ピースおおさかの方向性を決める重大な局面!市民の声を届けよう!
日本と大阪の戦争責任を明らかにし、すべての大阪空
襲犠牲者を追悼する「ピースおおさか」をめざして!
2014年1月 伊賀正浩 (子どもたちに渡すな!あぶない教科書 大阪の会) ( 1 ) 2 0 1 4 年 1 月 、 ピ ー ス お お さ か リ ニ ュ ー ア ルの 内 容 を 巡 って 重 大 な局 面 を 迎え て い ま す 。 2013年 4 月 9 日 、 財 団 法 人 大 阪 国 際 平和 セ ン タ ー (以 下 、 ピー ス お おさ か ) は 「 展 示 リ ニ ュ ー ア ル 構 想 」( 以 下 、 「 リ ニ ュ ー ア ル 構 想 」) を 公 表 し 「 リ ニ ュ ー ア ル 」 作 業 を 本 格 化 さ せ ま し た 。 11月 末 に は 、 「リ ニ ュ ー アル 」の 基 本 方針 を 定め た 「 基 本 設 計 」 を 公 表 し ま し た 。 2014年 1月 にも「 実施設 計 (中 間報告 )」を 作成し、 3月 ま で に 「実 施 設 計 」を 完 成 さ せ よ う と し て い ま す 。 「実 施 設 計 」 は 、 2 月 大 阪 府 ・ 市 議 会 で 「リ ニ ュ ー アル 予 算 」を 編成 し 成立 さ せ る た め に 、 「リ ニ ュ ー ア ル 」 の 展 示 内 容 や 演 出方 法 、 設 備 計画 等 を 具体 化 し たも の で す 。ピ ー ス お お さか と 大 阪府 ・ 市 は、 2014年 夏 に も 工 事 に 着 工 し 、 2015年 4 月 、 リ ニュ ー ア ル オ ープ ン す る予 定 で す。 (2)そ も そ も 今 回 の ピ ー ス お お さ か リ ニ ュ ー ア ル 構想 は 、 橋 下 ・維 新 の 会に よ る 激し い 「 偏 向 」「 自 虐 的 」 と の 攻 撃 に 対 し て 、 加 害 展 示を 大 幅 に 削 除し 、 大 阪大 空 襲 をア ジ ア 太 平洋 戦 争 か ら 切り 離 し 、そ の 被 害だ け に 特 化す る 展 示 に 転換 し よ うと す る もの で し た 。こ の 動 き に 危機 感 を 抱い た 大 阪空 襲 被 害 者を 始 め 多 く の市 民 ・ 団体 が 、 ピー ス お お さか が 2 0 年 以上 に わ たっ て 掲 げて き た 「 基本 理 念 」 を 守り 続 け るよ う に 要望 を 続 け ま し た 。 そ の 結 果 、 当 初 の 「リ ニ ュ ー ア ル 構 想 」に 比 べ て 改 善 が 見 ら れ る も の の 、加 害 展 示 の大 幅 撤 去と い う 本 質的 な 問 題は残 ったま まです 。 (3)ピ ー ス お お さ か は 、 ① 大 阪 大 空 襲 の 記 録 化運 動 の 集 大成 と し て日 本 で 最 初の 本 格 的 な空 襲 の 常 設展 示 を 行っ て き た 点で も 、 ② 空襲 被 害 だ けで な く 軍都 大 阪 の 役割 に も 着 目し 、 被 害 と加 害 を 総合 的 に 展 示す る 日 本 の平 和 資 料 館の 先 駆 け的 な 存 在 であ っ た 点 でも 、 ③ 大 阪の 反 戦 平和 教 育 の 中心 と し て 発展 し て き た点 で も 、極 め て 重 要な 平 和 資 料館 で す 。 さら に は 、歴 代 内 閣 がア ジ ア を 含 め 世 界 に 継 承 を 表 明 し て き た 「村 山 談 話 」を 具 現 化 し て い る の で す 。 そ の 動 向 は 国 内だ け で な く国 際 的 にも 注 目 さ れて き ま した。 早急 に 、 ピ ース お お さか の リ ニ ュー ア ル に つい て 「設 置 理念 」を 生 かし た 展 示 を維 持 す るよ う に 要 望の 声 を 届け る こ と が必 要 で す。◆ピースおおさかの歴史的意義と右派からの攻撃
(1)日本 で最初 の本格的 な空襲 の常設 展示。 大 阪 大 空襲 の 記 録 化 と追 悼 の 中心 的 存 在。 ピ ー ス お お さ か は 、 1981年 に 平 和 祈 念 戦 争 資 料室 を 大 阪 府 が開 設 し たこ と を 出発 点 と し てい ま す 。 そ こに は ベ トナ ム 戦 争を き っ か けに し て 広 が った 大 阪 大空 襲 の 記録 化 を 進 める 体 験 者 と 研究 者 の 地道 な 運 動が あ り ま した 。 大 阪 大 空襲 の 記 憶を 語 り 継ぎ 二 度 と 戦禍 を 繰 り 返 さな い と いう こ と 、大 阪 大 空 襲被 害 者 に は 在阪 朝 鮮 人が お り 、そ れ は 日 本の 朝 鮮 植 民 地化 に 起 因す る こ とが 確 認 さ れて い ま す 。 そし て 、 大阪 空 襲 被害 者 の 記 録化 と 国 家 補 償を 求 め る運 動 、 朝鮮 人 中 国 人強 制 連 行 と 強制 労 働 の真 相 調 査の 運 動 、 それ ら を 子 ど もた ち に 継承 し よ うと す る 教 育現 場 で の 反 戦平 和 教 育等 と 結 びつ き 、 1991年 ピ ー ス お お さ か の 設 立 と な っ た の で した 。 つ ま り 、ピ ー ス おお さ か の存 在 は 、 これ ら の 運 動 の成 果 と 大阪 府 ・ 市民 の 二 度 と戦 争 を 起 こ して は な らな い 決 意の 結 晶 で し た 。 ピ ー ス お お さ か は 、「 大 阪 大 空 襲の記 録化運 動と研究 成果の 集大成 」( 小 山 仁 示 さ ん 著 「 現 代 史 を 見 る 目 」) だ っ た の です。 (2)加 害 と 被 害 を 総 合 的 に 展 示 し よ う と す る 平和資 料館の 新たな取 り組み の先駆 け 1980年 代 ま で 全 国 の 平 和 資 料 館 が 被 害 展 示 中 心だ っ た 中 で 、ピ ー ス おお さ か の誕 生 は 、 加害 と 被 害 を 総合 的 に 展示 し よ うと す る 新 た な 取 り 組 み の 先 駆 け と な り ま し た 。 立 命 館 大 学 国 際 平 和 ミ ュ ー ジ ア ム ( 1 9 9 2 )、 川 崎 平 和 館 ( 1 9 9 2)、 埼 玉 県 立 平 和 資 料 館 (1993)、 軍 都 広 島 を 展 示 に 加 え た広島 平和祈 念資料館 の改築( 1994)、 沖 縄 戦 での 国 内 外 を 問わ ず 全 ての 犠 牲 者を 刻む平 和の礎 ( 1995)等々 。 これ ら の 資 料館 も 現 在、 右 派 か ら加 害 展 示 につ い て 「 偏向 」 等 の厳 し い 攻 撃を 受 け て いま す 。 ピ ース お お さか の 加 害 展示 を 守 る こと は 、 全 国の 平 和 資料 館 の あ り方 を 左 右 する 極 め て 重要 な 意 義を 持 っ て いま す 。 (3)加 害展示 に対す る右派 の執拗 な攻撃 1996年 自 民 党 は 「 全 国 の 戦 争 博 物 館 に 関 する 調 査 報 告書 」 で 、全 国 の 加 害展 示 の あ る 平 和 資 料 館 に 「 偏 向 」 攻 撃 を 加 え ま し た 。長 崎 原 爆 資料 館 の リニ ュ ー ア ルを 契 機 に 「 南 京 大 虐 殺 」 関 連 写 真 の 撤 去 (1996 年 )、 沖 縄 平 和 祈 念 資 料 館 の 新 館 開 館 に と も ない 日 本 軍 の住 民 虐 殺展 示 、 日 本軍 の ア ジ ア へ の 加 害 展 示 の 撤 去 (1999年 )、 東 京 都 平 和 記 念 館 の 建 設 凍 結 ( 1999年 )、「堺 市 立平 和 と 人 権資 料 館 」か ら の 日 本の 加 害 展 示 の 撤 去 (2006年 )、 埼 玉 県 立 平 和 資 料 館 でリ ニ ュ ー アル を 口 実と し た 加 害展 示 撤 去の動 き (2013年 )、等々 。 ピー ス お お さか に 対 して も 、 自 民党 ら は 「 特定 の イ デ オロ ギ ー の宣 伝 活 動 拠点 と な っ て い る 」 な ど と 批 判 を 行 い ま し た 。 19 97年 大 阪 府 ・ 市 議 会 で は 、 自 民 党 議 員 が ピ ース へ の 補 助金 削 除 とピ ー ス 解 散要 求 。 1998年 3月 に は 「 戦 争 資 料 の 偏 向 展 示 を 正 す会 」 が ピ ース の 補 助金 中 止 を 求め る 請 願 など 、 ピ ー スお お さ かの 加 害 展 示に 対 し て 攻 撃 を 集 中 し て き ま し た 。 2000年 に は 右 派 が 「 20世 紀 最 大 の ウ ソ ・ 南 京 大 虐 殺 の 徹底 検 証 」 をピ ー ス おお さ か で 開催 す る と ころ ま で い きま し た 。し か し 、 それ で も ピ ース お お さ かの 加 害 展示 は 撤 去 され る こ と はあ り ま せ んで し た 。そ れ は 、 ピー ス お お さか が 、 一 貫し て 広 範な 市 民 参 加に よ る運 営を行 ってき たからに 他なり ません 。 (4)2002年から大阪大空襲の死没者の本格的 な調査と「刻の庭」(2005年8月)への名前の 刻印。 反 戦 平 和 教 育 に な く て は な ら な い 存 在 に発展 。 ピ ー スお お さ か の 最大 の 危 機を 立 て 直し た の は 、大 阪 で の 地 道な 大 阪 大空 襲 を 記録 化 す る 広範 な 運 動 で した 。 ア メリ カ の アフ ガ ニ ス タ ン へ の 侵 攻 ( 2001年 )、 イ ラ ク 侵 攻 ( 2003年 ) で の 無 差 別 爆 撃 へ の 怒 り と 危 機 感 が 背 景 に あ り ま し た 。 2005年 8 月 、 ピ ース お お さ か は「 大 阪 空襲 死 没 者を 追 悼し平 和を祈 念する場 」とし て「刻 の庭」 を 設 置 し 、 8980名 (2009年 3月 31日 時 点 ) の 大阪 空 襲 戦 没 者名 が 「 とき 」 の 証言 と し て 刻 ま れ ま し た 。 2009年 に は 「 刻 の 庭」の壁 面に大 阪大空襲 犠牲者 と同じ 数(約 15000個 ) の 色 と り ど り の タ イ ル が 子 ど も た ち の手 に よ っ て 張り 巡 ら され ま し た。 「 刻 の 庭」 は 空 襲 犠 牲者 を 追 悼す る 場 とし て 確 固 たる 位 置 を 占 め、 い ま や博 物 館 的活 動 に と どま ら ず 、 反 戦平 和 教 育の た め の施 設 と し てな く て は な らな い 存 在と な っ たの で す 。 現 在 、 小 中 学 生 の 来 館 は 全 体 の 6~ 7割 に達し ています 。 さ ら に加 害 と 被 害 を総 合 的 に展 示 す るピ ー ス お おさ か の 姿 勢 は、 世 界 各地 、 と りわ け 中 国 や韓 国 な ど 東 アジ ア の 人々 か ら 支持 さ れ 、 アジ ア と の 友 好関 係 を 深め て い く上 ピースおおさか「刻の庭」 で も 重 要 な 役 割 を 果 す も の と な っ て い ま す 。 外 国 人 来 館 者 は 開 館 当 時 と 比 べ て 8倍 となっ ていま す。 (5)2008年 橋 下 ・ 維 新 の 会 登 場 以 降 の こ れ までに ない新 たな危 機 橋下 知 事 ( 当時 ) の 登場 に よ っ て、 ピ ー ス おお さ か の 危機 は 新 たな 段 階 に 入り ま し た 。 2008年 橋 下 知 事 は 、 大 阪 府 財 政 再 建 の ため の 府 施 設の 見 直 しの 典 型 と して ピ ー ス おお さ か を 取り 上 げ まし た 。 そ の結 果 、 「 財政 再 建 プ ログ ラ ム 」に お い て 、府 市 か ら 出し て い る 職員 を 全 廃し 非 常 勤 再任 用 と し 、 2010年 度 か ら は 事 業 費 を 大 幅 カ ッ ト し まし た 。 そ れ以 降 、 ピー ス お お さか の 平 和 記念 集 会 や 様々 な 事 業は 、 ピ ー スお お さ か を支 え る 団 体や 個 人 によ っ て 、 主に 支 え られて きたの です。 2011年 大 阪 維 新 の 会 は 、 ピ ー ス お お さ か プロ ジ ェ ク トチ ー ム を設 置 し 視 察と 称 し て ピー ス お お さか に 何 度も 足 を 運 び、 加 害 展 示を 問 題 視 して き ま した 。 同 時 期、 大 阪 市 議会 ・ 府 議 会に お い ても 、 維 新 の会 議 員 や 自民 党 議 員 が「 ピ ー スお お さ か を西 の 遊 就 館 ( * ) に す る 」「 偏 向 展 示 で の 反 日 教 育 、歴 史 を ね つ造 し た 責任 は 重 い 」等 、 の 批 判を 浴 び せ かけ 、 ピ ース お お さ かの 「 展 示 室 B (1 5 年 戦 争 )」 の 廃 止 を 要 求 し ま し た。 大阪 府 知 事 ・市 長 の ダブ ル 選 で 維新 の 会 が 勝利 し て か らは 、 ピ ース お お さ か独 自 で 進 めら れ て き た展 示 リ ニュ ー ア ル 計画 は 棚 上 げさ れ 、 大 阪府 市 統 合本 部 に 設 置さ れ た 都 市 魅 力 戦 略 会 義 (部 会 長 : 橋 爪 紳 也 ) に よ って 展 示 内 容を 「 ゼ ロベ ー ス 」 から 検 討 す るこ と に な りま し た 。こ れ 以 降 、展 示 リ ニ ュー ア ル 案 は、 橋 下 市長 と 松 井 知事 、 都 市 魅力 戦 略 会 義と 大 阪 府市 人 権 室 主導 で 行 われて います 。
突 如 橋 下 市 長 は 、 2012年 5月 に 「 両 論 併 記 」 の「 近 現 代 史 を学 ぶ 施 設」 構 想 を提 案 し 単 独の 施 設 と す る方 針 を 決め ま し た。 そ の こ とに よ っ て 、 ピー ス お おさ か 「 リニ ュ ー ア ル 構 想 」 は 、「 大 阪 大 空 襲 中 心 」 へ と舵を 切って いった のです 。 (* )靖 国 神 社 境 内 に あ る 「 国 防 思 想 の 普 及 」 を 目 指 し た 軍 事 博 物 館
◆「展示リニューアル」の問題点と提案
大阪空襲被害者によりそい、すべての空襲被害者を追悼する展示に! (1)すべての大阪空襲被害者を追悼する展示 に! 大 阪 大 空 襲 と は 、 1945年 3月 13 日 、 14 日 の 大 空 襲 に 始 ま り 、 6月 1日 、 7日 、 15日 の 4 次 に わ た る 大 阪 市 街 地 を ね ら い 打 ち に し た 無 差 別 焼 夷 弾 攻 撃 と 7 月 1 0 日 の 堺 市 街 地 へ の 焼 夷 弾 攻 撃 、 6月 26日 ・ 7 月 24日 の 住 友 金 属 桜 島 工 場 と 大 阪 砲 兵 工 廠 を 目 標 と す る 爆 撃 、 8 月 1 4 日 の 大 阪 砲 兵 工 廠 と京 橋 へ の 大 空襲 に 至 る計 8 回 の大 空 襲 の こ と で す 。 大 阪 空 襲 そ の も の は 約 5 0回 を 数 え ま す 。 そ の 結 果 、 大 阪 府 内 の 家 屋 約34万戸が 全焼し、罹災者 約122万人、 死 者 約 1万 2600人 、 行 方 不 明 約 2000人 も の 犠 牲 を 出 し ま し た 。 大 阪 市 の 人 口 は 1 940年に 比べ 3分 の1に激減 しまし た。 し か し、 現 在 ま で に分 か っ てい る 戦 没者 名 は 、 9050名 で 全 体 の 約 6 0 % で す 。 ピ ー ス お おさ か の リ ニ ュー ア ル は、 大 阪 空襲 犠 牲 者 の更 な る 調 査 と記 録 化 、戦 争 遺 物の 発 掘 と 保存 作 業 と 一 体の も の とし て 進 める 必 要があ ります 。 1999年 死没者名簿 約6000名 (「大阪戦災傷害者・遺族の会」が調査) 2002年 大 阪府 の委 託 によ り死 没 者の 本 格調 査 2005年 死没者名簿 8816名 2013年 死没者名簿 9050名 さら に 、 在 日朝 鮮 人 は、 大 阪 市 街地 に 木 造 住宅 に 密 集 して 住 ん でい た た め に、 極 め て 大き な 被 害 を受 け ま した 。 大 阪 にお け る 被 害 者 総 数 の 約 8.2% 。 そ れ は 大 阪 在 住 朝 鮮 人の 4 人 に 1人 に あ たり 、 空 襲 の被 害 を 受 け た 全 国 の 朝 鮮 人 の 35% に 及 び ま し た ( 「特 高 月 報 」: 1 9 4 5 年 6 月 の 大 阪 の 朝 鮮 人 戦 災 者 数 は 8 3 9 0 0 人 よ り 計 算 )。これ ま で の 展 示 の 中で は 在 日 朝鮮 人 ・ 中国 人 の 被 害に つ い てほ とん ど 触れ られ てい ませ ん (「刻 の庭 」 に は 、 在 日 の 人 々 の 名 前 が 刻 ま れ て い ま す )。 ピ ー ス お お さ か が 全 て の 被 害 者 の 追 悼 の場 と な る よう 、 在 日の 人 々 の 被害 実 態 と 証 言 の 収 集 を 行 い 、 「在 日 の 人 々 の 被 害 コ ー ナ ー 」を 設 け る 必 要 が あ る の で は な い でしょ うか。 (2)空 襲 被 害 者 の 空 襲 体 験 と 戦 後 の 苦 難 を 十分聞 き取り 展示に 反映を ! 「基 本 設 計 」は 、 集 客能 力 と 採 算を 優 先 し た構 想 に な って お り 、大 阪 空 襲 その も の ピースおおさか「展示室A」を 十 分 伝え る も の と なっ て い ませ ん 。 実物 資 料 や 証言 も 有 効 活 用さ れ て いる と は 思え ま せ ん 。「 大 阪 空 襲 中 心 」 と 言 う の で あ れ ば 、 何 より も 空 襲 被 害者 の 思 いに 寄 り そう 展 示 内 容に す べ き で す。 被 害 者の 戦 後 の苦 難 に つ いて も 十 分 聞 き取 り 、 展示 化 の 努力 を す べ き で す 。「 基 本 設 計 」 の 「 た く ま し く 生 き る 大 阪 」で は 「 痛 手 を 負 っ た 人 々 の 苦 し み 」が 新 設 さ れ てい ま す が、 被 害 者が 戦 後 国 家補 償 か ら 無 視さ れ 続 けて き た こと が ど の 程度 触 れ ら れ るの か 全 く不 明 で す。 リ ニ ュー ア ル に 当 たっ て は 、空 襲 被 害者 の 意 見 を十 分 に 聞 き 、展 示 内 容を 決 め るべ き で す 。 し か し 、 2013年 4 月 1日 か ら 館 長 、 事 務局 長 、 事 業 課長 、 資 料係 、 専 門職 員 の 全 て が 入 れ 替 え ら れ ま し た 。 10月 に は 、 大 阪 空 襲 被 害 者 等 が 参 加 し て い た 「運 営 協 力 懇 談 会 」と 「平 和 研 究 所 」が 一 方 的 に 廃 止 さ れて い ま す 。 これ ま で ピー ス お おさ か の 展 示を 支 え て き た被 害 者 や研 究 者 との 関 係 が 断ち 切 ら れ て しま い ま した 。 今 のま ま の 体 制で は 、 被 害 者の 思 い に寄 り そ う展 示 にする ことは 極めて困 難です 。 (3)日 本 軍 の 重 慶 爆 撃 か ら 米 軍 の 大 阪 大 空 襲 、 そ して 現 在 に つ なが る 「 戦略 爆 撃 」の 歴 史を明 らかに する展示 を! 大 阪 大 空 襲 は 、 ア メ リ カ に よ る 住 民 と 市 街 地 を 直接 標 的 と し た無 差 別 爆撃 = 戦 略爆 撃 で し た 。 同 時 に 私 た ち は 、 1937年 以 降 日 本 軍 が中 国 各 地 で 都市 と 住 民を 爆 撃 対象 と し た 無差 別 爆 撃 を 行っ て き たこ と を 忘れ る こ と が で き ま せ ん 。 1937年 か ら 45年 ま で に 日本 軍 が 中 国 の上 海 ・ 南京 等 に 投下 し た 爆 弾 は 24万 発 ( う ち 焼 夷 弾 は 約 20万 発 ) を 越 え ま し た( 「空 爆 の 歴 史 」( 岩 波 新 書 ) p 5 3 )。 中 で も 日 本 軍 が 最 も 組 織 的 ・ 意 図 的 に 行 った の が 首 都 重慶 へ の 戦略 爆 撃 でし た 。 5年 間 に わ た り 218次 の 空 爆 回 数 を 数 え 、 空 爆 に よ る 直 接 の 死 者 だ け で 約 1万 2 0 0 0 名 に の ぼ っ て い ま す 。 日 本 軍 の 重 慶 爆 撃こ そ 「戦 略 爆撃 」を 掲 げて お こ な った 最 初 の無 差 別 爆 撃で し た 。ア メ リ カ 軍に よ る 日 本へ の 空 襲 は、 都 市 その も の を 直接 の 標 的 にし た 点 で も、 対 人 殺傷 爆 弾 ( 焼夷 弾 ) を多用 し「 空から の虐殺」(「戦 略 爆 撃 の思 想 」 前 田 哲 男 著 )を お こ な っ た 点 で も 、 日 本 軍 の 戦 略爆 撃 と 本 質は 同 じ でし た 。 そ の延 長 線 上 に広 島 ・ 長 崎の 原 爆 投下 が 行 わ れた の で す。 ピー ス お お さか の 創 設か ら 中 心 的に 関 わ っ てこ ら れ た 小山 仁 示 さん は 以 下 のよ う に 述べら れてい ます。 「 私は 本 土 空 襲の 体 験 者、 か つ 研 究者 と し て 、 今 日 ま で B 29部 隊 に よ る 攻 撃 の 非 人 道 性 を 明 ら か に し て き た 。 P 5 1 や F 6 F な どが 非 戦 闘 員の 女 性 、児 童 、 老 人や 走 行 中 の列 車 に 機 銃掃 射 を 浴び せ た の は、 い か な る点 か ら 見 ても 国 際 法に 違 反 す ると 述 べ てきた 。 しか し 、 と いう よ り 、だ か ら こ そ、 私 は 日 本 陸 海 軍 航 空 隊 に よ る 1939年 か ら 41 年 に至 る 重 慶 空襲 は 、 敵地 の 奥 深 く侵 入 し て 、都 市 そ れ 自体 を 住 民ぐ る み 爆 撃対 象 と し た市 街 地 無 差別 爆 撃 の要 件 を 完 全に 備 え て いた と 指 摘 して い る ので あ る 。 以後 、 ヨ ー ロッ パ で の 相互 報 復 爆撃 を 経 て 、ア メ リ カ の 対 日 戦 の 最 終 段 階 に お け る B 29の 都 市 空襲 で 無 差 別爆 撃 の 軍事 思 想 は 極限 に 達 し た。 そ の 思 想が 核 兵 器の 開 発 を 促進 し 、 技 術的 躍 進 に よっ て 、 広島 ・ 長 崎 への 原 子 爆 弾 投 下 に つ な が っ た 。『 中 国 へ の 都 市 爆 撃 から 東 京 空 襲に 至 る 歴史 的 流 れ 』は 、 本 土 空襲 を 説 明 する に 当 たっ て 、 欠 くこ と の で き な い 最 低 必 要 条 件 で あ る 。」 (「 現 代 史 を見る 目」 2001年 3月 ) 戦 略 爆 撃 は 、 第 2次 世 界 大 戦 以 降 も 朝 鮮 戦 争で の 細 菌 ・毒 ガ ス 兵器 、 ベ ト ナム 戦 争
で の 枯 れ葉 剤 、 最 近 では 湾 岸 戦争 と ア フガ ン 戦 争 、イ ラ ク 戦 争 での ナ パ ーム 弾 、 劣化 ウ ラ ン 弾、 そ し て ク ラス タ ー 爆弾 へ と 殺傷 威 力 を 増 大 さ せ な が ら 繰 り 返 さ れ て い ま す 。 「展 示 リ ニ ュ ー ア ル 構 想 」 に は 、 大 阪 空 襲 の 「歴 史 的 意 義 」 の 大 項 目 が あ り ま し た が 、 「基 本 設 計 」 か ら は 消 え て い ま す 。 し か し、 大 阪 大 空襲 の 歴 史的 意 義 は 、日 本 軍 に よる 重 慶 爆 撃か ら 米 軍の 日 本 都 市へ の 無 差 別爆 撃 に い たる 歴 史 の中 で と ら える こ と が 重要 で す 。 さら に は 現在 も 続 く 無差 別 爆 撃 の非 人 道 性 を断 罪 す る歴 史 的 展 示の 中 に 位 置づ け る 必 要が あ る ので は な い でし ょ う か。 大阪大空襲の背景を明らかにするためにも、日本の加害と「軍都大阪」の展示充実を! 大 阪 空襲 の 歴 史 的 意味 と 被 害の 実 態 を理 解 す る ため に は 、 大 阪空 襲 に いた る 日 本の 侵 略 ・ 植民 地 支 配 の 歴史 と そ の中 で の 軍都 大 阪 の 詳し い 展 示 は 不可 欠 で す。 そ う でな け れ ば 、日 本 の 戦 争 責任 を 明 らか に し た上 で 大 阪 空襲 の 死 者 を 悼む と い うこ れ ま での ピ ー ス おお さ か の 設 置理 念 は 失わ れ て しま い ます。 (1)「日本が太平洋戦争に突入することにな ったのか」を明らかにする詳しい展示を! 「 日 清・ 日 露 戦 争 から 太 平 洋戦 争 ま で」 の 展 示 は「 世 界 中 が 戦争 を し てい た 時 代」 の 中 に 位 置 づ け ら れ て い ま す 。 し か も 「 1 5年 戦 争 」 と い う 言 葉 は 削 除 さ れ 、 日 本 の 加 害 の 歴史 を 主 体 的 に展 示 す るも の と はな っ て い ませ ん 。 ピ ー スお お さ か設 立 以 降の 歴 史 研 究 の 深 ま り か ら 、 本 来 な ら 「ア ジ ア ・ 太 平 洋 戦 争 」と し て 日 本 の 加 害 を 包 括 的 に 問題に する必 要があり ます。 展 示 内容 に つ い て は「 日 本 が太 平 洋 戦争 に 突 入 する こ と に な った の か 、そ の 経 緯と 終 結 ま でを 概 観 」 す ると あ る だけ で す 。イ メ ー ジ 図 の 中 に も 「歴 史 教 科 書 で 使 わ れ て い る 写 真や 地 図 な ど を取 り 込 み」 と あ り、 教 科書の 年表の ような印 象を受 けます 。 「 日 本が 太 平 洋 戦 争に 突 入 する こ と にな っ た」 こ と を 明ら か に しよ う と 思 えば 、 日 本 が朝 鮮 半 島 、中 国 、 東南 ア ジ ア 諸国 で 行 っ た侵 略 と 植 民地 支 配 の歴 史 を 丁 寧に 振 り 返 る 必 要 が あ り ま す 。「 概 観 」 で す ま せ る ことな どでき ません 。 (2)軍 事 的 意 味 か ら も 兵 器 生 産 の 面 か ら も 日 本の 侵 略 戦 争を 根 本 で支 え た 軍 都大 阪 の 詳しい 展示を ! ① 大阪 は 広 島 に次 ぐ 西 日本 最 大 の 軍事 拠 点 大阪 城 周 辺 と旧 大 阪 市立 博 物 館 には 、 日 中 戦争 ま で は 陸軍 第 4 師団 が 、 太 平洋 戦 争 以 降は 中 部 軍 司令 部 が 、1 9 4 5 年2 月 以 降 は中 部 軍 管 区司 令 部 と第 1 5 方 面軍 が お か れま し た 。 中部 軍 司 令部 ( 中 部 軍管 区 司 令 部と 第 1 5 方面 軍 ) は、 陸 軍 を 5軍 管 区 に 分け た ひ と つで 近 畿 と中 部 地 方 を統 括 す る もの で し た 。さ ら に これ ら の 軍 事基 地 と 密 接に つ な が り、 武 器 弾薬 を 製 造 する 大 阪 砲 兵工 廠 、 そ こで 製 造 され た 武 器 弾薬 と 軍 隊 を侵 略 の 最 前線 に 送 り出 す 大 阪 港と 神 戸 港 があ り ま し た。 大 阪 港( 築 港 ) は、 海 軍 の 創設 と と も に軍 事 補 給基 地 と し て大 改 修 工 事が 行 わ れ 、海 軍 商 港警 備 府 が 置か れ ま した。 大阪 は 、 文 字通 り 武 器の 製 造 か ら軍 隊 の
編 成 と 指揮 命 令 系 統 、そ れ ら を戦 地 に 送り 出 す 出 撃機 能 を 兼 ね 備え た 兵 たん 基 地 であ っ たので す。 ②西日本の「本土決戦」の拠点となった大阪 陸 軍 によ る 本 土 決 戦態 勢 の 確立 期 に なる と、大阪 の軍事 的役割 は急速 に拡大 します。 広 島 に 拠点 を お い た 第2 総 軍 の作 戦 計 画に よ る と 四国 南 部 と 九 州北 部 ・ 南部 を 「 主決 戦 正 面 」と し 、 近 畿 南部 は こ れに 次 ぐ 「有 力 決 戦 正面 」 と 位 置 づけ ま し た。 こ れ に基 づ き 中 部 軍 管 区 司 令 部 は 、「 近 畿 地 方 総 力 戦 準 備 要綱 」 を 策 定 し、 和 歌 山の 大 部 分と 淡 路 島 を中 心 と す る 「南 岸 防 衛地 帯 」 に優 先 的 に 戦力 結 集 し ま した 。 広 島の 軍 事 機能 が 原 爆 によ っ て 崩 壊 した 後 、 大阪 に 第 2総 軍 が 移 され 、 西 日 本 の本 土 決 戦の 拠 点 とな っ たので す。 中 部 軍管 区 司 令 部 は、 和 歌 山で は 沿 岸部 を 中 心 とし て 陣 地 構 築を 進 め 、内 陸 部 の大 阪 で は 司令 部 を 収 容 する 地 下 施設 の 建 設を 急 ぎ ま し た 。 1945年 1月 ご ろ か ら 大 阪 城 本 丸 内 防空 壕 策 定 計 画が 具 体 化さ れ 、 緊急 徴 用 さ れた 大 阪 市 民 や朝 鮮 人 労働 者 を 城内 に 隔 離 し、 5 月 頃 ま でに 全 長 30 0 メ ート ル の地下 壕を造 り上げま した。 中 部 軍管 区 司 令 部 の地 下 壕 は大 阪 城 内に 建 設 さ れ た だ け で は あ り ま せ ん 。 1944年 9月 か ら は そ の 移 転 先 と し て 高 槻 地 下 倉 庫 群 「 タ チソ 」 が 建 設 され 、 第 4師 団 の 移転 先 と し て生 玉 公 園 の 地下 壕 が 建設 さ れ たと も 言われ ていま す。 ③大阪で編成された軍隊は何をしてきたのか 大 阪 で編 成 さ れ た 軍隊 は 、 侵略 戦 争 の中 で ど の よ う な 役 割 を 果 た し た の で し ょ う か 。 日 露戦 争 時 に は 、第 4 師 団が 第 2 軍に 編 成 さ れ南 山 の 闘 い に参 加 し 、大 激 戦 の末 占 領しま した。第 4師団 は、第 2軍か ら「一 番 乗り の 名 乗 りを あ げ た」 と 絶 賛 され ま し た 。 1931年 以 降 は 中 国 東 北 部 へ の 侵 攻 作 戦 に参 加 し 、 第4 師 団 の青 年 将 校 の手 に よ っ て平 頂 山 の 大虐 殺 が 命令 さ れ て いま す 。 1937年 以 降 は 中 国 内 陸 部 へ 侵 攻 し 「 抗 日 ゲ リ ラ 掃 討 作 戦 」 に 参 加 し 、 1941年 以 降 は 太平 洋 地 域 の占 領 作 戦に 参 加 し まし た 。 と りわ け フ ィ リピ ン 占 領作 戦 で は 、主 力 部 隊 とし て 参 加 しま し た 。大 阪 か ら 派遣 さ れ た 軍隊 の 足 跡 をた ど れ ば、 日 本 が どこ に 侵 略 し、 ど の よ うに 占 領 し、 ア ジ ア の人 々 を 苦しめ たか一 目瞭然 です。 ④アジ ア最大 の兵器 工場= 大阪砲 兵工廠 当時 大 阪 は 、日 本 の 経済 を 支 え る最 大 の 産 業都 市 で あ った だ け でな く 、 日 本最 大 の 兵 器工 場 = 大 阪砲 兵 工 廠が あ り 、 大阪 の 産 業 が砲 兵 工 廠 下に 系 列 化さ れ ( 大 阪砲 兵 工 廠 の兵 器 製 造 はそ の 7 7% を 大 阪 民間 企 業 に 外注 ) 一 大 軍需 工 業 地帯 で あ っ たこ と を 忘れる ことは 出来ま せん。(「大 阪 市史 第 7巻 」) し かし 、 武 器 は製 造 し て終 わ り で はあ り ま せん。大阪 砲兵工 廠が製造 した大 砲や砲 弾、 戦 車が 中 国 や アジ ア 太 平洋 地 域 で の侵 略 戦 争 でど の よ う な役 割 を 果た し て き たの か 、 明 らか に す る こと が 重 要に な っ て いま す 。 大阪 砲 兵 工 廠は 、 日 清・ 日 露 戦 争か ら ア ジ ア太 平 洋 戦 争全 体 に わた り 火 砲 と弾 薬 を 当時の大阪砲兵工廠
製 造 し 、侵 略 の 最 前 線に 送 り 続け ま し た。 1936年 の 陸 軍 「 軍 需 整 備 5 カ 年 計 画 」 に よ っ て 大 阪 砲 兵 工 廠 ( 3製 造 所 ) は 7 製 造 所 に 拡 張さ れ 、 砲 弾 、野 戦 級 の焼 夷 弾 、照 明 弾 の 増産 に 全 力 を あげ ま し た。 こ れ によ っ て 日 本全 体 の 兵 器 生産 の 3 6% を 担 う、 名 実 と もに 日 本 最 大 の軍 需 工 場に の し 上が っ たので す。 ⑤ 大 阪 砲兵 工 廠 な し には 、 日 本は 中 国 侵略 を 遂行で きなか った 日 本 軍は 、 中 国 軍 との 激 し い戦 闘 と 南京 大 虐 殺 の過 程 の 中 で 、膨 大 な 陸上 兵 器 を使 い 中 国 軍か ら 一 般 市 民ま で 次 々と 踏 み にじ っ て い きま し た 。 こ の南 京 大 虐殺 を 軍 需物 資 、 特 に兵 器 の 供 給 面か ら 支 えた の が 大阪 砲 兵 工 廠 で し た 。 1937年 10月 、 陸 軍 造 兵 工 廠 長官 が 作 成 し た「 支 那 事変 業 務 実施 報 告 」 によ る と 、 陸 軍は 兵 器 代と し て 大阪 砲 兵 工 廠に 兵 器 支 払 額全 体 の 41 . 6 %を 支 払っ て い た こと が 記 載さ れ て い ます 。 大 阪 砲兵 工 廠 な くし て 日 本の 中 国 侵 略は 遂 行 できま せんで した。 日本 軍 が 中 国各 地 に 侵攻 し 、 占 領地 を 拡 大 する た び に 大阪 の 軍 需経 済 は 沸 き、 中 で も 南京 占 領 時 には 府 民 によ る 「 提 灯行 列 」 も お こ な わ れ ま し た 。 日 本 軍 の 南 京 占 領 2 日 前の 1 1 日 には 祝 賀 行事 の ト ッ プを 切 っ て 大阪 市 内 全 小学 校 児 童3 7 万 人 が「 日 の 丸 」の 小 旗 を 持ち 市 内 を練 り 歩 き 、1 3 日 以降は 全市を あげて 祝賀大 会と「 提灯行 列」 が 行わ れ ま し た。 1 1 日か ら 1 4 日ま で に 大 阪 市 内 だ け で の べ 約 7 0 万 人 、 人 口 の 4 人に1人 が参加 したこ とにな ります 。 大阪 砲 兵 工 廠で の 兵 器製 造 と 中 国大 陸 で の 殺戮 、 そ の 都度 沸 い た大 阪 経 済 、こ れ ら の 「戦 場 」と 「銃 後 」 を 切 り 離 さ ず 、 結 び つ け て展 示 し 、 その 教 訓 を新 し い 世 代に 継 承 する必 要があ ります 。