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間接伝達論的論理学 第2部・注釈部(その5)

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(1)

間 接 伝 達 論 的 論 理 学

第 2 部 ・ 注 釈 部 ( そ の 5 )

清 水 茂 雄

Die mittelbare-mitteilungstheoretische Logik Zweiter Teil・Anmerkungen <5>

Shigeo SHIMIZU

Zusammenfassung:IndieserAbhandlungalsAnmerkungenzudermittelbare -mitteilungstheoretiscbenLogik mOchteic九 dasgeschichtliche-logischeElement derPhilosophicHeideggersausft山rlicherortern.

Aber'ich willnich上versuchen,diePhilosophieHeideggersauszulegen.Ieh willdieinderPhilosophieHeideggersliegendedunkleVerrassungerkutern.

I)ieseVerfassungistwesentlichTautologie.

I)ami twirdgezeigt,daLSdiebefremdlicheBestimmtheitderTautologie,die aus"Shingon"entspringt,dieDifferenzzwi Schenden Seinundden Seienden ermdglicht.DieseErlauterungdeslogischenElementesderPhilosopieHeideggers wirddieVorbereitungdaftlrsein,aufdasWesenderLogikHegels2:urtlckzublicken. Keywords:Heidegger(ハイデガー),Logik(論理学),TautOlogie(同語反復)

は じ め に

この論文は 「間接伝達論的論理学」の第二 部,注釈部のための一連の論究の第

5

報であ る.以下の注釈の形式は第

4

報までの ものと 同様である.すなわち,最初の番号は 「注釈 部 ・その1」か らの通 し番号.続 くか っこ内 には注釈箇所を既刊の 「間接伝達論的論理学 ・ 第

1

部」のページと行数で示 してある.その 下のイタリック体表記の文が注釈 される対象 となる.単なる引用文献の指示の場合には, この紀要の執筆要項に従 う.「注釈部」 の意 義については第4報に詳 しく述べてあるので それを参照 してほしい.

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朗哲こる)J ハイデガーの後期哲学の根本語であるEreignis については,すでにこれまでの注釈で幾度か 説明を してあるので,重複 した説明を避 けた いが, ここで

,

「起 こるが起 こる」 とい うタ ウ トロギー (ドイツ語で同語反復を意味する) に関連 させてEreignisの意味する事柄を解 き 明かす ことは,間接伝達論的論理学の理解の ために役立っので若干の繰 り返 しになるけれ どもやや立ち入 った論究を してみたい. 間接伝達論的論理学か ら見 られ る限 り. Ereignisとは言葉の出来言の タウ トロギーの 場面のその場面の内部での思惟の事柄 として 命名されていることは明白である.論理学の

2

0

0

0

4

6

日受理 -

(2)

1-最 も根本的な問われるべき事態 は,すでに他 の注釈で示 したように,主語一述語関係であ るが, この関係の本質とは 「言葉のこと (言)」 をまだ言えないということであり,言葉 とし てはこの関係か ら脱出 したいと思 っているの である. しか し.そのためには,まず, この 関係 において言われているところの 「述語が 先立 っている」 という呼びかけの声に応 じて この関係の述語の側に超越 している述語へと この関係が解消するような言葉の出来言が言 われ始め られなければな らない. これが, 「土曜 日」の時を経験 している 「論理学」 で あり,ハイデガーの哲学の墳位になっている のである.すると, ここに次のような奇妙な 事態が生 じて くることになる. まずは,述語 が主語になって く⊂ることになるが, しか し, それは主語一述語関係のいわば枠組みを維持 してのことではなくなっていて,む しろ, こ の枠組みをいってみれば融かすような論理学 が起 こるのでなければならない.というのも, 超越的な述語 (この語は必ず しも西田哲学の 場所 と同一視する必要はない)が主語の側に 立つ ことはもはや主語一述語関係の固定的な 組立を乗 り越える体勢になったということを 意味するか らである.最 も基本的な主語一述 語関係として

Sは

P

である」 という言明を 取 ると, この関係が

P

P

である」 となっ たときには, もはやそれは前者の関係 と同 じ 関係を意味するのではない. それは

,

「初 め ての経験」,言葉がはじめて経験するよ うな ものになっていなければならない.なぜなら, これまでは一切 は

Sは

P

である」 という関 係の土台の上に成 り立 っていた.たとえば, 我々のまわりの自然界のひとっひとっがすべ て主語 と述語の関係か ら成立 している-すみ れが咲いている,雲が流れている,宇宙が在 る, 一等々,それ らは不思議なことだったの である.だれ も今 までそれ らが

Sは

P

であ る」 という関係において, しか も, この関係 の中でのみ出会われているという奇妙不可思 議に気づかなか っただけなのである.しかし, いまやこのような奇妙なあり方よりももっと 奇妙なことが 「はじめて」経験されたのであ る.すなわち

,「

P

P

である」 という最 も 奇妙で見知 らぬ希な事態が起こったのである. この事態 はかって在 ったことではなく,いま までけっして無かったこと,或る未来的な出 来事に属 しているのである. ・ここで起 きている事態を思惟することは極 めて困難なことである.なぜなら,我々の思 考 は 「かつてあったこと」を思考することし か経験 していないか らである.

Sは

P

であ る」 という関係において思考が活動できるの であるか ら, この関係の解消 となっている事 態 は思考にとっては未知なことになるのであ る.従来的な思考 ももちろん タウ トロギーを 思考することはできる.たとえば

.

「有 るは 有 る」 という命題を思考することはできる. しか し,思考はここで

Sは

P

である

.

」 とい う関係を基盤にして思考 しているのであり, その思考が

P

P

である」を思惟 している わけではない. この関係は自然界で起 こると いうことはあり得ない.なぜなら, 自然の世 界はすべて

Sは

P

である」に支配されてい るか らである.では,自然界を超えた領域, メタ ・フイシカにおいてそれは起 こるのであ ろうか.そこで もまだ

Sは

P

である」 とい う関係を後にする事態 は起 こらない.しかし, 単なる自然の世界と異なるのはメタ・フイシ カの領域においてこの基本的な関係そのもの が問われるようになっているという点である. ここで 「問われる」 とは

Sは

P

である」 と いう論理的な関係を対象的に思考するという ことではな く, この関係自身が自分を問いに 化するということである.そ して. このよう にな って きた とき, そこに必然的な仕方で

P

P

である」 という事態が起 きて くるの である.つまり, このタウ トロギーは哲学史 の内部で,歴史的に起 こるのである. さて

,「

P

P

である」というタウトロギー ー

(3)

2-は形式的にはまだ

Sは

P

である」 という関 係に支配されているように見える. しか し, それは事柄を形式的にしか理解 していないか らであり. もしも. このタウ トロギーがその もの自身において起 きているな らば.そこで は奇妙なことが目撃 されるようになる.あま りよい比境ではないが, このタウ トロギーの 生起の現場はあたかも深海のようなものになっ ていて,人はそこで極めて奇妙な形の深海魚 を目撃するのである. この深海の光景は

P

P

である」 ということを思惟 しているので あるか ら

,「

Sは

P

である」 か らは理解不可 能な言葉の世界を形成する. この世界は理解 されることを拒絶する. もしも. このタウ ト ロギーを

Sは

P

である」の世界で理解 しよ うとするなら,人は深海魚を浜辺で捕まえよ うとしていることになる. タウ トロギーは二つ有 ることになる.ひと つは

Sは

P

である」 という関係の中で意味 を有するタウ トロギーであり, もうひとつは

P

P

である」 という関係そのものが起こっ ているところで意味をもつようなタウトロギー である.後者は

Sは

P

である」 という関係 にとって秩序的に先にある事柄である.それ 故,後者は前者 にとっては未来的な出来事に なっているのである.我々が 「場面の確保」 と言 っているのはこの後者のような関係が兄 いだされ,そして護 られていることである. ただ し, ここでは 「土曜日」の場面の確保が 問題 となっている限 りではあるが.問われる ことは

P

P

である」 という関係そのもの が起 こっているところでどんな論理学が展開 されるのかということである. 上記の比職を再び使 うなら,我々は深海魚 の泳 ぐ様を深海で見なければな らないことに なる. ということは.見る者が深海にまで潜 水 しなればならないということになる.思惟 におけるこのような深海への潜水が困難な事 なのである.思惟は

Sは

P

である」 という 関係だけしかこれまでは経験 したことがない. 一体, どのようにして思惟 は

P

P

である」 という関係を思惟することが出来 るようにな るのだろうか.それはただ思惟が思い切 って 深海へ 「飛び込む」以外にはない.事実,ハイ デガーはこのような経験を

S

pr

un

g

(飛 び)と 呼んでいる. ここか らわかることは

,S

pr

un

g

というのは何か宗教的な体験で もなければ, 実存的な体験で もな く,思惟の固有の歴史的 な出来事であるということである.それは最 も厳密に言 うなら,哲学史的に画期的な出来 事なのである.ハイデガーの後期哲学の思索 空間は,上で述べたような深海の深海におけ る見物

,「

P

P

である」 の論理学 の展開に なっているのである. ところで,ここで注意 しておかなければなら ないことがある.それは,ハイデガーの

Er

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s

の論理学が

P

P

である」 という関係その ものが展開されている現場になっているとい うことになると,超越的述語の自己限定の論 理を展開 した西田哲学のほうが上なのではな いかと考えることである.確か に

.「

P

P

である」の論理学その ものが超越的な述語の 自己限定になっている. しか し,我々は,請 理学の歴史的必然性か らすれば,'まずは

P

P

である」の論理学が起 こらなければなら ないと言いたい.西田哲学 はこの段階の必然 性を思惟す ることが出来ていないのである. 西田哲学 はヨーロッパの哲学の本流か らすれ ばヘーゲルの論理学を本当の意味で乗 り越え たものではない.

P

P

である」の論理学が哲学史的なも のであり,-イデガ-の

Er

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i

gni

s

の思惟がそ れに相当するというこれまでの論理か らすれ ば,事実そ うであることをハイデガーの著述 に沿いなが ら証明する必要があるように見え る. しか しなが ら. このような仕方のいわゆ る証明なるものは

,「

Sは

P

である」 の関係 性の世界で しか有効ではな く

,「

P

P

であ る」の論理学の領域では全 く役 に立たないの である. というのも,証明なるものは或 る明

(4)

-3-白なものを拠 り所にしなければならないが, すでに述べたように

,「

P

P

である」 の領 域 は理解を拒絶することを本質 としているか らである.それでは.ハイデガーのEreignis の思惟内容がタウ トロギーの論理学であると 如何に して判断できるのか. ハイデガーの研究では極めて高い水準に達 している辻村公一氏は

,

「タウ トロギーはい わば r性超の論理」 もしくは r自性の言葉J とも言 うべ きであろう」 と述べている (辻村 公一,ハイデッガーの思索,創文社,1991, P.315).ここで辻村氏が 「性起」 と言 ってい るのはEreignisの訳語である. しか し,研究 者のこうした理解 は深 く正確であるのではあ るが,上記の判断の本質的な拠 り所を与える ものではな く,一種の権威に頼るものである. まず最初に知 ってお くべ き事 は

,「

P

P

である」の論理学では主語になってい るもの が もはや 「事」にはなっていないということ である.この論理学の対象はこの論理学 とは 別のものではなく, ここで生起 しているタウ トロギーそのものなのであ る.

Sは

P

であ る」に支配されている論理学では.主語になっ ているものは何 らかの意味で所与 されたもの であり,述語可能なものとして現前 し, これ か ら述語されるものとして時間的には先に有 るものでなければならない. 「ソタラテース は食事 している」 という言明が可能なのは,L 主語の 「ソクラテース」が述語可能性を最初 か ら持 っていなければならない し,更に主語 の方が述語より先立 っていなければならない. 我々は,食事をしている 「ソクラテ-ス」を 最初に直紀するのであり,そ してその後で述 語を付加するのである. ところが

,「

P

P

である」の論理学では,主語 は述語より時間 的に先立 っているのではない.述語が秩序的 に先立 っているということを言い始めること になる.従 って, この世界では対象になるの はこのようなタウ トロギーの生起そのものと いうことになる.そして,本来秩序的に先立っ ているものが言われ始めるのであるから, こ のタウ トロギーの領域 は本質的に 「始まり的

な思惟 ということになる.つまり, この

P

P

である」の論理学は必然的に 「始まり的」 という本質規定性を持たなければならない. ハイデガーの思惟の本質が有 というものを有 として思惟するということは,秩序的に先立っ ているものを思惟するということである.つ まり,彼の思惟内容は必然的にタウ トロギー に至 るのである. 彼の主著 として知 られる r有 と時」の中で彼が 「有 の意味を問 う」 こ とを表明 したとき,それはこのタウ トロギー によってのみ答え られるようになっていたと 言 い得 る.「始まり的な思惟」 は 「始 まり的 に」真理性を証明するのであり.それよりも 秩序的に後のものか らはその真理性を証明 し て もらう必要 もないのである.人々はこのよ うなものの考え方では,それが客観性を もっ て確かめる手だてがないのだから,志意のま まになる危険性があると批判するか もしれな い.確かに

,「

P

P

である」 とな った思惟 は 「創造的思惟」 となっている.なぜなら, ここで言われていることは 「かつてあった事」 ではな く,いわゆる事実 としてはどこにも兄 いだされず,それ故,客観的に確かめようが ない事柄だか らである. しか し, ここで思惟 されていることは決 して窓意的なものではあ り得ない. というのも/悪意的なものは慈恵 的である限 り

,「

P

P

である」 とい う領域 の見物を絶対に見 ることが出来ないか らであ る.慈恵的にいくら妄想をたくましくしたと してもこの 「深海」の見物を想像することは 出来ないのである. この領域の事柄が言葉に なった後なら,窓意的なものが活動できるの であるが,最初にそのようなことを明かすと いうことは慈恵的な思考には不可能なのであ る. というよ り,最 も深 く考えるな らば,

Sは

P

である」 に支配 されているすべての 思惟 こそが本質的に窓意的なのである.なぜ な ら,そこにはカントが言 うような 「私が思

(5)

-4-惟する」 (統覚) という基盤があ り,思惟 は 思惟 されるべきものを思惟 しているのではな いか らである.その意味では.ハイデガーの 思索 は最 も悪意的なものか ら離れたものとし て,有 るということと思惟 との根元的な連関 に迫 っているのである.そ して,そこには必 然的にタウトロギーが兄いだされることになっ ている. ところで

,「

P

P

である」 とい う論理学 の場面,ハイデガーのEreignisという根本語 が発言されるようになっている思惟の領域, 「間接伝達論的論理学」か ら見 るな ら 「論理 学」の歴史の 「土曜 日」の時, は

Sは

P

で ある」 という関係を全 く脱 したものではない のである.それはなるほどもはや

Sは

P

で ある」 という関係の支配には支配されてはい ないのではあるが, しか し

,

「主語 一述語関 係」そのものか ら完全に脱皮 して蝶 とな って 自由に遊ぶ といった事態には至 っていない. つまり,ここでタウトロギーは,タウ トロギー としてのタウ トロギーになっているのではあ るが,まさにそれ故に主語 と述語の区別を前 提にしているのである. しか し. この一種の 「中途半端」 こそが大事 なので あ る. この 「中途半端」 は神秘な 「中途半端」 であ り, これに注意を集中することで存在の深奥の事 柄が見えて くるのである.かつて誰 も知 らな かった或 る秘密がここで秘伝されるのである.

P

P

である」 は, これまで述べて きたよ うに

,「

Sは

P

である」 とい う関係の内部で 意味を有するようなことではな く, この関係 の本来言おうとしている意味を言い始めたと いった事態なのである.「この石 は石英 であ る」 といった言明は

Sは

P

である」 という 関係の中で意味がとらえられている.しかし, この関係 自身が言おうとしていることを言 っ ているのではない. この関係自身の言お うと していることは 「この石は石英である」 とい う言明が意味を持つことで返 って隠れて しま うのである.一般に形式よりも内容のほうが 重視されるのであるが,実のところは.形式 は自分を形式にして目立たな くす ることで自 分の奥義を隠すと言える.たとえば, プラト ンのイデアといったものはそ ういうように理 ●● 解 され るべきものなのである.草をはむこの ● 馬 よりも 「馬 自体」のほうがより実在的であ ると主張するプラ トン哲学 は奥義を伝えるも のなのである.同様にして

,

「この石 は石英 である」 という言明によって形式的なものと して看過 される

Sは

P

である」 という関係 は実は、最 も驚 くべきことを言お うとしてい るのである. この関係そのものが言お うとし ている 「希なこと」 はある希な人によって発 見 されることをこの関係が望むか らである. 高貴な女性が高貴な素性の男性を選択す るよ うに

SはPである」の中に潜んでいる高貴 で希なものは希に見つかるように出来ている. ところが, この関係が言おうとしていること 紘

,

「主語は述語である」 とい うことなので ある. しか し, この 「主語 は述語である」 と いうことは

,「

Sは

P

である」 とい う関係の 中ではまだ言われることが出来ないのである. では

.「

Sは

P

である」 自身が言 お うと して いる 「主語 は述語である」 はいっ言われ得 る ようになるのだろうか. それ は. つ-ま り.

PはPである」 になった時 にである. すな わち, この タウ トロギーにな った ときに,

SはPで ある」 という関係 の中で は見失 わ れていたこの関係によって言われようとして いた或 る希なことがそのものとして言われる ようになるのである.「主語 は述語である」 はこの

P

P

である」の領域でようや くそ の奇怪な姿を披露 して くれるのである. ここ で観 られていることは或る奇妙なことなので あり,当たり前のことではない.人はここで 奇怪な姿の深海魚を深海で眺める.いいかえ れば, こうである.

PはPであ る」 の 「論 理学」が生起するところで

Sは

P

である」 の真理が明 らかになる, ということである. 西田は r論理 と生命J という論文の中で次の

-

(6)

5-ようなことを述べている. 「判断は矛盾の統一 として成立するのであ る.判断の対象 というものは,いつ も自己矛 盾的なものである.それは単に主語的で もな い,それは単に述語的で もない.主語 は述語 の主語であり,述語 は主語の述語である.而 して主語と述語 とは相反す るものである.

(p.280) 我々は

,「

Sは

P

である」 とい う言 明を必 ず しも 「判断」 という論理的機能としてのみ 解するのではないか ら, この西田の言葉を全 面的に受け入れiわけではないが, しか し, ここにも

Sは

P

である」のある奇妙な関係 が示唆されていると言える. それは

,

「主語 は述語の主語であり,述語 は主語の述語であ る」 と言われているところに垣間見 られるの である.主語が述語の主語 になっている,で は一体どのようにした らこのようなことが可 能になるのであろうか. それ は少な くとも

Sは

P

である」 という関係その ものの奥 に 向か って問わなければならないことなのであ る.つまり

,

「この石 は石英である」 となっ ているときにはそのような問いはけっして生 じない. しか し, この可能性に向けての問い は同時に

Sは

P

である」の 「真理」を明か すことへと向か うことなのであ る.

Sは

P

である」という関係の中に秘め られているこ とは

,

「主語 は述語である」 とい うことであ る. この奥深いことによって 「主語は述語の 主語であり.また述語 は主語の述語である」 といった理が可能になっているのである. し か し,すでに述べたように

,

「主語 は述語で ある」 という奥義 は

Sは

P

である」 という 関係の領域では明かされることはない.なぜ なら,前者 は後者の関係の中には出現する事 が出来ないか らである.では, どのようなこ とになると,「主語は述語である」 とい う奥 義はその乗務を見せるようになるのだろうか. それは 「主語」が 「述語」 になったとき,つ まり

,「

P

P

である」 とい う最 も希 な関係 が起 こるときである.深海魚 は 「深海」の中 で しか姿をみせないのである. 「主語」が 「述語」になったときには,同 時に 「述語」が 「主語」になっているので, ここにはまだ 「主語 と述語の関係」が残存 し ている. しか し, ここで実 ははじめてこの関 係が生起 していることになる.このような関 係がはじめて生起するということは,ある大 切なことを一緒に伴 うのである.それは,吹 のようなことである.

Sは

P

である」 という関係の支配の領域 ではこの関係の真理をこの関係だけで決定す ることは出来ない.たとえば,すべての状況 証拠が 「彼は犯人である」を証拠立てたとし て もこの言明の真理 は実際に 「彼」が犯行を したかに依 る.つまり

,「

Sは

P

である」 の 「である」 はSとPとの関係だけで決定 され るのではな く, この関係が事実そ うなってい るということによって決定されるのである. 哲学の用語法を使えば,存在 と思惟が一致す ることをかの関係は述べているのである. こ のような問題の本質 は 「真理の本質」への問 いである. ところが

,「

P

P

である」 とい う関係が 出現すると,それに真理を保証するものはも はやこの関係の外に存在する何かではあ り得 ない

.

「この石は石英であ る」 とい う言明の 真理は, この言明の通 りに 「この石」が 「有 る」 ことにある. ところが

,

「この石は有 る」 というのは実は

SはPである」 に基づいて いるのである.そこで

,「

P

P

である」 の 真理を保証するのはむ しろ, この関係そのも のの中に見 られるということになる.つまり, 存在 と思惟 との深い統一態の秘密がここに見 えて くるのである.ハイデガーが 「真理の本 質」 と言 うのはこうした事があるからである. 「有 る」 ということが 「である」 と統一的に なっているようなみ ものがこのタウ トロギー の領域で見えて くるのである. このようにして

,「

P

P

である」 という

(7)

ー6-関係が生起すると.そこで 「主語 は述語であ る」 ということが明かされるようになるとと もに, この関係の真理を保証するものはこの 関係の外に客観的に存在するのではな くなっ て,む しろ, この関係の中にこの関係の 「有 ること」が必然的に出て くるということにな る.つまり, このような関係の生起が 「有る」 ということを必然的に生起 させるのである. ここで 「有 るがある」 というタウ トギーが意 味を持っ ことになる. しか し, この領域では まだ 「主語 と述語の関係」 は残存 しているた めに, このような タウ トロギーでは 「主語 は 述語である」 はまだその真理を完全 に明かす ことは出来ないでいる.すなわち, ここには 「有 るもの」 と 「有 る」 との最初 の分裂 が起 こっていて (OntologischeDifferenz)

,

「起 こる」 ということが 「起 こっている」のであ る. ここでは 「起 こる」そのものとは別のこと, たとえば

,

「水 の蒸発」が 「起 こる」 ので は なく

,

「起 こる」 ということその ものが 「起 こっている」のである.「起 こって いる」 の はものではな く, このタウ トロギー自身,つ まり

,

「起 こっている」 その ものである.「起 こる」が 「起 きている」 とい うことは必然的 に

P

P

である」 という論理学の場面で し か見 られない光景である.なぜな ら, ここで 「有 るものが有 る」 とい う言 明が可能 にな っ ていて,何か 「事」がはじめて起 きているか らである. なにか主語になるものが起 きてい て,それが述語 されるようになるのである. しか し, ここで主語 になるものは

Sは

P

で ある」 という関係にな っていない主語であり, 「主語 は述語である」を発言 してい るよ うな 主語である.すなわち,それは 「事 (こと)」 にして 「言 (こと)」であるよ うな 「こと」 なので ある. この ような事態 は

,

「事 」 と 「言」 との中間 と言えよう. それ故, ここで 間接伝達の前ぶれが為 されることになる.間 接伝達 とは 「伝えない伝え」 であ り

,

「秘密 を秘密のままに分かち合 うこと」であ ったか ら, このタウ トロギーの領域 もまた 「秘す る こと」が 「秘すること」 として明 け透 けるの である.-イデガーがEreignisを規定すると き

,

「おのれを隠す ことがそ の もの と して明 け透 けること」 と述べていることが必然的な ものであることが理解 される. さて, このタウ トロギーの論理学的場面で は 「有 るものが有 る」 とい うような 「こと」 が 「最初に」起 こっているのであるか ら, こ こでは じめて 「有 るもの

(主語) と 「有 る

(述語)の 「違い」が起 きていることになる. このことは 「有 るもの」 と 「有 る」の違いが 分かるようになるということを意味す る.言 いたいことはこうである. このタウ トロギー の場面で 「はじめて」かの違 いが違い として 知 られるようになる, ということである.つ まり. この論理学的場面が 「確保」 されない 領域ではこの 「違 い」 は遠 いとしては見えて こないのである.ハイデガーはこの 「有論的 差異」が差異 として知 られないことこそ 「形 而上学」の隠された根であることを明 らか に した.すなわち; この差異が差異 として見え ないことによって

,

「有 る」 は 「有 る もの の 有」 として考え られて しまう.そ して, この ような思考のあり方が形而上学なのである. 彼はこの形而上学の隠された根を明か した こ とで ヨーロッパの全歴史の底流をなす ものの 源泉を完聖 に兄いだ したのである.それはつ まり,彼 こそヘーゲル哲学を真に乗 り越えた 唯一の哲学者であるということに他ならない. 人 はハイデガーという哲学者 を数 いる哲学者 の一人 と考えてはな らない.彼 はヘーゲル哲 学 の 「奥の細道」を行 く定めその ものなので ある.次の-イデガーの言葉 は, この長 い注 釈の全休を理解 した上で接す るな ら, その内 容の豊かさを我々に見せて くれるであろう. 「形而上学の思惟は,そのものとしては思惟 されていない差異 の中に差 し込 まれたままに なっているので,形而上学 は搬出 (Austrag)

(8)

-7-の一つにする統一か らして統一的に同時に有 論 に して神学 となっているのである.有一神 論的な形而上学のこのような具合 はかの差異 の支配か ら由来 していて,その差異が有を根 底 として,有 るものを根拠づけられ根拠づけ るものとして分離 し相即 させ るのであ り, こ うした持続をかの搬出が遂行 しているのであ る.か く言われることが我々の思惟を次のよ うな領域へ向か うようにと指示す る. その領 域を言 うには,形而上学の主導語であ る有 と 有 るもの,根拠 と根拠づけられた ものが もは や十分ではないようなそうい う領域へ と.

(Heidegger,IdentitatundDifferenz,Neske,

1

9

9

0,S.

6

3

)

(補 足) タ ウ トロギ ー の疎 外 形 態 ここで補足 として

P

P

である」 と区別 された

Sは

P

である」 に関 して予備的に簡 単な説明を してお くのが誤解を防 ぐために役 立っであろう. 上述 したように

,「

P

P

であ る」 とい う 言明 は

Sは

P

である」 とい う形式に支配 さ れているような内容が言われていない ことを 意味 していて,む しろ,後者のその関係 自身 の真理がそうした特定の仕方で発言されるの である.「主語 は述語であ る」 が後者 の関係 その ものが言お うとしていることであるが, この ことは

Sは

P

である」 とい う関係の中 ではもはや発言を封 じられて しまうのである. いいかえれば

,「

Sは

P

で あ る」 とい う関係 の中では 「主語 は述語ではない」 とな ってい るのである. 実 際, この関係 の支配下で は 「主語」 はけっして 「述語」ではない.「この 石 は軽い」 という言明においては主語 の 「こ の石」 は述語の 「軽 い」 とは異な っている. 我々はむ しろ 「軽 い」が 「この石」の中にあ るとす ら考えがちである. しか し,よ く考え ると

,

「軽い」の中に 「この石」 が有 るので ある.主語の 「この石」が最初 に有 って.そ れの中に我々が後か ら 「軽 い」 という性質を 見つけだ したと考えるとき,そこでは論理的 な真理が見逃 されている.実 は 「この石」は●●軽 い」 という規定がされて いることで この 石 になっているのである.つまり,最初か ら 「この石」 は 「述語の主語」 として

,

「軽い」 という述語が可能なものとして立て られてい るのである. このようなことは∴更にたとえ ば

,

「桜の花が咲 く」 とい ったよ うな主語 に 動詞が付加する場合で も言える.我々はとも すればこの言明を形式的に考えがちである. 「桜の花」 という商品に 「咲 く」 とい う値札 付けることのようにとらえがちである. しか し

.「

Sは

P

である」 とい う関係 (主 語 の 「桜の花」 と述語の 「咲 く」 との問 には

S

P

であるという関係が潜んでいる,いいかえ れば.両者の間には本質的にこの関係が存 し ている) はそのような関係ではない.そこに はなにか意味がなければな らない.「桜の花」 に 「咲 く」 という動詞を無造作に付けるので はな く, この言明で本当に言 いたいことがな ければな らない.我々は,形式的には 「東の 山が歩 く」 という言明をす ることはできる. しか し,それが本当になにかを意味する時に この言明が成立 しているのである. 「桜 の花 が咲 く」 という場合 も同 じことである. この 言明が本当になにかを言お うとしている時, そこには 「咲 く」 という述語の中に主語であ る 「桜の花」が考え られるようになっている のである.つまり, この言明が言おうとして いるのは 「咲 く」ということなのである.我々 は

,

「桜の花」 というものを考 えるときには すでに 「咲 く」の方か らそれを考えていて, 「桜の花が咲 く」 ということは 「咲 くが咲 く」 ということを言 っているのである. しか し,

Sは

P

である」 という関係 はこの 「咲 くが 咲 く」をその ものとしては言 うことが出来な いということなのである. いってみれば 「咲 くが咲 く」 というタウ トロギーの真理をいわ ば 「大事にか くまう」 ことを 「桜の花が咲 く」 は行 っているということになる.あたか も美

(9)

-8-しい女性 (咲 くが咲 く)をかこいか くまう ド レスにも似て

,

「桜の花が咲 く」 はみ ごとな 「護 りか くまうこと」 を して い るので あ る (ちなみに, このような意味での ドレスのか くまっているものを開放することが一般に芸 術活動である.従 って,桜の花の絵を措 くこ とは 「咲 くが咲 く」 という真理を画面 に開放 (再現) してあげることである). もちろん 「咲 く」のは桜だけではな く. たんばば もあ れば稲 もある.「咲 く」 とい った無限定な概 念に或 る限定がされるのではあるが, この限 定を為すところの主語は 「咲 く・」 ところの何 かとして,述語に最初か ら支配 されているの である. このことはつまり

,

「主語」 はいっ でも 「述語の主語」 として最初か らそのよう な論理的な関係の中で考え られているという ことである. しか し,それにもかかわらず, 「主語」は 「述語」 とは異 な っている. で は 一体 このような

SはPである」 という関係 はどうして有 り得るのであろうか.なぜ主語 は 「述語の主語」 として最初か ら定立 されえ るのであろうか.それはいくら考えて も分か らない. というのも.その関係の可能性の根 拠は

Sは

P

である」の支配領域でいくら考 えて もそこに顕現することができないか らで ある.その関係の成立の可能性はただ 「主語 は述語である」 が発言 され る所, つ まり.

P

P

である」 と発言 されている所で見え て くるのである.なぜな ら,こうなったとき, そこで は 「主語 と述語」 の関係が は じめて 「起 こる」 ことにな り

,

「主語」が 「述語の主 語」 として定立 されるようになったいきさつ がまさにその発生のところで言われることが 出来るようになるか らである. 我々は, このようにして

,「

Sは

P

である」 という関係の支配の中である重大な理をす っ かり見過 ごしているのである. もっともこの 「看過」は我々の能力の欠如 に由来す るので はなく, この関係そのものに根ざす ものと言 える. この関係においてはどこまで も 「主語 は述語ではない」 ということになっているか らである. そこで

,「

Sは

P

である」 とい う関係 はそ のもの自身 としては 「主語 は述語である」 と いう真理を 「言 うべ し」ということになって いることになる. このようなことが後で詳述 するヘーゲル 「論理学Jで為されているので ある.そこではまず 「主語 は述語ではない」 か ら開始 され,つまり.最 も普遍的な述語で ある 「有 る」が主語 として定立 され,それが

結局

,

「主語 は述語である

,つまり,理念 と しての 「有 る」へ と還帰するのである. しか し, このようになったときで もそ こはけっし て

P

P

である」 とな ったので はな く.

Sは

P

である」の支配が依然 と して続 いて いる.ただこの関係の中に含まれている本質 が明かされたとは言える. ヘーゲルの r論理 学J こそ

SはPである」 という関係に内在 す る全論理学 を完全な仕方で展開 しているも のなのである. もしも我々が

Sは

P

である」 という関係 を文法的に,あるいは形式論理学的に吟味の まな板の上にのせて思惟するとすれば,我々 は

Sは

P

である」に含まれている 「問われ るべきこと」を見落 として しまうであろう. 先の例で言えば

,

「桜の花が咲 く」 とい う言 明の中で主語 は 「桜の花」で述語が 「咲 く」 であり,主語が述語によって規定をされてい るというように捉え られるとき,そこで見落 とされることがある.それはこの関係 自身が あるということの不思議さであり,更にこの 関係自身がそれ自身で語ろうとしていること である.「桜 の花が咲 く

,

「水が流れ る

,

「山が青い」等々, これ らがすべて主語 と述 語の関係の中で言われるようにな っていると いうことの 「驚 くべき普遍性」を我 々はうか っにも見落 として しまうのである. しか し, 実 は 「桜の花が咲 く」 といった個別的な言明 の中で もこのような驚 くべきことが目立たず に語 られているのである. この言明に真剣に

(10)

-9-なって傾聴する人はそこに

Sは

P

である

を聞 き分けることが出来る.そ してこの関係 自身が語 りたいことが有 ることも聞き届けら れるのである.その 「語 りたいこと」がつま り 「主語は述語である」 ということである. しか し, この 「語 りたいこと」 は

SはPで ある」 となっているこの関係性 においては語 り出せないということである.そこで この関 係 自身がみずか らそのことを語 るためにはこ の関係自身が自分の真実の姿を露呈させてい くしかないことになる.すなわち,自分が語 りだ したいことを自分の現在のあり方では語 れないようになっているということを自分で 経験 し知 っていくことによってかえって自分 の本当の語 りだ したいことがネガティブに語 り出されて くるのである. このことが実現す るにはこの関係の上記の自己遍歴において最 終的に 「主語 は述語である」が語 り出されな ければならない. しか し,同時にそこに依然 として 「主語 は述語ではない」の支配がなけ ればな らない.では, このようになったとき の 「述語」 とはなにか.それは主語的になっ た 「真言」であり

,

「有 るものが有る」となっ ている 「有る」である. というの も,そこで は真言 は真言 として は発言 されず, また,

P

P

である」 にもなっていないので. 真 言 はただ 「有 る」 として しか言われ得ないか ちである. しか も,それは必然的に 「述語」 となることになり,それが最終的に

Sは

P

である」の自己遍歴の最後 に出て くるのであ る. ここで 「主語は述語である」が語 られる と言えるが しか し,そこは実は 「まだ主語 は 述語ではない」 となっていて,主語は述語で ある当の 「有る」と成っているのである.ヘー ゲルの r論理学Jの全体が このような基盤の 上に展開され る.述語の 「有る」にまで遍歴 するとそこでは必然的に 「有る」 ということ が出て くるのでそれはスピノザの自己原因に 一致することになる. ところで,上記のことか ら方法論的な問題 への根本的な見通 しが開かれてくる.それは ヘーゲル自身 も問題にしたことであるが,ヘー ゲルの 「論理学」の営まれている場面では完 聖な明澄 さで解決されることの出来ない問い である.つまり

,

「論理学」 はどこか ら開始 すべきか という問題である. 「論理学」がどこか ら開始 されるべきかと いうことはどうでもよい問いかけではなく, む しろ,その論理学の全展開を支配 している ような大切な問いである.スピノザの哲学体 系にも本質的に潜んでいるこの根本問題は論 理学の大問題 といっても過言ではない. 我々が上で明 らかにしたように

.「

Sは

P

である」 という関係そのものが自己自身を展 開する場合,そこには,どこか ら開始される のかという問いがなぜ起 こるのかということ とともにどこか ら開始されるべきか という問 いの答え もまた出て くることになる.すなわ ち

,「

Sは

P

である」 は必然的に主語的になっ た 「有 る」か ら開始 されなければな らない. そ して, このような開始が問いに値するもの として思惟されなければならない.いいかえ れば

,「

Sは

P

である」が 自己展開す ると. そこでは必然的に主語的になった 「有 る」か ら開始されなければならな くなっていて,そ して,展開の最後になって 「主語は述語であ る」 という

SはPである」がそもそも言お うとしていることが顕現 して くる,つまり, 本来,真言 として発言 されなければならない のに,発言がはばまれていて単に 「有 る」 と しか言われ得ないような述語が出て くるので ある.

SはPである」その ものに,実 は, 固有の方法論が備わ っていて,方法を他か ら 導入する必要が全 くないということになる. 我々は第

1

部の後半でヘーゲル r論理学

を見直す試みをするが,それは今述べたよう な見通 しの中で行われるのである.それ故, この 「見直 し」 はいわゆる 「研究」, たとえ ば,哲学研究の専門雑誌によく載せ られてい るような 「ヘーゲルの 「論理学Jにおける云々 10

(11)

-の研究」等のように,ヘーゲルの哲学を対象 にした研究 とは全 く異なるものであり,ヘー ゲルの 「論理学」を通 って行 くある列車が終 着駅に着 いて これまでの旅路の何であったか を 「見直す」 というような論理学の奥義に属 するまことに神秘な秘教的営みなのである. なお, ここで言われていることはヘーゲル の r論理学」の概念論の 「判断」のところで ヘーゲルが論 じている精妙な 「主語と述語の 関係」の論理 と同一視すべきではないという ことに注意を促 してお くのは有益であろう. ヘーゲルがそこで論 じている 「主語と述語の 関係」は,我々が

SはPである」 と言 って いることではない.我々は,ヘーゲルが論 じ ているような 「主語 と述語の関係」が我々が 言 うところの

Sは

P

である」から可能になっ ているということを言いたいのである.つま り,ヘーゲルが見ているその 「主語 と述語の 関係」が見 られ得 るにはこの関係を可能にし ているような 「可能空間」 とも言えるものが 要 るのであるが,ヘーゲルの思惟はこの空間 の中で動いているけれどもその空間そのもの を原理的に思惟できないのである.我々はこ のような 「可能空間」を問題にしているので あり,そこか ら

Sは

P

である」 ということ を考えているのである.

P

P

で ある」 は こうした 「可能空間」 ということを問題にす るときにようや く問われ得るようになること なのである. このことの詳細な議論は第1部 の後半の注釈でされるであろう.

31

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行) rその

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意味

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まハイデガーが言 う

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ざす ものであることが認め られるであろ う

ハイデガーの哲学が

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という論理学 的場面を地盤にした 「論理学」であるという ことはすでに何度 も述べ られた.そ して,そ の 「論理学」 は 「間接伝達論的論理学」から 理解 される限 り

,

「論理学」 の歴史上の 「土 曜 日」の時になっていて

,

「主語 -述語関係」 がはじめて 「起 こる」(「起 こる」が 「起 こる

)

ような場面になっているのであった. この場 /面の前にはヘーゲルの 「論理学」がすでに完 成 されていて,その 「奥の細道」を独 り行 く 哲学がハイデガー哲学になっているのである. この注の前の注でこの論理学的場面で

P

P

である」 というタウトロギー (同語反復) が発言されているということが明 らかにされ た. この タウ トロギーはこのタウ トロギーが 発言 されているその現場で しか聞かれないの であるか ら, このタウトロギーが意味を持っ ようになるのはただ この現場に足を踏み入れ た時で しかない. しかし, ここで起 きている ことはいつで も 「奇妙で見知 らぬこと」なの であるか ら, ここで聞き取 られるこの発言の 意味することもまた 「稀なこと」なのである. 深海魚は深海では予想 も付かない暮 らし方を しているのである. この場面で発言 されてい るかのタウ トロギーの発言の中で は

(意味 の)唯一性

」(

Ei

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の名詞形 で あり

e

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g

であることを意味する) とい う見 知 らぬことが経験されるのである. この 「唯一性」 は,上記の論理からすると, かのタウ トロギーの固有に語ろうとしている 意味内容の性格を表 していると解 されるであ ろう. しか し,それではここで考え られてい る 「唯一性」 は逸せ られるのである. ここで 思惟 されている 「唯一性」はその最終的な発 祥を後で示される 「真言」に もつ. 「真言」 はただ独 りで 「独 り言」する.それは言葉の 最 も奥深い秘密を言 う言葉 として言葉だけに ただ独 りなって言 う秘術語なのである.一切 の人間的なものが無 くなって最 も静かになっ たところで最 も密やかに発言されるのである. このような 「奥の間」の前の間がかの タウ ト ロギーの発言がされている所である.そこで このタウ トロギーがかの真言 の 「独 り言」に ふさわ しい姿 となって発言するようにと願わ れていることになる.例えば, これか ら結婚

- l

l

(12)

-式 に臨 もうとして控えの間にいる花嫁 はそれ に 「ふさわ しい」心の準備 とそれに 「ふ さわ しい」姿を整えないということがあり得よう か. この控えの間のこのような 「ふさわ しさ」 が ここで思惟 されている 「唯一性」 というこ となのである.そ こで.かの タウ トロギーの 発言内容が唯一性を もつだけではなく, そも そ もこのタウ トロギー自身がeinzigなのであ る.花嫁は控えの間で 「心 も姿 も」結婚式に 用意が出来ているのでなければな らない.-イデガーはEreignisの領域を開いてい る Da-seinのあ り方 として 「切願 的

(instandig) ということをよ く言 うのであるが, この 「切 願的」 ということと 「唯一性」 とは表裏一体 の関係があるといえる.浄土真宗が本願 とい うことを宗旨の根底 に置いているのは人間の 有 るということの根底 に切願 とい うことが有 り, この切願が自力を透明に して他力 として 透 けて見えて くるとい うことにその論理学的 な根拠がある. このような切願的な領域にお いて同時に 「唯一性」 もまた顕れるのである. さて,論理学上の 「土曜 日」 は 「唯一性」 の支配領域になっていなければな らないこと が示 されたが,それは 「間接伝達論的論理学」 か ら見てそうなっていなければな らないので あらて.実際にはそれはタウ トロギーの発言 の内部ではその領域の独 自な顕れ方になって いなければならない.それは-イデガ一によっ てSeynの 「唯一性」というよ うに表 され る. 彼 はこの 「唯一性」 に何度 も言及 しているが, とりあえず我々は次の彼の言葉に注目するこ とに しよう

:

「Seynの唯一性 (Ereignisとして), 非表 象性 (いかなる対象でもないこと),最高の奇 妙さ.そして本質的な自らを隠すこと, これら が指示であって, これらの指示に従いっつ,Se ynの自明性に対 して最 も稀なるものを予知す るために真っ先に用意を整えなければならない. そして, この最 も稀 なものの開かれていること の中に我々は,たとえ我 々の人間存在はたいて いは r去 って-有 る」ということを営んでいる としても,立 っているのである.」(Heidegger,

BeitragezurPhilosophi

c

,Gesamtausgabe Bd.65,VittorioKlostermann,S.252)

上で述べたように

,

「唯一性」 は,言葉 が 己の最 も本来的l羊言 うべ きことを言 う時に, そ こで言 う 「秘めやかな」独 り言の固有な根 本性格に由来す るものであるか ら,それ以前 の論理学の場面か らの生 まれではない.つま り,それは

Sは

P

である」 の支配す る世界 に由来す るよ うな氏素性 の もので はな く,

P

P

である」 となった ときに初 めて顕 れ て くるような高貴な血筋のものなのである. そこにはもはや主語 となるものが 「対象」 と して 「前 に立て られる」(Vor-stellen),つ ま り

,

「表象的」 になるとい うことはあ り得 な い. さらに.そこはたとえてみれば深海魚が 深海で泳 ぐ姿を眺めているよ うな ものである か ら

,

「最高の奇妙 さ」 が 目撃 され るので な ければな らない.■更 に, ここでは 「間接伝達」 に用意が調 って,たとえば結婚式 にこれか ら 臨む花嫁のように 「心 も姿 も」それにふさわ しくなっているように

,

「伝えない伝え」 に ふ さわ しく

,

「己を隠す」 とい うことが昆頁わ されていなければな らない.我々人間存在 は 本来的にはこのようなタウ トロギーの場面 を 開 くために必要 とされた もの,Da-seinで あ る. しか し,我々はたいていは有 るというこ とのこのよ うな場面か ら去 っていて

,

「有 る もの」の方 に自分の有 ることを向けている. 我々はたいていは

Sは

P

である」の論理学 的場面 に 「迷 って」 いて

,

「迷 って いる」 と いうことにも気づかぬほどに 「迷 っている

.

そ して, この種の 「迷 っていること」が実 に 論理学の必然性であるということを知 ること はもはや 「秘教」的なことになって しまって いるのである. ある意味では 「間接伝達論的 論理学」 はこのような意味での 「秘教の中の 秘教」である.すべては論理学であるという ことは,すでにヘーゲルが明か したのである

- 1

2

(13)

-が,更にその奥に 「秘教の中の秘教」 が控え ていたのである.「有 る」 といったような全 く 自明なことの中にこのような 「秘教」が教え ら れているということ, それこそ 「最 も稀なこ と」に他ならない.なお,余談になるが人間 存在が

S

P

である」の論理学的場面か ら タウトロギーの場面に「向かう

」(

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)

ことが人間本質の本来の 「向かい」であるか ら, これが 「正義

」(

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h

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,正当な向きに向 けること) ということの可能性の根拠になる. 政治はこのような正義の論理学によって支配 されているのである.政治は理想的には,人 間を正 しい有 り方に向けるという役割をもっ ていると言えよう. 「唯一性」 はこのようにして,その発祥を

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s

の場面の 「先に」持 っているのであ り.みずか らのこのような根本性格をその先 に由来するものとして思惟する. このような 思惟は上で述べたように切願的であり, この 「先」によってただ一つの強制がなされてい る. これが後で示される 「必然性」の発祥 と なる.すなわち, このタウ トロギーの論理学 的場面では意味の唯一性の支配があって,そ れは必然性の支配下に入 っているのである. ここで 「意味の唯一性」 と言われているのは 次の理由か らである. このタウ トロギーの場 面は一種の結婚式の 「控えの間」のようになっ ていて.花嫁はそれに準備が整っているといっ たことになっている.「控えの間」 のその緊 迫 した雰囲気が 「必然性」 に相当す る. 「唯 一性」はこの花嫁の結婚式への用意が これか ら起 こることに 「ふさわ しく」なっているこ とに相当する.同様にして,このタウトロギー において発言 されていることもまたその

先」

のことに 「ふさわ しい」 ものとなっていて.●●● 言葉 としての言葉が言 う意味に 「ふさわしい」 ことが起 きている. これが 「意味の唯一性

ということである.まだこの場面では真言 は 真言 としては発言されていないので,その代 わりにここでは 「意味の唯一性」が現れるの である.我々はこの事態を 「意味-する意味」, または 「意味が意味-する」 と言 う. -イデ ガーはその主著である r有 と時」 においてそ の著作の根本の意図が 「有の意味」を明 らか にすることであることを表明した.それは従っ てこのタウ トロギーの場面では じめて顕れる ことになる. このことは,我々が

S

P

で ある」 という論理学的場面 にとどまる限 り, 言い換えれば,形而上学の支配領域 にとどま る限 り

,

「有の意味」 はそれ と して は顕れな いということを意味する. ここで有の唯一性について-イデガーがそ の

r

ニーチェ講義」の中で解説 している箇所 があるので参考になるので記 してお く. 「同時に有

(

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)

は最 も唯一的な もので あり,その類い希なことは如何なる有 るもの によって も達せ られないほどである. なぜな ら,秀でたいと思 うどの有 るものに対 して も 常にそれの似たものが,つまり,いっ も有 る ものが立 っているか らである.たとえそれが どのように異なる種類のものであろうとそ う である. しか し,有 はそれに1以たものを もた ない.有 に対するものは無である.そ して, ひょっとするとこの無その もの もなお有の本 質の中にあり.有の本質にのみ呼びだされ る ようになっているのか もしれないのである

.

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2

5

1) この説明によって有がいかなる有 るものと も異なる類い希なものであるということが理 解 されるのではあるが, しか し, この類い希 なことを類い希なものとして願わし出すには, 「有 は有 る

」(

S

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)

というタウ トロギー の場面が 「確保」 されなければな らないので ある.

3

2

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21

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3

行) 偶 理学のバ ブテスマの=ハネ

J

バブテスマのヨハネとは,新約聖書のマタ イ伝の

3

章 に出て くる聖者であり,聖書の記 述によれば次のような者として紹介 されてい

- 1

(14)

3-る. -「そのころ,バブテスマの ヨハネが現れ, ユダヤの荒野で教えを宣べて,言 った.

r

悔 い改めなさい.天の御国が近 づ いたか ら.

J

この人 は預言者イザヤによ って

,r

荒野 で叫 ぶ者の声がす る.

r

主の道 を用意 し,主 の通 られる道をまっす ぐにせよ.

J

J

と言われたそ の人である.」(日本聖書刊行全編聖書) この ヨハネのところへパブテスマ (洗礼) を受 けるため, イエスはガ リラヤか らヨルダ ンへ とおもむ く.そ して,イエスはヨハネか ら水のバブテスマを受 けると,す ぐに 「天が 開 け,神の御霊が鳩のように下 って」 くるこ とを経験する. 我々は, ここで

,

「土曜 日」 とい う論理学 的時を経験 しているハイデガーの 「論理学」 と 「日曜 日」 に相当する 「間接伝達論的論理 学」の論理学的場面 との関係を上記の記述 に 重ね合わせて考えようとしているのである. すなわち

,

「間接伝達論的論理学」 は一度, - イデガーの論理学 が営 まれているところ (ヨルダン川)へ来て, そ こで水 の洗礼 を受 けた後で 「天が開かれる」のであると. イエスはヨハネか らバ ブテスマを受ける際, 「このようにすべての正 しい ことを実行す る のは,私たちにふ さわ しい」 と語 っている. 本来, イエスの方が上位者であるか ら, イエ スが ヨ-ネにバプテス トを施すべきであるが, イエスは順序的に逆のことを為 して,それを 「私 たちに」ふさわ しい と述 べて いるのであ る. どうして, この逆転 した行為が 「私たち にふさわ しい」ことなのであろう.-イデガ-の論理学の場面であるEreignisと 「間接伝達 論的論理学」 の場面である真言が発言 されて いることの問には

,

「私たちにふ さわ しい」 と呼ばれるようなある順序があるのである. Ereignisの場面 は,すでに述べたように, 唯一性 の支配領域であり,ただその場面での み見えることが ら.言 いかえれば,言 に して 同時に事であるようなことが ら,が起 きてい る. しか し, この場面 はまだけっして真言が 真言 として発言 されているような場面ではな く,そのために,そこではまだunrealization は本当には実現されていない.しかしEreignis の場面ではrealityそのものが消えようとしてい る,いいかえれば,そこには●●●●●●unrealizationを実 現 しようという言葉の創造的な意志が生起す ることになる.それ はつ ま り,dichtenない しはDichtung(詩作)とい うことである. 本 当のunrealizationが実現 し

,

「天が開かれ, 神の御霊が下 る

,つまり, 秘術の言葉, 真 言が発言 されるには, ヨルダン川におもむい て,Ereignisで行 われて いるDichtungの洗 礼を受 けなければな らないのである.吉葉 は. イエスは, ヨハネか らバプテス トを受けて も 「正 しい

.

しか し,それ以外か ら受 けること はできない.同様 に,真言 は真言 として発言 されるようになるためには,ヘーゲルの論理 学や西田哲学か ら洗礼を受けるべきではない. このような間柄が 「私たちにふ さわ しい」 と 言われていることである. 論理学の最 も奥所でイエスが ヨ-ネか らバ プテス トを受 けている, これは,歴史的な過 去 の事件ではな く,永遠の今 ここで起 きてい るあまりにも人間か ら遠い見知 らぬ出来事な のである.我々は永遠の今行われているこの 出来事を 「論理学的バブテスマのヨハネ」 と 呼ぶのである.それは,ハイデガーの哲学の 「役目」 ということに注 目 した場合 のその哲 学の 「何であったか」の答えになっているの である.ルカ伝の第-章 に同 じくヨハネにつ いての記述があ り,そこでは彼が 「主の前ぶ れ」をする者 とされている.つまり,ハイデ ガーの哲学の 「役 目」 はその後か ら来 る者, すなわち,間接伝達論的論理学,の 「前ぶれ」 であり,その 「用意」なのである.ハイデガー 自身が言 うように,Ereignisは 「最後の神」 が立 ち寄 るための静かな場所の開かれなので あ り,一種の用意がされることである. とこ ろで, ヨハネの後か ら来 る者 とはイエスなの

- 1

4

(15)

-であるが.論理学の奥所のこととしてはそれ は 「始めの言葉」.真言である.言葉が言葉 と して言葉 となるために或る前ぶれが為される, つまり,詩作的な思索がなされるのである. 真言は自分の生まれた土地 (unrealizationが 実現 されているところ,有 り得ぬ こと) 「ガ リラヤ」から出て きて, まずは 「ヨルダン川」 で,すなわち,-イデガーの詩作的思索の中 でその洗礼を受け,そ して

川から上がって」 真言 として発言す るようになるのである.人 はこのような 「解釈」は自分の妄想を正当化 するために聖書の言糞を引いてきてそれにそ の妄想をねじ込み入れた ものにすぎないので はないか と言 い張 るか もしれない. しか し, ハイデガーの最 もす ぐれた研究者である辻村 公一氏の次の言葉 はそのような 「非難」を黙 せ しめるであろう. 「最後に一言感想を付加えることが許され るならば,言葉についてのハイデガーの省察 を振 り返 ってみて,彼が哲学か ら排除せんと したキ リス ト教的なものが,非常な行余曲折 を通 って変容 しつつ現れているのではないか の感を深 くす る」 (辻村公一, ハイデ ッガー の思索,創文社

,1

9

9

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,P.

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1

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辻村氏は r静けさの響 き」 と題する論文の 中で-イデガーの言葉に関する思索を時期を 追 って追思索 し,その最後に上のようなこと を述べている.我々は, この言葉の中に辻村 氏の長年の-イデガ一研究か ら一種感得され たハイデガーの思索の根底にある 「なにか」 が出てきていると考える.つまり,ハイデガー の思索の最 も底には 「キ リス ト教的なもの」 があるのである. しか し, ここで十分な注意 が必要である.それは.ハイデガーの思索が キ リス ト教の内容 に結局 は摂せ られると粗 っ ぼ く見な した り,ハイデガーの思索がキ リス ト教の教理に影響 されていたと考えた り,彼 の思索は結局宗教に至るのだと断定 したりす ること, これ らは全 くここで 「キリス ト教的」 と言われていることではないということであ る.本当はこういうことなのである.つまり, 論理学の最 も奥には 「言葉の出来言」が言わ れていて,それがキ リス ト教的なものになっ ているということなのである.言いかえれば, キ リス トない しはキ リス ト教,そ して一切の キ リス ト者 も全 く知 らなか ったキ リス ト教的 な ものが論理学の奥で起 こっているというこ となのである.キ リス トも知 らなか ったキ リ ス ト教的なものというのはキ リス ト教 に対す る冒涜 と考えてはならない.む しろ,人 はこ のような意味でのキ リス ト教的な ものが目撃 されることで歴史的世界の最深の論理の奥深 さに 「か しこまる」のである.本当の謙虚 さ は真理を目の当たりにしてそれに自然 に 「か しこまる」 ことで しか出て こない.我 々は, キ リス トも知 らなかった論理学の奥所で生起 している 「キ リス ト教的なもの」 に接するこ とでキ リス ト教の深遠性を再認識する. しか し. ヨルダン川でのキ リス トの洗礼 は ハイデガーの哲学の墳位で行われるのではあ るが,その出来事が目撃される時はハイデガー の哲学には 「まだ来ていない」.そ こは 「最 後の神」が立 ち寄 るための場所 (Ereignis) になっているのである.そこはまだ来ていな いものがある (れochnicht)という 「時」 を 形成 していて歴史的論理学の最後を準備す る ような論理学,すなわち,タウトロギーとなっ ている.言いかえれば,そこは,来 るべきこ と (間接伝達論的論理学)の 「前ぶれ」となっ ているのである. ヨルダン川か ら上がるとそ こに 「始めの言葉」の領域が 「開かれ る」か らである. では,なぜ 「間接伝達論的論理学」 はハイ デガーの論理学の洗礼を受 けなければならな いのであろうか.なぜ真言が発言 され る前 に 「静 けさの場所」,Ereignisに立ち寄 らなけれ ばならないのであろうか. その答えはある奥ゆか しいことにはつ きも のの神妙な論理か ら答え られる.すなわち, 真言が発言 されるには 「その前に」 というこ

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