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〈和歌山県の民俗〉村の牛玉宝印

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村の牛玉宝印

はじめに 和 歌 山 県 下 の 村 々 で は 、 各 村 の 寺 社 の 名 前 を 記 し た 牛 玉 宝 印 が 正 月 ︵ 多 く が お こ な い 行 事 終 了 後 ︶ に 配 付 さ れ 、 参 拝 者 は 牛 玉 宝 印 を 各 自 の 家 に 持 ち 帰 り 、 そ れ を 玄 関 や 水 口 で 祀 っ た り 、﹁ な れ な れ 柿 の 木 、 な ら ん か っ た ら ほ っ た に し ょ ♪ ﹂ と 歌 い な が ら 柿 の 木 の 芽 を 撫 で る 成 木 責 め な ど の 道 具 と し て 使 っ た り し た ︵ 現 在 こ の よ う な 習 俗 が 行 わ れ て い る 村 も あ れ ば 、 既 に 伝 承 ・ 記 憶 の み と な っ て い る 村 も あ る ︶。 ご 存 じ の と お り 、 和 歌 山 県 南 部 に は 熊 野 三 山 ︵ 本 宮 ・ 新 宮 ・ 那 智 ︶ が あ り 、 そ こ で 発 行 さ れ た 牛 玉 宝 印 は 、 起 請 文 の 料 紙 や 護 符 ︵ お 札 ︶ と し て 利 用 さ れ 、 全 国 的 に 普 及 し て い た 。 こ の よ う な 大 寺 社 ︵ 霊 地 ・ 霊 場 ︶ で 発 行 さ れ た 牛 玉 宝 印 と 、 村 々 で 発 行 さ れ た 牛 玉 宝 印 は ど の よ う な 関 係 に あ る の か 、 そ の 影 響 関 係 、 普 及 過 程 な ど に つ い て は 、 改 め て 検 討 す る 必 要 が あ る だ ろ う ︵1 ︶ 。 牛 玉 宝 印 に つ い て 相 田 二 郎 氏 は 、 ① 地 方 的 牛 玉 宝 印 、 ② 普 遍 的 牛 玉 宝 印 と 分 類 し 、 ① に つ い て は 東 大 寺 や 東 寺 な ど を 例 に 近 接 す る 地 域 に 限 っ て 用 い た も の と 、 高 野 山 や 阿 蘇 大 社 な ど を 例 に 一 国 内 の 人 々 が 用 い た も の と す る ︵ 2 ︶ 。 あ く ま で も 霊 地 ・ 霊 場 で 発 行 さ れ た 牛 玉 宝 印 が 対 象 と な っ て い る 。 た だ 、 民 俗 事 例 も 踏 ま え る と 、 村 ︵ の 寺 社 ︶ が 発 行 し 、 一 村 内 限 定 で 利 用 さ れ る 牛 玉 宝 印 が 存 在 す る 点 に も 留 意 す る 必 要 が あ る 。 村 に 限 定 さ れ ︵ 局 地

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的 ︶、 村 の 寺 社 ︵ 村 堂 ・ 村 鎮 守 ︶ が 象 ら れ た 牛 玉 宝 印 を ﹁ 村 の 牛 玉 宝 印 ﹂ と 措 定 し 、 本 稿 で は こ の よ う な 牛 玉 宝 印 の 広 が り や 使 用 状 況 ︵ そ の 文 化 ︶ に つ い て 、 和 歌 山 県 を フ ィ ー ル ド に 民 俗 ・ 版 木 ・ 文 書 を も と に 検 討 し て い き た い ︵3 ︶ 。 一   ﹁牛玉﹂の民俗 和 歌 山 県 下 で は、 ﹁ 牛 玉 ﹂﹁ 牛 王 ﹂︵ ご お う ︶ と 名 の つ く︵ ま た 道 具 を 使 っ た ︶ 行 事 が 数 多 く 行 わ れ て い る︵ 本 稿 で は 原 則﹁ 牛 玉 ﹂ で 統 一 し、 既 存 の 報 告 例 に 従 っ て﹁ 牛 王 ﹂ も 用 い た ︶。 牛 玉 宝 印 を 刷 っ て 配 付 す る 行 事 も あ れ ば、 牛 玉 杖︵ ゴ ウ 木、 ゴ ウ︵ の ︶ 杖 な ど と 呼 ば れ、 牛 玉 宝 印 を 木 の 枝 に 挟 ん だ 棒 状 の も の ︶ を 用 い る 祭 礼 な ど も あ る。 ま ず は、 そ の よ う な 行 事 を 一 括 し て﹁ 牛 玉 ﹂ の 民 俗 と し て 捉 え、 祭 礼 行 事 の 特 徴 や、 地 域 的 な 傾 向 を 見 て い き た い。自治体史など既存の報告などをもとに、 ﹁牛玉﹂の民俗についてまとめたのが表1である。修正会︵おこない︶ のなかで、牛玉宝印︵牛玉紙︶や牛玉杖が用いられることは明らかである ︵ 4 ︶ 。 ま た、 一 見 し て わ か る の が、 地 域 的 な 傾 向 で あ る︵ 図 1︶ 。 紀 伊 半 島 沿 岸 部、 紀 南︵ 西 牟 婁 郡・ 東 牟 婁 郡 ︶ で は ほ と ん ど 見 ら れ ず、 高 野 山 周 辺︵ 山 麓 ︶ に 非 常 に 濃 密 に 分 布 す る 傾 向 を 見 て 取 る こ と が で き る。 北 は 紀 の 川 北 岸 ︵ 葛 城 山 脈 ︶ ま で、 東 は 少 な く と も 奈 良 県 境 ま で 及 ぶ。 南 は 日 高 川 流 域 ま で、 西 は 日 高 川 町 中 津 村・ 紀 美 野 町・ 紀 の 川 市︵ 旧 打 田 町 ︶、 貴 志 川 の 南 北 ラ イ ン︵ と そ の 延 長 ︶ が 境 と な る。 高 野 山 領 荘 園 の 範 囲 と は 異 な る が、 高 野 山 を核に広がっている様は読み取ることができよう。高野山の﹁旧領﹂よりも少し広がりをもった地域である。牛玉 宝印文化の中心とも考えられる熊野三山周辺︵西牟婁郡・東牟婁郡︶では村で牛玉宝印を刷り、配付する行事︵= ﹁ 牛 玉 ﹂ の 民 俗 ︶ が 見 ら れ ず︵ た だ、 修 正 会 は 熊 野 三 山 で も 行 わ れ て お り、 那 智 勝 浦 町 大 泰 寺 で も パ チ パ チ が 行 わ れている︶ 、むしろ高野山麓で特徴的に見られる点が興味深い。

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★高野山 熊野速玉大社★ ★熊野本宮大社 ★熊野那智大社 白浜 〇〇 〇〇 〇〇 〇 〇 〇〇〇 〇■ ■■ ■■ ■■ ■ ■ ■ ■■ 図1 和歌山県下の「牛玉」行事・「村の牛玉宝印」版木 分布図 〇:「牛玉」に関わる行事が存在(表 1) ■:牛玉宝印版木が所在(表 2) 紀の川 有田川 日高川 貴志川 図1 和歌山県下の「牛玉」行事・「村の牛玉宝印」版木分布図

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表1 和歌山県下の「牛玉(王) 」にかかわる行事一覧 No 場所 名称 日付 牛玉(王)の民俗 使い方 そのほか要素 出典 1 高野町杖ヶ藪丹生神社・ 龍福寺 おこない(宮の 舞) 1/3 ( 1/5 ) 牛玉宝印、 牛玉杖・ゴオウ〈ハゼ・漆〉 牛玉杖で僧の頭を叩く仕草、ゴウの札を線香で清める、成木責め 宮の舞、的打ち、 入座( 16 歳) 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 2 高野町上筒香西方寺 大般若 1/10 ゴウの札 大般若経転読 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 3 高野町中筒香延命寺 おこない 1/2 牛玉宝印 苗代の水口に立てる 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 4 高野町東富貴宝厳寺 ―― 1/7 ゴウの札 苗代の水口に立てる 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 5 高野町西富貴阿弥陀院 ―― 1/7 ゴウの札 苗代の水口に立てる 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 6 高野町花坂鳴川神社 的射 1/7 牛玉宝印 福杖・ゴマキ〈ハゼ・漆〉 苗代の水口に立てる、成木責め 御田舞、弓打ち 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 7 橋本市賢堂定福寺 修正会 1/3 ∼ 1/10 牛王紙 牛王杖〈ハゼ〉 牛王杖を持って立ち柱を打つ仕草、忍竹に護符を挟み村境に立てる 神名帳、弓引き (弓放ち) 『橋本市史』民俗・文化財編 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 8 橋本市恋野福王寺 堂座 1/5 牛玉宝印 牛王杖〈栗・ハゼ〉 牛王杖で厨子を叩く、宝印を頭上にかざす 『橋本市史』民俗・文化財編 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 9 橋本市赤塚東光寺 修正会 1/5 牛玉加持 『橋本市史』民俗・文化財編 10 橋本市横座薬師寺 おこない(般若入 れ) 1/4 牛玉宝印 剛杖 成木責め 大般若経転読 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 11 橋本市向副観音寺 修正会 正月 牛玉紙 『橋本市史』民俗・文化財編 12 橋本市高野口町大野 修正会(慈尊院七 社明神) 1/4 牛王杖 『高野口町誌』下巻 13 橋本市高野口町伏原 (観音講)修正会 1/4 牛玉杖 的打ち 『高野口町誌』下巻 14 橋本市高野口町田原 修正会 1/7 牛王杖 成木責め 『高野口町誌』下巻 15 橋本市矢倉脇地蔵寺 千部観音講 1/17 前 後 牛王札 牛王札を庭木に貼り付ける 『橋本市史』民俗・文化財編 16 橋本市 神の年越 1/6 牛玉杖 『橋本市史』下巻 17 九度山町笠木薬師寺 おこない(明神 講) 1/3 牛玉宝印 牛玉杖〈ハゼ〉 水口祭り、玄関口に祀る、赭土(あかつち)を酒で溶いて宝印を捺す、小豆粥あり、成木責め 座直り(座入、 12 歳男子) 、巫 女舞(神楽講) 『改訂九度山町史』 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 18 九度山町椎出地蔵寺 おこない(護摩祈 禱) 1/5 牛玉宝印、 牛玉杖・剛杖〈ハゼ〉 堂の柱を叩く、牛玉宝印を田畑に立てる、成木責め 大般若経転読 『改訂九度山町史』民俗・文化財編 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 19 九度山町慈尊院 おこない 1/5 牛玉宝印 牛玉杖 成木責め 入座 『改訂九度山町史』民俗・文化財編 『高野口町誌』下巻 20 九度山町下古沢安福寺 おこない 1/5 牛玉印 牛玉木・牛玉杖 大牛玉杖に牛玉宝印を挟み本堂額を叩く 神名帳 『改訂九度山町史』民俗・文化財編 21 九度山町上古沢厳島神社 おこない 1/6 牛玉札 牛玉杖 成木責め 『改訂九度山町史』民俗・文化財編 22 九度山町北又 久保地区 薬師堂 おこない 1/8 牛玉宝印 福杖〈漆〉 印肉を酒で溶いて使用、苗代の水口に立てる 『改訂九度山町史』民俗・文化財編 23 九度山町東郷東光院 おこない 1/5 牛玉宝印、 牛玉杖〈漆・ハゼ〉 苗代の水口に立てる、成木責め 『改訂九度山町史』民俗・文化財編 24 かつらぎ町東谷 神野地 区 修正会 1/2 牛玉 福杖〈ふし〉 版木を紙に巻き杖の先に付けて読経し、畳の上を福杖で叩く(福入れ) 、ごう杖を持ち帰り供え る、成木責め。籾蒔きの時に田へ立てる 『かつらぎ町誌』 25 かつらぎ町滝 おこない 1/24 牛玉宝印 『和歌山県の祭り・行事』 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 26 かつらぎ町広口 法福寺のおこない 1/10 牛玉宝印 牛玉杖 牛玉杖を持ち本尊に飾られた宝来を叩く仕草をする 神名帳 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 27 かつらぎ町花園中南地蔵 寺 おこない(正月お くり) 1/3 牛玉宝印 福杖 福杖で成木責め、牛玉宝印を福杖に挟み田畑に立てる 千輪、大般若経 転読、矢投げ 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』

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28 かつらぎ町平 大久保地 区定福寺 萩の八割堂のおこ ない 1/3 牛玉宝印 牛玉杖 福杖で床板を叩く、牛玉宝印を持って本尊の前に叩く仕草、牛玉杖を畑に立てる 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 29 かつらぎ町宿山 阿弥陀堂 1/10 牛玉宝印(正楽寺) 大般若経転読 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 30 かつらぎ町東谷西方寺 修正会 1/3 牛玉宝印(西方寺) 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 31 かつらぎ町移 修正会 1/6 牛玉杖 神名帳 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 32 紀の川市上鞆渕 久保地 区 おこない 1/8 牛玉宝印 牛玉杖・フクデ〈ハゼ〉 フクデで床を叩く、苗代の水口に立てる、牛玉宝印に宝珠を 9個捺した「ココノツダマ」 『歴史のなかのともぶち』 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 33 紀の川市東大井観音寺 福入れ 旧 1/4 牛王紙(図) 福杖〈柳〉 福杖で床を叩く、福杖に牛王宝印を巻き付け水引で括り苗代の水口に立てた 『打田町史』 3巻 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 34 紀の川市桃山町最上 修正会 ― 牛玉宝印 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 35 紀の川市粉河粉河寺 爆竹(とんど)会 1/14 牛玉杖 田の畦へ立てる、小豆粥あり 福篠 逸木盛照『紀州民俗誌』 36 紀の川市野上 成り木責め 1/8 牛玉杖 小豆粥あり、苗代の水口に立てる、柿の木に供える 『粉河町史』 5巻 37 紀の川市名手上 修正会 1/2 牛玉宝印 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 38 紀美野町大邑垣内円長寺 修正会 1/6 牛王杖 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 39 紀美野町真国宮大日堂 御田 旧 1/8 牛玉宝印 成木責め 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 40 有田川町糸川蓮華寺 ゴウ木 1/2 牛玉紙 ゴウ木・福杖 竹に挟み苗代に立てる 『金屋町誌』下巻 41 有田川町沼田西光寺 おこない 1/3 牛王紙 牛王杖〈柏〉 福杖で床板を叩く、牛王宝印を苗代の水口に立てる 神名帳、地蔵菩 牛王宝印 『金屋町誌』下巻 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 42 有田川町粟生吉祥寺薬師 堂 おも講と堂徒式 1/5 牛玉宝印(筆書) 牛玉杖 墨書した牛玉宝印を苗代の水口や畑に杖に挟んで立てる、牛玉宝印でを包む 入座( 2歳児祝 い) 『近畿民俗』 66 ・ 67 ・ 68 号( 1976 年) 『清水町の民俗行事』 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 43 有田川町中原阿弥陀堂 中原堂徒式(おこ ない) 1/5 牛玉宝印 福杖〈樫〉 牛玉宝印を玄関に貼る、成木責め、苗代の水口に牛玉宝印を立てる 入座( 3歳児) 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 44 有田川町二沢観音堂 おこない 1/6 牛玉宝印 牛玉杖 観音寺牛玉宝印と熊野烏牛玉宝印が配布される、熊野牛玉宝印は病人の枕元に置くと治る魔除 けの札、観音寺牛玉宝印は水口に立てる 『清水町の民俗行事』 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 45 有田川町二川 おこない 1/5 ・ 6 牛玉紙 牛玉杖 牛玉宝印をヤマハゼ(フシの木)の枝に挟んだ牛玉杖を供え参拝者に配り、五月の苗代に立て た 『近畿民俗』 66 ・ 67 ・ 68 号( 1976 年) 46 有田川町遠井阿弥陀堂 おこない 1/3 牛玉 福杖 堂で牛玉宝印と福杖を授かる、牛玉は竹の棟に挟み田の畦に立てた、福杖を削り大根のように し小豆粥に供えて祀る 『近畿民俗』 66 ・ 67 ・ 68 号( 1976 年) 47 有田川町中野薬師堂 おこない 1/2 牛玉宝印 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 48 有田川町中薬師堂 おこない(初薬師 講) 1/2 牛玉 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 49 有田川町杉野原中薬師堂 観音堂会式 1/4 牛玉宝印 新年に堂守が牛玉宝印を刷る、会式に日には牛玉宝印を大根や白米などとともに盆に載せ供え る、堂守が牛玉宝印を配り、各戸では玄関や炊事場に貼り厄除けとした 『杉野原の御田舞映像記録解説書』 50 日高川町高津尾観音堂 観音供養(堂徒) 1/3 牛玉宝印 観音の木・神木〈樫〉 鍋墨で塗った版木で刷る、床の間に祀る、苗代に立てる、成木責め、小豆粥あり 堂徒・堂渡( 3 歳児祝い) 『中津村史』通史編 51 日高川町三十井川地蔵堂 ドウト 1/3 牛玉紙(地福院・地蔵院) 牛玉木〈ハゼ・漆〉 八十八夜( 5月 2日)に苗代に立てる、小豆粥あり、柱まつり(大黒柱を叩く) 、成木責め 『中津村史』通史編 52 日高川町下田原地蔵堂 ドウト 1/2 牛玉紙 牛玉木・ゴーサン〈ハゼ〉 白米と串柿を牛玉紙に包み牛玉木の先に挟んで持ち帰る、小豆粥あり、成木責め、籾を蒔いた 時に竹に紙を挟み苗代の水口に立てる 『中津村史』通史編 53 日高川町寒川串本薬師堂 パチパチ祭り 1/8 牛玉木 牛王木で堂の柱や板壁を叩く、厄のゴ(牛玉)と黒文字のゴ(牛玉)あり、版木は伊藤家で保 管、鍋墨を酒で溶いた丹土(ハネノタイラで採取)を印肉にして捺す、厄のゴの者は自宅に持 ち帰り布団の下に敷いて寝て翌朝焼く、黒文字のゴは恵方に供えた後に八十八夜に水口に立て る、神名帳、体に悪いところがある日とは宝印を額に当てる 『美山村史』通史編下巻 『熊野三山民俗文化財調査報告書』 (本文 編) 54 那智勝浦町下和田大泰寺 パチパチ 1/8 牛玉紙 牛玉杖〈柳〉 『熊野三山民俗文化財調査報告書』 (本文 編) ※「牛玉」 「牛玉」の表記は原典の報告に拠った。

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も う 少 し 行 事 内 容 を 細 か く 確 認 し て み よ う。 正 月 年 頭 の お こ な い 行 事 で あ る こ と 以 外 に は、 ① 牛 玉 杖︵ ハ ゼ の 木・柳の木を使うかは地域性がある︶を使ってパチパチと堂内をたたく僻邪︿乱声、厄難除け﹀としての要素、② ﹁ な れ な れ 柿 の 木、 な ら ん か っ た ら ほ っ た に し ょ ♪ ﹂ な ど と 歌 い な が ら 柿 の 木 の 芽 を 撫 で︵ 歌 詞 は 地 域 の に よ り 異 な る ︶、 樹 木 の 生 育 を 祈 願 す る 成 木 責 め︿ 害 虫 除 け・ 豊 作 祈 願 ﹀ で 牛 玉 宝 印 を 使 わ れ る こ と、 ③ 牛 玉 宝 印 を 田 の 水 口に立てて豊作祈願・害虫除けとする水口祭りで使うこと、④厄難除け・年占いとして小豆粥を伴うこと︵杖を小 豆粥の箸として杖を使用したり、牛玉宝印を小豆粥で貼り付けるなど︶ 、⑤堂徒︵堂渡︶式が行われる︿入座儀礼﹀ こと、などの諸要素が併存するところに特徴があろう。そのほか、数は少ないながらも、⑥的射・弓打、⑦舞など が行われる例もある。和歌山県下の﹁牛玉﹂に関わる民俗にはこのような特徴があり、全国的な傾向と照らし合わ せても大きく違わない。次に個別に興味深い習俗も見られるので、少し紹介しておきたい。 ︿宝珠・宝印﹀ 宝 珠 の 使 用 も 各 地 で 特 徴 的 で あ る。 三 か 所 に 宝 印︵ 宝 珠 ︶ を 捺 す と い う 事 例 は 多 く︵ 九 度 山 町 笠 木 な ど ︶、 実 際 そ の よ う に 捺 さ れ て い る 牛 玉 宝 印 も 見 受 け ら れ る︵ 高 野 町 杖 ヶ 薮・ 東 又 ︶。 た だ、 か つ ら ぎ 町 花 園 中 南 の﹁ ご う お し︵ 牛 玉 宝 印 押 し ︶﹂ で は、 朱 の 宝 印 を 五・ 六 か 所 に 捺 す と い い、 地 域 に よ り そ の 数 は 異 な る。 紀 の 川 市 上 鞆 渕 の 久保地区では、牛玉宝印に通常は宝珠を三つ捺すが、一枚だけ九つ捺したものを入れ、それを﹁ココノツダマ﹂と して珍重したという。また、橋本市恋野では、全部で一八〇枚の牛玉宝印を刷り、そのうち宝珠を七つ捺したもの を二枚作り、ほかは五つ捺すという。九度山町北又久保地区では、牛玉宝印を各家で四枚持ち帰るが、その内の一 枚目には宝珠を八つ、二枚目には九つ、三枚目には四つ、四枚目には五つ捺したものであったという。紙面に捺す 宝珠の数にも意味があったようであるが、その意味するところは判然としない。 また、各地の修正会でもよく見られるように、宝珠を牛玉宝印︵紙面︶に捺すのではなく、参拝者の体︵額︶に

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捺すことも行われた。橋本市恋野では、宝印︵宝珠︶を頭の上にかざす。また、日高川町串本や下田原地蔵堂など では、体に悪いところがある人は、式終了後に宝印を当ててもらうと治るといわれていた。このように宝珠自体を 参拝者に捺すことで、体の悪い部分を直す、厄︵難︶除けとしての効験があった。紙面に捺す場合、体に捺す場合 などバリエーションはあるが、千々和到氏も指摘するように、宝印を捺す︵授ける︶ことに本質があり ︵ 5 ︶ 、片方は直 接参拝者に、紙に捺すことは持ち運び︵持ち帰り︶を意図した行為なのだろう。 な お、 宝 珠 を 捺 す た め の 朱 は、 丹 土 を 酒 で 溶 い て 印 肉 と す る 事 例 が 多 い︵ 橋 本 市 恋 野 は 紅 柄 ︶。 日 高 川 町 串 本 で は、ハネノタイラで採った丹土︵赭土・赤土︶を酒で溶いて、鍋墨で刷るといい、赤土を採る場所にもこだわりが あった。 ︿牛玉宝印の使い分け﹀ ﹁ 村 の 牛 玉 宝 印 ﹂ は 一 種 類 だ け で な く、 二 種 類 の 牛 玉 宝 印 の 配 付 さ れ る 場 合 が あ り、 ま た 用 途 に 応 じ て 使 い 分 け られていた ︵ 6 ︶ 。 日高川町串本の場合を見てみよう。約五三㎝の牛玉木を用意し、黒文字のゴ︵牛玉︶と厄のゴ︵牛玉︶を準備す る。一月八日に、参集した区民は黒文字のゴ︵牛玉木︶で堂の柱・壁を叩き、力いっぱい打ちつけて棒をたたき割 る。この音により悪魔を撃退するという意味があったという。黒文字のゴの先端を割いて、この部分に牛玉宝印を 差し挟み、自宅へ持ち帰る。黒文字のゴは、二本ずつ水田を作っている家の数だけ拵える。厄年の人は去年のもの を 使 用 す る。 厄 の ゴ は、 儀 式 終 了 後、 牛 玉 紙 を 厄 年 の 者 が 自 宅 へ 持 ち 帰 り、 そ の 夜 布 団 の 下 に 敷 い て 寝 る。 翌 朝、 美しい火で焼くか、頭から順に上半身を撫で、川へ持って行って流す。この時に、後を見ずに帰ってくることが大 切である。このゴは総じて悪魔払いの働きがあると言われている。黒文字のゴは、その年の恵方に供えておき、八 十八夜に苗代の水のあて口へ立て五穀豊穣を祈る。日高川町串本では、厄年か否かで、牛玉宝印の使用の仕方が異

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なる。また牛玉宝印が人形としての役割を果たしていた点も興味深い。 さらに、熊野の牛玉宝印と﹁村の牛玉宝印﹂の二種類が使われている有田川町二沢の事例もある。二沢観音堂で は、正月六日のおこないで、読経のあとに牛玉宝印が配付される。その時に、観音寺牛玉と熊野牛玉宝印が配付さ れ、前者は一月一一日に田の水口に神の札として立て、後者は病人の枕元に置いておくと治ると信じられる魔除け の札であるという。なお、二沢の熊野牛玉宝印は、江戸時代に観音堂の鍵取︵堂守︶であった中山作太夫が六十六 部回国修行に出た際、熊野本宮から授かったものとも言われている。この場合は、導入の時期差と効用の差という ことになる。 ︿牛玉宝印の使い方﹀ ﹁ 村 の 牛 玉 宝 印 ﹂ は、 多 く の 場 合、 ① 木︵ 牛 玉 杖・ 福 杖 ︶ に 挟 む、 ② そ の ま ま 配 付 す る、 の で あ る が、 ま れ に ③ 木 や 版 木 に 巻 く︵ 高 野 町 杖 ヶ 薮・ 東 又、 紀 の 川 市 東 大 井 ︶、 ④ な ど を 包 み 牛 玉 杖 に 挟 む︵ 有 田 川 町 粟 生、 日 高 川 町 下 田 原 ︵7 ︶ ︶、 と い っ た 形 で も 使 わ れ た。 家 に 持 ち 帰 っ た あ と は、 厄 難 除 け と し て 玄 関 に 貼 っ た り︵ 有 田 川 町 中 野 ︶、 豊作祈願・害虫除けとして田︵苗代︶の水口や畑︵庭木︶に立てる地域は多い。主には、豊作祈願と虫除けとして 利 用 さ れ た 点 に 特 徴 が あ る。 九 度 山 町 北 又 久 保 地 区 で は、 約 八 〇 ㎝ の 漆 の 木 の 皮 を 剥 い だ 福 杖 に 牛 玉 宝 印 を 挟 み、 苗代の時に田の水口に、ツツジのような色花ととを一緒に立てた。橋本市恋野では、牛玉宝印をススキと一緒に 苗代に立てたという。田の水口に立てる際にも、様々な形で祀ったのだろう。 家に持ち帰った牛玉宝印は、しばらくの間、仏壇などに供えた。日高川町下田原では、寺で用意された牛玉宝印 を四つ折りにして、樫の木で作った牛玉木に指し、三本一括りにし、仏壇に供えた ︵ 8 ︶ 。なお、牛玉木は地蔵堂のなか にあらかじめ置いておき、参拝者は参拝すると白米と串柿をもろぶたの中に入れ、行事終了後にもろぶたの中の白 米と串柿を取り出し、それを牛玉紙で包み、さらにそれを牛玉木の先に挟んで家に持ち帰った。白米と串柿は一五

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日朝、小豆粥を炊くときに一緒に釜に入れた。また小豆粥を炊くときには、牛玉木のうち一本はかまどへくべ、別 の 一 本 は 小 豆 粥 を 重 箱 に 入 れ て 柿 の 木 な ど に 供 え、 成 木 責 め の 際 に 叩 く の に 使 っ た。 牛 玉 紙 は 仏 壇 に 供 え て お き、 籾蒔きの際に、竹に挟んで苗代の水口に立てた。また、かつらぎ町花園中南では、おこない終了後に牛玉宝印の配 付を受け、一五日まで床の間に飾っておき、福杖に挟んで田畑に立てて豊作祈願した。 家で祀る際には小豆粥で牛玉宝印を貼るなどした ︵ 9 ︶ 。九度山町笠木の家では、受け取った牛玉宝印を小豆粥で家の 鴨 居 に 貼 り 付 け た り︵ 今 は 玄 関 に 立 て か け る ︶、 田 の 水 口 へ 立 て か け た り、 小 正 月 で 小 豆 粥 を 作 っ た 際 に 牛 玉 杖 の 先端を切って箸としたりするなどした。高野町杖ヶ薮では、行事終了後、ゴウの札︵牛玉宝印︶を線香の煙で清め 配付を受ける。その後、小豆粥の汁で牛玉宝印を玄関・蔵などに貼ったり、しめ縄につけて柿の木に結びつけたり した。 ︿牛玉杖﹀ 杖は牛玉杖のほか、剛杖︵ゴウヅエ︶や福杖など、呼び名も様々なバリエーションが存在する。ゴウ杖は、悪魔 祓の剛卯杖に起源があるとの指摘もあり ︶10 ︵ 、必ずしも﹁牛玉﹂ ﹁牛王﹂ ︵牛黄︶との関わりが想定できるかどうかは意見 がわかれるが、杖の先に牛玉宝印を挟むことにも特徴的なように、その関わりは深い。 牛玉杖の素材は、①ハゼ・漆、②柳、③柏、④樫、⑤竹、というように村によって異なる︵主に木の皮を剥いで 使 う ︶。 有 田 川 町 沼 田 で は 福 杖 は 二 本 準 備 し、 一 本 は 竹 で、 も う 一 本 は 柏 で あ る と い う。 な お、 橋 本 市 恋 野 で は、 配付の牛玉宝印は四つ折りにし、九〇枚一束にしたものを二つ準備し、約一メートルの栗の木に縄で結んだという ︵牛玉杖は約五〇㎝のハゼの木︶ 。祭礼の際に括りつけておく木と、自宅へ持ち帰り、家で祀る際の木の枝は異なる 場合もあった。      *       *       *       *       *

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表2 和歌山県下の牛玉宝印版木 No 資料名 所在(地域) 所蔵 縦 横 厚 出典 備考 拓本 1 弁財天牛玉宝印 橋本市柏原 柏原区 17 .5 25 .2 1.8 『紀伊国相賀荘地域総合調査』 ( p67 ) 2 薬師寺牛玉宝印 橋本市横座 横座区 30 .0 24 .0 3.0 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 ( p92 ∼ 93 ) 3 弁財天牛玉宝印 九度山町入郷 入郷区 20 .1 27 .1 1.7 『弘法大師と高野参詣』 ( p205 ) (裏面銘) 「正円これをクラ /天正二年〈キノエ /イヌノト〉正月五日」 〇 4 円通寺牛玉宝印 /宝珠 九度山町入郷 入郷区 20 .9 27 .7 3.2 『弘法大師と高野参詣』 ( p205 ) 〇 5 薬師寺牛玉宝印 九度山町椎出 ―― ― ― ― 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』 ( p77 ) 6 天野宮牛玉宝印 かつらぎ町上天野 丹生津比売神社 16 .7 24 .7 3.0 『天野の歴史と文化』 ( p127 ) 7 八幡宮牛玉宝印 かつらぎ町下天野 八幡神社 ― ― ― 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』一覧表 8 無量寺牛玉宝印 かつらぎ町笠田中 無量寺 28 .7 32 .0 4.0 『紀伊国桛田荘と文覚井』 ( p169 ) 9 妙楽寺牛玉宝印 かつらぎ町笠田東 妙楽寺 29 .5 23 .9 3.8 『紀伊国桛田荘と文覚井』 ( p172 ) 10 牛玉宝印(印文不明) かつらぎ町花園中南 中南区 ― ― ― 『花園村の年中行事』 ( p13 ) 11 薬師寺牛玉宝印 紀の川市上鞆渕清川 清川班 24 .2 32 .4 4.6 『歴史のなかのともぶち』 ( p26 ) (側面銘) 「天正十四年ヒノヱイン正月吉日」 「ヒウカノチウニン」 12 薬師寺牛玉宝印 /宝珠 紀の川市上鞆渕久保 久保班 24 .6 38 .0 2.7 『歴史のなかのともぶち』 ( p27 ) 13 葛城山牛玉宝印 紀の川市中津川 中津川行者堂 25 .0 47 .7 4.5 『城修験の聖地 中津川行者堂の文化財』 ( p12 ) 〇 14 浄土寺牛玉宝印 /宝珠 紀の川市上田井 極楽寺 ― ― ― 『粉河町内社寺文化財』 ( p87 ) 15 地蔵寺牛玉宝印 紀美野町津川 遍照寺大師講 23 .9 35 .5 3.3 『中世の村をあるく』 ( p56 ) (表面銘) 「天文十六年十二月廿四日 /深円」 〇 16 畠野宮牛玉宝印 紀美野町毛原宮 大日寺 18 .2 30 .6 1.6 『中世の村をあるく』 ( p88 ) 〇 17 西方寺牛玉宝印 紀美野町毛原宮界西 界西区 24 .2 37 .3 3.0 『中世の村をあるく』 ( p97 ) 〇 18 十輪寺牛玉宝印 紀美野町神野市場 和歌山県立博物館 32 .1 23 .9 3.2 〇 19 大師寺牛玉宝印 紀美野町松瀬 松瀬区 18 .2 27 .5 2.6 『中世の村をあるく』 ( p110 ) 〇 20 独古寺牛玉宝印 紀美野町真国宮 紀美野町真国宮区 14 .8 24 .6 4.3 『中世の村をあるく』 ( p121 ) 〇 21 蓮華寺牛玉宝印 紀美野町蓑垣内 蓮華寺 25 .9 32 .6 5.3 〇 22 観音寺牛玉宝印 /宝珠 有田川町下湯川 下湯川観音堂 24 .0 40 .3 3.9 『有田川中流域の仏教文化』 ( p17 ) (表面銘) 「天正八年三月吉 カノエタツ」 〇 23 薬王寺牛玉宝印 /宝珠 有田川町上湯川 薬王寺 28 .8 34 .0 5.6 『有田川中流域の仏教文化』 ( p19 ) (裏面銘) 「天正九年 /カノトノミノトシ /十二月吉日」 〇 24 来迎堂牛玉宝印 有田川町楠本 法福寺 21 .0 31 .2 2.2 裏面に大般若転読札版木 25 慈恩寺牛玉宝印 有田川町楠本 法福寺 24 .2 35 .0 2.0 26 西仙寺牛玉宝印 有田川町沼 明王寺 ― ― ― (銘) 「元禄二年十二月五日 /八助作之」 27 大師堂牛玉宝印 /宝珠 有田川町杉野原野中 大師堂 ― ― ― 『杉野原の御田舞映像記録解説書』 ( p168 ) 28 観音寺牛玉宝印 有田川町杉野原中 観音堂 ― ― ― 『杉野原の御田舞映像記録解説書』 ( p170 ) 参考 地蔵院牛玉宝印 高野町高野山 ―― 27 .5 42 .8 ― 『國學院大學所蔵の牛玉宝印』 ( p24 ) 版木の所在は未確認。 参考 粉河寺牛玉宝印 紀の川市粉河 ―― 24 .5 34 .2 ― 『國學院大學所蔵の牛玉宝印』 ( p27 ) 版木の所在は未確認。 参考 遍照寺牛玉宝印 伊都郡 ―― 24 .1 33 .3 ― 『國學院大學所蔵の牛玉宝印』 ( p28 ) 版木の所在は未確認。 参考 大聖不退寺牛玉宝印 橋本市山田 ―― 29 .6 21 .5 ― 『國學院大學所蔵の牛玉宝印』 ( p449 ) 版木の所在は未確認。 参考 根来寺薬師堂牛玉宝印 岩出市根来 ―― 25 .1 33 .6 ― 『牛玉宝印―祈りと誓いの呪符』 ( p137 ) 版木の所在は未確認。 参考 牛玉宝印(印文不明) 橋本市杉尾 明王寺 ― ― ― 『高野山周辺地域民俗文化財調査報告書』一覧表 参考 牛王宝印(印文不明) 宝珠 /朱壺 田辺市龍神村下福井横畑 観音堂 ― ― ― 『龍神村誌』下巻( p201 ) 参考 牛玉宝印(印文不明) 田辺市龍神村東 大応寺 ― ― ― 『龍神村誌』下巻( p201 ) 参考 牛玉宝印(印文不明) 有田川町糸川 蓮花寺 ― ― ― 『金屋町誌』下巻( p641 ) 「古い牛玉宝印版木を持っている」と記載あり。 参考 牛玉宝印(印文不明) 田辺市中辺路町沢 龍華寺 ― ― ― 『中辺路町誌』上巻( p796 ) 「古き牛王宝印版木」と記載あり。 参考 宝珠 かつらぎ町背ノ山 西福寺 ― ― ― 『紀伊国桛田荘と文覚井』 ( p181 ) 参考 朱壺 紀の川市杉原 杉原区 ― ― ― 参考 板牛玉(那智瀧宝印) 白浜町白浜 個人 23 .9 31 .5 1.0 島津宣史「板牛玉と瀧本牛玉宝印」 (『神道及び神道史』 48 号、 1989 年) ― 参考 牛玉宝印 和歌山市和歌浦西 和歌浦天満宮 ― ― ― 『日本の護符文化』 ( p208 ) 参考 牛玉宝印 海南市藤白 藤白神社 ― ― ― 『日本の護符文化』 ( p208 ) 参考 牛玉宝印 田辺市東陽 闘鶏神社 ― ― ― 『日本の護符文化』 ( p208 ) 参考 牛玉宝印(熊野山宝印) 田辺市本宮町本宮 熊野本宮大社 16 .4 25 .0 6.5 『熊野本宮大社と熊野古道』 ( p177 ) 参考 牛玉宝印(那智瀧宝印) 那智勝浦町那智山 熊野那智大社 23 .5 31 .8 ― 『熊野・那智山の歴史と文化』 ( p94 ) 参考 牛玉宝印(印文不明) 海南市下津町上 東光寺 ― ― ― 『紀伊続風土記』 1( p550 ) 永徳元年( 1381 )の牛玉宝印があると記載あり。 ― ※実見し採寸したもの、版木の写真が掲載されているもの、版木の所在を明確に記すものに限定して取り上げている。 ※表1で紹介する牛玉に関わる行事でも牛玉宝印が配布されており、版木の所在は想定されるが、本表には入れていない。 ※参考としたものは、①刷ったもののみが確認でできるもの、②印文不明のもの、③村堂名ではない版木(ex熊野山・那智滝など) 、④宝珠・朱壺のみ、などである。 ※筆者が調査確認したもののを中心にしつつ、大河内智之氏による情報を受けて補訂した。 ※縦・横・厚の単位はいずれも㎝である。

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以上、和歌山県下における﹁牛玉﹂をめぐる民俗事例を紹介した。様々な利用のされ方を見ることができ、これ まで指摘されている中世の寺社︵東大寺や東寺など︶での事例などと符合する習俗も見られる点が興味深い。和歌 山県下の村々で行われている行事も、中世に遡る習俗の可能性が考えられる。水口祭りに利用される事例は滋賀県 などでも多く報告されているが、成木責めの際に使われる点などは、紀伊半島の山間部における生業とも関わって 展開された習俗なのではないだろうか。地域の生業のなかで、利用のされ方も異なったのだろう。 二   版木からみる﹁村の牛玉宝印﹂ 次 に、 こ れ ら 牛 玉 宝 印 を め ぐ る 儀 礼 を 考 え る に あ た っ て、 牛 玉 宝 印 を 刷 る 版 木 に 着 目 し、 ﹁ 村 の 牛 玉 宝 印 ﹂ の あ り方について、さらに考えてみることにしたい。牛玉宝印版木に注目するのは、①今は失われてしまった﹁村の牛 玉宝印﹂儀礼の存在を確認できる点、②年代や利用状況を知ることができる点、にある ︶11 ︵ 。そこで、まずは和歌山県 下における﹁村の牛玉宝印﹂版木の残存状況について紹介しておこう︵表2︶ 。 当 然、 版 木 が 残 さ れ て い る と い う こ と は、 現 行、 も し く は か つ て 牛 玉 宝 印 を 刷 っ て 配 付 し て い た こ と を 物 語 る。 そのため、表1の情報をさらに補うデータともなる。さて、表2を見てまず気づく点は、表1と同様の地域的な分 布 傾 向 を 示 し て い る と い う こ と で あ ろ う︵ 図 1︶ 。 す な わ ち、 紀 北、 高 野 山 周 辺 に 濃 密 に 分 布 す る 一 方、 熊 野 三 山 周辺や紀伊半島沿岸部には見られないという特徴である。 また、デザインについて︵図2︶ 。料紙を縦長とするもの︿ 18﹀、料紙を横長とするものの二系統あるが、現状で は そ の 点 で 形 態 編 年 を 行 う こ と は 難 し い。 枠 の あ る も の︿ 13・ 17・ 18・ 22・ 23﹀、 な い も の な ど も あ る。 ま た 刷 ら れる文字に着目すると、各地の霊地・霊場の牛玉宝印に見られるような神使いとしての霊獣・霊鳥類︵烏・蛇・鳩 など︶は象られてれていない。ただ、文字に宝珠のデザインが盛り込まれているものはいくつか確認できる︿3・

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3 弁財天牛玉宝印 4 円通寺牛玉宝印 13 葛城山牛玉宝印 3・4 宝珠 図 2   牛 玉 宝 印 版 木 拓 本 ︵ 反 転 ︶  ※ 筆 者 採 択

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15 地蔵寺牛玉宝印

16 畠野宮牛玉宝印

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18 十輪寺牛玉宝印

19 大師寺牛玉宝印

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21 蓮華寺牛玉宝印

22 観音寺牛玉宝印

23 薬王寺牛玉宝印

22 宝珠

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4・ 15・ 19・ 22・ 23﹀。 特 に、 年 代 が 判 明 す る も の で い え ば、 古 い︵ 中 世 の ︶ も の ほ ど 宝 珠 が 象 ら れ て い る 割 合 が 高 く、 新 し い も の は 文 字 の み と な る 傾 向 に あ る。 年 代 や 意 識 の 違 い を 示 し て い る の で は な い か。 時 代 を 経 る に つ れ、 本 来 的 な 信 仰︵ 宝 珠・ 宝 印 に 対 す る 意 識 ︶ が 薄 れ て き た こ と を 示 し て い る の か も し れ な い。 た だ、 宝 珠︵ 朱 印︶は別途残されているものも多い。 次に年代について。現在確認できる牛玉宝印版木のうち、年代が判明するもの︿3・ 11・ 15・ 22・ 23・ 26﹀では 多 く が 一 六 世 紀 後 半 に 遡 る。 ﹁ 村 の 牛 玉 宝 印 ﹂ が 一 六 世 紀 後 半 以 降、 各 村 々 で 儀 礼 と し て 行 わ れ る よ う に な っ た 可 能性を示唆する。ただし、銘文があるというだけで、現在残る版木もそれ以前からあるデザインの復古という可能 性もあるため、より慎重に検討が必要である。 表 面 観 察 を す る と、 ﹁ 寺 社 名 + 牛 玉 宝 印 ﹂ の 文 字 は 陽 刻 し、 年 号 な ど の 銘 文 は 陰 刻 す る の が 基 本 で あ る。 そ し て 牛玉宝印の文字は使い込んで角が丸くなっているもの︿4・ 17・ 20・ 22・ 23﹀と、角が残っているものの二種類が あ る。 使 用 回 数︵ 利 用 状 況 ︶ も う か が え る。 平 面 も、 ノ ミ 跡 が 残 っ て い る も の︿ 16﹀、 カ ン ナ な ど で 調 整 し 平 滑 な もの︿3・ 13・ 18・ 19・ 21﹀などある。 宝珠は火炎と梵字ならなる。 最後に、若干例外的な版木の存在を紹介しておこう。白浜町の正木家先祖講には、板牛玉が残されている。版木 状 で は あ る が、 刷 る 目 的 で 作 ら れ お ら ず︵ 文 字 が 逆 に 彫 ら れ て い な い ︶、 専 ら 信 仰 対 象 と な っ た 版 木 で あ る ︶12 ︵ ︵ 写 真 1・ 2︶ 。 熊 野 那 智 大 社 の 神 官 の 一 族 と 伝 え る 正 木 家 一 族 で は、 白 浜 の 綱 不 知 へ 移 住 に 際 し、 熊 野 牛 玉 宝 印 を 捧 持 して来た。代々当番となる家が神棚︵オヤシロ︶に入れて祀り、当番交代の際には神棚ごと引き継ぐという。表と 裏にともに熊野の烏牛玉宝印のデザインとなっており、使用した痕跡が認められない。版木とは異なるが、紀南の 版木文化の一例として紹介しておきたい。

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写真1 板牛玉(熊野山宝印)

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採取できた事例の数が十分とはいえず、形状・構造などより形態編年をすることなどは未だ難しいが、さらに事 例を収集し比較検討材料を揃えていく必要がある。ただ、高野山麓に多いという地域的傾向、一六世紀後半に遡る ものがまとまって残されているという傾向についてはおさえておきたい。 三   文書にみる﹁村の牛玉法印﹂ 村 文 書 の な か で、 牛 玉 宝 印 儀 礼 は ど の よ う に 表 れ る の か。 特 に、 そ の 出 現 期 で あ る 中 世 の 古 文 書 の な か か ら、 ﹁村の牛玉宝印﹂を探ってみよう。相賀荘柏原村︵橋本市柏原︶では、一六世紀に﹁牛玉﹂の語が見える。 ︻史料1︼正月入目日記 ︶13 ︵ ︵端裏書︶ ﹁正月よろつの入目﹂     元亀三年二月廿四日    御ち ︵ 朝 拝 ︶ やうはいの事   一升もろミさ ︵ 酒 ︶ け   くつかたのもち以上四せ ︵ 膳 ︶ ん   こ ︵ 権 現 ︶ んけんへまいる、か ︵ 菓 子 桶 ︶ しおけ一ツ 一斗二升もちこめ    六升のさけの米      御ちやうはいのい ︵ 入 目 ︶ りめのふん    二日のおこないに 三帖牛玉かミ   さ ︵ 散 米 ︶ んまい一升ツヽ    来年のさ ︵ 差 頭 ︶ しとうに牛玉一本ニ料足一文ツヽ ︵ ︶ ︵ 米 ︶

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        同か ︵ 土 器 ︶ わらけ十二    六日の御さ ︵ 朔 頭 ︶ くとうの米ハ 一斗六升ツヽ   一升さんまい    十一日御き ︵ 祈 禱 ︶ たうのお ︵ 下 ︶ ろしの米、し ︵ 承 仕 ヵ ︶ やうしニ渡、 一斗二升   一升さんまい・札か ︵ 紙 ︶ ミ十枚・かわらけ六    十一日の大日た ︵ 田 入 ︶ いりにはわ ︵ 若 衆 ︶ かしうのはうに         めしあり、 一斗   こんけんへむ ︵ 村 ︶ らより神主へま ︵ 参 ︶ いらせ候、        二日のおろし物ニ、 一斗   そうふくしのとしとり物ニむらからまいらせ     候、十日のけ ︵ 結 鎮 ︶ ちんのとうハ五人、とうひかし山     五て ︵ 帖 ︶ う・十二かわらけむ ︵ 村 夫 ︶ らふ、とうなミにかミ     二枚ツヽ、廿六文ま ︵ 的 ︶ とのふ ︵布施︶ せく ︵ 供 ︶ う人に牛玉一本     にめし、     ミやうきんちやうの事    いてきたるむ ︵ 娘 ︶ すめのこに米二升ツヽのさしとう     ね ︵ 女 房 ︶ うはうむかへたる人ハ、これも二升ツヽのさしとう    月の十二日ことよ ︵ 夜 宮 ︶ ミやとうに一升五合ツヽ        十五日にニ大目たツるニ御 ︵御酒︶ 木一升

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一斗二升   た ︵ 谷 内 ︶ にうちしやうかとのゝふせに    正月の御ふ ︵ 仏 餉 ︶ つしやうまいりハ大つ ︵ 晦 日 ︶ もこりに夜ま    いる、一日ニまいる、三日ニまいる、六日ニまい    る、と ︵ 年 越 ︶ しこしにまいる、十四日ニまいる、 一斗二升御ふつしやうの物ニしやうしへ、むらよりおろす、 元亀元年︵一五七〇︶に記された正月行事の準備品・下行物を書き上げた史料である。正月二日のおこない行事 で、 ﹁ 牛 玉 か ミ ﹂︵ = 牛 玉 宝 印 ︶ が 三 帖 準 備 さ れ て い る。 ま た、 来 年 の 頭 屋 に﹁ 牛 玉 一 本 ﹂ を 負 担 さ せ る こ と も 記 さ れる。一本とあるように、牛玉宝印を挟んだ木である﹁牛玉杖﹂を表しているのだろう。結鎮という的︵弓︶打ち で 供 人 に は﹁ 牛 玉 一 本 ﹂ に つ き﹁ め し︵ 飯 ヵ︶ ﹂ も 渡 さ れ た。 柏 原 村 の お こ な い で は、 的 打 ち が か つ て 行 わ れ て い たこともわかる。 このように、これまで見てきたおこない行事のなかで使用される牛玉宝印・牛玉杖は、古文書と版木から一六世 紀 ま で 遡 る 儀 礼・ 習 俗 と 位 置 づ け る こ と が で き る。 た だ し、 中 世 の 段 階 で は 参 拝 者 全 員 に 配 付 さ れ る の で は な く ︵現行民俗では一八〇枚や二〇〇枚刷る︶ 、あくまで頭役負担者︵差頭・供人︶というごく限られた範囲の人々に配 付されるものであった。すなわち、牛玉宝印は一六世紀より使用されてはいただろうが、それが護符として村全体 ︵各戸配布︶に広がるのは、さらに後の時代︵江戸時代以降︶ということになるのだろう。 また、中世の村で行われた修正会の次第も高野山麓には残されている。 ︻史料2︼修正会導師作法   下巻 ︶14 ︵      ︵前略︶    次宝印取持テ牛玉導師作法︿三礼如来唄/金打﹀

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  為令法久住利益人天ノ釈迦牟尼宝号   抑正月修善ノ砌ナレハ、御願貴賤上下各々成就   面々円満給フ、開キ如来最上ノ御倉ヲ、牛玉   宝印ヲ取出給エリ、福寿増長ノ宝印トセシナリ、   仍以テ五種真言、不動真言、毘沙聞真言   牛玉宝印ヲハ無尽ノ大法蔵トコソ申スヘカリケレ、   修正ノ勤行シ給フ諸人功徳受命司宦爵   如ク心ノ円満シテ千秋万歳不可有尽事、謹   奉願   至心発願、正月修善、牛玉宝印、加持香水   錫杖守護、恭敬頂戴、功徳威力、天衆地類   倍僧法楽、行痩神等、威光増益、当所神等   離業得果、聖朝安穏、天長地久、天下泰平   万民豊楽、庄内安全、五穀蚕養、如意満足   一切善願、平等利益、モツ   衆生無辺誓願度、福智無辺誓願集   法門無辺誓願覚、如来無辺誓願事   無上菩提誓願証、南無地味増長盛穀   南無蚕養如意満足、南無一切所求合満足、

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  南無如意宝珠、南無如意、    天文拾年三月   日、神野庄於津川村   雖為言語道断悪筆、仏法興隆ノタメニ如是   四国之住人乗識申者、暫小堂ニ堪忍仕折節   前ノ本破候間、かきウツシ候、後見之人御笑可有之   峰ノ大師堂ヱ奇信申候、 この史料は、神野荘津川村︵紀美野町津川︶の遍照寺で行われた修正会の次第であるが、奥書にあるように天文 一〇年︵一五四一︶に津川村小堂を訪れた四国住人乗識が以前の本が破損していたのを書き写したものであるとい う。全体で二巻にまとめられ、村の修正会の次第を知ることができる貴重な史料である。津川村の修正会は、初夜 と し て﹁ 一 切 恭 敬 ﹂﹁ 散 花 ﹂﹁ 礼 盤 ﹂﹁ 歎 仏 呪 願 ﹂﹁ 発 願 ﹂﹁ 如 法 念 誦 ﹂﹁ 諸 真 言 ﹂﹁ 大 懺 悔 ﹂、 後 夜 と し て﹁ 登 礼 盤 ﹂﹁ 礼 仏 頌 ﹂ ﹁ 三 礼   如 来 唄 ﹂﹁ 一 切 恭 敬 ﹂﹁ 三 十 二 相 ﹂﹁ 表 白 ﹂﹁ 神 分 ﹂﹁ 祈 願 廻 向 ﹂﹁ 神 名 帳 ﹂﹁ 心 経 一 巻 ﹂﹁ 勧 請 ﹂﹁ 御 明 文 ﹂﹁ 六 種 廻 向 ﹂﹁ 錫 杖 ﹂﹁ 教 化 ﹂ が 行 わ れ、 宝 印 を 持 っ て﹁ 牛 玉 導 師 作 法 ﹂、 最 後 に﹁ 五 大 願 ﹂ が 行 わ れ た。 正 月 に 如 来 の 蔵 か ら 取 り 出 し た 宝 印 で も っ て、 ﹁ 福 寿 増 長 ﹂ を 祈 願 し、 各 種 の 真 言 を 唱 え る 儀 礼 で あ っ た。 宝 印 は﹁ 福 寿 増 長 無 尽 ノ 大 法 蔵 ﹂ と も 表 現 さ れ、 福 を 得 る と い う こ と に 主 眼 が あ っ た。 祭 文 の な か で は、 ﹁ 聖 朝 安 穏 ﹂ や﹁ 庄 内 泰 平 ﹂ の ほ か、 五 穀 豊穣や行疫神退散なども祈られる。正月のおこない行事の信仰を示すものといえよう。如来の蔵から取り出された 宝印の授与ということに本質がある。 ︻史料3︼修正会講式 ︶15 ︵   修正会導師法則

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  ︵中略︶    次五大願    衆生無辺等   牛王宝印   得令験知   護持頭番   護持満堂   増長宝衆    次加持タラニ   薬師大呪    次仏名︿云所マテモツヘシ﹀   三反   南無帰命頂牛王宝印生々世々値遇頂戴   哀愍摂受護持満堂    次教化    福杖ツク   牛王宝印をさゝくれハ七珍万宝は雨の   ことくに降りかゝりけり然らハ万堂の諸人    悉くたもとに請て千秋万歳のたもち     給ふけれハとこそありけれ         金一打   次宝印     次宝印   南無薬師如来︿一打﹀   南無日光遍照︿一打﹀   南無月光遍照︿一打﹀   南無十二神将︿一打﹀    次廻向     廻向三宝願海   廻向天衆地類    廻向当処権現   廻向行疫神等    廻向弘法大師

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  廻向貴賤霊等    廻向聖朝安穏   廻向護持大衆    廻向伽藍安穏   廻向天下法界    廻向無上大菩提   為所願成弁   観音宝号︿一打﹀   御子舞定    文明二年卯月中旬紀州華薗中南為興隆仏法    檀那繁昌筆記後残写之畢、右筆俊乗房良意 文 明 二 年︵ 一 四 七 〇 ︶ に 記 さ れ た 花 園 荘 中 南 村︵ か つ ら ぎ 町 花 園 中 南 ︶ の 修 正 会 の 次 第 書 で あ る。 中 略 部 分 は、 ﹁ 三 礼︿ 二 打 ﹀﹂﹁ 如 来 唄 ﹂﹁ 御 明 申 ﹂﹁ 神 分 ﹂﹁ 小 祈 願 ﹂﹁ 教 化 ﹂﹁ 御 明 文 ﹂ が 順 に 記 さ れ る。 本 史 料 で は そ れ に 続 け て、 ﹁ 五 大願﹂以下の次第が記されている。祈願内容は、津川の場合と概ね同じである。所作としては、福杖を突いている 点 に も 注 目 し た い︵ 乱 声、 堂 内 を 叩 く 所 作 カ ︶。 ま た、 牛 玉 宝 印 の 効 能 に つ い て、 牛 玉 宝 印 を 捧 げ れ ば 七 珍 万 宝 が 降り注ぎ、牛玉宝印をそばに置いておくことで長寿を得られるということが記されているのも、津川村の事例と意 識的には同じである。牛玉宝印授与により、福を得ることができる、そのような意識のもと行われていた行事・儀 礼であった。同時に﹁行役神等﹂の廻向も行われている。牛玉宝印の使い方の詳細までは知り得ないが、福を得る と同時に、厄難除けとしての意識は、少なくとも一五・一六世紀より見られるのである。 そして、 ︻史料2︼ ︻史料3︼のような講式︵次第書︶が一五世紀末以降に書写され、村に残されていることにも、 改めて注目する必要があろう ︶16 ︵ 。︻史料1︼のような年中行事書のなかに、牛玉紙︵帖︶ ・牛玉杖︵本︶が登場するの も、ほぼ同時期︵一六世紀︶である。すなわち、一五世紀末∼一六世紀頃に﹁村の牛玉宝印﹂が記録のうえで登場 し、また版木も一六世紀後半以降のものが残されている状況であり、その関連性が想定されるのである。

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おわりに 以上、和歌山県下における﹁村の牛玉宝印﹂ ︵村の堂社名を象り、ほぼ村内のみで通用する局地的な牛玉宝印︶の 儀 礼 と 歴 史 に つ い て、 民 俗︵ 祭 礼・ 儀 礼 ︶、 版 木、 古 文 書 を 素 材 に 紹 介 し た。 そ し て、 高 野 山 周 辺 に 濃 密 に 分 布 す るという地域的特徴、一五・一六世紀頃より見られるようになるという時代性についても触れた。 高野山麓に濃密に分布するという地域的な傾向について、想定できる可能性を考えてみたい。白浜町や上富田町 な ど で は 年 頭 に 熊 野 三 山 へ 直 接 牛 玉 宝 印 を 受 け 取 り に 行 き、 そ れ を 苗 代 に 立 て る と い う 事 例 が 報 告 さ れ て い る ︵﹃上富田町史﹄など︶ 。熊野三山周辺では、熊野の牛玉宝印の影響が強く︵さらに距離的に近いため︶ 、年頭に熊野 三山へ参り牛玉宝印の配付を受けたため、村に﹁牛玉﹂の民俗が残らなかったのかもしれない。一方、高野山麓の 村 で は、 ︵ 高 野 山 の 僧 な ど を 介 し て ︶ 修 正 会 が 村 に 導 入 さ れ、 村 堂 な ど で 正 月 行 事 を 実 施 す る こ と に な っ た 結 果、 このような残存状況を示すことになっているのではないだろうか。いわば、村と霊地・霊場︵ないしは大寺社・荘 園領主︶とがどのような社会的関係にあったのかを示唆するのではないだろうか ︶17 ︵ 。 次 に 時 代 的 な 傾 向 に つ い て、 一 六 世 紀 の 版 木 が 残 さ れ、 ﹁ 牛 玉 ﹂ が 一 五・ 一 六 世 紀 の 村 文 書 に 見 え る よ う に な る こ と を ど の よ う に 評 価 す る か、 と い う 問 題 が あ る。 い わ ば、 ﹁ 村 の 牛 玉 宝 印 ﹂ の 成 立、 な い し は 移 り 変 わ り と い う ことになろう。一五・一六世紀に新規に版木が調達され村で刷られるようになったのか、はたまた当初は︵熊野三 山周辺と同様︶高野山より牛玉宝印をもらってきて祭礼を行っていたのが一五・一六世紀に村自らで調達・準備さ れ る よ う に な っ た の か。 も し く は も と も と 古 い︵ 一 五 世 紀 以 前 か ら ︶ 版 木 が あ っ た の を 作 り 直 し て、 結 果 と し て 残ったのが現状の版木なのか、熊野三山周辺の村々にも﹁村の牛玉宝印﹂はあったが、熊野の烏牛玉の普及過程で 淘汰されてしまったのか、など様々な想定・解釈が可能である。それは、中世前期の村の修正会を如何に理解する か︵ 村 で 牛 玉 宝 印 の 儀 礼 が あ っ た の か な か っ た の か な ど ︶、 と い う 問 題 と も 関 わ る 重 要 な 課 題 で あ る。 た だ、 一

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五・一六世紀に紀州の村々では大般若経がセットで誂えられている傾向と同様であるという点には、注意する必要 がある ︶18 ︵ 。さらには、修正会次第書や神名帳などの聖教も同じ時期より残され始める。村堂の什器︵祭祀道具︶が一 五・ 一 六 世 紀 に か け て 徐 々 に 調 え ら れ て い る 状 況、 す な わ ち 儀 礼 の 整 備︵ 普 及 ︶ の 状 況 を 示 す の で は な い だ ろ う か。しかもそれは村の変遷とも大いに関わる動向である ︶19 ︵ 。 こ の よ う な 状 況 か ら 勘 案 す る と 、 和 歌 山 県 下 の ﹁ 村 の 牛 玉 宝 印 ﹂ は 中 世 後 期 ︵ 一 五 ・ 一 六 世 紀 ︶ に 高 野 山 の 影 響 の も と 広 が っ た 文 化 ・ 祭 礼 で あ る と 結 論 づ け る こ と が で き る の で は な い だ ろ う か 。 た だ 、 紀 南 に お い て も 那 智 勝 浦 町 の 大 泰 寺 で 例 外 的 に 行 わ れ て い る こ と 、 さ ら に は 高 野 山 金 剛 峯 寺 で の 修 正 会 と の 直 接 的 な 系 譜 ・ 影 響 関 係 な ど 、 な お 検 討 課 題 は 多 い 。 こ の よ う な ﹁ 村 の 牛 玉 宝 印 ﹂ は 、 修 正 会 の 広 が り 、 さ ら に は 熊 野 の 烏 牛 玉 が 江 戸 時 代 に 全 国 的 に 普 及 し て い く 状 況 ︵ 普 遍 化 の 流 れ ︶ と 如 何 な る 関 係 に あ る の か 、 あ ら た め て 検 討 し て み る 必 要 が あ る 。 また本稿では、民俗︵祭礼︶ ・歴史︵さらには工芸品︶にまたがる学問領域の素材である牛玉宝印︵とその版木︶ を取り上げて検討した。牛玉宝印や版木をはじめとする仏教民俗資料は、各学問分野においても周縁に位置する文 化財であり、これまで十分に取り上げて、検討されてこなかった。改めて、村の什物としての版木の重要性、その 資料としての価値・可能性にも注目したい。版木と刷られた牛玉宝印は中世以降の村人等の信仰を伝えてくれるの はもちろんであるが、現在には失われた祭礼や寺社の存在を我々に教えてくれ、また村の什器の整備過程を知るこ とができる稀有な資料である。そのような視点で、版木と牛玉宝印の類例を集め、今後調査研究を進めていく必要 があるだろう。

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︻注︼ ︵ 1︶ 千 々 和 到 氏 は、 村 々 の 牛 玉 宝 印︵ お よ び 版 木 ︶ の 調 査・ 研 究・ 保 存 の 重 要 性 を い ち 早 く 指 摘 す る︵ 千 々 和 到 ﹁﹁ 書 牛 玉 ﹂ と﹁ 白 紙 牛 玉 ﹂﹂ 石 井 進 編﹃ 中 世 を ひ ろ げ る ︱ 新 し い 史 料 論 を も と め て ︱﹄ 吉 川 弘 文 館、 一 九 九 一 年 ︶。 な お、 護 符 研 究 の 現 状 や 最 新 の 成 果 に つ い て は、 千 々 和 到 編﹃ 日 本 の 護 符 文 化 ﹄︵ 弘 文 堂、 二〇一〇年︶参照。 ︵ 2︶ 相 田 二 郎﹁ 起 請 文 の 料 紙 牛 玉 宝 印 に つ い て ﹂︵﹃ 日 本 古 文 書 学 の 諸 問 題   相 田 二 郎 著 作 集 1﹄ 名 著 出 版、 一九七六年︶ 。 ︵3︶全国的な傾向については、倉石忠彦・倉石美都﹁神社の護符︱ ﹁神社のおふだアンケート﹂のまとめ︱﹂ ︵千々 和 到 編﹃ 日 本 の 護 符 文 化 ﹄ 前 掲 ︶ が あ る。 ま た、 近 江 国 の 牛 玉 宝 印 を 集 め た 一 寸 木 紀 夫﹁ 近 江 の 牛 玉 宝 印 ﹂ ︵﹃ 滋 賀 県 地 方 史 研 究 紀 要 ﹄ 一 三、 一 九 八 八 年 ︶、 一 町 規 模 で 版 木・ 牛 玉 宝 印 の 儀 礼 を 集 成 し た 兵 庫 県 多 可 町 の 事例などがあり︵ ﹃多可町の版木﹄兵庫県多可町文化遺産活性化実行委員会、二〇一三年︶ 、参考になる。 ︵ 4︶ 五 来 重 氏 の 分 類 に よ れ ば、 修 正 会・ 修 二 会︵ お こ な い ︶ に は、 牛 玉 杖 と 牛 玉 宝 印 を 加 持 し 一 般 に 授 与 す る ﹁ 牛 玉 型 ﹂ が あ る と す る︵ ﹁ 仏 教 儀 礼 の 民 俗 性 ﹂﹃ 五 来 重 著 作 集   第 一 巻   日 本 仏 教 民 俗 学 の 構 築 ﹄ 法 蔵 館、 二〇〇七年︶ 。 ︵5︶千々和到﹁ ﹁書牛玉﹂と﹁白紙牛玉﹂ ﹂︵前掲︶ 。 ︵ 6︶ 東 大 寺 で も 各 堂 社 に よ る 各 種 の 牛 玉 宝 印 が 使 わ れ て お り、 起 請 文 に 使 用 す る も の と そ う で な い も の と の 使 い 分 け が あ っ た の で は な い か、 と い う 想 定 も あ る︵ 千 々 和 到﹁ 東 大 寺 に み え る 牛 玉 宝 印 ﹂︵﹃ 南 都 仏 教 ﹄ 三九、 一九七七年︶ 。 ︵ 7︶ 京 都・ 東 寺 の 御 影 堂・ 千 手 堂 で は、 牛 玉 宝 印 が ︵ 壇 供 ・ 鏡 ・ 花 平 ︶ と 一 緒 に 配 付 さ れ て い た︵ 千 々

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和到﹁ ﹁書牛玉﹂と﹁白紙牛玉﹂ ﹂前掲︶ 。 ︵ 8︶ 三 角 に 折 ら れ る 牛 玉 宝 印 の 事 例 が あ る︵ 千 々 和 到﹁ 牛 玉 の 折 り 目 ︱ 本 所 所 蔵・ 土 阿 起 請 文 料 紙、 赤 崎 宮 牛 玉 宝印の検討︱﹂ ﹃東京大学史料編纂所研究紀要﹄二、 一九九一年︶ 。 ︵ 9︶ 玄 関 先 に 貼 る 習 俗 な ど は、 洛 中 洛 外 図 屏 風 な ど の 絵 画 資 料 で 確 認 で き る︵ 千 々 和 到﹁ 描 か れ た 牛 玉 宝 印 ﹂﹃ 日 本文化研究所報﹄一八三、 一九九五年︶ 。 ︵ 10︶﹃高野山周辺地域民俗文化財調査報告書﹄ ︵和歌山県教育委員会、二〇一五年︶ 。 ︵ 11︶ 元 興 寺 文 化 財 研 究 所 に よ る 一 連 の 成 果 が あ る。 そ の 概 要 を 示 し た 稲 城 信 子﹁ 護 符 版 木 の 調 査 の 世 界 と 課 題 ﹂ 千 々 和 到 編﹃ 日 本 の 護 符 文 化 ﹄ 前 掲 ︶ や、 ﹃ 版 木 ︱ 刻 み 込 ま れ た 信 仰 世 界 ︱﹄ ︵ 元 興 寺・ 元 興 寺 文 化 財 研 究 所、 二〇一六年︶参照。 ︵ 12︶島津宣史﹁板牛玉と瀧本牛玉宝印﹂ ︵﹃神道及び神道史﹄四八、 一九八九年︶ 。筆者も平成二六年︵二〇一四︶度 の和歌山県立博物館企画展﹁墨一色︱拓本と物の世界︱﹂にかかわり、調査のうえ、展示を行った。 ︵ 13︶柏原区有文書八八号︵ ﹃和歌山県史﹄中世史料二︶ 。 ︵ 14︶遍照寺文書︵ ﹃中世の村をあるく︱紀美野町の歴史と文化︱﹄和歌山県立博物館、二〇一一年︶所収。 ︵ 15︶ 中 南 区 有 文 書 一 三 六 号︵ 大 阪 大 学 文 学 部 国 史 研 究 室﹁ 中 南 区 有 文 書 ﹂﹃ 大 阪 大 学 文 学 部 紀 要 ﹄ 二 〇 号、 一九八〇年︶所収。史料本文に付されたルビは省略した。 ︵ 16︶ 同 じ よ う に、 中 世 後 期︵ と り わ け 一 六 世 紀 後 半 以 降 ︶ に な る と、 神 名 帳 や 祭 文 も 村 の 文 書 の な か に 残 さ れ る よ う に な る。 例 え ば、 神 野・ 真 国 荘 真 国 村 で は 天 正 一 一 年︵ 一 五 八 三 ︶ の 祭 文 が 残 さ れ て い る︵ 高 岡 家 文 書、 ﹃ 美 里 町 誌 ﹄ 史 料 編 Ⅰ ︱ 四 六 〇、 そ の ほ か 年 未 詳 の 神 名 帳 も あ り ︶。 ま た 花 園 荘 中 南 村 で も 天 文 二 二 年 ︵一五五三︶の千輪祭文が残されている︵中南区有文書︶ 。

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︵ 17︶ 近 江 国 の 事 例 で は、 和 田 光 生﹁ 湖 北 オ コ ナ イ の 成 立 に つ い て ︱ 地 方 霊 場 寺 院 と 村 落 寺 院 の 影 響 ︱﹂ ︵﹃ 京 都 民 俗﹄六、 一九八八年︶が参考になる。 ︵ 18︶一五 ・ 一六世紀に大般若経がセットで調えられる背景として、竹中康彦氏は﹁紀州における村落の自立的傾向 と、 そ れ に と も な う 軋 轢 の な か で、 村 落 を 守 る 功 徳 の あ る 大 般 若 経 に 対 す る 需 要 が 高 ま っ た こ と が 背 景 に あ る ﹂︵﹁ 紀 州 に お け る 大 般 若 経 の 展 開 に 関 す る 予 備 的 考 察 ﹂﹃ 木 の 国 ﹄ 二 八、 二 〇 〇 二 年 ︶ と 指 摘 す る。 村 で の 大 般若経を用いた儀礼の成立の時期ともかかわろう。 ︵ 19︶ 中 世 成 立 期 よ り 村 々 で 修 正 会 が 行 わ れ る こ と と、 こ の よ う な﹁ 村 の 牛 玉 宝 印 ﹂ の あ り 方 は ど の よ う な 関 係 に あ る の か。 ま た、 ﹁ 村 の 牛 玉 宝 印 ﹂ の 成 立・ 普 及 は、 村 文 書︵ ﹁ 地 下 文 書 ﹂︶ の 問 題 と も 密 接 に 関 わ る の で は な い だ ろ う か︵ 春 田 直 紀 編﹃ ア ジ ア 遊 学 二 〇 九   中 世 地 下 文 書 の 世 界 ︱ 史 料 論 の フ ロ ン テ ィ ア ﹄ 勉 誠 出 版、 二〇一七年︶ 。中世村落論を考えるうえでも重要な素材と言えよう。 ︻参考文献︼ ︵本稿で使用した和歌山県下の事例は以下の報告等による︶ ﹃高野町史﹄民俗編︵二〇一二年︶ ﹃改訂九度山町史﹄民俗・文化財編︵二〇〇四年︶ ﹃橋本市史﹄下巻︵一九七五年︶ ﹃橋本市史﹄民俗・文化財編︵二〇〇五年︶ ﹃高野口町誌﹄下巻︵一九六八年︶ ﹃かつらぎ町誌﹄ ︵一九七六年︶ ﹃粉河町史﹄第五巻︵一九九六年︶

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﹃打田町史﹄第三巻︵一九八六年︶ ﹃下津町史﹄通史編︵一九七六年︶ ﹃金屋町誌﹄下巻︵一九七三年︶ ﹃美山村史﹄通史編   下巻︵二〇〇七年︶ ﹃中津村史﹄通史編︵二〇〇六年︶ ﹃龍神村史﹄下巻︵一九八七年︶ ﹃上富田町史﹄下巻︵一九九二年︶ ﹃白浜町誌﹄本編下巻一︵一九八四年︶ ﹃近畿民俗﹄六六 ・ 六七 ・ 六八号︵一九七六年︶ ﹃花園村の年中行事﹄ ︵和歌山県教育委員会、一九八六年︶ ﹃和歌山県の祭り・行事﹄ ︵和歌山県教育委員会、二〇〇〇年︶ ﹃熊野三山民俗文化財調査報告書﹄ ︵和歌山県教育委員会、二〇一三年︶ ﹃高野山周辺地域民俗文化財調査報告書﹄ ︵和歌山県教育委員会、二〇一五年︶ ﹃国指定重要無形民俗文化財   杉野原の御田舞映像記録解説書﹄ ︵有田川町教育委員会、二〇一七年︶ ﹃歴史のなかのともぶち︱鞆淵八幡と鞆淵荘︱﹄ ︵和歌山県立博物館、二〇〇一年︶ ﹃天野の歴史と芸能︱丹生都比売神社と天野の芸能︱﹄ ︵和歌山県立博物館、二〇〇三年︶ ﹃城修験の聖地・中津川行者堂の文化財﹄ ︵和歌山県立博物館友の会、二〇一一年︶ ﹃中世の村をあるく︱紀美野町の歴史と文化︱﹄ ︵和歌山県立博物館、二〇一一年︶ ﹃紀伊国桛田荘と文覚井︱水とともに生き、水を求めて闘う︱﹄ ︵和歌山県立博物館、二〇一三年︶

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﹃弘法大師と高野参詣﹄ ︵和歌山県立博物館、二〇一五年︶ ﹃有田川中流域の仏教文化︱重要文化財・安楽寺多宝小塔修理完成記念︱﹄ ︵有田川町教育委員会、二〇一七年︶ ﹃牛玉宝印︱祈りと誓いの呪符︱﹄ ︵町田市立博物館、一九九一年︶ ﹃國學院大學所蔵の牛玉宝印﹄ ︵國學院大學神道資料館、二〇〇四年︶

図 2   牛 玉 宝 印 版 木 拓 本 ︵ 反 転 ︶  ※ 筆 者 採 択

参照

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