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和辻哲郎と天皇制 : その国体概念を巡って

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(1)

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 143 

(2)

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1

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{2)

The

pedigree of "fu-sinseiron

(the

theory that

Tenn6

reigs

but

does

not govern")

Watsuji's account on the traditionar

Tennb

system

is

that with only a

few

exceptions, rnost Tenn6,

throughout the whole

history

of

Japan,

have

not

been

political

leaders.

This

account that

Tenn6

always remained the authority of fame or the authority of moral tradition in

Japan,

is

by and

large

historically

true.

The

view isfurther divided into two views such as the politicalview inwhich the

TennO

is

the source of fame, and the cultural view

in

which

he

is

the

head

of the spiritual

communlty.

Either

view belongs to what

is

called the theory of

fu-sinseiron

"TennO

reigns but does not

govern,"

Then,

what type of theory

is

his

account of

Tenno

Systern

classified

in?

We have to

compare

it

with other types'of the theory inorder to answer

the

question.

After

the Meiji

Restoration,

before

the modern

Tenno

System had taken itsform, the

enlighten-ing

thinker

Yukichi

Fukuzawa,

insisted that the

Tenno

should

function

outside of politics,when publlc opinion came to an uproar about the

Proclamation

of the

Constitution

and the

Opening

of the

Diet.

Hakubun

It6, the representing

drafter

of the

Meiji

Constitution

was

influenced

by

the yiew

that the Emperor should

be

the neutral, $piritual support of the whole people, without

being

cern-mitted

in

real

'politics.

But

it

had

not

been

'paid

attention until the end of the IIWorld

War

as a

result of

being

hidden

behind

the retrogressive and

Prussian

way of understanding the

Meiji

Tenn6

System.

Tenn6

Kikansetsu

(the

function

theory of the

Emperor's

Soyereignity)

by

which Dr, Tatsukichi

Minobe was farnous,

is

one of the

legitirnate

offsprings

in

the sense that

it

denies unlirnited exercise

of sovereignity, assuming

it

function

as an authority of the state such as the

Congress.

Dr.

SOkichi

Tsuda,

a contemporary

historian

whom

Watsuji

used torespect and even feel

friend-ship with, was of the same opinion as

Watsuji's

about this

imperial

tradition.

They

both

perceived tha.tall succesive erhperors have enjoyed scholarship as well as literaryarts, and inaddition', many of

them

have

been

champions

in

the

field

of these scholary arts, though none of them

has

been

a successful military

leader.

These

two views of the

Tenn6

as the

king

of culture

(the

highest

symbol of culture) are the most

influencial

arguments that

helped

to

decide

Japan's

direction

in

the post war

TennO

Systern.

What

rnade Watsuji and

Tsuda

hold

such opinions

?

I

would conclude that itisthe Meiji educational system

that gave them such homogenious opinions.

Lastly

I,alsowould

like

to make a point about the

difference

between

Watsuji's

view toWards the

TennO

and that of

Misima.

Yukio

Misima referred to

both

of them

in

his

essay, titled"Bunka

BOeiron

(Essay

on

defence

of

Japanese

cultural unity)"

in

1968.

He

had

partially the same view to-words the

Tenna

as Watsuji and

Tsuda.

And

yet he

differed

totalry

frem

Watsuji

in

its

deepest・

Watsuji

viewed the

Tenno

as the symbol of cultural unity of our nation, while Misima viewed

him,

par

excellence, as a supreme military generaL

According

to the expression

by

R.

Benedict,

the author of "Sword and

Chrysanthemum",

Misima

depicts

the

TennO

has

both

a chrysanthemum and a sword in one picture, while

Watsuji

only pictures

him

as a chrysanthemum.

What makes

Watsuji's

view differfrom other theories of

fu-sinseiron,

that is,the TennO reigns

without goyernning?・This

is

rny seeond qu.estion.

Therefore,

in this paper

I

wi!1

in

the

first

place

ciarify

Watsuji's

thought towards the

Tenno

System,

shown

in

his

series of essays supporting the

TennO

System.

And

secondly

I

will compare

it

with other theories of

fusinseiron

and in addition

-

-

-

l

-

-trY to point out

his

characteristics in the theory.

In

doing

so, we may acquire certain perspective

for

discussing

more effectiyely the problem of the

Japanese

Tenn6

System.

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(3)

和 辻哲 郎と天 皇制

その国体 概念を巡っ て (兼 子 盾 夫 )    こ の 論 文に お い て, 私は文 化 的 ナ シ ョ ナ リス トとし

 

ま た 自 由主義 的Dな

何 事も 人間の合 理 性の りに 照 ら して物 事を捉え る哲学 者である和 辻 哲 郎に とっ て

 

日本の天皇 制2) が何を意 味 し たの かを明らか に し た い。 従っ て具 体 的に は

以 下 の 二 つ の問に答 え るこ と が この 小 論に於 ける私の課 題で ある

  

(1)

 

「国 体は 変 更ず 」 の意 味

和 辻の 国体 概 念

 

和 辻は よく知ら れ てい るよ うに

戦 後まもない 頃

間の 趨勢がとか く天皇 制反対に大きく傾 きか けて い る 時3> に 天 皇 制支 持 っ た。 そ して さ らに その 後

折か らの憲 法 改正論 議の盛 んな 時 に

憲法 学 者 佐々 木惣

士 と

「国が変更する か否か」 を 巡っ て 論 争 を 闘わ せ た。 論 争 4)そ れ 自 体は

「国 体」概 念の擦 れ 違いか ら来るや や 不毛の の だっ たか も知れぬ 。 しか も そこ に述べ られ和 辻見 解逆 説 的

新 憲 法 下で も 「国体は変 更せ ず」 とい う結 論で あっ た。   し か し和 辻はこの こ と, 即ち 「国 体は変 更せず」に よ っ て い っ たい何を意 味 し よう と して い たので あろ うか

和 辻に と

てそ も そ も 「国 体 」 とは 何だっ たの か。 これ が第

である。

 

(2> 和 辻に よる天皇不親 政 論の特 徴

象 徴天皇制

 

和 辻の天 皇 観は, わ ずかな 例外をのぞい て

か っ て天 皇は政 治 的 なまつ り ご との長で あっ た こ とは ない とい もの で ある

天 皇 家の伝 統に関 するこ の 見解

ごくわ ずか な例 外 を 除い て

天皇がつね に精神 的

倫理的 な権 威

則ち 「栄 誉の源泉」 と して の権 威に留まっ て い た と い う見 解

は歴史的に は概ね妥 当 な もの と考え ら れ る

この よ うに天 皇の 性格を政 治的に は 「栄 誉の源 泉 」 として捉え

文化的には 「精 神 共 同 体の長」 とし て捉え る観 方

和辻の力 点はむ し ろ こち らに より多 くか け ら れて い る が

い ずれ も 天 皇は親 政 せ ず とす る点 で

所 謂

天皇不親 政 論5) 属する もの で ある。

 

で は和 辻の 天皇観は 不親 政 論の系 譜の どこ に 分 類さ れ るの で あろ うか 。 つ ま り その不親 政論の 特 徴は何か 。 こ の問に答え る ため に は

近代における他の天皇不親 政 論 との比 較 が必 要 で あろ うG

 

そ れ ゆえ

本 論の第

4

章に お いて私は和辻や 津田の 象 徴天皇 制 論の 先 駆 者 と して

そ して ある意 味で は

代 市 民 社 会 に お け る個人の主体 制の 確 立を考え る 上 で

優 れ思 想 持ち主 と して

沢 諭 吉の 「帝 室 論」に及 する。 ま た美 濃 部 達 古 博士の 「天皇 機関 説

 

(国 家 法 人 説 )」6)

帝 国 憲 法 ドに おける 天皇の権 限 を議 会と な ら ぶ国 家の

機関と捉え, 無 制 限の君 主 主 権 の行 使を 否 定 した

に も 当然な が ら言及 しな くて は な ら ない。 それは法的

政 治 的 意 味に お ける天 皇不親 政論 の最 も正当な嫡 子であ り, か つ 「和 辻

佐々 木論 争」 の 理解の為に も

即ち帝 国憲法 下の国 体 概念の埋解に と っ て 不可 欠な 理論で あるか らで ある。   そして最 後に 私 は

和 辻が学 問 的な尊 敬の念 と

ある 種の友情 すら感 じて いた

同時 代の 歴史家

津田左 右吉 博 士7 )につ い て

その 天 皇観を 論じ よう。 津 田は天 皇 家 の伝 統に 関して

あた か も申 し合わせ たか の よ う に

和 辻と同 様の観 方を して い る。 和辻と津田に よ る二 つ の天 皇 観は戦 後の象 徴 天 皇制を大き く方 向づけた主張で る が

は た し て両者の 天皇 観に見ら れ る同 質 性は 何に起因 するの で あ ろ うか。 とくに象 徴 天 皇 制 論を代 表 する和 辻 の 不親 政論の特 徴は何か。 ま た そ こ に 潜 む危 険 性は何 か。 そ れ が私の第二 の問であ る。  そ れ ゆえ小論に おい て は, まず (1)戦後の天 皇 制 支 持 発言で 明 らか にな っ た和 辻の天皇制概念を総 括し, その 後で   そ れを戦 前戦後の他の天皇不 親 政 論と比較し

和 辻の 天 皇 制 論の 特 徴を指摘し よ う

そ うする ことに よ っ て

わ れ わ れ が天 皇 制のを 議 論 する時の

つ の有 効な議論の標 軸が得 られる だ ろ う。

1

章,和

辻による天 皇 制アポ ロア序 説   「対の境地 に 入 るとい うこ と と大 君に 仕 え まつ る と い うこ と とは渾 然とし て

つ に な ら な くて は な り ませ ぬ。」

「日本の 臣 道」  「日本に おける 天皇 統 治の 伝統は

世以来の 封建制 度 及び神 道の教 義 と本 質 的 な 連 関を有 す る もの で は な い 。」

「封 建 思 想 と神 道の 教 義」   (1) 尊 皇思 想 家

天 皇 制ア ポ ロ ジス トとして の和         辻  和 辻は 明治 22年s)

帝 国憲法 発 布のに生 ま れ た。 本 人の 自 覚の有 無 とは 別に

すべ て の個 人は時 代の影 響を 免 れる こ とは 出 来ない。 勿 論

ど ん な

般 化の理論に も 必ず例外はある もの だ が, 和 辻の年 代の 日本 人に は

生 涯を貫 く皇室に たいする無 条件の 崇 拝の 念

言わば 「尊 皇本 能」9〕 と もい うべ き国 民 感 ろ うか 。 戦 後の和 辻や津田の天皇制支持 発 言 をみ ると

私 はそ う思わ ず に はい ら れ ない 。 こ こ で そ れを 本 能 と 呼 ぶ のが

い か にも不適 当なら, 自我の確 立 する以前に

色々な環境 的 要 因1°】に よ っ て形 成さ れ た 心 的 態

145

(4)

湘 南工 科 大 学 紀 要   第 25 巻   第 1 号 想以前の心の傾向

と で も呼ぶべ で あろ うか。  その 「尊皇 本 能 」が

遣憾な く発揮 さ れ た のが 戦 後の 天 皇 制 支 持 発 言である。 しか し戦 時 中に は, もっ と功 利 的 な目的

海 軍の 良 識 派の 人々 に

部の狂 信 的 な 陸 軍 軍 人の横 暴不忠の み と して訴え る とい う 目的が発 揮 され たの であっ た。 和 辻は海軍びい き 11) であっ た し

そ の講 演に も 当 然の こ と と し て大い に 力が籠もっ て い るの である。  和 辻は 昭 和

18

年 4 月に海 軍 大 学校で 「日本の 臣道」 と題 する講 演

これ は後にや は り海軍の依 頼で執筆さ れ たエ ッ セ イ 「ア メ リカ の国 民 性 」と併せ て昭 和

19

7

月に筑 摩 書 房か ら 「戦 時 国 民 文 庫」 の第

巻 と し て 刊 行された

をおこなっ た。 この講演に よ る 「日本の 臣 道」 とい う論 文は

J

デ イ ヴィ ス 航 海 記や キリシ タ ン渡 来のエ

12)が ダ イ グレ ッ シ ョ ンと し て や や冗 長 な 印 象 を 与 える外は古 川 哲 史 氏の述べ 1s)

非 常 潔 で

,一

し て理解が容 易である。  講 演とい う性格もあろ うが

そこにお ける和 辻の論 旨 は よく整 理 さ れ

また何 より も その語 り口 に勢い があっ て

聴 く人に ある種の感 動 を 与 える。 もっ ともその感 動 の は論 旨を よく吟味し て み ると

学 問的 な 方 法に 依っ て い る よ うに見 え なが ら

その実

,一

種の ア ジ テ

ンに よ る もの で

学 者 とし て よ り もア ジテ

と しての和 辻の 才 能 を 遺 憾 な く発 揮 して いるの である が。   これに 対 し て

終 戦 直後 20年 11月に雑誌 『世界 』に 書かれ た 「封 建 思 想 と神 道の教 義」14) ほうは先の 「日 本の 臣道」と内容的に は

か な り重 複 する とこ ろ を有し な が ら も

は っ きりと方 向転換 し て い るこ と が判る。   つ ま り戦後に書か れた後者に於い て

和 辻は戦 時中に 軍 部 や 右 翼に よっ て 鼓 吹 された

封建 思想下に おける倫 理のっ た強調の仕方

例 え ぱ 忠孝

本の倫 理 とか

同 じく神がか り神 道の教 義の もつ 否 定 的 な 面明 ら さま に 批 判して い る。 し か しそこに は前著に見 ら れる如 き論 理 の飛 躍は な く

時局 的な発言 ではあるが

あ くまで歴 史 的な考 証にづい た控え 目な論 調に終始して い る

  そ れ ゆえ 「日本の 臣 道」とい う戦 時 中の 講 演が 天皇制 プ ロ パ ガン ダ だ と し た , これ は戦後, 天皇制 支 持の た めに唱 え られ た 和 辻に よる 「天 皇 制ア ポロ ア序 説」と でも 呼 ばれ るべ き もの であ る。   (2) 「日本の臣 道 」に おける問題点   和 辻は平 出 大 佐 が 軍人精 神につ い て語っ た 次 の言葉を 援 用し て講 演を始め る。 そ れは二段階の 「精 神的 境 地」 か ら なっ て い るQ  つ ま り 「大君の 御た め に は喜んで死の う」とい う軍 人 精 神 体 得の初 歩の段 階と 「敵を 倒 すま で は決 して死 んで は な ら ぬ」 とい う よ り高い 境地の 二 段 階である。 和 辻は 平 出 大佐の こ の 言 葉の 意 義 を 次の よ うに釈し た あと

死 生 を 超 えた立 場

即ち

「絶 対の境 地 」 を媒 介に

日本 に お け る 「臣の道 」が, 私心 を排除 して 公 (天皇

筆 者 }に奉 仕 する 「尊 皇の倫 理」 に外 な らぬこ とを 歴史 的 に証

i

明 し よう とする。  「大 君の御ため に は 身 命を捧 げ るとい う境地は

確か にそ れだけで立派 な覚 悟で はある が

し か し よ く考 えて み る と ま だ ま だ自 己の身 命 を 重 大 視して お り

私の立 場 を

て去っ て はい ないD ところ が敵を 倒すま で は死ん で は な ら ぬ とい は, 自己の身命 よ りは るか に重い 任 務の遂 行 を 中 心に 考 えて い る境地であり, 私の立 場を完 全にてきっ て

た だ公の任務だけに な り きっ て いる。 そ れ 故

後者の境 地は

段 と 優 れ た境地である。」  こ の よ うに 単な る 「私人の死の覚 悟」 と 「死 生を超 え た公の立 場」 との違い を 手 掛か りに

和辻は 「自己の死 生を超え た立場」 則ち 「絶対の 地」 を我が国の歴 史に 求め る。  我が 国中世 以来の武士 の 習い は

主 君の た め に身 命を 惜し ま ない とい う もの であっ た しか し私 的 な 内 乱の う ちに もやがて 自 己の任 務の意 義が反 省さ れ始め る と

武 士 た ちは 自 己の身命を捨て る意義を 主従の道を超えた と ころにめ始め た。 ある者は国 初 以 来の尊 皇の道に

仏 教 と結びつ い た自己 を捨て る意 義は 「不惜 身 命」の立 場で ある が

そ して また他の もの は儒 教のに求め た の で あ る

  し か し武 士の道 徳に おい て は, い く ら仏 教 的に死 生を 超えて絶 対 境に没入すると言っ て も

ま た儒教 的に 身命 よ り も道 を 重んずる と 言 っ た ところで

その道の実 践は 国家に お い て成された の ではな く

よ り低い

私 的 なレ ヴ

和 辻に とっ て

武士 と は 本 来 的に私 的 な団 体 なのである

に おい て成 さ れたに過 ぎ ない の であるQ   こ こか ら先 が 和 辻の 「連 想の論 理 」

和 辻は何かの 必 然的 な 関 係を説 明する の に

説明事 項と 被 説 明 事 項の 間の因 果 関 係よ り も

よ り多 く連 想に よ る平 行 関 係を提 示 する癖 が ある

もっ と判 りや す く言 うと, 似たものを もっ て 来て

こ の 二 つ は じつ は

緒の もの

の もの で あると結 論づ こ とがある

の活 躍 する とこ ろで あり

レ ト リッ クの 力に よっ て聴 衆に彼の結 論の 出し か

(5)

和辻 哲郎と天 皇 制

その 国 体 概念 を巡っ て (兼子 盾夫 ) た を な るほ ど とわせ て しま う ところで るQ  そ れ はさて お き和 辻に よれ ば 尊 皇の道は

国 初 以来

日本 人の 生活の根 底 と なっ ていたの であ り

武士 が 主人 に仕 えて い る時に も

その心の奥底に は尊皇の精 神が宿 っ て いたの である そ し て こ の 「絶 対の 境 地」 を我々 遠い祖

は尊 皇の道に お い て 把 捉してい た。 こ の把 捉の 仕方は

仏 教

キ リス ト教

回教な どの世界宗教と は明 白に異 なっ て い る

彼 らの絶 対 者は

特 殊な宗教の形態 則 ちエ ホ バ

仏 陀

ア ラ

に限 定さ れ ていた。 絶 対 者 を こ の ように限定すれぽ

畢竟

他の宗 教の 神々 対 立せ ざる を得 ず

他の宗 教の神を否 定しなくて はな ら ない 。 絶 対 的 な ものが自ら相 対 的な絶対であるこ とを暴露し て し ま うの であ る

  しか るに我々 祖 先

絶 対地 」 を把 捉し な

し か もそ れを絶対神と し て 限定せず

ま た その教義 を も作 ら なか っ た。 我 々 の祖先は究極の もの

絶 対 的の もの を特殊の形に限 定せ ずに

不定の ま まに

無 限 定の ま まに と どめ て い る の である。 天皇は天つ 日嗣に ま し ま すが故に

す なわ ち 天照 大 御 神の神 聖 性を担 うが 故に

現御神で あり

その 神 聖 性は絶 対 者の もの であ る が

し か しその絶者は無限 定の まま で ある。 天 皇へ の帰 依 を除い て絶 対 者へ の 帰 依はない 。 これが 尊 皇の立場 であ る。 それ故

その立場 は絶 対 者を特定の神 と し ない 点に お い て いわ ゆ る 世界宗 教 よ り も

段 と 高い 立場15 )に たつ と和辻は 主張 する。  か くし て 「絶 対の 境地に入 る とい うこ と と 大君に仕え まつ るとい こ とは渾 然 として

な くて はな ら ない 」 のである。 こ の 「絶 対の 境地 」に 入 るこ と

則ち 大君に仕 えまつ る とい う

「尊 皇の道 」 を完全に な し 遂 げる た め に は, 武士の道に おい ては 「清 明 心 」, 奈 良か ら 平 安の臣の道 と して は 「

iE

直之 心」が貫か れて い な く て は なら ない。 つ ま り尊 皇の道で

大 切 なこ とは

私心 を捨て て

大 君に仕 えまつ るこ と

自 己の 身 命に対 する こだわ りを捨て て

つ ま り

切の 私心 を捨て 去 り

ただ公 に仕え る こ と

即 ち 「滅 私奉公」こそ真に 臣の道である

それ 故公の任 務遂 行に当た っ て は

い さ さか な りとも 私 心をいれて はならない。 し か るに昨 今の

軍の横 暴や独裁の状態

公 私 混 同であり

その よ うな意 味に おける公 私の混 同は 不忠の 極み と 言 わ な く て はな ら ない。  こ こに和辻の演の大のポ イン トがあると湯 浅 泰 雄 氏は

その著 『利 辻 哲 郎

近 代日本 哲 学の 運 命』16) の 中で古川 哲 史 氏の言葉

和 辻の批判の対 象は 「当時戦 争 指 導 体 制の 頂 点にあっ た首 相 東 条 英 機の 施 政 方針演 説 で っ た」

を引い て指 摘 し

その古 川 氏の推 測はほ ぼ 妥当 だ とコ メ ン ト し て い る。  し か しこの 「絶 対の 境地 」 とい う概 念を媒介に

封建 君主に仕え る封臣とくに武士 のにお け る倫理 と

朝臣 の 道

則ち尊皇家の倫理 を結び付けよ う とするこ の試み は

種の こ じつ である と言わ な け ればな ら ない   何 故 なら 「絶 対の境地 」 とい うの は

倫理的

あるい は宗 教心 理的な場 面にお け る 「究 極 的

超 越 的な 心 理」 現 象を指す概 念だ と思わ れるが

そ れ をして和 辻は古代 以来の天皇 家の祖 神祭

あるい は もろもろの々に対 する祭 りに お ける 日 本的特殊性

祭神の無限定 性を尊ぶ 性 格

和辻はそ れも 「絶 対の境地 」に基づ くか の ご と く説い て い るが

即ち比 較 宗 教 学 や 宗 教 現 象 学が対 象 とすべ

「神 的 存在の無限定性 」 を 混 同 して議 論を進 めて い る か らである。 つ ま り無 限 定の絶 対 者 を 祭 り な が ら

自ら祭られる神と して の天皇 家の 「祭 祀に おける

伝 統 的な無 限 定の もつ 絶 対 性」 と

士の道 徳や禅仏 教 に おけ る 「絶 対 的

超 越 的 境 地の 把 握 とい う心 理 的 絶 対 性 」 とを 内 容 的に同

な もの として説い て い るの であ る。 そ れ故に こ そ

後 者の 「絶 対の境地 」 と前 者 「大 君 に仕えまつ るこ と」即 ち 「尊皇の道」と は

意 識的にあ えて 渾 然 と し て ひ とつ にする 必要が生まれ るの で はない だうか Q  (3) 「封 建思 想 と 神 道の 教義」 の具体的 内 容 と そ の         問 題 点  和 辻に よれ ば

日本に おけ る 天皇 統 治の 伝統は

中 世 以 来の封 建 制 度 及び神 道の狭 義 と本 質 的 な 関 連を有しな い。 その間に関 連 をつ けたのは

そ れぞれ 歴史 的に よっ て ひ ぎ起こ さ れた虚 偽の 解 釈に過 ぎ ない。 それ故

それ らの解 釈を捨て て も 天 皇 統 治の 伝 統は毫 も失われは しな い。 否 む しろ

そ れに よ っ て 天皇 統 治の 本質的な意義 が 明らか になる だ ろ うと述べ ら れ る 。  これは過 去に お いて 天 皇制に こ じつけ ら れ たス ロ

ガ ン

え ば忠 孝

の倫 理」で あるとか

天 皇 と 臣 民 との 関 係は家族 の よ う な

「父 子の関 係IT)」 に擬せ ら れ る とかの解 釈 を 歴 史 的に 正し く再解釈 す るこ とに よっ て

戦時中の

部の 軍 人に よ る専 横 と 国 家 神 道の フ ァ ナ テ ィ シ ズム の 非 を 明 らか に し

そ れに よっ て そ れ ら とは 本来無 関 係なもの と し て天皇制を無毒 化する

これ は 津田におい ても同様に行 わ れ る

試みで あ る。

147

(6)

湘 南工科 大 学 紀 要   第 25 巻   第 1 号   だか ら ま ず 和 辻は 天皇 統 治の 伝統 と封 建 制 度と が本 質 的に無 関 係で あるこ とを 歴 史 的に解明するこ とか ら 始め る。 大化の改 新に よっ て確 立 され た土 地の国 有制度の緩 んだところに 出 現し た武家の 治は

法に よ る統治 を 伝 統 とするわが国 体に もと るこ と は 言 う まで も ない 。 従っ て武 士の 倫 理で ある忠 君な どは

国 体に も とる現 象 中の

つ ま り封 建 制 度 下の忠 君の倫理 は

あ く まで武 力 政 治の下で の君 臣関 係における倫 理であ り, 法 に よ る統 治

即ち法 治主義

文治主義を旨とし て きた 天 皇 制IS)

和 辻 自 身は 「天 皇 統 治の伝統」 と呼んで い る が

とは無関係 な 倫 理 である。  ま た天 皇 統 治の 伝 統と神道の との 関 係 に つ い て 言え ば

天皇統治の 伝 統が神代史 とし て表 現された時に は , もと よ り教義 な どとい う もの はなか っ た

た だ 明 ら か だ っ たの は, まつ りご と (政 治 )が まつ りご と (祭事 ) として始まっ た こ と

皇 統が天つ 日嗣 として神 聖である こ と だ けで あっ たQ 天 皇 家の宗 旨は仏 教 (真言宗

「御寺 泉 涌寺」が菩提寺である

筆者 )であっ た し, 国民も 神 仏 習合の宗教 的状況に あっ た 。 それ故

平田派的 な神 道教義理 解 あるいは神 道 国 教 化 運 動は, 上代以来

宗 教 的寛 容を 旨 と し

近 代に お い て も 国 是として信 教 自 由の 原 則 を 守っ て きた天 皇 制と は本来 的に は無 関 係な もので ある。 そ して こ の 神 道 国 教 化の運 動は

国 内 的に は信 教 自 由の原 則 を侵し たの み ならず

対 外 的に も帝 国主義 的 侵 略が天 皇 制と必 然 的関 連が ある か の如 き印 象を与 えた こ とで

最 大の罪 悪で ある と断 罪し てい る

 こ の対外的云 々 とい う言葉は

見 なに げ ない よ うであ る が

こ の論 文の発表された時点を考え ると

天 皇 制 存 続に とっ て 外 国の批 判が当 時どの よ う な もの で あっ た か

ま た天皇制が存続 する か否か とい う問 題の最終 的 な 帰趨を担 う ところ が

,G .

H

Q .

で ある こ と を考え る と 究 め て示唆的な

如 何に も和 辻 らしい 目配 りの効い た 発 言 で あ る。  いれに し ても天 皇制本来の粋 無 垢

無 害 な 点 を

かっ て無 理に こじつ け られて い た

切の軍国 主 義 的 誤 解 か ら引 き離し

ネガ テ ィ ヴにその無 害 性 を 証 明し よ う と い う和辻の意 図は明白で ある。 確か に これは和 辻の持 論 と なっ て い る天 皇 制 概 念の披瀝では あ る が

残 念な が ら こ の論 文におい て は全体と して 内 容 的に も二 番 煎 じ

説 明 も精 彩を欠い てい るように思われる。  以 上が天皇 制に対 する誤解を解く作業 とい う意 味で

和 辻に よ る天 皇 制の た め の アポ卩 ギア序 説である。 次に 述ぺ の は

も う少しア グレ ヅ シヴ な天 皇 制支持の 主張で あ る

これ は お り か らの憲 法 改 正 論 議

その争 点は天 皇 主 権 (国 体 護 持 )か

国 民主権かで ある が

を睨ん で の発 言で ある の で

和 辻の天 皇 制に対 す る持論 が よ リポ ジテ ィ ヴな 形で述べ ら れ てい る

第 2 章.和

辻の 天皇

概 念

  

国民全

体 性の 表 現 者  「『国の総意』を表 現 するもの が

我々に おい て は天 皇に ほ か な らぬ 」

和 辻  (1) 「国 民 全 体 性の 表 現 者」 と新 聞 紙上に 発 表され        た 「短文」  昭和 23 年

9

月に発 表された 「国 民 全 体 性の表 現 者 」 は

同 21 年の初 頭に新聞紙上等で発 表された

以 下に 紹介する 「短 文 」に対 する 批判

反論に対 し て

後に和 辻 が 再 批 判 し た もの である。 そ れ ゆえ

最 初に発 表 さ れた短 文の 内 容を先ず要 約 する。 和 辻は次の よ うに述ぺ る。   人民 に主権があるとい うこ と は

個 々人が主 権 者だ と い う意 味で はない。 人 民の

致 する意志

則ち国民の総 意が国の 最 高 権 力を有 するとい う意 味である。 その場 合 には

国 民の 総 意をいかに形 成し

何に よっ て表 現する か が重 要に なっ て来る。

中 略

我 々は真実の総 意 を正 直に正確に

形 成しな くて は な らぬ。 そ うし て そ れ (形 成さ れ た総意

筆 者) を, 我々国民の総 意に相 応 しい 形で表 現 しな くて はな らぬ。  こ の 形 成と表 現 と が, 成 し遂 げら れ

「国民の総 意 」 を 表 現 す る ものが, 我々 に おい て は天皇に ほ かな らぬ こ と が明ら か に な れ ば, 人 民 に主 権 が あ るとい うことと, 天皇が主 権者だ ということ は

に なって しま う。 人民主 権を承 認 する た め に天且制を打 倒しな くては な らぬ とい う必 要 は ない (

以 下 太字は 筆者に よ る)。 このこ と (人 民 主権を 承認 するこ とは

必ずし も 天皇制 打 倒を 意 味 しない)は や が て 「日本国民の 由に 明された意 志 (ポツ ダ ム宣 言 12 条に述べ ら れ た

筆 者 ) に よ っ て明かに さ れ るだ ろ うが (憲 法 改 正の 結 果に よ っ て 明ら かに な る

筆 者)

歴 史の

上で は 日本国 民はすで に 過 去に お いて

自由に表明 された意 志に よ っ て

こ の こ と (人民主権と天皇 制の共存

筆者 ) を 示 して来た の で ある。

中 略

国 民の統

一,

国 民の 総 意はい つ も 天 皇に おい て表 現 されたの である。

中略

長期 にわたっ て歴 史の 試練を 経て来た とい うことは大 きい意

一 148

(7)

和辻哲 郎と天 皇制

その 国体概念を 巡っ て (兼子盾 夫 ) 義を担っ てい る。 国 民の総 意を表現 する仕 方 も

歴史の 試 練を経た もの に は

不屈の底 力がある

 

こ の短文は, 和 辻自身が 「多年 来のわ た くしの所 信 を の べ た まで であっ て

降 伏後四 か月の 間に新 しくで きた 考え を発 表し たので は ない。 ところでち ょう どその ころ が

天 皇 制 打 倒 論の 急 激にまっ て く る こ ろtg)で あっ た 。」 と述べ て い るよ うに

天皇 制打 倒 論のたか まり に 対して和 辻が放っ た天 皇 制 擁 護 論の第二 弾である。 朝の ラ ジ オ放 送 を 除い て

東 京の各新 聞か らは無視された よ うである が

和 辻の所 説とと もに 「保 守

反 動 」 「神が か り」 と し て否 定的 な解説 記 事 が 載せ られた 二三の地 方 新聞に は

和辻が反 論の必要を考えざる を得ないほ どの 反 響 が あっ たD  その うちのひ とつ は北 国 毎日新 聞に載せ られ た 和 辻の 短 文に対 し て

書かれ た四 校の哲 学教 授

安 藤 孝 行 氏の 駁論で ある。 そ れは 三点か らなっ て い て

(1) わ が国の 歴 史におい て か っ て国民の総 意があっ たか否か

(2) 仮 に総 意があ

た と して い か な る形に お い てそ れ が 表 明され得た か

3

) 過去 に おい て国 民の総 意が天皇を支 持 した とし て も

将 来 もま た天 皇制が存続されるべ だ とい うこと が如 何に して結 論 さ れるか

とい う もので あ る。  和 辻はこれに対し て 丁寧に再 反 論

和 辻の言 う とこ ろに従 う と

駁論に よ っ て気 付か せ られ た 不備の補説

て いる。 た だ し実 際の 再 反 論 が発 表され た の は

憲 法 改 正が行わ れた後で

め で た く天 皇制が存続 し

しか もその政 治 的 な 意 味に おける天 皇の あ りか た は

和 辻の多年 来の

天 皇親 政せ ず 文 化 的な 共同 体 の生 ける象 徴

をその ま ま具 体 的に表 現し た如 ぎもの になっ た 従 っ て和辻 は 勝者の 余 裕をもっ て時に皮 肉を 交 えな が ら再 反 論を試み てい る。   和 辻は その再 反論

則ち 「国 民 全体 性の表 現 者」 とい う補 説の

当 初の 「短文」の説 明不 足 な とこ ろ

例 えば 「国 民 」の定義

「国 民の総意」Ee] の定義か ら始め て

我が 国で は

集 団の生ける全 体 性を天皇に おい て 表 現 し て きた。 国 民 的 表 現は必ずしも国 民 大 衆の手に よ

て作 り出 されるわ け で は ないっ しか もその全体性の 表現は武 力に よっ て強制されたの で はな く

天皇の権 威に よっ て 自ずから民衆の 支 持に よっ て 行わ れ たの で あ る。 「天 皇 は もともと国 民の意 志 (集 団 意 志 )が

お のれの表 現 者 とし て作 り出し たもの なの である」 と答えて いる。  以 上 の要 約に よ っ て和 辻の戦後の天 皇制 概念が どの よ う なもの で ある か概ね 明かに なっ た と思わ れ るが

上記 の 短文 の う ち 「国民の 総 意の 形成と表現 が なし遂 げら れ

総意の表 現

我が国に お い ては 天皇に ほか な らぬ こ と が

明 らか に なっ た時は

国民に主 権が あ るこ とと, 天 皇が 主 権 者で ある こと とは 同 じこ と だ 」 と言 う論法 は

和 辻の天 皇 制 概 念をよ く言い表してい るもの で はあ るが

こ の論 法は 明 らか に 「主 権 者 」とい う法 律

E

念の厳密な用 法 を無視した暴 論である

つ ま り

「国 民 の総 意の現 」が我 が国 に おいて は 「天 皇 」にほか な ら ぬ こと が確 定さ れよ う と さ れ まい と

国 民tc主権 が ある こ と と 天皇 (君主 )に主 権がある こと と は概念上

区 別 されなけ れ ばなら ない こ とは 当然の 理 だ か らで ある。

 

こ の よ うに論 争の 中で

律用語と日常 言 語の区 別21) を意 識 的か 無 意 識 的に か 無 視してい く和 辻の姿は佐 々木 博士 との論 争に おい て も顕 著であ る。   (2> 「国体 変 更論につ い て佐々木博士の 教 え を 乞 う」        

国 体 変 更 論の背 景   こ こで和 辻と佐々木 惣

博士 との間で行われ た所 謂 「国 体変 更」 論争の 紹 介に 入 る前に

法 改正 を巡る当時 の状 況につ いて若干説明 を して お く必 要があるだ ろう。   a

憲 法正の状 況

国体は護 持さ れ るか   昭 和

20

7

26

日に ポ ツ ダム宣 言が発せられて か ら日本 政府が受 諾する迄に 20 日余の 日時 が経過し たの は

ときの 政 府に とっ て宣 言 受 諾に よ り

我が国の 「国 体」!2) 護 持でぎる かど うかが最 大の問題 と なっ たか ら で ある。 8 月8 日の ソ連の 参 戦に よ り

10 日

政 府は受 諾すべ き 旨 を 回 答 したが,そ の際

「同 宣 言は,主権 的統 治

者 asovereign  ruler とし ての天皇の 大 権 Prerogative

を害 する要 求 を含まず」 との 諒 解 を 付し 「この諒解が正 しい か ど うか

明 確に指 示さ れ た し」と申し添え た。 当 時政 府は国 民に対し て 「国体護持」を約 束し て いたので

こ の確 認の 必 要があっ たの である。   し か るに翌日の連 合 国 側の回 答は

こ の諒 解の回答 要 請には直接ふれ ずに

「降 伏の ときか ら

日本の天皇お よび政 府の統 治権は

降伏 条件を実 施 する た め に必要と 認める措 置 をと る連合国最 高司令 官に し たが うべ こ と

「日本の 最 終の ultimate 政 治 形 態は ポツダム 宣 言 の い う ところに従い

日本 国 民

Japanese

 people の 自 由に表 明 され る意 志に よっ て定め るべ き 」こ と を 言 明 し た。   8 月 14 日政府は こ の回答を 了承 し た上で

宣 言 受 諾 を申し 入れ た。 宣 言受諾に よっ て, 帝国憲法の規定する

一149一

(8)

湘南工科 大 学 紀要 第 25 巻   第 1 号 統 治の主 権

軍 事 権

海外に おける領土の放 棄 等は もた らされたが

帝 国 憲法 自身は廃 棄さ れ た わ け で は な かっ た。 つ まり連 合国の占 領下の 目本に お い て大日本帝国憲 法 及びその 規 定に基づ く諸 機 関存 続て いた。 憲 法は ど うな るのか

廃棄 また は改正 されるのか

もし改正 さ れるとし た ら は た しては護 持さ れ るのか

帝国憲 法 下の説に よれ ば

憲法改正の手続 きは第 73 条に規 定され て い た が

その改正の意 味23) するところは 国 体 (万世

系の 天 皇の 統 治 する 国家 体 制 )を変 更 する もの で はなかっ た

が 最大の関心事であっ たQ   b

憲 法 改 正に いた る経 緯24>  昭 和

20

10

4

東 久 邇宮 内閣の国務大 臣 近衛 文 麿は

G

H

Q .

最高司 令 官マ ッ クア

元 帥か ら 憲 法 改正要求の事 前 通 告 を 受 けた。 これに よ り内 閣は総 辞 職し

幣 原 内 閣が成 立 し た。 10 月 11 日

幣 原 総理は 憲 法 改正 を考 慮 すべ き 旨の指示 を 正式に受け た

 他 方, 近 衛は東 久 邇 宮 内 閣 総辞職の夜に 天皇に改憲 要 請を奏上し

内 大臣府 御用 掛に任 ぜら れ

11 月 22 日に 憲 法 改正の大綱を 天皇に し た。 そして こ の大 綱 を 作 成する時に相談し たのが

京 都 大 学 時 代の 恩 師 佐々木 博 士であっ た

G .

H .

Q

の要請に づいて幣 原 内 閣 が につ

所 謂 , 「松 本 案」は

4

つ の原 則, 則ち (

1

) 天 皇が統 治 権の総 攬 者である原 則は残 す   (2) 議 会の権 限を拡大 し

天皇の大権 事 項を制 限する (

3

)国務大 臣の 責 任を 国務の全 般に及ぶ の と し

議会に対 し て責 任を 負 う (4) 人民の 自由

権 利の保 護 を 強 化 し

その侵 害に 対 す る救 済 を 完 全にする

に基づ く もの で あっ た。  政 府案以外の 案 1こ つ い て 言及す れば

帝 国 憲 法に い う ところの 国 体 護 持に

番 近い案は保 守 政 党で ある進 歩 党 案 (天 皇は統 治 権をお こな う)で あり

同 じく保守 党で ある自由党 案 も天 皇は統 治 権の総 攬 者る が, 統 治権 の行 使の 主 体は 国 家 と するもの で あっ 。  野 党の社会党案は天 皇に統 治権の

部を残 し

国家に 主権を認め る案であり, 天 皇制 廃止

人民主権 を うた う 共 産 党 以 外は

いずれ も天皇制の存 続を うたっ て い る 点 で 厂国 体 」 を 天皇 制と 限定 してえ れぱ, ある意 味 で は 「国体」を護 持する線で

致し てい た。  日本 政 府の保守的 な考え 方 が民主化の障害になっ てい る と判 断した

G .

H .

Q

は天 皇の象 徴 化

戦争 放 棄な ど を 骨 子に し た所 謂

,G .

H .

Q .

案を示 し た。 つ ま り昭和 21 年 2

マ ッ ク ア

最 高司令官は

松 本案を没に し て

幕僚に憲法 草 案を起 草塞 せ

2 月 13 日これを 政 府に 内 示 して

採 用を求めた。 政 府は これに応じて マ ッ ク ア

草 案に もとつ く「憲 法 改正草案要綱」を 起 草し て, 3 月6 日発 表 し た

 

4

月 10 日の 総 選挙の後

幣 原 内 閣は

4

月 17 日に憲 法 改正 案の条 文を 公表した。 その後

政 変に よ り

5

月 23 日第

次 吉田内 閣が成立 し た が

吉田内 閣は前 内 閣の改 憲 方 針を受け継い だ。 枢 密 院の審 議を経た後

吉 田 内 閣 は 6月 20 日

帝 国 憲 法 第

73

条の定め る ところ に従い

勅 書 を もっ て 憲 法 改正草 案 を 第 90 回 帝 国議会の衆議 院に出し た。 衆議 院は 2

か 月の 審 議の 後

若干の修 正25) を施し て 8月

24

これを可 決し た 。  貴 族 院の審 議は 8月

26

日に始ま り, 1月 半 を経た後

若干の修 正を加え

,10

月6 日

同 じくこれを 可 決し た。 衆 議 院は貴族院の正 に同 意し

帝国議 会の議は これ に よ り完了し たQ 帝 国 議 会を通 過 した政 府の憲 法 改正案 は

再び枢 密 院の審 議を経て

10 月 29 日 天皇の 裁可 を 得て

11 月

3

日 に公 布 された。 そして 同 憲 法 第

100

条 の 規 定に よ り

,6

か月 後の昭 和 22 年

5

3

日 か ら施 行 された。 憲 法 改 正 とい う事 柄の重 要 性か らすれば, や や 性急とい う印 象 が な く も ない が

議 会におけ る審 議は真 に活 発で稔 り多い もの であっ た。  c

正憲 法に関 するい ろい ろ な 見解   新 憲 法につ い ては多 くの立 場か ら色々な 解 釈が行わ れ た

新憲 法 制 定に先 立つ 議 論の中で

保 守 的であっ た の は

和 辻が論 争 を 挑んだ 佐 々木 惣

土でっ た  博士 は か っ て京 都大 学 を滝川事件26)で辞職し た ほどの 硬骨 漢であっ たが

当 時

東 京 大 学の美濃部 博士 と並ん で 日本を代表する憲 法 学 会の泰 斗であっ た。 博 土は新 憲 法 制 定を審 議 する第 90 回帝国議会の貴族院に おける審 議委 員で もあ り

憲 法 改正案がポ ツ ダム宣 言 受 諾との絡 み で

国 体は変 更 するのか し ない のか につ い て大いに 糾し た 時に も

金森 国 務相 ら 政府 側の曖昧な答 弁を や っ つ てい る。  博士 の見 解はポ ツ ダム宣 言 (第 12

天皇と日本 国 政 府は

降伏 条 項の実施の ため必要と認め る措置 を 執 る連 合 国 最 高 司 令 官に従 属 する

日本 国の最 終 的の政 治 形態は

ポ ツダム宣言に い 日本国民の 自 由に表明 す る 意 志で 決 定 される) の 受 諾 か ら国 体 変 更 の 必 要 は 全 く生 じない こ と (確か に ポ ツダム

由 な 意志に よ る, 究 極的な政 治形態の選択を述べ たもの で, 国民主権に まで 踏み込んで要求は し ていない

これは 厳 密な解釈に従えぽ

佐 々木 博士の解 釈の とお りで ある

一 150一

(9)

和辻哲 郎と 天 皇 制 その 国 体 概 念 を巡っ て (兼子 盾 夫 ) が

し か し実質的 な 連 合 軍の要 求が国 民主権であっ たこ とは 「松本案」が

顧だに され ず

,G .

H .

Q

案が示 さ れ た ことでも明 らか である

この点は

ポ ツダム宣 言 諾の是 非をめ ぐる議 論27) の なか で

如何に も日本的 な 希 望 的 観 測

ある い は強 力な反 論を抑え る ため に あ えて 玉 虫 色の ま まで 決着をつ け ない対 処の仕方の好 例 と して

日本人論の観点 か ら甚だ興味 ある と こ ろ で あ る

者 )。

 

戦 前の天 皇政 治 に弊 害 があ る とす れば

こ こ で天 皇に 協力する諸 機関を徹 底 的に改 革 す れば 済 む こ とで あっ て

天皇が統 治権の攬者である とい う帝 国 憲 法の規 定 そ の も の を 変 え る (先に述べ た ごと く彼は木戸

近 衛に 依 頼 されて憲法改正の私案

佐 々木試案

を提 出 し たこ と が あっ た 〉 必 要 は全くない とい う もの で ある。  これ らの見 解の 対 極に は, 所 説の単行本 に よ る刊 行は か な り後に な る が

美 濃 部 博士 の 教え 子で ある東 大の 鵜 飼 信 成 博士 や国際法学 者横田喜三 郎 博士等の見 解2S)が あ っ た

 さ らに戦後の憲 法学の 最高

宮 沢 俊 義 博士 の論 の如 き 「新 憲 法の 下で は

今の 日本は君主制で は なく共 和 制 だ とい うこ とに な ろ う」 (『憲 法』有 斐 閣 全書

昭 和 32 年 ) とい う よ う な

ある意味で は和 辻 な らず と も 心理 的に は必ずしも 首 肯 しがた い主 張

象 徴天 皇制の もつ 鵺的 性 格に対 する鋭い指摘もあるが, これは学 問上 の 分 類の こ とで あっ て

いず れに して も現 実には民主的 な 象 徴 天 皇 制の枠 内で の を さ らに大 幅に踏み 越えて 天 皇制を廃して

現 実の 共 和 制に し ようとするもの で は なか っ た。

3

和 辻

佐々 木 論 争

  

「国

は変 更 する か」  「こ の変 革は, 憲法上 か らいえ ば

ひ とつ の 革命 (八 月 革命

筆者 )だ といわ な くて は な ら ぬ」

宮沢 俊義 「八 月 革 命 と 国 民 主 権主義 」『世 界文化』   (

1

)  和 辻

佐々木 論 争の性 格

 

あ くまで 法 学 上 の主権 論を争 点に し た宮 沢俊義

尾 高 朝 雄 論 争29) 比べ る と , 和 辻

佐々木の国体 変更を め ぐる論 争は

,一

見 し て保 守主義 者同 士の言葉の

蝸 牛角上の

に見

k

るか も知れない。 し か しこ の 時の和 辻は実際

結 果 的に は非 常に 重 要 な 問題提 起 をし て い るの で ある。 つ ま り佐々木 博士 が明 治 憲 法の 解 釈 SO> か ら演 繹される国 体概 念を ア

プ リ オ リに用い て, 新 憲 法に よる政 治 形 態の変 更 を 憲 法 学上の国 体 概念の 変 更 と い う言葉で説明 し, そ れに よっ て新憲 法の国 民 主 権の意 義

博土個人 とし て は改正の必 要を認め ない が

を 述べ よ う とした ところ, 和 辻 が 奇 妙な論争を挑んで来た の である。 和辻の論 争は

実 定 法の解 釈 学 とい う点か ら す れば

素 人の議 論である が, 実定法の根拠 と な る社 会 的

歴史 的 事 実を どう捉え るか とい う点か らすれば

専 門家の意 表をつ く鋭い指 摘で ある。  和 辻の議論の仕 方は

法 律 上の 概 念 と日常 言 語におけ る

その用 法と を こ っ ちゃ に し た もの で ある が

結 果 と し て佐 々博士の国 体 概 念の もつ 曖な根拠 を 突き崩し た ことに なる。   もっ とも佐 々木 博士の曖昧な 根 拠 とい っ て も佐々 木 博 士 が

曖昧に概念を使用 して い るの ではな く

本来

明 治 憲 法 及び その体 系 トでの法律的な国体概 念31) その もの が二重 性 格 的曖昧 さ を もっ てい る の で ある。   和 辻 自身は 自ら述べ て い る よ うに 「国 体32 )」 とい う 言 葉をできるだけ使 用しない でた。  そ れ ゆ え和 辻は論 争の最 初 の 論 文 (全集 14 巻 355) の なかで

「わ た くしは これ まで 久 しく国 体とい う概念 を 理解しない で い るので ある。 し た が っ て 日本 倫 理 思 想 史の立 場か ら尊 皇 思 想の歴 史 的叙述を試み るに 当たっ て も

で き 得る限 り国 体とい う概 念を 用う るの を避けて 来た。 ま た 倫理 学 に おい て 国家の 問 題を論 述 する際に も

国 体の問 題は 国 家

般の問 題に は属 し ない との見 地 の下に

わ ざ と取 り上 げ なか っ た

」 と 断 っ て い る。  た し か に和 辻は 「国体」 とい う語 を 世 間で流 布 されて い る意 味で は

後 期の どの著作で も使 っ て はい ない

た だ し初 期

8

い た 「危険思想を排 す

j

とい う論 文の なか で は使用 し て い る

た まにあるとし た ら

それ は皮 肉 混 じ り に

相手の 論法を逆 手に とっ た 時で ある。 その 点

山 田洸 氏は誤 解 33) して お られるよ う で る。   (2) 「和辻

佐々木 論 争」その 1

「国 体更 論に         つ い て佐々 木 博士 の教 え を 乞 う」  佐 々木 博士は 『世 界 文 化 』 昭 和 21 年 11

12 月号所 載 「国 体更 する 」 とい う論 文に お い て

日本 国 憲 法 を採用 するこ とは主 権の所 在の変 更 を 意 味 す る ものであ り

国 体は変更 す るの だ とい うこ と を説 く。 それに対 し て和 辻は上 記の 論 文におい て

佐々木 博士の 論 旨 を 紹介 し なが ら

そ の批 判を述べ て 紛らわ し い だけの 国 体 概 念 の廃 棄を 主張す る。

一 151一

(10)

湘 南工科 大 学 紀要 第

25

巻  第 1 号   佐々木 博士は 「国 体」概念につ い て先 ず二 つ の区 別 を 述べ

つ は 厂国 家につ い てその 政 治の様 式 とい う面 か ら見て い か な る国 柄 の もの である かを 問 題 に す る 場 合, その 国柄」が国 体 とよばれる。 二 つ 目は 「国 家に お ける共 同 生 活に浸 透 して い る精 神的倫理的の観 念 とい う 面よ り見ていか な る国 柄の もの であるか を 問 題にする場 合

その国 柄」 が国 体 とよ ぼれる

前者は 「政治の様 式 よ り見た国体」の概 念であ り, 後者は 「精 神 的 観 念よ り 見た国 体 」の概 念である。  憲 法 改 正は政 治的 様式の基本の更ecSUわ るもの であ る か ら, 第

の意 味で の国 体の変 更を意 味 する。 つ ま り 今回の憲法改正 は

国 家の統 治 権の総 攬 者が如 何に して 定 ま る か とい う面よ りみ た 国 柄の変 更で ある。  博士に よれば 「帝国憲 法は

特 定の血統に出ずる特 定 の

人が

統 治権を総攬す る と定め てい た

帝 国憲法 第 4条 「天皇ハ ユ シテ統 治 権 ヲ総 攬シ比 ノ憲法 ノ条 規

つ ま り帝 国 憲 法の時代に おい て は

わが国の 国 体は

特 定の血 統に 出 ずる特定の

者 )統 治 権る と 国 体で あっ た。」 (「国体 問 題の諸 論 点」

『天皇の 国家的象徴 性 』 P

66

)   博士 に よれば 「特 定の 人が 国家の意志の発 動 を 全 般 的 につ か ん でい る とい う地 位に あ る」 こ とを さして

その 人が 国家の 「統 治権 を総 攬 してい る」 とい うの である。 そ し て そ うい う特定の 人, つ まり統治 権の総攬 者が どの よ うに し て定まる か とい うこ と が 「国体の概 念の内 容 」で ある。   次に博士は 「国体の 概 念に 該 当 す る事 実」 を説明す る。 帝国 憲法に おい て は 厂万世

系の天皇が万 世

系で あるこ と を根 抵 (第 1 条 「大 日本 帝 国ハ 万

之統治ス

筆 者 )と し て統 治 権の総 攬 者であっ た。 これに対し て 日本 国 憲 法第

1

条は天皇の地 位 が 「主 権の 存す る 日本国 民 の 総意に基 づ く」 こ とを 規 定

 

(第 1条 「天 皇は

日本 国の象 徴で あ り日本国民 統合の象 徴で あ っ て

こ の地 位は

主権の存する 日本国民の 総 意に 基 づ く。」

筆 者 ) して い る。 「主 権の存する 日本国民とい うこ とは

明ら かに , 統 治 権の総 攬者が 天皇で ない

と い うこ とを示 す もの で ある。 日本 国 民な るもの が統 治 権 ま た は統 治権総 攬の権を有するのであっ て

天 皇が有せ ら れ るので は ない。」 し た がっ て従 来

国 体の概 念に概 当して いた 事 実は全 くな く なる。 これ が 「国体は変 更す る 」 とい うこ との意味で ある と博士はぺ る の である。   さ らに博士 は第

の意 味に おける国 体

則ち 「政 治の 様 式か ら見た国 体 」が変 更 さ れ れ ば

第二 の意 味におけ る国 体

則ち 「精 神 的観 念よ り見た国 体 も変更 するこ と に なろ う」 と述べ てい る。   和 辻は佐 々 木 博士の 「日本 国 憲 法に よ り我が は変 更 する 」 とい う上の議 論に対し て

先 ずこ う述ぺ い る。

 

博士 の理 路は 明 晰で あり

,一

点の渋の あ と も残 さな い。 だか ら 自 分が理解に 苦し むのは, その論 旨の不備で は なく, 博士が自明 な もの として用い て い る 「概念」そ の ものだ と切 り出 す。  和 辻 が 理解に苦

L

む と指摘 す る 点 は二 つ あ

y

; ひ とつ は 博 士 が 立てた 「二 つの国 体 概 念 の 区 別 の 必 要 性」 であ る。 こ の区 別は勿 論

博 士 が 好ん で立て た とい うの で は な く

もとよ り明 治 憲 法学の 解 釈に 関 する概念上の区 別 なの である が, 和 辻は二 つ の 国 体の 区 別 が な ぜ必要なの か

理解できない と 言 うの である。 その理 由 とし て

政 府の形 態は政体である。 そ れ ゆ え

の意味に おける 国 体は 「政 体」 と 呼べぽ わ か るの であり, わざわざ 厂政 治の様 式か ら見た国体」と呼ん で

話を複 雑にする 必要 はない の である。  和 辻 の 指 摘 す る第= の疑 問点は, 博士の言 う第

の 意 味に お ける 「国体の概念 に該当 す る

実」 に関するもの である。 博士に よれ ば

「何人 が 国家 統 治権の総 攪者で ある か」とい うこ とが 「国 体の概 念に該 当 する事 実」で ある。 そ れ な ら ば博士 が 「国体の概 念に概 当する事 実 」 として

「万 世

系の天皇が, 万 世

系 で あるこ とを根 底 として統 治権の 総攬者である」 と言 う時

そ れ は明 治 以 後 の事巽 を 指 して いるの か, それ と も 国初以 来 の 歴 史 を通 じて の事実 なの かとい う疑 問が起 きる。  こ の疑 問は博 士 が 国体の概 念を採用 し て いる 限 り, 非 常に 重 大 で あ る。 な ぜな ら博 士が国 体の概念 に該当 す る 事実と言 う時

国初 以来の歴 史的 事 実を指 し て い る な ら, 日本の 歴 史 を貫いて流 れる国 体が, 日本 国憲 法に よ ってこ こ で変更する と い う

1

大な 意味に な り, ま た 明 治 以後の事 実 を指し て い る な ら, 博 士 の主張 は, 明 治 憲法 に表現 さ れ た 国 体の事実が 日本国 憲 法に お い て変 更 す る と い う意 味 に 過 ぎ な い か ら で あ る。  し か も和 辻に よれば

明治 以 前に おい て天 皇は 数百年 間も統 治権の総攪者ではなか っ た。 つ まり江 戸時 代

鎌 倉 時代

藤 原 時代の いず れを見ても, 天皇が統 治権の総 攬者で あっ た事 実は ない。 天 皇はわ ずか な例 外を除い て

参照

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