The Legalization of Illegal Occupation of the Itami Airport Site
K
ANEBISHIKiyoshi
Should squatting, which is a worldwide phenomenon, be treated as an extralegal concept positioned outside the framework of national law, or should it be incorporated within legal frameworks? Squats are normally regarded as areas in which national law does not apply, and as such, the civil authorities of nations that do not address squatting in their legal systems either turn a blind eye to it or resort to eviction. This report, however, concerns itself with one of the biggest cases of illegal occupation in Japan, and how the authorities sought to resolve the issue amicably through public compensation conforming to the nation’s legal system. In this respect, illegal occupation could be seen as having been incorporated within the nation’s legal system.
In this paper, I use Durkheim’s concept of the cult of the individual to examine the logic that enables squatting, which in many countries is treated as lying outside the law, to have been incorporated into a legal system along with public compensation. Durkheim’s “cult of the individual” defines the individual as the one and only constant on which people can count in the modern world with its increasing complexity, division of labor and diversity of ever-changing opinion. The squatters concerned in this case were forced to live life bare, alienated from the privileges that normally attach to individuals, such as good environment (the site suffered jet noise pollution), status as nationals (the squatters were Korean), and property under the law, but this does not invalidate the concept of the cult of the individual. Public compensation for the illegally occupied land rather pointed to opportunities in the system for remediation in the process of personification.
More specifically, I attempt to show how it was in the context of personification of (1) airport facilities at the public administration level and (2) roadside deities at the private sector level that compensation for the people living on the illegally occupied site was arranged and illegal occupation resolved. The purpose of this report is to provide social policy pointers to halting and reversing the localized proliferation of poverty.
Keywords: illegal occupation, cult of the individual, living life bare, roadside deity effect, socialization
賤
民と百姓
( Senmin ) and P easants ( Hyakusho ) in Late T ok ugawa Japan木下光生
共同研究の全体テーマ 「身体と人格をめぐる言説と実践」 を、 ほ とんど意識されてこなかったが、その問いを、自己の「客観的な (人格)の間に生ずるズレやせめぎ合いをめぐる問題に 「崩壊(解体) 」す 見 て み る と、 当 時 の 民 衆 が「 身 分 」 を 相 対 化 し よ う と し て い た ど こ ろ か、 むしろそれにこだわりまくり、身分を拠り所にした自己表明を、運動によって公言し て憚らない人びとであった点に気づかされる。しかもそれらの運動は、いずれも、他 身 分・ 他 賤 民 と の「 平 等 」 で は な く、 「 差 別 化 」 を 図 ろ う と す る も の ば か り で あ り、 それに邁進すればする ほ ど、本来複雑な実態をもつ「客観的な自己」と「自分が自覚 する自己」をひたすら乖離 ・ 分裂させるものであった。こうした動向を、単に「限界」 視するのは無意味であり、人びとが「身分」に寄り添おうとした切実な思いに、もっ と肉迫し得るような発想と時代認識をもたなければならない。 加えて、他者との「差別化」を孕むような地位向上運動は、近現代日本社会でも確 認できる。その意味で、 「身体と人格をめぐる言説と実践」という問いかけは、 「前近 代/近代」という既存の時間認識を相対化する可能性も秘めている。 【キーワード】賤民、百姓、自他認識、解放運動、身分 A Mitsuo 賤 民たち を自覚する人びとはじめ
に
本稿は、日本の賤民と百姓が一八世紀後半~一九世紀以降、自他の身 分を強く意識し出す状況を素材として、日本近世史研究(以下、近世史 研究とする)において「身体と人格をめぐる言説と実践」を問うことの 意義を考えるものである。 本共同研究の共通課題である「身体と人格をめぐる言説と実践」とい う問いは、 現段階の近世史研究にとって意味があるのか。率直にいえば、 「ない」というのが偽らざる現状であろう。 「身体と人格」 、あるいは「言 説と実践」という用語を自覚的に用いた研究は皆無に近いし、そもそも そうした用語や視角を導入しなければならない切迫性も、近世史研究者 のなかで ほ とんど意識されていないからである。筆者も、近世史研究の なかだけ 0 0 でみれば、右の用語をあえて使わなければならない研究史的要 請(必要性)は今もってないし、今後もないと考えるものである。 だが、 三年間の共同研究で歴史学以外の研究報告と接するうちに、 「身 体と人格をめぐる言説と実践」という問いかけは、実は近世史研究で残 されている課題と置き換え可能の問題群であり、また「非歴史学」研究 と近世史研究の成果を論点的につなげる回路(窓口)ともなり得る、と いうことに気づかされた。とりわけ刺激となったのは、自己の「客観的 な実態」 (身体)と「自己認識」 (人格)の間に生じるズレや、両者のせ めぎ合いをめぐる問題である。 たとえば浮ヶ谷幸代からは、 糖尿病をめぐる「医療的言説と治療実践」 を事例に、 「客観的」 (医学的) には糖尿病という 「病気であり」 ながらも、 その自覚症状がない人びとに対して、自分が「病気である」ことを「自 覚」させていく現代社会の特徴が報告されたし (( ( 、川添裕子は美容整形の 問 題 を 通 し て、 「 あ る が ま ま 」 の 自 分 と、 整 形 す る 自 分 と の 間 で 揺 れ 動 く人びとの 葛 藤を指摘した (( ( 。さらに出口顯からは、スウェーデンにおけ る国際養子を題材に、外見的には「白人の生粋スウェーデン人」ではな いが、自己を「一〇〇 % スウェーデン人」としてのみ規定する国際養子 たちの、社会的位置やアイデンティティの問題が報告された (( ( 。 右の諸事例は、いずれも筆者が専門とする「日本近世」という時間と 場所からは、およそかけ離れたものばかりである。だがそこで貫かれて い る 課 題、 す な わ ち、 「 自 分 自 身 が 自 覚 す る 自 己 」 と、 「 客 観 的 な 自 己 」 との間に生ずるズレや、そのズレをめぐる 葛 藤の問題は、はからずも筆 者がこだわってきた近世賤民の自己認識論と共通するものであり (( ( 、しか もそれは、近世史研究のなかで依然追究が不十分な課題でもある。した がって、 「身体と人格をめぐる言説と実践」という問いを、近世の賤民、 および百姓の自他認識論として解釈し直すならば、近世史研究の課題を 克服しながら、なおかつ本共同研究の眼目である、他分野研究への刺激 を果たすことが可能となろう。 そこで本稿では、かわた(穢多) ・ 非人 ・ 三 さんまいひじり 昧聖(おんぼう) ・ 夙 しゅく といっ た賤民や、村社会に生きる百姓たちが一八世紀後半~一九世紀以降、自 他の身分差をどのように自覚し、表明していくことになるのか、すなわ ち自己の身分的立場をどう「発見」していくのかを追究し、前述の課題 の克服に努めたい。 近世社会は身分制のもとにあるのだから、百姓が「百姓」身分として の 自 己 を 自 覚 す る の は 当 た り 前 で は な い か、 と 思 わ れ る か も し れ な い。 だが、身分(制)社会のなかで生きているからといって、人びとは絶え ず 自 他 の「 身 分 」( 血 筋・ 血 統 で 規 定 さ れ る、 あ る 人 の 社 会 的 立 場 ) を 意 識 し て い る わ け で は な い。 む し ろ「 身 分 」 と は、 単 に「 客 観 的 な 実 態」をあらわしているのではなく、何かをきっかけに「自覚」するとい う、すぐれて自他認識に属する問題なのであり、自分はいかなる身分に 属しているのか、また相手の身分はいかなるものなのかが、誇示・卑下ていたようで、そのときには②とあわせて、③村役人と道で出くわした ら、 や は り 履 き 物 を 脱 ぎ「 手 を 拱 き 平 伏 」( 土 下 座 ) す る よ う 命 じ ら れ たという。皮多に対し、相当屈辱的な行動が強要されたわけである。 しかもより深刻だったのは、この藩法をうけた平 へいにん 人(百姓・町人の総 称)側の態度であった。楢原村皮多はそれまで、農業のかたわら、近隣 の町場や村へ草履や草鞋を売りに行ったり、日雇いの賃金労働者として 雇われたりして生計を立てていた。ところがさきの法令が出た途端、仕 事先の町や村の人びとの態度が一変し、皮多たちが行商などで町村へ出 向くと、法令をかさに屈辱的な言動を強要し、皮多がそれを拒むと、暴 行を加えんばかりになったという。そのうえ、赤穂藩の命令が藩領をこ えて「いずれへも響き渡」るようになったため、他領に属する人びとも 同様の態度を示すようになってしまった。普段の生活が、自分の村のな かだけで(あるいは同じ身分のなかだけで)自己完結していたのならま だしも、他町村の人びと(非賤民)との仕事関係があってこそ世帯経営 が成り立っていた楢原村皮多にとって、完全に「商売あがったり」の状 態になってしまったわけである。 皮多たちも、初めのうちは泣き寝入りしていたらしい。だがとうとう 耐えきれず、寛政一三年、楢原村皮多は事態の改善を求めて藩に訴え出 る に い た る。 そ し て、 そ の と き 彼 ら が と っ た 戦 術 が、 「 御 百 姓( 皮 多 百 姓) 」意識にもとづく他賤民との差別化、 という論法であった。すなわち、 ( A ) 東 国 の 江 戸・ 尾 張・ 伊 勢、 あ る い は 西 国 の 備 前・ 備 中・ 豊 後 な ど には確かに「穢多・非人」がいる、彼らは「御高」 (土地)も所持せず、 ただひたすら「御百姓」の「御恩情」にすがって、 日々「平伏(物乞い) を渡世のかわり」にしているような「穢多の名目」の連中である、 ( B ) だが楢原村をはじめとする播磨の皮多は、土地を持ち、年貢納入もきち んと果たすれっきとした「御百姓」であり、たとえどれ ほ ど困窮してい ようとも、 「在家 ・ 町人衆の御恩情」にすがったことは一度もない、 ( C ) あるいは攻撃されたりするときこそ、 「身分」 が社会のなかで 「生き生き」 とする瞬間なのである。そして本稿で注目する一八世紀後半~一九世紀 こ そ、 賤 民 と 百 姓 の 間 で 自 他 の 身 分 差 が 強 く 意 識 さ れ 出 し、 「 客 観 的 な 自己」と「自覚される自己」との間のズレが明瞭にあらわれてくる時代 なのであった。そうした状況は、とりわけ賤民による賤視からの解放運 動や、百姓としての地位保全・向上運動ではっきりする。以下、それら の事例を一つずつみていくこととしよう。
❶
自己を発見する
賤
民たち
( 1)かわたの 「百姓」 宣言 近 世 の 賤 民 が、 他 身 分 と の 比 較 を 通 し て 自 ら の 身 分 的 立 場 を 自 覚 し、 その自負心を高らかに主張することで、賤視からの解放を目指す。そう した解放運動として、これまで賤民史研究で繰り返し取り上げられてき たのが、 「百姓」宣言にもとづくかわた(皮多・革田などの字をあてる) の 地 位 向 上 運 動 で あ り (( ( 、 な か で も 著 名 な の が 寛 政 一 三 年( 一 八 〇 一 )、 播 磨 国 赤 穂 郡 楢 原 村( 兵 庫 県 赤 穂 市 ) の 皮 多 が、 「 御 百 姓( 皮 多 百 姓 )」 意識をもとにおこした待遇改善要求運動である (( ( 。 楢 原 村 皮 多 が 属 す る 赤 穂 藩 で は 寛 政 一 一 年( 一 七 九 九 ) と 同 一 三 年、 立て続けに皮多の言動を規制する法令が出された。そこで命じられたの は、 ① 領 内 の 皮 多 は 近 隣 の 町 場 や 村 々 の「 小 見 せ 」「 小 酒 屋 」 な ど へ 出 向くとき、履いていた草履や草鞋を店の門の外で脱ぎ、地面に這いつく ばるような姿勢で店内に入ること、②同じく大庄屋や庄屋などの村役人 宅に用事があるときも、門外で履き物を脱ぎ、土下座をして待ちかまえ 用件を済ませること、という行動要請であった。②については、これよ り以前(おそらくは安永七年〔一七七八〕の直後 (( ( )にも藩から指示されし た が っ て、 藩 法 で 指 示 さ れ て い る 言 動 強 制 は、 ( A ) の 連 中 に こ そ 向 け ら れ て し か る べ き で あ り、 我 々「 皮 多 百 姓 」 を「 余 国 の 穢 多・ 非 人・ 茶筅」と同様にあつかってもらっては困る、と主張したのであった。楢 原村皮多は、暴力をも辞さない賤視と向き合い、それをはねのける運動 を 進 め る な か で、 自 分 た ち が 皮 多 と い う「 鄙 (卑( 賤 者 」 で、 「 御 上 様 」 か ら みて「遠き身分」でありながらも、同時に「御百姓」でもある―しかも それは、他賤民との差別化を前提にしている―というかたちで、自己の 身分的立場を強烈に自覚するにいたったのである。 楢原村皮多の「百姓」宣言は、日常の経済活動の切迫性にかられて浮 上したものであったが、同様の意識は、かわたたちが村政運営上おかれ ていた立場からも発露された。近世のかわたは中世以来、百姓とは別に 独自の集落を形成していたが、幕府や藩から把握される行政単位(行政 村)としては、隣接する百姓村と一村扱いされることが多く、しかも立 場的にはその百姓村に従属するかたちをとっていた。この場合、百姓村 が「本村」 (本郷)と呼ばれるのに対し、かわた村は「枝村」 (枝郷)と 位置づけられ、本村・枝村をあわせた一行政村としての村政運営上、枝 村側が種々の不利益をこうむっていたこと(行政村の代表者たる村役人 の選出に参加できないなど)が先行研究で明らかにされている (( ( 。そのた めかわた村のなかには、このような不利な立場から脱却しようと、本村 からの分離独立をはかろうとする人びとが出てくる。その一例が、丹波 国 多 紀 郡 高 屋 村( 兵 庫 県 篠 山 市 ) を 本 村 と す る 皮 多 村( 「 河 原 」 と い う 固有村名をもっていた) が、 文化元年 (一八〇四) ~安政三年 (一八五六) に わ た っ て 繰 り 広 げ た 分 村 独 立 運 動 で あ り (( ( 、「 御 百 姓 」 意 識 は そ の 運 動 のなかで表明されることとなる。 本村―枝村関係がもたらす問題点として河原村が指摘したのは、次の ような事柄であった。すなわち、①本村の高屋村とは行政的には一村で ありながらも、河原村は皮多という身分ゆえ、村落自治の話し合いの場 には一切同席することが許されず、万事我々に相談がないまま村政が進 められている、②そのくせ村入用(村政の必要経費)の勘定のときだけ は、河原村に直接関係のない本村限定の経費までもが「一村」の村入用 として計上され、河原村へその負担がかけられてくる、③さらに、河原 村が所有する七五石の農地(本村からの買入分も含む)についても本村 の管理下にあるため、農業経営が「我々どもの自由」にならない。我々 河原村は、本村の人びとと「同じ百姓」でありながら、右のようなあり さまは誠に口惜しいかぎりであり、このままでは「御百姓」として生き 続けることができない。ゆえに、今日より「本村差配」は一日も受けた くはない。そう決意表明されたのであった。 文化元年に立ち上がった河原村の分村運動は、紆余曲折を経て、その 約五〇年後の安政三年、ついに一行政村としての独立を勝ち取るにいた る。そしてこのかん、運動に邁進する河原村の原動力となったのが「御 百 姓 」 と し て の 身 分 的 自 覚 で あ り、 「 御 高 も 所 持 」 し 年 貢 の「 御 上 納 」 も き ち ん と 果 た す、 「 同 じ 百 姓 」 と し て の 平 等 要 求 で あ っ た。 先 述 し た 楢原村皮多の解放運動と、まさしく同じ論法がとられたわけである。 だが楢原村皮多の「御百姓」意識がそうであったように、河原村が求 めた「百姓」としての平等要求もまた、単純な「反差別」思想にもとづ く も の で は な か っ た。 分 村 運 動 が 開 始 さ れ て か ら ま も な く の 文 化 九 年 (一八一二) 、近隣の百姓村が穢多・非人の立ち入りを禁ずる立札を掲げ た こ と に 対 し 河 原 村 は、 「 穢 多 」 と は「 御 高 」 を 所 持 せ ず、 持 ち 家 も な くて借家住まいをし、死牛馬の処理という「穢れた」仕事のみで生活し て い る よ う な 連 中 で あ る と し て、 「 御 百 姓 」 で あ る 自 分 た ち と、 典 型 的 な 「穢多」 との取り扱いを区別するよう求めた。このときの抗議行動は、 折から始まった分村運動と直接の関わりはなかったが、いずれも「御百 姓」 としての自覚という面では共通しており、 分村運動でみせつけた 「御 百姓」意識も、他賤民との差別化を前提としていたであろうことは想像
に 難 く な い。 当 時 の か わ た に と っ て、 「 百 姓 」 と し て の 自 己 を 主 張 を す るということは、皮肉にも、自分たちがはねのけようとした賤視や社会 的不利益を、自らの手で肯定(再生産)してしまうことを意味していた のである。 ( 2)非人の解放運動 近世社会で「非人」と呼ばれた人びとのなかには、単身で物乞いをし ながら流浪的な生活を送る人もいれば、かっちりとした非人組織に所属 し、 独自の集落を形成してそこに定住する人たちもいた。一口に「非人」 と言っても、その実態は多様であったわけだが、そうした幅広さのなか で も、 「 非 人 」 と し て の 身 分 的 自 覚 を 高 め る 人 び と は 少 な か ら ず 存 在 し て い た。 そ の 一 例 が、 尾 張 国 の 玄 海 村 非 人 が 一 九 世 紀 前 半 に お こ し た、 檀那寺の寺格昇進運動である ((1 ( 。 玄 海 村 は、 名 古 屋 城 下 町 の 東 部 に 所 在 し た 非 人 村 で、 安 永 二 年 (一七七三) には一〇〇〇軒もの家が軒を連ねるような大規模集落であっ た。 そ こ に は、 西 念 寺 と い う 浄 土 真 宗 西 本 願 寺 派 に 属 す る 寺 院 が あ り、 玄海村の人びとの宗教的な拠りどころの一つとなっていた。その西念寺 に つ ど う 門 徒 と 住 職 が 文 政 元 年( 一 八 一 八 )、 西 念 寺 の 寺 格 昇 進 を 目 指 す運動に取り掛かり、以来三〇年にわたって、本山の西本願寺と名古屋 御坊、および尾張藩寺社奉行所を巻き込んだ運動が展開されることとな る。 西 念 寺 側 が 求 め た 昇 進 内 容 は い く つ か あ っ た が、 そ の う ち の 一 つ、 国 くにきぬ 絹袈裟という僧侶格への昇格は、嘉永元年(一八四八)にいたってよ うやく本山で認められるところとなった。そして、国絹袈裟への昇進一 つをとっても、その要求実現までに実に三〇年もの年月を要した背景に は、西本願寺と名古屋御坊が、玄海村を「穢村」 (穢多村) 、および西念 寺を 「穢寺」 (穢多を門徒とする寺) 同然にみなす問題が横たわっていた。 自分たちの村と寺に対する教団内部の見方を知った西念寺門徒は、す ぐ さ ま 次 の よ う に 反 論 す る。 す な わ ち、 「 穢 村 」 は「 身 洗 い 」「 足 洗 い 」 ができないが、我々玄海村非人は、惣 そうない 内(尾張の非人組織を束ねていた 非人頭)に一定の金銭さえ支払えば、いつでも「身洗い」をすることが でき、町人・百姓となって隣り町や隣り村に住むことが可能である。だ から「穢村」と同列にあつかわないで ほ しい、と主張したのであった。 実際、非人と平人の境界が曖昧で、百姓・町人にとって「非人」とい う立場が「明日の我が身」でもあり得たことは、すでに先行研究で指摘 されている ((( ( 。玄海村の人びとは、非人をめぐるそうした現実を味方につ け て、 「 我 々 非 人 は い つ で も 平 人 に な れ る の だ 」 と い う か た ち で 自 分 た ちの身分的立場を自覚し、他者に向けてそれを誇示したのであった。か わたの「百姓」宣言では、自分たちは皮多でありながらも、同時に土地 を持ち年貢を払う「御百姓」でもあるとして、百姓身分との近似性が主 張 さ れ た が、 非 人 の 場 合、 そ れ と は 別 の 方 法 で 百 姓・ 町 人 と の「 近 さ 」 が強調されたといえよう。そしてこの場合もまた、他賤民との差別化が つきまとうことになってしまうのであった。 ( 3)三昧聖の解放運動 三昧聖は、火葬・土葬および墓地管理を専門としていた人びとで、別 名「 お ん ぼ う 」( 煙 亡・ 隠 亡 な ど 種 々 の 当 て 字 が あ る ) と も 呼 ば れ た 賤 民 の 一 種 で あ る ((1 ( 。 彼 ら は、 葬 送 業 で 生 計 を 立 て て い た た め、 「 葬 送 と は 人の死に触れる穢れた行為である。ゆえにそれに従事する三昧聖もまた 穢れた存在である」という理屈で、死穢にもとづく賤視にさらされやす い立場におかれていた。 だが三昧聖側も、そうした状況に唯々諾々としていたわけではなかっ た。寛保三年(一七四三)には、大坂の三昧聖が『行基菩薩草創記』と いう出版物を世に放ち、 「火葬を穢れた行為とするのは間違いであり、 『聖
の職掌』を穢れとみなすのは誹謗中傷である。我々は世間から尊ばれて いるからこそ、 『聖』 あるいは 『御 おんぼう 坊』 と称されているのだ」 と主張して、 三昧聖の職掌に対する強烈な自負を示し、死穢で正当化された賤視をは ねのけようとした。 また一八世紀後半に入ると、この三昧聖の尊さを、同業他者との比較 のなかで主張するようになる。とりわけ、埋火葬業で同業者となる非人 番(非人身分に相当し、 主に町村の治安維持を担当) との差別化を意識し、 同じ「葬事」を手掛けているとは言っても、彼らとは「筋違い」 (血筋 ・ 血統が違う)だと主張したり(明和五年〔一七六八〕 )、仏の教えを熟知 している我々三昧聖( 「仏慮の聖」 )―三昧聖は、自分たちが単なる「遺 体処理者」ではなく、僧侶の一員でもあることに誇りを感じていた―を さ し お い て、 世 間 が「 非 人 体 の 者 」( 非 人 番 ) に 荼 毘 を 任 せ て い る の は 何とも嘆かわしい、 と訴えたりしていた (弘化三年 〔一八四六〕 )。さらに、 仕 事 の 中 身 と は 関 係 な い と こ ろ で、 「 賤 民 」 と し て 穢 多・ 非 人 ら と 一 括 り に さ れ る こ と に 対 し て も 嫌 悪 感 を 示 し、 早 く も 宝 永 三 年( 一 七 〇 六 ) に は、 宗 門 改 帳 を 作 成 す る と き、 「 非 人・ 穢 多 と 一 緒 の 帳 面 に 入 れ ら れ るのは千万迷惑至極」と述べている。そして、このような死穢にもとづ く賤視への対抗と、同業者との差別化、および賤民一括化への抵抗すべ てを含意させるような地位保全・向上運動を、一八七一年(明治四)に おこしていくことになるのであった。 賤 民 称 の 廃 止 を 謳 っ た、 い わ ゆ る「 解 放 令 」 が 発 布 さ れ る 直 前 の 一 八 七 一 年 五 月( 解 放 令 発 布 は 八 月 )、 和 泉 国 の 三 昧 聖 た ち は、 折 か ら 始まった戸籍の作成に関し猛烈な反発を示す。当時の明治政府は、近世 来の身分制に則った戸籍調製を目指していたため、戸籍作成の参考とし て村・町にまわされた雛形も、当然身分別で表記されていた。三昧聖た ちが問題にしたのは、その雛形が「穢多・煙亡・非人」という記載順に なっていたことと、自分たちが「聖」ではなく「煙亡」と表現され、な お か つ「 死 者 を 葬 る 者 」 と い う 一 点 で「 墓 番 非 人 」( 非 人 番 ) と 同 列 扱 いされていたことであった。 三昧聖からしてみれば、穢多の次に記載されるということは、自分た ち が、 「 下 賤 」 な 穢 多 よ り も さ ら に 下 位 の 者 と し て あ つ か わ れ か ね な い ことを意味しており、 すでに一八世紀初頭には宗門改帳の作成において、 穢多・非人との一括扱いさえ拒否してきた彼らとしては、到底受け入れ が た い 措 置 で あ っ た。 ま た、 「 煙 亡 」 と い う 蔑 称 に 対 す る 拒 否 反 応、 お よび同業者だという理由だけで非人番と一括りにされることへの拒絶姿 勢も、 一八世紀後半以来、 彼らが一貫して示してきた態度であった。我々 三昧聖は単なる遺体処理人ではなく、 「先祖の墓を守る御坊」として「諸 人」から「恭敬」されている。だから穢多や非人などとの「格」の違い を理解して ほ しい。そうした思いを三昧聖たちは、解放令が出る直前ま で持ち続けていたのである。賤視からの解放を目指すとき、かわたや非 人が百姓や平人との近さを強調したのに対し、三昧聖はむしろ「 (三昧) 聖」としての固有性にこだわり、そのこだわりにもとづいて他賤民との 差別化をはかり、自己の身分的立場を自覚していったといえよう。 ( 4)夙の 「百姓」 宣言 「 百 姓 」 と し て の 同 質 性 を 謳 い な が ら も、 同 時 に 自 ら の 身 分 の 独 自 性 を 主 張 す る と い う、 独 特 の 解 放 運 動 を 展 開 し た の が、 大 和 国 の 夙( 宿 ) である ((1 ( 。夙は、普段は農業など普通の百姓稼業で生活する一方、吉凶時 には家々をまわって祝言などを述べたりすることを一つの特徴としてい た人たちで、近世には婚姻忌避をうけるなど、賤視の対象ともなってい た。 その夙が賤視からの解放運動に立ち上がったのが、一九世紀前半の文 政~安政期のことである。彼らは、 夙を「穢多より劣った穢れた連中だ」 とする周囲の百姓らの見方に対し、自分たちもまた「御高」を「相当所
持」し、 「西御丸御普請」や「海岸御備」 (沿岸防備)といった幕府の国 家的な事業や政策に献金して 「御国恩」 にも応えている 「百姓」 だとして、 「百姓並の御取扱」をするよう求めた。 「御百姓」としての同質性を主張 して、 賤視や種々の社会的不利益に対抗しようとした、 かわたの「百姓」 宣言とまさしく同じ論法であり、 「百姓並」を強調することで、 逆に「穢 れた穢多」との差別化をはかろうとした点もかわたと共通していた。 だが夙がみせた身分的自覚は、単なる「百姓」宣言にとどまるもので はなかった。というのも、彼らは社会に「百姓並の御取扱」を求める一 方、自分たちは「官家」 (具体的には公家の菅原家とその支流の五条家) と「御由緒」をもっている ほ どの者たちでもあり、ゆえに百姓に代表さ れる 「平民」 との縁組はあえて忌避してきたとして、 「平民」 との差に並々 ならぬ自負を抱いてもいたからである。これは、吉田栄治郎の言葉を借 り れ ば、 「 あ る 場 面 で は 並 の 百 姓 と し て 扱 う な、 し か し 別 の 場 面 で は 並 の百姓として扱えという要求」だといえ、また先述した事例をふまえる な ら、 「 百 姓 」 宣 言 と い う 道 を 選 択 し た か わ た の 動 向 と、 自 分 の 身 分 の 固有性にこだわった三昧聖の論法を、複合させたような自己認識であっ たといえよう。近世の賤民が、自己の身分的立場を自覚するときの複雑 さ、あるいはその選択肢の多様性が知られるというものである。 ( 5) 賤 民の解放運動が孕む諸問題 このように近世の諸賤民は一八世紀後半以降、とりわけ一九世紀に入 ると、次から次へと各々の身分的立場を強烈に自覚するようになり、他 の賤民や平人との比較を通して、 己が何者なのかを「発見」していった。 その自覚はいずれの場合も、自分たちが日々こうむっている賤視や社会 的 不 利 益 を 何 と か し た い と い う 切 実 な 思 い か ら 発 せ ら れ た も の で あ り、 賤視からの解放運動に身を投じることでますます醸成され、昂揚してい く自己認識であった。 しかし、右のような自己表明の仕方は、その原動力となっている切実 さとは裏腹に、 他賤民との差別化という、 深刻な問題を孕むものでもあっ た。賤民たちが立ち上げた解放運動は、一見「反差別」運動であるかの ようにみえる。だがかわたのみならず、非人・三昧聖・夙のいずれもが 目指したのは、賤民一般 0 0 の賤視からの解放ではなく、賤視を他の賤民に 振り向けることで自身の地位の保全や向上を勝ち取ろうとする、極めて 自己中心的な「解放」運動であった。一八世紀後半~一九世紀以降の諸 賤 民 が 高 ら か に 掲 げ た 身 分 的 自 覚 は、 「 反 差 別 」 思 想 に 裏 打 ち さ れ て い たどころか、むしろ逆に、賤民自らが賤視を積極的に肯定し再生産して いくという、大変重苦しい性格を有していたのである。 しかももう一つ問題なのが、この他賤民との差別化運動で示された他 者像と自画像が、およそ当時の賤民や平人の「客観的な実態」とはかけ 離れていたことである。たとえばかわたや夙の「百姓」宣言では、土地 を持って農業をし、年貢をきちんと納めて国家・社会の役に立っている ―夙が発した 「御国恩」 という主張を思い出して ほ しい― 「御百姓」 と、 土地も持たず、持ち家もなく、穢れた仕事か物乞いばかりでメシを食っ て、何の役にも立っていない「穢多・非人・茶筅」=賤民一般が対置さ れていた。 だが実際には、 すべての賤民が死牛馬の処理といった 「穢れた」 仕事や、 物乞いだけ 0 0 で生活していたわけではなく、むしろ農業や商工業、あるい は賃労働に従事したり、 それらの諸生業を複合的に組み合わせるという、 一般の百姓や町人が営んでいた世帯経営と何ら変わらない生活を送って いた賤民は普通に存在していた ((1 ( (特にかわたの場合がそうであり、だか らこそ「百姓」宣言にはある種の「真実味」をもたせることができた) 。 逆に、百姓身分として把握された人びとのなかにも、土地を所有してい な か っ た り( 「 無 高 」 と 呼 ば れ る )、 借 家 住 ま い の 者 が い た こ と な ど は、 取り立てて指摘するまでもない、常識的な歴史的事実となっている。加
えて物乞いという行為も、賤民(とりわけ非人)の「専売特許」であっ たわけではなく、村社会に生きる百姓たちにとっても重要な生業選択肢 の一つとなっていた ((1 ( 。 ま た 尾 張 の 玄 海 村 非 人 は、 「 い つ で も 百 姓・ 町 人 に な れ る 」 と い う か た ち で、 「 身 洗 い 」 で き な い 穢 多 と の 違 い を 主 張 し た が、 玄 海 村 自 身 も 所属する尾張の非人組織には、 組織内での立場を世襲していた惣内など、 あえて非人という身分から「身洗い」しようとはしない人びとも存在し ていた ((1 ( 。さらに、埋火葬・墓地管理の専門家としての自負を表明してい た三昧聖のなかには、実際の火葬業務は配下の「下男」に任せ、自らは 監督者的立場にたって間接的にしか埋火葬に関わらない者もいたし、葬 送業にまったく関与せず、一般の百姓稼業だけで生計をたてる三昧聖も 普通にいた。だがそれでも彼らは、いざ自分の身分的立場を表明する場 に 立 た さ れ る と、 「 我 々 は 人 び と か ら 尊 敬 さ れ て し か る べ き 埋 火 葬・ 墓 地管理の専門家である」という自負心を、前面に打ち出すことができる 心性を持ち合わせていたのである ((1 ( 。 こ の よ う に 一 八 世 紀 後 半 ~ 一 九 世 紀 以 降 の 諸 賤 民 が み せ た 解 放 運 動 は、およそ人びとの「客観的な実態」とはかけ離れたところで遂行され ていた。当時の賤民が、こうした実態と認識とのズレを承知のうえで他 賤民との差別化や平人との近さを主張していたのか、はたまた現実の複 雑 さ を 知 ら ず し て 自 己 の 身 分 的 立 場 を 表 明 し て い た の か は わ か ら な い。 だがいずれにしろ、賤視への抵抗という切実な思いのなかで進められた 解 放 運 動 は、 結 果 と し て、 「 客 観 的 な 自 己 」 と「 自 分 が 自 覚 す る 自 己 」 との間のズレを明瞭なものにした。そしてそれぞれの賤民が、自分のお かれている社会的立場を何とかしようとすればする ほ ど、その溝はます ます深まっていくのであった。
❷
「百姓」
を自覚する人びと
ここまでみてきたように、一八世紀後半~一九世紀は賤民たちにとっ て、自らの身分的立場を積極的に表明していく時代となっていた。だが この傾向は、賤民のみがつくり出していたわけではない。奇しくも同じ 頃、 村 社 会 に 生 き る 百 姓 た ち も ま た、 「 百 姓 」 身 分 と し て の 自 己 を 強 烈 に意識し出すようになっていたのである。 民衆が領主と向き合うなかで、 「百姓」 (「王孫」 )意識をみせるように なるのは中世後期以来の動向であり、 また近世の村社会に住む人びとも、 領 主 や 幕 府 に 対 し 年 貢 減 免 な ど を 要 求 す る と き、 「 百 姓 成 り 立 ち 」 あ る いは「百姓相続」の論理を持ち出して、要求の正当化をはかっていたこ とは、研究史上よく知られた事実である ((1 ( 。その意味で「百姓」意識その ものは、中世以来の長い歴史的伝統を誇っていたといえるが、それが対 政治権力のみならず、同じ民衆同士での比較を通して強く自覚されるに い た る の が、 一 八 世 紀 後 半 ~ 一 九 世 紀 と い う 時 代 で あ っ た。 以 下、 そ う し た 状 況 を 示 す 諸 事 例 を、 百 姓 × 賤 民、 百 姓 × 廻 か い ざ い 在 者、 百 姓 × 百 姓、 という対立図式に整理して見ていくこととしよう。 ( 1)対 賤 民で 「百姓」 を自覚する 百姓が「百姓」身分としての自己を意識するためには、当然それを意 識させる「他者」が必要となる。そしてこうした自己認識が先鋭化され るとき、その比較(攻撃)対象としてもっとも矢面に立たされがちだっ たのが、賤民であった。とりわけ、百姓と賤民の経済的利益が対立する と、 「百姓」としての自己主張が鮮明に打ち出されることとなる。 一 例 と し て 享 和 二 年( 一 八 〇 二 ) ~ 文 化 八 年( 一 八 一 一 )、 丹 波 国 桑 田 郡 保 津 村( 京 都 府 亀 岡 市 ) を 本 村 と す る か わ た 村( 「 江 郷 村 」 と い う固 有 村 名 を も っ て い た ) が、 本 村 側 の 小 百 姓 と 争 っ た 山 論 が あ げ ら れ る ((1 ( 。当時、保津村の小百姓と江郷村のかわたは、共同で保津山という入 会 山 を 利 用 し て い た。 と こ ろ が 享 和 二 年、 小 百 姓 側 が 突 然、 「 保 津 山 の 利 用 区 域 は 身 分 別 に 分 か れ て い る の に、 穢 多 が そ の 境 界 を 侵 し て い る 」 と言い出し、江郷村による保津山の利用方法にケチをつけ始める。そし てこのとき、小百姓側の言い分を正当化していたのが、①穢多の本来の 「 職 分 」 は、 草 履 や 雪 踏 づ く り な ど の「 不 浄 」 な 仕 事 で あ り、 も と も と 農業などやってはこなかった(ゆえに穢多村が保津山を利用することも な か っ た )、 ② だ が 後 世、 穢 多 村 の 人 口 が 増 え た た め、 彼 ら も 田 地 を 小 作するようになり、山の利用が必要となってきた、③そこで保津山の一 定区域に限って、穢多に「肥草」の刈り取りを許してやってきた、とい う歴史認識であった。保津村の小百姓たちは山の利用という、切実な生 活 利 益 を 守 る 運 動 を 通 し て、 〔 農 業 を 本 分 と す る 百 姓 〕 ×〔 不 浄 を 本 分 とする穢多〕という対立図式を強く意識し出し、 穢多とは異なる「百姓」 としての自己を自覚していったのである。 「穢多に土地を持ち農業をやる資格などそもそもない」という発想は、 百姓による賤民所持地の取り上げという行為でも見出せる。たとえば武 蔵国横見郡和名村(埼玉県吉見町)の百姓と、和名村を本村とする下和 名村の長吏(かわた)との間では、長年お金の貸し借りが一般的におこ なわれ、長吏から金を借りた百姓がその担保(質地)として所持田畑を 長吏に質入れしたり、借金の返済期限を守れなかった百姓の質地が、債 権者の長吏へ質流れ(流地)となる場合が普通にみられた。ところが万 延元年(一八六〇) 、和名村の村役人は突如として、 「長吏の身分で田畑 を所持するとは甚だ心得違いである」と言い出し、下和名村の長吏がそ れまで入手していた和名村百姓の質地・流地を、すべて元の地主へ差し 戻すよう長吏に迫った。百姓―長吏間の金銭貸借や土地の質入れは、そ れまで特段問題なくおこなわれていたため、長吏側はこの本村役人の動 きに反発し両者の間で争論となったが、最終的には百姓側が返還代金を 長吏に支払い、一部の質地を元地主へ返すことで示談が成立した (11 ( 。 現在では、 質流れとなった抵当物件の所有権を、 元の所有者(債務者) があとになって主張することは基本的にはできない。 だが近世社会では、 質流れは所有権の完全 0 0 移行を意味していたわけではなく、たとえ返済期 限が切れたあとでも、元金を債権者へ支払いさえすれば、質流れとなっ た土地を取り返す (請け戻す) ことができると信じられていた。 これを 「無 年季的質地請け戻し慣行」といい、中世以来の長い歴史的蓄積を誇る社 会慣行となっていた (1( ( 。したがって右の慣行をふまえれば、前述した和名 村百姓による質地・流地の請け戻し要求も、それそのものとしては特段 珍しい要求ではなかったといえる。 しかし今回の一件は、単に伝統的な請け戻し慣行に則ったものではな く、その背景には明らかに百姓―長吏間の身分差を強調する意識が横た わっていた。そしてこの差を正当化する根拠として和名村百姓が持ち出 し た の が、 〔 土 地 を 持 つ べ き 百 姓 〕 ×〔 持 つ 資 格 の な い 長 吏 〕、 と い う 対立図式であった。さきにみた保津山の山論とあわせるならば、かたや 入 会 山 の 利 用 権 確 保( 拡 大 )、 か た や 手 放 し た 土 地 の 奪 還 と、 両 者 の 要 求内容は具体的には異なってはいたものの、いずれも自分たちの経済的 利 益 を た ぐ り 寄 せ る 運 動 を 通 し て、 〔 土 地 を 持 ち 農 業 を 職 分 と す る 百 姓 〕 と、 〔 不 浄 を 本 来 の 職 分 と し、 農 業 な ど や る 資 格 の な い 賤 民 〕 を 対 置 さ せ、 「百姓」としての自己認識を高めていた点では見事に一致していた。 こうした対置方法が、自身の生活を守ろうとする百姓たちの切実な思 いから発せられたものであったことは間違いない。だがそこで示された 賤民の生業像は、実際の「客観的な実態」とはおよそかけ離れたもので あった。前章でも紹介したように、賤民による農業従事は特段珍しいこ と で は な く、 現 に、 保 津 村 の 小 百 姓 か ら「 穢 多 は も と も と 農 業 な ど し て こ な か っ た 」 と 決 め つ け ら れ た 江 郷 村 の 人 び と も、 す で に 寛 永 八 年
( 一 六 三 一 ) に は 一 石 四 斗 余 と い う わ ず か ば か り の 量 と は い え、 土 地 を 所持し年貢納入を果たしていた事実が確認される (11 ( 。また下和名村の土地 取り上げ問題でも、争論を取り扱った江戸町奉行所が「長吏であっても 田畑の所持は珍しいことではない」と意見して、一時は長吏側の主張を 擁護する姿勢をみせていたことからも明らかなように、賤民による土地 所有は、一面では当時の人びとのなかでも当たり前の事実として受け止 め ら れ て い た。 つ ま り、 百 姓 た ち に よ る、 「 百 姓 」 と し て の 自 己 主 張 と それにもとづく利益擁護運動は、こうした歴史的実態を無視して(ある いは知らずして)遂行されていたのである。 ただし、 右のように賤民の「本来的」な生業を極めて限定的にとらえ、 もって百姓の経済的利益をたぐり寄せようとする動向を、単に百姓から 賤民へ一方的に向けられた「加害」行為とだけみるのは、あまりにも一 面的な見方であろう。というのも、百姓側から生業の限定視とそれによ る生活圧迫を食らっていた当の賤民たち自身、賤視からの解放という利 益を勝ち取ろうとするときには、百姓たちと同じく、およそ現実とはか け離れた、ありもしない賤民像(他者像)をつくりあげていたからであ る(前章参照) 。自らの切実な要求を実現するため、 「客観的な実態」と は乖離した他者(対戦相手)像を措定し―それはとりもなおさず、実態 とは必ずしも一致しない自画像の措定も意味する―、その「創造」され た他者との違いを強調する点では、百姓による賤民圧迫運動も、賤民に よる解放運動もさして差はなかったのであり、むしろ両者は価値観を共 有していたとさえいえよう。したがって、利害対立してしまった百姓と 賤民が、各々、 「客観的な自己(他者) 」と「自分が自覚する自己」との 溝 を 深 め る 方 向 で 自 ら の 身 分 的 立 場 を 自 覚・ 表 明 す る 動 き を、 「 加 害 / 被害」という二分法で評価するのは ほ とんど無意味な行為である。 右では百姓が、賤民と経済対立するなかで「百姓」としての自己認識 を高めていく動向をみてきたが、その ほ かにも、百姓に対する賤民側の 立 ち 居 振 る 舞 い も、 「 百 姓 」 意 識 を 高 ぶ ら せ る 一 つ の き っ か け と な っ て いた。 摂津・河内では弘化二年(一八四五) 、両国の二〇四カ村が結集して、 日頃村々の治安維持を担当する非人番の「御取締」を、大坂町奉行所へ 願い出る訴願運動が展開されていた (11 ( 。村々が非人番の取り締まりを求め るにいたったのは、非人番たちが近年「増長」しているとみられていた からで、具体的には、①本来なら毎朝村役人宅にうかがって用向きがな い か 尋 ね る べ き な の に そ れ を し な い、 ② 村 役 人 が 呼 び 出 し て も、 「 御 上 の御用がある」などと言い訳を並べて出頭要請に応じず、村役人の言う ことを聞かない、 ③「遊興」ばかりを好んで「不相応の風俗」になずみ、 村にもすぐ「無心がましい」ことを言ってくる、といったことが問題視 されていた。そしてこのような職務怠慢や生活態度をめぐる問題とあわ せ て、 ④ 村 人 の な か に は 心 得 違 い を し て、 非 人 番 と「 心 易 く 友 達 の 様 」 になり、酒食をともにする人もいるため、次第に村人と非人番との間の 「 行 儀 」 が 崩 れ る よ う に な り、 非 人 番 を「 様 づ け 」 で 呼 ん だ り、 非 人 番 が村人を「呼び捨て」にするという逆転現象が生じていることも指摘さ れたのであった。摂津・河内二〇四カ村の村々はこうした事態を打開す る た め、 非 人 番 の 綱 紀 粛 正 と、 彼 ら と の「 あ る べ き『 行 儀 』( 身 分 の 上 下 関 係 を わ き ま え た 礼 儀 作 法 )」 を 求 め て、 大 坂 町 奉 行 所 へ 多 数 派 攻 勢 的な訴願運動(国訴 (11 ( )を仕掛けていったのである。 大 勢 の 村 が 寄 り 集 ま っ て 賤 民 と の 付 き 合 い 方 を 取 り 決 め て い く 動 き は、前述した訴願運動という形式のみならず、村々が取り結んだ広域的 な地域協定 (郡中議定) でもみられる。 一例として天保一三年 (一八四二) 、 摂津国菟原・八部郡村々では、折から幕府が進めていた物価引き下げ策 と 連 動 す る か た ち で、 「 郡 中 申 合 取 締 書 」 と い う 協 定 書 が 交 わ さ れ て い た (11 ( 。物価引き下げが主眼であったため、取り決められた箇条の多くは奉 公 人 や 諸 職 人 の 賃 金 抑 制 に 関 わ る も の で あ っ た が、 そ の な か に は、 「 も
し皮多が 『直し』 (雪踏などの履き物の修繕) の行商で村や町の家々にやっ てきたとしても、家の門口から内へは決して立ち入らせないこと」とい う条文も含まれていた。皮多が行商しにくること自体は否定しないもの の、門内にだけは入れさせない、すなわち皮多とは馴れ馴れしく付き合 うべきではないという意思表示が、広域的な地域住民の約束事として公 言されたわけである。 非人番取り締まりを求めた弘化二年の国訴も、皮多との付き合い方を 定めた天保一三年の郡中議定も、史料中に直接「百姓」意識が記されて いるわけではない。だがいずれも広域の村々が結集してなされた動きで あった以上、そこに参画した人びとが、賤民との接し方を取り決める運 動 を 通 し て、 「 百 姓 」 な い し は「 平 人 」 と し て の 自 己 を 強 く 意 識 し た で あろうことは想像に難くない。 また非人番の取り締まり要求運動では、身分差をわきまえた礼儀作法 が求められたとはいえ、 運動参加者の口から図らずも吐露されたように、 実際には賤民と「仲良く」付き合う百姓は普通に存在していた。そのこ とは、同じ百姓の間でも賤民に対する向き合い方が一様ではなかったこ とを示していようし、一人の人間のなかでも、賤民に厳しく接する姿勢 と、 「友達」のごとく振る舞える態度とは、 同居させることが可能であっ たともいえよう。その意味で、賤民の「あるべき」立ち居振る舞い方を 求めた訴願や協定は、実際には賤民と交流しているという「客観的な実 態 」 と、 「 あ る べ き 」 百 姓 と し て の 自 画 像 を、 ひ た す ら 乖 離 さ せ て い く ような運動なのであった。 ( 2)対廻在者で 「百姓」 を自覚する 村社会の人びとに、 「百姓」 としての自己を目覚めさせたもう一人の 「他 者」が、 種々の名目で村々へ巡ってくる廻在者であった。近世社会では、 座頭・虚無僧・修験や、寺社の維持資金を募る勧化といった諸種の宗教 者の ほ か、米銭を乞う物乞い( 「非人」 「乞食」と呼ばれる場合もある) 、 あるいは「浪人」を名乗って金銭を乞う人びとなど、さまざまな理由で 村に来訪してくる人たちがいた。彼らへは当初、個々の村民の家から志 し 次 第 の 布 施 や 祝 儀・ 不 祝 儀、 あ る い は 寄 付 金 な ど が 渡 さ れ て い た が、 一八世紀に入ると、そうした人びとが村にやってくることの宗教的・社 会 的 意 義 が 次 第 に 理 解 さ れ な く な り、 廻 在 者 は 村 人 た ち に、 「 ど こ の 馬 の骨かもわからない連中に、大した理由もなく金品の差し出しを強要さ れている」と受け止められるようになっていく。その結果村々は、廻在 者に対する姿勢を徐々に硬化させ始め、受け入れ人数を制限したり、本 来志し次第であったはずの布施などを定額の年間一括払いにしたり、あ るいは場合によっては村への立ち入りそのものを拒絶するようになる (11 ( 。 早 く に は 享 保 九 年( 一 七 二 四 )、 旗 本 小 出 氏 を 領 主 と す る 河 内 国 丹 北 郡 の 一 一 カ 村 が 倹 約 を 申 し 合 わ せ た 際、 「 諸 勧 進 」 や「 物 も ら い 」 を 村 内に入れさせないことが決められた (11 ( 。このとき村々で取り交わされた内 容 は、 「 不 相 応 な 服 装 を す る な 」「 派 手 な 葬 式 を す る な 」「 物 見 遊 山 を す るな」 「博打をするな」など、限りなく「努力目標」に近いものであり、 また恒久的な村法というより、一時的な経済的苦境を乗り切るための時 限 立 法 的 な 地 域 協 定 だ っ た か も し れ な い が、 「 外 」 か ら 来 る 勧 進 や 物 乞 いへの米銭提供を、 受け入れ側の村人たちが 「負担」 と感じるようになっ ていたことはうかがえよう。 さらに一八世紀後半以降になると、廻在者に対する村側の排他的な姿 勢はより鮮明化していき、しかもそれを単に地域協定というかたちだけ でなく、幕府法としても具現化させようと、政治権力を取り込む訴願運 動 が 展 開 さ れ る よ う に な る。 明 和 四 年( 一 七 六 七 )、 摂 津 国 豊 嶋・ 川 辺 郡の三〇カ村は大坂町奉行所に対し、近年、 「宿所」 (身元・素性)も知 れ ず、 刀・ 脇 差 を 帯 び て「 浪 人 」 を 名 乗 り、 村 々 に「 合 力 」( 施 し ) を 頼 み 込 ん で く る 連 中 や、 幕 府 の「 御 免 」( 認 可 ) を も ら っ て い な い「 諸
寺 社 の 勧 化 」、 あ る い は「 売 薬 」 な ど の 名 目 で 村 々 へ や っ て く る 人 び と が 非 常 に 多 く、 加 え て 彼 ら の 態 度 が 極 め て「 理 不 尽 」 で あ る と 訴 え た (11 ( 。 村側に言わせると、これらの人びとに仕方なく少額の「ふせ」を渡して も、額面に不服を申し立てて立ち去ろうとはせず、さらに庄屋・年寄が 用事で村にいなかったり、村人が農業で出払っているときなどは、家で 留守をあずかっている「女壱人」にあれやこれや言い迫って金品を要求 するので甚だ難儀しているという。よって、今後はこうした者たちが村 を「徘徊」しないよう奉行所から命令してもらいたい、と村々は願い出 たのであった。多数派攻勢で幕府から法を引き出す(つくり出す)こと によって、素性も知れず辺りをうろついているような連中を、地域から 排除することを正当化しようとしたわけである。 こ の と き の 願 い 出 が そ の 後、 大 坂 町 奉 行 所 で ど の よ う に 処 理 さ れ た の か は 不 明 で あ る。 だ が こ れ 以 後、 時 期 や 地 域 は 異 な れ ど、 廻 在 者 の 規 制 法 令 が 断 続 的 に 登 場 し て く る こ と だ け は 確 か で あ る。 明 和 六 年 ( 一 七 六 九 ) に は 関 八 州 お よ び 伊 豆・ 甲 斐 国 の 幕 領・ 私 領 村 々 に 対 し、 「 少 分 の 合 力 銭 」 に ケ チ を つ け 合 力 銭 を 余 計 に ね だ り 取 ろ う と す る 浪 人 がいたら即刻召し捕らえよ、とする触書がまわされているし、安永三年 (一七七四)の大坂では、浪人 ・ 旅僧 ・ 修験 ・ 瞽女 ・ 座頭 ・ 物貰いの「ね だりがましい」行為を規制する法令が出ている (11 ( 。廻在者の存在を「鬱陶 しく」感じる村人たちの思いは、明らかに幕府の政策に反映されていく ようになるのである。 このように廻在者たちは一八世紀以降、村々の地域協定や訴願運動に よって、社会にとって「迷惑」な存在としてあぶり出されていった。そ して、 百姓たちによるこうした「敵のあぶり出し」運動は、 摂津国豊嶋 ・ 川辺郡の八九カ村が天保一五年 (一八四四) 、伊丹を拠点とする 「無宿」 (身 元不明)の座頭―実態は「無宿」ではなく、池田在住の座頭であった― による「権柄がましい」態度に反発して、このままでは「百姓 0 0 共家業へ 差し障る」と大坂町奉行所へ訴え出たように (11 ( 、〔身元がはっきりし、村 ・ 地域に根付く百姓〕×〔素性が知れず、辺りをうろつく廻在者〕という 対立図式をひたすら先鋭化させ、 「宿所」 や 「徘徊」 を基準とした 「百姓」 意識をひたすら高めていく役割を果たしたのである。 ( 3)百姓同士で 「百姓」 を自覚する こ こ ま で は 賤 民 や 廻 在 者 と い う、 「 百 姓 世 界 の 外 」 に い る( と み な さ れた)存在との関係を通して、百姓たちがどのように「百姓」としての 自己を自覚していったのかをみてきた。だが一八世紀後半~一九世紀に 昂揚する「百姓」意識は、何もこうした「わかりやすい」他者との対峙 だけで醸成されていたわけではない。百姓×百姓という、同じ百姓同士 での対抗関係によっても「百姓」としての自己認識は高められていたの であり、とりわけ村内の上層百姓に対する小百姓(中下層百姓)側の平 等 要 求 運 動 で そ の 動 向 を 見 出 す こ と が で き る。 天 明 二 年( 一 七 八 二 )、 丹波国保津村の小百姓が、村内の長百姓に対して主張した待遇改善要求 は、そうした運動の典型例である (1( ( 。 前 章 で も 用 い た 保 津 村 で は 中 世 後 期 以 来、 「 五 苗 」 と い う 五 つ の 苗 字 を名乗る家々(長百姓)が村政の主導権を握り続け、近世に入ってから も 庄 屋 な ど の 村 役 人 を 歴 任 し て い た。 五 苗 は 村 の 大 半 の 土 地 を 所 持 し、 保津川の筏問屋株も独占するなど、経済的にも小百姓より優位な立場に あり、しかも両者の格差は村政や経済面だけでなく、五苗に対する小百 姓側の日常的な立ち居振る舞いの仕方にまでおよんでいた。その象徴が 寛永一三年 (一六三六) に定められた村掟で、 そこでは 「百姓」 (小百姓) と 「下人」 (五苗に抱えられた譜代下人) が刀や脇差をさすことはおろか、 「からかさ」 (傘)をさしたり、 足 あしなか 半以外の雪踏や草履を履いたり、 「をれ」 ( 俺 ) と 名 乗 っ た り す る こ と が 禁 じ ら れ、 「 侍 衆 」( 五 苗 ) と 出 会 っ た ら 履き物を脱ぎ、 「 ほ うし」 (帽子)をとることも求められた。保津村では
五苗に対し、万事「慮外」を働かないことが〈村の公法〉として成文化 されていたのである。 だが、 ほ ぼ同内容の村掟をわざわざ元禄一四年(一七〇一)にも再締 結しなければならなかったところをみると、実際には右の行動規制はあ まり守られていなかったらしく、享保一七年(一七三二)に五苗内で作 成された起請文でも、 「古来」 からの 「当村定式」 や 「礼儀作法」 を忘れ、 小百姓らと「同輩のごとく」付き合うことがたしなめられている。そし てとうとう天明元年(一七八一)には、ある小百姓が裏革つき草履を履 いていたのを見咎めた長百姓三名が、その小百姓に暴力をふるう事件が おき、それをきっかけに両者の関係は一気に緊迫していくことになるの であった。 そ の よ う な な か 五 苗 は 天 明 元 ~ 二 年、 領 主 の 亀 岡 藩 に 対 し、 「 村 方 古 法」の遵守を求めて、小百姓全体を相手取った訴訟をおこしていく。そ こで提訴された内容は、五苗―小百姓間の「主従の礼義」の徹底に加え て、小百姓との小作契約の方法や、小百姓の他村奉公規制など多岐にわ た る も の で あ っ た が、 い ず れ の 争 点 に も 貫 か れ て い た の は、 「 小 百 姓 は そもそも長百姓の『家来の身分』にあたるのだから、長百姓の言うこと を聞いて当たり前だ」という姿勢であった。 これに対し小百姓側は、景気や豊凶の変動に対応した柔軟な小作・奉 公人契約を求める一方、長百姓が自分たちのことを「家来」扱いしてい ることについて次のように反論した。すなわち長百姓側は、やれ小百姓 は傘をさすな、雪駄を履くなと言い立て、それを「古来よりの村法」だ と主張しているが、そのような取り決めが小百姓全体 0 0 の「平生」の「法 度」となったことは一度もなく、またそもそも我々小百姓全員 0 0 が長百姓 の「家来」となってきたわけでもない。確かに小百姓のなかには、長百 姓の「家来筋」にあたる者(譜代下人)もおり、彼らが傘や雪駄を遠慮 することはあるが、それは小百姓全体からみればあくまでもごく一部の 人たちの話であり、しかもその一部の「家来筋のもの」ですら、 「三代 ・ 五代以前」までは長百姓に「奉公」してきたものの、現在は長百姓との 関係が疎遠になっている者がいる。大半の小百姓が普段、傘や雪駄を用 いていないのも事実であるが、それは我々が「困窮」していて自然とそ のような品々を使わなくなってきたからであり、決して長年「長百姓中 法度」を心得てきた結果ではない。 元来、長百姓も小百姓も「一同同様の百姓」なのだから、長百姓側も あまり「威光がましい」ことを言わず、たとえ我々と道で出くわしたと しても、 多少のことは大目にみてくれれば、 自然と小百姓たちも 「気ふく」 (帰服) し、 長百姓の 「詞」 にも従うようになるであろう。だから我々に 「主 従あしらい」を強要するのはやめて ほ しい。保津村の小百姓は、日常の 所作にまで口やかましく介入してくる長百姓に対し、譜代下人との差を 微妙に主張しながらも、 自分たちもまた長百姓と同じ 「百姓」 身分であり、 「家来」 扱いされる筋合いはないという自負を前面に押し出して、 同じ 「百 姓」としてのしかるべき扱いを要求したのであった。 こうした小百姓側の動向をふまえると、こののちしばらくして、彼ら が突如として江郷村かわたの保津山利用を問題視し始めたのも、故なき こ と で は な か っ た 点 が み え て こ よ う。 小 百 姓 が、 「 目 下 」 の 江 郷 村 に 対 して「百姓」意識をふりかざし、もって自分たちの生活利益を守ろうと した時期というのは、 折りしも彼らが「目上」の五苗に対し、 同じく「百 姓」意識を鮮明にしていた時期でもあったのだ。したがって小百姓たち が、すでに長百姓との対抗関係を通して「百姓」としての自己に強烈に 目覚めていた以上、その返す刀で賤民に向かって「百姓」意識を剥き出 しにしたとしても、何ら不思議ではない時代状況にあったわけである。 ま た、 長 百 姓 に 出 会 っ た ら 履 き 物 を 脱 ぎ、 か ぶ り も の を と れ と 言 わ れ、それが村の法なのだからと迫られるありようは、まるで播磨国の楢 原村皮多が仕事先で、やれ履き物を脱げ、土下座をしろ、それが藩の法
なのだからと言い寄られた状況を彷彿させるものであり、しかも言うこ とを聞かなかったら暴力が登場する点も共通している。そして、こうし た 状 況 に 耐 え き れ な く な っ た 側 が、 「 同 じ 百 姓 身 分 な の だ か ら …」 と 主 張 し て な る べ く 対 等 な 人 間 関 係 を 求 め、 「 差 別 さ れ て も 仕 方 が な い 人 間 は別のところにいる」と、自分たちの不遇を他者(保津村小百姓であれ ば譜代下人、楢原村皮多であれば他国賤民)に振り向けようとした点も 見事に一致する。一八世紀後半以降、各々の身分的立場を強く自覚する にいたった賤民と百姓が、価値観を共有していた一つの証左であり、彼 らの求めた「平等」が、単なる「反差別」を意味するものではなかった こと―「百姓」としての同等性を主張した保津村の小百姓も、些細なこ とに目くじらをたてなければ長百姓の言うことを聞いてもいいと、五苗 との上下関係を一応認めてはいた―にあらためて気づかされるところで ある。 ( 4)一八世紀後半~一九世紀という時代 このように一八世紀後半~一九世紀は、賤民と百姓の双方が、各々に 降 り か か る 種 々 の 不 利 益 を は ね の け る 運 動 を 通 し て、 「 己 の 身 分 と は 何 なのか」を強烈に意識し出す時代となっていた。まさに、身分を拠り所 に「自己を発見する」時代の到来である。 確かに、庭作りの名手として名をはせた善阿弥の孫、又四郎が延徳元 年( 一 四 八 九 )、 京 都 の 相 国 寺 で 作 庭 を し た 際、 同 寺 鹿 苑 院 の 院 主 に 向 か っ て、 自 分 が「 河 原 者 」( 穢 多 ) と い う「 屠 家 」 に 生 ま れ た こ と の 悲 しみを語ったごとく (11 ( 、賤民が自らの身分的立場を自覚するという行為そ のものは、中世後期でも確認できる。また、庄屋中心にまわされる村落 自治に対し、小百姓の監視機能を高めようとする村政改革運動(村方騒 動 ) を、 「 村 政 を 支 え る 一 員 と し て、 我 々 小 百 姓 も 同 等 に 扱 え 」 と 要 求 する動きだとみなすならば、そうした運動がすでに一七世紀初頭には登 場していた (11 ( 以上、百姓同士の対抗関係で「百姓」を自覚するという動向 も、早くから存在していた可能性が高い。したがって、何らかのきっか けで自らの身分を 「発見」 するという行為は、 それ自体としては今 (一八 世紀後半)に始まった話ではなかったといえる。 だが、自己の発見の仕方 0 0 という点でみれば、一八世紀後半~一九世紀 という時代は、前代とまったく一緒というわけでもなかった。賤民に寄 り添って考えてみれば、己の身分的立場の自覚を、単に自己の内面にだ けおさめておくのではなく、訴願という具体的な運動―本共同研究の共 通 課 題 で い う と こ ろ の「 実 践 」 ― を 通 し て 外 に 向 け て 大 々 的 に 公 表 し、 し か も 他 賤 民 と の 差 別 化 を 声 高 に 主 張 し て 自 己 を 発 見 し て い く 動 き は、 それまで ほ とんどみられなかった現象である。似たような時代的特徴は 百姓側についても言え、彼らもまた訴願運動や地域協定によって、賤民 や 廻 在 者 あ る い は 譜 代 下 人 と の 差 別 化 を 公 言 し、 「 百 姓 」 と し て の 自 負 を高める方法を自らのものにしていた。 ただ、そもそも「身分」というものが、はなから社会の複雑な実態と 対応などしていなかった以上、身分を拠り所にした「自己の発見」運動 は、どうしても現実とはかけ離れた、理念的な他者像と自画像―本共同 研究の共通課題でいうところの 「言説」 ―を前提とせざるを得なかった。 ゆえに人びとは、この運動に邁進すればする ほ ど、自らの手で「客観的 な自己」 (身体) と 「自分が自覚する自己」 (人格) を引き裂くことになっ た。賤民が、 賤視からの解放という切実な思いにかられて創り出した (他 の)賤民像が、奇しくも百姓側が自分の生活利益を守り、賤民生活を圧 迫するために掲げた 「決めつけ」 の賤民像とさして変わらなかったのは、 こうした「自己の分裂」にまとわりつく重苦しさを十二分に象徴する出 来事である。