﹁
!東綺譚﹂
︱︱
︱﹁わたくし﹂という語り手
滝
藤
満
義
一 ﹁ !東綺譚﹂には一人称の語り手﹁わたく し﹂が 登 場 することはよく知られている 。 荷風が自分の創作やエッ セイで﹁わたくし﹂なる一人称を使うようになるのは、大正期の終りごろか ︵1︶ らで、それには明らかに典拠があっ た。即ちそれはまぎれもなく、 R外晩年の、史伝やエッセイに由来すると思われるのである。荷風にとって R外 は、その生涯にわたって崇敬おくあたわざる存在であり続けた。無論その文業故にであったが、それ以外にも個 人的恩義があった。若きゾライストの時代、 R外はいち早く荷風の野心作﹁地獄の花﹂を認めてくれた。また欧 米から帰国後、荷風の業績を認めて慶応義塾大学部の文学科教授に推薦してくれたのも R外であった。偏屈で敵 の多い荷風が、生涯師と仰ぐに足る存在で R外はあったのである。 荷風は R外の作品は﹁舞姫﹂以下発表の時点でほとんど読んだとい ︵2︶ うが、彼が R外の文業を、総体として把握 するのは、おそらく大正十一年七月九日の R外の死の後、自らもその編集委員の一人となった R外全集︵ R外全 集刊行会版︶を、配本ごとに繙読するようになってからであろう。全集は大正十二年二月から刊行が開始された (87)が、同年五月十七日の日記︵ ﹁断腸亭日乗﹂以下同じ︶に次のような感想が記されている。 夜森先生の渋江抽斎伝を読み覚えず深更に至る 。 先生の文この伝記に至り更に一新機軸 を出せるものゝ如 し。叙事細密、気魄雄勁なるのみに非らず、文致高達蒼古にして一字一句含蓄の味あり。言文一致の文体も こゝに至つて品致自ら具備し、始めて古文と頡頏することを得べし。 ﹁渋江抽斎﹂ ︵大5・1∼5︶は言うまでもなく、 R外史伝初期の傑作である。そしてこの史伝が﹁わたくし﹂ なる一人称の語り手を擁した、独自の形式による伝記作品であることは周知の通りである。 R外が﹁わたくし﹂ なる一人称を使ったのは、大正五年に始まる史伝がはじめではなく、それに先立つ大正三年ころからのエッセイ において、彼はこの一 人 称を使い始めている 。 その中に ﹁ 歴史其儘と歴史離れ ﹂︵大4・1︶ のような 、 自己作 品の縁起を説く有名なエッセイが含まれていることは、記憶に留めておいてよいであろう。 R外史伝を再読しての 、 右のような感激が創作意欲を刺激し 、 荷風が R外に習っ て自ら史伝に筆を染めるの は、この年の八月三十一日、あた かも関東大震災の前日であった 。﹁ 渋江抽斎 ﹂ に次いで ﹁ 伊沢蘭軒 ﹂ を読了し た荷風は、二日後の七月二十七日の日記に﹁毅堂鷲津先生の事蹟を考證せんと欲す﹂と書いた。その彼が早くも 八月二十九日の条に﹁下谷竹町なる鷲津伯父を訪ひ追懐の談を聴く。毅堂枕山二先生事蹟考證の資料畧取揃 ママ ひ得 たり﹂と書き、八月三十一日の条に﹁終日鷲津先生事蹟考證の資料を整理す。晩餐の後始めて考證の稾を起す﹂ と書くのである。如何に荷風の中で史伝への欲求が、急速に高まったかがわかるであろう。震災による頓挫をは さみ、十一月三日に﹁鷲津毅堂大沼枕山二家の伝を起草す。題して下谷のはなしとなす﹂として再開された作品 ﹁下谷のはなし﹂が、雑誌﹃女性﹄に発表されるのは翌大正十三年二月から七月にかけてであった。 千葉大学人文研究 第三十八号 (88)
﹁下谷のはなし﹂はその後大幅に加筆、訂正され、 ﹁下谷叢話﹂と改題の上、大正十五年三月春陽堂から出版さ れた 。 幕末から近代初期にかけて生きた鷲津毅堂 、 大沼枕山という 、 荷風の血筋につな がる二人の漢詩人の伝 を、 R外に習って作者に限りなく近い一人称の語り手を立てて、編年体で対比的に描いたものである。語り手は ﹁下谷のはなし﹂では 未 だ R外に遠慮があったのか ﹁ わたし ﹂ であったのだが 、﹁ 下谷叢話 ﹂ では ﹁ わたくし ﹂ となり、作者の主観表出の武器として機能して行った。幕末維新期の激動の時代を、志士的に、国事にかかわり ながら生きた毅堂よりも、反俗、反近代的な姿勢を貫いて生きた枕山の方に、荷風の同情は厚く、自己の生き方 と枕山のそれを重ね合わせる意識さえ窺われるが、そのような主観の表出を﹁わたくし﹂なる一人称が助長する ことになったのである。この後、昭和期になると、荷風は﹁わたくし﹂なる一人称をエッセイの類にもしばしば 応用し、晩年の R外と等しい行き方を見せるが、しかし史伝の方は﹁下谷叢話﹂に続くものは生れなかった。そ れは何故であったろうか。 史伝の形式、あるいは方法は、作 家 R外の積年の創作方法をめぐる格闘の帰結であっ ︵3︶ た 。﹁ 舞姫 ﹂ 以下三部作 を以て始発した R外の近代作家としての閲歴は、しかしながらこの後二十年近い空白を迎えてしまうことはよく 知られている。ことは同世代の二葉亭四迷が﹁浮雲﹂の後、やはり二十年近い空白を抱えてしまうのとパラレル であろう。その理由は、私見によれば、われわれ日本の作家が、西洋的な近代小説の方法、あるいは制度を身に つけることの困難さにあったと言わねばならない。両者は西洋の近代小説の実体を誰よりもよく知るがゆえに、 そこに至れない己が技量に絶望せざるを得なかったのである。そのことは逆に二人が、明治四十年前後の自然主 義文学隆盛のころの文壇に復帰できた理由をも示唆してくれよう。即ち、これまた私見によれば、彼らより若い (89) ﹁ !東綺譚﹂︱︱ ︱ ﹁わたくし﹂という語り手
世代の作家らによる、西洋小説特に自然主義小説の和風化、日本風の独自な方法開発が、両者を二十年ぶりに作 家として立たせることになったと思われるのである。 R外について言えば、作家的再出発の狼煙となった ﹁半日﹂ ︵明 42・3︶は、当時の自然主義小説が、作者の身辺の現実や、自伝的要素を中心に描いて独自の発展を遂げて いたことに便乗した、身辺暴露小説、あるいは私小説であった。 R外といえば、その初期の評論活動から、ゾラ 流自然主義小説に批判的な態度を貫いていたので錯覚されがちだが、実に彼は日本自然主義の方法を、批判しな がら活用することによって作家的再出発を遂げたのであった。 再出発後の R外は、自身の体験に申し訳程度の仮構を施したエッセイ的小説を量産して行ったが、同じ自然主 義的方法とはいえ、他の自然主義作家らに比べ、 R外の視野が格段に広く、作品世界もはるかに多様であったこ とは言うまでもない。無論彼は本格的長篇小説にも何度か挑んだが、それは悉く失敗せざるを得なかった。成功 したのはもっぱら、前記の類の小説で、これらを通じて R外は、かつて自らも近代化の尖兵として戦闘的に啓蒙 活動を行ってきたわが日本が、現実には一向に西洋近代に届かず、諦念と期待の狭間で﹁永遠なる不平家﹂ ︵﹁ 妄 想﹂ ︶として宙吊りにならざるを得ない心境を語って行った。そして迎えた明治天皇の死、乃木夫妻の殉死事件、 これを契機に R外が歴史小説の作者に変貌したことは繰り返すまでもあるまい。歴史小説では R外の関心はもは や日本の将来︵近代化︶にはなく、むしろ日本の過去へ、日本あるいは自分を西洋的近代へ同化せしめないもの の正体へとシフトして行った。小説の方法もしたがって変化し、 R外が自ら博捜した史資料から話の種を取り出 し、これを適宜にアレンジして小説に仕立てるというものになった。元来作家的想像力に恵まれなかった R外に とって、比較的手に合う方法であったはずであるが、彼はこれにも留まることが出来なかった。歴史小説創作の 千葉大学人文研究 第三十八号 (90)
果てに生み出された史伝の方法が、 R外の長い文学的生涯の、いわば﹁上がり﹂になったのである。 R外史伝の方法の眼目は、なんといっても﹁わたくし﹂なる一人称の語り手を立てたところにある。この﹁わ たくし﹂はほとんど作者その人で、 R外の史伝とはその﹁わたくし﹂が関心を持った歴史上の人物と、その家族 にまつわる様々な事実を、調べられるかぎり調べて編年体で語るものであった。そればかりか﹁わたくし﹂が、 その人物に出会った経緯、その人物や家族について調べた経緯等々までが、すべて語られて行く。語られる対象 は、多くの自然主義小説のように作者自身ではなく、あくまでも他者であり、その他者に関する事実が、語られ る内容の主たる部分であるにもかかわらず、 ﹁わ た く し﹂ は自己の主観を語ることにも決して躊躇はしないので ある。他者の事実を語ることによって、記述内容の客観性を保証し、一人称で語ることによって、作者は自己表 現の欲求を満足させることが出来、合せてこれまで苦労した語りの安定性︵即ち書き易さ︶が、保証されたので ある。 R外は長い作家的閲歴の果てに、西洋近代小説的な仮構世界の構築に不向きな自分の資質に適した、しか も近代小説に求められる客観性と主観性を同時に満足させ得る方法を編み出したのであった。 R外の史伝が、上記のようなものであるとすれば、荷風にとって、史伝の方法は果して彼の文学的閲歴の、必 然の帰結であったのであろうか。荷風はわずか十九歳で広津柳浪の門に入り、硯友社的趣向小説の書き手として 出発した。しかし生来の叙情性や、若々しい自我の主張がその間にも表現を求め、形式的には一人称小説の多さ として現われたが、本格的な自我の直接表現は、アメリカ時代を待たなければならなかっ ︵4︶ た。その間に時代の要 請と若き文学者の野心は荷風をゾライズムの旗手に押し上げ、彼はゾラの実作と理論を器用に咀嚼して、時代の 最先端を行く本格小説の書き手となった。しかしそれは所詮背伸びの産物で、硯友社的な趣向の一つとしてゾラ (91) ﹁ !東綺譚﹂︱︱ ︱ ﹁わたくし﹂という語り手
イズムを管理する限りにおいての成功であった。社会の現実を踏まえ、自我のありようを踏まえた上での本格的 自然主義小説ではなかったのである。挫折はアメリカに渡ってすぐに訪れ、モーパッサンの一人称短篇小説の方 法に救いを求め、痛切な体験が求める自我の直接表現をそれに托したのである。一人称の語り手イコール荷風で はなくとも、作者に限りなく近い語り手が選ばれ、父との軋轢に悩む青年の苦悩が、下降趣味、陋巷趣味を交え て直接的に表現された。 ﹁あめりか物語﹂ ︵明 41・8︶の世界である。 荷風が帰国した明治四十一年は、日本自然主義の最盛期を迎えた年であった。荷風は帰国後も一年余、一人称 小説ばかり書き続ける。日本自然主義の自伝的、告白的、断片的傾向が定着し始めた頃で、荷風のエッセイ的傾 向の一人称小説も何の違和感もなく自然主義文壇に受け容れられていった。欧米の近代を見てきた眼が、当然他 の自然主義者たちのよくせぬ文明批評の視点を可能にし、荷風の一人称小説に幅を持たせたのは、 R外と似通っ ている。しかしその同じ眼が、日本の自然主義に、また己が小説にいつまでも満足させなくするのも、 R外の場 合と同じであろう。 ﹁すみだ川﹂ ︵明 42・ 12︶を皮切りに、 再び本格小説への挑戦が始まるが、 ﹁冷笑﹂ ︵明 42・ 12∼ 明 43・2︶の失敗に露呈されるように、社会的思想的幅を持った虚構世界の構築は、やはり荷風の手に余るもの であった。若き日に目指したゾラ的小説世界の構築は、ここにまた後退を余儀なくされ、早くより荷風の馴染ん だ花柳狭斜の社会が、領略可能な、まさに彼の手に合う﹁世界﹂として浮上してくるのである。 か く し て﹁腕 く ら べ﹂ ︵大5・8∼大6・ 10︶ が 書かれ 、﹁ おかめ笹 ﹂︵大7・1∼ 11、完 成 は 大9・4︶が 書 かれる。荷風の趣味の問題もあり、花柳狭斜の社会は彼のあくなき関心による、綿密な調査と観察の行き届いた 場所で、このような場所に世界を限定することにより、荷風は創作においてようやく西洋小説的な神の視点を手 千葉大学人文研究 第三十八号 (92)
にすることが出来たのである。その結 果﹁お か め 笹﹂ のように 、﹁ 日本における真の意味のゾラ風な自然主義の 作品としてほとんど唯一のも ︵5︶ の﹂という評価も得られることになった。史伝﹁下谷叢話﹂の書かれたのは、荷風 がこのような花柳小説の書き手として評価の定まったころであった。大作ではあるが、これら特に﹁おかめ笹﹂ のような長篇仮構小説は、しかしながら、作者の﹁私﹂の直接表現を退け、抒情性を抑制した乾いた世界であっ ︵6︶ た。根が抒情性に富んだ荷風には、欲求不満も残る創作方法であったことは想像に難くない。したがって他者を 描きながら、同時に﹁わたくし﹂の表現が自在な R外の史伝の方法が、一時彼をひきつけたとしても不思議では ないだろう。幸いに素材は身近にあった。しかし一方において、花柳狭斜社会に対する関心は、 R外と違って荷 風にあっては、生き甲斐にも直結するものと言わねばならなかった。荷風にとって史伝が ﹁上がり﹂ になれなかっ た所以である。 ﹁下谷叢話﹂は荷風に近世後期の漢詩文への趣味を遺して役割を終えた。 二 花柳狭斜の巷、あるいは風俗営業の世界にその後もますます強烈な好奇心を抱き続けた荷風は、昭和に入って からも﹁つゆ の あとさき ﹂︵昭6・ 10︶﹁ ひかげの花 ﹂︵昭9・8︶ の二つの代表作をものしている 。 前者は新し い性風俗の担い手としての、カフェーの女給、後者は同じく人妻の私娼が描かれているが、日記に徴すれば明ら かなように、作者自身の日々の遊びの経験や見聞の膨大な蓄積が折り込まれた、それゆえにリアリティの手ごた え確かな力作である。しかし、これらも﹁おかめ笹﹂のような乾いたリアリズムの作品かというと必ずしもそう (93) ﹁ !東綺譚﹂︱︱ ︱ ﹁わたくし﹂という語り手
ではなく 、 作者の主観乃至は抒情のはけ口として 、 作者に近しいタイプの人物が配置される ようになるのであ る。即ち﹁つゆのあとさき﹂の清岡煕 や 息 子 の嫁の鶴子 、﹁ ひかげの花 ﹂ の塚山などである 。 特に後者では塚山 が作者の代弁をしすぎることさえあるに、主人公の私娼お千代が、女中時代に生んで養女に出した私生児たみ子 ︱︱物語の最後に来ていまや母親と同じ稼業に堕ちていることが判明する︱︱が恩人の塚山に書いた﹁小説のや うな長い手紙﹂が、これまでのリアリズムをぶち壊すように、小説の掉尾を飾ってしまう。その手紙たるや﹁わ たくし﹂の一人称で書かれた堂々たるもので、小学校も満足に出ていない小娘には立派過ぎるものと言わねばな らないし、おまけに手紙の日付が西暦で書かれてしまう始末である。これはまさに最後に来て作者の﹁私﹂の部 分が生で噴出してしまったもの と 感 ぜ ら れ、 ﹁ !東綺譚 ﹂ の語り手 ﹁ わたくし ﹂ の登場を予感させるものと言わ ねばならない。 荷風の玉の井探索が本格化し、 ﹁ !東 綺譚 ﹂ の書かれた昭和十一年は 、 荷風が R外を想起させられることの多 い年でもあった。一月十六日には森於菟が佐藤春夫、小島政二郎を伴って、岩波書店から新たに出す R外全集に つき相談に来ているし、二月十三日には小堀杏奴からその著﹁晩年の父﹂を贈られている。四月二日の日記には 前日の﹃東京日日新聞﹄に森於菟の﹁父の影像﹂なる文章を見出したことが記され、四月二十日には R外未亡人 が一昨日死去の由を新聞で知り、あわてて弔問に赴いている。同日はまた岡野他家夫から R外の筆写にかかる柳 北の﹁京猫一斑﹂を贈られてもいる。六月三日には岩波版 R外全集の第一回配本が贈られ、同十二日には﹁伊沢 蘭軒﹂ の繙読、ただしこれは全集当該巻の広告文執筆のための再読であったと思われる ︵七月四日の日記記事︶ 。 七月六日には﹁燈下森先生の渋江抽斎伝をよむ。盖し三度目なり﹂とあるように﹁渋江抽斎﹂の繙読があった。 千葉大学人文研究 第三十八号 (94)
八月二十四日には佐藤春夫の来訪があり、今回発見された R外の未発表作﹁本家分家﹂の草稿副本を見せられて いる。九月十日には R外全集中の﹁雲中語﹂等小説批評を繙読、十一月四日の日記にはフランス人アルベール・ メーボン著﹁今日の日本﹂中に、著者の R外訪問記事を発見して大意を翻訳引用している。以上のように見てく ると、 ﹁ !東綺譚﹂を生み出す背景 に、常 に R外の影があったと見ることが出来るのではなかろうか 。 特に ﹁ 伊 沢蘭軒﹂ ﹁渋江抽斎﹂等史伝の再読三 読 は、同 年 九 月 二 十日起稿 、 十月二十五日脱稿が日記で確認される ﹁ !東 綺譚﹂の語り手の設定に、大いに与っているように思われるのである。 しかし、既に荷風が史伝の制作を放棄している以上、 ﹁ !東綺譚﹂ の ﹁ わたくし﹂は、 R外史伝の ﹁わたくし﹂ と同じではない。伝記作者ではなく物語作者荷風はこの﹁わたくし﹂を、更に自由な作者自身の﹁私﹂の表出機 関にしようと企てているよ う で あ る。 ﹁ !東 綺 譚﹂の︿一﹀で、 この語り手に大江匡という名前が与えられてい るのはその企ての第一であり、彼の住所を麻布区御 æ笥町一丁目六番地といわせているのはその第二である。従 来の私小説読みのような選ばれた読者なら、その名前が永井家の家系に所縁のものであり、その住所が偏奇館の ある麻布区市兵衛町の隣町であることに気付くかもしれない。それも期待しつつ、しかし私小説読みの許容しな い自由をも作者は得ようとしているのである。交番における警察の取調べの中で、戸籍抄本や印鑑証明書などの 証拠品とともに、警察及び読者に知らされる氏名住所は、まさに作者永井荷風の不在証明として即機能し始める ことを、荷風はどこかで意識しながらこの小説を書き進め始めたと思われるのである。即ち、これから﹁わたく し﹂の語ることは、必ずしも荷風の事実そのものでなくてもいいことになるわけである。 この手の登場人物の氏名や、住所等のずらしは、既に自然主義作家らの自伝的小説で開発済みの技法でもあっ (95) ﹁ !東綺譚﹂︱︱ ︱ ﹁わたくし﹂という語り手
た。例えば島崎藤村の岸本捨吉ものの類がその好例である。しかし藤村らは荷風と違い、自然主義文学者であっ た。日本独自の事実尊重の重みを、日本自然主義の旗手として背負わされた存在であった。無論そのように、仮 名を使い事実をずらすことによって、作者は何がしかの仮構の自由を獲得したことは否めない。しかしこれは事 実の重みに苦しむ作者に 、 仮構に遊ぶ息抜きをわずかに与える程度のものに過ぎなかった 。 そこへ行くと荷風 は、如上のアリバイ工作により、はるかに大きな自由を得ようとしているのである。早い話が、大江が書いてい るという作中作﹁失踪﹂の件も作り話なら、肝心の大江とお雪の恋愛も、荷風の実体験という観点から言えば、 みな作り話でかまわないし、日記に徴する限り、げんにそうだったと思われるのである。もっとも、読者が端か ら﹁わたくし﹂の語る物語をフィクションと決めてかかってしまうことも、作者は困るらしく、大江とお雪の夕 立の中の出会いのような、余りにありふれた趣向を事実だと﹁わたくし﹂に強弁させたり、井上 @々や神代帚葉 のような、荷風の友人を ﹁わたくし﹂ の友人として実名で登場させたり、挙句の果ては荷風の実作 ﹁昼すぎ﹂ ﹁妾 宅﹂ ﹁見果てぬ夢﹂を﹁わたくし﹂の作品と し て 示 し、 ご丁寧にその一節を引用までして見せるのである 。 最後 の一例などは、明らかに矛盾であり、語り手﹁わたくし﹂のいかがわしさにつながるが、この点は後に回そう。 少なくとも R外史伝の﹁わたくし﹂にはない要素というべきであろう。 R外史伝においては、たとえ﹁わたくし﹂を語り手に立てようとも、あくまでも主たる語りの対象は他者の伝 記であった。荷風には最早伝記が主たる語りの対象ではなくなっているとすれば、それに代るものは、これまで 荷風がこだわって来た花柳小説の類にならざるを得ないであろう。作中作﹁失踪﹂がその語るべき中心になるこ とによって、その作者大江の一人称 ﹁わたくし﹂の語りが、史伝のように機能するのである。もっとも、 ﹁失踪﹂ 千葉大学人文研究 第三十八号 (96)
のことを語るに留める節操が﹁わたくし﹂にあれば、 R外史伝の方法の荷風バージョンをわれわれは楽しむに終 わるかもしれないが、大江の﹁わ た く し﹂の いかがわしさは 、﹁ 失踪 ﹂ の物語を語ると見せて 、 自身が主人公の もう一つの花柳小説を 語 り始めてしまうのである 。 しかしともあれ 、﹁ !東 綺 譚﹂で は、先 ず は﹁失 踪﹂の 作 者 として﹁わたくし﹂は現われ、その小 説 の 舞 台の適地を探索するという目的のために 、﹁ わたくし ﹂ が !東の地 を、しばしば訪れることになるのである。 ﹁失踪﹂の作者大江が自己の創作方法につ い て、次 の ように語っているのは 、 しばしば注目されてきたことで ある。 小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描 写とである。わたくしは 人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過るやうな誤に陥つたこともあつた。 ︿二﹀ 以上のような叙述に﹁背景の描写を精細 に す る に は季節と天候とにも注意しなければならない ﹂︿二﹀と い う 大江のコメントをも合せて拾えば、これが大江のみならず荷風その人の、小説の方法であることは、大方の見解 の一致するところであろう。他ならぬ﹁ !東綺譚﹂もこの方法が貫かれているのである。これは極めて荷風らし い方法ながら、しかし良く考えれば、これは若き日に始めて学んだ西洋の最先端の小説理論、ゾライズムの方法 の、荷風的応 ︵7︶ 用ではな か っ た か。そ の ほ か、 ﹁ !東綺譚 ﹂ では大江の実体験で確認した事実が 、 小説 ﹁ 失踪 ﹂ に 応用されるケースが二三あるが、︱︱例えば種田と女給すみ子という年の離れた男女の間に交情が成立するとい う趣向の当否を、大江がお雪との実体験で確認するというような︱︱このような実験、観察も当然ゾライズムの (97) ﹁ !東綺譚﹂︱︱ ︱ ﹁わたくし﹂という語り手
圏内である。荷風が被ったゾラの 影 響 は、そ の生涯に及んだと言っても過言ではな ︵8︶ い。 ﹁ !東綺譚 ﹂ の同時代評 でこれを報告文学の側面から評価するものがあっ ︵9︶ たが、如上の方法がこの作にも使われているとすれば、そのよ うな側面も否定はできないが、だからと言って、これを生粋のルポルタージュ作品とまで言うことは当然出来な い相談である。ゾラの影響を受けながら、一方で荷風という作家は、自分にしか関心の持てない日本の近代作家 の最右翼でもあったのだ。作者自身の主観や情緒を垂れ流したルポルタージュほど、いかがわしいものはないで あろう。 大江がその腹案を前に﹁書き上げることができたなら、この小説はわれながら、さほど拙劣なものでもあるま いと、幾分か自身を持つ て ゐ る﹂ ︿二﹀と 言 っ た﹁失 踪﹂は、 その後どうなったか 。 二箇所ほどその本文が引用 された後に、 久しく机の上に置いてあつた一篇の草稿は若しお雪の心がわたくしの方に向けられなかつたなら、︱︱少く とも然う云ふ気がしなかつたなら、既に裂き棄てられてゐたに違ひない。お雪は今の世から見捨てられた一 老作家の、他分そが最終の作とも思はれる草稿を完成させた不可思議な激励者である。 ︿九﹀ とあるのがヒ ン ト で あ る。 ﹁ 草 稿 を完成させた ﹂ とある 、 その草稿が ﹁ 失 踪﹂か﹁ !東綺譚 ﹂ かは 、 議論の分か れるところだが、素直に受け取ればここは﹁失踪﹂とするべきであろう。お雪が年の差のあるこの老人に愛を注 いでくれたおかげで、 ﹁わたくし﹂は回春の体 験 を し、 かねては作中人物の種田にも同様の体験をさせられて 、 作品を完成することができたと言 いたいのであろう 。 となれば 、﹁ 失踪 ﹂ は傑作と言わないまでも 、 大江にとっ ては満足できた作品と思われ る が、 ﹁ !東綺譚 ﹂ に現われたかぎりで言えば 、 これは 、 内容的にも方法的にも 、 千葉大学人文研究 第三十八号 (98)
何の変哲もない従来の荷風の花柳小説の類と言わねばならないであろう。これでは R外の史伝における伝記部分 に拮抗できるわけがない。大江の ﹁わたくし﹂ が ﹁ 失踪﹂ を語るに終始できず、自身の物語を語りたくなるのも、 無理からぬことであろう。 三 大江自身の物語の中で、大江の﹁わたくし﹂が身をやつして玉の井へ、更にはお雪の許へ通う姿が詳しく描か れている。お雪が﹁わたくし﹂を春画や春本の出版業者と錯覚してくれていることを奇貨として、姿ばかりでな く、言葉遣いまでやつしているというのであるが、これが荷風の実際を反映しているかといえば、既に指摘のあ るように甚だ怪し ︵ 10︶ い。日記を見れば玉の井探索の帰りに、銀座の馴染みの喫茶店や食堂に寄って、馴染み客とも 会っているのに、 ﹁わたくし﹂の如き取ってつけ た よ う な変装は不自然と思われるからである 。 これはあくまで 小説の上でのお芝居であろう。 ﹁ !東 綺 譚 ﹂ ではこの件のほかに 、 もう少し見え難い 、 やや次元の違う第二のや つしを﹁わたくし﹂はさせられている。それは大江がのっけから甚だ退嬰的な、世捨て人的老人として登場させ られていることである。大江の﹁わたくし﹂は映画も活動写真という﹁廃語﹂でしか語れないほど新しいものに 関心がなく、古風な古本屋や古着屋に親しみを感じる、総じて言えば、過去にしか関心のない人物である。しか しこれも、およそ荷風の現実とかけ離れていることは、日記に徴すれば明らかである。荷風はこれまでも、これ からも常に性風俗の最先端に関心を持ち、探索を続けたし、昭和七年前後から始まった東京郊外の散歩も、半ば (99) ﹁ !東綺譚﹂︱︱ ︱ ﹁わたくし﹂という語り手
は新開地の、膨張する東京の最先端の変貌への関心からであった。玉の井もそのような郊外への好奇心から﹁発 見﹂されたも ︵ 11︶ ので、荷風の江戸趣味を、余りに一面的に考えるのは、実態に即さないのである。 もっとも、右の第二のやつしとして述べた部分については、荷風自身の老いの実感が背景にあったからだとい う見解も多い。確かに昭和十一年一月三十日の日記の、荷風の帰朝以来馴染みを重ねた女の一覧をつけた異様な 記事も、何らかの肉体上の区切りを感じてのことであろうし、二月二十四日に﹁芸術の制作慾は肉慾と同じきも のゝ如し。肉慾老年に及びて薄弱となるに 従 ひ 芸 術 の慾もまたさめ行くは当然の事ならむ ﹂ といい 、﹁ 色慾消磨 し尽せば人の最後は遠からざるなり。依てこゝに終焉の時の事をしるし置かむとす﹂と述べ、遺書の草案を記述 しているのもそのような見解を補強しよう。確かに還暦も近付きさすがの荷風も身の衰えを感じたであろうこと は否定し難い。しかし、身の多病、虚 弱 を 嘆 き、己 が最後の近いことを言い立てるのは 、﹁ 断腸亭日乗 ﹂ の初期 からの基調であることも、また事実なのである。荷風という人はこのように常に我が身をなげいて、誰かに訴え たいタイプの人なのである 。 昭和十一年の記事を余りに特別視するのは 、 事実を見誤る 危険もあるのである 。 ﹁ !東綺譚﹂の﹁わたくし﹂も、しきりに我が身の老懶をなげくのとはうらはらに、けっこうマメなところの多 い男ではなかろうか。 客観的にはともかく 、 その主観では過去にしか関心の持てない大江にとって 、 お雪はそ の古風さの故に彼の ﹁ミユーズ﹂になりえた。 いつも島田か丸髷にしか結つてゐないお雪の姿と、溝の汚さと、蚊の鳴声とはわたくしの感覚を著しく刺戟 し、三四十年むかしに消え去つた過去の幻影を再現させてくれるのである。わたくしはこの果敢くも怪し気 千葉大学人文研究 第三十八号 (100)
なる幻影の紹介者に対して出来得ることならあからさまに感謝の言葉を述べたい。 ︿六﹀ お雪は倦みつかれたわたくしの心に 、 偶然過去の世のなつかしい幻影を彷彿たらし めたミユーズである 。 ︿九﹀ お雪にモデルがあることは日記の記事により明らかであるが、彼女がモデルの現実からはるかに離陸した抽象 的な存在に作りかえられていることは、 ﹁幻 影﹂と い う 言葉の繰り返しからも確認できるであろう 。 お雪だけで はない、お雪の住む場である玉の井も同様であろう。荷風の描いた玉の井が、現実の玉の井を写しえていないと いう批判があるのも当然であ ︵ 12︶ る。 お雪といふ女の住む家が、この土地では大正開拓期の盛時を想起させる一隅に在つたのも、わたくしの如き と 時運に取り残された身には、何やら深い因縁があつたやうに思はれる。其家は大正道路から唯ある路地に入 り、汚れた幟の立つてゐる伏見稲荷の前を過ぎ、溝に沿うて、猶奥深く入り込んだ処に在るので、表通りの ラデイオや蓄音機の響も素見客の足音に消されてよくは聞えない。夏の夜、わたくしがラデイオのひゞきを 避けるにはこれほど適した安息処は他にはあるまい。 ︿六﹀ 現実の地名や歴史的記述やらにとり鎧われ、現実のありのままの場を表現しているかに見えて、お雪の住むこ の場所が﹁わたくし﹂の個人的かつ抽象的な時空の様相を呈し始めていることはまぎれもあるまい。玉の井とい う﹁ラビラント﹂の奥の奥、世間の雑音もなにも聞えない、母の胎内のような安らぎの場所、これがお雪の住む 路地裏なのである。 いきおいお雪の存在が、われわれの知る伝統的な神話や伝説の話型の中に納まり始めるのは致し方ないであろ (101) ﹁ !東綺譚﹂︱︱ ︱ ﹁わたくし﹂という語り手
う。夜な夜な麻布の山を下りて、玉の井のお雪の許に通う大江の姿は、天下る神と神の嫁たる遊女︵巫女︶の関 係に比定できるであろうし、また夜毎に大江の川を渡る姿は、桃源郷を訪れる武陵の漁夫を彷彿とさせるであろ う。即ち﹁ !東綺譚﹂は身分差のある男女の結びつきや、異界訪問譚的話型を濃厚にもった物語でもあるのであ る。後者について更に言えば、東洋的な異界には遊里とのイメージの重なりが見られ、またその中心には母性的 な女性が想定されることが多いのが特徴である。玉の井の﹁ラビラント﹂即ち桃源郷の女お雪は、彼女を訪れる 男にひたすら安らぎを与える母性的な女でなければならなかったのである。その女が、異界の外に出ることを望 めば、 ﹁ !東綺譚﹂の異界訪問譚性は、直ち に 破 綻 せ ざるを得ないであろう 。 武陵の漁夫や浦島ら 、 われわれの 馴染みの異界訪問者らがかつて選択したように、大江も女と別れこちら側に、異界の外に帰らざるを得なかった のである。お雪あるいは異界の﹁幻影﹂性を保つためにも。なお蛇足ながら付け加えれば、お雪が異界の外に出 る手段として望んだのが、大江の﹁おかみさん﹂になることであったことにはある種のリアリティがある。近松 の浄瑠璃を始め、遊女等の﹁出世﹂は、由来堅気の男の妻になることが相場であったからであ ︵ 13︶ る。もっとも大江 は、お雪の理解では堅気性のやや劣 る 職 業 で あったが 、 それを大江が ﹁ 懶婦か悍婦にならうとしてゐる ﹂︿ 九 ﹀ と決め付けるのは、すでに多くの批判もあ ︵ 14︶ るように、見当違いも甚だしい。大江の身に即して考えてやれば、お そらくお雪の﹁おかみさんにしてくれ な い﹂ ︿七﹀の 一 言 で、 自分の勝手に描いていた幻影の城が音を立てて崩 れるように思われて、思わず逆上してしまったせいなのであろう。 お雪には﹁わたくし﹂に慰安を与え る、母 性 的 な 側面のほかに 、﹁ ミユーズ ﹂ の側面があったことも忘れるわ けにはいかない。げんに既に見た よ う に、大 江 は﹁ お雪の心がわたくしの方に向けられ ﹂ たことによって 、﹁ 失 千葉大学人文研究 第三十八号 (102)
踪﹂の草稿を完成することができたと言っ て い る の で あ る。 ﹁ お雪の心がわたくしの方に向けられ ﹂ るというの は、端的に言って彼女の﹁わたくし﹂に対する、性愛を含むところの愛情のことであろう。しかしながら﹁ #東 綺譚﹂ではこの部分に関する叙述はきわめて曖昧である。お雪は﹁わたくし﹂を待たせて、他の客と二階に上る 姿は見せても、 ﹁わたくし﹂とはそんな行為はせ ず、お 互 い会って話をするだけの関係のように錯覚されそうで ある。しかし玉の井のような場所での、遊客と遊女の関係において性的な関係がないことは、余りにも非現実過 ぎる。それに既に見たように、当時の荷風自身には ﹁芸術の制作慾は肉慾と同じきもの﹂ という実感的認識があっ た。お雪が﹁ミユーズ﹂とし て、 ﹁わ た く し﹂の﹁芸 術の制作慾 ﹂ を喚起したとすれば 、 そこには当然彼女との 性愛による回春の経験が伴っていたに違いないと思われるのである。にもかかわらずそれが書かれなかったのは 何故であろうか。新聞小説のためというのは 当 ら な い。 新聞発表前に私家版 ﹁ 説小 #東綺譚 ﹂ が印刷されて 、 新聞 初出とその点で違いはないことを示しているからである。これはおそらく、 R外由来の﹁わたくし﹂という上品 な一人称が 、 これまでの荷風の花柳小説のような猥雑な描写を 、 作者に極力控えさせるべく 働いたためではな かったろうか。 四 ﹁わたくし﹂とお雪の出会いについて は、先 に も 少 しふれるところがあったが 、 大江は為永春水が ﹁ 叙事のと ころ ! "に自家弁護の文を挟んでゐること﹂を例に、更に次のように述べている。 (103) ﹁ #東綺譚﹂︱︱ ︱ ﹁わたくし﹂という語り手
わたくしは春水に倣つて、こゝに剰語を加へる。読者は初めて路傍で逢つた此女が、わたくしを遇する態度 の馴々し過るのを怪しむかも知れない。然しこれは実地の遭遇を潤色せずに、そのまゝ記述したのに過ぎな い。何の作意も無いのである。驟雨雷鳴から事件の起つたのを見て、これ亦作者常套の筆法だと笑ふ人もあ るだらうが、わたくしは之を慮るがために、わざ ! "事を他に設けることを欲しない。夕立が手引をした此 夜の出来事が、全く伝統的に、お誂通りであつたのを、わたくしは却て面白く思ひ、実はそれが書いて見た いために、この一篇に筆を執り初めたわけである。 ︿三﹀ 伝統的物語によくある趣向を、自分が経験したことだから事実だと強弁するところであるが、最後に来て奇妙 な論理にわれわれはつき合わされることになる。伝統的趣向によく似たことが自分の身に起ったから、それが面 白くて﹁この一篇﹂を書き始めたというのだ。ところで﹁この一篇﹂とは何か。大江は﹁失踪﹂という作品を書 いている作家ではなかったのか。しかし﹁この一篇﹂が﹁失踪﹂であるはずはなく、むしろ﹁ #東綺譚﹂そのも のでなければ筋は通らないであろう 。 いつの間に大江は作中で二つの作品を書いていることにな ったのであろ う。春水に倣ったというが、春水は自分自身が登場人物の作品に顔出しして﹁剰語﹂を加えているわけではない のであ ︵ 15︶ る。しかるに大江の﹁わたくし﹂は、自身が主人公の作品に顔出ししてしまっている。先に﹁わたくし﹂ のいかがわしさを言った が、 ﹁わ た く し﹂の﹁ #東綺譚 ﹂ 執筆にふれるのは 、 ここと作品末尾の一節であるが 、 一番いかがわしさの際立つ部分と言わねばならないであろう。 ﹁ #東綺譚﹂は私小説の方法を積極的に利用し た も の、 あるいはこれを逆手に取ったものということはよく言 われることである。右の﹁この一篇﹂の問題も、この私小説形式に由来するものであることはまぎれもない。た 千葉大学人文研究 第三十八号 (104)
だこれを荷風が意識的に私小説形式を相対化、あるいはパロディ化するためにしたのかというと、それは言いす ぎではなかろうか。私小説という形式は、作家である﹁私﹂が自分自身のことを書くものである以上、出来上が る作品は、すべて小説の小説になる可能性乃至宿命を持っている。蛇が自分で自分の尾を飲むような、ウロボロ スのような奇怪な構造になる危険性を常時はらんでいるのである。荷風も﹁この一篇﹂においては、あるいはそ れ以外の﹁わたくし﹂のいかがわしさという言い方でふれた点も含めて、この私小説のいかがわしい生理に、足 元をすくわれたのではなかろうか。ただ、荷風が﹁ !東綺譚﹂執筆に際して、小説の方法にかなり意識的であっ たのは確かで、それは R外史伝の方法を意識した点ばかりには限らなかったのである。早くから指摘のあったよ うに、ジッドの﹁パリュード﹂や﹁贋金つかい﹂が背景にあったことは、まぎれもない事実であろう。 ﹁ !東綺譚﹂発表直後に、当時の荷風取り巻き の 一 人 平井程一が気づき 、 荷風に確認を取ったことから判明し たよう ︵ 16︶ に、この作品の背景に﹁パリュード﹂があったことは確実である。日記には大正十年七月四日に﹁アンド レヱヂイドの小説パリユー ド を 読 む。感 嘆 措く能はず ﹂ とあり 、 読書歴も確認でき ︵ 17︶ る 。﹁ パリュード ﹂ はジッド 初期の作品で、作中で﹁パリュード﹂という小説を書いている作家の一人称の語りで終始するものであり、形式 的には﹁ !東綺譚﹂と軌を一にするものと言わねばならない。主人公の作家と友人達とのやり取りの中で、ロマ ネスクな要素の皆無な観念的な作中作﹁パリュード﹂が、様々に相対化されていくという体のもので、ジッドの 分類では﹁ソチ︵茶番劇︶ ﹂に属するも の の よ う で あ る。 荷風の作中作 ﹁ 失踪 ﹂ はそこへ行くと単純極まりない 花柳小説で文壇的にも荷風の作家歴的にも、何の新味もないもので、しかも﹁ !東綺譚﹂中の人物ら︵大江以外 の︶によって、少しも相対化されるということはない。平井宛の返信で荷風は﹁パリユードの体裁一度拙作中に (105) ﹁ !東綺譚﹂︱︱ ︱ ﹁わたくし﹂という語り手
取入度と多年の願望にて有之候﹂と言っているようだが、荷風自身同書信で失敗を認めているように、ジッドの 方法がうまく機能したとは言い難いであろ ︵ 18︶ う。 ﹁パリュード﹂とともに、日記にその 読 書 歴 が は っきりと刻まれている ﹁ 贋金つかい ﹂ はどうであろうか 。 日 記によれは昭和六年十一月二十四日から十二月中旬にかけて三箇所読書の記述があるが 、 感想は 書かれていな い。ジッド作品としては、これは ﹁パリュード﹂ よりはるかに大がかりな成熟期の作品で、唯一 ﹁ロマン ︵小説︶ ﹂ の呼称を許されたもののようである。登場人物の数も、その入り組んだ関係も、作品の規模も﹁パリュード﹂の 比ではない。その多くの登場人物の一人に エ ド ゥ ア ールという小説家がいて 、﹁ 贋金つかい ﹂ という小説を書い ていることになっているのである。作品の主たる語り手は、十九世紀的な従来の全知視点の語り手に一見見え、 その中に﹁エドゥアールの日記﹂がしばしば挿入されるのである。しかし、全知視点の語り手は従来のヨーロッ パ近代小説のように、安定したものではなく、その全知の主体に超越するもう一人の﹁神﹂が、一人称でしばし ば顔を出し、かの全知視点の語りをすぐに批判し相対化してしまう。作品全体としては十九世紀的小説の方法に 対する批判、あるいはその相対化になっているわけであり、エドゥアールの目指す小説も所謂﹁純粋小説﹂で、 小説の新たな可能性を追った実験的なものなのであった。 とすれば、翻って ﹁ !東綺譚﹂ は、この作品とどのような関係を切り結んでいるのであろうか。作中作 ﹁失踪﹂ の平凡さ、単純さは既に言った。ジッドの二つの作品の作中作の斬新性、実験性とはほぼ無 ︵ 19︶ 縁で、これについて は、作中作という﹁趣向﹂だけの関係 と 言 え るのではなかろうか 。 語り手の問題はどうか 。﹁ 失踪 ﹂ の語り手は 従来の三人称小説のそ れ で、特 に 新 し さ はないと言えよう 。 ただ ﹁ !東綺譚 ﹂ には 、 先にもふれたような 、﹁ わ 千葉大学人文研究 第三十八号 (106)
たくし﹂が自作の創作︱︱﹁失踪﹂ではなく語り手﹁わたくし﹂が主人公の﹁ !東綺譚﹂そのもの︱︱を話題に し、それを相対化する動きを見せる部分があった。これはあるいは ﹁贋金つかい﹂ の、先に述べたもう一人の ﹁神﹂ 的な、全体を相対化してしまう一人称の語りを模倣したものといえるかもしれない。しかしこれは、先に述べた ように、わが国の近代小説の独自な生産物である私小説の生理として、充分に説明できる部分でもあると思われ るのである。 ﹁ !東綺譚﹂の方法の斬新さ、それ に 関 す る作者の意識性を強調する議論は多いが 、 ジッドと比べ れば明らかなように、ひいきの引き倒しということにもなりかねな ︵ 20︶ い。近世戯作以来近代に至るまでの、日本の 小説家の語りの方法に関するアバウトさが、荷風を動かしている部分を計量する必要はないのであろうか。先に 引いた平井宛の荷風の返信に、ジッドを真似たが﹁拙作にてはどうやら隠居の戯作らしく相成候然しこれが作者 の持前故如何とも致難しと存居候﹂とあるのを、謙辞とばかり受け止める必要はないように思われる。 ﹁作後贅言﹂ は ﹁ !東綺譚﹂ 脱稿後あまり日をおかず ﹁ !東余譚﹂ として書き始められ、昭和十一年十二月 ﹁万 茶亭の夕﹂として﹃中央公論﹄に掲載された、いわば﹁ !東綺譚﹂縁起とも言うべきものである。本体の﹁ !東 綺譚﹂の発表が後れ︵ ﹃東京朝日新聞﹄連載は昭和十二年四月十六日付から六月十五日付まで︶ 、かなり先立った 発表になったが、これまた新聞初出 に 先 立 っ て発行された私家版 ︵ 烏有堂板 ︶﹁ 説小 !東綺譚 ﹂︵ 昭 12・4︶に 初 め て﹁ 作後贅言﹂ として付され、以降小説と一体化して読まれることになった。自分の小説にその縁起を書くのは、 歴史小説時代の R外がよくしたことで、作品だけでは物足りない何かがあって、一人称の縁起を R外は書いたの であろう。彼の場合作品の三人称の物語と一人称の縁起が一体となって、一つの作品が書けた思いがあったので はなかろうか 。 そうだとすれば 、 史伝の方法はこの両者を一体化したところに成立した とも言えるのである 。 (107) ﹁ !東綺譚﹂︱︱ ︱ ﹁わたくし﹂という語り手
﹁山椒大夫﹂ の縁起 ﹁歴史其儘と歴史離れ﹂ については既にふれた。エッセイ ﹁大塩平八郎﹂ ︵﹃ 三田文学﹄ 大3・ 1︶ は、同時に ﹃中央公論﹄ に発表された小説 ﹁大塩平八郎﹂ の縁起的文章であったが、創作集 ﹁天保物語﹂ ︵大 3・5︶ 所収の折に ﹁附録﹂ として小説本体に付載された。また ﹁高瀬舟と寒山拾得﹂ ︵﹃ 心の花﹄ 大5・1︶ は、 両作品が創作集﹁高瀬舟﹂ ︵大7・2︶に収録されるに当り、それぞれの作品に分離して各々﹁高瀬舟縁起﹂ ﹁寒 山拾得縁起﹂として付 載 さ れ た。荷 風 が﹁ !東綺譚 ﹂ の単行本化に当り 、﹁ 作後贅言 ﹂ を小説に付したのは 、 お そらくこの R外の顰に倣ったものと思われる。 ﹁作後贅言﹂はかなり長いものであ る が、そ の 縁 起 に 相当する部分は冒頭の部分だけで 、 後は長々と ﹁ !東綺 譚﹂本文にも実名で出た神代帚葉︱︱前年︵昭和十年︶の三月に死去した︱︱の思い出と、彼とともにそこで毎 夜の如く会ってひと時を過ごした銀座の変遷を語っている 。 全体として帚葉の追悼あるいは挽歌 のような部分 で、必ずしも !東玉の井の話とは関わらないが、帚葉並びに夜の銀座の喪失が、玉の井へ﹁わたくし﹂を向かわ せたと、暗に匂わせたいのであろう。因みにこのエッセイも﹁わたくし﹂の一人称で書かれているのであるが、 もともとエッセイであり、大江匡のような仮名を名乗らない以上、こちらの﹁わたくし﹂の方が、かなり荷風に 近いはずである。もっともこのエッセイにおける日暦的な記述にも、日記と比べるとかなり年月にフィクション というか、組換えがあることが指摘されてい ︵ 21︶ る。しかしそれは﹁ !東綺譚﹂における如きフィクションとは次元 の違う、話の組立て上のアレンジというべきものであろう。 ともあれ、小説作品の後に、作者によるその縁起的なエッセイが付されることは、作品を枠物語化することで もあっ ︵ 22︶ て、より作品全体の奥行きを深くするとも思われがちだが、 R外作品の場合もそうであるように、それが 千葉大学人文研究 第三十八号 (108)
作品の読みを、本来あるべき作品から遠ざけてしまう可能性も否定し切れな ︵ 23︶ い。まして荷風の場合、どちらの語 り手も﹁わたくし﹂であることが、さらに こ と を 複 雑にする 。 本論で使ってきた言葉で言い換えれば 、﹁ わたく し﹂のいかがわしさが、一段と昂じざるを得ないのである。 R外や荷風に限らず、一般的に本来の作品に作者が より素顔に近い形で枠を加えることが、果して読者に親切な行為なのであろうか。あるいは、これが読者に対す る挑発であるという評価もあるかもしれない 。 しかし作者が 、 自分の作品の一番優れた読者 であるという保証 は、どこにもない以上、親切であろうが、挑発であろうが、読者にとっては迷惑なことの方が多いのではなかろ うか。 * 以上、形式と内容の両面にわたる﹁ !東綺譚﹂の諸側面、その由来や問題点をあげつらってきたが、この作品 が、にもかかわらず力作であることはまぎれもない。新聞初出当時から大変な評判であったことは証言にこと欠 かないが、日中戦争へ向かう暗い時代背景もさりながら、作品自身の持つ力の与るところが大きかったと言わね ばならない。純文学にして大衆性を持ちえた、作品の懐の深さを、いくつかの欠点ゆえに無視するのは公平を欠 くであろう。荷風はこれ以 降 も、戦 後 に 至 るまで多くの小説 ︵ ほとんど短篇 ︶ を書いているが 、﹁ !東 綺 譚﹂を 超えるものは、ついに書けなかっ ︵ 24︶ た。と す れ ば、 ﹁ !東綺譚 ﹂ は荷風の作家的生涯の掉尾を飾るものという言い 方も、あるいは許されるかもしれない。そうであれば、 R外にとって長い作家的生涯の﹁上がり﹂の形式であっ た史伝の形式︱︱そ の 要 で あ る﹁わ た く し﹂ の 一 人 称︱︱は、 ﹁ !東綺譚 ﹂ の小説の小説 、 あるいは小説家の小 説という形式に転用されて、花柳小説家荷風に ﹁上がり﹂ を提供したものということもできるのではなかろうか。 (109) ﹁ !東綺譚﹂︱︱ ︱ ﹁わたくし﹂という語り手
注 ︵1︶ それまでの荷風は、内容に応じ、文体に応 じ て﹁自 分﹂ ﹁小 生﹂ ﹁僕﹂ ﹁私﹂ ﹁わ た し﹂ ﹁我﹂ ﹁わ れ﹂ ﹁余﹂ ﹁吾 人﹂ ﹁おのれ﹂等々を使い分けていた。 ︵2︶﹁麻布 記﹂ ︵大 13・9︶所収の﹁隠居のこゞと﹂に﹁先生の著作は小説舞姫の国民の友に出で たりし頃より晩年 の諸作に至るまで、余は大抵発表の当時一読しゐたりし﹂とある。 ︵3︶ 以下詳しくは拙著﹁小説の近代︱﹁私﹂の行方﹂ ︵平 16・ 10、おうふう刊︶参照。 ︵4︶ 注︵3︶に同じ。 ︵5︶ 吉田精一﹁永井荷風﹂ ︵吉田精一著作集5 昭 54・ 12、桜楓社刊︶ 。 ︵6︶ 拙稿 ﹁﹁ おかめ笹﹂ ︱ゾライズムの行方﹂ ︵﹁ 日本近代文学と性﹂ 千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェ クト報告書 152、平 19・3︶参照。 ︵7︶ 荷風の探訪趣味と合体したゾライズムの方法というほどの意味である。 ︵8︶ 戦災で蔵書をすべて失った荷風は、昭和二十二年十一月二日の日記によれば、寄宿先の主人仏 文学者小西茂也の 周旋で 、 ゾラの著書二十冊を金二千円で購入している 。 以て荷風におけるゾラへの関 心 が 、 いかに持続的なもので あったか推測されよう。 ︵9︶ 佐藤春夫 ﹁ 荷風先生の文学 ︱ その代表的名作 ﹁ !東 綺 譚 ﹂ を 読 む ﹂︵ ﹃ 東京朝日新聞 ﹄ 昭 12・7・ 14∼ 16︶ 、 平 井 程一 ﹁ 永井荷風 論︱続﹁ !東綺譚 ﹂﹂ ︵﹃ 文学 ﹄ 昭 12・ 11︶ 等 。 ここで佐藤は ﹁ !東 綺 譚﹂は﹁凡 そ 抒情小説とは全く 反対に、寧ろ客観的な報告文学の類﹂と言い、平井は﹁新聞小説の分野に報告文学の一新体を 拓いたもの ﹂ と評価し ている。なお嶋田直哉 ﹁﹁ 報告文学﹂ の季節︱永井荷風 ﹁ !東綺譚﹂ の受容から﹂ ︵﹃ 立教大学日本文学﹄ 89号、平 16・ 12︶は、当時の論壇における報告文学論議の中にこれらの評価を置いて相対化している。 ︵ 10︶ 重友毅編著 ﹁ !東綺譚の世界 ﹂︵ 昭 51・ 9 、 笠間書房刊 ︶ 所収の高橋俊夫 ﹁ !東綺譚私注 ﹂ 参照 。 高橋氏は 当 時 千葉大学人文研究 第三十八号 (110)
の玉の井における荷風目撃の証言として、川崎長太郎 ﹁永井荷風﹂ ︵﹃ 群像﹄ 昭 34・ 11︶ から、 ﹁黒のソフトをかぶり、 背広にレイン・コートひつかけて、赤い編み上げの靴を穿く、長身の大男﹂の姿を引き出している。 ︵ 11︶ 日記によれば昭和七年一月二十二日、千住方面への散策の帰り、荷風は﹁寺嶋町の 陋 巷﹂ 即ち玉の井を ﹁ 発見 ﹂ している。 ︵ 12︶ 武田麟太郎﹁世間ばなし﹂ ︵昭 13・9、相模書房刊︶ 。この本の挿絵を描いた木村荘 八 は﹁ !東綺譚 ﹂ 新聞初出時 の挿絵画家として有名だが、武田の指摘したように木村がその時モデルにしたのが玉の井でなく亀 戸の娼家であった ことは、彼自身﹁ !東挿絵余談﹂ ︵﹃ 改造﹄昭 12・7︶で語るところである。 ︵ 13︶ 佐伯順子 ﹁遊女の文化史 ハレの女たち﹂ ︵昭 62・ 10、中央公論社刊︶ 、下山弘 ﹁遊女の江戸﹂ ︵平5・3、同上︶ 等参照。 ︵ 14︶ 平野謙 ﹁ 永井荷風 ﹃ !東綺譚 ﹄﹂ ︵﹁ 岩波講座 文学の創造と鑑賞 ﹂ 第一巻 、 昭 29・ 11︶ で批判さ れてより 、 一般 化した。 ︵ 15︶ 真銅正宏﹁リアリティーと矛盾︱﹃ !東綺譚﹄の一側面︱﹂ ︵﹃ 国文学研究ノート﹄ 25号、平3・3︶参照。 ︵ 16︶ 注︵9︶の平井の論。 ︵ 17︶ もう一箇所、昭和六年二月七日の日記に﹁堀口大学訳著パリユード美装本を寄贈せら る﹂ とあるが 、 この時これ を読んだかどうかは、記録がなくてわからない。 ︵ 18︶ 磯田光一 ﹁永井荷風﹂ ︵昭 54・ 10、講談社刊︶ は、作中作の趣向ばかりでなく、 ﹁パリュード﹂ 末尾の ﹁おくがき﹂ が、 ﹁ !東綺譚﹂末尾の詩に影響を与えているという。 ︵ 19︶ もっとも、ジッドの二つの作品も、作中作そのものは断片的にしか書かれていないので、荷風 ばかりを貶めるの は公平さを欠くかもしれない。 ︵ 20︶ 柘植光彦﹁ !東綺譚[永井荷風] ﹂︵三好行雄編﹁日本の近代小説 À﹂昭 61・7、東京 大学出版会 刊︶は、荷 風 が 十九世紀フランス小説の影響から、次第に日本の十八、九世紀の方法に関心を向けるよう になるのは 、 ジッドの ﹁ 近 (111) ﹁ !東綺譚﹂︱︱ ︱ ﹁わたくし﹂という語り手
代小説のパロディ化﹂ と軌を一にし、荷風は日本の近代小説である私小説を ﹁パロディ化﹂ したのだと言う。しかし、 ジッドの﹁近代小説のパロディ化﹂は、過去の小説の方法を借りてなされたのではないし、荷風の 戯作の方法への接 近は、私見によればフランス近代小説の方法を領略することが困難な荷風︵あるいは日本の近代 作 家︶ の先祖帰りに 過ぎないと思われるし、私小説そのものが既に西洋近代小説と日本の伝統文学との混血児だと思われるのである。 ︵ 21︶ 梅谷文夫編﹁ !東綺譚作後贅言証注﹂ ︵﹃ 帝京国文学﹄8号、平 13・9︶他参照。 ︵ 22︶ 瀬戸内晴美 ・ 前田愛対談 ﹁[ !東綺譚 ] と永井荷風 ﹂︵ ﹃ 月刊カドカ ワ ﹄ 昭 58・ 11︶で、前 田 氏 は﹁失 踪﹂が 作 中 の入れ子とすれば﹁作後贅言﹂は﹁作品全体を包むもう一つの大きな入れ子﹂だと言っている。 ︵ 23︶ 拙稿﹁ ﹁高瀬舟﹂︱語り手のスタンス﹂ ︵﹃ 千葉大学人文研究﹄ 35号、平 18・3︶参照。 ︵ 24︶ そのうち﹁わたくし﹂の一人称小説はそれほど多くは な く、 ﹁ 女中のはなし ﹂︵ 昭 13・4︶ ﹁勲 章﹂ ︵昭 17・ 12稿、 昭 21・1発表︶ ﹁来訪 者﹂ ︵昭 19・4稿、昭 21・ 9 発表 ︶﹁ 噂ばなし ﹂︵ 昭 22・5︶ ﹁畦 道﹂ ︵ 22・5︶ ﹁秋 の 女﹂ ︵昭 22・ 11稿、昭 24・7発表︶の六作品が数えられるが、内容的にも方法的にも﹁ !東綺譚﹂にせまる ほどのものはない 。 因 みに ﹁ !東綺譚﹂ 以前では ﹁カツフエー一夕話﹂ ︵昭3・2︶ ﹁夢﹂ ︵ 昭5・ 12稿、昭 27・4発表︶ の二作があったが、 これも同様であろう。 千葉大学人文研究 第三十八号 (112)