片山廣子の短歌『いさゝ川』から『心の花』へ――
初期歌風の形成を巡って――
その他(別言語等)
のタイトル
著者
清水 麻利子
著者別名
SHIMIZU Mariko
雑誌名
東洋大学大学院紀要
巻
52
ページ
1-23
発行年
2015
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00008711/
要旨 片山廣子は第一歌集『翡翠』に、 『いさゝ川』 『心の花』などに発 表していた明治四十一年以前の短歌を載せていない。ここまでの歌 の特色は、嘆きを詠んだ歌や恋歌であり、何かに囚われた思いが強 い。 明治四十二年以降、大正五年発行の『翡翠』までは、写生の歌と と も に、 比 喩 的、 空 想 的 な 歌 を 多 く 詠 む よ う に な る。 こ の 嗜 好 が、 一方で、アイルランド文学の翻訳へと進ませたのではないだろうか。 真 摯 に 自 己 と 向 き 合 う『 翡 翠 』 の 歌 風 は、 美 し い 詩 歌 の 境 か ら も、 囚われる自我からも離れ、独自の内面世界を模索することで確立す る。 本 論 で は、 そ こ に 至 る、 『 翡 翠 』 以 前 の 初 期 歌 風 の 形 成 を 巡 っ て 考察した。 キーワード 片山廣子 佐佐木信綱 短歌 『いさゝ川』と『心の花』 われ 目次 はじめに 一、片山廣子の佐佐木信綱への入門 二、歌誌『いさゝ川』における歌の出発 三、歌誌『心の花』における初期歌風の形成 おわりに はじめに 片山廣子の歌人としての歩みと、歌壇の展開の中での短歌の特質 を明ら か に す る た め に、考察を進め て い る。修士論文「芥川龍之介 ・ 片山廣子の短歌―「越びと」をめぐる、うたの道行―」にまとめた、 佐佐木信綱記念館(三重県鈴鹿市)の資料(信綱宛書簡と歌稿)か らは、長きにわたる信綱との師弟関係が、廣子の歌も夢をも育てて
文学研究科日本文学文化専攻博士後期課程
2年
清水麻利子
片山廣子の短歌
『いさゝ川』から『心の花』へ――初期歌風の形成を巡って――
い た こ と が 推 し 量 ら れ た。 ま た、 「 片 山 廣 子 の 短 歌 ― 東 洋 英 和 女 学 院 へ の 寄 贈 本 か ら 見 え て く る も の ―」 ( 二 〇 一 四 年 度 東 洋 大 学 大 学 院紀要第五十一集)にまとめたように、多くの蔵書からは、廣子の 短歌世界を形作ったものが見えてくると考えられる。 廣子は、後にイギリス総領事となる外交官を父に持つ。東洋英和 女学校に学び、西洋的で自由な気風の教育を受け、 「とらわれぬ我」 でありたいと願い続ける。若い頃の歌は、夢想的な思索の歌である。 「 清 新 と い ふ こ と が 詩 歌 の 精 神 で あ る 」 と し た 佐 佐 木 信 綱 は、 廣 子 の歌を「清新」と評し、短歌を詠み続けるように励ます。特色ある 大正歌壇の中で、第一歌集『翡翠』 (大正五年三月)からは、 〈よろ こびかのぞみか我にふと来る翡翠の羽のかろき羽ばたき〉など、自 我と対峙し、囚われず偽ることなき自分の歌を詠んだ歌人としての 姿 勢 が 見 え て く る。 本 論 で は、 『 翡 翠 』 に 載 せ て い な い、 『 い さ ゝ 川』 (明治二十九年十月創刊)から『心の花』 (明治三十一年二月創 刊)の明治四十一年掲載までの短歌に着目して、初期歌風の形成を 辿 り た い と 思 う。 『 翡 翠 』 の 清 新 さ に 繋 が る、 自 己 の 内 面 で あ る 「 わ れ 」 を う た う 歌 風 の 確 立 過 程 を 明 ら か に す る こ と で、 片 山 廣 子 の短歌を、近代短歌の流れの中で位置付けることができると考える からである。 一、片山廣子の佐佐木信綱への入門 片山廣子(旧姓、吉田廣子)は、東洋英和女学校を卒業後、明治 二十九年十八歳の折、友人の新見かよ子と共に、佐佐木信綱を訪ね た。 そ し て、 短 歌 と 源 氏 物 語 の 講 義 を 受 け る よ う に な る。 こ の 頃、 樋 口 一 葉 の 小 説 が 評 判 に な り、 一 葉 の 歌 の 師 は 中 島 歌 子 で あ っ た。 廣子は、十月に『いさゝ川』を創刊し注目を集めていた、二十五歳 の若い信綱の方を選ぶ。同誌に十九歳で初めて短歌を発表。三十一 年 二 月 に『 心 の 華 』( 後 の『 心 の 花 』) が 創 刊。 三 十 二 年 に「 竹 柏 会 」 結 成。 『 心 の 花 』 の 創 設 期 に 関 わ り、 師 弟 の 強 い 絆 が 結 ば れ た ことであろう。以後、長きに亘り厚い交流が続く。 信 綱 が 書 い て い る『 翡 翠 』 の 序 文( 1) に よ る と、 「 竹 柏 会 」 の 合同歌集『あけぼの』 『玉琴』の初期の歌をも載せるように言うと、 廣子は 自分の歌は、たくみを捨てて、事物をありのままに感じたも のでありたい。そして其感じを普通の人と共に分かつものであ りたい。其ためには、美しい狭い詩歌の境を未練気なく離れな ければならない。これが自分の近頃切に感じてゐる点である。 と言い、旧衣であるこれまでの歌を、載せようとはしなかったそう で あ る。 そ れ に 代 わ る べ き 新 し い 衣 が、 「 わ れ 」 で あ っ た と 言 え な いであろうか。なぜなら、廣子は続けて、 併しながら、この翡翠の歌の中には、現在のこの見地を目標と
して見れば、捨てなければならないものも沢山ある。それを捨 て な か っ た の は、 た と へ 多 少 の た く み の 交 っ た 作 で あ つ て も、 狂熱と理智の濃き陰影を印して居る点に於いて、最も強く自分 を現はしたもので、自分の身の半身の如くなつかしく思はれた からである。覚めんとして覚め得ざる心の姿、真面目なる女の 内的生活の記録の一片、新しき道にいづる記念 としての『翡翠』だと述べている。これに対して信綱は、次のよう に記している。 思ふに著者の歌は、今や岐路に立つてゐる。旧衣を破り捨て て、それに代るべき新しい衣が未だ成つてをらぬという状態に ある。固より旧衣は如何に美しとも、それにまさつた新衣だに 得 な ば 破 り 捨 て て も 決 し て 惜 し む に 足 り な い。 著 者 の 態 度 は、 旧い自己にあきたらないで、而も未だ新たなる信念にそふ歌を 得むとして得かねてゐると思はれる。而して著者がその歌風の かかる岐路に立つて、その現在をありのままに曝露しようとし た勇気は、また多とすべきである。而して自分の著者に待つと ころは、その将来の大成にある。自分が著者を知つてゐるもの も、自分に若くものはあるまいと思ふ。 と結んでいる。廣子が旧衣、つまり「美しい狭い詩歌の境」を離れ、 「 強 く 自 分 を 現 は 」 し た「 わ れ 」 の 歌 を 獲 得 す る 途 上 と し て の 岐 路 に立っていることを信綱は示唆し、自分を知るのは「自分に若くも の は あ る ま い 」 と、 「 お の が じ し に 」 の 廣 子 の 歌 の 大 成 を 期 待 し て いるのである。 二、歌誌『いさゝ川』における歌の出発 『 い さ ゝ 川 』 は、 明 治 二 十 九 年 十 月 に 創 刊 さ れ た。 こ の 年、 二 十 五歳の信綱は雪子と結婚をする。五年前の六月、父の弘綱は不帰の 人となっている。二十七年九月には母の光子が逝く。信綱はこれま でに『日本歌学全書』 (二十三年) 『歌の栞』 『校註徒然草』 『標註十 六 夜 日 記 読 本 』( 二 十 五 年 ) 等 を 発 刊。 二 十 九 年 に は、 鷗 外 の「 め ざ ま し 草 」 に 歌 を 寄 せ て い る。 同 年 五 月 の「 め ざ ま し 草 」 に「 笛 」 の連作がある。 ( 2)〈山の端に月はのぼりぬわが笛を今こそ吹かめ 月 は の ぼ り ぬ 〉〈 人 は 世 は わ れ を 捨 て た り し か は あ れ ど わ れ に 笛 あ り こ の 笛 あ る を 〉〈 わ れ は 唯 ひ と り ぞ 吹 か ん わ れ 知 ら ぬ 人 に き か せ む 敢 へ て と ど め む 〉〈 わ が 身 を も 世 を も 忘 れ て 吹 く 笛 の す み ゆ く ま まにすむ心かな〉等の歌を詠む。ここでの「笛」とは短歌の比喩で あろう。日本の古典と和歌を伝授してくれた父の志を継ぎ、若い信 綱は心細いながらも、歌誌『いさゝ川』を創刊するに至る意気込み を感じさせる一連の歌である。 『佐佐木信綱研究』第四号に、田中薫「 「無名氏」作として発表し た信綱の新体詩」 ( 3)の評論が載る。
明治二〇年から三一年まで徳富蘇峰によって発行された総合 誌「 国 民 之 友 」 に は、 「 無 名 氏 」 と い う 覆 面 作 者 の 新 体 詩 が か なりある。二五年から二九年までの五年間でも二〇数篇。その 多くが、現在判読中の明治二五・二六年の信綱自筆創作ノート 『小鈴詠草』 (日本近代文学館蔵で、未翻字)の作品と合致する ことが分かった。 (中略) 「国民之友」の文芸欄は当時、坪内逍 遥、山田美妙、森鷗外、幸田露伴といった文学者の作品を次々 に掲載して人気を博し、多くの読者を獲得していた。若き穎才 として名声を高めつつあったとはいえ、満二十歳の信綱にとっ て、同誌への自作掲載、殊に歌ではない、初(と思われる)の 詩の掲載には、それなりの感懐があったのではないか。 こ の よ う に 早 く か ら、 新 体 詩 に 興 味 を 持 っ て い た こ と が 分 か る。 こ の 後、 『 い さ ゝ 川 』 と『 心 の 花 』 に 多 く の 新 体 詩 を 載 せ る と こ ろ となる。明治二十九年創刊の『新聲』二巻六号( 4)にも、新体詩 「玉くしげ」 〈世に捨てられて世を捨てて/み山の奥にこしかども/ や ぶ れ は て た る 吾 胸 は / 慰 さ む べ く も お も ほ え ず( 略 )〉 を 寄 稿 し ている。 与 謝 野 鉄 幹、 落 合 直 文 と は 既 に 親 交 が あ り、 浅 香 社 の 尾 上 柴 舟、 金 子 薫 園 と は 二 十 九 年 春 に 知 り 合 っ て い る。 『 い さ ゝ 川 』 と『 心 の 花』が、若い主宰者の信綱にも関わらず、旧派和歌から新派和歌ま での第一線の歌人や文学者、研究者が寄稿しているのは、幅広い交 友と信頼があってのことであったろう。 『いさゝ川』創刊について、 『佐佐木信綱作歌八十二年』 ( 2)に、 「十月 歌誌、 「いさゝ川」を 創刊した。当時住んでおった小川町の名に因んだのであった。鷗外 氏は 鍾 しぐ 礼 れの 舎 や 主人の号のもとに、短歌は五行にかくべしとの説を、学 海 翁 は 題 詠 不 可 論 を 寄 せ ら れ た。 」 と の 記 述 が あ る。 廣 子 が 信 綱 を 初めて訪れたのは、この年の暮れのことである。 廣子は、 『いさゝ川』 (第一号から第七号まで)に、短歌四首と散 文一編を掲載されている。短歌は第三号に初めて載り、この号の無 記名の詠草一首が、第四号に「廣子」と記載され、全歌集未収歌を 発見するところとなった。この歌は、題詠でありながらも、生活の 心情を吐露した「われ」の歌であることが興味深い。また、第六号 に は、 初 め て 投 稿 し た 散 文 が 載 っ て い る。 信 綱 が 廣 子 の 文 章 力 に、 早くから気付いていたことが分かる。ここでは、廣子の作品掲載の ないものも含め、全号を紹介しておきたい。 『いさゝ川』第一号 明治二九年十月五日発行(五日定刊)竹柏社発行 巻 頭 和 歌 さざれなみ ― 東 久 世 通 禧、 高 崎 正 風、 黒 田 清 綱、 税 所敦子など 霧はるゝ沖の小じまの松のうへにひかりは消えてのこる月か な (高崎正風) 年を経ていよ〳〵こひし今の世にまさばと思ふことのみにし
て (黒田清綱) みめぐみのふかきを民にくまするや縣の井戸のこゝろなるら む (税所敦子) 巻頭詩 藻かり舩 ―「春のあした」 (新体詩)大塚楠緒子 春のあしたをたちこむる/霞みのとばりかきわけて/あやに かゞやく雲ふみて/美を司りませる神はいま/明ゆく野べを 見おろしぬ(略) 巻頭文 玉がしは ―「そぞろ言」鍾禮舎主人(森鷗外) 散文の句読は文法上より切る習なれば、その意義の断続とこ とごとく吻合するものなれども、韻語のに至りては詩律上より も切らるべく、文法上よりも切らるべくして、この二種の句読 は一致することあり、また相牽くことあるは人の知るところな り。 (略) 百五名出詠。金子薫園、石榑千亦、佐々木雪子など 巻頭和歌には、高崎正風、黒田清綱、税所敦子など、旧派和歌の 歌 人 達 が 作 品 を 寄 せ、 『 い さ ゝ 川 』 の 第 一 号 を 祝 福 す る い ず れ も 旧 派和歌の格調高い風韻のある歌である。 税所敦子は明治維新の後、明治三十三年まで宮中女官として和歌 の 指 導 に あ た っ て い た。 山 田 吉 郎『 明 治 短 歌 の 河 畔 に て 』( 5) に は、 「 旧 派 和 歌 の 正 統 的 位 置 に あ る 女 流 歌 人 で あ り、 当 然 の こ と な が ら 歌 柄 の と と の っ た 題 詠 が 中 心 を な し て い る が、 ( 略 ) そ の 作 品 には意外にしなやかな感性がうかがわれる。 」とあり、 「いでておふ 人しなければ里中に螢とぶなりさみだれのそら」を挙げてある。豊 かな情感の中に、やや理が勝っているところは、廣子の歌に通うと ころがある。税所敦子は『いさゝ川』に歌ばかりでなく、第六号と 第七号に「心づくし(上) ・(下) 」(目次は「心つくし」とあるが本 文の表記に従った)として、歌を織り込んだ自伝的散文を寄せてい る。 〈よの中のおも荷になづむ心には野がひの牛もうらやまれつゝ〉 題詠が中心の宮中歌人であっても、晴れでなく褻を詠む時には、こ のような歌もあったのである。 信綱は、明治十九年十五歳の頃には父の弘綱に代わり、鈴木重嶺 や中島歌子らの歌会に出席しており、樋口一葉とも交流がある。明 治二十二年十八歳の二月、高崎正風から御歌所へ入るように勧めら れ、近眼視の悪化のため、断ったという。若年ながらも信頼を集め、 若いからこそ、年長者の旧派和歌を『いさゝ川』の巻頭に置いたの であろう。 一 方 で、 巻 頭 詩 に「 春 の あ し た 」( 新 体 詩 ) 大 塚 楠 緒 子 を 掲 載 す る。信綱が新体詩を多く発表していることは既に述べたが、翌年に 島崎藤村が『若菜集』を刊行するように、新体詩は新時代に受け容 れられている。しかし、そればかりでない。二十一年九月、父の弘 綱は雑誌『筆の花』に「長歌改良論」を発表。万葉時代の五七調か ら平安時代の七五調へと移行したことを受け、七五調の長篇を作る べ き と 主 張 し、 旧 派 の 人 々 に 非 難 さ れ て い た と い う。 父 を 擁 護 し、
「 新 体 詩 」 の 新 し い 表 現 形 式 で、 長 篇 詩 の 弘 布 を 心 掛 け た と 考 え ら れる。 巻頭文「そぞろ言」の鍾禮舎主人(森鷗外)は、和歌には韻律が 最も大切だと力説する。 第一号には百五名もの出詠があり、今後編集面で『心の花』を支 える、石榑千亦の名が見える。吉田廣子は第三号からの出詠となる。 『いさゝ川』第二号 明治二九年十一月三十日発行 巻 頭 和 歌 さざれなみ ― 落 合 直 文、 与 謝 野 鉄 幹、 小 金 井 喜 美 子、 大塚楠緒子など 近江の海夕霧ふかしかりがねのきこゆる方やかたゝなるらむ (落合直文) さと川の一もとやなぎかげやせて霧にしめれるありあけの月 (与謝野鉄幹) 機織女がはたおりはてゝつく〳〵と見あぐる空を雁帰るなり (佐佐木信綱) 何となき物のひゞきもめし給ふみ声かとのみあやまたれつゝ (小金井喜美子) 巻頭詩 藻かり舩 ―「鹿の骨」 (新体詩)安藤直方 巻 頭 文 玉がしは ―「 題 詠 を 廃 す 可 き 事 を 論 ず 」 依 田 百 川 (学海) 奥付記載歌 ゆき〳〵て海とはならむいさゝ川人にしられぬな がれなれども 奥付の「ゆき〳〵て海とはならむいさゝ川」の一首からも、信綱 が 万 葉 集 を は じ め 日 本 古 典 文 学 の 研 究 者 と し て 多 忙 な 日 々 の 中 で、 歌誌の創刊にかける期待の大きさが伝わる。 第二号の巻頭和歌は、旧派和歌が中心であった第一号と大きく異 なる。落合直文、与謝野鉄幹、小金井喜美子、大塚楠緒子らの若手 の作品を掲載し、歌誌として進むべき進路を、信綱は大きくここで 舵取りしたのである。歌はまだ題詠の古めかしさがあり、 「湖上霧」 ( 直 文 )「 秋 暁 」( 鉄 幹 ) な ど、 各 々 題 を 付 す。 信 綱 の「 機 織 女 」 の 歌 は、 「 足 利 に も の し け る と き 」 の 題 で、 絹 織 物 の 産 地 の 足 利 へ の 旅 を 伝 説 を 重 ね 空 想 的 に 詠 む。 「 は た お り は て ゝ つ く 〳〵 と 」 に、 作者の穏やかな人柄を感じさせる。小金井喜美子は「父の身まがり ける頃」とあり、父親の逝去の状況が、その後の喪失感とともに伝 わってくる。 こ こ に、 依 田 百 川 が 題 詠 に つ い て 意 見 を 述 べ て い る。 「 凡 そ 心 に 思ふ事。目に見る事を。ありのまゝに述ぶればこそ。其事実明らか に。其心もよく知らるれ。さるを題をおきてよみ出づるからに。己 が心はそらになりて。唯おもしろく珍らかによみ出むとして。己が 心 に も あ ら ぬ 事 を よ み 出 る な り。 」 あ り の ま ま に 気 持 ち を 詠 も う と すれば、題詠は不自由なものであるとの主張である。 鉄幹は明治三十三年四月から、新詩社の機関誌『明星』を中心に、
浪 漫 的 歌 風 の 新 派 和 歌 の 旗 頭 と な っ て ゆ く。 「 新 詩 社 清 規 」 に、 自 我独創の詩を楽しみ、師弟の関係をなくすことを掲げる一方で、桂 園 派 の 古 典 の 模 倣 を 継 承 し、 「 丈 夫 風 」 の 歌 を 詠 む。 信 綱 の 方 は 師 弟関係は強固なままで、 「おのがじしに」の個性を尊重し、 『いさゝ 川』から『心の花』へ少しずつ、題詠からの歌の改革を推し進めて いくのである。 『いさゝ川』第三号 明治三十年三月十八日発行 巻頭文 玉がしは ―「いさゝ川に寄す」 )東久世通禧他 巻 頭 和 歌 さざれなみ ― 東 久 世 通 禧、 高 崎 正 風、 黒 田 清 綱、 落 合直文など 巻 頭 詩 藻かり舩 ―「 惆 帳 」( 新 体 詩・ 七 五 調 三 十 六 句 ) 与 謝 野 鉄幹 36頁吉田廣子(田家梅)賤が屋は春の夜ごろぞおもしろきひま もる風も梅が香のして 41頁(惜歳暮)四十八 いたづらになす事もなく世にふればい よ〳〵惜き年の暮哉 前 年 の 暮 れ に 入 門 し た 廣 子 の、 早 く も 初 の 掲 載 歌 と な っ た の が (田家梅)題詠の「賤が屋は」である。侘しい情景の中に「梅が香」 の艶やかな風情があり、古典歌の模倣かと思わせる、優等生的な一 首。 「 賤 が 屋( 下 賤 の 者 の 家、 農 家 や 漁 師 な ど の 家 ) は、 春 の 夜 の うちに興趣が感じられる。隙間を洩れてくる風も梅の香りがするか ら」と詠む。古典歌を繙くと、 『風雅集』所収の足利尊氏の詠歌に、 〈 軒 の 梅 は 手 枕 ち か く 匂 ふ な り 窓 の ひ ま も る 夜 は の 嵐 に 〉 が あ り、 心を詠むことを重んじた京極派の清新な叙景歌といえる。廣子の母 は二条派の和歌を嗜んでいる。題詠に臨み、古歌に影響を受けるこ ともあったであろう。 〈 賤 が 屋 は 春 の 夜 ご ろ ぞ お も し ろ き ひ ま も る 風 も 梅 が 香 の し て 〉 の 廣 子 の 歌 を、 次 の 第 四 号 で、 鈴 木 展 太 郎( 山 家 梅 )〈 山 ざ と の し づが垣根の梅のはなをる人なくてちりにけるかな〉と並べ、大橋文 之 が 歌 評 し て い る。 ( 十 七 頁 か ら 十 八 頁 )「 展 太 郎 ぬ し の 山 里 の 歌。 廣子ぬしの賤が屋はの歌。前なるは、桜ともなりぬべく、後なるは、 賤が屋にも限るべからず、題に梅といひ、田家とあれば、しか詠ま れしものならめど、前の三句、梅の花を桜の花とし、折る人を見る 人 と し て、 花 の 題 に 改 め、 後 な る 題 の、 田 家 と あ る を 削 ら れ な ば、 好 き 一 対 の 歌 な ら む か し。 」 題 詠 の 題 を 変 え れ ば と ま で 言 う の は、 題詠そのものの限界を感じさせる歌評となった。 『いさゝ川』第四号 明治三十年四月十二日発行 48頁吉田廣子(名所の花)わたし守ふねこぎとめて眺むめり角 田のかはのはなの夕ぐれ
60頁 廣 子 ― 四 十 八 い た づ ら に な す 事 も な く 世 に ふ れ ば い よ 〳〵惜き年の暮哉 掲 載 二 回 目 の、 ( 名 所 の 花 ) 題 詠「 わ た し 守 」 の 歌 は、 二 つ の 視 点 が 特 徴 と な っ て い る。 「 わ た し 守 が 舟 を 泊 め、 一 息 つ い て 桜 を 眺 めているらしい。隅田川の花見の先ほどまでの賑わいの後、どこと なく桜に風情のある夕ぐれ時であることよ」いつしか、作者の視点 はわたし守の目に重なってゆく。昼間の盛りの花ではなく、夕ぐれ の隅田川の桜を詠んだ風趣により、信綱に採られたと思われる。 〈いたづらになす事もなく世にふればいよ〳〵惜き年の暮哉〉は、 ( 惜 歳 暮 ) の 題 詠 で、 前 の 号 に 無 記 名 で 載 っ て い る 詠 草 で あ る。 互 選 詠 草 で あ り、 一 名 が 採 っ て い る。 こ の 号 に「 廣 子 」 と あ る の で、 吉田廣子の歌であろう。これまでのように型にはまったところはな く、率直に内面の思いを詠んだ自分の歌になっている。そして、こ の一首が廣子が図らずも、個の自覚としての「われ」を詠んだ最初 の 歌 で あ る。 ( 惜 歳 暮 ) と い う 題 詠 が、 そ う さ せ た と 言 え る の か も しれない。 (惜歳暮)の題詠で、五名以上が採った歌。 〈果もなき学の道をた ど る 身 は い よ い よ 惜 き と し の く れ か な 〉〈 い く 夜 ね ば 春 は 来 な ん と 指 を り て 母 に と ひ つ る 事 も 有 し を 〉〈 く れ ゆ く を 惜 ま ざ り し は こ ん 年を嬉しとまちし昔なりけり〉どれも分かりやすく共感を得やすい 歌である。 「こん年を嬉しとまちし」三首目の歌と比べると、 「いた づらになす事もなく」と嘆息する廣子の歌は、十九歳とは思えない 内省的な歌いぶりである。自己の内面と向き合う姿勢が芽生えてき た。広く学問を修め、何事かを為したくも為しえない焦りの思いで あ っ た ろ う。 〈 過 し つ る 月 日 お も は で み な 人 の あ や な く 年 を 惜 む け ふ か な 〉 の 歌 を 廣 子 一 人 が 採 っ て い る の は、 「 い た づ ら に な す 事 も なく」という同様の思いからか。 信 綱 が 評 を し て い る。 「 大 方 は 似 た る 趣 な る 中 に、 二 二 番 や こ の 中 の 秀 逸 な ら む。 二 七 番 の 上 句、 誰 も 思 ひ よ り ぬ べ き さ ま な が ら、 ふといひいでがたきを、よくいひまはされたり。五十番は、をのか さ な り た る た め、 一 首 の 調 く だ け た り。 」 二 二 番 は〈 く れ て ゆ く 年 の別ぞをしまるゝ柳をむすぶかどでならねば〉二七番は〈春をまつ 事のしげきにまぎれても猶をしまるゝ年の暮かな〉五十番は〈くれ ゆくを〉の歌である。 風韻と調べを重んじた信綱らしい歌評である。 『いさゝ川』第五号 明治三十年五月二十六日発行 55頁吉田廣子(春の歌の中に) やつ橋のむかしもかくや匂ひけんあはれもふかき杜若かな 同じ題の中には、桜、梅、藤といった春を代表する花々の叙景歌 が多い。廣子が『伊勢物語』の杜若を詠んでいるのが個性的である。
出詠した四月には、まだ杜若は咲かぬであろうから、師の信綱の歌 にもあるように、短歌に古典を導き、空想で詠んだのであろうか。 この号に、題詠互選歌の廣子が採っている歌がある。 (新年) 〈ふ じのねのみ雪はこぞの儘ながら新まりても見ゆるけさ哉〉 (庭上松) 〈春秋の花も紅葉も よ そ に し て い く世へ ぬ ら ん庭の お い ま つ〉 (春月) 〈この春はわきてあやなく霞むらんみはしの花にかゝる月影〉の中、 一 首 目 は「 新 ま り て も 見 ゆ る け さ 」、 二 首 目 は「 よ そ に し て い く 世 へ ぬ 」、 三 首 目 は「 こ の 春 は わ き て あ や な く 」 と あ り、 廣 子 は、 他 と 違 う 個 性 的 な 着 眼 点 の 歌 に 注 目 し て い る。 「 み は し の 花 」 は 紫 宸 殿の左近の桜の異称である。三首はどれも風流で格調高い世界では あるが、題詠の歌の窮屈さを禁じ得ない。 題詠の堅苦しさから、自由に表現できる散文を書いてみたいとの 思いに駆られたのかもしれない。第三号巻末には、 「いさゝ川課題」 と し て 四 月 か ら 十 二 月 ま で の 課 題 を 提 示 し た 後 に、 「 課 題 は 賛 助 員 の撰を経て掲載す。課題外の和歌の添削を請はるゝ諸君には規則書 を 呈 送 す。 」 と あ る。 廣 子 は 次 の 第 六 号 に 物 語 を 投 稿 し、 掲 載 さ れ ている。 『いさゝ川』第六号 明治三十年六月二十八日発行 38頁 ~ 41頁 吉 田 廣 子「 昔 物 が た り 」( 目 次 は「 昔 物 か た り 」 と あるが本文の表記に従った) 昔物がたり 吉田廣子 *一部を引用。 ( )内に要旨を示す。 ( こ の 世 が 開 け 始 ま っ た 頃、 日 の 御 神 は、 萬 の 神 た ち に 勝 れ、 天 地 を 御 心 一 つ に 治 め て い ら っ し ゃ っ た。 雄 々 し き 御 気 性 で あ る が、 とても風流を好まれた。下界を御覧になって、大変さびしげなので、 空をとぶ鳥をすべて呼び、明日は各々に歌の一手を教えるので残ら ず集まれと告げられた。 ) 形さゝやかにおかしげにて、雲雀といふ鳥なりけり。いとと うまゐりしものかな、志にめでて、我もとも好める歌を教へん とて、いみじうはなやかなる御聲に、春の歌をうたひ給ふ。い ととくおぼえにければ、御気色うるはしくて、此歌きこえん折 にぞ、天地ものどかにならんと宣はす。あまりのうれしさに心 も空になりて、八重立つ雲を上りつ下りつくりかへしうたふに、 萬の鳥ども、目をそばだてゝ羨み合ひつゝ、我先にとまゐりつ どふ。神うみ給ふさまもなく、一つ〳〵にことなれるを教へ給 へば、皆ほこりかにうたひかはして、家路に急ぐ程、こよなう にぎはゝし。 ( 夜 に な っ た。 夜 の 女 神 は、 悲 し げ に 泣 く 声 を 聞 き、 近 寄 っ て 御 覧になると、梢の茂みにうごめく鳥がいる。訳を聞けば、日の御神 に歌を教わりたくとも、御前に出るのが恥かしく、躊躇ううちに日
が暮れてしまったので泣いているのだと話す。 ) あはれときこしめして、さらばわれいとよき歌を教へん、日 の 御 神 な り と も よ も 知 り 給 は じ、 と ほ の か に 歌 ひ い で 給 ふ に、 此世ならぬ御聲、いひしらずあはれなり。くりかへし教へ給ひ て、さはこれまでなり、別れんよと、そよ吹く風に白き御衣を 靡かせつゝ昇らせ給ふ。あかずうちながむるに、白雲あはれに たなびきて、ありし御かげも見えず。またいつかはと思ふにも 堪へ難うこひしくて、かの御かたみの歌を忍びやかにうたへば、 我ながら涙も落しつべく悲し。されば時移り世変りて後も、猶 其折の忘れがたきにや、雲雀野山を辞して、百鳥聲ををさむる 頃、これは深き山をいでて、月のかげにうたふとぞいひ伝ふる。 まことにやありけむ。 あ た か も、 信 綱 を 慕 っ て 集 う 竹 柏 会 の 華 や か な 歌 会 を 思 わ せ る。 「 う み 給 ふ さ ま も な く、 一 つ 〳〵 に こ と な れ る を 教 へ 給 」 う 日 の 神 のアポロンが信綱。雲雀は、華やかな女流歌人達。月のかげに歌う のは、廣子であろうか。無口で写真嫌いの廣子を、クチナシ夫人と 呼んだのは室生犀星である。夜の女神は「くりかへし教へ給ひ」て、 「 ま た い つ か は と 思 ふ に も 堪 へ 難 う こ ひ し く て 」 月 の か げ に う た う 鳥 の「 昔 物 が た り 」 で あ っ た。 短 歌 と い う 自 己 表 現 の 歓 び を 知 り、 尊敬する師や先輩達への憧れと情熱に満ち、さらに、日の下ではな く月のかげにうたう鳥というのが、いかにも歌壇の中で孤高を保っ た廣子らしい姿である。 信 綱 は、 『 明 治 大 正 昭 和 の 人 々』 ( 6) の 中 で、 「 廣 子 さ ん の 歌 文 の道に対する熱心、従つてその進境はめざましかった。 」「当時の橘 糸重さんや大塚楠緒子さんに続く年配で、同じくその才と人のすぐ れ て ゐ る の を 認 め て ゐ た 自 分 は、 あ る 日 永 田 町 の 吉 田 家 を 訪 う た 」 と記し、才能が伸びるよう、理解ある人との結婚をと話したという。 第六号目次には、信綱の父、弘綱の「後撰集遠鏡(一) 」「梨のか た 枝 抄( 下 )」 の 次 に、 税 所 敦 子 の「 心 つ く し( 上 )」 、 ひ と つ 空 け て、吉田廣子「昔物かたり」となっている。若干、十九歳の時の初 めての投稿である「昔物がたり」は、期待と注目を集めていたこと が分かる。廣子は後に、アイルランド文学の翻訳に取り組むように なり、森鷗外・菊池寛らから高い評価を受ける。随筆や童話も多く 書 く。 随 筆 は 晩 年、 『 燈 火 節 』 に ま と め ら れ、 昭 和 三 十 年 七 月、 第 三回エッセイスト・クラブ賞が贈られている。 『いさゝ川』第七号(最終刊) 明治三十一年一月十一日発行 百人一首、古典和歌集の研究など、古典特集となる。 巻頭歌 さく花のかげをやどしていさゝ川なほも千里にながれ ゆかまし
最 終 号 で あ る。 信 綱 は 巻 頭 に 次 の よ う に 述 べ る。 「 か つ 二 月 よ り は、心の花と名をあらため、わが竹柏園の社友なる石榑千亦井原義 矩の二君、もはら編輯の任にあたり、毎月十一日に発行すべければ、 打 ち つ づ き 愛 読 あ ら む 事 を 請 ふ に な む 」 と し て、 「 さ く 花 の 」 の 歌 を掲げる。第二号の奥付記載の歌〈ゆき〳〵て海とはならむいさゝ 川 人 に し ら れ ぬ な が れ な れ ど も 〉( 54頁 ) と 呼 応 さ せ、 意 気 込 み が 更 に 高 ま っ て い る。 先 ず、 『 心 の 花 』 の 三 月 か ら 十 二 月 ま で の 文 章 課 題 と 和 歌 課 題 を 示 し て い る。 文 章 課 題 が 加 わ っ た の は、 『 い さ ゝ 川 』 に 多 く の 散 文 が 掲 載 さ れ て い た 実 績 か ら の 自 負 で あ っ た ろ う。 第 一 号 は 三 十 頁 余 り だ っ た 歌 誌 は、 第 七 号 で は 百 頁 を 超 え て い た。 『心の花』は文芸総合誌としての新たな門出となった。 三、歌誌『心の花』における初期歌風の形成 『心の花』の歌 『 心 の 花 』( 創 刊 よ り 明 治 三 十 七 年 第 七 巻 ま で『 こ こ ろ の 華 』) 竹 柏 会 出 版 部 発 行。 佐 佐 木 信 綱 が 主 宰 し た 短 歌 雑 誌。 『 い さ ゝ 川 』 を 引き継いだ。 明 治 三 十 一 年 二 月 か ら 四 十 一 年 七 月 ま で の、 『 心 の 花 』 に 掲 載 さ れ た 片 山 廣 子 の 短 歌 を 見 て み よ う。 『 い さ ゝ 川 』 に 引 き 続 き、 こ こ までの短歌を第一歌集『翡翠』に載せていない。初めに、この間の 『 心 の 花 』 へ の 短 歌 出 詠 月 と、 随 筆・ 詩・ 翻 訳 の 年 間 掲 載 数 を 纏 め るととで、見えてくる点を次に述べることとする。 短歌 随筆・詩・翻訳 明治三十一年―二月、四月、七月、九月 ― 随筆十二篇 三十二年 ― ― 随筆三篇 三十三年―(この年から片山廣子の名) ― 新体詩四篇、随筆二篇 三十四年―二月( 「竹柏園集」第一編) ― 翻訳二篇、随筆五篇、 「竹柏園集」随筆十一篇 三十五年―五月( 「竹柏園集」第二編) ― 随筆一篇、 「竹柏園集」随筆六篇 三十六年― 三十七年―五月、七月、九月 ― 随筆四篇 三十八年―一月、三月、七月 三十九年―一月、四月、五月、六月( 「あけぼの」 ) 九月、十一月、十一月( 「玉川集」 ) ― 「あけぼの」詩四篇、随筆二篇、詩二篇 四十年―一月、三月、六月 ― 随筆一篇 四十一年―一月、四月( 「玉琴」 )、七月 短歌を毎月は出詠していなかったことが分かる。空白の年もある。 一方で、散文は熱心に投稿し、明治三十一年には天位を二回受賞し ている。短歌から幾つかを引用しよう。
明治三十一年二月(雪中鶯) 『心の花』 (第一巻第一号) 春たてとなほふる雪のさむけれは花まちかほにうくひすの鳴く 『 心 の 花 』 廣 子 初 め て の 掲 載 歌。 題 詠 と し て は 堅 実 な 詠 い ぶ り で ある。時代はまだ古いままだが、いつの日か自分らしく生きられる 日も来るのではないかと、 「花まちかほ」に歌うように読める。 明 治 三 十 四 年 二 月「 つ ゆ く さ 」『 竹 柏 園 集 第 一 編 』 博 文 館 発 行。 佐 佐 木 信 綱 選。 『 こ こ ろ の 華 』 の 発 表 短 歌 と 書 き 下 ろ し。 全 歌 数 八 三九首。廣子は短歌一篇十二首、随筆十一篇を掲載。 いかにせん夫が羽織のほころびのめには入れどもぬふ由のなき おなじくは耳なき人に告げんより石をあつめてわれかたらばや おさへてもそゞろにうごく心かな岩にもあらず木にもあらぬ身 は 廣子は明治三十二年の二十一歳の時に、大蔵省に勤務し後に日本 銀行調査役となる片山貞次郎と結婚した。翌年に長男の達吉が誕生。 森鷗外や、後には夏目漱石が暮らした、駒込千駄木町の通称「猫の 家」に住んだ。夫の弟妹の面倒を見る立場であり、嫁として日々の 生活に追われる苦労があったという。採り上げた歌は、人の世に生 き る 懊 悩 を 詠 む「 わ れ 」 の 歌 で あ る。 「 耳 な き 人 に 告 げ ん よ り 石 」 に 語 ろ う と は、 周 囲 に 理 解 者 の い な い 孤 独 で あ り、 そ れ で も、 「 岩 にもあらず木にもあらぬ身は」燃え上がってくる情熱を抑えること が出来ないと嘆く。明らかにこれまでの歌とは変化している。 人の手にとらんとすれば消にけり神のめでますつゆのしらたま 風あらく星の光すごしかゝる夜にいかなるつみをたれ犯すらむ 廣子はクリスチャンではないが、東洋英和で学び聖書を読み、キ リ ス ト 教 の 影 響 は 大 き く 受 け て い る。 神 や 星 や 罪 を よ く 題 材 に し、 与 謝 野 晶 子 ら の 浪 漫 派 も、 多 く 詠 ん だ こ と は 知 ら れ て い る。 「 神 の めでますつゆのしらたま」がすぐに消えてしまうというのは、捕ま えておかないと、浮かんではすぐに消えてしまう歌の言葉ともとれ る。晶子は〈人の子にかせしは罪かわがかひな白きは神になどゆづ る べ き 〉 な ど、 『 み だ れ 髪 』 に、 明 治 三 十 四 年 六 月 ま で の 歌 を 収 録 し、三九九首中三十九首に「神」が詠まれている。同じ歳の廣子は 晶子の歌を意識して読んでいたと思われるが、自分は独自の歌を詠 もうという自意識も高かったであろう。 『 野 に 住 み て 』( 月 曜 社 ) の 解 説( 7) に、 「 片 山 廣 子 の「 境 地 」」 として佐佐木幸綱は、 彼女の第一歌集『翡翠』は、近代短歌史のなかできわだった 特色をもっている。哲学的な主題を正面からうたった女流歌人 は、 こ の 歌 集 以 前 に ほ か に は い な い。 與 謝 野 晶 子『 み だ れ 髪 』
が 早 く、 社 会 的 な 面 で の 日 本 女 性 の 新 し い 青 春 を 表 現 し た。 『みだれ髪』が社会的なら、 『翡翠』は女性の内面的な世界を表 現した。このあたりの『翡翠』の短歌史的位置づけをふくめて、 廣子の評価はまだ定まっていない。 と 述 べ、 廣 子 の 独 自 性 は、 「 女 性 の 内 面 的 な 世 界 」 を 表 現 す る と こ ろ に あ る と す る。 廣 子 自 身、 『 翡 翠 』 は「 覚 め ん と し て 覚 め 得 ざ る 心の姿、真面目なる女の内的生活の記録の一片」であることを、信 綱に語っている。内面的世界としての「われ」を詠うことが、廣子 にとって清新な独自の歌の世界であっただろう。 明治三十七年九月「声なき星」 『心の花』 (第八巻第九号) わか草の若かりし世の物思ひいづれば胸もゆるかな 『竹柏園集第一編』に歌を収録した後、翌年の三十五年五月、 『竹 柏園集第二編』に「無題」五首を出詠、次の年は作品がない。三十 七年からは、再び出詠している。一方で、散文は三十一年は『心の 花 』 創 刊 以 来 毎 月 投 稿、 入 選 し て 掲 載 さ れ て い る。 三 十 四 年 二 月、 ミラー「自然の美」の翻訳が載り、この年は多くの随筆を書く。三 十六年は作品がない。 明治三十五年、夫の貞次郎が病気療養となり、三十六年から三十 七 年 に か け て 三 年、 鎌 倉( 長 谷 ) で の 転 地 療 養 が 続 い た。 そ の 間、 流産をし、夫の弟の精一(一高生)が死去した。女性として生まれ たがゆえの煩悶が続いた時期であった。 こ こ で、 当 時 の 女 子 教 育 に つ い て 考 え て み た い。 眞 有 澄 香『 孝 子・毒婦・烈女の力―近代日本の女子教育』 ( 8)に拠ると、 「教育 令 」( 明 治 十 二 年 ) 以 来、 男 子 の 教 育 制 度 は 確 立 さ れ て い く。 し か し、明治三十二年の「高等女学校令」発令まで、女子教育は具体的 に示されることはなかった。男女別学と、 「教育令」第三条で、 「女 子ノ為ニハ裁縫等ノ科ヲ設クヘシ」とあるだけで、 「「教育令」から 「 高 等 女 学 校 令 」 ま で の 二 〇 年 間 は、 い わ ば 女 子 教 育 制 度 の 空 白 期 で あ り、 無 統 制 に よ る 自 由 で 創 造 的 な 女 子 教 育 の 発 展 期 と も な っ た。 」 と い う こ と で あ る。 廣 子 が 十 歳 か ら 十 七 歳 ま で 寮 生 活 を 送 り ながら学んだ、東洋英和女学校などのキリスト教系女学校の進出は、 「 明 治 維 新 に よ っ て 身 分 制 度 か ら 解 き 放 た れ た 庶 民 た ち の 自 由 や 平 等 獲 得 へ の 強 い 意 欲 の 表 れ を も 垣 間 見 る こ と が で き よ う。 」 と 述 べ てある。 〈 わ か 草 の 若 か り し 世 の 物 思 ひ い づ れ ば 胸 も ゆ る か な 〉 は、 夫 の 病が快復に向かいつつある頃であろうか。翌年の四月からは日本銀 行調査役として勤務するまでになる。ようやく平穏な生活が始まり、 東洋英和で学んだ若き頃の「胸もゆる」思いが、再び心を燃やすの である。
『あけぼの』の歌 『 あ け ぼ の 』 明 治 三 十 九( 一 九 〇 六 ) 年 六 月、 修 文 館 発 行。 佐 佐 木信綱選、竹柏会の合同歌集。川田順、石榑千亦等十二名、全歌数 七〇九首。片山廣子の短歌「朝月夜」一〇〇首掲載の中より抄出す る。 末知らぬ野みち山みちいづれにか神のめすらむ方に行かばや うち眠るわが子の寝顔ながめつゝ命を惜しと思ひそめぬる 幼子の人となるまで願はくは此子の親にいのちあらせよ わがせこがやまひを得つる牛込の矢来の里はうきところかも みとせ我かり住居せし長谷寺のみ山のかげの草の家おもふ 初 め の 二 首 は『 心 の 花 』 明 治 三 十 七 年 五 月、 「 野 み ち 山 み ち 」 七 首 の 中 に あ り、 「 読 売 新 聞 」 五 月 八 日 に も 載 せ ら れ て い る。 自 分 の 意志ではどうしようもない、病の夫を介護する生活に、先は見えな いけれど最善を尽くすしかないという、廣子の真摯な姿が感じられ る。長男の達吉はまだあどけない四歳児。その寝顔に、母親として 「 命 を 惜 し 」 と 思 い 初 め た と い う。 「 惜 し 」 は「 愛 し 」 で も あ ろ う。 こ の 子 が 一 人 前 に な る ま で は、 「 此 の 子 の 親 に い の ち あ ら せ よ 」 と 祈 る。 恵 ま れ た 環 境 で 西 洋 的 な 自 由 な 教 育 を 受 け て き た 廣 子 だ が、 今は自分のことは考えまい、ひたすらに目の前の「いのち」を守ろ うとする日々であった。 三 十 九 年 五 月 の『 心 の 花 』 で は、 「 矢 来 の 里 は う き と こ ろ 」 と 言 い、 「 長 谷 寺 」 の 山 か げ の 陰 気 だ っ た「 草 の 家 」 を 回 想 で き る ま で に落ち着いた生活となったのだ。 あやしくもこひしかりけりさきの世は神のゆるしゝいもせなり けむ 忘れむと思ふに消ゆる思ひかはいきの限は君をおもはむ のちの世は蝶ともならむ塵ともあれ物おもふ人と又はうまれじ わがむねの奥に小さき宮たてゝ君を神としひそかにまつる 『 あ け ぼ の 』 に は、 情 熱 の 迸 る 恋 歌 も 含 ま れ る。 先 の 合 同 歌 集 『 竹 柏 園 集 第 一 編 』 に 詠 ん だ「 お さ へ て も そ ゞ ろ に う ご く 心 」 が、 恋 と し て 表 現 さ れ た の が 三 十 七 年 五 月『 心 の 花 』 の「 あ や し く も 」 「忘れむと」の歌。翌月号に「のちの世は」とともに、 「わか草の若 か り し 世 の 物 思 ひ い づ れ ば 胸 も ゆ る か な 」 を 発 表 し て い る。 「 胸 も ゆ る 」 思 い を、 三 十 九 年 五 月『 心 の 花 』 で は、 「 君 を 神 と し ひ そ か にまつる」と、自ら収めようとしている。 世にふれどあるかひもなし人の親の女を生むは罪にあらずや 髪たちて男さびして酒のみてわがおもふ事いはむとぞ思ふ 女ながらも生まれたからには、何事かを為そうとの望みを持つ廣 子で あった の だ ろ う。廣子に時代の方が追い つ い て い な かった。 「あ
るかひもなし」 「女を生むは罪」とまで言い、 「髪たちて男さびして 酒のみ」 「おもふ事」を言えたらどんなによかろうと諧謔を弄する。 三 十 九 年 二 月、 大 森 新 井 宿 に 転 居 す る。 『 あ け ぼ の 』 に 百 首 も の 歌 が 載 っ た の は、 信 綱 の、 『 心 の 花 』 を 代 表 す る 歌 人 と し て の 期 待 と共に、廣子の若き頃からの「胸もゆる」思いが、生活の苦労を越 え、人間味として作品に反映するようになったからではないだろう か。 『心の花』八月号に、 「『あけぼの』を読む」 (松本信夫)が掲載さ れ る。 「 片 山 女 史 の 歌 は 調 想 と 相 叶 つ た 渾 然 た る 美 し き 芸 術 品 で あ る。 」とある。 『心の花』では、 「歌集あけぼのにつきて」 (一)を八 月号( (第十巻第八号八月一日発行)に、 (二)を九月号(第十巻第 九号九月一日発行)に載せ、新聞・雑誌の『あけぼの』の歌集評を 紹 介 し て い る。 ( 二 ) の『 あ け ぼ の 』 と 廣 子 に 関 し た 歌 評 に 注 目 し たい。現物確認できるものは記載(*印)し、他は転載した。 『国民新聞』 「竹柏園社中の俊才が物した短歌、新体詩の優を 抜き秀を蒐めたるものにして選者は現今歌界に其の人ありと知 られたる佐々木信綱氏なり歌は穏健にして句調古ならず新なら ず自ら一種の流派を為せり当今歌調殊更に古撲ならんとして却 て魔道に堕つるもの少からず此の集の如きは此の堕落者を救う に足らんか」 『帝国文学』 「片山廣子女史の「朝月夜」橘糸重女子の「にげ ゆくかげ」など、夫々におもしろく」*帝国文学会 明治三十 九年八月 104 頁 『明星』 「巾幗の作家には却て男性の諸氏より勝れたるものあ り。片山廣子氏に二十二首。わが世いかで末おだやかに楽しか れ夕日の空にとぶ鳥のごと」 「取り出でて新しき所を見えねど、 そ の 感 情 を 詩 調 も、 確 に 一 歩 歌 の 境 地 に 入 れ り。 ( 與 謝 野 氏 )」 *新詩社 明治三十九年八月 80・ 81頁 『 国 民 新 聞 』 の「 殊 更 に 古 撲 な ら ん と し て 却 て 魔 道 に 堕 つ る も の 少 か ら ず 」 は、 『 明 星 』 等 の 新 派 和 歌 や 自 然 主 義 の 風 潮 を 暗 に 指 し て い る と 思 わ れ る。 廣 子 は 自 ら の 内 面 世 界 を、 「 狂 熱 と 理 智 の 濃 き 陰影」 (『翡翠』 )であると言った。 「狂熱」の面ではやや露骨となり、 「あやしくも」 「忘れむと」の情熱の迸る恋歌となる。これが却って 古めかしく、清新さが感じられない。一方、病の夫を介護し子を思 う 生 活 の 中 で 詠 ま れ た「 う ち 眠 る 」「 幼 子 の 」 の 歌 は 抑 制 が 効 き、 「その感情を詩調も、確に一歩歌の境地に入れり」 (『明星』 )の評と なった の で あ ろ う。平易な言葉で、共感で き る歌と なって い る。 「理 智 」 が 影 を 落 と す の が「 世 に ふ れ ど 」「 髪 た ち て 」 の 歌。 晶 子 に 〈かかる時をのこなりせば慰むるわざの一つに雄詰をせん〉 〈わが歌 のかたはしをだにかの長者その宰相は知らずやあるらん〉 (「灰色の 日」 『新聲』第二十巻第十号) ( 9)の明治四十二年十一月の歌があ るが、廣子が晶子に先んじてこのようなシニカルな歌を詠んでいる
ことが新しく面白い。 「玉琴」の歌 『 玉 琴 』 明 治 四 十 一 年( 一 九 〇 八 ) 年 四 月、 春 陽 堂 発 行。 佐 佐 木 信綱選、竹柏会の第二合同歌集。同人十四名、全歌数七九三首。片 山廣子の短歌「きみ」一〇〇首掲載の中から抄出する。 人見ればおもてぞあかむよべの夢に君をしこふと泣きてつげし を 心ありときくな思ふな世の中は鸚鵡語りて小猿も舞ふよ おもねらずはゞからずして世に立たむ父の心はわが命ぞも 波けぶる鮫津の里の村雨に肩ぬらし行くわかきごぜかな 明 治 三 十 九 年 九 月 か ら 四 十 一 年 一 月 の『 心 の 花 』 の 中 か ら、 『 玉 琴 』 に 掲 載 さ れ て い る。 「 き み 」 の 題 を 持 ち、 囚 わ れ る 思 い の 一 つ は、 「 人 見 れ ば 」 の 歌 の よ う に 恋 で あ る。 人 妻 の 廣 子 が、 歌 で 大 胆 な告白をしているように見えるが、実際は「恋」の題詠のように詠 ん で い た ら し い。 知 人 に、 「 短 歌 で は 何 で も 表 現 で き る か ら 」 と 言 ったという。創作ではないにしても、思いを高めることで日常を離 れ、歌よみとしての自分を鼓舞していると考えられないであろうか。 「 鸚 鵡 語 り て 小 猿 も 舞 ふ よ 」 に は、 世 の 中 か ら の 疎 外 感 を 感 じ さ せられる。竹柏会の人々、師の信綱、歌壇へも近づかなかったとい う。 「 鸚 鵡 」 は 言 葉 を 繰 り 返 し、 へ つ ら う 人 間 の 譬 え で あ り、 「 猿 」 は悪賢いお調子者を連想させるのだ。冷静に距離をとろうとしてい る。 明 治 三 十 八 年 五 月、 父 吉 田 二 郎 が 六 十 四 歳 で 死 去。 「 お も ね ら ず は ゞ か ら ず し て 世 に 立 」 っ た 父 を 廣 子 は 心 か ら 尊 敬 し、 「 父 の 心 」 を引き継ごうとする。イギリス総領事を務め、外交官として多忙だ っ た 父 の 晩 年 の 様 子 を、 〈 世 を 捨 て つ 世 に 忘 ら れ し 父 君 の 御 墓 か ざ ら ん 白 百 合 の 花 〉『 あ け ぼ の 』 と 詠 う。 廣 子 に は、 生 来 抱 え て い る 虚無感があると考えられる。 〈波け ぶ る鮫津の里の村雨に肩ぬ ら し行く わ か き ご ぜ か な〉の歌は、 川田順が『短歌研究』 (昭和三十二年五月) ( 10)に「理知と狂熱 片山廣子さんのこと」と題して書いている。 「歌壇のいやなところ、 文壇のいやなところを知りぬいて遠ざかったのかもしれぬ。それも 〈 か も し れ ぬ 〉 で 本 当 の こ と は わ か ら な い。 佐 佐 木 先 生 へ も 近 寄 ら なかつた。それもなぜだか判明しない。どうも底の知れぬ婦人であ つた。 」更に、 「波けぶる鮫津の里のむらさめに肩ぬらしゆく若き瞽 女 か な 」 の 廣 子 の 歌 を 褒 め る と、 「 人 間 は 結 局 こ の 瞽 女 の や う な も のです」と応えたという。廣子の冷静な姿が見えてくる。 ともすれば狂ひやすしよ我心母と呼ばるゝ身にふさはずも かきいだく我が児のいきに温まり生きかへりぬるわが心かな 老いにけり何の楽しび二人たゞ此子の親といふのみにして 朝風に幼な友どちたき火して病みて来ぬ子の噂するかな
竹やぶの竹の葉さやぐ音もなくうぐひす眠るおぼろ夜の月 前の三首は子供を詠む。明治四十年八月、二十九歳となった廣子 は、長女総子を出産した。夫の病気の看病のため、三年ほどを鎌倉 の転地療養のために過ごし、その間に流産を経験した。七年を経て 新 た な 命 の 誕 生 は ど ん な に か 喜 ば し い こ と で あ っ た ろ う。 し か し、 「 我 が 児 の い き 」 の 命 の 息 吹 に 母 親 と し て の 充 実 感 を 覚 え つ つ、 母 と呼ばれ「此子の親といふのみ」の人生かと、自己実現にほど遠い 日々に焦りが募ってゆく。 後 の 二 首 の「 病 み て 来 ぬ 子 の 噂 す る か な 」「 う ぐ ひ す 眠 る お ぼ ろ 夜の月」には、物語性という共通項がないだろうか。廣子は恋や夢 や愛憎の「われ」の思いを、露骨に表現することを控えてゆき、空 想的な創作のベールに包み込むような表現に変化してゆく。何故そ う し た の か。 一 つ に は、 『 い さ ゝ 川 』 第 六 号( 明 治 三 十 年 六 月 二 十 八日発行)に吉田廣子の名で書いた「昔物がたり」の月かげにうた う鳥が廣子自身であったこと。日の神に憧れながらも、他を押しの けてまで出て行こうとはしない性分である。二つめに、夫の片山貞 次郎が先に大蔵省に勤務し、その後は日本銀行調査役となる立場で あったことがあるのではないだろうか。近代短歌は「われ」を詠む 一人称の文芸である。題詠の旧派和歌の時代ではない。そして、こ の よ う な 詠 み ぶ り が 廣 子 の 新 し い 歌 の 衣 と し て、 四 十 二 年 一 月 号 『 心 の 花 』 の 歌 か ら、 第 一 歌 集『 翡 翠 』 に 掲 載 さ れ る 歌 と な っ て ゆ く。 『心の花』明治四十一年五月号(第十二巻第五号)では、 「歌集玉 琴批評集」として、新聞・雑誌の『玉琴』の歌集評を紹介している。 『東京朝日新聞』四月二十五日掲載の『玉琴』評。 「片山女史 の佳調多きは集中異彩を放てり 君が涙拭ひまつりて人の世に 生れし栄を悟りぬるかな/砕け散る磯の白波いさぎよや力籠れ る短かき命/疑はぬ人の心に報ゆべく捨てばや胸の奥のかくれ が/二面世の偽に馴れぬれど吾子には恥づる折もこそあれ/等 冒頭より悉く真に女性の心の叫びならざるなし或は技工に乏し いといはん吾人は其偽なきを尊ぶ 「 朝 塲 重 三 氏 の 書 状 」( 四 月 二 十 四 日 )「 片 山 女 史 の〈 か き い たく我が兒のいきにあたゝまり生きかへりぬる我心かな〉はい ひしらぬ情味あり又〈御僧等ひろらの庫裏に夕げしぬ蜩なきて 山くるゝ時〉はさきの『あけぼの』の同女史が作〈南より北ふ きとほす大寺のひろ間ひらきて書を読むかな〉と双幅一陣の涼 風の下より生ずるを覚え候。 」 『東京朝日新聞』は「真に女性の心の叫び」と捉え、 「技工に乏し い 」 点 も 偽 り な き 歌 の 良 さ と 高 評 価 す る。 「 朝 塲 重 三 氏 の 書 状 」 で は、子を詠う歌の情味の豊かさを指摘し、 〈御僧等ひろらの庫裏に〉 の歌を、先の『あけぼの』の〈南より北ふきとほす大寺の〉と並べ、
その抒情性の高さを解説した。廣子が多様な表現の歌を詠み、模索 していることが分かってくる。 『心の花』六月号(第十二巻第六号) では、 「歌集玉琴批評集(二) 」が続く。 『萬朝報』 「竹柏園秀才の歌集なり男子側よりは女子側振い就 中片山廣子の作群を抜けり〈暇あらば物食て眠れながらへて此 世 物 憂 き 賢 き 人 等 〉〈 女 な ほ 心 は 廣 し わ が 夫 と 夫 の 黄 金 と 合 せ てめづる〉など小気味よからずや」 『 東 亜 新 報 』( 義 郎 氏 )「 竹 柏 園 主 人 の 指 導 の も と に「 あ け ぼ の 会 」 と い ふ 短 歌 の 研 究 が 先 年 よ り 組 織 せ ら れ て 居 て、 ( 略 ) 大 塚、 片 山 の 両 女 史 な ど も 研 究 を こ の 会 に 積 ま れ て る。 ( 略 ) 君 去 り て う つ ろ と な り し 胸 な れ ば 人 た ぶ ら か す 魔 も 住 み ぬ ら ん / う ぐ ひ す よ わ が 歌 持 ち て 遠 く 去 れ 人 待 つ 宿 の 春 の く れ が た/片山女史の作の内である。 」 『帝国文学』 「片山廣子の〈君が涙ぬぐひまつりて人の世に生 れ し は え を 悟 り ぬ る か な 〉( 略 ) と に か く こ の 一 集 は 徒 ら に 又 殊更に奇を求めないで自然の新境をさぐるといふ努力の声を収 め て 居 る の で あ る。 韻 文 に 趣 味 あ る 人 の 一 読 に 価 す る。 ( 橄 欖 子) 」 *帝国文学会 明治四十一年五月 139 頁 『萬朝報』では、 〈女なほ心は廣しわが夫と夫の黄金と合せてめづ る 〉 を、 小 気 味 よ し と す る。 『 東 亜 新 報 』 は、 「 狂 熱 」 の 歌 を、 『 帝 国文学』では「理智」の歌を佳作という。多彩であるゆえに、片山 廣子の短歌というものの評価が、未だ定着していないことになる。 『 心 の 花 』 七 月 号、 八 月 号、 九 月 号 で は、 「『 玉 琴 』 を よ む 」 を 近 藤昌後が連載する。九月号(第十二巻第九号)にて、片山廣子の歌 三十七首を採り上げている。 きみ 近藤昌後 片山廣子氏 君が涙ぬぐひまつりて人の世に生れしはえを悟りぬるかな 恋を写して露骨ならず。女らしき歌。佳作。 君去りてうつろとなりし胸なれば人たぶらかす魔も住みぬら ん この歌を、橘さんの。 必死にてうつろとなりしわが身なり今更何の音をかたつべき の歌と対照すると、お二人の異つた点も見えて、非常に趣味が ある。 ともすれば狂ひやすしよ我心母と呼ばるゝ身にふさはずも 大理石像にも熱血迸る。 かすかなる望よ消ゆな雨雲のおほふそなたに日は照るらしも 佳作。 女猶心はひろしわが夫と夫の黄金と合はせてめづる
ここに至つて凡手の作にあらず、敬服。 うたゝねに夢うつゝなきますらをの髯ぬきて見む力おつやと 諷刺でなくて、滑稽の感がする。 別れては死なむの歎き程ふれば眠りて食ひて肥えはてしはや 寸鉄人を殺す。 罪やなにわれはをみなぞ道知らず君さそはすかもゆる火中に 情火人をやく。 狂ひあそぶうなゐのわれに母上は涙ぼくろをとれと仰せし 女ならてはとうなづかれる。 並べることで、まさに、狂熱もあれば理智もあるという詠いぶり が 際 立 つ。 〈 か す か な る 望 よ 消 ゆ な 雨 雲 の お ほ ふ そ な た に 日 は 照 る ら し も 〉〈 狂 ひ あ そ ぶ う な ゐ の わ れ に 母 上 は 涙 ぼ く ろ を と れ と 仰 せ し〉の内面を詠む歌に、深みと独自性が出てきていると感じられる。 つかれたる人の一群いそぎけり小石川橋夕ぐれの雨 小石川橋とあるので、砲兵工廠の門を出でくるつかれた職工の さまも見えるし、蕭條たる夕ぐれの雨もよく調和するのである。 人見ればおもてぞ赤むよべの夢に君をし恋ふと泣きて告げし を 今少し婉曲にありたかりし。 世の旅の寒く寂しき日もあらばもゆる炎の我をおもはせ また君が得意の境。 行くれのなだらかなるに飽きはてぬあたり砕けむ岩もあなと さそふ水あらばといのる身の秋に更に恋しき人もなきかな 誰れかとふ世の大海のたゞ中に千浪あとなく沈みはてなば 世に拗ねたる人の面影が見える。 朝空と澄みたる心たちまちに黒雲わきぬ身をおもふ時 佳作。 敢て多くをいはず、君の如きは、女流作家として、明治の短歌 に特筆せらるべき一人であらう。 〈 つ か れ た る 人 の 一 群 い そ ぎ け り 小 石 川 橋 夕 ぐ れ の 雨 〉 は、 社 会 の底辺で労働に従事する人々へ眼差しが注がれている。廣子の蔵書 には、石川啄木の歌集やパールバックの『大地』等も含まれており、 労働者階級への関心は後に、戦中戦後の生活に困窮する人々の姿を 詠 も う と し た 姿 勢 に 続 い て い く と 考 え ら れ る。 か と 思 え ば、 〈 人 見 れ ば 〉 か ら〈 誰 か と ふ 〉 の、 「 今 少 し 婉 曲 に あ り た か り し 」 と 書 か れ た よ う な 情 熱 迸 る 歌 が あ る。 〈 朝 空 と 澄 み た る 心 た ち ま ち に 黒 雲 わきぬ身をおもふ時〉は、湧き来る思いが実感をもって伝わり、廣 子は狂熱をどう表現するべきか、模索していたのではないだろうか。 こ れ ら の 寸 評 は、 「 大 理 石 像 に も 熱 血 迸 る 」「 ま た 君 が 得 意 の 境 」 など、廣子の歌を常より見てきた同人ならではの、人と歌風を理解 し た 上 で の も の と な っ て い る。 『 心 の 花 』 を 代 表 す る「 女 流 作 家 と
して、明治の短歌に特筆せらるべき一人」とまで言わしめた歌人の、 第 一 歌 集『 翡 翠 』( 大 正 五 年 ) が 高 い 評 価 を 得 ら れ な か っ た の は 何 故であろうか。 『 あ け ぼ の 』( 明 治 三 十 九 年 )、 『 玉 琴 』( 明 治 四 十 一 年 ) の 初 期 の 歌 二 百 首 を 載 せ な か っ た こ と が 大 き い と 考 え る。 『 翡 翠 』 の 序 文 の 信 綱 の 言 葉 に も あ っ た よ う に、 「 竹 柏 会 」 の 合 同 歌 集『 あ け ぼ の 』 『 玉 琴 』 の 初 期 の 歌 を も 載 せ る こ と で、 廣 子 の シ ニ カ ル で 小 気 味 よ い清新な歌柄は、読む人の共感を得て、更に高く評価されたのでは ないだろうか。 おわりに 廣子は第一歌集『翡翠』には明治四十一年までの短歌は入れるこ となく、主に明治四十二年からの『心の花』のものを選んで載せて いる。その間、生活面での苦労の数々があった。病気の夫の介護の ため、三年ほど鎌倉長谷での転地療養をしている。そして、子育て と と も に 長 男 の 嫁 と し て、 夫 の 弟 妹 の 世 話 が あ っ た。 長 女 で あ り、 実家への心配りもよくした。また、身内や親しくしていた人々との 死別が重なった。廣子自身も病に苦しむ。明治四十一年は、尊敬し ていた兄嫁が若くして先立ち、鬱の状態になったという。ここまで の 歌 の 特 色 は、 「 わ れ 」 を 詠 む、 嘆 き の 歌 や 恋 歌 で あ り、 何 か に 囚 われた思いが強い。 佐 佐 木 幸 綱 は『 野 に 住 み て 』( 月 曜 社 ) 解 説( 6) に、 「『 あ け ぼ の 』『 玉 川 集 』『 玉 琴 』 の 時 代 の 廣 子 は、 「 心 の 花 」 で は 有 望 な 女 性 歌人として注目されつつも、まだ習作期だったと見ていい。さまざ まな要素を抱き込みながらそれらがまだ並列的に混在していて、片 山廣子らしさはみられないのである。 」と記している。 多様な題材と表現が混在しているが、後に『翡翠』を経て『野に 住みて』に結実する、平易な詞と身近な素材で共感を得る、片山廣 子の歌の世界の出発点がここにあると考える。狂熱と理智、そして 情愛と諧謔が錯綜する内面世界を詠んだ、 『あけぼの』 『玉琴』の初 期 の 歌 が 欠 け た こ と で、 『 翡 翠 』 の 感 性 と 知 性 が 読 者 に と っ て 近 づ き が た く、 「 わ れ 」 を 詠 む 清 新 な 歌 集 と し て 読 ま れ な か っ た こ と が 惜しまれる。 四十二年からは、写実的な歌とともに、比喩的、空想的な歌を多 く詠むようになる。囚われることを嫌い、苦しみ、自己の切実な部 分としっかり向き合う姿勢で歌を詠む。そこから片山廣子という歌 人の個性が際立ってくる。真実を求めようとするが、現実の中では、 時代と立場に束縛されて得ることができなかった。そこで、魂の自 由を求め、比喩的空想とも言うべき独自の世界を生み、これがアイ ルランド文学の翻訳へと繋がっていったのではないだろうか。幻想 文学と受け止められがちのアイルランド文学は、虐げられた民族の 思 想 で も あ る。 現 実 を し っ か り と、 よ り 深 く 見 よ う と す る 視 点 が、 創作のメカニズムを通して空想の世界を形作ったといえる。空想は、 廣子にとって、真摯に自己と向き合うことではなかったか。現実か
らの逃避ではなく、現実の自己を明確に照らし出すために、比喩的 空 想 の 方 向 へ 向 か っ た と 言 え る。 夏 目 漱 石 が 鬱 に 苦 し み、 「 吾 輩 は 猫で あ る」の執筆を始め た こ と に近い心境だった か も し れ な い。 『翡 翠 』 の 歌 風 は、 旧 派 和 歌 の 美 し い 詩 歌 の 境 か ら も、 囚 わ れ る「 わ れ」からも離れ、 「狂熱と理智の濃き陰影を印して居る」 「最も強く 自分を現はしたもので、自分の身の半身の如く」あることを目標に、 「われ」の歌を模索することで確立していったと言えよう。 〈いとまあれば物食ひて眠れながらへて此世物うきかしこき人ら〉 と 詠 む 初 期 の『 玉 琴 』 の 歌 に 比 べ、 〈 は た ら き て 水 の み て 飯 を 頂 き し昔びとの夢も小さくありけむ〉の、第二歌集『野に住みて』の晩 年の歌は、実に軽やかに詠まれている。しかし、読む人の共感を得 る、 シ ニ カ ル で 小 気 味 よ い 清 新 な 歌 柄 の 水 脈 は 繋 が っ て い る。 『 翡 翠 』 か ら『 野 に 住 み て 』 へ、 清 新 さ に 繋 が る、 「 わ れ 」 を う た う 歌 風の確立過程を明らかにすることで、近代短歌の流れの中での片山 廣子を位置付けるため、更に研究を進めてゆきたい。 (注) ( 1) 佐 佐 木 信 綱 序 文『 翡 翠 』 秋 谷 美 保 子『 片 山 廣 子 全 歌 集 』( 現 代 短 歌 社 二 〇 一 二 年 四 月 ) 12頁( 『 翡 翠 』 竹 柏 會 出 版 部 一 九 一 六 年三月) ( 2) 佐 佐 木 信 綱『 佐 佐 木 信 綱 作 歌 八 十 二 年 』( 日 本 図 書 セ ン タ ー 一 九九九年十二月) 4647 頁 ( 3) 田 中 薫「 「 無 名 氏 」 作 と し て 発 表 し た 信 綱 の 新 体 詩 」『 佐 佐 木 信 綱 研究』第四号(佐佐木信綱研究会二〇一五年六月) 146147 頁 ( 4) 佐 佐 木 信 綱 新 体 詩「 玉 く し げ 」『 新 聲 』 第 二 巻 第 六 号( 新 聲 社 一 八 九 七 年 六 月 ) 224225 頁( 『 新 聲 』 復 刻 版 ゆ ま に 書 房 一九八三年) ( 5) 山 田 吉 郎『 明 治 短 歌 の 河 畔 に て 』( 短 歌 研 究 社 二 〇 一 四 年 五 月 ) 43頁 ( 6) 佐 佐 木 信 綱「 片 山 廣 子 」『 明 治 大 正 昭 和 の 人 々』 ( 新 樹 社 一 九 六 一年三月) ( 片 山 廣 子 松 村 み ね 子『 野 に 住 み て 』 短 歌 集 + 資 料 編 月 曜 社 二〇〇六年四月) 574 頁 ( 7) 佐 佐 木 幸 綱 解 説「 片 山 廣 子 の「 境 地 」」 『 野 に 住 み て 』( 片 山 廣 子 松村みね子『野に住みて』 短 歌 集 + 資 料 編 月 曜 社 二 〇 〇 六 年 四 月 ) 646 ・ 647 頁・ 652 頁 ( 8) 眞 有 澄 香『 孝 子・ 毒 婦・ 烈 女 の 力 ― 近 代 日 本 の 女 子 教 育 』( 双 文 社 出版 二〇一四年二月) 1213 頁 ( 9) 与 謝 野 晶 子「 灰 色 の 日 」『 新 聲 』 第 二 十 巻 第 十 号( 新 聲 社 一 九 〇 九年十一月) 66・ 68頁 ( 10) 川 田 順「 理 知 と 狂 熱 片 山 廣 子 さ ん の こ と 」『 短 歌 研 究 』 第 十 四 巻 第五号(日本短歌社 一九五七年五月) 112 ・ 113 頁 (参考資料・文献) 『いさゝ川』第一号 明治二九年十月五日 竹柏社発行 『いさゝ川』第二号 明治二九年十一月三十日発行 『いさゝ川』第三号 明治三十年三月十八日発行 『いさゝ川』第四号 明治三十年四月十二日発行
『いさゝ川』第五号 明治三十年五月二十六日発行 『いさゝ川』第六号 明治三十年六月二十八日発行 『いさゝ川』第七号(最終刊)明治三十一年一月十一日発行 『心の花』 明治三十一年二月~昭和四十一年一月 竹柏會出版部発行 (『心の花』復刻版 佐佐木幸綱監修 教育出版センター 一九八〇年) 秋谷美保子『片山廣子全歌集』 (現代短歌社 二〇一二年四月) 片 山 廣 子 松 村 み ね 子『 燈 火 節 』 随 筆 + 小 説 集( 月 曜 社 二 〇 〇 四 年 十 一月) 片 山 廣 子 松 村 み ね 子『 野 に 住 み て 』 短 歌 集 + 資 料 編( 月 曜 社 二 〇 〇 六年四月) 片山廣子『燈火節』 (暮しの手帖社 一九五三年六月) 藤 田 福 夫「 増 補 片 山 廣 子 年 譜 と 明 治 大 正 期 作 品 抄 」( 金 沢 大 学 語 学 文 学 研究 一九七五年十月)
The Tanka of Hiroko Katayama, from
“Isasagawa” to “Kokoro no Hana”:
A Look at the Formation of a Maiden Poetic Style
SHIMIZU, Mariko
(Summary)
In her first collection of poems, ”Kawasemi,” Hiroko Katayama did not include her poems appearing before 1908 in such publications as ”Isasagawa” and ”Kokoro no Hana.” Her poems up to that time, evoking sorrow or about love, reflected her ever being captivated by something.
From 1909 up to the publication of ”Kawasemi” in 1916, she composed mostly descriptive poetry as well as metaphorical and fanciful works. Interestingly, such preferences may have drawn her toward translating Irish literature. The poetic style in the intently introspective ”Kawasemi” collection is distinguished by crossing the boundary of esthetic poetry, going beyond self-absorption, and casting about in her unique inner world.
This paper deals with the times preceding ”Kawasemi,” bearing witness to formation of her maiden poetic style.
Key words: Hiroko Katayama, Nobutsuna Sasaki, Tanka, ”Isasagawa,” ”Kokoro no Hana,”