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ソ連の解体とフィンランド外交 : フィンランド・ソ連/ロシア関係の変化と西欧アイデンティティの獲得

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ソ連の解体とフィンランド外交

―フィンランド・ソ連/ロシア関係の変化と西欧アイデンティティの獲得─

髙木道子

1.はじめに  冷戦の終結によって、ソ連に隣接する東欧諸国では、内政における民主 化と外交におけるソ連との対等化の動きが加速し、内政外交の大きな転換 がはかられた。フィンランドもまた、ソ連と隣接する小国であったため冷 戦の終結によるインパクトは避けられなかったが、東欧諸国のような内政 外交における大変動は起こらなかった。特に外交面では、1989 年時点で のフィンランド外交の主眼は依然として、1948 年に結ばれたフィンラン ド・ソ連友好協力相互援助条約(以下、YYA 条約)に基礎づけられたソ 連との友好関係の維持であった。 フィンランド外交の大きなターニングポイントとなったのは、1991 年 8 月のソ連でのクーデターとその失敗、そしてそれに引き続くソ連の解体 であった。そこで、本稿ではソ連のクーデターをめぐるフィンランド政府 の対応の変化を概観するなかで、クーデターの失敗後、フィンランドに とってソ連の重要性が低下していき YYA 条約の廃棄によって戦後のフィ ン・ソ関係に終止符が打たれる過程を描く。さらに新たなロシア関係の基 礎が構築されていくと同時にロシアについての新たな脅威認識が登場する ことも指摘する。最後に、フィンランドが冷戦期を通じてソ連との関係の うえに背負ってきた自らのアイデンティティを再定義する機運が高まった 状況を示してみよう。

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2.ソ連の解体と新たなロシア関係 (1)ソ連のクーデターとフィンランド政府の対応1  冷戦期を通じて、フィンランド政府はソ連の内政外交に関する自らの立 場を公式に発言することに極めて慎重であった。とりわけ東西対立のなか でかろうじて中立を保ちたいと望むフィンランドがソ連について不用意な 発言をすれば、ソ連からの対抗措置を招くことは容易に予想できることで あった。フィンランドの独立と中立を維持するためにそうした事態は第一 に避けなければならなかったのである。しかし、独立国家であるにも関わ らず、ソ連という特定の国家についての自国の立場を明らかにしないとい う態度が、「フィンランド化」議論にも見られるように、特に西側諸国に おけるフィンランドの中立政策への不信感を醸成していたことも事実であ った。 そうしたフィンランド政府の対ソ連慎重姿勢に変化が見られたのは、ま さに 1991 年 8 月のソ連でのクーデターが失敗に終わった時からであった。 そこで初めて、フィンランド政府によってソ連の内政に対する声明や、バ ルト諸国の独立運動に対する支持が表明されるようになり、フィンランド が立場を取る際にソ連の意向を考慮する必要性が徐々に低下していった。 1991 年 8 月 19 日、ソ連では共産党の反改革派がクーデターを起こし、 ゴルバチョフを別荘に軟禁してモスクワ放送を占拠した。その日、フィン ランド政府は短い声明を出し、「戒厳令の発令がソ連での民主的な発展を 休止に至らしめている」ことに遺憾の意を表明するとし、「一刻も早く正 常な状態へ復帰すること」を期待すると述べた。これらの表現はどのよう な政権が権力を握ろうともフィンランドが良好な関係を維持できるよう に、十分曖昧なものであった。また、フィンランド政府は、反改革派によ る政権奪取を、他のほとんどの西欧諸国の反応に見られたように「クーデ ター(coup d’état)」や「非合法的(unconstitutional)」という言葉では 説明しなかった。21 日の夜、クーデターが失敗に終わったように思われ たときも依然「クーデター」という言葉は避けられ、政権奪取に対する

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CSCE 原則の見地からの非難は全くされなかった。 しかし 22 日、B・エリツィンが勝利宣言を出し、クーデターが完全 に失敗したことが判明した時、コイヴィスト大統領は記者会見を開いて 「クーデター」という言葉を初めて使い、同時にクーデターが CSCE 原則 を侵害していると強調した。これは、フィンランドがソ連の内政を戦後初 めて批判したものとなった。また、24 日には内閣の外交委員会が大統領 を交え会議を開き、バルト諸国へのこれまでの見解を変更し、「フィンラ ンドはすでにバルト諸国の独立を 1920 年代に認めており、それは一度も 取り消されておらず、したがって実際的な外交関係の再構築のみが問題で ある」と強調した2。1991 年 8 月には、フィンランドは北欧諸国の首相に よる、ロシアに対してバルト三国の領土から軍を撤兵するように求める共 同声明に参加するなど、自らの立場を積極的に表明するようになっていっ たことが分かる。 この一連のフィンランド政府の対応を見て明らかなように、クーデター が失敗した直後から、フィンランドはソ連に対して一定の自律性を獲得し はじめ、以前よりも国内の世論を考慮に入れることができるようになっ た。クーデターについての声明に関して言えば、ターニングポイントは明 らかに、クーデターが失敗に終わった 22 日のコイヴィスト大統領の記者 会見であり、そこでは「クーデター」という言葉が始めて使われ、CSCE プロセスへの言及もなされた。ソ連という隣国との関係悪化を恐れること なく、クーデターは「クーデター」と適切な名前で呼ばれるようになった3 また、当時の E・アホ首相と P・ヴァユルネン外相は、1991 年 9 月の演 説の中で、「第二次世界大戦後の協定の中で優先されていた同盟や軍事的 保証に関する考え方はその重要性を失いつつある」4と述べたが、これは ソ連や東側への特別の配慮をしていない、初めてのフィンランドの公式な 声明であったという5。フィンランドの自律性は、ソ連のクーデターが失 敗してから、確実に増大したことが確認できよう。

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(2)ソ連の解体とロシアとの新協定締結 ソ連のクーデター後、1991 年 9 月に政府は初めて、フィンランドが YYA 条約を含めた旧ソ連との全ての条約について再交渉する用意があ るということに言及した6。また、ソ連の外相 B・パンキンも、9 月にス トックホルムでのインタビューで、ソ連がフィンランドとの新たな条約 のための交渉を開始する用意があると表明した7。さらにエリツィンが、 フィンランドに対して 1939 年の侵略を謝罪し、今後フィンランドの内政 に干渉しないことを約束し、さらにフィンランドの将来的な EU 加盟に対 しても反対しないと表明するなど8、フィンランドに対して寛大な態度を とっていた。 そのような状況下で、1991 年の 9 月から条約改定の交渉が進み、交渉 途中の 12 月、ソ連が解体するのと同時に自動的に YYA 条約が無効とさ れ、ソ連の後継国としてロシア連邦とフィンランドとの間で新たな交渉が 行われたが、ソ連との交渉で作られていた条約案に多少の修正を行ったの みで交渉は妥結したのである9

その結果、1992 年 1 月に新協定(Agreement on the Foundation of Relations between the Republic of Finland and the Russian Federation) が結ばれた。ソ連崩壊後、ロシア連邦と最初に条約を結んだ西欧の国は フィンランドであった。新協定は国連憲章と CSCE 原則の承認に基づい ており、YYA 条約のような軍事条項の規定は盛り込まれなかった。議論 を呼んだのは第 4 条と第 5 条の軍事協力の規定であるが、1948 年の YYA 条約と比べて決定的に変わったことは、どちらかが攻撃を受けた際の軍事 協力の義務が、二国間を基礎としてではなく、CSCE と国連に基づいたよ り合意に基づいた協議プロセスに置き換えられたことである10。したがっ てこの新協定は、フィンランドをソ連の「勢力圏」から解放し、「フィン ランド化」の汚名を払拭するのに十分であったと言えるだろう。 ま た、 こ の 協 定 が 締 結 さ れ た 直 後 に 結 ば れ た 二 つ 目 の 協 定(The Agreement between the Government of the Republic of Finland and the Government of the Russian Federation on Cooperation in Murmansk, the

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Republic of Karelia, St. Petersburg and the Leningrad Region)は、両国 の北西ロシアでの地域協力の基盤を作るものであった。この協定は一つ目 の協定の第 6 条に掲げた内容の単なる拡張であるように見えるが11、領土 の返還請求権を放棄したフィンランドに対する正当な見返りとして、フィ ンランドが北西ロシアでの経済的利益を積極的に得るための保証を提供し ていた。フィンランドにとっては、ソ連解体直後で不安定化しているロシ アとの国境付近の経済的、政治的安定は喫緊の政治課題であり、他方ロシ アにとっては、フィンランドとの緊密な協力関係によって得られる経済的 利益は大きく、ソ連時代の貿易レベルを維持することを望んでいた。さら にこの地域の豊富な自然資源の市場を開拓することは両国の共通の利益で あった12。コイヴィスト大統領は 1992 年 2 月 7 日の通常国会開会演説に おいてロシアとの新しい条約締結について触れ、ソ連解体によって生じた 経済的損失と政治的安定性の回復が重要だったとし、新条約の意義を説明 した13 このように、一つ目の協定で、ソ連/ロシアの軍事的影響下から解放さ れ、二つ目の協定でフィンランドの国境付近の経済開発のイニシアティブ が保証されたことによって、フィンランドが自国の実質的経済利益を追求 するための基盤が整備されていったのである。 (3)ロシアの潜在的脅威とEU安全保障政策への期待 ソ連の崩壊と YYA 条約の廃棄によって、フィンランドに対する東の隣 国の脅威はなくなったかに思われたが、崩壊後の混乱に伴うロシアの政治 的不安定さはフィンランドにとって新たな脅威として認識された14。特に ロシアからの難民の流入、国境付近での麻薬取引や売春、組織犯罪等の増 加が日々報じられたため、治安の維持が重要な課題となった。また、ロシ ア国内が不安定な時期に旧ソ連時代に建設された原子力発電所の事故が起 こるのではないか、ということが深刻な脅威と認識されていた15。そのよ うな中で、将来のロシアの潜在的な脅威に備えるために、フィンランドの 安全保障政策におけるヨーロッパの地位が急速に高まってきていた。

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D・アーターによると、新生ロシアの先行きについてフィンランドが想 定したのは、民主化に成功し西欧統合に参加するという可能性と、民主 化が失敗し権威主義政権になるという可能性の二つであった16。もしフィ ンランドが中立を維持し西欧統合に加盟せずに留まると仮定すると、前者 になればロシアとの関係に困難が生じ、また後者となっても、フィンラン ドの中立は結局のところ権威主義ロシアの影響下に置かれることを免れな い、というジレンマに直面する危険性があった17。こうして、コイヴィス ト大統領とフィンランド政府は、ソ連解体後の不安定なロシアに直面する 中では、従来の中立外交はもはやフィンランドの安全を保障しないという 認識を持つようになっていたのである。 フィンランドはロシアに対する抑止力として EU の安全保障政策に期 待し、NATO への加盟は見送ったが、それは、NATO はロシアに対して 挑発的な組織であり、フィンランドが NATO に加盟することはロシアを 刺激すると考えられたためである18。フィンランドは EU に加盟すること で、中立の中核部分(「軍事的非同盟」)を維持しながらも、ロシアに対 して EU の一員として多角的な基礎の上で向き合うことができるようにな り、それがロシアに対する一定の抑止力となると考えられた19。つまり、 フィンランドは、EU 内での経済的相互依存と政治的統合を通じて、西欧 の中で自国の立場を固めることにより、フィンランドが二度と東の隣国と 独力で向かい合う状況に陥ることはないと確信したのであった20 このように、フィンランドでの EU 加盟の動機は安全保障の関心とも強 く結びついていたが、それは 1993 年 12 月のロシア議会選挙で極端なナ ショナリストである V・ジリノフスキーが勝利したことでフィンランド の懸念が増大したことも関係している21。このジリノフスキーの勝利は、 明らかにロシアの政治姿勢がよりナショナリストの方向にシフトしたこと の表れであり、フィンランド国内の加盟論議を安全保障分野に集中させる こととなった。

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3.ソ連の解体と西欧アイデンティティの獲得 冷戦期を通じてフィンランドは、中立政策の下で西欧とのつながりを強 めてきていたが、それは純粋に経済的な関係であり、東西対立の中でソ連 に強く結び付けられていたため、西欧との政治的な関与は意図的に避け なければならなかった。しかし冷戦が終結し、ソ連共産党のクーデターが 失敗してエリツィンが権力をにぎると、フィンランドはソ連の内政に対し て積極的に自身の立場を表明することができるようになり、バルト諸国へ の対応を非難する声明に加わることさえできるようになった。さらにソ連 が崩壊したことで YYA 条約が無効となり、戦後のフィンランドを拘束し ていたソ連との「特別な関係」が解消されると、フィンランド国内では俄 かに EU 加盟への議論が盛り上がった。そこで大きな動機となったのは、 フィンランドが「西欧の一員」というアイデンティティを獲得することで あった22 フィンランドは、もともと、スウェーデン統治下でローマ・カトリック を受け入れ、議会制を発展させ、ロシア帝国の大公国となってもスウェー デン時代の西欧的文化と政治制度を維持してきた国であった。冷戦期を通 じてソ連との外交的な「友好関係」が至上命題となっても、国内政治にお いて「共産主義」への共感やロシアへの文化的親近感は広がらなかった。 しかしヨーロッパの中にあってフィンランドは、北と東の辺境地域にあ る小国にすぎず23、ヨーロッパの一員としての存在感は決して大きくはな かった。特に第二次世界大戦後、フィンランドは西欧諸国からソ連の「勢 力圏」下にあると見なされ、「フィンランド化」という言葉によって対ソ 従属の恰好の例として揶揄の対象となった。巨大なソ連と隣接するフィン ランドは、東西対立の狭間に置かれて、自らのアイデンティティや政治的 信条を明確に発信することができなかったのであるが、そのようなフィン ランドの地政学的状況と外交姿勢を理解しない西欧諸国は、フィンランド を「『不承不承のヨーロッパ人(reluctant Europeans)』がひしめく『異 色のスカンジナヴィア』」24などと形容したりした。そうしたなかで、フィ

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ンランド自身も自国に対して「不完全な(vajavainen, handicapped)ヨー ロッパ」という劣等感を持っており、その克服の必要性がさかんに語られ たのである25 しかし他方で、当時の政権与党である中央党を中心に、フィンランド の「ヨーロッパらしさ(europpalaisuus, Europeanness)」よりも、まさに アイデンティティの中核としての「フィンランドらしさ(suomalaisuus, Finnishness)」を強調する議論が盛り上がった。「ヨーロッパらしさ」を 強調することは、もともとのフィンランド・アイデンティティの回復では なく、むしろ「フィンランドらしさ」を脅かすものである、という主張で ある。第二次世界大戦での二度のソ・フィン戦争を、他国からの十分な援 助もなく独力で戦い抜き、国家の独立を守ったフィンランドは、「他国か らの援助に頼ってはならない」という教訓を得た。そして「フィンランド 人はつねに自力で解決する」というスローガンがフィンランド人の誇りと して語られてきたため、EU 加盟によってそうした「よき伝統」が失われ ることが危惧されたのであった26。ただし、EU 加盟論議の中でこうした 主張は支持を失っていく。 EU 加盟論議に際して、ヨーロッパの一員となることで、フィンランド の西欧的アイデンティティを強調し、冷戦期の不名誉の払拭をはかると共 に、ヨーロッパでの辺境的立場から脱却する機会を掴みたいという強い 願望が、政治指導者や有識者から発せられ、国民もそれを歓迎したのであ る27。また、EU 拡大の流れの中で、旧ソ連を構成していたバルト諸国や 衛星国であった東欧諸国の加盟問題も日程に上がっており、フィンランド の加盟推進派は彼らよりも早く加盟を果たしたいと考えていた28。そこに は、フィンランドのアイデンティティを確立するために、東欧との差別化 の必要性が認識されていたことが見て取れる。

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4.おわりに 以上みてきたように、冷戦の終結よりも、ソ連の解体がフィンランド 外交の変容に大きな影響を与えたことがわかる。そのことは、第二次世界 大戦後、1948 年の YYA 条約を基礎としながら、フィンランドがいかに ソ連の指導部の動きに目を配り、変化に慎重に対応してきたかを示してお り、とくに 1991 年 8 月のソ連でのクーデターの趨勢を見極めた政府の対 応のなかに見てとれる。冷戦期を通じて、ソ連と軍事条約を結びつつも中 立を保ち、内政では自由民主主義体制を維持してきたフィンランドにとっ ては、冷戦の終結は国際政治上の構造変化ではあったが、ソ連という隣国 が存在する限りは内政外交上の決定的な変化要因とはなりえなかったので ある。 しかし、ソ連の解体が不可避となってからのフィンランド政府の対応は 迅速であった。ロシアとの新協定締結や、新たな脅威に対処していくなか で、中立から EU 加盟へと急速に外交の舵をきっていった。そこには、安 全保障・経済要因が大きく作用していたが、国民感情と密接に結びつく 「アイデンティティ」問題が顕在化していったことも看過できない。フィ ンランドは「西欧の一員」である、という自己認識の再定義は、冷戦期 のソ連関係の清算と表裏一体の関係にあった。EU 加盟交渉時から、他の 旧中立国とくらべてフィンランドが EU への積極的な姿勢を保っていたの は、まさに「西欧アイデンティティ」の獲得という国民感情が作用してい たからと言えるであろう。 注

1 以 下の 記 述 は、H. Mouritzen, O. Wæber, H. Wiberg, European Integration and National Adaptations:a Theoretical Inquiry, New York, Nova Science Publishers, 1996, pp. 136-140に多くを負う。

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3 Ibid., p. 140.

4 Huvudstadsbladet (a daily finnish newspaper), 5 Sptember 1991, in Ibid. 5 Ibid.

6 D. F. Austin, Finland as a Gateway to Russia:Issues in European Security, Avebury, 1996, p. 8.

7 P. Lipponen, ‟Finnish Neutrality and EC Membership”, S. Harden (ed.), Neutral States and the European Community, London, Brassey’s, 1994, p. 89. 8 P. Sutela, “Finnish relations with Russia 1991-2001:Better than ever?”,

Helsinki, Bank of Finland Institute for Economies in Transition, 2001, p. 5. 〈https://helda.helsinki.fi/bof/bitstream/handle/123456789/12615/101324.

pdf?sequence=1〉(2021/02/01アクセス) 9 Lipponen, op. cit., p. 89.

10 J. Blomberg, Vakauden kaipuu:Kylmän sodan loppu ja Suomi, Helsinki, Werner Söderström Osakeyhtiö, 2011, s. 552.

11 一つ目の協定の第6条では、フィンランドと隣接する地域であるムルマンスク、カレ リア、サンクトペテルブルクにおける協力の促進が謳われている。

12 Austin, op. cit., p. 9. 

13 “Vuoden 1992 varsinaisen valtiopäivien avajaiset:Tasavallan Presidentin puhe 7. 2, 1992”[1992年通常国会の開会式:共和国大統領演説], Ulkopoliittisia Lausuntoja ja Asiakirjoja 1992, Helsinki, Ulkoasiainministeriön julkaisuja, 1993, s. 35.

14 V. Sinkkonen, H. Vogt (toim.), “Utopia Ulkopolitiikassa:Sarja visioita Suomen asemasta maailmassa”, Ulkoasiainministeriön Julkaisuja, Kopijyvä Oy, Jyväskylä, 3/2014, s. 15. 〈https://um.fi/documents/35732/48132/ artikkelisarjasta _syntyi_ulkoministeri%C3%B6n_suunnittelu-_ ja _ tutkimusyksik%C3%B6n_aloitteesta_ ja_tukemana_ ja_toteutettiin_ yhteisty%C3%B6ss%C3%A4_turun_yliopiston_ja_turun_sanomien_kanssa. pdf/c75afaeb-7e41-18bc-8e38-7345a023f4cf?t=1559923836204 〉(2021/02/01ア クセス)

15 特に、フィンランドの近くにある、リトアニアのイグナリナ原発やレニングラード原 発、コラ原発などに対する懸念が大きかった。(Blomberg, op. cit., s. 555.) 16 D. Arter, “The EU Referendum in Finland on 16 October 1994:A vote for

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Publishers, Vol. 33, No. 3, September, 1995, p. 372. 17 Ibid.

18 J. Eliasson, “Traditions, Identity, and Security:the Legacy of Neutrality in Finnish and Swedish Security Policies in Light of European Integration”, European Integration online Papers, Vol. 8, 2004, p. 5. 〈http://eiop.or.at/eiop/ pdf/2004-006.pdf〉(2021/02/01アクセス) 19 コイヴィスト大統領は1993年10月4日、ロシアでの「10月政変」のさなか、首相や 外交担当者との会合の際、以下のように述べた。「最も深刻な問題は、ロシア情 勢が今後も悪化することが予想される中で、フィンランドが西欧の公的立場から 距離を取ろうとすれば、自らの立場を弱めることになってしまうということである。 我々はこのことについて決断しなければならない。不可避であるならば、フィンラ ンドの安全保障のために外部からより多く支援を得ようとしなければならない。」 (M. Koivisto, Historian Tekijät:Kaksi KauttaⅡ, Helsinki, Kirjayhtymä, 1995,

ss. 615-616.)

20 Ibid. ただし、EUの軍事的抑止力は現実的にはNATOに比して脆弱な点もあり、 フィンランドではアメリカの軍事力への信頼の方が高いことも事実であった。この ことが「軍事的非同盟」を標榜しながらも、NATO加盟への選択肢を手放してい ない理由でもある。(Mouritzen, et al, op. cit., pp. 146-147.)

21 Ibid., p. 146.

22 カービーの指摘によると、当時フィンランドはソ連経済の悪化に引き続いた崩壊の 衝撃によって、かつてない深刻な経済危機に陥っていたが、EU加盟をめぐる議論 の中で集中したのは、加盟による経済的利益の問題以上に、国家の帰属意識の 問題であった、という。(D. Kirby, A Concise History of Finland, Cambridge, Cambridge University Press, 2006, p. 279.)

23 W. R. Mead, “Finland in a Changing Europe”, The Geographical Journal, London, Vol. 157, No. 3, Nov., 1991, p. 308.

24 Ibid., p. 312. 25 当時の首相H・ホリケリはすでに1989年末の国会で次のように述べ、フィンランド のヨーロッパ・アイデンティティを強調している。「今やフィンランドは自国の利益 としてヨーロッパの新たな経済秩序に統合されつつある。これは他国を真似して いるわけでもなく、そうしなければ『不完全な』ヨーロッパ人の国と感じてしまう からでもない。フィンランドの価値と文化的遺産はすでにヨーロッパ的なものであ る。われわれは常にヨーロッパの一部であり続けてきた」。(“Pääministeri Harri

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Holkerin puhe:‘Suomen lähtökohdat Euroopan yhdentymiskehityksessä’ eduskunnassa käydyn integraatiokeskustelun yhteydessä 4. 12. 1989”[首相 ハッリ・ホルケリの演説「ヨーロッパ統合の展開におけるフィンランドの立場」国会 で行われたヨーロッパ統合に関する議論において], Ulkopoliittisia lausuntoja ja asiakirjoja 1989, Helsinki, Ulkoasiainministeriön julkaisuja, 1990, s. 309.) 26 ”Ulkoasiainministeri Pertti Paasio Kirkon nuorisotyön neuvottelupäivät

Turussa 3.1.1990”[外相ペルッティ・パーシオの演説「わたしはヨーロッパ人であ る」トゥルクでの教会青年活動意見交換会にて] EILEN, 〈https://www.eilen. fi/fi/2897/?language=fi〉(2021/02/01アクセス)

27 Mouritzen, et al, op. cit., pp. 132-133.

28 「加盟推進派は、ぐずぐずしているとフィンランドのイメージが大きく傷つくと主張 した。スウェーデン、オーストリアとともに加盟申請をしなければ、後に東部欧州 の旧社会主義諸国とひとまとめにして審査されることになるからである」。(Kirby, op. cit., p. 281.[邦訳、369頁。])また、欧州審議会の加盟に際しても、フィンラ ンドの西ヨーロッパ・アイデンティティを獲得するために東欧諸国に先んじなけれ ばいけないという動機が強く働いていた。フィンランドは1989年5月に加盟した が、それはハンガリー(1990年11月加盟)やポーランド(1991年11月加盟)を意 識した上での加盟だったという。(J. Seppinen, Koiviston aika:Mauno Koiviston poliittinen ura, Helsinki, Auditorium, 2015, s. 330.)

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