。それがメートル、センチ に変わった。このことからも分かるように、長 さというものがどれほど実験で検証可能であっ て、その意味で役に立ち、実用的な功利性とい うものを持っているとしても、それでも、尺度 というのは人間が取り決めた約束事にすぎない。 時計の時間もまた、人工的・人為的なもの、専 門的な言葉で言えば規約的0 0 0(conventional)な ものにすぎない。 逆に、心の時間というのは一見すると非常に あやふやに見えます。測ることができず、実験 で確認できず、その意味で一見無意味なものと 思われるからです。そしてこういう時間は役に は立たない。時計の時間というのは役に立ちま す。例えば、私たちが待ち合わせるのは、時計 の時間によってです。時計の時間で明日五時に 待ち合わせようということはできますけれども、 明日ちょっと心の時間で待ち合わせようという ことはできない(会場笑い)。ひとりひとり異 なるからです。 しかし、この心の時間というものは、誰が取 り決めたわけでもないのに、人間が存在し始め た太古の昔から、確実に存在している、自然な ものである。それなしでは人間が人間であり得 ないような、そういう時間です。これこそが実0 在的0 0(real)な時間であると、先ほどの「規約的」 な時間ではなく、「実在的」な時間であるとベ ルクソンは言います。 先にも述べたように、心の時間は役には立ち ません。客観的に検証可能、実験可能なものが もつ有用性・功利性(utility)をもたない。し かし、にもかかわらず、心の時間は、明らかに 人間の精神生活を根底から支えている。それを 無視して生きていくと、どこかでおかしなこと になってしまうような時間です。例えば、大好 きなひとと会っているとき、一瞬たりとも同じ 瞬間はない。一瞬一瞬すべて意味が違う。とこ ろが、時計の時間として測った途端に、時間は その表情を失ってしまう。「あ、今、五分経った。 あ、十分経った」というふうにやると、デート の時間は確実に壊れる(会場笑い)。時間の意 味が無意味に変わってしまうわけです。心の時 間は、不可逆的で実験できず、「無益」かもし れませんが、決して「無意味」ではなく、ある
種の効力(efficacity)をもっているのです。そ の力はまさに、時計の時間によって時間を測っ ているときに私たちが取り逃してしまっている もの、つまり過ぎ去りつつある時間の“質” か らやってくるのです。 尺には尺を――新たな尺度の模索 さて、「時計の時間」と「心の時間」について、 計測可能/不可能、等質的/異質的、可逆的/ 不可逆的、規約的/実在的、功利性/効力とい った一連の対立項を見てきたわけですが、これ をもう少しだけ深めてみましょう。時計を見て いるとき、私たちが何を見ているかというと、 実は時間を見ているのではなく、針と針が作る 角度の動きを見ている。つまり、私たちは時間 を見ていると思っているが、実は空間を見てい るのです。その意味でベルクソンは、時計の時 間を「空間化された時間」と呼びます。逆に、 一瞬一瞬の時の流れとそのニュアンスや質の違 いが決定的に重要であるような、こういう時間 をベルクソンは「持続」と呼んでおります。 では、ベルクソンは「心の時間=持続」を持 ち上げて、「時計の時間=空間化された時間」を 否定しているのか。計測可能な量的なものを否 定し、計測不可能な質的なものだけが大事だと 言っているのかというと、そうではありません。 ベルクソンは決して「計測」そのものを否定し ているわけではない。ここが大事なところです。 「時計の時間」以外にも、それと同じくらい、 しかしながらそれとは違う尺度で0 0 0 0 0 0 0 0 0大切な時間が 実在している。量的な計測は計測対象を著しく 限定するものであり、場合によっては、その限 定によって計測されるべき当の対象の本質が取 り逃されてしまうこともあるのではないかと自 問すること、これは私たちにとってきわめて大 切なことです。 なぜ大切かと言えば、そのように自問するこ とによって、では、測りえない時間とはいった いどのようなものであるのか、と考えることに なるからです。現時点で計測されているものの 限界を指摘することは、測りえないものを測ろ うとする新たな努力につながる。ベルクソンが 「持続」という概念を提出することで考えよう としていたのは、まさにこういうことです。そ ういう来たるべき計測のための思索的な努力の 結晶が持続という概念であるということです。 ベルクソンが計測を否定していないことは、 次のような言葉からも分かります。これは『思 考と動くもの』という論文集の冒頭部分にいわ ばマニフェストのように置かれた有名な一節で す。「 哲 学 に 最 も 欠 け て い る の は 精 確 さ (précision)である。これまでの哲学体系はい ずれも現実の寸法=尺度(mesure)に合わせて 仕立てられたものではない」。ベルクソンはこ こで洋服の仕立ての比喩を用いています。今ま での尺度はレディメイドな、個々の事物の特性 を考慮しないお仕着せの尺度であった。そうい う千篇一律の、従来の間尺で測りきれない、複 雑で繊細な現実の襞をそれに固有の屈曲に則し て測るためには、オーダーメイド(これは和製 英語ですが)、テーラーメイドの新たな尺度を 発明していかなければいけないと。シェイクス ピアに『尺には尺』(Measure for Measure)とい う作品がありますれけれども、まさに尺には尺、 より現実に寄り添った新たな尺を探していかな ければいけないということです。 ベルクソンと言いますと、機械主義を批判し ているとか、精神的なスピリチュアルなものに いってしまったとか、そういうふうに思われが ちなんですけれども、実はそうではなくて、当 時の科学に対して、より精緻な計測のための新 たな努力を喚起するということを常に続けてい た人であるわけです。計測の否定ということで はなく、新たな尺度の模索ということです。 そうすると、しかし、こういう風に考える方 もいらっしゃるのではないでしょうか。「そう は言っても、持続という概念によって何が測る ことができるようになったというのか。結局量 的に計測できるようにならなかったではない か」。ですが、これは計測や数量化、ひいては 科学というものを非常に狭く取った場合の見方 で、こういうひとは、そもそも「批判」と「否定」 を取り違えているのです(「反原発」を唱えな がら即座に実行可能な現実的代替案を示せない 者は、無批判に現状を受け入れるべきである 云々)。しかし「批判」と「否定」は違うもの
です。そういう概念的な批判を通じて、文化も 科学も社会も前進していくものなのです。 キリスト教的道徳革命と国民総幸福 このことを幾つか例を挙げて説明したいと思 います。レジュメのほうには一応四つ例を挙げ たんですが、時間の関係上、二つだけ見ます。 まず一つ目はキリスト教が行なった道徳革命 です。それまではハムラビ法典なんかの「目に は目を歯には歯を」に代表される、いわゆる同 讐法と言われる、同じだけの量刑を与える法律 が道徳的と見なされていました。「やられたら やり返せ」が道徳的規準・尺度だったわけです けれども、それがイエス・キリストによって、「右 の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という全 然違う考え方・価値観、ほとんど間逆といって いい規準・尺度価値観が登場してきたわけです。 ベルクソンによれば、このキリスト教的な考 えが、後の「人権」や「民主主義」といった概 念につながっていきます。このあたりの宗教と 政治や民主主義の関係は非常に興味深い主題で あり、私もマルセル・ゴーシェ『民主主義と宗教』 (トランスヴュー、二〇一〇年)を翻訳するな ど多少研究を行なっておりますが、それについ てはまた別の機会に譲るとしまして、このキリ スト教の道徳革命についてベルクソンはこんな ふうに言っています。「われわれは、福音書の 戒めのうちに見られる実行困難なものを、微分 学初期の述べ方に見られる非論理的なものにな ぞらえることができるのではないか」と。 つまり、微分や積分という考えが登場する以 前は、単に非論理的・非合理的というふうに考 えられていた諸問題が、科学の新たな展開によ って、思考可能なもの・論理的なものの枠内に 組み入れられるということがある。それと同じ ように、道徳においても、「目には目を」とい う容易に計測可能・数量化可能な道徳観が支配 的であった時代には、単にありえない考えであ ったものが、「右の頬を打たれたら」というイ エス・キリストの言葉によって一つの極限的な 指標を示されることになるというわけです。 ちなみに、フランス語で「計測する」を意味 する動詞の過去分詞形 mesuré はまた「節度の ある、慎重な」という意味の形容詞にもなりま す。そしてきわめて興味深いことに、ほぼその 真逆の「計測を超え出た」を意味する démesuré は「けた外れの、途方もない」という意味をもち、 否定的な文脈のみならず、肯定的な文脈でも用 いられます。今の文脈で言えば、「右の頬を打 たれたら」は、登場した当時は計測不能の、途 方もない、démesuré な道徳観でしたが、やが てありうべき、計測可能な道徳観の極限として 理解されるようになったのです。 さて、〈計測された=節度ある〉道徳と〈計 測を超え出た=途方もない〉道徳の関係につい て、ベルクソンはこんなふうに言っています。 「現在行なわれている道徳が廃されるのではな い。そうではなく、今や進歩途上のいわば一つ の瞬間として示されるのである。古い方法が捨 てられるのではない。そうではなく、ちょうど 動力学が静力学を自らのうちへ吸収して、その 特殊なケースとしてしまう場合とも同様、より 一般的な方法のうちへ合体されることになるの だ」。ここで重要なのは、「目には目を」という 旧来の “尺度”が廃棄されたわけではないとい うことです。そうではなく、道徳的か否かを測 る “計測規準”が変わったのです。つまり「目 には目を」は無意味になったのではなく、意味 を変えて、限定的・特殊的な一つのケースとな ったのです。既存の道徳の否定ではなく、新た な道徳への包摂です。 こういった革新的な変化というのは、本当に われわれの身近で頻繁に起こっていることです。 今度は一気に二千年を飛び越えて、現代の例を 見てみましょう。私たちの幸せというのは、ず いぶん長い間、「国民総生産」つまり GNP(Gross National Product)という経済的な尺度で測ら れてきたわけですけれども、ここ十年ほどでし ょうか、GNH(Gross National Happiness)と いう考え方が登場してきました。「国民総幸福」 と訳されています。最近ニュースなどでブータ ンの幸福度が世界で一番であるというようなこ とが話題になっておりますが、そのときに指標 として挙げられているのがこの GNH です。こ こで非常に大事なことは、ブータンの若き国王 がハンサムであるかどうかということではなく
(会場笑い)、今まで経済的な成長率という一点 だけで測られてきた国民の幸せというものが、 心の豊かさや健康、文化的多様性や生物多様性・ 環境保全といったさまざまな尺度によって測ら れるべきだと考えられるようになってきたとい うこと、つまり尺度が複数化され、より精緻化 されてきたということです。この GNH という 考え方の中で、所得という基準は否定されたわ けではなく、生活水準という形で一つの指標と して包摂されています。以上二つの例を挙げま したが、道徳の規準や人々の幸せを測る尺度で すらも変化しているわけです。 ベルクソンに戻れば、彼はこういった尺度の 変化を、時間というものについて考えた哲学者 なのです。砂糖水をかきまぜてそれが均一に溶 けきるまでの苛立たしく待ち遠しい〈持続=心 の時間〉は、〈空間化された時間=時計の時間〉 として計測することはできない。それは言い換 えれば、測りえないものを測ろうとすることに よって、測ること自体を測る、計測の基準・尺 度そのものを問い直すということです。時間の 計測における “尺度”の変更、計測そのものの あり方に関する途方もなくラディカルな変更を 要求しているのです。 さて、「そんなことがいったい大学論と何の 関係があるのか」と、会場のみなさんも今まさ に苛立たしく待ち遠しい時間を(笑)お過ごし だと思いますが、ご安心ください。これまでの 話はすべて本題と関係しております。 数に溺れる大学――満足度と幸福度 大学は、特に人文系の大学教員は、数字と無 縁の生活を送っていると思われがちですけれど も、ここ最近の大学は、人文系の教員でさえも、 実は“数に溺れて”いるわけなんです(パワー ポイントでお見せしているように、これはピー ター・グリナウェイの映画のタイトルです)。例 えば、大学の入り口で言いますと、志願者数、 入学者数、定員充足率。大学の中では、学生で 言えば、講義とかゼミの出席回数とか GPA。教 員で言えば、講義・ゼミの履修者数、授業評価 アンケートの点数、教授会の欠席回数。出口の ほうで言えば、中退率、就職率、教員採用試験 合格者数。こういった数字に私たちは溺れてし まっている。 それはどうしようもないことだとおっしゃる かもしれません。現代社会にあっては当然のこ とだと。しかし、実は私たちは、数字の前で思 考停止しているだけなのかもしれません。とに かく数字が出てくれば何となく安心するという か。だから逆にこう問わねばならないのではな いかと思うのです。数に溺れているというとき の、その“数”というのは一体何なのか。大学は、 その数によって一体何を測ろうとしているのか、 と。数字の意味を問う、計測の基準そのものを 問い直すことが重要なのではないか、と。 現在大学の中で数字にこだわっているように 見える人々について危惧すべき点は、彼らが数 字にこだわりすぎているということではなくて、0 0 0 0 0 0 実は数字に十分にこだわらなさすぎる0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0というこ とではないでしょうか。数字にこだわっている ように見えて、数字の「中身」にはこだわって いないのではないかということです。 こういう話をするときによく、二項対立的に 〈数字至上主義者〉と〈数字不要論者=「大学 とは無用の用」論者〉という構図で語られるこ とがありますが、そういう構図というのは、ど こにも出口がなく解決に至らないという実際的 な理由だけでなく、どちらの側も実は厳密には 存在せず、この論争自体が実体のない不毛なも のだという原理的な理由から、間違っていると 思います。ですから、数字と縁を切るか否かで はなくて、その数字の意味を考えるということ がやはり大事になってきます。 そういったパースペクティヴをもって、大学 の数字を見渡してみると、いろいろな問題が見 えてきます。例えば、「入試は大切、入学者の 質確保」は大事であると言いながら、入学試験 はマークシートだけで、記述は一切やらない、 と。これでは測れる質というのはかなり限定さ れてしまうわけですけれども、そこにかかる労 力、あるいは対費用効果といったことを考える と、どうしても記述式に踏み切ることはできな いというふうに考える。 これは一度考えてみる時期に恐らく来ている と思います。センター試験を廃止する、知識偏
重で一点刻みの一発勝負の現行試験を見直すと いう動きは、そういった時代の流れの表れと見 ることもできるでしょう。何回でも挑戦できる、 その人の持続的な能力を測るというほうに移行 しつつあるわけです。もちろん、最終的な結論 が出たわけではないので、予断は許しませんが。 それから、出口のほうで言いますと、私たち は就職率という数字に非常にこだわっています。 社会も親御さんも学生さんもこだわっている以 上、大学教員もこだわらざるをえないという状 況になっています。そして、とにかくどこかの 会社に押し込むために、大企業が足きり用の一 次筆記試験として課している(リクルートが開 発した)SPI 試験を解かせることに少なからぬ 時間を費やしております。 他方で、離職率というのは、大学の出口を語 るときにほとんど問題とされませんが、大卒の 大体三割ぐらいが三年以内に離職するわけです。 これは「七五三現象」と呼ばれるもので、中卒 者の七割、高卒者の五割、大卒者の三割が早期 離職するという現象です。大学は、必要な分野 に限られたリソースを傾注しなければならない はずであるのに、なぜこの離職率という数字に は注目しないのでしょうか?古典をしっかり読 む、難しくても分からなくてもかじりついて一 行一行読み進めていく、そんなことは無駄だ、 就活の役に立たない、と。それで、四年間かけ て講義やゼミの中で一生懸命 SPI 試験対策をし て、つるかめ算や旅人算がどうのこうのと必死 で勉強をして、三年で辞めてしまう。そうした らその後、それは何の役に立つのでしょうか。 ですから、大学が社会の役に立つというとき に、一体何の役に立てるつもりなのかというこ とを真剣に考えなければいけない。これは大学 側の人々だけが考えるべき問題ではありません。 社会のほうでもやはり考えていかねばならない。 私たちは、大学生にどういった力をつけて社会 に出てもらいたいのか。果たして大学で付ける べき力、社会人基礎力とは本当に、SPI 試験を 解けることであるのかということです。先ほど 大学入試のマークシート試験について指摘した ことと、今 SPI 試験についてお話ししたことは、 実は同じ“計測”の問題であるということが理 解していただけると思います。 ここまで大学の入り口と出口の話をしてきた ので、今度は中の話です。中退率にこだわる、 中途退学者を出さないためには、学生たちの満 足度をアップさせねばならない、という議論は どこの大学でもあると思います。その場合、学 生たちの成長、社会人基礎力育成のために必要 なものを、大学側も学生たち自身も理解してい るということが前提とされています。ですが、 学びで何を得られたのかというときに、どうし ても例えば TOEIC や TOEFL の点数が上がっ たですとか、漢字検定の何級に合格したとか、 そういった容易に数値化できる到達度から得ら れる満足度ばかりが測られてしまってはいない か。先ほど国民総幸福の話をしましたけれども、 学生が学ぶ喜び、学びの幸福度みたいなものを 測る指標がほとんどない気がするんです。それ は学生の授業評価アンケートで満足度アップと かっていうこととは、またちょっと違うことだ と思うんです。「満足度」と「幸福度」は少し 違うんじゃないかという気がするわけです。 憧れと義務――教育の二つの源泉 もうそろそろ時間ですので、少しペースを上 げていきますけれども、教育の中で今大事なの は、学生に義務として何を押し付けるかという ことではなくて、先生に憧れるということから 得られる幸福度をいかに測るかだと思います。 この先生は何を言っているのかよく分からない けれども、でもこの先生はとにかくすごい。何 か惹かれる。そういうのが大事だと思うんです よ。振り返ってみると、私たち自身もやはりそ ういうところでモチベーションを得てきた部分 っていうのはあるのではないでしょうか。もう 一度教育の根源に立ち返って考える必要がある んじゃないかと思います。教育の二つの源泉と しての「憧れ」と「義務」(詳細は省きますが、 これもベルクソンの対概念です)について考え てみないといけないということです。 そのときに、これは小中高から続く神話です けれども、「子ども中心主義」というのがあり ます。子どものやりたいようにやらせるのがい いんだ、子どもの自発性を喚起するんだ、と。
そのとおりなんですけれども、ただ、注意しな いといけないのは、教育の中にはパラドックス があるということです。よく「主体的に学ばせ る」「自律的・自発的になるように導く・促す」 などと言いますが、導かれたり促されたりして いる時点で主体的・自律的・自発的ではないわ けで、そこには逆説があるわけです。 教育というものがもつこの根源的なパラドッ クスを考慮に入れますと、自発性を信じて学生 が「有益だ」「得だ」と判断することだけを元 に教育が行われてよいものか、よく考える必要 があります。そこで参考になるかもしれないの が、ジョルジュ・ソレルの『暴力論』です。 これは政治哲学でも重要な古典ですが、そこ でソレルは強制力(force)と暴力(violence) というのを区別しています。「強制力」という のは、無理やり何かさせる。さっきの言い方で 言えば「義務」です。それに対して「暴力」と いうのは、これは普通はあまり肯定的でない言 葉として用いられますが、ソレルの場合はちょ っと変わってまして、暴力っていうのは、強制 力じゃないんだと。確かに何か切断するような 力ではあるんだけれど、その結果何か創発的な 創造的な事態が生じてくるような力、運動に巻 き込んでいく力ということです。暴力という言 葉自体はあんまり良くない言葉ですけれども、 彼がここで提出している考え方自体は非常に参 考になるところがあると思うんです。 子ども中心主義がさらに強まると消費者主義 になります。学生は消費者、ユーザーなので、 ユーザーフレンドリーな教育を行わねばならな いというわけです。こういう場合、学生の“ニ ーズ”を、えてして学生目線だけから考えてし まう。学生に何が与えられるべきなのかを考え ない傾向があるように思うんです。 けれども、教育とは〈出会い損ないによって 出会う〉ものです。こういうものを与えますよ って約束されて、文字通りそれを与えられて、 「ああ良かった、満足」というのと、教育とは 少し違うんじゃないか。先ほど満足度と幸福度 は違うと言いましたけれども、私たちが例えば、 好きな人と出会って望むことは満足じゃなくて 幸福じゃないかと。全然思ってもみなかったよ うなサプライズを与えられたときに、ドキドキ したり、うれしかったりする。これは教育でも 同じだと思うんです。教育とは〈約束されたも のとは違うものを手に入れる約束〉なのではな いかという気がするんです。ベルクソンの言う 「憧れ」、ソレルの言う「暴力」が指している事 態がこれです。 「社会人」養成か、「会社人」養成か ところが、今の大学というのは、悪くいくと 思考停止ビジネスと言いますか、学生になるべ く考えさせないような方向に進んでいる気がす るんです。これは一見すると「子ども中心主義」 「消費者主義」と真逆のように見えますが、実 は同じ事態の表と裏です。学生に与えるものは すべて決めて、カリキュラムなんかもかなりガ チガチに組んで、さきほど藤本さんが見せてく ださった授業計画みたいに、何分には何をして というところまでね。就活指導なんかでもそう です。一年生のころから就活セミナーに行って、 もう入り口から出口までカッチリとプランニン グされていてという。一体そこから何が生まれ てくるんだろうかっていう、その問いかけ自体 があまりないような気がするんですよ。 言い換えると、「社会人」養成って言いながら、 「会社人」を養成している気がするんです。日 本の今の社会もそれを求めているし、親御さん も学生さんも求めている気がする。でも、社会 は会社じゃない。会社が社会のすべてではない し、人生のすべてでもない(この話に興味のあ る方はぜひ『ザ・コーポレーション』という映 画を見てください)。 大学というのはむしろ、就職した会社が倒産 しようが、そこから早期離職しようが、その後、 残りの人生を心豊かに生き抜いていけるように 準備をするための場所であるべきなのではない でしょうか。ですから、就職活動はもちろん大 事なんですけれども、その後まで含めたような ことが考えていければいいのかなと思います。 学力を付けるっていうときに、生き抜いていく 学力こそが考えられるべきだと。豊かに生きる というとき、その豊かさの質、そこに流れてい る時間をいかなる尺度で測るのか。大学には、