氣候馴化論の學史的背景︵一︶
一佛蘭西の當論⋮研究創始とその目的i
和
田
綾
一一
序一﹄氣候馴化なる語僻の創始
・墨 氣候馴化論の科學的研究の創始を吾々は旧婚H。。置O﹃⇔OΦOh一﹃o累Qり黛。貯サ踏画冨貯①がωOO猷叔=薗諭O廿巴O山.⇒OO置日P冨翫O旨 を組織せる一八五四年に置いた。二心創始はその面骨の歴史に於いてかくも新しきものであることは異とするに足ちない。’ なぜならば氣候馴化なみ語辮それ自体がここに述べる如︿新しき創造にか・るからである。 馳 現今敏洲丈明諸國に於いて、氣候馴化なる意を表はす語購を有せざる國はないと巽ってよい。即ち英米に釦Oo嵩§謡。戸 帥66嵩旨讐貯四鳳Oジ西班牙に帥Oぎ昌山O団OP和.蘭に軸8賦ヨ彗冨騨菖ρ 濁世に、︾二丁曲弓舞窮茸ざP 賃量西に価oO嵩ヨ簿彗凶O員 餌OO嵩旨偶⇔9自制5計伊太利に卑nO一.言詳論ヨΦ昌8輸踊路西亜に︾屏話語高炉詩蟹q◎量がある。いま試みに英米に於ける氣健臥馴⋮化な る 意昧の語購を田信Ωヨ2>’盟・寓煽N﹃陣ざ①匹・噛︾20芝図幅σq嵩ロ。70営畠O旨薗﹃鴫魑O昌麟一ゆ8ユ6巴眉﹃貯9℃7ρHOくO冨Q謀O﹃鼻日QoGDgQ.に 楡するに牧畜されている關係語彙は一四個であるが、この書に再論されてるる各語繋の語源に從ってこれらを整理すると 曽oo諏ヨ曽畠亘① ︵蕊QoO︶@
@
@
@
@
@
@
@
リ量聾甕 ︵目oQ蜜︶
粛候馴化論の毘史的背景 八七氣候馴化論の墨吏的背景 帥◎ロ自菖帥帥Φ︵μ唖㊤埴︶ 、島 n⇔笥慧四自縣馬§恥り鯉、︵司﹁.︶︵一QQ鵠︶ げ 聯 酬 箇員Uム0一瞬舘麟↓脚ハ︾爵 髄06一一ヨ餌叶凶N①
一轟繰麺g
となる。これによれば英語の螢oo=三舞8炉鋤8冒馬面鉱鎚四一〇旨 一七九二年に既に︾詳げ昌﹃橘O鐙昌瞬︵一﹃凸一日◎Q㈹O︶により、 鱒く一①娼﹃Oh暫。蘭Oゆ﹃叶山一昌凶昌ぬ,什げO け7¢暫屈σ三訂口qロ一qロのO助06一悶昌P曽叶①臣、 酔罵餌け言ロ陰①①誉の一口自一跡qO目〇ニロ。. 氣候に馴化してみる。︶ 而して、この旬8鵠ヨ舞①の語源は、近代佛蘭西語の 8冒餌げ凶葺彗Φぎ陣ロO甫O嵩雪弾冨の意と暮してみる。氣候馴化と ヨ舞①の用鋼は英語系の現存本に見られる最古のもの・である。 而して一七九二年の英語に讐8団長鉾ゆを見出し、この語 西語の岩心三聖霞の用語例は 件。信巴富O団ヨ口鉾勺霞ぼり一〇。鋸.冒Q。箋.には、¶この語は他動詞。 によりて初めて使用せられたり﹂とある。叉国・目時憎鼻に櫨れば同様に﹁五言巴 重
ている﹂とあるφ .干 使用されてるる。 Oq一陣脚く帥件一〇昌噛O沖O・Oh酔ゴ①犀凶コひq山OヨOh聞﹃昌昌︹O噂 八八蕪醤︷⋮⋮⋮三思藤
Q◎。語︶ は動詞国oO嵩ヨ鉾⑦より出つるものであり、暫8二戸障①一は 彼の著円﹁厚くO冨轟Q◎刈19Q汐q向自O溝餌婦傷コ≦二一 ﹃㊤紳Obり8に於いて、㌦国O﹁﹁ざ零ずO﹁Φ ︵ケリー、そこでは岩梨が土着であるかに見える程に風土 画。︹嵩.B彗霞より出でて、 鎚貯十〇=ヨ96幽鬼蟄、恥 であると解し、 いう意をもつ一聯⋮の統画集のうちで、この吋O口昌瞬の画O.嵩 @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ ケを佛蘭西語の騨O⇔冒日産鼠門に求めるの“、あるが、然⋮るに蜘酷園 HΦ一︶5︸員ロ騨ロ匹⋮↓鷹鉱[①山06百出簿汁巳Omq卿①瞠Oコ瓜﹁面一Φ山匹瞬ざぴρσけ屋島ゆ皿茸Φロ皆均一〇㎝ ㎝自﹃ 語根は。翫菖鶴けギリシア語の零Nミ桑より出づ。 幻四団コ巴 ︼︶瞬Oけ凶06コ国凶﹃O ユΦ 一凶 一m口瞭口①隔㌧薗昌〇四一ゆOり 劇 く〇一こ 勺聾﹁凶μ QoQQ¢. はこの語を使用したる最古の者のロくである。學士院は一七九八年叛に於いてこの語を承認し 4周知の事實であるがルイ十四世の治世の所謂O建民豊艶δ以來食尽西富士院は沸蘭出棺の丈法並に語藁に至るまで﹁正 則﹂な言葉使ひという立場から︵高級な趣昧に基いて使うべき債値のある語、從ってどんな優雅な人、叉どんなやかまし 屋に見せても恥しくないという語ばかりを選び出して學士院から出たU甘底。罠属畔Φ喫︾o鼠。旨δぐ簿ロO巴。舳①に牧録したの であり、從って今巨の毛書がある露語の範薗囲につき集め得る限りの語叉どんな種類の語でも集めたものであるのに対し、 特異なる黙はこの僻書は現實の世の慣用を記述するものでなく、最良の語とは之であるぞと指圖するものであったのであ
驚だから塁冨§竺七九八年にアカデミτにより承認さ襲佛蘭西語になつ護であるから・この語の慣用の痂
皮はこ2L以前の佛蘭西に存してみることは云ふ迄もない。 閃帥唄目舘がこの語を最初に使用した者であるという事を鬼面の創始者に慨すと解するならば、これは佛蘭西現存本中に ダヘロゲゆユアロツヘン ハじペン 於ける最古の用例を指して云ふのであってこの語の話されたものとしての歴史を意味するのでない。 併し乍ら彼がこの語辮の創始者であるとすべき多くの暗示が存在する。なぜなれば幻錯昌巴の著というのはH響尽の 佛蘭酉語僻書第四雀所蔵の引用書目によれば、嫡掛けO時OOずヒO切Oや置ρ膣O霧”O回国O環①自軍㊦望σ嵩。肇¢ΦBΦ口。昏睡鬼面60ヨ旨の﹁O㊦ 島¢のi畠農O葱¢話山騨皐ぎゆαn麟調H民$”Φ山・焦①高言くρ蔦Q。Oや剛亭QQ。である。この著は第唱首は四巻本に、して唱七七〇 年アムステルダムにて刊行、一七七一年版は七巻本となり、一七八0年版は前掲の如くジュネーブにて刊行、而して網七 九八年版は二十二摺本として刊行されてるるが、この著は一七七九年には佛蘭西政府により、焚書、著者逮捕の命令が脅 せられた程に、佛蘭西大革命前夜の思想的糧として意義高く、叉隊洲高義に辛して民主革命思想の普及愚書に重大なる役 割を演じたものであることはこの著書が主要欧鮒語に翻課されてみることでも明かである。と局時に彼がその著の中で用 いたる鑓60躍邑厨けφ匡の語藁が主要欧洲語に翻鐸され、或ひは原語のま・に傳播されてるることも、疑いを容れない事︷貫で ある。 藪候馴化離の墨史的背景 入替氣候馴化論の學更的背景 九〇 いま若し彼がこの棚田僻の創始者一であると断定七⋮得な・いとしても、彼の舵伯の一七八○年刊.行ジュネーブ版に佛蘭耶四駈悶に於 ける最初の使用例を見出すこと、、鴛。自B暮円に語源を求める英語の鱒oo西海韓富の最古の使用例を一七九二年の団。§瞬 ↓雷く①♂ 轟Q◎間あ曽 に置いたことに依り、英佛爾語の使用例の時間的接近は閃貰旨巴の使用例がこの語の創始であるこ 冒 ︵2︶ とを暗示する。なんとなれば国遷昌舘の前掲書の英課本が一七八四年にダフリン版としてアイルランドで刊行されてるる ダベコゲシおプロツヘンコハヨペン ことは高書謝り英語への移入が話されたるものとしてではなく冒幻餌鴇コ巴の著を通じて行はれたと見るべき一つの根撮を吾 澄に與えるからであり、H野荒帥団謬巴の使用例に先立ってこの語の話されたるものとしての歴史が佛蘭西に存したとすれ ば英佛爾國の地理的位置の接近から見ても、英語の使用例は畷。§騎を侯たなかったであらう。だから吾々は閃ミ鐸巴 がこの語僻の創始者であると見倣してよいのではなからうか。 尤も閃四団円巴がこの語爵を西班牙語葡萄牙語より移入したかどうかについては何らの資料を持ちA戸さないが、.いま一つ ら の推断が許されるならば、西班牙語に的oo嵩筥彗四﹃の語があるが西・葡の如き異郷風土の民族國家的体験に於いて既に一 五世紀末よりの腿史を持つ岩盤にこの語が夙に存したとすれば、密語への点訳は一八世紀末の国議旨巴を侯たなかった であらう。 ¶ ︵窓︶ 一八七三年︾﹃ヨ”鼠はその著に於いて﹁新しく創出せられたるものにして、吾らの時代の新語たる餌8国ヨ暮Φ旨Φ韓 といふ語は未だ語爵墨者がその意義並に語義を了解することを許さないならば、衛生講者並に氣候學者が、それにつきて 如何程に大にして且珍妙なる種々の意見を 鋤。o属ヨ碑鉾δ昌 の事實につきて述べたとしても驚く三管はない﹂ と。翻ち ド アヶリマゆウぜン アタリマテ 暫OO冒舞$﹃より出でた麟8団ヨ暫三舞㊦馨は﹁氣候馴化の結果﹂、或ひは﹁氣候馴化せられたるものの妖態﹂の意に用ひられたる術 語であるが、注意すべき一つの省電は一八六一年頃には語僻王者によって卑oo鵠碁彗⑩ヨ⑩韓と些8=ヨ薗冨胤。昌とが未だに ハヰね 覆々混同使用さ轟てるた事であり、一八七三年頃、その慣用は未だ﹀贋目国巳の前掲書に述べられてぬる如くでありた。
、 然も一方諺二二凹部二のいふ彼らの時代の新語たる80謡ヨ糞Φヨ①舞が佛語そのままに英語に轄用された使用例が一八二三年 に見出されるのであるから蜂8嵩旨四冨ヨΦ暮も十九世紀初葉の新藷たるに相違はない。 英語の﹁氣候馴化﹂の意味を有する語重はその故年を佛蘭西に見出すことが出來た。佛語のコ氣候馴化するしてふ語感 は国騨二巴の著を媒介として主要歌洲語に翻弄され傳播された。けれども此らのすべての漱洲語に於ける﹁藩候馴化﹂な る語彙がその故郷を佛蘭西に見出すか否かは俄かに噺定を急いではならない。 註︵1︶ O葺。匂島嘔Φ話魯“巨昌昌胆p鳴”誌2鉾葺φUΦ鵠[o℃o旨雪汁阻巳Oユ魁甘い。巳。員HO旨︵市川三喜並神保格繹︶二月頁 ︵2︶ρ臼ぎ露国“三吟匡。。・8野呂帥民田。ま。巴日算。蔓。=一昂ω葺冨目窪回護畠臼、室号。断穿Φ田﹁百雷鵠甘同砦ゆ国翼帥a≦興 亜目$︵霞弩。。算巴ξH●∪‘四隣目O巳︶∪ロ匪P嵩。。軽ハ本書の刊行は﹀’O,摩一6臼≦鐸①ω①蓬題ω一口聲①⇒O悪留2‘吋・”琶ωP 頃幽謹・にその]節が引用せられてるることによって知られる。︶ ︵3︶ いΦU巨≧旨9二郎目冨詳伽⇔o畠ヨ帥持⊆o塩Φぽq仏ロ警笛①幽口σQδげ①”①田畠雰旨Φα凶6巴醗の霞δロ。。同島。嵩き鋤骨℃母軍団QQ﹃9◎リロ.Qo曽. ︵4︶罫審魯①屋蕾齢瞥豆巳。言昏①ロ註8無国量目。。①H・ 第叫章 佛蘭西・の植民活動概蜘削 一一七八O年を中心として。 ﹁氣候馴化してふ新しき術語の誕生とその科端的研究の創始が、十八世紀末と十九世紀中葉の磁器西に結び付かなければ ならなかったのは一体何故であろうか。専心馴化という事が故國の氣候風土と異ったものに慣れるという意味であるとす れば、異國に滞留することがその前提であり、現在までの多くの事例は植民地と故國との氣候風土的相違から生ずる問題 であることを示してみる。故に吾々はこの語瀞及び研究の創始と佛蘭西との結びつきを究める爲にも、先づ佛蘭西の植民 活動の史的考察から始めなければならぬであろう。云う迄もなく問題とすべきは一七八O年を中心とした佛蘭西がいかな る植昆國家としての位置にあっ忙かである。 當今程蘭西植民地は廣表面 二〇〇帰方粁に及び英帝國植民地に次ぐ、世界第二位の植民帝國であるが、この大部分は 粛候馴化論の學史的背景 九一
氣候馴化講の學史的背景 . 九二,.
天七〇年ナポ集ン三世退位経ぐ佛蘭西第三共和政府樹立後の活動の結果でめきを会新清澄西植民國或ひ轟蘭
西第ご次植民帝國と輸して、從前の奮植民帝國とは阻別して考える慣しである。遊者の間は明確なる時期によって劃せら れ得るからである。 凡そ奮植民帝國はブランソワ一枇、アンリ三四子、Lリシユリユ、コルベール等に依って築き上げられた、就中ロルベー ニヨきコィングシンド ユロペル フヲンス ル在世中、コ新しき英國しに醤する﹁新しき佛蘭西﹂は年を追ふて籏害せられ、佛蘭西植民は廣大なるルイジアナに、或い は日p句﹃仕口O⑳仙心土甘。図剛巴㊦ ︵アンチル諸皿島を指す、和田註︶ に播略大され、H勉国﹃釦コ06 0弓薄暮巴㊦ ︵この當時にありてはマダ ガスカルを指す、和田註︶は一騒密接に本國に結繋されるに至つ忙。 コルベール世を去れる一六八三年六時、 佛蘭墨守 ぐし コ 民帝國は未だ嘗て佛繭西人の休験せざる最大版圖を有ったのである。佛蘭西植民史の上に奮い.て、コルベールの活動は瞬 アインザ冨メ曹ギツブエル︵3︸ くが程の短いものであったにしても、それはまさにぽつねんと聾立せる尖塔に警へられる。これより後、平準西はブルボ ン王朝の失政によって植民地は衷失への一途を辿り、これらを英國に譲ったのであるG即ち 一七二二年ユトレヒト條約は多くの史家が云ふ檬に佛蘭西植民帝國の分裂の端となり、この時佛蘭西は加奈陀のハドソン骨拾領土と昌ユ テ ロ ル ロ ヨ ロヅ アカヂリ ーフアウンドランド︹弓Oほ①−20二く㊦︶、ノバ・スコチヤ︵詳B陸Φ︶を喪失し、 七年職孚の結果、一七六三年のパリー解約に於ては英田に封し、カナダ、ルイジアナのミシシッピ︸河以東、かープ・ブレトン島、西印 度のグラナダ島、セネガル地方を護り、印度にては大部分を英國に譲り、僅かに五商館弛をその掌にと讐むるにすぎず、爾ミシシッピー河 以西は西班牙に譲った。 一七八三年にはアメリカ猫立職孚の結果として、西印度のトバゴ島とセネガル地方を回復したが、得る面謝少にして費すところを補ふに 足らなかった。︵4︶ 一八0二年ナポレオンほ密約を以て導爆ルイジアナを譲受けたが、一八〇三年アミアン條約決裂後は佛蘭西は大陸政策を固執するに至り ルイジアナをアメリカは責却し、西印度のサン・ドミンゴは損立する有檬であ﹁つた。 一八一四年のパリ條約に於いて酉印度のサン・ルシア畠とトバゴ島及び印凄洋のモーリシアス島︵同げ貼。悶量暑Φ︶を喪失した。ナポレオンがエルバ島に流された後、 一八一四年五月三十日の巴里條約に於いて佛爾西に建された植民領域は極めて僅 少であった。印ち北米にてはニューファウンドランドの漁業樺とサン・ピエール及びミケロンの二小島、西印度に於いて はグフデループ、マルチニツク等の小島、南米にてはギアナ、アフリカにてはセネガルの二商館地とレユニオン島、アジア に於いては印度の五商館地を拒むるにすぎす、その面積僅かに合して九・三萬方粁にして我が北海道より梢大なりと雪ふ べく、 嘗てコルベールの治世の下にその頂鮎に達せる佛蘭西植民帝國の残骸をと、−・むるに過ぎなかったと蛍ふことが ヂ ビロか 出來る。 ランボーば云ふ、 佛蘭西帝國の嚢展はこの當時にあって最小値にあった。それはも早や帝國の名を受くるに債 しなかつ忙。山なぜならば西班牙は廣大なるアメザカ総督領を有し、葡萄牙はその境界をすら知らざるブラジル植民地を保 有し、和蘭はケープ及びセーロンを衷失したとは雌も術著しき残存領土を有し、英國は就中印度に於いて法外なる膨脹を ︵5︶ 爲せる時に當って我々は植民諸三家の中の最下位に落ちたからである、と。 かくて佛領植民地のうち、レユニオン、マルチエツク、グワデ井ープの三小島は人口僅かに五〇〇萬意表僅かに佛薗西 セ も し し も 本國の一州に匹敵するにすざざるにも拘らす、省當時にあっては三大植民地と組し、佛爾西入が昔日の榮華を憧憬し、未 ︵6︶ 來の植民地を夢想して自から慰むるの料に供せられた、 とはその評敢て酷にすぎると云ふべきでない。 註︵1︶ 国幽周.O窪自誓“悶圏雪30◎δ農豊岡9畠ぢ↓ず8嬉ゆ昌Ω国国二8“︾譲5Φ≦,O題鴨器物ミBh馳陶器§<oピbo斜おも。㌍噂髄冨ド ︵2︶ 9.と坤。山図餌旨σp犀昏いm舅量ロ88︻oロ巨ρ男切湯㌧回Qo撰り︵冒訂。Ω琴瓢。コ慧輯Q口ρgΦ︶P6幽 ︵3︶ 局臥貫零四σ身昌臼⋮団Bロ痔且3僧旨Q御田昼国。δ巳跨臨。戸昨夜隙。篭跨ぎN災凄、静置、、量切Pδ卜σ.︵一路O︶oo・帆QQ’ ヘ ヘ ヘ へ ︵4︶ シーリー、英國護展史論︵古田保謬︶四二一四三頁﹁フランスはわが植民地︹アメリカ︺の叛.胤に干渉のくちばしを入れ、その掲 立を承認し、擾軍を涯遣した。このため英佛はまたもや五年聞海陸に職つた。⋮⋮すなはちカナダを失った復讐を米國の鍋立でと げたのである。その後、ある機會からはなはだ有名になった言葉でいえば、フラyスは﹃醤世界の翌翌を恢復しよ5として新世界 を生んだ﹄のである。﹂ 佛蘭西の米國茎立職畢に蓼加したことに上してか玉る見解もある。 無候馴化論の學史的背景 ・ 九三
氣候馴化論の學史的背景 ︵5︶罫>Q蜜ヨ訂巳樋阜管ミ.も.恕卿 ︵6︶ 關口﹂眞静、佛國の殖民政策、國家思羅誌 二十一巻三號明治四十年 九四 第二章 氣候馴化論よう見たる山型西本國とその醤[植民帝國 マウルの云ふところに古れば、その面積五十五萬粁の夜露西本國は大部分が温帯地域に属してみる。隊洲大陸の西岸に あるその特殊的位置と、大西洋に向っての野土の闊以たる開放性は佛薗西の氣候を完全に大陸的代償より防い﹂でるる。僅 かに本尊の地曳海に澹へる地方とコルシカは繭絵の地域とは氣量的性質を異にしてみる。これらの地域のみはその性質か クリマギツシエ フ ルシユヨレ ら見て亜熱帯地域近傍に引寄せられてみる様である。それ故に熱帯それ自体への氣候的入門としてこれらの地域の有する ハユ 意義は決して低く評傾されてはならない、と。白帯的事忌西本國が、本甲の一隅に亜熟帯類似の氣候地域を有すること は、淀新すれば佛蘭西本國が氣候的種類に富めることを意味し、從って本々領土内に温帯と熱帯との氣候上の中間的位 置を有してみることは、関野西が氣候馴化論研究に好趨なる地理的條件を具有せるものと云ふべきであらう。なぜならば 敏洲諸丈明國中、當國が諸候馴化論研究の先鞭をつけたのば、営論の基底となるべき進化學読が佛蘭西に於いて夙に生誕 ぐし を見たことに灘すべきは云ふ迄もない事ながら、他面に競いτは﹁氣候馴化附言の中でも巴里のQ自oo置仙畠”︾oo環旨鶏塑鉱。昌 ト セ し し む も む し はアルヂエリア、ナンシーbグラノーブル ︵南佛ドτプアン州にあら、和田註︶ に秘所を有し、:⋮⋮⋮・最良の位置にある 魯 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ︵3︶ 佛蘭西の氣候によって助成せられた﹂︵傍貼和田︶ からでもなければならない。 いま蕪では讐植民帝國に考察を限定し、 從ってアルヂエウアについては考察の外に措くとしても、本國内にすら手暇より亜熱帯類似の氣候に二番まで上之的種類 に豊富であることは當論研究の上に好適なる地理的條件を具有してみると督すべきであろう。 併し乍ら吾々はこの事が佛蘭西人の氣候馴化能力を高からしむる所以であると速断することは明かに誤謬である。なぜ
ロ ならば佛蘭西本國はその一隅に於いて亜熱帯類似の氣候を呈示せることは、延いては當國が濫帯國なることを意味し、從っ て亜熱帯類似翻意の故郷を少敏の佛蘭西入が有してみる以外は、大雷魚が源帯に病癖を有する佛蘭西人であるからである。 ド ドルンダスコロニユ この意思に於いて地理的には本論と同緯度温帯に位置せるカナダ並に井イジァナ植民地は嘗ては佛蘭西の居佳植民地と ユモベルフランス して極めて高き無二を有してみた。カナダ植民地はアンリー世世の庇護の下に一六〇八年探検家ω山登偉皿自¢O冨彗宮帥凶ロ がケベックの基礎を設立し、ここを西方への探検貿易、傳道の撮黙と爲したのに始まるる。・次いでO草聖ぎ包閑皆ぼ①自Φ這は ヨロベルロフヲンス 植民促進に努め、q①螢昌bコ鋤や餓ω借09ぴΦ腎はその開獲に努めた。叉佛人のミシシッピー鴬谷の占糠とともにカナダ植民地 ト ニユロコイングランド はルイジアナと名付けられる大領土を附加し、新英國を包罪する態勢となり、面積に囲いても後者を遙かに凌ぐ廣大なる 二昌一.イングランド 昌 訪 ﹁9イ ン グ一7 ン ド 霧−疋盈 ものであった。併し乍ら人口に於いては︾言8。。が薪英國総督となれる=ハ八七年頃に、﹁新しき舌振﹂の英人は﹁新し フランス き佛蘭西﹂の佛人の約一〇倍であった。これは漁人が二三を離れることを好まないのと、佛蘭西のプロテスタントの如き 非國教徒が植民地に亡命することを英國の如くに許可せす、ユグノーに關する限り、アメリカ植民地に移益するものは悉 く外野旗の下に於いてこれを隠したことにも因るし、叉その黒土が北方に於いては英人の占領せる南方に比して農業に恵 の る れなかけたことも経濟的一因でなければならぬ。 ユニドコィングランド 縦令、人口こそ﹁新しき英國﹂に及ぶべくもなかったとは云へ、佛蘭西は一九世紀に見られる如き本國人皇の減少傾向 が未だ現出しない寒雲にあっては、民族的散布の可能性とその能力が英國に未だ遜色を見ない時代であるが故に、一七六 ユほペルコフランゑ 三年佛蘭西がその唯榊の居住植民地たる﹁新しき佛蘭西﹂を喪失したことは氣候馴化論研究との關聯より見て極めて大き な事件でなければならぬQなんとなればこの大喪失の後に佛蘭西に淺された植民地は既述せる如く面積我が北海道より稚 大に過ぎなかった。然もそれはニュー。プアウンドランド南岸に近き砂たる二島、サン・ピエールとミケロン︵合して二 四一方粁、わが淡路島の牟分︶を除けば、悉く爾回蹄著聞に位置するものであった。 7 粛候馴化論の墨更的背景 九五
崖照候酬[化論の盟學史的背景 ・ 九六 アタリマテ ﹁氣候馴化する﹂という語僻が誕生した一七八O年前後は佛蘭西の植民地領有に於ては室前の大失墜時代であったことは ア ク リ ヤ デ ヒ 吾々に口耳は奇異の念を懐かしむるに足るであらう。併しか・る時代なればこそ、﹁氣候馴化する﹂てふ言葉が生誕しなけ ればならなかったと吾々が主張する一つの理由が存在するとすれば、それは外でもない、この時代の佛爾西の砂たる植民 アンシヤンロリロニコ 地全領土の意義如何によるものであり、これらの、今日の植民史家によって奮植民地と呼ばれてみる砂たる植民地が壁土、 に於いて如何なる意義を有ってみたかがこの疑義を解く鍵でなければならぬ。 アンシヤン.コロ昌一 アンシヤン,コP漏一 アンピール・コPニア盲ル・7ランセーズ 蕾植民地が佛蘭西植民帝國を意味したのはこの當時のことである。換言すれば蓉植民地則佛蘭西植民帝國であった. のである。だから佛爾西植民政策に冠する限り、一八三〇年のアルヂエリア併合に至るまで、叉アルヂエリァが職孚を絡止 アンシヤン ゴロロココ し一植民地となったのはやっと一八七〇年のことであるから、アルヂエリア併合後もまだ兵威永い聞、この熱帯の奮植民地 が佛蘭西植民政策の基礎となったのである。佛蘭西が自由政策、抑厘政策を順次試みたのも、これらの植民地に於いてで あった。それが誉植民地がもつ一つの意義なのである。云はば植民政策の一つの實験基地であっ九〇然遇過ぎし一日の諸 種の實験は伺長き着工を残した醤植民地が、聖母にあって如何なる現實的重要性を荷坐したか、という事も大きな問題で あり、これは問もなく論及される筈であるが、これが實際的重要性を溝滅し卸量も、奮植民地は依然としてその意義を保 らり つ つて來たのである、 註︵1∪ 9♂蜜毬汀守彗醇甑9自。ごロΦ騒霧話ド詳︵ωoヨ巨巷ぴqOα。・昌魯巳。。qp︶国巴旦μΦい9ω・瑠. ︵2︶ 拙稿、癒候醐化墨設農開の墨.史的考察、薩根論叢 創刊.號 昭和=十四年十二月 ︵3︶誕塁。冨︻、ε躬Φ国。嚢Φ﹃聾δ匿Φ劉鱒。詳。り①9器訴亀識ρ困08. ︵4︶国話器団。葺巴O冨8Φ”↓冨周ε邑嗣ぎ蕩。︷臣臼巴凸p・菖客”ぎ目黒ぎ2.郵口露吋”署﹄8山H吟 ︵5︶蜂Φ9窪累園。びΦ器”藁。・貯。藁9寄目99δコ巨勺二毛仁。。お山露eぎ口α言口露P國押畠鳴−響O
第三章 チじユ ア ン アンドロオクシデンタじル
佛領導印度遜譲︵︸鼠竃ω或いはぽ号08轟轟芭︶の経巻史的意義と皆人勢働者の季候
コゆ劉化の問題
アンシヤンコゴロニさ 現今、佛領西印度諸島は前章屡よ使用せられた醤植芝聖なる集囲に含められてみることは、これが有つ意義が明かに遍 去に驕してみるからである。・今日キューバの世界経呈上に於ける役割を論ずる人はあっても、佛領西印度諸島のそれを顧 る人は殆んどないであらう。か・急人々には一七八0年に氣候馴化てふ語辮が佛蘭西に生誕したことは了解に苦しむ難題 たるに相違ない筈である。實にマルチニツク、グワデル喜プ島は現今佛蘭西の手を離脆してるるサン・ドミンゴ島と同じ ジ ドルングペロコロニじエン 様にその繁榮は過去にあったのだ。然もこれらの植民地はアンシヤン・レジームに於いては居佳植民地でもあったし、當 ハユリ 時佛領植民地の中でも最も毅賑富饒を極めたものでもあった。本章に於ける我々の目的はこれらの熱帯植民地の過去の経 濟的繁榮の究明それ自体に存するのではない。吾々はこの島嗅の経濟的繁榮を究明する中に、それが佛繭西本國に幽して 如何なる勢力を有し、意義を有したか、延いてはかうした繁榮に到るまでに佛繭西人は熱帯の風土氣候と如何に闘ひ、如 何に敗れ去ったかの問題に及ばなければならないのである。 ロ ク これらの島嗅の産物は煙草、棉花,閃ooo置︵概紅色染料︶、 藍を初め砂糖・カカオ・コーヒ・などで十七世紀初頭には 無覗されてるたものが、俄然肉桂・丁字の類と同機⋮に持嘩されること海なった。ド。鼠ω−℃烹︼首”①二相鴫博士が云へる如く, 當時の佛蘭西のか・る西印度貿易は實に佛蘭西本國の實際的、肚會的、知的生繭の上に一つの完全なる革命さへ齋らす原 へ2り 因となったのである〇 十七世紀中葉、佛領野印度諸島は先進の英・蘭の勢力圏[にあった。三って佛蘭西植民地の生産物を本葺に輸駕する爲に、 氣候馴化論の塵吏的背景 、 8 九七氣候馴化論の畢史的背景 . , 、, 九八 就中マルチニツク島に出してさへ毎年・二〇〇艘の聖母西脂が涯遣されてみた、けれども當時佛蝉茸の商船の不足は五〇〇 萬フランに躍る商品をアムステルダム・フレミング・ミドルプルグの商入に拾ひ取らしむる結果となった。然るにコルベ ールが佛蘭西の競孚者の手中にある佛領植民地を奪還する爲に、又この世界市場を昏晦西に服聾せしめる爲に、關税政策 と特殊會批の設立を以てした。彼の目的は佛導燈印度貿易より一層多くの利釜を獲得せんとするのではなくて、外耳人を 自國植民地より放齢せんとするものであった。かくて一六七四年以降、佛蘭西は西印度貿易の支配者の地位に就くに至 った。その開二十年もの久しい間、ロンドン・アムステルダムに通じてみた酉印度の貿易ルートはこの・時に於いてその方 向を攣換すること・なった。その結果、神領諸島喚は莫大なる生産を暴げ、また莫大なる佛蘭酉商品を沿費する深淵とな ったのである。蕪に於いて新原料による工業が佛蘭西に設立されたばかりではなく、既存の手工業も亦新しき販路を見出 ︵3︸ すこと・なった。先づ第二にマルチニツク、それに訳ぐサン・ドミンゴの繁榮のお蔭を以て、佛蘭西は工業化を實現する ことが出來・た。佛蘭西大革命直前には佛蘭西は毎年一億五千フランに畢る植民地物産を輸入してみるが、佛蘭西自体の沿⋮ 費はその年ばにも蓮しなかった。故に佛蘭西は完全⋮に當時の激洲の叫つの公衆穀物貯藏異汗昌。卑﹃O巳①鴇島.節σ出口匹田コ8とな ︵4︶ つたのである。 かかる大きな影響を耳蝉に齎らす程に、西印度植民地の存在は大であった。然らば前述の如き熱帯特産物は如何な為受 働力により如何にして生産されたか。 佛蘭西人のこの島喚群への植民は一六二五年に始まり、先づ彼らはサン・クリストーブア島に赴き、次いで一〇年後に ︵5︶ はこの地域に於ける主要基地となった.〃ワデループ、マルチ一一ツクにも植民した。 ﹁一六二五年一三七年の間に西印度 の歴史はまさに致命的であった。﹃英・佛爾植民の群はカリブ海の西班牙帝國の腐欄死体にたかる蝿の如くに押寄せた﹄か ︵6︾ らである。﹂西印度は確かに當時にめつては居佳植民地であっ質。
吾々抵居佳植民地としての西印度諸島は受入の氣候馴化の上に如何なる關係にあったかを見ることにしよう。欧人は各 島嘆に減して各自の先取擢に基いて夫≧の國旗を掲げたが地理的にはカリブ海に一聯の列島を形成せるこの西印度諸島は その地理的端書に於いては青島嗅に夫二の小異こそ存してみるが、隊人に封ずる氣候馴化の観貼からすれば、窮ろ熱帯的 島嘆という通有性を有し、一個の地理匠を形黙してみる。か・る地域の土地自然が欧羅巴種族の概念の下に吉祥せられる 諸民族に興へる影響も亦通有性を持つと見て差支へないであらう。 當初西印度諸島に於けるエステート経菅はその先駆者たる西班牙人に倣って土着アメリカインデアン人の書函力に侯つ 江。けれども彼らは奴隷的酷使によって急速に死滅してしまひ、エステート経鞍者は歳入及び黒人の勢働力を用ひる様に なった。白人勢働者は前書地の叛鑑を避け、或ひは誘拐の手に乗り、或ひは契約勢働者として來島した。併し多くの場合 自入労働者は黒人奴隷よりも良好なる状態を呈示しなかった。例へば英領ジャマイカ、サン、・ヰツツ島に於ける人口統計 は開拓當初その激に於いて優位にあった白人人口が漸訳急速な減少傾向を示してみる。美事に西印度黒帯に北欧勢働者を ︵?︶ 植屍させんとする試みが失敗に齢したことを物語ってみる。英京の施行したU㊦口息①昌。矯冒馬事 ︵自人減少防止法と号すべきか︶ は黒人の増加を憂ふる蝕り、・月人人口に封ずる黒人を、一定率に保持せんとする試みであったけれども、一六九五年頃に はバルバドス島総督ラッセルが云へる如く、酷使と疾病とによって白鴎螢働者は大いに梯面してみたのでめる。かうした. 暗い不安に充ちた西印度の報告が故國に齎されるや、英人は多くアメリカ本土に赴き、西印度に於ける莫人エステτ卜経螢 ︵B︶ 主は黒人奴隷と英人囚徒に勢働力を求める外に途がなかったのである。かくてU①匡。δPo団乳酪毛も逐に敷を奏しなかった。 英領仁心に見られるこの扶態は佛領島嗅にも同機に見られた。 ∪鶴↓o﹃詳Φの云ふに、﹁グワデループ、マルヂニツクに 植民せる佛蘭西人が飢餓と疾病と、野上世界に於ける奴隷よりも酷に、白人植民を降っても二っても叢林の伐栽事業に鞭 ︵9︶ つた監督者の淺忍性によって高き死亡牽を示した﹂のである。又ナポレオン一、世はサン・ドミンゴ島東部に殆んど露命せる 氣候馴化論の屡史的背景 九九
氣候馴化論の學史的背景 幽 一〇〇 黒奴政府を撲滅する爲に、妹婿目φO冨滑Φに二萬五千人の兵を授けて派遣したが、佛軍・は熱病に湿れる者多く兵員は七ケ 月の後の一八Q二年七月には縄かに八千人となり、彼も亦この病に犯されて死に、はては一八〇三年・に佛軍は全くサン・ ゆね ドミンゴを引受って、ここに今入のハイチ共和國の猫立を見る⋮檬になった、有名な史實も藪に併せて参看さるべきでめろ う。 北欧系と地中海系とを問はす、白人が西印度に植民せんとする試みが失敗に質した原因は、亭亭氣候曙れ自体にあるか 或いは氣候風土と廣義に解されるもの・中に見出されるか、或いは氣候風土に間接的影響を得て生起すると考へられる諸 般のものム中に見出されるかは簡軍に決せらるべき問題ではない。﹁アフリカ入にとって快き太陽であっても、彼らと同じ 機に太陽に曝された場合には欧入にとってはそれは致命的である。三年も経ない内に一〇名の欺人ならば階名までは死亡 ハル するであろう。﹂という事實は疑を容れないであらうが、この問題については稿を改めて吟味しようとする。 要するに佛領西印度植民地は過去に於いて経濟的意義は極めて高く評債さるべきであった。それだけに準則西入の西印 アタリマテ 度定佳の、換言すれば氣候馴化することの成功と失敗の問題は佛蘭西人にとっては小さな問題ではなかったであろう。こ の事は西印度に於ける英人も同じ問題に逢着してみた筈である。併し乍ら既に明かにしたように、西印度諸島は十八世紀 末葉め序盤西植民帝國の中でも最も繁榮せるものであり、いはば白眉でもあった。佛蘭西植民工費にとって西印度諸島がす べてであづ忙と云っても過君ではあるまい。これに反し、英國は西印度諸島に野馬西と類似の問題を有してはみたが、英 國にとって西印度諸島はすべてではなかったことを忘れてはならない。購層豊饒にして風土導者よりの拘束も皆無である ニユト イノグランド な ニユ専・イングランドを大陸に有してゐあ11。然も英風の繁榮が管に﹁曝しき英國﹂という温帯居佳植民地にのみ懸ってみ たとするには、禽纏りに印度の繁榮と濠洲大陸への未來の希望が大きかるべきではなかったらうか。十八世紀は實に英佛 植民職寧に絡上し翠雲の櫨大と佛蘭西の縮少は逆比にあった時に、佛蘭西に封ずるこの紗たる西印度諸島の問題と錐も、 曽
絵りにも大であった事は蕪に贅言を要しないであらう。 かなしくも佛蘭西の唯嶋の賢士であった熱帯西印度へ佛蘭西植民論者の二心が惹かれてみたことは敢て異とするに足ら アクリマデ ぬ。﹁氣候馴化する﹂という語僻の生誕を見た一七八0年頃の、換言すれば植民的獲展の大失墜時代ともいふべき當時の﹃ 佛蘭西とこの新しき術語の生誕との奇異なる結びつきを、かくて吾女は佛蘭西と西印度諸島との特異にして且つ大なる経 濟的關聯に蹄したいと思ふのであ届。 ・ − 9 註︵−︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ ︵−o︶ ︵11︶ 鼠影身三男Φ口仰∪舘No岸Φ娘ヨ①島窃囲物自。,。・記。ぱΦ国巳。臨巴門血嗣げ畠一pの血昌2ぼ珍。同語90霞国葺毒一隆ニロα⊇−遇乳、建受益臣籍、嘉苛ξ脇 轟§建き切P弩u嶺器矯︵一噌葛切や・斡諺窪nO貯切①匹Φロε農瓢2Φ冒N色屋ゆp囚。ざ三①雷h隊門出器囚巳。巳四﹃血。ぽ︶ω.卜。冨・ ド。鼠皿−頃匡甘書誌癖。眉ピ目白彗8馳蜜奮き。。山醗耳目琶葺需㈹唱ミ駄.ミ無ミ愚魯§§職畠§掩煤弩皇ミ野望護昌昌融。㌔螢器漏器Pや畠卜 ﹄詠ミ4唱.恥紹. まミこ冒畿O. 98言窪r聾・pρω願這. ㍗O器鼠巴寄冒①”司臣斤。廷詰Φ話冒§Φ↓ヨ風B℃2●嶋●”回鵠P唱,悼09 まミ‘噂亨卜◎O−い∂け h守ミ4戸鵠・ 即即曾目段需①“国醇。吋Φα身窪曾艶自Φω︾耳語舘”℃財団。摩㌔δ難−δ勺篤く。ド同M宕.刈。。函ピ碁盤08住蹄。日馬ミ恥4罫b⇒bσ‘ 箕作元八、西洋吏講話、六七四一六七穴頁 ︾ρ即言卓唱サミ鳳‘O・ωO幽
第四章 佛蘭西の氣候馴化論創始への要請
1ーアルヂエリア問題とその研究の一例。 一八五四年にいつれの欧洲丈明國よりも早く、佛蘭西が曲説馴化論の科學的研究を創始したが、佛蘭西に於ける氣候馴 化論の基底たる進化學読の黒き生誕は云ふまでもないこと乍ら、果してか・る研究を要請するに至った具体的課題が存在 旙隅候馴化論の墨旺史的背轡い . 一〇一癩候馴化論の畢史的背景 皿〇甘 したのであらうか。本章はこの黙を究明せんとする。 一七六三年の巴里條約とナポレオン職役終末の一八一四年の巴里條約による佛爾来領土の大喪失後、いま假りに領土大 失墜時代と呼ぶ期間を経て、第三共綿政府の手で現代の新佛爾西植民帝國が再建せられる、その主軸は先づ復古政府、鄙 ちブルボン王朝最後のシや九ル十世の時代にあっ忙。併し乍ら﹁復古ブルボン王朝は菅に冷淡であるばかりでなく、明か ︵︸︶ に植民的企圖には反醤であった﹂のである。マウ井は皮肉にも、一八二七年アルヂエリア大守が蝿叩きを以てアルヂエリ ァ駐在佛領事を殴打したことによって、佛蘭西の感清が刺戦されたが、これが佛蘭西の新しき獲展の第一段階を特色づけ £V るのだと云ってみるが、か・る侮辱事件すらアルヂエ凱ア占領の口火とはならなかった事はこの地への干渉がこれより尚 三ケ年も遜延され九ことに依っても明がであると共に、劃一八三〇年に到りシャルル十世が外職によって功名を揚げ、自 己の威信を繋がんとする政治的擬態に從って、征服はされたが、アルヂエリア問題庭理につき、議會の小田原評定と統治 の困難さによって亦明かに知り得るのである。一八三四年下院議員パツシーは﹃アルヂエーは砲門を佛蘭西に向け、且つ 漱洲に於ける佛蘭西の政策を侵害せんとする一つの砲丸である。余はライン河畔の]軒の山小屋と引替へにアルヂエ1を ハヨ 放棄するであらう。然らば事件も好縛するであらう﹄と云った。彼ほど明確なる反鍬論を唱へたものはない。 一方この植民問題を主張する唯一の一派は商業的慢展を欲する南佛地方の議員と、地申潅を﹃佛身魂の湖﹄たらしめん グロワロル 事を夢に描く軍略家と、武功を口にする愛國歴たちであった。がその.敷に於いては極めて少考であった。一八四〇年まで は議會も重農主義の流れを汲むもの識反封論に從ひ、維濟學者で植民論に賛成するものはもり謬ヨO昌急だけであった。然も 輕卒な一語が植民夏霞論者の勝利を完からしめた一それは﹃アリヂエリアは水のない一塊の岩だ。ただ室氣だけがある ︵4︶ 土地だ。然もその室氣さへ腐ってみる1﹄ ただ、それだけではない。現實に於いてアルヂエリァ統治及び植民が領有後、 八七〇年に至る久しい間失敗の霊前で
︵5︶ あった事も佛蘭西國内の噛部がこれに反封ずる原因であった。而して植民の失敗は實にアμヂエリアの風土氣候に麟する 外に何ものもない様である。 ﹁北アフリカ籏行を爲せるζ帥渚20吐山摺賃が観察する塵によれば﹃水があり、何物かが成長し得る塵では、氣候は殺人的, ハ6星 であり、氣候が衛生に宜しき威では水はなく何ものも成長することが出來ない﹄と。この意瞭に於いてアルヂエリアに於 ける佛蘭西人が誇りとしてみる氣候馴化は結局は氣候の一要・素への順鷹にすぎない。地中海に澹へる三聖アフリカ植民地 に於いて佛蘭西人がこれに域功せる事が保謹されるのは、この限界内に於いて承認せられるであらう。アルヂエリアに於 ける軍人及び船員の死亡率は一八三七年より一八四八年に至る間に、一〇QOにつき七七であったQ︹佛蘭西の古き氣候馴 化論研究者である ︵和田補︶︺じUo信亀戸じりΦ広報。戸国口。図などは却って佛蘭西人がこの地に植民し得るや否やを疑った位で ︵ワ︶ ある。﹂ アルヂエリアに於ける白入人口歌態は又乙の鮎を明示してみる。一八五四年という年はこの植民地に於いて出生が死亡 き を凌駕した最初の年である。次〃表は一八五五年一五六年の間の敵人の相樹的な無能力を示してみる。 2 スペイン入 マ ルタ人 イタリア人 フランス人
ドイツ人
出生︵一〇〇〇につき︶ 四六 四四 三九 四一 一三 死亡 ︵一〇〇〇につき︶ 三〇 三〇 二八 四三 五六 叉一八六允年・までに、佛蘭西軍隊の職死十五萬入、植民者も同数位死んでみるが具体的にアルヂエリアは何の利益も齎 無候馴化論の墨↓史的背﹂景 一〇三藪候馴化論の學史的背景 .、 一〇四 ︵9V らさなかった。 一八七一年・この植民地で相次“で繁昌するのは墓場ばかりだと批難された。 藪で吾々が云ふべき事はこの地に於ける佛蘭西人の氣幌馴化論研究が眞剣に行れねばならなかった程に、アルヂエリア の風土氣候がその植民當初にあっては佛蘭西人に致命的でめったといふ事である。いはば佛蘭西人のアルヂエリアの風土 氣候への闘いが彼らに営営研究を要請した具体的課題であったのだ。新しき植民帝國再建のかどでに當って、その第一課 題たるアルヂエリァを領有すべきか、放棄すべきか、この二筋道は佛蘭西にとって確かに大きな問題であった筈で,のる。 この課題を解決すべき鍵が實に叢論馴化論研究であったのだ。故に吾々は彼らが、いつれの國よりも早く當論研究に先鞭 をつけ、町費リプレーの言の断片を理るならば、思出西人は﹃いつれの凶器よりも一層科學的にこの︹氣候馴化論の︺研 ハゆり 究を爲した﹄ことを敢て異とすべきではなからう。 尚當論研究の基礎條件として佛蘭西の志野的水準が忍受的優位にあったことも云ふ迄もない。更に宏はば本國自体に於 いて温帯より亜熟帯類似の氣候に至るまでその種類に野富であることが當論研究に好個の實験場所としての地理的條件を 賦與してみることは先にも述べたが、いまアルヂエリア併合に俘ひ、本國を隔る僅か三〇時間の海の彼方に新しき氣候條 件を具へた實験場所が附加せられたことは軍属研究を更に助成するものであった。巴里の氣候馴化學會が支所を此塵にも 設置するに至ったことによってもこのことは謹せられる事實であらう。 アルヂエリァは佛蘭西新植民帝國或ひは第二電信昆帝國と早れるもの﹂最初にして最大の實験であった。いはば最初か ハロリ ら佛薗西植民政策の試験場であり、すべての植民政策がここで實験されたのである。 ・佛蘭西の氣候馴化論研究の課題はアルヂエリア問題に姶まり、少くとも一八七〇年代に至るまで営論研究封状の中心課 題であったことを物語る一好例を藪に吾々は暴示することが出來る。それはアルマンの前掲書の中に見られる。彼はこの 書に於いて諺8賦塁舞。碁ゆ馨卑090づ冨塑けざ炉勺やoQゆ7Q。亀Qら。.の一章を設けて曰く、
際 ﹁⋮⋮繰入にとって有筈と見倣さる氣候、換言すれば暑熱謙潤にして、人休に黒雲を惹起し、然も重き再再性風土病に附纒 が はれてみるが如き諸氣候の中から一例諮を選び出さねばならぬ﹂と七て彼が取上げた氣候地域は實にこのアルヂエリアで の あり、彼のこの一章はこの地域を史蹟として氣候馴化論⋮の意義が例誰されてるる。彼はアルヂエリァの短き腿更的スケッ チを試み、カルタゴ麦配、pーマ支配、アラブ支配を経て、佛蘭西の支配に置かれるまて、北アフリカの佳民が此らの時 代を維る間に如何程に雑婚したかを示し、彼の現地にあっての観察を基礎として諸種の入種型態を指摘して行くうちに、 ﹁すべての先例とは別個に、完全に保存せられてるる一型態、即ちそれはフランク及びヴァンダル型であり、それは思入 の氣候馴化問題に署する重要鮎である。⋮⋮⋮⋮我々は一八四八年,市のある三日、ゆ〇二ひ萄凶Φの街でそれを認めた。果し ︵13︶ てゲルマン型のブロンドの家族がピ助宜葺Φ国効び覧一Φに今でも多数佳んでみるのである。⋮しだから﹁律昔の人の氣候馴 ︵14︶ 化はアルヂエリアに於いて新しき時代の移住民の氣候馴化を保讃してみるのだ、﹂換言すればコ以前に行はれ得た事の・69る 、15︶ 事柄は悪女の時代にも實現されることが彫心、又今後も實現可能である。﹂故に﹁醸入かアルヂエリアに居住し、繁榮する ︵16︶ 可能性は疑ひを容れない﹂と結論してみる。吾々はアルマンのか・る聴史的方法それ自体に幽しτは、氣候馴化の概念規 定の問題を關聯して面批判の量地を硬すものと思ふが、これを藪で論ずることは本稿の論題を不買に越えること・なるで あらう。ともあれアルマンの研究はアルヂエリアの例諦によって重石馴化論一般が読かれてるる。 それは彼がアルヂエリアの滞留の休験を有してみるからでもある。﹁カビリア民族︵北阿の一種族、和田註︶ がゴ︸卜民 ・ ︵罪︶ 族の人種的特徴を有しないと、アルヂエリァに上陸もしないで、斯う傲慢にも上菅的に主張する室想的土俗.學者に注音勘!﹂ と辛辣な一言を放つ程に、彼のアルヂエリァ滞留の体験は深い。けれども彼はまた夙に佛蘭酉の交趾支那経管の初期に⋮冨 ︵18V つて西貢に陸蟹・病院長として駐在した体験も有してみる。.だから、彼の佛印に於ける氣候馴化論研究への機會と体駿と資 格とは無覗さるべきではない。それにも拘らす彼は﹁印度支那に於け胤蹴入の氣候馴化に就いては未だ何も述べる事が出 氣候馴化論の學史的背景 一〇五
ヤ . る以外の何ものもないであらう。 とは、この著の刊行を見た一八七三年頃の魚影西の氣候馴化論研究の主要封象がアルヂエリアに集中されてる三軒を物語
來ない・この國は幾笑・複の幾また幽書にして・然もその占領難落海の数ケ所・すぎな晦と云ってゐ・・
氣候馴化論の學史的背景 一〇六 註︵1︶弾εげ魯円犀。げ禺寅。サ偽暁帖‘︿orH・唱・伊 ︵2︶98呂舞r鉾四.ρ興H。。. ︵3>響8量φH。。‘ . ︵4︶幹昌78国謁。げ㊦H庁・・も塾・ミ‘ぎド剥唱﹄■ ’ “ ︹5︶摘憲←<oH国も写嵩朝白。。b。も器ゆ冒■ ’ ︵6︶冨奨2。益舞審9のa溝凸僧昼﹄醤誉欝ミミ史跡駐§も。8滋。・。猛勇昌。気①﹄8昌。[巴ぎ旨≦・N.開昼Φ累目謬沁㊤8・。 O隔国葺obP冒。ロユoPHGQ⑩ρPα刈bo. ︵7︶堵.N邑團覧2り。篭亀計噂.鶉P ︵8︶、魎匙二勺幽mQ。ド ︵9︶ψ卑閑9舞辞魯’ミ.殖O・H。。レ ﹂ − 眺 ︵10︶類.N●開旦。響唱︾亀計P鵠軌. ︵11︶qo.=噛開。﹃鐘旦。筆鼠卦?<oFH幽掌ミ凱・ ︵12︶い①U詳︾﹃餐四ロ鳥↓円9a畠⑳島ヨ出田。δ駐Φ㈹伽9富蜜月⊆馴qδσo“伽ε山峰彊の島。巴離誓﹃け。請げ山島ヨ舞㎝噛勺二重μGQ刈軸”℃’鷲⇔. ︹13︶賊贈ミ‘唱9Qoゆ㎝● ︵14︶、驚簿”ウ。自挿㎝. 、、 ︵15︶、黛職壱㍗Gq憶9 , = ︵16︶ 、“ミ己唱.認団・ ︵17︶ 、呼ミ、、炉Qo寵・ ︵18︶、謎ド.本書のタイトル頁に著者の略膠が揚げられてみる。、 ︵19︶ 、Oミ●℃やQQも◎bo、 結
言il
ノ 氣候馴化論創始への具体的課題はアルヂエリァ問題であった。この事件たるや世界史的事象とするよりは寧ろ慰留西國 民史的一挿話に過ぎぬ。從って更に云はば氣候馴化論の世界的創始の背景を滅すものは佛蘭西國民史的特殊問題であって と.云っても過言ではあるまい。 一八七〇年に成立の見る第三共和政府の下に佛蘭西は新しき植民帝國再建へと出貢するのであるが、その間アルヂエリ アが、實験場となり愚論研究が行されτ來たことは既に見た。この成果を以て次の段階に入らうとする。いはば大陸政策 に固着して來た佛蘭西に一点回期を興へんとするモメントが惹起された。それは一八七八年のベルリン會議に到り、欧洲 政局が一磨安定につき、佛蘭西をして大陸政策に固執せしむるの要を感ぜしめぎるに到ったことである。而してビスマル クが佛蘭西人にアフリカを暗示したことも大きなモメントである筈である。 ・ かくて、2八八一年は佛國史上特筆すべき年、にして、初めて佛蘭西の植民政策の葬歯無識は啓獲せられ、♂一新時期を創 剃す、かの有名なるガンベツタ、ジユ1ル・フェリT、ポール・ベール等は植民問題は最早や等閑に附せらあるべきにあ らす、 須らく忠實なる調査討究を行ふべしとし、 盛んにその研鐙を鼓吹せり、藪に於いてか佛國植民政策鼻骨‘の曙光慧 天の一方長見せらるるに到れ占︶と・,印ち佛蘭西は天八二年チュ・三に著湿し、更・西阿、・ン〒、及びマ多・ カル.の植民に熱中し、十九世紀後牟に入りて俄かにアフリカ最大面積の植民者となった。 佛蘭西のアフリカ分割への進出は他の欧洲列彊をもこのアフリカの舞々に誘ふ因となり、いわゆる世界政策てふ世界史 潮に佛蘭西も合一することになった。從ってこれより以後の佛蘭西に於ける氣候馴化論研究の目的とする虚はも早や佛蘭 氣候翻化論の學史的背景 , ﹂〇七氣候馴化論の學史的背景 ‘ ‘ 一〇八 西の國民史的特殊問題との樹齢に於いて考察さるべきではなく、いまや世界史潮の渦の中に、緻洲列強の共通的登窯と普 遍的なる目的意識の追求の爲に氣候馴化論が要請せられること・なった。この事は績篇に於いて取上げかところである。︵.。v レ 一九五〇、匹、一二、 註 α 坂口 ② 關ロ