井伏鱒二と大正末年の因島・御調郡三庄町 : 井伏文学における因島検証の前提として
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(2) の大学教師の理不尽な振舞いによって東京での学生生活を放棄せざるを得なくなり、「文学的には殆 んど精進する気持を失ってみた」とも回想する(注4>井伏が、「世捨人」になることや、「流浪の旅」. を願うこと、実際に〈田舎〉に暮らしたこと、あるいは、また、それまでの「操行」が「一変」した ことも、それぞれ個別には了解できる。. だが、自然に恵まれた長閑な〈田舎〉ふうの景観を強調してきたところに、女性を相手に酒を呑め る場所があった(それも、夕方から出掛けられるのだから、そう遠くない所である)と続けたり、あ るいは、田園的景観に〈都会〉的歓楽の象徴ともいうべき芸者とが取り合わせられると少々唐突な感 は否めまい。. 実際の地理上においても、そういう田園風景のつい鼻先に、「艶福」を求め得る料亭・検番・芸妓 置屋(芸妓はそういうシステムの中にあるわけだ)がある、ということも私には呑み込みにくい。加 えて、妹芸者を連れていれば密会といった雰囲気は捨象されてしまうにしても、面々相知った人々が 暮らす農村地帯(「蜜柑畑」や「除虫菊の畑」があり、その「畦みち」を歩くのである)で芸者連れ の散歩は相当に人目を惹くように思うが、さしてそれを気にする気配もなく、そのことで風評が立っ たようなことも書かれてはいないのが不思議でもある。当時は城山に登る道も整備されていたらしい が(注5>、それにしても急峻な坂道であって難儀しただろうとも思われる。のちに引用するが、因島生 活を振り返る回想記・随筆類には「近所の人」の「無関心」(「因ノ島」、『婦人臨写』昭和30〔1955〕. 年5月)や「遠慮」(「因島半歳記」、r市政」昭和33〔1958〕年8月)が有難かったと書かれているの. だが、それぞれ「怠け者がみる」ことや、「病人のやうに海岸や岡を歩きまはる」ことに寛容だった という意味であって、芸者を連れた散歩にまで及ぶと想像できるような文脈にはない。. 「難関集」には、確かにく事実〉として〈操行の一変〉は記述されている。しかし、一変した操行 の領域から立ち現われてくる小太郎たちの形姿は具体的には描かれず、私たちの眼前に出現する彼女 たちはは、近くの小高い丘に登って四囲の海や島を眺めるという、健康的な構図の内に配された点景 人物でしかない。他方、井伏が「艶福を求める目的」で訪れた場面(芸者と親しんだとなれば、料亭 などを想定することになるが)が描写されないために、土井医院附近の自然描写に比肩し得るイメー ジの具体性を持たないのである。結局、「四丁集」に描かれる因島は、自然景観に恵まれた島として の印象が大きく損なわれることはないようなのだ。続いて記される、井伏の生活も田園生活的情調の 内に封じられる。田園生活的情調と評したのは、先の「難撃墜」からの引用部分には以下のような文 章が続くからだ。. 私はつまらない見えから小太郎に、自分はトルストイにかぶれてこの島に来たなどと大げさなこ とを云ってみた。もっとも私はこの島に滞在中、退屈しのぎにトルストイを読んでみた。当時、. 田舎へ逃げ出して行った私の級友はどういふものがたいていトルストイを愛読してみたやうであ る。 (第6巻30頁∼31頁) 井伏は、このように当時流行した都会から田舎(田園生活)への逃亡者としての自己を語る言葉で、 因島生活を書き継いでゆく。そして、級友たちは、それぞれ、大島(伊豆大島)で養鶏業を営んだり、. 日向(宮崎県)の山奥に移住したと述べ、かれらの逃避先はく田舎〉として括られる。城趾・蜜柑畑 ・除虫菊畑、そして、投げ入れた石がどぶんと音をたてる長閑な海、その海の向こうに眺められる百. 貫島・四国連山……と、「難肋骨」に具体的に描写された因島も、井伏が後年「なぜ居心地が競いの か一言には云へないが、田舎でありながら、怠け者がみても近所の人が無関心でみてくれるので気が. 一4一.
(3) 楽であった」(注6)と語るように、級友たちが「逃げ出して行った」先と同じく<田舎〉とされ、トル ストイアン・井伏鱒二が灰めかされる。. 同じような例が、因島時代に取材してその頃の井伏の心情を描いたと推定される、最初期の作品「岬. の風景一長篇のプロツトー」(『鷲の巣』大正15〔1926〕年8月。同年2月の『陣痛時代』第2号 に発表か)にもある。主人公「私」は、村上家の系図を小説風の物語に書くために、「岬の南端に位 みする小都会」に招かれる。「私」が住むのは、岬の突端に建てられた病院跡の空家である。その空 家は「漁師達が博突をうちに忍びこむ位なもの」と紹介されていて、周囲には人家もないようだ。「私」. は、時として「小柄で顔に雀斑のある一人の職業女」と「よくない外泊」をする。外泊先では「はる か向うの島で時をつくる鶏の声を聞いたり」、「見越し硝子に描いてある風景画が、百貫島の(灯台の 明滅する)灯に透かされて白く浮き出るのを見」る。「私」が鉄道や船で、岬の世界の外に出た様子 もなく、「私」の住まいと「よくない外泊」先との距離が余りにも近いように思われる。そればかり ではない。毎目の食事を出前するような「賄の料理屋」が、果たして、隔絶された趣きの強い病院跡 の空家近くに存在し得るのだろうか。. 「岬の風景」の舞台が「岬の南端に位みする小都会」と設定されながら、「何の身よりもなく謎責 する人もないこの田舎に迷ひ込んで来て」(第1巻69頁)と、「難肋集」同様、その場を〈田舎〉と規 定する表現も見られることも附け加えておこう。. 「岬の風景」のような虚構の作品ではモデルとなった土地を忠実に再現することを必ずしも要しな い。現実離れした仮構の舞台だと言えるかもしれない。だが、「岬の風景」の舞台設定に実際の因島 が濃い影を落としていることは否めない。ジャンルは違っても、「手署集」・「岬の風景」に設定され た生活空間や地理的状況に関して、両者に共通する、何か呑み込みにくいところが残るのだ。この素 朴な疑念を解消したいと考えたところに、本稿執筆の出発点はある。そして、先回りしていえば、こ の呑み込み難さが、実は、井伏の描く<因島〉を特徴づけるものだと評してもよいように思うのであ る。. 例えば、同時代に生き、井伏と同じ時期に何度か因島を訪れたことのある林芙美子が書いた『続放 浪記』〈新鋭文学叢書〉(改造社、昭和5〔1930〕年11月10日)には、そういうところを余り感じない。. その「恋日」の章(末尾には「一九二二」とある)には、一月だというのに陽光に溢れた、因島(田 熊)の農村風景が描かれている。 ひ. 丘の上は一面の蜜柑山、灯のやうな実のなった、レモンの木が、何か少女時代の風景のやうで. とてもうれしかった。 牛二匹。. 腐れた藁屋根。 レモンの丘。. チャボが花のやうに群れた庭。 ひかり 一月の太陽は、こんなところにも、霧のやうに光荘を散してみた。 (9頁∼10頁〉. 井伏が「難肋集」で描いたのと同じような牧歌的田園風景である。だが、同じ『続放浪記』に収録 された「旅の古里」の章(末尾に「一九二五」とある)では、「恋日」とは全く異なった因島の相貌 が出現する。「糸のやうに細い町筋を古着屋が軒をつらねてみる」(『林芙美子全集』第1巻、文泉堂. 出版、1977年4月20日、396頁には「糸のやうに細い町筋を、古着屋や芸者屋が軒をつらねてみる」. 一5一.
(4) は ぶ. とある)土生町で宿を取った「私」は、造船所正門向かいの丘に登り、「菜つば服を旗に押したて・. マ マ. 通用門みたいなとこに、黒蟻のやうな職工の群が、ワンワン稔ってみる」造船所内の様子を目にする。. 遠い潮鳴の音を聞いたか! 何箇と群れた人間の声を聞いたか!. こ・は内海の静かな造船港だ 貝の蓋を閉ぢてしまったやうな 因の島の細い町並に. 油で汚れたヅボンや菜つば服の旗がひるがへって 骨と骨で打ち破る工場の門の崩れる音 その音はワァン ワァン ママ. (108頁). 早いつばいに吠えてみた。. 「恋日」は林の恋人・岡野軍一の生家があった田熊村の風景であり、「旅の古里」に描かれるのは 土生町の大阪鉄工所因島工場正門(現・日立造船所西門)向かいの丘に立つ、荒神社から目にした争. 議の光景である。当時の土生町は、人口ば1万人を超え、大阪鉄工所因島工場を核として栄えた賑や かな町であった。その土生町に比べれば、井伏が滞在した三半町は人口にしてもその半分程度で(大 正9〔1920〕年の国勢調査では、土生町13,315人〔面積0.16方里、人口密度では83,219人/方里〕、田 熊村3,416人〔面積0.22方里、人口密度では15,527人/方里〕、三庄村6,448人〔面積0.46方里。人口密 度では14,017人/方里〕である)(注7)、三庄町・田熊村ともに農村地域だと思われるかも知れないが、. 後述するように、三野町には大阪鉄工所備後工場(三庄工場)のみな、らず、同工場の従業員や同工場 に入渠する修繕船を目当てにした歓楽地域や商店街が存在していた。林は『続放浪記』で、農村風景 を描くだけではなく、繁華な街や労働者の輯めく姿も書き落とすことはなかった。その点、因島を捉 える林の目配りは十分に利いている。だが、井伏の「難肋集」では芸者小太郎は因島の牧歌的風景の 中に溶かし込まれ、「岬の風景」では歓楽地域の一角に所在すると想定される外泊先が曖昧に量かさ れていた』そして、その後も、井伏は回想記・随筆類では、因島を牧歌的風景の中に置き、繁栄する 造船業や賑やかな街の存在について、長く言及を避けて来たふうがある。. それらしい歓楽地域の存在について具体的に触れた回想・随筆を井伏が発表したのは、柑橘類の匂 う因島の印象についてずいぶん語ってきたあと(二十篇ほどの回想記・随筆類で、井伏は大正末年の 因島滞在のことに触れている。それらの殆どで因島は牧歌的風景に囲まれた島として語られている。 因島滞在中の体験に取材したと思われる創作は六篇ほどあるが、創作の中には、回想記・随筆類とは 様相を異にする作品がある。本稿では原則として回想記・随筆類に限定して考えたみたレ、)、その滞 在から数えれば三十年以上も経った頃である。井伏は、全国市長会が発行していた『市政』という余. り目立たない場所に、因島時代を回想する「因島半歳記」(昭和33〔1958〕年8月15日。井伏生前の 再録はない)を発表する。そこで、初めて、隣町の土生町にまで足を伸ばしたことに触れ、入渠船を 迎えようとして活気が溢れてくる港町の様子を具体的に描く。. 私は三ノ庄町にみるとき土井さんといふ医者のうちの二階にみた。近所の人は私のことを入院 患者だと思って遠慮してくれたので、私も病人のやうに海岸や岡を歩きまはるには好都合であっ た。この町には港のわきに相当な規模を持つた造船所がある。海沿ひの岡を越えると土生町とい. 一6一.
(5) ふ港町があって、ここは三ノ庄の三倍も四倍もの人ロで、更に大規模な造船所や船渠がある。内 海を行く汽船がこの港に寄るときには、岬の突端に船体を見せると同時に合図の汽笛を吹き鳴ら す。港に寄らない汽船は何の合図もしないで通りすぎて行く。. この港に立ち寄る汽船は修理を目的としてみるやうである。たいてい船渠に入れられて、修理 がすむまでの一週間か二週間は船員が上陸して金銭を無駄つかひする。だから汽船が岬の突端で 汽笛を鳴らすかどうか、港の人は固唾を呑む思ひであるやうだ。そこで汽笛が鳴ると、宿屋では 大急ぎで部屋の掃除をして活花を取りかへる。料理屋では浜の生費へ魚を取りに行く。医者は注 射器の熱気消毒に取りかかる。芸者は急いで銭湯へ出かけて行く。俄然町ぢゆう活気を帯びて来 る。. 私はこの島にみた六箇月間に、汽船の進水式を土生の船渠と三ノ庄の船渠で一度つつ見た。万 国旗で飾られた船が海に出て行くところは素晴らしい。当日は大勢の人が見物にやって来て、新 造船の甲板からお祝ひの餅投げをするのを待ってるる。船が動きだす直前に餅投げが開始される。. 一見、歌舞伎座で俳優が舞台から見物人に手拭を投げるときの光景に似通ってみる。 (第20巻323頁。圏点は前田が附した。以下同様。). この「靹ノ津付近」の記述に曖昧さはないだろうか。宿屋・料理屋や医者・芸者が上陸する船員目当 てに大慌てしているのは、引用第二段落冒頭のように「この港」のこととして書かれている。「この 港」とは、い、つたい、どこの港を指すのだろうか。「三ノ庄町」なのか「土生町」なのか。三半町に は「造船所」があると書かれているが、土生町には「更に大規模な造船所や船渠がある」と「船渠」 の文字が書き加えられている。そして、その「船渠に入れられ」る船の乗組員を目当てに「町ぢゆう 活気を帯びて来る」というのだ。「ここ」(引用4貫目)、「この港」(引用5行目、7行目)という指 示語の対象も曖昧だが、引用第二段落中程の「港の人」を含めて、圏点を附したところは、いずれも 土生町・土生港あるいはそこの人々を指すと解するのが自然だろう(注8)。井伏が繰り返し強調してき. た田園風景が井伏の因島生活を馬弓するものとして、既に読む者の脳裏に焼き附いていれば、井伏の. 暮らした三庄町ではなく、土生町のことだと読んでしまうだろう。引用最終段落の「進水式」の光景 にしても、三庄町と土生町が二重写しになり、裁然と区別されていない。否、この文章においては、 三庄町に賑わいがあったとしても、土生町のそれと重ねることによって、その背後に隠されてしまっ ているような印象を受けるのだ。 「因島半歳記」の二年後、殆ど同じ内容を書いた「靹ノ津付近」(『世界の旅・日本の旅』昭和35〔1960〕. 年5月。年少者向けに改稿して『ふるさとを訪ねて』〈少年少女文学風土記9・広島〉泰光堂、1960 年9月25日に再録。井伏生前にはこの再録しかない)で、ようやく入渠船で活気づく港が三尉にあっ たらしいように書かれるのである。. そのころ因ノ島には、土生の港と三ノ庄の港に造船工場があった。沖を通る汽船が岬のはつれ に見えだして、汽笛を鳴らした場合にはその汽船が修繕のため港の船渠に入って来る。汽笛を鳴 らさなければそのまま通りすぎて行く。したがって港の人たちは、汽笛が鳴るか鳴らないかに多 大な関心を持ってるる。もし汽船が船渠に入って来ると、その汽船の修繕がすむまでには、すく. なくも一週間以上は船員たちが上陸して金銭を浪費してくれる。港の人たちは汽笛が鳴るのを今 か今かと待ってるる。. そこで汽笛が鳴ると、たちまち町が活気を呈して来る。旅館では女中が部屋の掃除にとりかか. 7一.
(6) り、板前が八百屋かどこかへ電話をかける。芸者屋の妓は銭湯へ出かけて行く。病院では看護婦. が注射器の煮沸にとりかかる。私の泊ってみた土井医院で転汽笛が鳴ると院長はすぐ分院へ馳 せつけてみた。. 私の泊ってみた本院は船着場から十丁ほど離れ、岸壁をめぐらした埋立地に建ってるた。 (第21巻263頁∼264頁). 文中には、「靹ノ津の西にある因ノ島に行き、そこの土井医院に六箇月ばかり止宿した」という表現 しか見当たらない。次に引く段落の冒頭で「三ノ庄から土生まで海沿ひの道を行くと」とあり、弓削 島へ渡った体験を語る際にも「三ノ庄の港」を起点にして説明していることから、井伏が暮らしたの は、その起点とされる三庄であるらしいと推測するしかない。その上で、土井医院本院から「十丁ほ ど離れ」たところに、入渠船で活気づく「船着場」「港」「町」があること、また、そこに土井医院分 院があると説明されていることを根拠として、土井医院本院・分院ともに三庄町内に所在するのであ ろうと判断するこ.とになろうか。このあたりは曖昧だ。この「十丁ほど」の距離を近いと見るか遠い と見るかは別にして、慎重な言い方をすれば、この「靹ノ津付近」から理解されるのは、井伏が暮ら した土井医院本院から「十丁ほど離れ」た「船着場」の近辺に、「旅館」・「芸者屋」・「銭湯」が存在 していたという事実にとどまる。. 「靹ノ津付近」でもう一つ目を惹くのは、. 三ノ庄から土生まで海沿ひの道を行くと、岡を越えてまた次の岡を越える途中の埋立地に、整 然とした区劃割になってみる女郎屋街があった。これは寄港中の船員を収容するためのもので、 全国でも模範的な遊廓であると云はれてるた。 (第21巻264頁)、 かろう と と、それまでの因島をめぐる回想記・随筆類で全く井伏が触れなかった遊廓一家老渡(浪速/浪花). 遊廓にまで言及し、上の引用の後では、身投げした娼妓の噂に触れ、その不気味な水死体の様子も描 かれていることである。家老渡遊廓やそこの娼婦など、これまで強調されていた牧歌的田園風景には. 不似合いな事物が出現する。ただし、ここでも、「三ノ庄から土生まで海沿ひの道を行くと、岡を越 えてまた次の岡を越える途中」と、井伏が住んだらしい三庄から距離があるとされていることにも留 意しておきたい。. こよう 実際を言えば、井伏が三庄町千守の土井医院に寄寓していたこと、その分院が三庄町南部の小用に. あったことを知識として持っていた上で、「本院は船着場から十丁ほど離れ」(1丁を約109mとする と、10丁で1km強。本稿末尾に置いた国土地理院1/25,000地形図「備後土生」で測ると土井医院か ら小用港までは直線距離で1.2kmほどで・ある)という記述を手掛かりに地図と照合して、ようやく、. 文中の「三ノ庄の港」というのは、小用の港を指すと推測することになろう。「靹ノ津付近」でも、 これらの地理的関係が十分に明瞭になっているとは言えないのである。. ともあれ、林芙美子は『続放浪記』で牧歌的農村風景に囲まれた因島と造船工業で栄える因島との 両面を提示していたのだが、井伏は、牧歌的農村地域に焦点を合わせることに急で、造船業で栄え、. それに関連する歓楽地域を抱えた因島のもう一つの面については三十年間に亘ってほぼ口を嘆んで来 たし、その存在について言及することはあっても(先に述べたように因島に触れた井伏の回想記・随 筆類は約二十篇あるが、その存在について触れた回想記・随筆類は、ここに引いた「因島半歳記」「靹 ノ津付近」の二点にとどまる)、その所在地と井伏が暮らした地域との地理的関係は曖昧さを残し、. 一8一.
(7) 井伏が暮らした場所(土井医院)からは距離があったように書いて来たように見えるのである。. 因島は井伏作品で言及されることが多い。しかし、特に大正末年に因島に滞在した体験を語る回想 記・随筆類に描き出されるく因島〉を、一歩踏み込んで地理的に再現しようとすると、どこか呑み込 みにくいところが残るのである。また、大正末年の滞在を語る際に登場する因島と、郷里疎開中に訪 れた作品に描かれる因島とでは、その表象に大きな差がある。. そこで、本稿では、井伏滞在時期(大正10〔1921〕年秋から翌大正11〔1921〕年春)に絞って、そ ちもり の頃の因島あるいは三庄町が、実際にはどのような地域であったのか、また、曖昧だと指摘した千守 こ よう. ・小用といった因島在島中の井伏の生活空間の実態はどのようなものであったのか一これらの点に. ついて、現地踏査と周辺資料から得た結果を報告し、井伏作品における因島の表象の特徴を検証する ための資料としたい。 ちもり こよう じんでん. 2、千守から小用・神田へ一尾道市因島三庄町の現況一 ちもり こよう かろうと. 前節では、千守・小用・家老渡などと三庄町内の地名(字名)を挙げた。実は、井伏の回想記・随 筆類にこれら三庄町内の地名(字名)は一度も書かれたことがない。そのため、井伏が描く三庄町内 の地理的関係が非常に曖昧になっていたのだが、現在の地形図・空中写真などによって、井伏の滞在 場所とその行動の跡を確認しておこう。. 末尾に置いた国土地理院1/25,000地形図「備後土生」(昭和53年改測/平成18年更新。平成18年6 月1日発行第1刷)や、「国土画像情報(カラー空中写真)」(国土交通省〔整理番号CCG−81−4/撮影年 度昭和56年/撮影コースC4C/写真番号15〕)、「国土画像情報(カラー空中写真)」(国土交通省〔整理番 号CCG−74−6/撮影年度昭和49年/撮影コースC21/写真番号32〕)等でも、井伏が住んだ千守と、「因島半. 歳記」に「港のわきに相当な規模を持つた造船所」があると書かれた小用、「更に大規模な造船所や 船渠がある」土生町や、当時の大阪鉄工所因島工場(注9)が確かめられる(地図・写真などは印刷の 都合上モノクロとし、また、必ずしも原寸とは一致しない)。. 土井医院は、現在の千守バス停留所近くに建物が残っている。地形図の上端に「千守」の文字が見 える。その「千守」の文字の下方にある城趾記号の右下(南東)で、西から来る市道土生三庄線が、. 海岸線に沿って走る県道西浦三庄田予予に突き当たって、三叉路をなしている。この三叉路傍に現在 の千守バス停留所がある。この千守バス停留所脇から北へ分岐して県道に平行する細い道を、「千守 …. 一9.
(8) 道路記念碑」(地形図上では記念碑の記号で示されて. いる)に向かって50mほど歩けば、旧・土井医院があ る。前頁の写真(2007年1月8日撮影)では、中央正 面が千守バス停留所の「通学児バス待合所」、カーブ ミラーが設置されている防波護岸沿いの道が県道西浦 三庄田熊線、「通学児バス待合所」の向かって左脇道 奥に旧・土井医院の建物が残されている。. 先に引いた「難肋集」に「北の部屋は城山に面し、. 蜜柑畑や除虫菊の畑のつづく岡が見えた。城山はむか し和冠がここを本城にしてみたといふことで、小高い 岡になってみる。岡の頂上にのぼると周囲の岡の切れ めから各方角の海が見え、海賊の本城としてはまこと に好都合な場所であったらうと思はれる」とあった。. これが城趾記号で示された千守城趾である。圏点を附 した城山というのは、標高79,2mの高さを持つ、この 丘の固有名である。写真では、「通学児バス待合所」. の奥に見える二階建ての民家と、木々が疎らに生えた 背景の山との問に、やや黒く写っている山影が城山の. 東端である。土井医院から50mほど北のところで城山 へ続く小道が分かれ、現在では左上の写真(2007年1 月8日撮影)に示したように尾道市教育委員会による. 勝磁.. 難. 「千守城跡 (頂上まで百五十米)」と表示する道標. と案内板が立っている。また、城山北国から安楽寺を 経て頂上へ至る登り口があり、案内の道標も蜜柑畑の. 中に立っている。ただ、いずれの道を通っても頂上へは急峻な坂道を登ることになる。左下の写真(2007. 年1月8日撮影)が現状で、倒木が覆い被さる狭くて急な坂道である。 さて、地形図に戻って、千守から小用に向かって南下すると「室ノ内」という地名表示の右上、長 く北西に突き出た防波堤がある。その根本に工場らしい大きな建物が見えるが、これは昭和43〔1968〕 年にこの地に移転してきた石田造船建設株式三相である。石田造船の創業そのものも大正12〔1923〕. 年、すなわち、井伏が因島を離れた後である。「因ノ島一瀬戸内海の十一」(「信濃毎日新聞』昭 和7〔1932〕年10月23日∼24日)等に描かれた造船所と誤解されそうだが、念を押しておけば、井伏 滞在時にこの規模の造船所がここにあったわけではない(注lo)。. その「室ノ内」の文字の左上、ホームベース状に見える一士が興浜で、大正4〔1915〕年に廃止さ れた塩田の跡地である。現在は市営住宅等が建っているが、井伏滞在時は塩田跡地として利用されな いままに残されていた模様である(注m。. 千守から乗車するとバスは地蔵鼻(三ヶ崎)の山塊を東側に見つつ県道を南下する。千守バス停留 所から同じ三庄町内の小用バス停留所(県道が直角に曲がる所)まで、所要時間は5分ほどである(途 中数箇所の停留所があり、また、道路も狭いので実際の走行距離は長くない)。「室ノ内」の文字の下 (南側)の道路際に軽車道を示す短い実線がある(実際は堤を兼ねた軽車道である)。掲げた地図で. は見難いが、この堤の所が「室内池」であり、この室内池と三期中学校停留所の間(地形図では「平. 10一.
(9) 木」の文字の、県道反対側)が赤崎と呼ばれ、かつて、常盤座という劇場が建てられていた。 ひらきじんでん 「平木」と「小用」の文字の中間辺りで県道から逸れて、「神田」の文字の方へ向かうのが平木神田 じんでん. 道路である。この道を行けば、後述する神田の旧・池政旅館前に出る。なお、この道路は井伏滞在時. には既に改修を終えていて(神田側に大正8〔1919〕年5月建立の「平木神田道路改修記念碑」があ る)、井伏が神田に直接向かう場合は、この道路を利用できたと思われる。. 「因島半歳記」に「この町には港のわきに相当な規模を持つた造船所がある」と出て来る港(小用 港)には、地形図・空中写真でも防波堤が設けられているのが分かる。「相当な規模を持つた造船所」. とはこの小用港に隣接する大阪鉄工所の「備後工場」(大正11〔1922〕年1月からは「三庄工場」と 改称。本稿では、以後、備後工場と称する)を指す(注12)。「岡の上のスケッチ」(『作品』昭和6〔1931〕. 年1月)や「因ノ島一瀬戸内海の今一」(r信濃毎日新聞』昭和7〔1932〕年10月23日∼24日)で 丘の上から眺められたのは、この大阪鉄工所備後工場以外には想定されない。二つの空中写真では整 然と並ぶ30棟弱のブロック建築住宅が見える所が、大阪鉄工所備後工場跡地である(現在は、日立造 船関連の住宅や生協売店、日立造船因島工場建設廃材保管場所、介護老人福祉施設等となっている)。 この備後工場跡地の道路を挟んだ反対側、山が迫るまでの間(地形図で建物密集地を示す斜線部)に、 後述するように旅館・料理屋・芸妓置屋・検番などがあった。 いつはしら. 小用の五柱神社(地形図で神社の記号で示された地点)附近から西南西の大阪鉄工所備後工場跡 地方向を撮影したのが、上の写真である(2006年2月24日撮影)。 た お 写真右側から迫り出した丘(この丘の字は「田尾」である。写真では、丘の上に観自在寺の建物が. 見える)が小用と神田を分けていて、手前が小用、丘の向こうが神田である。(なお、この写真の手 前右端に、2階の窓にクーラーの室外機が見える民家が、旧・土井医院小用分院である。民家の前の アスファルト舗装の狭い道〔県道西浦三庄田熊線〕をバスが通る。)その神田を過ぎて、地形図の「家. 老渡」の文字の上方、工場を示す記号と道路との間に、旧・家老渡(浪速/浪花)遊廓の建物が現在 も残っている。. あんこう. 平成18年更新地形図上の地名でいえば、家老渡・安郷までが当時の三庄町で、「日立造船所」と表 示されているのが、「海沿ひの岡を越えると土生町といふ港町があって、ここは三ノ庄の三倍も四倍 もの人口で、更に大規模な造船所や船渠がある」(「因島半歳記」)と紹介されている、当時の大阪鉄. 11一.
(10) 工所因島工場である。. なお、拙稿「井伏鱒二「岬の風景」私注稿一木津川丸と大阪商船一」(本誌第17号、2006年1 月25日)では木津川丸の入港先を三思とだけ記載していたが、千守近辺の本村ではなく、小用港であ ったらしい(注13>。注5に引いた『ふるさと三野』は「明治三十年代(一八九七)の初めころ合資会社. 住友鉱業所は愛媛県新居浜町(市)から今治経由尾道行の貨客船(約一五〇「トン」の蒸汽船)の運 航(一日一往復、大正のころになると二往復)を始めたので、村上卓一氏(六区平野屋)」が「小用 港に寄港方を同社に陳情、その結果聞き入れられ間もなく実現した」と伝える(100頁)。ただし、『ふ. るさと三彩』は住友汽船の運航年次等に関して多少事実と違うところがあるようだ。拙稿で述べたよ うに新居浜一尾道線の運航開始年は明治26〔1893〕年であって、同線の三庄寄港開始は明治35〔1902〕. 年8月と推定され(因みに、注12に述べたように、小用における備後船渠株式会社の創設は明治34 〔1901〕年6月である)、また、明治38〔1905〕年においては三野(小用)へは2往復併せて4便の 寄港が確認されることを附記しておく。. 3、大正末年頃の御調郡三下町 前節では因島の現状を中心に述べたが、井伏滞在中の因島・三庄町はどのような状況にあったのだ ろうか。大正10〔1921〕年あるいは大正11〔1922〕年当時の地図はないが、井伏滞在を間に挟んだ二. 枚の陸地測量部地形図(国土地理院所蔵)で探ってみたい。その二枚目は、次頁右上の1/50,000地 形図「瀬戸田」(明治31年測図、大正14年8月30日発行)と同右下の1/50,000地形図「土生」(明治31. 年測図、昭和3年修正測図、昭和7年1月30日発行)である。二枚の地形図を比較すると、三十年の 問に、小用・神田で生じた人口膨脹が狭隙な地域に収まりきらず、本村へ向かう道沿いに及んでいる 様子が窺える。. 地名や地図に加えて、空中写真を参照すれば、三洋町が天狗山(浅問山)から地蔵鼻(三ヶ崎)に 至る山塊によって、地形上も交通上も、北部と南部に隔てられていたことが理解されるだろう。 明治31年測図では、千守から南下すれば、もはや室ノ内近辺で家屋が途切れ、田が広がっている。. 小用で造船業が盛んになるまでは、三庄町北部と南部を繋ぐ道路は十分に整備されず(海上交通が陸 上交通よりも重要であったにしても)、この明治31年測図では、現在のバス通りも里道(聯路〔片側 破線で示されている〕)として表示されている。そして、この家屋が途切れた辺りから神田にかけて、 ひら たお. この二つの地図には示されていないが、平木(開き)・田尾(峠〉といった地名が残っている。. 明治31年測図においては、北部・南部ともにほぼ道路沿いに集落が形成されている様子が見えるが、. この時点では、まだ北部の方に家屋が広く分布し、現在でも北部を「本村」と呼んでいることで分か るように、北部が三庄村の中心と認識されていたようである。地図に示された村役場(字政所1741番 地)はもちろんのこと、神田にもう一つ設置されるまでは村内唯一の郵便局(当初は二区201番屋敷。 のち「三区1723番地の2」に移転。現在の因島三庄郵便局は「三区1723番地の5」に所在)も「本村」 に置かれていた(注14)。. しかし、造船業が盛んになるに従って、南部でも家屋が増え、昭和3年修正測図では北部と拮抗す るかのような状況が出現している。空中写真からも推測されるだろうが、商店街・普通家屋が11頁の 写真に見える観自在寺がある丘を取り巻くように現われ、さらに、北へ伸びる道路沿いにも家屋が出 現している。この現象は、南部の人口増の圧力が、急傾斜地は避けて、北へ伸びる道路沿いの比較的 傾斜の緩やかな地に居住地を求めさせたことを意味する。. 一12一.
(11) 三郎町南部の人口増による新 たな中心地の形成の様子が、昭. 和3年修正測図における普通家. 2一・4艦 轟. 屋の増加のほか、学校・郵便局. 露σ 鞭・. の出現にも読み取れるのは言う. 懸張. ’ 晒 職. までもない。特筆しておきたい. 鑓嚇 匁∂. のは、網掛で示された商店街が 出現していることである(昭和. 3年修正測図において、網掛で. 躍渕・顯《. 1壷. き. } 双 鵡準 嚢鮭. ノ の. 魯 蔽 @ 曳 卿』. 鵜嘉. ・畔. 示されているのは「商賃連撫」. 纂駕. すなわち商店街を表わす(注15))。. 妻蘇総. N ぎ. 》. 明治31〔1898〕年月図の「三庄 〆. 村」の表示が、三十年後の昭和 3 〔1928〕年修正測図で「三ノ. 庄町」と改められたとき、南部 の繁栄に引きずられるかのよう に南に移されていることが、こ. 峯. 獣 瀦1. タ. {ノ 曝 ’. ン. 、 め. 劉 κ. 窪. 趣. 巻 嫡「》繍飾輸齢^. うした状況を象徴していると評し てよいだろう。. 盛業を迎えた備後船渠株式会社 の請願によって、神田には、巡査. 派出所・郵便局が設置され る(注16)。それだけではなく、昭. 和3年修正測図では、北部にもな い商店街が、小用・神田には出現 しているのである。. 轟 響 頑」 験P. なお、昭和3年修正測図に避病. 盛ぴP. 院及隔離病舎の記号が見えるが、. φ 墾. これは明治36〔1903〕年設立の後、. 一. 験. 大正9〔1920〕年に改築された隔 離病舎である(注17)。. 模式化された地形図が土地利用 の詳細を示し得ないにしても、平 成18年更新地形図と同様、明治31. 等測図・昭和3年修正測図におい ても、千守周辺に果樹栽培を示す記号が散見されることは注目しておいてよい。井伏が「難肋集」で 描いていたように、千守周辺には果樹が広がっていたことを意味する。. 明治31〔1898〕年測図と対比しながら昭和3〔1928〕年修正測図から読み取れることを述べてきた が、井伏滞在(大正10〔1921〕年∼大正11〔1922〕年)から数年後の地形図を以て井伏滞在中のこと を計るのは蕪雑だとの誹りを免れがたいかも知れない。そこで、次頁に、田丸実太郎『因島案内」(二. 一13一.
(12) \㌔. ノ. ㍉〆. こ「’. ≧ 匁.^. 諦ベノ. 島案内社、大正8〔1919〕年3月10日)巻頭の「因島三庄村備後船渠工場及附近市街平面図」を掲げ ておいた。小用では昭和3年修正測図の方がさらに市街化が進捗しているところが見られるが、この 市街平面図も、井伏滞在以前から三園町南部が既に市街化されていた状況を十分に示して得ているだ ろう。. 「難肋集」にあった芸者小太郎の挿話以外、一変した「操行」について井伏自身は殆ど語って来な かったが、それに類する因島滞在中の動静が垣間見られる周辺の証言もないわけではない。土井冨久 江(土井医院院長・土井浦二の長女)は、「(井伏が一前田注)小用の方にいた芸者さんと仲良くな られたなどということも家人からちらと聞いたことがございます」と語ったという〔注18)。また、土井. 医院を手伝っていた高橋智恵子の談話には、「分院の方で仕事をしていると、折古の浜(電柱神社東 ママ 側の海岸一前田注)に魚釣りに来たといっておいでになっていました」、あるいは、「あのころ三庄村 ママ 神田(じんでん)の池政旅館に、高尚芸者と呼ばれるほど見識の高い芸達者な『お玉さん』という芸 者が居て、井伏さんもその芸者に三味線や小唄を習われていたようですが、お上手だったですよ」(注19> おり こ. といった、小用・折古・神田に出歩いた井伏の姿が登場する。. 「因島三庄村備後船渠工場及附近市街平面図」においては、先に触れた平木神田道路の神田側、現 「びんご倶楽部」の敷地に、高橋談話で言及された「池政旅館」の名前が文字注記されている。平成 18年更新地形図では、現・因島三庄南郵便局脇の道路を山側に向かって北西へ80m程行った所である。 注11に引いた『目で見る尾道・三原・因島の100年』(112頁)は、この道路を撮影した写真を収載し、 「この道路は南端に備後船渠の正門があり、北端に料理・宴会・宿泊の万事整った備後クラブ(写真 中央)があり、大正中頃は三弦の音賑やかな歓楽街でもあった」と解説を加えている(注20)。. 「小用の方にいた芸者さん」と「お玉さん」とが同一人物か否かは分からないが、それらの女性た ちや、「難肋集」に出て来る芸者小太郎を知っていたということは、井伏が土井医院小用分院のみな らず、神田まで足を伸ばしていたということでなければなるまい。そして、「因島半歳記」や「靹ノ. 14.
(13) 津付近」に触れられていたように、その向こうの土生町には因島繁栄の基礎である大阪鉄工所因島工 場が所在して’いた。土生町は、大阪鉄工所の事務所・病院・職員住宅・職工住宅だけではなく、警察 署・劇場・映画館・旅館・商店街を具えて、大阪鉄工所の企業城下町というべき様相を呈していた。 その土生町の手前には、家老渡(浪速/浪花)遊廓も存在していたのである(注2D。. この神田・家老渡の歓楽地域の成立時期について、先に触れた『ふるさと三庄』は、大正7〔1918〕. 年8月に家老渡に浪速遊廓が出来て(35頁、271頁)、全盛期には妓楼14軒、遊女は100人を超え、遊 客は船員が80%、工員が15%、一般が5%くらいだったと伝える(35頁)。また同書は、時を同じく して、神田に旅館・料亭・芸妓置屋・検番も出来たとし(33頁∼34頁、271頁)、昭和17〔1942〕年12 月にこれらの遊興施設は営業を停止したと記している(34頁、35頁)。. 神田に歓楽施設が出来上がったのが、『ふるさと三拝』が言うように家老渡(浪速/浪花)遊廓開 設と前後する大正7〔1918〕年8月頃であるとすれば、井伏が三庄町に住み始める三年ほど前のこと である。その区域は極く限られていて、海岸線の方角は造船所によって阻まれ、残る三方は山で区切 られた狭隙なものであったにしても、その一劃だけは市街とも称し得るような繁華なものであったよ うだ。. また、常盤平なる劇場施設があったことについても、渥ふるさと三庄』は次のように記している。 もく. 常盤座は赤崎地区の通称杢左衛門の地に設立された島しょ部最大の劇場で、ラジオやテレビが 普及していなかった大正の中期から昭和の初め頃、三庄唯一の娯楽の殿堂として栄え、現在の公 民館的な町民集会場であり憩いの場であった。大正六年(一九一七)五月、土生の大竹屋こと宮 地兵三郎氏が土生塩浜地区に帝国座を、三庄の有志の協賛を得て赤崎に常盤座を設立し、そのコ ケラオトシ(落慶式)に関西歌舞伎の中村雀右衛門、嵐歌升ら四十余名が来演した。大阪道甲骨 の角座と同型設計で、総工費一万二千余円で完成したという。地形石には楠見米太郎氏、宮地要 どんちょう. 平氏らの工事者の名が刻まれている。大阪鉄工所(日立造船)が寄贈した鍛帳、各地の有志が寄 進した揚げ幕、引き幕などが保存されていて当時の盛況を物語っている。 (36頁). 『ふるさと≡:庄』が赤崎地区にあったと記録する常盤座の建物は現存しないが、先に触れたように 三庄中学校の、県道西浦三庄田熊線を挟んだ向かい側、室内池の南に建てられていた(注22)。. 以上のように地図や周辺資料を参照すると、大正7〔1918〕年前後から急成長してきたく街〉の要 素を抱える三庄町の様相が浮かび上がってくるわけで、それは、次頁の「図1 三洋町概念図」のよ うに模式化できるだろう(注23)。. 田園風景の中に柑橘類が香る千守附近から真っ直ぐ南下すれば、まず、歓楽地域の始まりともいえ る赤崎の劇場・常盤座があり、更に南へ足を運ぶと、やがて、三庄町南部に繁栄をもたらした大阪鉄 工所備後工場、土井医院分院や港・商店街のある小用に着く。その港からは尾道だけではなく、住友 汽船によって今治・新居浜へも定期航路が通じていた。途中から分かれて平木神田道路を行けば入渠 船船員や造船所従業員を相手にした芸妓置屋・料理屋・旅館等がある神田の一碧が待つ。さらに神田 の先には因島唯一の免許地・家老渡(浪花/浪速)遊廓がある。. 果樹の育つ長閑な田園地域からほど遠くないところに成立した新興歓楽地にあっては、そこから一 歩外れれば、傾斜地には柑橘類が植わり、平野部には田畑が広がっていた。逆に言えば、井伏が住ん だ同じ三半町内で牧歌的田園地域からほんの少し足を伸ばした所に、芸妓置屋・旅館・料理屋等が営 業していたのであった。造船学が第一次世界大戦で俄に活況を迎えると、このように緩衝地帯を殆ど. 15.
(14) 図1 三在町概念図. 訓…噂’口’o圓’……’層”●贈、・%. .〆’. oO ◆◆■.. ・9 /’. 繍 贈 ・ヒ. ξ. ○■◆◆◆ oO■◆ リロロロロのロ の コ. ■A唇 8鱒●. ∼. ノ土. / /’. ㌃.巽 _ ・◆◎. .宗 鱒●. 小用. ・■.. ...諾’. 、・・,..馳.. _..、糊“日脚.. 備後工塙〔神田・小用沿岸】. 荘町. 置くことなく市街地・歓楽地域と田園地域とが極く僅かな距離で接するという状況が生じるのは、平 野部の少ない三庄町南部にあっては当然のことであったし、また、それが一つの特徴であったと考え られる。. 4、大阪鉄工所備後工場と御調郡三庄町(村). 昭和3〔1928〕年修正測図に見られる三庄町南部の変貌が、井伏滞在より以前に生じていたらしい ことは、『因島案内』掲載地図等によって示し得たと思う。だが、大正8〔19ユ9〕年刊行の『因島案. 内』掲載地図や昭和3〔1928〕年号不測図に捉えられた上庄町南部の姿が、井伏が滞在していた大正 10〔1921〕年から大正11〔1922〕年頃のものと、どの程度まで重なり得るのかという点については記 しては来なかった。. このような僅かな年次の差まで言うのは、井伏が因島に滞在したのは第一次世界大戦(大正3〔1914〕. 年7月28日∼大正7〔1918〕年11月11日)による好況が終息、した後のことであり、因島の基幹産業で あった造船業にも大きな変化が生じていた可能性があるからだ。事実、注12に記したように、三庄町. 南部繁栄の唯一の基盤であった備後工場は大正15〔1926〕年5月一時閉鎖され、昭和13〔1938〕年4 月に再開されるという経過を辿っている。昭和3〔1928〕年修正測図は、備後工場一時閉鎖から数え て三年目に入っていた時点の地形図なのである。 造船所の盛況が三庄町南部の急激な変容をもたらしたのだが、実際にそれがどのようなものであり、. また、井伏滞在中には、どのような動きを示していたかということについても検証しておきたい。曖 昧な物言いではなく、具体的な数字を示しつつ、井伏が暮らした因島の姿を捉えたいと思う。 先に、本節での目論見を述べてしまえば、井伏が滞在していた大正10〔1921〕年から大正11〔1922〕. 年頃は、まだ好況の余韻が残っていて、備後工場一時閉鎖中の昭和3〔1928〕年修正測図当時よりも むしろ盛んであったことを示すことになろう。. 因島にあった備後船渠株式会社や大阪鉄工所については注12に引いた『広島県史丑近代2通史Wの 「造船工業の発達」(145頁∼153頁)に詳しいので、そちらに譲る。本節では、因島に所在した大阪. 一16.
(15) 鉄工所の職工数や現住人口の推移を押さえることで、可能な範囲で、第一次世界大戦後の三庄町南部 の状況について確かめておきたい。 広島県知事名義の一通の書類から始めよう。広島県知事から内務大臣等に宛てた文書(大正11〔1922〕 年7月11日附)(注24)である。そこでは、因島に所在する大阪鉄工所の職工大量解雇が与える影響につ いて、. 両工場(本文書中では咽島工捌と「三庄分工場」と表記されている 前田注)ノ所在地タ ル因ノ島ハ御調郡ノ南端二位セルー島喚ニシテ土生町井二三庄ノ各商工業者ハ殆ント両工場職工 ヲ唯一ノ得意トシ営業ヲ経営セル関係上今回ノ解雇二関シテハ多大ノ影響ヲ及スモノノ如クー般 二悲観ノ念二目ラレ諸種ノ敢引漸次沈滞シツ、アリ. と報告している。裏返せば、これ以前は(井伏が因島を去るのは、これよりも三四箇月前のことであ. る)、大阪鉄工所の二つの工場で働く職工たちを相手に「沈滞」しない取引がなされていたと読み取 ってよいだろうし、また、土生町・三三町の商業がこのこつの工場に大きく依存していたことは今更 言うまでもない。. 実際には、どれほどの人数が細工場. 表1 因島工場・備後工場職工数. で働いていたのだろうか。大阪鉄工所 大阪鉄工所因島分工場備後船渠/大阪鉄工所. 因島工場及び備後工場(大正8〔1919〕. 年6月までは備後船渠株式会社)の職 工数を、その数が記録されている『広 島県統計書』から抜き出し(*を附し た年次のもので、各年とも12月31日現. 在の数値)、他の資料から多少補っ た(注25)のが、右の「表1 因島工場 ・備後工場職工数」である。次頁の「図. 2 因島工場・備後工場職工数グラ フ」は、その内の『広島県統計書』掲. 大正2年* 大正3年* 大正4年* 大正5年* 大正6年* 大正7年10月 大正7年* 大正8年*. /因島工場(±生) @ 備後工場(三庄) 450 350 560 232 560 455 3,800 6,420 5,917 5,829 3,867 1,962 2,356. 大正咋* 大正11年1月 大正11年5月 大正11年7月 大正11年lI月. . 2,156 1,505. 1,017. 954. 一. 1,434 1,126. 781. 一 }. 639 600. 合計. 800 792 1,015. 4,817 7,374. 一. 7,263. 4993 2743 一 一. 2,756. 一. 載の数値だけをグラフ化したものである(大正9〔1920〕年までの『広島県統計書』には事業所毎の 職工数が掲げられているが、大正10〔1921〕年以降はそれを欠いている)。. こうした数字は、注25でもその異同について触れたように、曖昧な要素を基本的に含まざるを得な いようだが、従業員の総数は、表やグラフに示した職工の数を上回っていたらしい。例えば、大正7 〔1918〕年10月の職工数の根拠とした「戦時船舶管理令による従業員届出数(大正7〔1918〕年10月 10日現在)」(注26)は、因島工場に関して、. 職員数366人 職工数5,917人(造船4,445入、造機1,472人). 人夫1,037人 職工人夫合計6,954. 人 従業員総計7,320人. という数字を掲げている。ここで職工」というのは全従業員の一部であって、従業員数にはそれ以 外に「職員」・「人夫」が加わる。大正7〔1918〕年10月に限っても、「従業員総計」は、「職工」の1.24 倍になっている。. 一17一.
(16) 人. 図2 因島工場・糟後工場職工致グラフ. 7,000. 6,000. 5,000. 一〇一大阪鉄工所因島分工場/因島工場(土生}. ォ備後船渠/大阪鉄工所備後工場(三庄}・. 4,00⑰. 3,0GO. 2,000. ユ,000. o. 大正2年. 大正3年. 大正4年. 大正5年 大正6隼 大正7年. 大正8年. 大正9年. そうした細かな事情は措いて、表1を見る限り、大正11〔1922〕年7月の大量解雇までは、因島工 場と備後工場の両工場を併せて、『広島県統計書』にある大正9〔192Q〕年12月末日の職工数をほぼ 維持していたようだ。すなわち、井伏が滞在した大正10〔1921〕年秋から翌大正U〔1922〕年春頃ま での間は、大阪鉄工所の職工数に大きな変動はなかったと見られる。. 因島工場の場合は、3,000総噸級船台3基を始めとした拡張工事が大正4〔1915〕年末にほぼ完成 し(大正5〔1916〕年11月完工。因島船渠が明治41〔1908〕年に工場を閉鎖した際には石造船渠3基 と附属施設があった。大阪鉄工所が買収して明治45〔1912〕年3月操業再開)、さらに、翌大正5〔1916〕. 年3月に10,000総噸級船台3基新設ほかの:更なる拡張工事に取り掛かり、同年内にほぼ完成を見てい. る(大正6〔1917〕年6月完工)(注27)。大正5〔1916〕年・大正6〔1917〕年に見られる、因島工場 職工数の急増は、このような工場の拡張の結果である。拡張策を支えたのはいうまでなく、第一次世 界大戦による船腹不足である。大阪鉄工所因島工場と職工を奪い合っていた当時の備後船渠株式会社 (注12に述べたように、大正8〔1919〕年6月大阪鉄工所が買収・合併し、同年7月から備後工場と 称する)も、大正4〔1915〕年・大正5〔1916〕年の両年は、それぞれ前年に倍する数の職工を雇用 し、大正7〔1918〕年にピークを迎える。第一世界大戦休戦翌年の大正8〔1919〕年末には、因島工 場・備後工場ともに大正5・〔1916〕年末の水準に下がる。. 当然のことながら、職工数急減の最大要因は解雇によるものであって、『戦前の因島労働運動史』 掲載「年譜1(注28)は、. 大正8〔1919〕年2月20日. 備後船渠株式会社 150名解雇. 2月25日. 因島工場 60名解雇. 3月5日. 因島工場 350名解雇. 3月8日. 因島工場 1,330名解雇. 12月6日. 因島工場 200名解雇. 18.
(17) と、備後船渠株式会社と大阪鉄工所因島工場とを併せて、大正8〔1919〕年中の計2,090名に及ぶ職 工の解雇を記録している。. ただし、『戦前の因島労働運動史』本文30頁には、大原社会問題研究所編『日本労働年鑑』(大原社. 会問題研究所出版部、大正10〔1921〕年7月28日、164頁。覆刻版第2集/1921年版)から、大正9 〔1920〕年12月6日の職工約200名戯首、23日の同980名引首の件が引かれている(『戦前の因島労働 運動史』では引用の形式を採っているが、必ずしも原文通りではない)が、この「年譜」には落ちて いる。また、この「年譜」では、大正9〔1920〕年に掲げるべき工場幹部の辞職が、誤って大正8〔1919〕. 年の項に記載されている。これらを勘案すると、「年譜」にある大正8〔1919〕年12月6日因島工場200. 曲解雇というのは、大正9〔1920〕年12月6日の誤りかと思われる。. F日本労働年鑑』に拠って再度計算すると、解雇者数は大正8〔1919〕年中に計1,894名、大正9 〔1920〕年中に計1,180名となる。さらに附け加えれば、『日本労働年鑑』(大原社会問題研究所出版. 部、大正11〔1922〕年7月18日、109頁。覆刻版第3集/1922年版)は、大正10(1921〕年3月中旬 に因島工場職工200名が解雇されたことを記録している。. かくして、大正9〔1920〕年末においては、因島工場で最大時(大正6〔1917〕年)の約30%、備 後工場では最大時(大正7〔1918〕年)の約54%の職工数に落ちている。労働者を解雇しながら、優 秀な大手造船所として、大阪鉄工所そのものは第一次世界大戦後の不況を堪えていたようであり、大 正11〔1922〕年に入っても、ほぼ大正9〔1920〕年の職工数を維持していた(すなわち、井伏滞在中 には記録に残るような大量の人員整理が実施されなかった)のだが、それは、既に大正8〔1919〕年 ・大正9〔1920〕年の大量解雇、さらには、大正10〔1921〕年3月の200名の解雇を終えていたとい うことに過ぎない。別言すれば、この小康状態は、やがて訪れる大量誠首・事業整理の前段階であっ たのである(注29)。. ただし、大阪鉄工所が堅実な経営を目指していたことは述べておかなくてはなるまい(注30)。大戦景. 気に乗った無謀な配当や投資に奔ることはなく、海軍艦艇の建造にも依存しなかったので、軍縮によ って経営困難に陥った他社とは相違するところがあるようだ。当時の造船業に関わる記事を、神戸大 学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事(http:〃www.lib.kobe・u.acjplsinbunlindex.htm1)から拾. ってみると、強固な経営基盤を持った大阪鉄工所などの大手造船所が生き残って行く様相が見えてく る。. 大正8〔1919〕年の時点では、造船業に関わって、新聞各紙は、一様に前年11月の休戦以来の不況、 また、造船所の使用人の削減などを報じているが、それは群小造船会社の淘汰に留まり、大型鋼船を. 中心とする大規模造船所が強みを発揮するだろうと観測している(例えば「我が造船業の整理は一段 落」、『大阪朝日新聞』大正8〔1919〕年5月1□日、日興部分不明)。事実、逓信省の調査に基づいた. 『中外商業新報』(大正8〔1919〕年7月21日)掲載「上期造船実績/進水六十九隻」という記事で は、大正8〔1919〕年上半期の実績が噸数において前年同期を上回ったことを報じている。以下、大 阪鉄工所の出て来る記事を中心に抜き出してみよう。「戦後の造船事業」(『大阪新報』大正8〔1919〕. 年8月14日)は、「今本邦に於ける造船所としては三菱造船所、川崎造船所、石川島造船所、大阪鉄 工所等其の一流のものと算せられ代表造船所視され本邦に於ける有数の船舶は勿論今や海外殊に仏国 方面より頻々として註文到来するの傾向に在る」とし、「造船業の現状/註文復活の徴」(『時事新報』. 大正8〔1919〕年8月27日)は、 休戦後一時我国船舶界の沈静に依り小造船所の閉鎖又は休業を為したるもの勘からざりしも基礎. 19一.
(18) 箪固なる大造船所にありては依然として事業を継続し相当の新造船を為しつ・ありしが最近斯界 の復活に依り大造船所は新造註文に、仕人船に益多忙の傾向あり. .と造船業界の状況を総括し、大阪鉄工所においては、因島工場で竜骨男袴済が2隻・IL800総噸、竜 骨未据附が7隻・43,500総噸、備後工場で竜骨鋸目済が1隻τ4,500総噸、竜骨未据附が1隻・4,500 総噸あって活況を呈していると報じている。「造船界の活況/不良分子淘汰」と題する「中外商業新. 報」の記事(大正8〔1919〕年9月18日)は、「実力ある造船所」が拡張策を採った・例として大阪. 鉄工所の備後船渠買収(大正8〔1919〕年6年11日)を挙げている。また、大正8〔1919〕年の造船 界を回顧する「造船好況永続/好材料弗々出現」(「時事新報j大正8〔1919〕年12月17日)は、大正 8〔1919〕年春の不況を顧みつつも、.「「流造船所の如きは少くも来年上半期若くは年一杯の註文を 握り居るの盛況なり」と言い、「・両年中に大不況時代到来するが如き事はなかる可く或は相当永く 好況を持続するやも測られずと思はる」との観測で記事を結んでいる。. しかし、このような希望的観測は裏切られ、大正9〔1920〕年に人ると修繕船減少と入渠料ド落、 また、新造船発注減少と船価下落といった造船の不振の報道が相次ぐ。例えば、r大阪時事新報」(大 正9〔1920〕年7月16日)は「造船界愈行詰る/新規の註文船無し」という記事を掲げ、大正9〔1920〕 年4月以来の金融恐慌の影響が加わ?て、いよいよ造船業が逼迫してきた状況を報じている。ただし、. 「中外商業新報」(大正9〔1920〕年8月13[)は、見出しには「造船所は閑散/海運不況影響」と 掲げながらも、丁大造船所は何れも明年上半期又は明年・一杯の注文を有し」ているとして、三菱・横 浜船渠の受注状況に具体的に触れ、次いで「浦賀、大阪鉄工所等も夫々相当の注文を握り居る上海軍 拡張に伴ふ艦船の建造の注文をも受け居れば当分操業を中止するが如き状態に陥る事無かる可し」と 消極的な言い方だが、大手造船所に関しては操業持続が可能だと観測している。 そういう観測は必ずしも当たらなかったようだ。大IE 9〔1920〕年の実績を振り返る「中外商業新 報』(大正9〔1920〕年12月28日)掲載「本年造船成績」は、大正9〔1920〕年6月までは毎月ほぼ50,000. 総噸前後で推移していた1,000総噸以上の鋼船進水状況が、7月・8月が30,000総噸代で、9月以降 は20,000総噸代あるいはそれを割り、12月目おいては22,000総噸というr想を出している。すなわち、. 大手造船所でさえ困難な状況が見えて来て、大正9〔1920〕年「前半期に於ては相当の成績を挙げ得 たるも後半期に至り事業甚だしく衰退し」、「造船界は月を逐うて事業不振に赴きつ・あり」としてい る。. 大正10〔1921〕年にみればさ、らに逼卜する状況が伝えられる。大阪鉄工所因島工場を含む人員整理. の報道(「造船の九時間労働」、f大阪毎日新聞』大正10〔1921〕年2月8日)では、浦賀船渠が労働 時間を8時間から9時間に延長し、延長分の割増賃金を支給しないようにしたことを報じた上で、 其他鈴木系の鳥羽造船、播磨船渠、大阪鉄工所の因島、備後橋本汽船の苅藻造船工場等の大会社 が何れも五百名乃至一千五百名の職工大淘汰を行ひ事業の整理縮少に余念もない. と記している (大阪鉄工所因島隠匿に関わる「職工大淘汰」とは、r戦前の因島労働運動史」本文30 頁に引用された大正9〔1920〕年12月6日・23日の計1,180名に上る誠首を指すものだろう)。そして、 「事業の縮小閉鎖職工の解雇は益甚だしからんとして居る」とする報道(「造船不況甚し」、「東京朝. 日新聞』大正10〔1921〕年2月9日。同日の「大阪毎日新聞」にも類似の記事が「造船業益不振」の 標題で掲載)も登場する。大IE 10〔1921〕年1二半期を振り返る「上半期造船界」(r東京朝日新聞」大. 20一.
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