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19世紀イングランド農村における収穫儀礼 : Ashdon の落穂拾いの慣習に関連して

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19世紀イングランド農村における収穫儀礼 :

Ashdon の落穂拾いの慣習に関連して

著者

大嶋 渚

雑誌名

人文論究

67

2

ページ

119-139

発行年

2017-09-20

URL

http://hdl.handle.net/10236/00026036

(2)

19

世紀イングランド農村における収穫儀礼

──Ashdon の落穂拾いの慣習に関連して──

大 嶋

は じ め に

落穂拾いとは,収穫期の後に,刈取り人たちが残した麦の穂を小屋住み農や 貧民たちが拾う慣習的な権利である(1)。近代以降になると,とりわけイング ランド東部のイーストアングリアを中心に広く行われた農村の慣習である。 18-19世紀のイングランドの農村社会では,泥炭採掘権,枯れ木拾いの権利 等,貧民救済を目的に様々な慣習が行われており,様々な慣習が取り巻く当時 の農村社会は「慣習社会」であるとも指摘されているが(2),なかでも落穂拾 いは 18 世紀末の裁判事件により全国的に注目を浴びることとなった。それ以 前の落穂拾いを巡る裁判は,穀物の刈取り前に田畑に入り落穂拾いを行って, 訴訟事件に発展するケースが主流であったが,1788 年の裁判事件は,「コモ ン・ロー上,いかなる者も収穫期の農地で落穂拾いをする権利を有しない。合 法的に教区に定住している貧民もその権利を有しない」という判決により(3) 落穂拾いそのものが否定されることとなったからである。 ────────────

⑴ L. W. Cowie, The Wordsworth Dictionary of British Social History(1973, Lon-don), p.130.

⑵ R. W. Bushaway,“Rite, Legitimation and Community in Southern England 1700-1750 : The Ideology of Custom,”in Barry Stapleton(ed.), Conflict and

Community in Southern England(New York, 1992), p.117.

⑶ “Worlledge v Manning 1 H Blackstone 53 n, 126 ER 34,”English Reports, CD -ROM(Oxford, 2001);“Steel v Houghton 1 H Blackstone 51, 126 ER 32,”

English Reports, CD-ROM(Oxford, 2001).

(3)

この裁判事件は,近代的所有権の概念の浸透,また議会による第二次囲い込 みの展開などの影響を受けて,すなわちポリティカル・エコノミー的なものの 潮流によって,従来のモラル・エコノミーに基づく慣習が法律上否定されたも のであったが,この裁判事件により,落穂拾いが消滅したわけではなかっ た(4)。イングランドの農村社会が大きく変容していくなかで,モラル・エコ ノミーに基づく落穂拾いという慣習もまた,規律化を担うべく新たな形態を取 って存続していったのである。公平な分配のために「落穂拾いの鐘」が鳴らさ れ,落穂拾いの開始と終了を告げて時間を制御することや,落穂拾い人の中で 選出された「落穂拾いの女王」が落穂拾い人を監督し,指揮するようになった のであった。 ここで注目すべきは,その「落穂拾いの鐘」や「落穂拾いの女王」といった 新たな慣習・儀礼は,ファーマーと落穂拾い人の間の互酬的関係に基づくもの であった点である。イングランドの農村部では,農作業で最も忙しい収穫期 に,「落穂拾いの鐘」や「落穂拾いの女王」の他にも,ファーマーと農民の間 の互酬関係に基づく様々な慣習や儀礼が存在し,それらの慣習や儀礼が一連の 収穫作業に伴って行われていた。本論は,盛んに落穂拾いが行われ,落穂拾い の規律化の主要な 3 つの手段−立ち束の「警官」,「落穂拾いの鐘」,「落ち穂 拾いの女王」−がすべて存在していた唯一の教区であるエセックス州の Ash-donでの落穂拾いの慣習との関連に注目しながら,収穫期に見られた多様な 慣習・儀礼の一端を明らかにし,それらの慣習・儀礼の中に落穂拾いを位置づ けようとするものである。

1.先 行 研 究

落穂拾いは農村社会の慣習の一つとして古くから知られているが,先述の ────────────

⑷ E. P. Thompson,“The Grid of Inheritance : A Comment,”in J. Goody, J. Thirsk and E. P. Thompson(eds.), Family and Inheritance (Cambridge, 1976), pp.340-341;拙稿,「19 世紀イングランド農村における落穂拾いの規律化 ──落穂拾いの鐘を中心に──」『西洋史学』第 263 号,2017 年,18-35 頁。 120 19世紀イングランド農村における収穫儀礼

(4)

1788年の裁判は特に注目されてきた。例えば,ハモンド夫妻(J. L. Ham-mond and Barbara HamHam-mond)やトムスン(E. P. Thompson)らが泥炭採 掘権や枯れ木拾いの権利などが犯罪化されるなかで,一連の慣習が犯罪化され る動きの 1 つに落穂拾いを位置付けている(5) 一方,トムスンらのいうような,一連の慣習が「犯罪化」され,慣習が否定 されたという農村社会の捉え方に批判的な見解を示したのが,1788 年の裁判 事件を詳細に分析したピーター・キング(Peter King)である。キングは 1788年の裁判の判決による法的な支配と農村における実際面での施行や効力 の問題を同一視出来ないと指摘しつつ,落穂拾いのような特定の慣習が,ある 地方でその効力を発揮する「地方的コモン・ロー」(the local common law) のもとに,さほど裁判の影響を受けずに存続したことを立証している(6)。さ らにキングは,落穂拾いが 18-19 世紀の間,長期にわたって存続した背景に, 落穂拾いが否定された時に,女性たちを中心とした抵抗運動があったことや, 落穂拾いの占める家計の重要性も指摘している(7)。落穂拾いは,裁判以降も 依然として「最も広く行われた慣習的行為」として行われていたのである(8) 18-19世紀のイングランド農村社会の様相を,収穫祭などをはじめ,広い視 野から分析したのが,B. ブッシャウェイ(Bob Bushaway)や R. W.(ブッ シャウェイ)Bushaway, D. H. モーガン(David Hoseason Morgan)(9)らで

ある。なかでも,R. W. ブッシャウェイは,農村社会における「慣習」の意義

────────────

⑸ J. L. Hammond and Barbara Hammond, The Village Labourer(London, 1911, 1978); E. P. Thompson, Whigs and Hunters(Harmondsworth, 1976). ⑹ Peter King,“Legal Change, Customary Rights, and Social Conflict in Late

Eighteenth-Century England : The Origins of the Great Gleaning Case of 1788,”Law and History Review 10.1(Spring 1992), pp.1-31.

⑺ Peter King,“Gleaners, Farmers, and Failure of the Legal Sunctions in Eng-land 1750-1850,”Past and Present 125-1(1989), pp.117-118 ; Peter King “Customary Rights and Women’s Earnings : The Importance of Gleaning to the Rural Labouring Poor, 1750-1850,”Economic History Review 44-3(1991), pp.470-471.

⑻ Bob Bushaway, By Rite(London, 1982), p.138.

David Hoseason Morgan, Harvesters and Harvesting 1840-1900(London, 1982).

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に注目している。彼は,この時期の民衆の慣習を,田舎の貧しい労働者たち の,村での人間関係に関する見解から生まれ,その見解に影響を与えるものと 捉え,田舎の労働者が抱く「諸々の価値観や信念等から形成される,包括的な 一つのシステムないし一つの心的世界(mental world)の土台」となるもの と見なしている(10)。そして民衆の慣習をたんに過去からの「生き残り」とし てみるのではなく,慣習こそが農村生活の中心にあることを認識し,慣習を 「農村生活の中の,通常では隠されている,諸関係の,葛藤と緊張を明らかに する」,「刷新的で,ダイナミックなもの」であり「社会変化の一部」をなすも のであったとし,そのような諸関係の葛藤と緊張こそが,慣習をめぐる人々の 「闘争の領域(a terrain of struggle)」であったと主張している(11)。先述のピ

ーター・キングや福士正博(12)は,R. W. ブッシャウェイと同じ問題意識に立

ち,「闘争の領域」という視点から,労働者とファーマーの社会的闘争に焦点 を当て,落穂拾いという民衆の慣習を考察している。

Ashdonに関する主要な文献史料としては,エセックス・レコード・オフィ スのチェルミスフォード支部の勤務しつつ,1952-1959 年にかけて精力的に Ashdon村を調査したアンジェラ・グリーン(Angera Green)による極めて 実証的な研究書 Ashdon がある(13)。また,Annals of Ashdon(1988)(14) Five Mile sfrom Bunkum(1972)(15)には,Ashdon のの歴史や生活の比較的

詳しい記述が見いだせる。Annals of Ashdon は,中世から 20 世紀までの Ashdonの村人の生活を記したものである。その中に 1884 年生まれで 1974 年に亡くなったメアリー・グッドウィン(Mary Goodwin)が,著者に対して

────────────

⑽ R. W. Bushaway,“Rite, Legitimation and Community in Southern England 1700-1750 : The Ideology of Custom,”in Barry Stapleton(ed.), Conflict and

Community in Southern England(New York, 1992), p.111. ⑾ Bushaway(1992), op.cit., pp.112, 114, 123.

⑿ 福士正博「慣習社会の変容−産業革命期イギリスの落穂拾い」『東京経大学会誌』 第 191 号,1995 年,231-249 頁。

⒀ Angera Green, Ashdon(Aldham, 1989).

⒁ Robert Gibson, Annals of Ashdon(Hunstanton, 1988).

⒂ Christopher Ketteridge and Spike Mays, Five Miles from Bunkum(London, 1972).

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語った彼女の Ashdon での生活のインタビュー記事が掲載されている。彼女 はケンブリッジとエセックスの州境の村,Linton(ケンブリッジ州)で生ま れ,14 歳以降,すなわち 1898 年以降,Ashdon で暮らすようになった女性で あり,その記事には,彼女がアシュドンで実際に行っていた落穂拾いのことが 具体的に語られている。Five Miles from Bunkum は,1901 年 Ashdon 生ま れのクリストファー・ケタリッジ(Christopher Ketteridge)及び 1907 年サ フォークの Glemsford 生まれで,1914 年から Ashdon に移り住むようにな ったスパイク・メイズ(Spike Mays)による共著で,20 世紀初頭の Ashdon の生活,特にその村の職人の最後の世代の暮らしや仕事ぶりが描かれている。 また,広くエセックス州の落穂拾いに関しては,Essex Review の第 12 巻 (1903 年)と第 34 巻(1925 年)に,関係記事が寄稿されており,貴重な情 報を提供してくれるものとなっている。しかも,それらの巻は 20 世紀初頭に 刊行されたもので,グッドウィルやケタリッジらが生きていた時代とも重なっ ている(16) 収穫期の慣習や儀礼に関しては,落ち穂拾いに関する研究と同様,本格的な まとまった研究はなされていないのが現状である。先述の R. W. ブッシャウ ェイが少し詳細にそれらの慣習や儀礼の一端を論じているが,他にめぼしいも のはないと言える。むしろ,チャールズ・カイトリー(Charles Kightly)の 民俗学の著作(17)や,チェインバーズ(R. H. Chambers)やウィリアム・ホー ン(William Hone)の雑学(trivia)的な本(18)の中に,それらの伝統的な慣 習が興味深い風習や行事として紹介されているのを見いだことができる。 さて,ここで Ashdon について説明しておきたい。Ashdon は 18 世紀に豊 ────────────

⒃ The Essex Review 12(1903);The Essex Review 34(1925).

⒄ Charles Kightly, The Perpetual Almanack of Folklore(London, 1987, 1994); チャールズ・カイトリー(澁谷勉訳)『イギリス祭事・民俗事典』,大修館書店, 1992年;チャールズ・カイトリー(澁谷勉訳)『イギリス祭事暦』,大修館書店, 1995年。

⒅ R. H. Chambers(ed.), The Book of Days, 2 vols.(London and Edinburgh, 1863-1864);William Hone, The Every-Day Book and Table Book, 3 vols. (London, 1838).

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かな穀物地帯に変貌を遂げたエセックス州の北部に位置する農村の 1 つであ る。1909 年においても落穂拾いの鐘が鳴らされていた教区であり,落穂拾い が盛んなエセックス州の中でもとりわけその活動が活発に行われていた教区で あった。19 世紀において Ashdon の全面積は 5020 エーカー。エセックス州 では 1000∼3000 エーカーの面積をもつ教区が大半を占めていたので,Ash-donはその州の中でも比較的大きな面積を持つ教区であったと言える(19) Ashdonでは,19 世紀半ば,1851 年に議会エンクロージャーが完了し,51 人 のファーマーによってその囲い込まれた農耕地が所有されていた(20)。このよ うに落穂拾いは囲い込まれた畑でもひきつづき行われたのである。Ashdon の 人口は,1801 年で 873 名で,以後漸次増加して,1851 年には 1238 名のピー クに達しているが,以後機械化の進展によって農業人口は次第に減少し, 1936年にはわずか 560 人になっている(21) 19世紀の Ashdon 教区では,全部で 6 個の鐘が鳴らされていたことが知ら れている。4 番目の鐘が葬式のために鳴らされ,日曜日には 4 番目と 5 番目の 鐘が午前 9 時に礼拝の告知のために鳴らされた。そして収穫期には 4 番目の 鐘が午前 9 時と午後 5 時に落穂拾いの鐘として鳴らされていた(22)。このよう に Ashdon では,落穂拾いは 4 番目の鐘によって告知されて行われ,その慣 習は 20 世紀初頭まで脈々と続けられていたのである。

2.収穫作業の工程と慣習・儀礼

1年間の農作業の過程において,その頂点を画するのが収穫作業であること ────────────

⒆ TheVictoria History of the County of Essex, vol.2(London, 1907), pp.343-354. ⒇ Green, op.cit., pp.39-41.

Ibid., p.60.

その他,1 番目の鐘は,教区委任牧師(Rev. Benedict Chapman)によって寄付 さ れ た 鐘 で あ る。2 番 目 と 6 番 目 の 鐘 は 聖 金 曜 日 に 鳴 ら さ れ て い た。(Cecil Deedes and H. B. Walters, The Church Bells of Essex[1909], pp.160-161 ; Green, op.cit., p.167.)。

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は,今も昔も変わりはない。しかし,その収穫作業そのものは時の経過と共に 変容を被りながら今日に至っている。一般に収穫作業の機械化が進展する以前 の,19 世紀中葉までは,8 月に始まる穀物の収穫作業は,昔ながらの以下の 5 つの工程で行われていた(23) (1)刈り取り作業(reaping/mowing):小鎌(sickle)や大鎌(scythe)で 刈り取る

(2)集桿・結束作業(gathering and binding):刈りとられた穀物を集めて 束ね,刈り束(sheaf)にする

(3)乾燥作業(stoking):刈り束を寄せ集めて立ち束(stook/shock)にし て,穀物を熟成させ,1 週間かそこら,長いところでは 20 日間ほど, 畑で乾燥させる

(4)搬入作業(carting and stacking):畑から荷車で刈り束を農場へ運搬 し,納屋の中にあるいは積みわらにして蓄える (5)落穂を集める作業(raking):レーキで落ち穂をかき集める作業 農作業の中でも,これらの収穫作業には,穀物を刈り取り,束にして荷車に 載せて運び込むことだけでなく,そのための労働力の組織,賃金や慣習的な報 酬などあらゆる事柄について慣習と儀礼が複雑に編み込まれていたと指摘され ている(24)。そのため収穫期は,労働報酬の上昇,収穫後の落穂拾いの権利, 収穫祭,収穫の御祝儀(harvest largess)など,年収に多くの追加収入が見 込まれ,刈取り人として働く労働貧民にとって,極めて重要な期間であっ た(25)。このような収穫期における慣習(harvest customs)は,一年の農作業 の節目に行われるものの一つで,最も重要なものであった。言い換えれば,上 ────────────

Michael Roberts,“Sickles and Scythes,”History Workshop 7.1(1979), pp.10, 12, 16, 18;加用信文『イギリス古農書考』,御茶の水書房,1989 年,53 頁。 Bushaway(1982), op.cit., p.71.

Ibid., p.71.

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述の収穫作業は,その作業の,ある段階で,それぞれ特有の慣習(harvest custom)や儀礼(harvest ritual),すなわち慣習行事を伴って行われていた のである。 それらの慣習や儀礼は,地方ごとに,村ごとに,さらには農場ごとに異なっ た特色を持ち,多くは,ファーマーの性格,穀物の種類,その他個別の環境に よって左右され(26),その上,時の経過とともに少なからず変容していったが, ここでは,収穫作業の開始と終了の時期に行われる主要な慣習と儀礼──「収 穫の王」,「最後の束」,「最後の積み荷」,「収穫の祝宴」と「落穂拾い」──を 中心に見ていくこととする。 (1)「収穫の王」の選出 イングランドの多くの地域で,収穫の開始直前,ファーマーたちは,経験の 積んだ労働者に収穫の監督を任せるのが一般的で,刈り取り人たちの間で, 「収穫の王」(harvest lord)や「収穫の貴婦人」(the lady of the harvest)と

呼ばれる男性を選出するのが慣例であった(27)

The Book of Days(1881)の記述をみると,「収穫の王」は,草刈や穀物の 刈取り,その他収穫に関するあらゆるすべての事柄」についてファーマーたち との折衝役を担い,大鎌もしくは小鎌を手にして仲間たちを先導し,収穫期の 間,一息入れるときには,最初に飲み食いすることになっていた。彼の命令 は,「私のご主人様」と呼ばなければならない残りのすべての人たちにとって 法律と同等の意味をもっており,違反した場合,彼とその「家臣」の合意の上 で,罰則が定められていたとされている。さらに,バッキンガムシャーやその 他の地域では,「貴婦人(Lady)」も選出され,その者は「収穫の王」が受け るのと同様の敬意を他の労働者から受けていた。例えば,酒を飲むときには, 家臣の労働者が角杯をまず「貴婦人」に渡し,そして「貴婦人」から「王」に ────────────

Jacqueline Simpson and Steve Roud, A Dictionary of English Folklore(New York, 2000), p.167.

Ibid., p.167.

(10)

手渡される。それから「王」が最初に酒を飲み,二番目に「貴婦人」,その次 にその他の労働者が飲むことが許されたのである。この決まり事の違反には科 料が課せられたと記されている(28) ブッシャウェイも指摘するように,「収穫の王」は,(i)刈り入れ作業や労 賃や諸条件について雇い主,すなわちファーマーと交渉する任務を負うととも に,農場では作業監督として,刈り取り作業全般をとりしきっていた。すなわ ち,(ii)仕事のテンポの調整を行い,(iii)仕事の遅れている者には注意を し,さらには,(iv)鎌を磨いたり,食事をしたり,あるいは雇い主から供さ れる仕来りになっている景気付けのビールやりんご酒などのための休止の命令 を出すのが,「収穫の王」の主な役目であった。また,(v)通りがかりの人 や,不意の訪問者や,近隣の家から「御祝儀」(largess/ largesse)を求める 役目も,収穫の王の重要な仕事とされていた(29) さらに,“shoing(i.e., shoeing)”と呼ばれる,新参者の加入儀礼を執り行 は づ な うのも,収穫の王の仕事であった。まず,収穫の王が,(牛馬用の)端綱を新 参者の頭の上に置き,収穫の貴婦人(一列に並んで刈り取りを行うときには, 収穫の王の隣で刈り取り作業を行った)が,新参者の片足を持ち上げて,小さ なハンマーでその足のとんとんとたたき,ビール代を要求する。このようにし て新参者がみな shoe されたら,彼らが,収穫の王のもとで,守らねばならな い,収穫の規則(the Harvest Rules)が読み上げられる。もし人が 1 日仕事 を休んだら,お酒が原因で休んだのなら 10 シリングの罰金,何らかの用事や 家庭の事情でやすんだのなら 5 シリングの罰金,病気が原因なら 2 シリング の罰金等が規則として定められていた(30) Ashdonにおける「収穫の王」に関しては,学校に上がる頃に Ashdon に移 り住んだハーバート・ファレント(Herbert Farrent, 1883-1973)が,ギブソ ンの 1971 年のインタビュー調査の中で,次のように答えている(31) ────────────

Chambers, vol.II(1864), op.cit., p.376. Bushaway(1982), op.cit., p.71.

Ibid., p.71.

Gibson, op.cit., p.228.

127 19世紀イングランド農村における収穫儀礼

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収穫の王(the Lord of the Harvest)は,ファーマーと取引を行い, 私たちがどれほど早く刈り取り,いつ自分たちの食事を中断するのかを示 さなければならなかった。彼は,全ての御祝儀(Largess)のお金を預か っていた。彼の下に貴婦人(the lady)と呼ばれる人がいて,あなた方の 言うような副司令官の立場にあった。 また,御祝儀を刈取り人たちが獲得しやすくするための様々なルールがあった ことも伝えている。ファレントによれば,「自分たちの知らない人が,自分た ちから十分近いところで田畑を通り過ぎたら,わしらが全員,生垣の所まで行 って『御祝儀!』と叫ぶと,お金を払ってくれることになっていた。ファーマ ーも何かしら御祝儀袋に入れてくれた」という(32) ケタリッジとメイズによれば,彼らの時代には,長年ジョージ・スミス (George Smith)が「収穫の王」に選ばれていた。彼は,60 歳を越えた老人 で,Ashdon Place Farm の馬の世話係(horsekeeper)で,彼の娘と一緒に Overhall Laneの麓にある雇人用コテッジ(33)に住んでいた。彼は,大型の農 耕馬をこよなく愛し,またその馬の病気や健康面に関する知識も豊富に持ち合 わせていたので,ファーマーたちが彼の忠告と診断を求めて,何マイルもかけ てやって来たという。 Ashdonでは,年長で農業に関する知識も経験も豊富なベテランが「収穫の 王」に選ばれ,その彼の仕事を補佐する「貴婦人」も選出されていた。「収穫 の王」は,ファーマーとの間で刈り取り作業の細かな取り決めを行うととも に,「御祝儀」の管理も行っている。そして,「収穫の王」と「貴婦人」を中心 に,刈り取り作業が「御祝儀」の慣習・儀礼的行為を伴って行われていたので あった。 「収穫の王」や「収穫の貴婦人」,その王の下での“shoing(i.e., shoeing)” ──────────── Ibid., p.113. 雇人用コテッジ(tied cottage)とは,その居住者が,その農場で働くことを義務 づけられた,農業労働者用のコテッジのこと(『オックスフォード英語辞典』)。 128 19世紀イングランド農村における収穫儀礼

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や「御祝儀」の儀礼−ファーマーと農民の間の互酬関係に基づく,これらの慣 習的儀礼と共に,収穫作業の始まりを画する刈り取り作業が開始され,遂行さ れていったのであった。 (2)「最後の束」と「最後の積み荷」 収穫期の終わり頃になると,その大変な労力を有する収穫作業の終了を祝っ て様々な儀礼が催された。刈り取り作業の終了を象徴する「最後の麦束」や搬 入作業の終了を祝す「最後の積み荷」はその代表的なものである。 刈り取りが手動農具で行なわれていた時代には,最後の一束となる小麦を刈 り取るための伝統的な儀式があった。それは,一般的に,刈り残された最後の 一掴みの麦の束を,穂のすぐ下の茎のところで結わえて束にし,刈り取り人全 員がそれを目がけて鎌を投げつけるというものである。例えば,デヴォン州で は,刈り取り人の一人が「最後の麦束」を切り倒すことができると,「雌馬を 打ち取った」(got the Mare)とか「雄の雁の首を切り落した」(cut theGan-der)と大声で叫ぶ,あるいは,「最後の束」が切り倒された瞬間,「やったぞ」 と一人が叫び,すると仲間たちが「何をやったって?」と応じた後,全員揃っ て“A neck! A neck!”(「麦の首,麦の首」)と歓声を上げるという儀式が行わ れていたことが知られている(34) また,刈り取り人は多くは男性であったが,もし若い娘が「最後の麦束」を 刈り取るのを任されたならば,彼女は「収穫の女王」(harvest queen)と呼 ばれ,夏のいろいろな花によって飾られて,「最後の荷車」に乗せられた。最 後の麦束は「麦藁人形」(corn dollies)に編まれたり,その人形に女物の衣服 を着せて,収穫の祝宴の間,主賓席に置かれ,次の収穫の年まで,お守りとし て大切に保存する地方もあったといわれている(35) いずれにしても,最後の麦束を神聖視する傾向がみられるが,その背景に は,最後の麦束に対して,おそらく最後の麦束には麦の精(Corn Spirit)が ──────────── カイトリー(1992),前掲書,187 頁。 同上書,188 頁;Morgan, op.cit., p.164. 129 19世紀イングランド農村における収穫儀礼

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宿っていると信じていた異教徒の信仰の名残であろうと考えられており,ま た,全員が鎌を投げて最後の麦束を刈り取る慣習は,もとは麦束に宿る麦の精 を「殺すこと」によって,下手人自身に降りかかる恐ろしい悪運を刈り取り人 全員に分散させたり,あるいは,それを回避する為の方法として始められたも のだとも言われている(36)

刈り取り作業後の「搬入作業」(carting and stacking)では,「最後の積み 荷」(last load/harvest home)を運ぶ儀礼がイングランド各地の農村で広く 行われていた。チャールズ・カイトリーによれば,「最後の積み荷」は,「最後 の積み荷車」(hock cart)に積まれて,図の Harvest-Home のように,歓声 の声に包まれて運び込まれるのがしきたりであった。すなわち,最後の積み荷 は,「旗や木の枝や花で飾られ,時にはその頂上に最後に刈り取った麦束が載 せられてから,念入りに飾り付けた馬に引かれ,刈り取り人達に取り巻かれた 村内を引き回された。その間歓声をあげたり,歌を歌いながら意気揚々と練り 歩く刈り取り人達や最後の積み荷に向かって,沿道から何杯もバケツの雨を降 らせるところ」もあったといわれている(37) モーガンによれば,1830 年代のオックスフォードの Ducklington では, 「最後の積み荷」の荷車は,4 頭の美しく飾られた馬と,カップルとなってそ の馬の上に腰を下ろしている,盛装した二人の男性と着飾って女装した二人の 男性によって運ばれ,一行が家に着くと,その 4 人の男性にはケーキがふる まわれた,という(38)3)収穫の祝宴 「最後の積み荷」が運ばれ,収穫が無事に済むと,収穫のために雇った農業 労働者や全ての使用人のために,雇い主であるファーマーが陽気な「祝宴」を 催すのがしきたりであった。地域によって,その呼称は様々であるが,har-──────────── カイトリー(1992),前掲書,188 頁。 同上書,188 頁。 Morgan, op.cit., pp.163-164. 130 19世紀イングランド農村における収穫儀礼

(14)

vest home dinnerや harvest home の他に,Ashdon を含むイングランド東 部では horkey,北部地方では mell supper,南西部地方では harvest floric, スコットランドでは kirn-feast などと呼ばれていた(39) 『オックスフォード英語辞典』によれば,この「祝宴」としての“hockey” や“harvest-home”の初出は,1555 年と 1573 年である(40)。少なくともこの 慣習は 16 世紀半ばにはすでに確立していたと言えるようである。 「収穫の祝宴」は,一般に,「最後の積み荷」が運ばれた日の夕方,ファーマ ーの農場の納屋(barn)やその他適当な場所で開かれた(41)。この祝宴の重要 な特徴の一つは,主人であるファーマーとその家族が,雇い人たちと「身分の 上下なしに……ざっくばらんに」親しく交わることであった。主人側は,鵞鳥 の丸焼きやロースト・ビーフ,プラム・プディングなどの料理を流し込むため の大量のビールとリンゴ酒を用意し,思いやりのある雇い主の中には「あらか じめ納屋の前にきれいな藁を一面に敷き,客人たちがいつでも一休みしたり仮 眠できる場所をしつらえる」人もいた,と言われている(42) こうした陽気な「収穫の祝宴」の慣習・儀礼は,19 世紀初期になると,中 流階級の道徳家や禁酒運動家たちによって「無法者と酒飲みの乱痴気騒ぎに他 ならない」と非難されるようになり,また,社会的地位の向上を望むファーマ ーたちの「卑しい刈取り夫」たちと席を共にしたくないという風潮が高まると ともに次第に廃れて行き,19 世紀後期には,教会で行われる「収穫感謝祭」 (harvest festival)という「上品で道徳的な感じの儀式」に取って代わられて 行くことになる(43) ──────────── カイトリー(1992),前掲書,189 頁。 「最後の積み荷」という意味での“harevest home”の『オックスフォード英語辞 典』での初出は 1596 年である。 Chambers, vol.II(1864),op.cit., p.379. カイトリー(1992),前掲書,p.190. 同上書,p.190 ; Bushaway(1982),op.cit., p.87. 131 19世紀イングランド農村における収穫儀礼

(15)

3.Ashdon の収穫儀礼

1)「最後の束」,「最後の積み荷」,「収穫の祝宴」 すでに述べたように,Ashdon では,収穫作業の開始において,「収穫の王」 と「貴婦人」が選出され,「御祝儀」等の儀礼が行われていたが行われていた が,収穫作業が終了に近づくと,「最後の束」と「最後の積み荷」の儀礼が執 り行われていた。ケタリッジとメイズによれば,

収 穫 人 た ち は 皆,the Horkey Bough の 取 得(the taking of the Horkey Bough)を大層,心待ちにした。最後の束(last sheaf)が最後 の積み荷(last lord)に投げ込まれると,引き馬(trace horse)は,そ の馬具を外され,太い紐が馬の襟首に結ばれ,その紐のもう片方の端は輪 にして,オークの大枝(the bough of an oak)に結ばれた。馬の世話係 (horsekeeper)からの合図で,馬が紐を引っ張り,亀裂音とともにその 大枝が幹からもぎ取られた。この大枝は,最後の積み荷の一番上に置かれ た。それから,しきたりに則って自家製のエールを──最後の束を祝して 1杯,the Horkey Bough を祝して 1 杯──飲むと,収穫人たちはその積 み荷の後について農場まで行くのだった。(44) 「最後の束」を「最後の積み荷」に載せた直後に,荷車から引き馬を取り外し, オークの大枝を引きちぎらせ,その大枝で最後の荷車を飾り,かつ,エールで 祝杯を挙げる等々──「最後の束」と「最後の積み荷」の慣習が,一連の儀礼 に則って執り行われていた様子が活写されている。 こ う し て「最 後 の 積 み 荷」が 農 場 に 運 ば れ て し ま う と,「収 穫 の 祝 宴」 (horkey)が開かれることになるが,ファーマーによりその対応はまちまちで ────────────

Ketteridge and Mays, op.cit., p.85.

(16)

あ っ た。非 国 教 徒 で,断 固 た る 禁 酒 の 擁 護 者 で あ っ た エ イ モ ス・ハ ガ ー (Amos Hagger)の Hill Farm では,決して「収穫の祝宴」は開かれなかっ た。しかし,Hill Farm で働く農業労働者たちはお金を出し合って,祝宴と感 謝のその重要な儀式をキツネ亭(the Fox Inn)で開いていたと言う。このよ うに,ファーマーが「収穫の祝宴」を行わない場合,労働者たちが自らその伝 統的な祝宴儀礼を組織し,執り行っていたこともあったのである(45)。一方,

Place Farmやその他の農場では,「祝宴」(the Horkey festival)が執り行わ れていた。ケタリッジとメイズによれば,Place Farm の「祝宴」はボンネッ ト亭(the Bonnet Inn)で開かれていた。そのボンネット亭での祝宴では, 長年「収穫の王」を務めているジョージ・スミスが,いつも賛美歌やバラッド の歌をリードしていた。刈り取りを行う畑でも,船や船乗りに関する歌を歌う 彼の豊かで美しいテノールが,切り株を越えてよく鳴り響いたものだったとい う(46)。Place Farm の「収穫の王」は,畑の中だけでなく,「祝宴」でも中心 的役割を果たしていたようで あ る。グ リ ー ン に よ れ ば,ウ ォ ー ル ト ン ズ (Waltons)家の地所では,「祝宴」の儀式が 1916 年までボネット亭で行われ ていたという(47)。19 世紀後期には各地で「収穫の祝宴」が「収穫感謝祭」に 取って代わられて行ったが,Ashdon ではその伝統が 20 世紀初頭まで生き残 っていたことになる。 (2)落穂拾い 収穫期の一連の慣習・儀礼の内で,最後を飾るものが,落穂拾いであるとい ってよい。それは,Ashdon では,畑の出入りを禁止する「警官」が取り除か れ,「女王」が監督・指揮する慣習・儀礼であった。 ──────────── Ibid., pp.85-86. Ibid., p.86. Green, op.cit., p.47. 133 19世紀イングランド農村における収穫儀礼

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(i)「警官」──ファーマー側の落穂拾いを禁止する儀礼 ファーマー側が畑に立ち束を置いて,その畑ではまだ落穂拾いを開始しては ならないということを落穂拾い人に示す慣習があった。そのような立ち束は, エセックスでは「見張りの束」(guard-sheaf)ないし「警 官」(policeman) と呼ばれ,同様の規制はサフォークやノーフォークでも見られた(48) Ashdonでも,「警官」の規制が設けられていた。グッドウィンによれば, それは「皆が見えるように」畑の中央に置かれた,大きな一つの古い立ち束 で,それが取り除かれるまで畑に入って落穂拾いをしてはならないという,畑 への立ち入り禁止を示す印であった(49)。一方,ケタリッジとメイズは,「落穂 拾いをすればたっぷりと収穫がありそうな,レーキがかけられていない畑の中 に残されて立っているオオムギか豆の一つの立ち束」は「警官」(policeman) と呼ばれ,「立ち入り禁止」の印で,ファーマーが豚を放すためにその畑を選 んだことを示すものであった,と述べている(50)。この場合は,落穂拾いその ものを禁止しており,同じ「警官」ではあっても,畑の穀物の種類によって, その意味する「印」が異なっていたことが分かる。 従来,小麦畑においては,落穂拾いは,畑を清掃する作用をなし,冬の鋤耕 の準備をなすものと見なされたので,ファーマーたちにとっても小麦の落穂拾 いはむしろ有益であり,落穂拾い人たちにとっても,落穂拾いされた小麦は, 脱穀後,地元や近隣の製粉業者によって小麦粉に挽いて貰い,一家の食するパ ンとなる,極めて貴重なものであった。それ故,ファーマーたちも小麦の落穂 拾いに関しては,「警官」などの規制を設けながらも,ほぼ全面的に認めてい たのであり,実際,小麦の落穂拾いに関する裁判訴訟はまれであった。しか し,大麦や豆類に関しては事情が異なり,それらの落穂拾いは必ずしも全面的 に認められていたわけではなかった。大麦や豆類は,家畜のえさ(飼料),特 に豚のえさとして使用されたからである。一般にファーマーは農民が家畜を飼 ──────────── 大嶋,前掲論文,25 頁。 Gibson, op.cit., p.232.

Ketteridge and Mays, op.cit., p.82.

(18)

うことを望んでいなかったと言われている。落穂拾いで供給された飼料が使い 尽くされると,農民がファーマーの穀物倉から飼料をくすねることになるかも しれないと危惧し,それゆえ,農場によっては,労働者たち──とりわけ,穀 物倉の鍵を預かっている荷車係(carter)──が,豚や家禽を飼うことを禁じ ていた。19 世紀の落穂拾いの裁判事件のほとんど全ては,大麦や豆類に関す るものであった,と指摘されている(51) ところで,グッドウィンは明らかに小麦畑の落穂拾いのことを述べている。 エセックスに限らず,一般に小麦畑では落穂拾いがなされた後に,豚や牛を放 すことが行われていた。一方,ケタリッジらが述べているのは,大麦畑と豆畑 のことである。Ashdon では,当時,小麦の収穫が一番最初になされ,その 後,エン麦,大麦,豆の順で収穫作業が行われていた(52)。しかも,大麦畑で も豆畑においても落穂拾いが行われていた。豆畑の場合,刈り取り人(break-ers)が bagging hook で刈り取る作業を行い,それを積み上げ人(pitcher) が荷車に放り投げた後,女性たちが豆の落穂拾いを行ったのである。それらの 畑のなかに,ファーマーが家畜の飼料となる大麦と豆の落穂拾いを認めず,搬 送作業が済むとすぐに豚を放す畑が一部存在し,その畑に立てられた「警官」 のことをケタリッジらは述べているのだと考えられる。Ashdon は小麦だけで なく,大麦や豆類も含んだ,多様な落穂拾いが行われていたる教区であったと 言えるようである。 (ii)「落穂拾いの女王」 さて,「警官」が畑から取り除かれると,いよいよ落穂拾いが開始されるこ とになるが始められるのであるが,Ashdon の場合も,落穂拾い人を行う女性 たちは,落穂拾い拾いを行う期間,落穂拾い人たちによって選出された「女 ────────────

David H. Morgan,“The Place of Harvesters in Nineteenth-Century Village Life”in Raphael Samuel(ed.), Village Life and Labour(London, 1975), p.56 ; Jane Humphries,“Enclosures, Common Rights, and Women,”The

Journal of Economic History 50-1(Mar., 1990), pp.34-35. Ketteridge and Mays(1972), op.cit., p.82.

135 19世紀イングランド農村における収穫儀礼

(19)

王」(Queen)によって取りしきられていた。 落穂拾いの女王については,1860 年のノッティンガムシャーの Rempstone の事例が最もよく知られている。この「女王」は花や木の枝で飾られた肘掛け 椅子の王座に腰掛け,彼女の臣下たちよって,「落穂拾いが最初にされる畑」 に運ばれて,1.毎朝彼女の従者が鐘を鳴らすこと,2.8 時半に村の外れに集 合し,女王が畑に案内すること,3.女王に先導されることなく田畑で落穂拾 いをしたら没収される,という三つの掟を宣言し,落穂拾いを監督する役目を 果たしている(53) Ashdonの「女王」に関しては,Rempstone のような詳細な記録は残され ていないが,グウドウィンによれば,「女王」は,皆が「公平な機会」を持て るように,朝 8 時頃と夜 7 時頃に落穂拾い鐘を鳴らして,落穂拾いの開始と 終了を監督していた(54)。ケタリッジとメイズも,落穂拾い人たちによって選 ばれた「収穫の女王」が「皆に公平な分け前を」をモットーにして,彼女が合 図するまで誰も落穂拾いを始めないように監督し,夕方の「5 時に女王が彼女 の鐘を鳴らすか,学校の時計(school clock)が鳴ると落穂拾いは終了」する こと,及び「女王の監督に従わないものは,その拾い集めた穂を取り上げら れ,ばらまかれる」という制裁を科していた,と記している(55) いずれにしても,落穂拾いの女王は,落穂拾い人たちの間で選出されたもの であり,その女王が落穂拾い人たちに「公平な分け前」と「公平な機会」を保 証するために,「落穂拾いの鐘」を鳴らすことで,その開始時間と終了時間を 厳密に管理しただけでなく,その掟に従わないものには制裁を科す権限も女王 には与えられていたのであった。落穂拾いの鐘を管理して落穂拾いの活動を統 制しようとする「女王」の存在は,大規模に集団化した落穂拾いを儀礼化して 規律化しようとする,落穂拾い人たちによる自主規制の一種であったと言え る。 ────────────

The Notes and Queries(Oct.13, 1860), p.285;大嶋,前掲論文,33 頁。 Gibson, op.cit., p.232.

Ketteridge and Mays(1972), op.cit., p.81.

(20)

(iii)落穂拾いの服装など グッドウィン及びケタリッジとメイズの史料で注目すべき点は,落穂拾いの 慣習を行うときの特種な服装ややり方が記述されていることである。この種の 史料は少なく,その意味では貴重なものと言える。 日中,ずっと腰を屈めて落穂拾いしている時には,太陽から背中や首をかば うことが重要だった。そのため,落ち穂拾いを行う女性たちは,頭に色物のス カーフやキャリコのボンネット,男物の赤と白の,隅に結び目のスカーフ,あ るいはまびさしを後ろ向きにかぶった男物のキャップを被っていた。その色と りどりの服装ゆえに,とても華やかな光景を呈していたという(56) また,女性たちは,質素な服の上にたっぷりした,カンガルーが持っている ような袋が縫い合わされた「ズック製のエプロン」(sack aprons)や粗いリ ンネルで作られた袋状の totty-bags と呼ばれるものを身につけ,短い落ち穂 はその袋の中に入れて集め,その袋がいっぱいになると,持参してきた,自家 製の強くて丈夫なベッド用素材で作られた大袋(sack)に移しかえる作業を 行っている。長い穂は gleaner’s knot と呼ばれる結び目で茎を結んで束ね, その束は畑の傍らに山積みにされる。この gleaner’s knot と言われる結び目 が出来るようになるのには熟練が必要で,その結び目が出来ない者ははさみを 使って穂を切り落とし,totty-bags に入れる。そのようにして集められた落ち 穂の束は,頭に載せて,短い穂の入った大袋は引きずって家に持ち帰ることに なる。エセックス州の White Colne では,落ち穂を持って帰るのに「枕カヴ ァーと乳母車」が利用されている(57) Ashdonでは,一家の主婦は 1 日に 2 回,落穂を家へ持ち帰っている。お昼 になると,一家の主婦は,午前中に集めた落ち穂の束を頭に載せて一旦,帰宅 し,畑で働く男性達の昼食の支度をしたのである。その間,祖母や独身女性や 子供達は居残り,木陰や生け垣で昼食と休憩を取ることになる。そして昼食後 ────────────

Ketteridge and Mays, op.cit., pp.80-81.

Ibid., p.81 ; Gibson, op.cit., pp.232-233.

137 19世紀イングランド農村における収穫儀礼

(21)

は,5 時まで休憩なしに落穂拾いを行うことになる(58)。フローラ・トンプソ ンの『ラークライズ』(1939)に描かれているオックスフォードシャーのジャ ニパーヒルズでの落穂拾いは,「男たちの畑仕事が終わってから日暮れまで の」,夕方から夜にかけて行われる,「短時間の慌しい仕事」であったが(59) Ashdonのそれは昼食をはさんで午前と午後,1 日にわたって行われる,かな り長時間の活動であったと言える。

お わ り に

以上見てきたように,収穫期の農作業は,まず,刈り取り作業の開始前の 「収穫の王」や「貴婦人」の選出から始まり,“shoing”や「御祝儀,「最後の 束」の刈り取りと「最後の積み荷」を経て「収穫の祝宴」に至る,ファーマー と農民の互酬関係に基づく一連の慣習・儀礼を伴って行われていた,極めて儀 式化された祝祭的要素に富んだ活動であった。とりわけ,「最後の積み荷」を 載せて運ぶ Harvest Home は,極めて儀式化された祝祭であったといえる。 刈取り人たちやその家族が行列を作って「最後の積荷」をのせた荷車を曳きな がら沿道を練り歩くことは,刈取り人たちの長かった刈り取り作業からの解放 された喜びと自分たちの仕事ぶりを誇示する機会でもあったのである。 そして,これら一連の収穫儀礼の最後を飾るのが,落ち穂拾いの慣習,すな わち,「警官」や「落ち穂拾いの女王」,「落ち穂拾いの鐘」であった。 1860年代の自動送達刈り取り機,1870 年代末の馬力レーキ,1890 年代の 刈り取り結束機を経て,1940 年代には刈り取りから脱穀までの全作業を一台 の機械でこなすコンバインが登場する。こうした収穫作業の機械化の進展は, 伝統的な収穫作業の一掃とその作業に従事していた農業労働者の激減をもたら し,ひいては,収穫作業に伴っていた一連の伝統的な収穫儀礼の担い手の激減 と収穫儀礼そのものの消滅をもたらした。今後も引き続き,農作業に伴う,失 ────────────

Ketteridge and Mays, op.cit., p.81 ; Gibson, op.cit., p.232.

フローラ・トンプソン『ラークライズ』石田英子訳(朔北社,2008)23 頁。 138 19世紀イングランド農村における収穫儀礼

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われた農村の慣習・儀礼の調査を進め,ファーマーと農民の間の互酬関係に基 づく「慣習社会」としての 19 世紀イングランド農村の姿を詳らかにしていき たい。

──大学院文学研究科研究員── 図 Harvest-Home

(R. H. Chambers[ed.], The Book of Days, vol.II[1864], p.378.)

139 19世紀イングランド農村における収穫儀礼

図 Harvest-Home

参照

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