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近江商人の在村形態 : 近江国愛知郡柳川村の場合

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近江商人の在村形態

      −近江国愛知郡柳川村の場合1

は し が き        ね  近江商人の研究は、近年、個別商人について、その経営活動がしだいに明らかにされるようになってきた。その中で、 近江商人の出身地である近江の長々についても、個別商人の側から、そのかかわり方が論じられることもあった。しかし、 近江商人の在怪した村落の側から、近江商人輩出の農村的基盤、その村落での近江商人の位置、他の一般村民との関係、        ︵2︶ 村内での近江商人の役割、土地所有とのかかわりあいなどについては、ほとんど明らかにされることはなかった。ところ が、近江商人の発生・成立の問題や近江商人の性格についても、近江商人の出身村落を明らかにすることによって、はじ めて一層明確にすることができるのである。したがって、近江商人の研究を進めて行く中で、近江商人の在面した村落の 構造、その村落の中で果たした近江商人の役割、村落内での位置などを明らかにすることは、避けて通れない課題の一つ であると考えられる。また、近江商人が巧みな事業経営で蓄積した巨大な資産が、近江地方においてどのような形でいか されたのか、その出身村内においてどのように村民に還元されたのか、あるいはなされなかったのか。この点を明らかに することは、近江地方の近代化を考える上でも重要な問題であると考える。      近江商人の在村形態       三七

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      近江商人の在村形態       三八       ︵3︶  このような点から具体的には、松前において活躍した近江商人の出身地の一つである近江国愛知郡柳川村をとりあげる ことにする。柳川村をとりあげたのは、両懸組と称する松前交易商人仲間を構成する商人が、同村に多数存在し、単独の 近江商人を輩出した村落とは異なった近江商人の姿が明らかにできるのではないかと考えたからである。また、従来やや あいまいな形で用いられていた両々組についても、あわせて少し検討してみようと思う。 ︵1︶ 江頭恒治﹃近江商人中井家の研究﹄︵雄山閣、一九六五年半、丁吟研究会編﹃変革期の商人資本一近江商人丁吟の研究1﹄︵吉川弘文館、一九八四   年︶、拙稿﹁近江商人西川伝右衛門家の松前経営﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館﹃研究紀要﹄第一八号、一九八五年一月︶、同﹁近江商人岡田弥三右   衛門家の経営﹂︵同第一九号、一九八六年三月︶などの研究がある。 ︵2︶ これらの点について多少とも言及した研究としては、今井美智子﹁近世近江の農民経済−特に近江商人の進出と農村構成﹂﹂︵﹃日本史研究﹄第ご   六号、一九五五年一一月︶、末永国紀﹁近江商人の耕地集積について一小林吟右工門家の場合l﹂︵京都産業大学﹃経済経営論叢﹄第一一巻第四号、   一九七七年三月︶、原田敏丸﹁幕末期農村の商品生産と商品流通−江州神崎郡西部の蒼々についてl﹂︵同﹃近世村落の経済と社会﹄山川出版社、一   九八三年︶などの研究がある。 ︵3︶ 柳川村および柳川商人については、 ﹃近江無智郡志﹄謹言︵滋賀県愛智郡教育会、一九二九年︶に詳しく、そこには柳川共有文書として数多くの   史料が載せられているが、滋賀大学経済学部附属史料館で保管する柳川共有言書には、これらの史料は見い出されず、史料館へ移管される前に別置   され、散逸してしまったようである。貴重な史料が多く含まれており、誠に残念である。

一 両浜組商人

 近江商人のうち松前交易に従事した商人の仲間組織は一般に両浜組と呼ばれたが、この両浜組の成立については、従来 次のように考えられてきた。  第一には、 ﹃近江愛智郡志﹄に、 ﹁柳川薩摩の商人は、八幡商人と併せて両浜商人と称し有勢なる松前商人たれば此頃        ︵1︶ 三所の商売は松前江差方面に目醒ましき活動を為し大に業績を挙げたるを知る﹂とあるように、八幡と柳川・薩摩を合わ せて両浜商人としたとする。この考え方は、江頭恒治氏も踏襲され、 ﹁北海道に進出した者は八幡ど、これに近い愛知郡

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第1図 両浜商人の出身地

N一

7/o彦根

薩摩 り一 ●八幡 。 5 10 15 20 km 大津  第二に、近松文三郎氏は、 ﹁始めは八幡と柳川の両地の人々が松前江差に在住せるより両脚と称し、        ハら  も此名称を変せずして襲用せしものと堕せうる﹂として、八幡と柳川を指して先に灘浜と称していたのを後に薩摩も加       ︵近江商人︶ え、両浜組というようになったとされる。 ﹃松前町史﹄においても、同じく﹁かれらの特徴は、八幡、柳川それに薩摩村       ︵6︶ の者をくわえて三雲組という商業組織を結び、松前での商業活動を常に共同して行った点にあった﹂とされる。  第三に、 ﹃滋賀県八幡町史﹄では、 ﹁八幡と薩摩柳川はこれを総称して、両浜ともいった。薩摩と柳川とを両浜といふ       ︵7︶ のが本来の語義と思はれるが両村は相隣接して、外観上一ケ村の観あるためこれを一つと見倣したのである﹂とされ、本 来柳川と薩摩を指して両浜といっていたのが、八幡と柳川・薩摩を総称して両浜と呼ぶようになったという。  そこで、両為あるいは両浜組という名称がどのような形で用いられていたのか、八幡・柳川・薩摩との関係において検      近江商人の在村形態       三九 の湖岸に接する薩摩・柳川出身の者が多かった。これらの 商人は、合わせて両浜商人と称し、組合を作って北海道に おける商権の維持につとめ、松前藩より特別の権利を与え     ︵2︶ られていた﹂とされる。柚木六二もこれを受けて、 ﹁寛永 期以降には近江の八幡・薩摩・柳川出身の近江商人が多数 松前に渡っていった。これら三ケ所の松前で活躍する商人 がそれぞれ松前組の商人仲間を結成し、後には八幡松前組 と薩摩・柳川松前組が結んで両浜組なる名称の下に、松前        き  取引仲間をつくりあげた﹂とされ、これが最もよく知られ       ︵4︶ た考え方である。        後薩摩が加はりし

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     近江商人の在村形態       四〇 討してみることにしよう。       ︵8︶  まず、両市という言葉が最初に現われる史料は、現在のところ享保十三年︵一七二八︶二月の﹁納屋治兵衛出入略記﹂で ある。そこでは、大津の納屋治兵衛の仕切銀滞一件について代斎主である柳川・薩摩・八幡の商人が、その処理にあたっ ていた。そして、 ﹁翌年申正月十四日十九日二柳川者冬三醍、サツマハ源次、八幡山二黒ハ㊤千日、当外密宗のミ両庄や 頼、右連中被上京﹂、また﹁右之公事脚付、入用二四三ヶ所栗平等割二極メ、其内或前浜懸リ割口、或ハ柳川印割口など二 相極目候﹂とあり、そこで見られる﹁上浜の、ミ両庄屋頼﹂あるいは﹁両津懸リ三口﹂とある﹁両浜﹂は、明らかに柳川・薩        き  摩を指しているのである。同じような用い方として、宝暦八年目一七五八︶六月の﹁両浜車名曲﹂では、﹁両点家名拍﹂と       ︵10︶ して浜屋︵平田与三右衛門︶・扇屋︵柴谷長兵衛︶・万屋︵宮川清右衛門︶など柳川・薩摩の商人と思われる者二二名を連記し、そ の最後に﹁〆﹂をして、次に﹁八幡﹂と記して八幡の商人九名を連記しており、柳川・薩摩の二七と八幡とを一応区別して        へ11︶       ロー いる。また、明和七年︵一七七〇︶二月の﹁松前出産荷物請負証文﹂における請負人および本人よりの宛名として﹁江州聯劇 両浜、御組中、建部七郎右衛門殿、宮川清右衛門殿﹂とあり、明らかに柳川・薩摩を撃高と呼んでいたことがわかる。  しかしながら、宝暦期︵一七五一∼六三︶以降は、柳川・薩摩・八品目三か所の商人を合わせて興浜商人と称するのが        ゆ  一般的であったようである。寛延四年︵一七五一︶正月の﹁金子借用覚﹂には、新井田五郎左衛門よりの宛名に﹁両浜組 中、平田宗右衛門、宮川清右衛門、福地長左衛門殿﹂とあり、両型組中として柳川・薩摩・八幡の各商人があげられてい        お  る。宝暦二年︵一七五二︶正月の﹁金子請取証文﹂にも、﹁松前若狭守、高橋七郎左衛門﹂よりの宛名には﹁上浜三ヶ所組 中﹂と記されている。同十二年の松前藩よりの御用金一〇〇〇両の賦課分担においても、﹁両部割合﹂として柳川・薩摩・       ︵14︶      へ15︶ 八幡の商人達に賦課している。さらに、明和八年︵一七七一︶の﹁永代覚日記﹂に所収されている﹁京都御用目付金子請取 覚﹂の青山理右衛門・新井田金右衛門よりの宛名には、 ﹁両浜組中惣代、建部七郎右衛門殿、巻渕勘兵衛殿、岡田弥三右

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衛門殿﹂とあり、両浜組中惣代として柳川の建部・薩摩の巻渕・八幡の岡田の各商人が名を連ねており、両浜組が柳川・ 薩摩・八幡の商人によって構成されていることがわかる。  以上のことから、前述した﹃滋賀県八幡町史﹄が述べているように、両浜とは元来湖岸に面していた村である柳川村と 薩摩村を指していたが、宝暦期頃になると松前藩に対する貸付金や御用金の賦課をうける窓口となるに及び、柳川・薩       ︵16︶ 摩・八幡の松前交易商人団をしだいに両浜組と称するようになったようである。  両浜組は、単に松前藩に対する貸付金・御用金等の賦課団体ではなく、松前藩から特別な恩典が与えられていた。すな わち、松前藩は、本州方面からの移出入品について価格の約二分を沖口番所で課税することになっていたが、峰浜商人の 取扱い品である荷所荷については税が一部免除され、賦課される場合も品目さえ分かれば検査を行なわず、荷物の個数に        ︵17︶ よって口銭を納めることができるという特権を得ていた。このように松前藩への貸付金・御用金と本州からの移出入品へ の課税口銭とは深く結びついており、次の二点の史料に見られるようにそれは松前藩に対し口銭を引当てにした貸付の形 をとっていた。       ︵18︶        借用申金子之事   一金七百両也   右者志摩守要用二付借用申虜実正也、返済之儀者、松前城下江指箱舘両生組中分上下荷物蝦夷地出産之荷物口銭を以差継請取可   被申候、其節違背申問敷候、為後日之証文傍而如件        松前志摩守内     安永十辛丑三月       飛内旨右衛門印        新井田金右衛門印       両浜御組中      近江商人の在村形態       四一

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   近江商人の在村形態 右前書之通相違無御座候、以上 四二 松前杢印        ド       借用申金子之事 一元金五百両也   去ル卯年婚礼之節急用二付、於京都調達金 一同 五百両也   去子秋松前表二而申入、旧冬江戸表・一而請取候分 一同 弐百八拾両也 江指表二而両浜組中之内去子秋請取候分 〆金千弐百八拾両 右駆通借用申処実正也、返済之儀者、松前城下江指箱縄墨上組中分上下荷物蝦夷地出産之荷物口銭を以差継請取可畑中候、其節 違背申間敷候、為後日証文傍而如件        松前志摩守内   安永細辛丑年三月       飛内亀右衛門印       新井田金右衛門印      両浜御組中 右前書之通相違無御座候、以上       松前杢印  そして、荷下荷は荷主である事事組商人によって共同雇用された国所船によって運ばれた。荷所船は、主として加賀橋 立、越前河野・敦賀等の船主によって構成され、彼らは敦賀を拠点に砂煙船仲間を形成し、荷主である両浜組との関係を 維持していた。ところが、一八世紀後半になると、しだいに両浜組商人の地位が崩れはじめた。その衰退原因は、第一に 近江商人以外の新たな商人が進出し、従来の流通構造に変化が生じたこと、第二に松前・江差周辺における鱗の不漁であ った。そのため両浜組商人の支配下にあった荷所荷は衰退し、荷所船に雇用されていた加賀・越前の船主は、運賃積とし

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ての荷所船から買下船としての北前船へと転化して行った。一方、近江商人も従来の荷所船から脱却して、有力商人は手        の  船を所有し、そうでないものは、しだいに北前船に依存することになっていったとされる。  このような展開をみせた両浜組商人であったが、それでは両浜面はどのような商人によって構成されていたのであろう か。その中での柳川・薩摩・八幡商人の関係は、どのようなものであったのか。もう少し具体的にみてみよう。  まず、両再呈商人はいつ頃から松前に進出したのであろうか。天保十五年︵一八四四︶七月の﹁両君開店御尋二付書上之 ︵趾︶ 写﹂によって七家しかわからないのであるが、見てみよう。七家のうち最も早くから松前へ進出していたのは、岡田半兵       ︵天保+五年︶ 衛︵八幡の岡田弥三右衛門家︶で、﹁慶長年中♂御当所江出店、当雪年迄凡弐百五拾年半二相成申候﹂とあり、慶長年間︹一五 九六∼一六一四︶に松前へ出店を設けたようである。岡田家に続いて無量与三右衛門︵柳川の平田与三右衛門家︶は、﹁同早年 迄凡弐百四拾六年二相罷申候﹂とあり、また福島屋新右衛門︵柳川の田付新助家︶も﹁同辰年迄凡弐百三拾五年二相成申候﹂ とあり、いずれも慶長年間頃に松前へ進出していた。次に少し遅れて、住吉屋徳兵衛︵八幡の西川伝右衛門家︶は、﹁寛永年 中♂御当所へ出店当辰年輩凡弐百六年二相成申候﹂とあり、山崎屋武兵衛や宮川増蔵︵薩摩の宮川清右衛門家︶も、﹁同車年 迄凡弐百六年二相成申候﹂とあり、寛永年間︵一六二四∼四三︶に進出した。さらにかなり遅れて、柏屋治兵衛︵柳川の大橋五 兵衛家︶も、 ﹁寛政年中ず辰年会凡四拾五年二相成申候﹂とあり、寛政年間︵一七八九∼一八○○︶に進出したようである。         しかし、松前へ進出した両浜組商人は、この七言だけではなかった。そこで、 ﹁蝦夷地御用内密留﹂によって、文政元 年︵一八一八︶における松前へ出店を設けた一五軒の近江商人の動向を示したのが、第1表である。この表によれば、一五 軒のうちほとんどが一八○年以上も前に松前へ進出し、まず呉服・太物類の商いに従事し、後に場所請負を行なうように なっている。一五軒の内訳は、八幡商人七軒、柳川商人四軒、薩摩商人三軒、不明一軒であり、八幡商人が半数を占める。 そして、最も早くから松前藩へ進出したのは、この表では約二一二〇年前の建部七郎右衛門家︵柳川︶で、次に約二二〇年前      近江商人の在村形態      四三

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第1表 松前開店近江商人 名   前 出 店 名 印 年 数 出 身 備     考 建部七郎右衛門 材木屋熊次郎 冬 230年 柳 川 元呉服太物類商、私領之節より相 止メ、御料二相成子モロ場所請負 いたし候所、取放二相成、其後三ヶ 年已前休店、外二由良問屋株有之 平田与三:右衛門 浜屋与三右衛門 三 220 柳 川 元私領之節、呉服太物商ひ居候所 相止メ、当時アツタ御場所請負罷 在候得共、難渋二付栖原屋二相任、 右余力二日相凌自由 岡田弥三右衛門 恵比須屋源兵衛 ll 220 八 幡 元私領之節、呉服太物画商ひいた し居候所、私領之節相止メ、当時西 蝦夷地二而ヲタルナイ、フルヒラ、 リシリ、リフソシリ場所請負仕居 候

中島市兵衛

島根屋清兵衛 ㊤ 190 八 幡 太物小間物商ひ仕居候処、三十ヶ 年巳前私領専掌休店、当所引払申 候 西川市左衛門

近江屋要助

⑭ 190 八 幡 呉服太物商ひ旧株も有之、御料已 来不商売二一、当年休店、当所引払 候由

薬屋多兵衛

己 180 八 幡 薬店二候所、四拾ヶ年自前私領之 心休店、当所引払申候

中島与兵衛

大和屋与兵衛 ◎ 180 八 幡 太物小間物類商ひ、東蝦夷地シラ ヲイ場所請負いたし居候処、三十ヶ 年已前私領之節休店、当所引払申 候 柴谷四郎兵衛 木 屋 三 次 ムヤ 180 柳 川 太物小間物類商売仕居候所、五年 已前御料二相成休店二相成玉

出淵助兵衛

天満屋勘兵衛 命 180 薩 摩 太物小間物類商売之処、四年已前 御料二相成候而休店相成候 田 付 新 助 福石屋新右衛門 テ 180 柳 川 元呉服太物類商ひいたし居候所、 私領之節より相止メ、当時西蝦夷 地スツ\フルウ、ヒクニ場所請負 いたし居候 山本七左衛門 畑屋直右衛門 ヨ 180 薩 摩 呉服太物商ひ質株もいたし居候所、 去年より制止メ、当時アツケシ御 場所請負仕居候 西川伝右衛門

住吉屋助次

日 180 八 幡 元私領之節呉服太物商ひいたし居 候所、私領之節心止メ、当時西蝦夷 地ヲシヨロ、タカシマ場所請負仕 居書影 宮川清右衛門 万 屋 増 蔵 令 180 薩 摩 太物小間物荒物商ひ、鱗漁業西成 候、人々江仕入かし等仕自在候 一 福地長左衛門 山城屋長左衛門

z

110 八 幡 太物小間物類商ひいたし居候所、 三十ヶ年巳前私領之節休店当所引 払 天溝屋専右衛門 ヌ 80 太物小間物商売仕居候所、弐拾ヶ 年已前私領葡萄休店、当所引二尊 候 近江商人の在村形態 四四 (註)文政元年「蝦夷御用内密留」(r松前町史』史料編第3巻、松前町、1979年、45∼59頁よ   り作成。名前及び出身は、r近江愛智郡志』巻3(滋賀県愛智郡教育会、1929年)等に   よって補正した。

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の岡田弥三右衛門家︵八幡︶と平田与三右衛門家︵柳川︶が続き、この三家が古い。また、八幡・柳川の商人が早く松前へ        ︵23︶ 進出し、薩摩商人はやや遅れ、冷暗助兵衛家・宮川清右衛門家・山本七左衛門家はいずれも一八○年以前とされる。  次に、柳川・薩摩・八幡の関係を松前藩による御用金の賦課史料を中心にもう少し具体的に見てみよう。享保十三年       ︵24︶ (一 オ二八︶二月の﹁納屋治兵衛目録銀高覚﹂によれば、前述したように両年組より貸付けた納屋治兵衛の仕切銀の滞納処 理にあたって、次のように滞納金額が柳川・薩摩・八幡の間で分けて示されており、三者の納屋治兵衛との取引状況がわ かる。      覚 一六貫九百八拾匁四分三厘 納屋治兵衛目録銀高    右之内

西貫八百拾八匁  購ま分

  此歩割銀弐貫四百九匁 但五歩割    内壱貫四百四拾五匁四分 三歩割申二月八日二渡ス   引残リ九百六拾三匁六分ハ申酉両年内二相渡し可申分  一弐貫百六拾弐匁四分三厘 八幡分   此歩割銀壱貫八拾壱匁弐分弐厘 但五歩割    内六百四拾八匁七分三厘 三歩割申二月八日二渡ス   引残り四百三拾弐匁四分九厘 申酉両年内二相渡シ可申分 右ハ此度納屋次兵衛松前荷物目録銀相滞申候・一付、御公儀蒲江御願被成請負瀬田三左衛門新町又兵衛本人次兵衛後家妙品双方被 召出候肩付、我等共罷出歯剥御臨空件之歩詰ヲ以下一一而事済被下、則御公儀蟹江双方済証文置上引括、則三歩割符銀目当座相渡 し残弐歩之割符銀ハ申酉両年之内一一急度取立返弁可仕候、為後日手形如件   享保十三戌申二月八日      大津曖人 納屋又次郎㊥ 近江商人の在村形態 四五

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近江商人の在村形態 四六 同 同 菱屋善六㊥ 柳 川 さつま御組衆中 八幡山 すなわち、納屋治兵衛への松前荷物売代銀高六貫九八○匁四分三厘のうち、 第2表 納屋治兵衛滞金柳川薩摩分内訳 名    前 印 出  身 金  額 平田与三右衛門 三 柳  川

2貫810匁4分1厘

440匁3分1厘

柴谷四郎兵衛 △Y 柳  川

394匁9分3厘

中村専右衛門 命 薩 摩

267匁6分8厘

福原四郎右衛門 登 薩  摩

267匁1分6厘

195匁6分8厘

田 付 新 助 ヲ 柳  川

183匁6分6厘

大橋五兵衛

耳 柳  川

120匁9分5厘

大橋久右衛門 1三 柳 川

120匁9分5厘

巻淵助兵衛

命 薩 摩

16匁2分7厘

合 計

4貫818匁

(註) 享保13年「納屋治兵衛目録銀覚」(滋賀大学経済学部附属史料館保    管柳川共有文書)より作成。       柳川・薩摩分として四貫八一八匁︵六九%︶、 八幡分として二貫一六二匁四分三厘︵==%︶が滞っており、八コ口と比べ て柳川・薩摩合わせて二倍以上の取引を行なっていることがわかる。さら に、柳川・薩摩分の内訳をみると第2表のようになり、不明なものもある が、柳川商人が薩摩商人を人数でも金額でも圧倒している様子がうかがえ る。  宝暦八年︵一七五八︶六月の前述した﹁両浜家名控﹂には、三三屋︵柳川、 平田与三右衛門︶、江扇屋︵柳川、柴谷長兵衛︶、合鉄屋︵柳川、不明︶、耳柏屋 ︵柳川、大橋五兵衛︶、〒福島屋︵柳川、田付新助︶、又柳屋︵柳川、田付新兵衛︶、 犀井筒屋︵柳川、大橋久右衛門︶、件升屋︵不明︶、昔壷屋︵不明︶、命中屋︵薩 摩、中村専右衛門︶、据苗屋︵不明︶、映木屋︵柳川、柴谷四郎兵衛︶、一一屋︵不 明︶、冬材木屋︵柳川、建部七郎右衛門︶、引墨屋︵薩摩、山本七右衛門︶、冷万 屋︵薩摩、宮川清右衛門︶、命天満屋︵薩摩、巻心助兵衛︶、Q金屋︵薩摩、福原 九郎兵衛︶、一一7書屋︵不明︶、 五島屋︵不明︶、 鰹︵薩摩、福原四郎右衛門︶、團 ︵薩摩、不明︶、11恵美須屋︵八幡、岡田弥三右衛門︶、㊥島根屋︵八幡、中島市兵

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第3表 両浜組商人御用金額 4永安

勾儲62弼曲打624141  41123572631715457  1

7和明 両3530253030303000冊159055冊13菊30鉛301111133221  1  1  1  1  1  1  1 oo埼 12暦宝

両%銘83紹総麗能聡聡47妬菊菊%%202020151010753

㎝L 域地 幡川巨川摩幡幡  摩幡川川幡幡摩川摩幡川川摩幡摩川八柳柳柳薩八八  薩八柳柳八八幽霊薩八柳柳薩八二柳 印

11冬ヲ三命⑭日勤囲己降典◎㊦命×Q二日丁やヨ団二合

芸名 門門助門衛門門屋  衛門衛闇屋門衛屋門衛衛門門門屋細螺∴簾熾撫岡三田平巻西西島  西大柴中島宮田金福柴大山小福鉄 計合 近江商人の在村形態 (註)宝暦12年は、前掲『近江愛智郡志』巻3、276∼278頁、明和7年および安永4年は、   明和8年r永代覚日記』(滋賀大学経済学部附属史料館保管西川伝右衛門家文書)よ    り作成。 衛︶、㊥島根屋︵八幡、不明︶、⑭近 江屋︵八幡、西川市左衛門︶、一幅和泉屋 ︵八幡、西川伝兵衛︶、 日住吉屋︵八 幡、西川伝右衛門︶、 団︵八幡、小西 次郎︶、◎大和屋︵八幡中島与兵衛︶、 葦山城屋︵八幡、福地長左衛門︶と あり、合計三一軒が名を連ねてい る。このうち不明が六軒あるが、

八幡商人は九軒、柳川商人も九

軒、薩摩商人は七軒であり、人数 の上では、薩摩がやや少ないもの の、柳川・薩摩・八幡の三者はほ ぼ同数である。  次に御用金の柳川・薩摩・八幡 に対する賦課割合によって、三者

の力関係をみてみることにしよ

う。そこで、宝暦十ご年︵一七六 二︶・明和七年︵一七七〇︶・安永四

  四七

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第4表 両浜添御用金割合 近江商人の在村形態 内         訳 年  代

御用金

香@ 額 柳   川 薩   摩 八   幡 明和8年 i1771)

タ永9年

i1780) タ永10年 i1781) V明元年 i1781)

V明2年

i1782) 500両 T00両 V00両 T00両 V00両 194両2分・永銭166文67 @ (39%) @ 170両 @ (34%) @ 224両 @ (32%) @ 160両 @ (32%) @ 227両 @ (32.4%)   130両 @ (26%) @ 100両 @ (20%) P51両・永銭盟)0文 @ (21,6%) @ 108両 @ (21.6%) @ 147両 @ (21%) 175両1分・永銭83文33 @ (35%) @ 230両 @ (46%) R24両3分・永銭50文 @ (46.4%) @ 232両 @ (46.4%) @ 326両 @ (46.4%) (註)「松前御用金差引帳」(滋賀県立短期大学附属図書館所蔵西川伝右衛門家文書)より作成。       四八 年︵一七七五︶の賦課額を示したのが、第3表である。宝暦十二年には合計二四軒 が名を連らね、一〇〇〇両の御用金の割賦を行なっている。このうち不明の一軒 を除くと、軒数では柳川九軒・八幡八軒・薩摩六軒で、前述した宝暦八年の﹁両 々家名控﹂と同じく、薩摩がやや少ないものの三者はほぼ同数である。金額で みると、 一〇〇〇両のうち不明の二軒分の五一両を除けば、柳川三八四両︵四一 %︶・八幡三七四両︵三九%︶・薩摩一九一両︵二〇%︶であり、柳川・八幡がほぼ 等しく薩摩がやや少なく、家数と同様の結果が得られる。明和七年の御用金の場 合をみてみると、合計二四軒のうち不明嚇軒を除けば、軒数では柳川九軒・八幡 八軒・薩摩六軒であり、金額でも一五〇〇両のうち不明の一〇〇両を除くと、柳 川五八四両︵四二%︶・八幡五二六両︵三七%︶・薩摩二九〇両︵二一%︶となる。安 永四年の御用金の場合も第3表にみられるように、合計二一軒のうち不明一軒を 除くと、柳川八軒、八幡六軒・薩摩六軒で、柳川がやや多い。全体として年代が 下るにつれて、しだいに牛浜組商人の構成人数が少なくなってきている。金額で は不明の四一両を除くと、柳川二六三両︵四〇%︶・八幡二三六両︵三六%︶・薩摩 一六〇両︵二四%︶となり薩摩がやや少ない。        ︵25︶  さらに、安永九年置︸七八○︶の﹁松前御用金差引帳﹂によって、明和八年︵一 七七一︶と安永九年から天明二年︵一七八二︶までの御用金の柳川組・薩摩組・八 幡組による拠出割合を第4表によって見てみよう。この表によれば、明和八年の

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﹁京都二おみて御才覚金﹂の場合は、前述した安永四年の御用金の比率とほぼ等しい。しかし安永九年以降は、柳川約三 三%・薩摩約二一%・八幡約四六%でほぼ固定しており、柳川組は以前に比べ薩摩組ほど衰えていないものの、八幡組と その地位が逆転していることがわかる。、  しかしながら、以上みてきたように、柳川商人は、両上組の中でも三〇∼四〇%の構成比率を占め、八幡商人と並ぶ勢 力をもっていたのであり、御用金の拠出金額においても、柳川商人の建部七郎右衛門家・田付新助家・平田与三右衛門家 などは、八幡や薩摩の他の商人と肩を並べて、常に上位の金額を拠出していたのであった。 ︵1︶ 前掲﹃近江愛智郡志﹄巻三、二〇七頁。 ︵2︶ 江頭恒治前掲書、一五∼一七頁。 ︵3︶ 柚木学﹁近世目本海海運の発展と北前船﹂︵同訓﹃日本水上交通史論集﹄第一巻、文献出版、一九八六年︶ ︵4︶ 田端宏氏もこの考え方を踏襲されており、両浜田について最新の研究を提示されている︵田端宏﹁近世前期の松前・蝦夷地と商業資本の活動一両   浜組11近江商人団の動向を中心に一﹂歴史科学協議会編﹃歴史評論﹄第四三四号、一九八六年六月︶。 ︵5︶ 近松文三郎﹁両浜町人と荷所船﹂︵1︶︵﹃太湖﹄第=ハ七号、一九三九年一二月九日︶。 ︵6︶ ﹃松前町史﹄通説編 第一巻上︵松前町史編集室、一九八四年︶五八五頁。 ︵7︶ ﹃滋賀県八幡町史﹄上 通説︵八幡町、 一九四〇年︶五一七頁。 ︵8︶ 享保十三年﹁納屋治兵衛出入略記﹂︵滋賀大学経済学部附属史料川留管柳川共有文書︶。 ︵9︶ 宝暦八年﹁両浜家名控﹂︵滋賀県立短期大学附属図書館所蔵西川伝右衛門家文書︶。 ︵10︶ なかには、二∼三名八幡の商人と思われる者も含まれているようである。 ︵11︶ 明和七年﹁松前出産荷物請負証丈﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館保管柳川共有文書︶。 ︵12︶寛延四年﹁金子借用覚﹂︵同右︶。 ︵13︶宝暦二年﹁金子請取証文﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館所蔵岡田弥三右衛門竪文書︶。 ︵14︶ 前掲﹃近江愛智郡志﹄巻三、二七六頁Q ︵15︶ 明和八年﹁永代覚日記﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館保管西川伝右衛門家文書︶。 ︵16︶ ただし、ここで述べているのは、両浜の名称であって、柳川・薩摩・八幡の松前商人仲間の存在ではない。すなわち、柳川・薩摩・八幡の松前商   人仲間は、両浜組と称する以前にも、実態としては存在していたことは言うまでもない。いっから、なぜ両浜と称するようになったのかをここでは 近江商人の在村形態 四九

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近江商人の在村形態 五〇   問題にしているのである。 ︵17︶ 江頭恒治﹃江州商人﹄︵至文堂、一九六五年︶五三頁。前掲﹃松前町史﹄通説編 第一巻上、七五九∼七六二頁。 ︵18︶滋賀大学経済学部附属史料館所蔵岡田弥三右衛門家文書。 ︵19︶ 同右。 ︵20︶荷所船については、 ﹃敦賀郡誌﹄︵福井県敦賀郡役所、一九一五年︶、前掲﹃近江愛智郡志﹄巻三、近松文三郎﹁両浜町人と馬所船﹂︵1︶∼︵8︶   ︵﹃太湖﹄第一六七号∼一七六号、一九三九年一二月九日∼一九四〇年九月九日︶、榎森進﹁松前交易における日本下々運の発展形態﹂︵﹃日本歴史﹄   第二七五号、一九七一年四月目、のち同﹃北海道近世史の研究﹄︵北海道出版企画センター、一九八二年︶所収、柚木学前掲論交などに詳しい。 ︵21︶ 天保十五年﹁両浜開店御尋二付書上之写﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館保管西川伝右衛門家文書︶。 ︵22︶ ﹃松前町史﹄史料編第三巻︵松前町史編集室、一九七九年︶四五∼五六頁。 ︵23︶ これが、両浜組の両浜がまず八幡・柳川によって形成され、後に薩摩が加わったとする考え方につながる。 ︵24︶ 享保十三年﹁納屋治兵衛目録銀高覚﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館保管柳川共有丈書︶。 ︵25︶ 安永九年﹁松前御用金差引帳﹂︵滋賀県立短期大学附属図書館所蔵西川伝右衛門家文書︶。 二 江戸期の柳川村 る。そして慶長七年︵一六〇二︶には、検地が実施され、当時柳川村には、 門、孫右衛門、助太郎、清兵衛、九郎三郎、新左衛門、弥左衛門、才次、 門、喜三郎、彦兵衛、七右衛門、半右衛門、与兵衛、新右衛門、孫平、 右衛門、二兵衛、刑部右衛門、二郎助、三郎右衛門、ちこ、又右衛門、  柳川村は、湖東の湖岸に位置し、薩摩村の南西に隣接する村である。﹁柳川村童集﹂によれば、﹁当処愛知神崎両郡之境       ︵1︶ 二有之村成二よって愛知郡とも又神崎郡とも申候也﹂とあるように、愛知郡の南端に存在した。元禄十三年︵﹁七〇〇︶の検        ︵2︶ 地によれば、高四八石二連九升五合、畑屋敷四町六反五畝二一二歩の美方のみからなる村であった。柳川村の起源について   ︵正徳元年より︶    ︵元︶ は﹁弐百四拾四年以前文明己丑年、当量家作リ始り申候﹂とあり、文明元年︵一四六九︶に人々が居住しはじめたとされ       ︵ママ︶  ﹁彦左衛門、才蔵、九郎兵衛、与右衛門、与右衛  四郎右衛門、里兵衛、治部、四郎兵衛、甚左衛 与左衛門、忠右衛門、四郎三郎、小右衛門、二 九郎右衛門、左兵衛、かめ、翼端、藤右衛門、助

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  ︵虫損︶ 七、助□しの四二人の役人がおり、この中には、前述した柳川商人八名のうち柴谷四郎兵衛および平田与三右衛門と思 われる人物が見られるだけである。なお、この四二名の役人以外に、久右衛門、左近右衛門、伊右衛門、小太郎、長左衛 門、宗二郎、助兵衛、与太郎、与助、孫七、甚右衛門、四郎左衛門、新助の一三名の者がさらに付け加えられており、この 中には柳川商人の田付新助の名が見える。しかし、これを含めても柳川商人はわずか二∼記名しか存在せず、近世初頭か ら柳川村に土着していた人々ばかりとは言えず、むしろもう少しになって土着するようになった人々であろうと考えられ       ︵3︶ る。しかし、元禄四後年︵一六九一︶正月の﹁惣中御役艦借リ艦日記﹂には、御役艦として一六艘の船持があげられており、 その中には与三右衛門、新助、久右衛門、七郎右衛門、長兵衛の名も見え、それぞれ一滴ずつ御役艦を所有していた。柳 川村には、他に借艦として三一艘と七五〇石積と七〇石積の丸子船二艘も存在した。そして同十四年には、御役艦一六艘、 借艦二七艘、丸子船一瓢があり、湖岸に面しているため湖上交通の非常に盛んな村であったことがわかる。しかも柳川商        る  人も、それに大いにかかわっていた様子がうかがえる。安永四年︵一七七五︶正月の﹁掟書﹂には、柳川村民の七二名の者 が請印しており、その中には柳川商人の平田与三右衛門・田付新助・柴谷四郎兵衛・建部七郎右衛門・田付新兵衛・大橋 五兵衛・柴谷長兵衛・大橋久右衛門の各氏がそろって名を連ねており、この時点で柳川商人の存在が確認される。しかも この時の庄屋は三七、横目は重右衛門であったが、組頭三名には久右衛門・四郎兵衛・新助の柳川商人がそろってなって おり、柳川商人は村内で庄屋層ではないが、組頭層としての地位を占めていたことがわかる。        ら   さらに幕末期になるが、嘉永三年︵一八五〇︶の﹁柳川村御物成地細高調帳﹂には、松前商人として新助・新兵衛・与惣 右衛門・四郎兵衛・久右衛門が記され、旅商人として竹次郎、松前奉公出稼として猪三郎︵三三歳︶・藤右衛門︵七〇歳︶・ 勇蔵︵一九歳︶・市左衛門︵五四歳︶・治郎兵衛︵四四歳︶・伝太郎︵三二歳︶・庄兵衛︵二九歳︶の七厘があげられている。文久         二年置一八六二︶の﹁冥目宗門御町下獄﹂には、﹁西本願寺宗旨愛知郡薩摩村善照寺旦那分﹂として六〇軒・二三七人と﹁東      近江商人の在村形態      五一

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     近江商人の在村形態      五二 本願寺宗旨犬上郡八坂村善教寺旦那分しとして九軒・三八人が、五人組︵実際には一∼六人組︶ずつ一九組に分けられてい た。各戸には又三郎・杢右衛門・毛平後家・市左衛門・とわのように一人家族から嘉平の一〇人家族まで様々であるが、 家族人数はほぼ五人程度であった。その中で﹁松前商庄屋血判﹂と註記されたのは、新兵衛・市左衛門・四郎兵衛であり、 ﹁松前出稼庄屋代判﹂とあるのは、庄平であった。他に﹁他所出稼庄屋代講﹂が、正蔵・石松.与四郎・友次郎.祐吉であ り彼らはいずれも当主ではなく、その子供であり、奉公に出たものと思われる。また、柳川商人の与惣右衛門は、家族に ﹁母﹂と﹁与七﹂しかおらず、註記もないことからすでに商人としての活動を停止していたのかも知れない。田付新介は、 次太郎・新作・たみ・栄蔵・つゑ︵新介女房︶・雅三郎の家族がおり、繁栄していたようであるが、宗門改の時には柳川村 に在卑していたのか、松前稼などの註記は見られない。他の柳川商人である建部七郎右衛門・大橋五兵衛・柴谷長兵衛・ 大橋久右衛門の名は、すでに衰退したのか見られない。なお同史料によれぽ、柳川村には合計一五五軒の家が建っており、 その内訳は、本家六四軒置後家三軒、隠居一四軒、明家五軒、物置一五軒、小屋一六軒、土蔵三三軒、村方惣蔵一軒、道 場一軒置庫裏一軒、出店一軒、番太一軒であり、隠居・物置・小屋・土蔵の多さが、近江商人の居住する村らしいたたず まいとなっている。        ︵7︶  慶応二年︵一八六六︶の﹁五人組御仕置帳﹂においても、前述した﹁戌年宗門御直下帳﹂と同様の状況がうかがえる。六 九軒を一八の組に分け、各組には組頭を置いており、庄屋には武庫衛門、年寄には十兵衛、百姓酒代には吉兵衛があたっ た。柳川商人では、与惣右衛門と四郎兵衛が組頭として存在したが、新兵衛、新介は組頭ではなかった。  それでは、これらの柳川商人が柳川村においてどのような役割を担っていたのであろうか、少しみてみることにしよ う。前述したように柳川商人は、財力はあっても村役人の長である庄屋になることはなく、組頭層を形成していただけで ある。それは、柳川商人が松前に出かけ地元の柳川村に常時居住していなかったこと、商業経営と村の役務とが両立ので

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きない性格であったことによるものであろうと思われる。しかし、柳川商人といえども柳川村民である限り、全く柳川村       ︵8︶ とかけ離れた存在ではあり得なかった。嘉永四年︵一八五一︶の﹁御殿様御廻村諸日記﹂によれば、同年九月十五日より十 九日まで、領主である彦根藩主が領内を巡見した。その経路は、十五日に彦根を出発し、大薮村から薩摩村・柳川村を通 り本庄村で宿泊、十六日は福老村を通り甲立嶋村で宿泊、十七日は沖之嶋村を通り山路村で宿泊、十八日は稲葉村を通り 清水村で宿泊、十九日は其呂村を通り帰濡した。その際、薩摩村では薩摩商人の宮川清右衛門家で﹁御小休﹂し、柳川村で は﹁御昼弁当、御本陣、田附新助﹂とあり、柳川商人の田付新助家が本陣を務めた。そして田付家では、 ﹁田附新助義ハ 松前ず帰国不在、新五郎世伜新三郎拾弐才之代リ役、御殿様御案内仕候﹂とあり、当主の田付新助は松前に出かけており、 新助の子供もまだ若いので、新五郎が代役を務めた。       ︵9︶  彦根藩とのつながりでは、文久二年︵一八六二︶十二月の﹁殿様江御見舞帳﹂によれば、柳川村より藩主への見舞として 合計六両三分一朱と三三〇匁を村民六一軒から集め上納した。柳川商人の田付新助は﹁別宮リ﹂としてこれとは別に上納 したようである。その中には、三とヌの各二両、列とeの各一両、醍と油屋の各一分二朱が含まれ、る一一匁、各と﹁の 各八匁、江と全後家の各一匁も見られる。商人以外では、庄屋十平の二〇匁、横目の一四匁六分二厘、吉右衛門の一〇匁 二分五厘を除けば、すべて一∼一〇匁、平均すれば五匁前後の見舞金を上納しており、柳川商人の上納額が衰えたとはい       ︵10︶ え、柳川村内では他を圧していたことがうかがえる。また年代未詳であるが、 ﹁甲年御上様江献金覚帳﹂においても、柳 川村民五八名の献金高合計二八両三分三朱・一〇五匁三分五厘のうち、平田与三右衛門の一〇両を最高に、屋号のみられ る商人一二名の合計は二一両一分三半・七匁で、献金高のかなりの部分を占めている。また、田付新助は、この場合も別 途に上納したのであろうか、ここにはその名は見えない。これに対し、庄屋の十薬は二分二朱で、ほとんどの村民が一朱 か一〇匁以下の献金額であり、柳川商人との格差が存在した。      近江商人の在村形態       五三

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近江商人の在島形態 五四  このように柳川商人は、村内ではその経済的地位が村役人である庄屋・横目を上回っており、領主との関係でも巡見や 献金などの節には村役人以上に村内で貢献したのである。それほど松前において活躍した近江商人をかかえた柳川村であ ったが、文化期︵一八〇四∼一七︶頃になると、次のような困窮状況を領主側に訴えている。       ︵11︶        乍恐以書付御願奉申上候        愛知郡柳川村   ︸当村之儀者里村二御座候得者、別而広太之御慈悲ヲ以御百姓相続仕具有仕合二奉存候、元来少高・一階、御百姓斗二而相続難相成    候下付、往古6厚キ御憐懸ヲ以他国商イ蒙御免松前表へ出店仕法者共多く御座候処、先年者彼地商売相応二繁昌苦難無渡世仕    候故、村方成立万端世話仕落耳付少高之村方二御座候柳井、先年ヨリ御野廻リ御宿臨御順見御宿桜之御用二も相勤、尚又御調    達御用当馬勤候者共多ク御座候而誠二冥加二相叶難所奉存候、然ル慮松前表御国方御仕法も相替リ、別而近年彼地職事不漁打続    申候二男商売一向不引合昌相成、其上火難海難度重リ、店持之者共も追々及潰二甚以難渋仕居候上、近年水損相続村中一統必       ︵カ︶    至ト困窮弥増二相成候匂付、当春分而厚キ御岳懸ヲ以村方継立方賞誉末々之者共迄心得違不仕、精々相働輪様被仰渡之御二村        ︵文化六年十月︶    中一統具有奉畏、何も格別出精仕植付仕候所、誠二於当村老四十年来も無御座順気二十追々見事二生立悦居候処、当月九日大    風炉而本庄村田付村誌切仕、当村濃開先二相成田畑大二荒損し、往来筋橋三ヶ所石垣霜崩流川口及大破、殊二村囲リ石垣等も    余程廻流、何共可仕様無御座難渋仕候、別事橋之儀者御鷹野笹書遊候節、御通筋之儀二御座候得者念入相仕置候、尚又御普請        ︵空白︶    方段平御船毎度御通船御座候・一付、橋長サ間三二も相成不申候、乍恐随分丈夫二仕置候庭、何分此度之  強ク一時二盗賊レ    当惑至極二奉存候、前段酒断申上候通リ店構之者共相応二仕居候節、橋掛入用修覆等迄も小前之者共江入用方相懸ヶ不申取繕    イ呉越得共、困窮及潰一一候者共多ク御座候故、末々之老雄迄も困窮仕候折柄故、如元普請連濁義村方難及力二甚以難渋笹戸二    付、何卒御憐懸之御慈悲ヲ以如何様共御運立被下置畳ハ・村中一統生々世々冥加至極難有恭豊艶存候、依理説恐以書付御願奉    申上候、以上 すなわち、柳川村は小村であるが、古くから松前への商業において繁栄し、巡見の際の宿や調達御用なども務めてきたが 近年松前では不漁続きで、さらに火災や海難も重なり難渋しているため、商人たちの協力が得にくく、この度の盤切にと

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もなう川口普請の負担免除を願い出ている。  そして、柳川商人が松前へ出かける時には、次のような宗旨請負手形を持参したようであるので紹介しておこう。        ︵12︶        宗旨請合手形之事       井伊掃部頭殿領分        江州愛知郡柳川村   一       四郎兵衛    右之者此度為商用松前表江罷越候、宗旨違代々浄土真宗本願寺末派当院門徒二紛無之百里、道中往還無滞様御嵩申候、万一道    中往還松前表等二而致病死候ハ・宜御吊御取置、追而当方江御通達可雪下候、菅薦宗旨請合手形如件     元治二年乙丑四月 日       同領同国同郡薩摩村       院家 善 照 寺㊥      国々所々       御奉行所       寺院方 すなわち、これは、柳川商人の柴谷四郎兵衛が松前へ商用で出かける際に、愛知郡薩摩村の浄土真宗善照寺の檀家である ことを証明した道中手形である。近江商人が他国へ出かける時には、常にこのような手形を所持したのであり、遠い他国 にいても近江の出身地との結びつきは絶えることはなかったのである。  このように柳川商人は、湖東の湖岸に位置する小さな村に居住していたが、柳川村では近世の初頭より近江商人として 土着していたのは、二∼三人だけであった。柳川商人が、確実に柳川村の中に定着した形でみられるのは、元禄年間にな ってからであり、近江商人としての活躍を示すのは、柳川村が畑地のみで田地を有しなかったことや湖岸に面する多数の 艦船をもつ湖上交通の非常に盛んな村であったことが深く関係していたようである。柳川商人は、当然のことながら、そ      近江商人の在村形態      五五

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近江商人の在村形態 五六 の財力によって村内での経済的地位は高かったのであるが、遠隔地へ出かけて商業を営んでいたため、村内では村役人で ある庄屋層を形成することなく、組頭層にとどまっていた。しかし、藩主の巡見や藩への献金などでは、その経済力によ って庄屋層をはるかに上回る重要な役割を演じていた。けれども、文化期頃になると、松前での不漁や火災・海難などに よる営業不振から、柳川商人の村内での経済的役割にもかげりが見えるようになっていった。そして幕末期には、旧来の 柳川商人のうちいく人かは姿を消して行くことになったのである。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ ︵10︶ ︵11︶ ︵12︶ ﹁柳川村里集﹂︵滋賀大学経済学部附属史料正保管柳川共有交書︶。年代未詳だが、正徳元年の記述があり、この頃作成されたものと思われる。 明治四年﹁近江国愛知郡柳川村諸事届書﹂︵同右︶。 元禄四年﹁惣中御役艦借リ艦日記﹂︵同右︶。 安永四年﹁掟書﹂︵同右︶。 前掲﹃近江愛書郡志﹄巻三、一二九頁。この史料も柳川共有文書であるが、滋賀大学経済学部附属史料館保管の柳川共有文書の中には存在しない。 文久二年﹁戌年宗門御改下帳﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館保管柳川共有文書︶。 慶応二年﹁五人組御仕置帳﹂︵同右︶。 嘉永四年﹁御殿様御廻村諸日記﹂︵同右︶。 文久二年﹁殿様江御見舞帳﹂︵同右︶。 ﹁淫事御上様江献金覚帳﹂︵同右︶。年代未詳だが、記述されている人名等から文久二年﹁殿様江御見舞帳﹂とほぼ同年代であろうと思われる。 丈化六年﹁堤切二付諸事之留﹂︵同右︶。 元治二年﹁宗旨請合手形﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館保管柴谷斑文書︶。

三柳川と薩摩

 ここでは、両舌組商人の中でも特に密接な関係にあったと考えられる本来の地響である柳川村と薩摩村との関係につい て見てみることにしよう。 柳川村は、前述したように村高四八石余の小村であり、 一方薩摩村は五一七石余の一般的な規模の村であった。両者と

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も彦根藩領に属しており、柳川村の北東に境界を接して薩摩村が位置する。そのため、さまざまな面で両者は密接な関係 を保っていた。例えば、前述した文久二年︵一八六二︶の﹁当年宗門御改下帳﹂に見られたように、柳川村の六九軒のうち 六〇軒が薩摩村善照寺の旦那であった。したがって、柴谷四郎兵衛が松前へ商用で出かける際の宗旨請合手形も薩摩村の      レ      へ   善照寺から出されたのである。さらに、文化三年︵一八〇六︶七月の﹁無量寺開帳寄進覚記﹂によれぽ、﹁薩摩村無量寺十 三年目録年開帳二付、先年♂柳川松前屋組中♂供物寄進有之謀臣、因藏当文化三丙寅年開帳有之、六月廿九日油屋新重郎 殿桶屋太郎兵衛殿両人偉印へ被参口上之趣、当年無量寺開帳二歳、如旧例柳川御組中ず供物御寄附可被論旨被申候﹂とあ り薩摩村の無量寺での開帳に際し、旧例の通り柳川商人へ寄進を依頼しており、結局御供物料三八匁と台一つ八分の合計 三八匁八分を無量寺側へ寄進している。        へ    次に、天明二年︵一七八二︶の﹁飛脚諸用覚﹂によって、柳川商人と薩摩商人との結びつきについて見てみることにしよ う。まず、江州柳川飛脚として長右衛門・嘉兵衛を恒常的に雇い、毎月一・六の日に出発することになっていた。そして、 彼らに対する年々の給金は次のように拠出割合が定められていた。 一右給金割合左之通 弐両三分弐朱  一金三両 一金弐両 一金壱両    大坂  一金壱両    同 一金壱両    同  一金壱両    同

柳川

薩摩

松前屋 奈良屋 井筒屋 越後屋 近江商人の在村形態 五七

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近江商人の在村形態 五八 一金三歩    同  伊丹屋 一金壱歩弐朱  同  多田屋 〆金拾両弐朱   余り弐朱ハ柳川ノ分引 右之通年々出金也 すなわち、一〇両二朱のうち柳川が三両、薩摩が二両、大坂の松前荷物取扱問屋六軒が残り五両二朱を分担していた。  そして江州柳川飛脚の取り扱いについて、次のように取り極められた。 一札之事 一 江弱柳川飛脚      長右衛門      嘉 兵 衛 右両人当八月6毎月六度ツ・往来飛脚為相勤申候 一翼飛脚江其御地6柳川薩摩連印之通江金銀御渡し言成候漁者、従此方銘々任差扇御渡し可文成候、 方江御難儀相掛ヶ申間鋪候、尤連印之外ハ存知不申候 一諸荷物之儀於道中致紛失候共、連印之者共引受御難儀相掛ヶ申墨画候、為後日飛脚受負証文依三態件       江弱柳川       同       同       同       同       同       同 万一於道中紛失致画調貴殿 平田与三右衛門

田 附新助

大橋仁右衛門 柴田四郎兵衛 建部七郎右衛門

田附新兵衛

大橋五兵衛

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天明弐年寅八月

同同同同同大

坂 奈良屋九郎兵衛殿 松前屋政五郎殿 井筒屋吉兵衛殿 越後屋源兵衛殿 伊丹屋四郎兵衛殿 多田屋清右衛門殿 同 江茄薩摩 同 同 同 同

柴谷長兵衛

巻淵勘兵衛

宮川清右衛門 山本七左衛門 福原九郎左衛門 中村専右衛門 但し右銘々実印二而 すなわち、毎月六度ずつ往来すること、柳川・薩摩仲間へ送金する際には柳川・薩摩仲間の指示によること、万一途中で 紛失した場合は柳川・薩摩仲間で責任をもつこと、但し仲間外への分については関知しないこと、諸荷物の輸送の場合に おいても同様の取り扱いを行なうことを大坂の松前取扱問屋に通知している。  そして、飛脚である長右衛門・嘉兵衛より次のような駄賃状賃の定が提出された。 一駄賃状賃定左之通     大坂上下賃銭定  一金百両二付八匁但し拾両・一付八分 金壱両入代三分五厘  一荷物壱〆目二付壱匁 但し壱〆目6内ハ格好見斗    近江商人の在村形態 五九

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近江商人の在村形態  一銀壱〆目一一付弐匁五分 但し百目二付四分  一状賃   拾六文 但し大封書状ハ見斗  〆      京都上下賃銭定  一金百両昌付五匁五分 但し拾両二付五分五厘 金壱両入代三分  一荷物壱〆目二付八分五厘 但し壱〆目汐内ハ格好見斗  一銀壱〆目二付壱匁八分 但し百目三分五厘  一状賃   拾弐文 但し大封状見斗  〆      大津上下賃銭定  一金百両二付四匁 但し拾両二付四分 金壱両入代弐分五厘  一荷物壱〆目二付七分 但し壱〆目5内ハ格好見斗  一銀壱〆目二付壱匁五分 但し百目二付三分  一状賃    拾文 但し大封見斗  〆 右之通御座候、以上  ︵天明二年︶   寅八衣 魚〇 飛脚 長右衛門 同  嘉兵衛 すなわち、これによって柳川・薩摩から大坂・京都・大津へ金・銀・荷物・書状が、定期的にしかも頻繁に往来していた ようすがうかがえる。このように柳川・薩摩商人は、地理的に近接していることもあって、 一体をなして相互に協力して その業務に携っていたのである。

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両者の密接な関係は、明治期以降も継続していた。明治二十二年四月一日よりの市制・町村制施行にともない愛知郡の 荒神山西南麓の上岡部・下岡部・石寺・薩摩・柳川・甲崎・下西川・上西川・田原の全村が合併して稲村となった際、薩 摩・柳川の有志の者より稲村から薩摩・柳川を独立させ、新たに両浜村を結成しようという運動が起こってきた。その中 にはもちろん薩摩・柳川の商人も含まれていた。その経緯は次のようであった。       ︵3︶     分村事件運動之経歴 一明治廿弐年四月一日ヨリ町村制執行二付︵町鯛部丁酬聴罐醇彫柳魁町細原︶ノ旧九ヶ村ヲ以テ稲村トナル、此際薩摩柳川有志者ノ希 望ハ独立シテ両浜村ヲ組織セント団結セシモ、老雄ヒニ至ラズ時期ヲ待ツコトヲ約シタリ、受二会合シタル有志者ノ氏名左二 中村庄次郎、久保田善右衛門、山本四郎平、中村甚四郎、山本長作、山本清太郎、西沢与平、大橋太郎兵衛、建部権十郎、田 付庄平、田付新助 一明治廿四年十一月八日、稲村会議昌岡田村長ノ提出案ハ、学校舎役場新築及戸数等級改正及村税反別割及学校舎臨時修繕費等 ノ試問及附議セラレタリ、於導燈員中村庄次郎建部権十郎大橋太郎兵衛ハ原ヨリ地理民情ノ符合セサルヨリ、分離ヲ旗持スル ヲ以テ新築ハ見合スコト・一其他提出案二不全意ヲ主張シ帰村セリ、翌九日右三名首唱者トナリ薩摩学校内口耳テ両字ノ有志会 ヲ開キ、臨時村会不当ノ模様村長方針如何ヲ協議シ、分村ノ可否ヲ図ルニ有志者悉皆︵輌欣碑〃断主︶賛成二付、翌々十一日右三 名ト山本清太郎ノ四名岡田村長ノ宅へ臨ミ分村ヲ請求セリ碗鯉齪欄ツ誤け秘曲釧甑捌㈱炉撒欄吸旧事鎗〃柳膳か珠紗造田︶村長日ク然うバ 郡長昌伺ノ上何分ノ回答スト於是四名ノ者帰村セリ ー全年十一月廿日、右事件・一付岡田村長ヨリ召集ニヨリ大橋太郎兵衛中村甚四部建部権十郎稲村役場へ出頭シ回答ヲ請求ス、村 長日ク先達而ノ件ヲ詳細郡長二懇談セリ、郡長被申候一蹴小村ヲ分離スルトハ何事ソ、合併スルコソ望マシケレ到底分離ハ相 成ラント、然シ分離スル昌付テハ基本財産ヲ三四千円ト地租貸与金ノ悉皆返納ト、将来水害昌罹リシ際モ貸与救助ハ一切歎願 セザル確証ヲ取ナド、実二圧制不当笑止最長ノ言フベカラサルコトヲ並へ、分村六ケ敷次第ヲ諭サレタリ、然レトモ益分離ノ 事情ヲ並べ徹頭徹尾分離ヲ請求シ及郡長ノ言不当ナルヲ述へ帰村セリ ー永年十二月八日、右事件一一付岡田村長ヨリ召集二拠リ中村庄次郎大橋太郎兵衛山本清太郎出頭ス、村長日ク尚且長へ懇談セシ 近江商人の在村形態 六一

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   近江商人の在村形態       六二       ︵精︶  二、総テ従来上通昌シテ治スルが即チ自治制ノ性神ナリ、依テ新事ハ万尋而シテ分離モ思ヒ止マル様ニスヘシト、尚寺原書記 官ニモ談シ松田参事官ニモ伺ヒタルニ、松田参事官ハ外宮施行迄待ベシト郡制施行ノトモハ必ス町村分合モ之アルト被王気リ ト、依テ新事ハ何事モ致サぐルニ依リ先思ヒ止り呉ト五二申述ラレタリ、依テ再時期ヲ待ツコトトナリ        ︵ママ︶ 一明治弐拾五年三月廿六日廿七日、両日稲村会議員定期半数改選々挙会長付、東部大字大字ヨリ薩摩柳川ヲ蔑視スルノ運動秘密 ナルモ隠レタルヨリ顕ハル・ハ無シトテ終二露顕シ、是薩摩柳川ノ幸ナリ、待時期来レリト両大字有志者全身全月三拾日夜会 合シ、分村請願貫徹スルコトヲ約シ散会セリ、其氏名ハ左ノ如シ 中村甚四郎、山本四良平、中村庄次郎、西沢与平、山本清太郎、久保田善右衛門、建部権十郎、大橋太郎兵衛 一首年四月一日、画会ノ決議二拠リ村民一同二分村可否ヲ図りシニ、分村賛成ノ声満場於是誓約証二連署シ、分村請願運動委員 八名選挙セシニ左ノ通当選承諾セリ 久保田善右衛門、中村庄次郎、山本四良平、山本長作、中村甚四郎、建部権十郎、大橋太郎兵衛、平田辰治郎 そして、同年四月一日の分村賛同の誓約証は、次のようなものであった。          ︵4︶       誓 約 証  一今般稲村之内大字薩摩大字柳川ヲ分離シ自治ノ団体ヲ組織スルコトヲ確決ス、然ルニ該分離ノ請願可致毛付テハ、当大字曽於   テ委員三名ヲ選出シ分離事件二関スルコトハ委員二喜界シ、委員二係ル費用︵実費弁償︶ハ当大字戸数等級割ノ某日負担可致ノ誓約   ナリ、妥二署名捺印シテ誓約ス       愛知郡稲村大字柳川    明治廿五年四月一日       田付新五郎        ︵他五七名署名捺印︶  その後も運動は続けられたようであるが、結局分村独立するには至らなかった。しかし、このように明治に至っても柳 川と薩摩はなお密接な関係を保っており、分村計画で出てきた村名が両浜村であるというのも、両浜組と全く無縁のもの ではないように思われるのである。

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︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ 文化三年﹁無量寺開帳寄進覚記﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館保管柳川共有文書︶。 天明ご年﹁飛脚諸用覚﹂︵同旨︶。この史料と同様の史料は、前掲﹃近江愛智一志﹄単三 明治二十五年﹁分村事件運動之経歴﹂︵同右︶。 明治二十五年コ薩摩柳川分村請願二付誓約証﹂︵同右︶。 ︵二六七∼二七コ口︶にある。 四 柳川商人の活躍  柳川の松前商人の仲間組織としては、大黒講と小中組というものがあったようで、例えば前述した文化三年︵一八〇六︶ における薩摩村無量寺より柳川松前組に対する開帳の供物寄進依頼の際、 ﹁当年ハ田印〒印画揖久右衛門茂皆々松前江下 リ留主中二付、是迄之軒合も一向不案内勿論相談直人も無罪殆困入寺得共、何様先年ず商工の無為事者有間敷と存、段々 小女霜崩及大黒講五重吟味致候へ共、一向二等之帳面芯無之諸事不分明ユ付﹂とあるように、先年よりの控を小中組と大 黒講の書類箱に求めており、この大黒講と小中組が柳川の松前商人の組織であろうと考えられる。       ユ   それでは、大黒講とはどのような組織であったのであろうか。次に示す享保十年︵一七二五︶正月の﹁大黒講帳﹂によっ てみてみよう。 享保乙巳年大黒講之覚 巳三月廿四日勤 一新金五両 巳九月十九日勤 一同 五両 午三月十日勤 一同 五両 午九月+九日動 一同 五両 近江商人の在村形態 向ξ 子 冬 盛 六三

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近江商人の在村形態 六四  未二月十九日勤 一同 五両         ×  未九月十九日勤

一同五両       命

 申三月十九日 一同五両        A一  申九月十九日ト酉ノニ月十九日勤 一同五両        合 酉正月十九日勤、午ノ正月五日相勤メ 一同 五両        丁や 酉九月十九日勤、午ノ八月五日相勤メ 一同 五両         揖 戌二月十九日勤 一同 五両         ﹁ 己未十一月十日勤

一同五両        冬

一同 弐両弐歩       荊

一同弐両弐歩      件

〆六拾五両結 又三百七拾九匁四分八厘、巳二月β亥二月迄順々一廻リ相済候、かけ銀亥二月十九日加へ結 一右之金子敦賀宿網や伝兵衛殿へ預ケ此利足年中壱割二相シ給候筈二二押下シ王土 一右連中若入用之方御座候而分取申度願有之方御座現出・其節相談之上二巴相器シ可申事 一右之金子勝手く二分貸シ申事堅ク可為無用事 一右為相続毎年正月十九日九月十九日両度可致会合事 一右之会席二壱人前弐匁宛為懸銭可出両度事 一右両度掛銭之義者右二連中二而預五歩加利足手掌6次当番へ相渡シ可申事、尤大黒講入用之銀有之候ハ ・此銀子遣可申事

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  一右両度会林之節献立之定法之事 すなわち、柳川商人一四軒が各々原則として五両ずつ拠出し、敦賀の網屋伝兵衛へ預け利足をとり運営し、講仲間で必要 な者がおれば仲間相談の上貸付けること、毎年正月と九月に会合をもち、その際一人二匁ずつの懸銭を出すこと、その掛 銭は講仲間の当番に預け、その間五分の利足をつけ、次の当番に受け渡たすこと、その間大黒講で必要な費用はそこから 使用することなどを取り極めている。要するに、大黒講は柳川商人による金融講であった。  これに対し、小中組については、 ﹃近江愛智偉勲﹄には﹁小中組の名称は柳川松前商人組合団体の称号なり。小中組は 其組合員九人より成れり﹂とあり、柳川の松前商人である建部七郎右衛門・田付新助・平田与三右衛門・大橋五兵衛・大        ︵2︶ 橋久右衛門・田付新兵衛・柴谷四郎兵衛・柴谷長兵衛などによって構成されていた。そして、天明六年︵一七八六︶の﹁小      お  中定心覚帳﹂によれば、御宮祭礼の湯せんの上納、海津運賃の支払、柳川飛脚賃金の支払などを小中組において行なって おり、柳川商人の商業上の仲間組織として小中組をとらえることができる。  小中組には、毎年小中心あるいは小中宿と呼ばれる当番が設けられ、例えば明和九年︵一七七二︶は冬、安永二年︵一七 七三︶はヲ、同三年は15、同四年は醍、同五年は冬というように交代で務めた。しかし、 ﹁小中諸払帳﹂・﹁海津行船賃附        ︵4︶ 帳﹂・﹁諸所掛銀寄帳﹂の残存する明和九年から文化三年︵一八〇六︶までの小中番をみると、冬︵建部七郎右衛門︶・ヲ︵田 付新助︶二犀︵大橋久右衛門︶・醜︵柴谷四郎兵衛︶・三︵平田与三右衛門︶の五軒のみが当番を務めており、この五軒が柳川商人        ︵5︶ の中でも当時有力商人であったと思われる。明和九年正月の﹁小中諸生帳﹂によれば、同年には﹁轟々荷所出銀寄﹂とし て冬三分・一四匁二厘、三一分・=匁六分七厘、ヲ平分・一二匁五分四厘、又︵田付新兵衛︶八匁、障=二匁九分四厘、 7や︵大橋五兵衛︶一分・五匁七分、肛︵柴谷長兵衛︶七匁四分であり、﹁印々運賃長銀高﹂として冬二分・一五匁四分六厘、 三二分・二匁七分九厘・二文、〒一分・三匁七分二厘、ヌ一四匁六分四厘、犀二分、一一匁二分九厘、耳一分・三匁五厘、      近江商人の在村形態       六五

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     近江商人の在村形態       六六 銚三分・二一文、に一〇匁四分五厘とあり、各ニニ里心・障・婿の五家の比重が高く、ヌ・7や・江の各家はやや比重が低        ︵6︶       ’ い。そして、安永七年︵一七七八︶三月の﹁小中諸古帳﹂によれぽ、同年には﹁印々荷主出銀着﹂として冬二分・六匁七分 二厘、三二分・一三匁二分、一二三一匁四分五厘、只六匁五分、犀一﹁匁一分二厘、了や七匁二分五厘、醍一四匁八厘、江五 匁一分五厘・四〇文であり、 ﹁海津行印々運賃寄﹂として冬三七匁九分四厘、隔ミ五二匁六分四厘、×二三匁四厘、β三三 匁九分九厘、丁や九匁八分、所一八匁四分七厘、江九匁五厘であり、犀と哉の比重がやや低くなってきている。同じく天明 三年︵一七八三︶には、﹁三々荷所出銀﹂として冬二分目八匁八分二厘、三二分・四匁八分三厘、一三分・一四匁三分七厘、 ヌ六匁八分七厘、犀七匁五分五厘、耳六匁二分、哉二二匁六厘、江三匁五分であり、 ﹁印書運ちん銀高﹂として冬二分. 七匁七分五厘・二文、三二朱三分二朱・四匁六分八厘、ヲ一分・=二匁六分六厘、ヌ八匁二分五厘、ほ.了や三分.三匁七 分・五文、﹁二朱一分・五匁二分五厘、醍一分・七匁三分五厘・五文、江二二〇文であり、冬ニニ・〒はまだ健在である が、犀と所は比重が低くなり、新たに﹁のような商人が現われるようになる。さらに、天明五年︵一七八五︶の﹁海津行船   ︵∼︶ 回附帳﹂によれば、犀・〒・又・三・江・丁や・冬・映・﹁の他に、奈・る・命・軒の商人が含まれるようになる。しかし、 柳川商人は基本的には、冬・醗;偉・又・〒・三・了や・江の八軒を中心とする人々によって構成されていたようである。       き  例えば、年代未詳であるが、子年二月のh荷所掛銀寄帳﹂によれば、各商人によって何人役と定められていたらしく、三 人役として冬・〒二﹁、があげられ、一人役として醍、半人役としてぼ・只・丁や・合・江の各商人が格付けされていたよう であり、これからも柳川商人の中心的存在として冬︵建部七郎右衛門︶二7︵田付新助︶・三︵平田与三右衛門︶の商人があげら れよう。  このことは、前述した第2表の各商人の御用金や献金等の額によってもうかがうことができる。宝暦十二年︵一七六二︶ の御用金の場合には、冬・一丁・三はいずれも最高額である八幡の岡田弥三右衛門家の八六両に次ぐ八三両を各々拠出して

参照

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事業名  開 催 日  会      場  参加人数  備    考  オーナーとの出会いの. デザイン  3月14日(土)  北沢タウンホール 

■実 施 日: 2014年5月~2017年3月.. ■実施場所: 福島県

※1 13市町村とは、飯舘村,いわき市,大熊町,葛尾村, 川内村,川俣町,田村市,富岡町,浪江町,楢葉町, 広野町, 双葉町, 南相馬市.

【①宛名 ②購入金額 ③但し書き ④購入年月日

■実 施 日: 2014年5月~2017年3月.. ■実施場所: 福島県

■実 施 日: 2014年5月~2017年3月.. ■実施場所: 福島県

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※1 13市町村とは、飯舘村,いわき市,大熊町,葛尾村, 川内村,川俣町,田村市,富岡町,浪江町,楢葉町, 広野町, 双葉町, 南相馬市.