r
社会経済史学 』79−
3 (2013 年 11月 )圍
蘭領
東
イ
ンド
に
お
け
る
オ ラ
ンダ
系銀
行
の
対華 商取 引
一
ジ
ャ ワ糖
取
引
と
1917
年
砂
糖危機
を
中
心
に一
工
藤 裕
子
本 稿の 目的は
,
蘭領東イ ン ドにお け る 主要 輸 出 品であっ たジ ャ ワ糖の取引につ い て,
資 金 調 達の視 点から華商と オラ ンダ系銀行の関係を検証 するこ とである。 特に第一
次 世 界 大 戦 期の 1917 年に発生し た砂糖危機が,
ジ ャ ワ糖 輸 出の最 盛 期となっ た 1920 年 代の砂糖 販 売 体 制に与え た影 響につ いて,
次の点を 明 ら か に し た。まず危機前のオラ ンダ系銀行と華商の関係は
,
輸 出 品 と なる砂 糖 を 担 保に買 付 資金を 提 供し,
販 売先を確保する とい う相 互 依 存の関 係にあっ た。
し か し大 戦 期に入 り,
銀行か ら 大 量 流入 し た資 金に よ り華 商の投 機 が 過 熱し,
1917 年の糖 価 下 落と ともに砂糖 危機が発 生 すると,
これ を きっ かけに オ ラン ダ系 銀 行は砂糖の販 売を一
元化するカ ル テル組織を結 成 し,
日系や欧 系 企 業 向 けの販 売を優 先する一
方で,
華商に対しては資金 供 給 を 制 限して い っ た。
こ の販 売 統制の制度に よ り,
自己資金 力を持ち海 外 販 売 実 績がある有 力華 商と中 小 華 商へ と華 商 界が二極 化して い くな かで,
オ ラ ンダ系 銀行は,
取 引 先の 選 定と華 人 銀 行 を仲介とする間 接 的な取 引へ と,
華 商に対する関係 を変化 させ てい っ た。
は じ め に蘭 領 東イン ドで は
20
世 紀に 入 り, ジャ ワ糖の 生 産が増 大し,
主要 輸 出 品とし て植 民地経済
を牽
引 する産 業へ と発 展し てい っ た。
本 稿の 主題は,
砂糖の 売買
と輸 出の 過 程で, ジャ ワ在 住の華 D 商 が 担っ て い た役 割を明 らか に し,
オ ラ ンダ系
の製
糖 会 社や金 融 機 関との 関 係か らみ えて くる植
民 地 期の華商
の事
業参
入の 実体
と,
資 金 調 達に伴 う経済
的な環境
を検証す
ること である。 特に1917 年
の砂 糖 危 機を契 機に,
生 産 者 と 金融機
関,華商
の間で生じ た取 引 関 係の変 化 を 考 察し た し・
。20 世紀初 頭の ジャ ワ糖 産 業に
関
する研 究は,
主に生 産 や 資 本,
海 外 市 場,
現地住 民の労働
や 土 地問題
の観点
か ら数
多 くの 研 究が進め ら れて きた。製
糖 業 界 全体
の構
造とし て,
生 産 部 門は オ ラン ダ資 本 が 圧 倒 し て い るもの の,
流 通や輸
出につ い てはオ ランダ系 以 外 も含めた ヨー
ロ ッ パ系
2) 企 業 やア ジア系
企業
が 混 在して い る状 況が指 摘されて い る。
こ れ は20
世紀
以降,
ジャ ワ糖の市 3) 場が甜 菜糖
を消費
す る本 国オ ラ ン ダ とは切 り離
さ れ,
ア ジ アへ の 輸 出が強 まっ たこ とに関連
する。近 年は
,
砂 糖 をめ ぐる東・東南
アジア域内
の貿
易構
造に 関 する研 究のなか で,
流 通 部 門にお け1
)こ こ で い う華 商とは
,
商業を営む華人の こ と をい う。
株 式 会 社とし て商社 (handelsmaatshappij )と し て登記し て い る者の他に
,
商号 や 個 人名で事 業を行っ て い る華 人商人 も含む。
2
) 加 納 啓 良r
現 代イン ドネシ ア経済 史論』東京大学出 版 会,
2004 年, 113−
130頁。
3
)ジャ ワ糖 と世界 市場との関係につ い て は
,
加 納r
現 代イ ン ドネシ ァ経済史 論 』;日本貿易 研 究 所
r
糖 業より見た る広域 経済の研究』栗田書 店,1944
年 ;Tio Poo Tj ang,
De
Suifeerh
αndel vα n Jα一
vα,J
.
H.
Arnsterdam,
de
Bussy,1923
, を 参 照。
The Socio-Economic History Society
NII-Electronic Library Service The Sooio
−
Eoonomio History Sooiety[論 説] 蘭領東イ ン ドにおけるオ ラン ダ系 銀 行の対 華 商 取 引 (工 藤 裕 子 ) 地 図 1 ジャ ワ島 主要 都市 o SD LOQ 2DQ
忍
る華 商の役割
に も注 目 が集
まっ て い る。 平 井健
介は中 国 市 場 をめ ぐる ジャ ワ糖 と日本の精製
糖の 4) 関 係の変 化 を 検 証し た広 域 的な論 考の 中で,
東 南ア ジァ華商
の中 国向
け輸
出の参
入 を指 摘した。
ま た,R ,
ナ イ ト は ジャ ワ の 大 手 華 商が, 東ア ジ アの 市場 を視
野に入 れ,
台 湾 銀 行との 関 係を強 5) 化し た と論じ た。 こ のよ うに ジャ ワ砂糖の販 売に はジャ ワ在 住の華 商が一
定の 役 割を担っ て い るこ と が認 識されて お り
,
とりわけ,
建 源 (KianGwan
) や郭
河東
(Kwik
Hoo
Tong
)な どの 有 力 華 商につ い て は,
日本 や 中 国 との 間で構 築し た 国際 的な ネ ッ トワー
クや多
国籍
的な性質
が,
発展の 6) 原動力
と なっ た点が強 調されて い る。
し か し
一
方
で,
これ ら国際
的に事
業を展 開し た 華 商 らが,蘭
領 東イン ドに おい て どの よ うな経 済 的 な 状 況 下で砂 糖 産 業に参入 し,発
展の経緯
を た どっ たのか とい う点につ い て,
ジャ ワ糖 産 業 全体
の構造
の中
で位 置づ ける視 点はこれまで重 視されて こなか っ た。 実 際に は上 記の有
力華商
以 外に も, 数 多 くの 無 名の華商
も砂糖
の 買い付
けに参
入 し て お り,1920
年 代の ジャ ワ糖 産 業の最
盛 期に は,華商
に よる購入 が全 体の約3
割を占めた。 し か し,彼
らの取引
が どのよ うな方 法で 行われて い た の か,
中 小 規模
の華商
を含めた分析
は行われて い ない。
そこ で本 稿で は, 華 商の 砂 糖 取
引
の中
心 地 だっ た中 部ジャ ワ の港 町ス マ ラ ン (地図 1 参照 )に 7) 焦点
を当て,
オ ラ ン ダ系 銀 行 と華 商の 取 引 内 容か ら,
両者
間の資
金の 流れ を検
証 する。
特に 1917 年の砂 糖 危機
に着
目し,20
世 紀 初 頭の 砂 糖販売に お け る 両者の相互依存
の関 係か ら,
華 商 へ の資 金 供 与 が 厳 格 化し ていっ た要因 と,華
商とオ ラ ン ダ系 銀 行,
生 産 者 側 が 受 けた影響
を論
じ る。主に 使 用 する史 料は
,
ジ ャ ワ糖 産 業の中核
を担っ た クル チ ュー
ル バ ン ク (cultuurbanken )の うち
,
最 大 手の オ ラ ン ダ商 事 会 社 (Nederlandsche Handel−Maatschappij
) と蘭 印 商 業 銀 行 (Neder−
s)
1andsch−
indische Handelsbank )の文 書である。
クル チュ
ー
ル バ ン ク は製
糖工 場へ の長 期 融 資だけ4) 平 井 健 介 「第
一
次 大 戦 期〜1920
年 代の 東ア ジァ精白糖市 場」r
社 会 経 済 史 学』第76
巻 第2
号 (2010 年8
月 ),71−92
頁。5)
Roger Knight
,
“
Exogenous colonialis皿 :Java
sugarbetween
Nippon
and Taikoo before andduring
the interwar depression,
c.
1920−
1940”
,
Modern Asiαn Studies,
vol.
44(3)(2010)
,
pp.
477−
515.
6
)Alex
Clever,
7rαde伽 α ηc2 αnd commercial relation,Amsterdam ,
Vrije
Universiteit,
2006.
;Yoshihara
Kunio,
“
Oei Tiong Ham concern :The
first
business
empire of Southeast Asia”
,
Southeαst Asian
Studies,
voL 27(2) (1989),pp.
137−
175.
7)ジャ ワ糖の生 産 地 域は島 内の中部 か ら東部に集 中し てお り
,
ス ラバ ヤ とス マ ラ ン がその主要 な 積み出 し港であっ た
。
さらに スラ バ ヤ では欧系の 大 手 商 社が取 引の 中心であっ た の に対し て,
スマ ラ ンで は 大 手華商の砂糖 取 引が活 発であっ た。 92 (396) N工 工
一
Eleotronio Library◎ 『社会経済 史学 』79
−
3 (2013 年 11月 ) でな く,
生産された砂 糖の販 売 委 託を受 けるこ とに よ り手 数 料 収入 も得てお り,
華 商との取 引 状 9) 況に関
して も記録
が 残さ れてい る。 同時に,植
民 地期
の中
央 銀行
とし て植
民地政策
に深く関与
し le) た ジャ ワ銀行
(Javasche・Bank )の史料
も用い る。 同行
は,発
券 業務
の ほ かに商業貸付
も手掛
け てお り,
支 店 間の書 簡 や 各 種の報 告 書 な ど を通 じて,
華 商 との取 引 関 係 や 経 済 的な状 況を知こ と がで きる。
ま た,第一次
大戦
後 期に砂糖
の販 売 統制機
関とし て発 足し たジャ ワ製 糖 業 者 連 合 会(
Vereenigde
Javasuiker
Producenten
:VJSP
)の史 料か ら,
主に1920
年 代の砂糖
販 売の状 況と,
購入
資
金の調 達 方 法に つ い て検証
する。対 象 時 期は,
1900
年 代 初 頭か ら1920
年 代 半ば までを,3
期に分 けて 論じ る。 第1
期は, ジ ャ ワ糖
の輸
出 が本格
化し た1900
年 代初
頭から第
一
次 世界
大戦
まで で,
この期 間に ク ル チ ュー
ル バ ン ク に よ る華 商へ の 砂 糖 買 付 資 金の貸 付が急 増し た (第 1 節)。
第2
期は,
第一
次 世 界 大 戦 中の 混 乱期
を扱 う。 大 戦によ る砂 糖 価 格の 急 騰で華 商に よ る投 機が過 熱し,1917
年に価 格の急 落と ともに破 綻 する華
商が続 出した 「砂糖危機
」が発生 し た。
こ の危機
を契機
に,
クル チ ュー
ル バ ン ク と製 糖工場は華
商に対 する警
戒を強め,
販 売の管
理へ とつ な がっ た (第2節 )。第
3
期は,
販 売管
理組織
の設立後
の1920
年代
を中心に,
輸 出 最 盛期
に おけるVJSP
の 販売 方法
と (第3節 ),
銀 行に よる華 商へ の 対 応の 変 化を扱い (第 4 節),
最 後に ま とめを述べ る。
1
20 世紀初
頭か ら第
一
次世
界 大戦
期の取 引 形態
(1
) 砂 糖の買い付けと金 融 機 関図
1
で示すと お り,
ジャ ワ糖
の生産
量 は19
世 紀 末か ら漸増
し,
そ れに合わ せ て輸
出 量 も増
加 してい っ た。20
世紀
に入 っ てか ら は,
イン ドや中国
向 けの輸 出 量がオラ ン ダ を含 むヨー
ロ ッ パ向
けを凌駕
する よ うにな り,本
国 市 場よ りも東ア ジ ア の市 場へ 依存
度
を高め て い っ た。 こ の よ う な市 場の特 性か ら,
製 糖工場 や 栽 培 企 業 などの生 産 部 門は オ ラ ンダ系の資 本が圧 倒して いたの に 対し, 買い付
けや輸
出を担う流
通 部門に は,英
独系
や 日系,華
商な どの オ ラン ダ資
本 以 外の商 社 エ1) や商
人 が参
入 して い た。次に生産か ら
輸
出 まで の流
れ をみ る と,
図2
の よ うにな る。 ジ ャ ワ に お け るサ トウ キ ビの 収穫
は4
月 下 旬 頃に始 まり,
刈 取 り後はす ぐに製 糖工場へ 納 入され,
砂糖
が生産
される。
生産
の 8) ク ル チ ュー
ル バ ンク とは,
農業企業に対して長 期資金を供 給するだ けで な く,
自ら農業 企 業を所 有し,
経営する金融機 関の総 称で あり,
糖 業につ い て は 1884 年の糖 業 恐 慌を契 機にサ ト ウ キ ヒ“
の栽 培 部門か ら製 糖工 場,
金融 を含め た糖業全 体を組織的に支配 し た 企業 形 態で あ る。 1920 年 代 半 ばに は,
全製 糖工 場の約 80% を 所有,
ま た は管理 し た。
ヘ ル フ ェ リッ ヒは代 表 的なクルチュー
ル バ ン ク と して,
オ ラ ン ダ商 事会 社と蘭印商 業 銀行の ほ か に,
ア ムス テ ル ダム商 業 連 合 (Handelsvereenig−
ing
“
Amsterdam”
).
王侯 領 拓 殖 会 社 (Cultuur Maatschappij der Vorstenlanden ),
植 民銀行(Kelnia]e Bank )を挙 げて いる
。
E,
ヘ
ル フ ェ リッ ヒ (村 岡 尊 朝 訳 )r海 外企業 銀 行と し ての蘭領 印 度 拓 殖 銀 行の研 究』糖業連合会,
1921 年:加納r
現代イ ン ドネシァ経 済史論』118−124
頁 ;日本貿易 研 究 所r
糖業よ り見た る広域経 済の研究』125−140
頁。 9) 両行の文書は オラ ンダの ハー
グ 国 立 文 書 館ec所 蔵さ れ てい る。 本 稿で使 用し た文 書te
つ い て は,
オ ラ ンダ商 事会社はNHM ,
蘭印商業銀行につ いて はNIHB
と略し て表 記 する。 10) ジャワ銀行文 書 (ジャカ ル タ・
イ ン ドネシ ァ銀行本店所蔵)につ い て は,
以 下JB
と表 記 する。
11) 加納r
現代イ ソ ドネシ ア経 済史論』32−
34頁。
(397
)93
The Socio-Economic History Society
NII-Electronic Library Service The Sooio
−
Eoonomio History Sooiety[論説 ] 蘭領東イン ドに おけるオ ランダ系銀行の対華商 取 引 (工藤 裕 子 ) 図 1 ジャワ糖の 生産 量と輸 出量 (1
,
000トン) 3,
500 3ρ00 2,
500 2,
000 1、
5001,
000
500
産 出 生 輸 0諍 ぜ ぶ ぶ ず 詑 ぜ 紳 諍
(年 ) 出所 )Changing EconomOr in lndonesiαVol.
1,
Amsterdam :Mar七inus Nijhoff,
1975,
table 7,
よ り作 成。
図21917 年 以 前の砂糖 取引の流れ 銀 行か らの前 貸し 製糖工場 一 (仲 買 人〉 ⇒ 輸 出 → 資 金 ■ ■ ■ ゆ
・
砂糖 ピー
ク は7 〜
9
月で,11
月に ほぼ終 了 する。 製 糖工場か ら買
い 付け を行
う商 社や商
人 はフ ァー
ス 12) ト・
ハ ン ド と呼
ばれ,
通常
は仲 買 人を介して予 約 購入 した。
生産 後に 工場か ら出 荷された砂糖は購
入者
に引
き渡
さ れるが,
銀 行か ら買 付 資金 を借 り受 けた場 合は,
その銀 行の指 定 倉庫
に納入 さ れ,
倉 庫証
券 が 発行
されて事 実 上の 担保
と な る。 こ の砂 糖はフ ァー
ス ト・
ハ ン ドがそのま ま輸
出 する場 合 もある が,
別の 買 付 商へ と転 売 すること もある。
転 売は,
出 荷工場 と砂 糖の受 け 渡 し 日,
量 価格
を定めた権 利 証を売 買 する形で行われ,
最 終 的に工場か ら出 荷された時 点の権 利 書 保 有 者に,
砂 糖 が 引 き渡される。 これ ら転 売に よ る買 付 者は,
工場か らの 転 売の 回数に応じて,
セ カ ン ド・
ハ ン ド,
サー
ド・
ハ ン ド と呼ば れ,
多い時で は10
回以上 も転 売が繰 り返されるこ と もあ 13) っ た。フ ァ
ー
ス ト…ン ドは大 手の 商 社 が 中心 であ り
,
英系
のフ レー
ザー ・
イー
トン (Fraser
Eaton
&Co.
), ドイツ系
のエ ル ドマ ン・
ジー
ル ケ ン (Erdmann & Sielcken),
オ ラン ダ系
の ウ ェ レ ン ス テ12
) 取 引の 約 定 額か ら一
定 割 合の手 数 料を得るビジ ネス で,
理事州 政 府からの認 可が必 要で あ り,
ヨー
ロ ッパ 人がほ とん ど だっ た。 大 手の商 社は そ れ ぞ れ専 属の仲介商と 提携し,
例え ばス マ ラ ンで は
Dunlop
&Kolff,
Monod
社 な どが 有 名であっ た。13)
Djawa
Tengah ,
13 Jun.
1917.
94
(398
>
r
社会経 済史学』79− 3
(2013
年11
月)イ ン
・
ク ラ ウ セ (Wellenstein
Krause
&C
・.
)などの ヨー
P ッ パ 系 商 社の ほ か,
ジャ ワ の砂 糖王 といわ れ た黄
仲涵
(Oei
Tiong
Ham
) が経営
する建
源や郭
河東,郷
永 昌 (The
lng
Tjiang
),顔
江 守14 ) (Gan Kang Si・e) な どの ス マ ラン の 大 手
華
商が知ら れて い た。 製 糖工場か らの買い付 けは1
回の契 約 量が大 きいため,
フ ァー
ス ト・
ハ ン ドは多 額の資 金 を 15) 必要と し た。 例えば 砂 糖価格
が1
ピ クル当
た り10
ギル ダー
で5
万ピ クル を買い付
け る とすると,
総額
は50
万 ギル ダー
と な る。当時
の華
人系株
式会社
の資
本 金の平均額
が10
万 ギル ダー
以 下 だ 16) っ た こ と を考 慮 する と,
一
般の華
商 が 自己資
金で 買い付 け することはほぼ 不 可能で ある。 この華 商の フ ァー
ス ト・
ハ ン ドの資
金需要
を支えて い たのが, ジャ ワ銀行
やクル チ ュー
ル バ ンク の オラ ン ダ商 事 会 社,蘭
印商
業 銀 行であっ た。 (2
) 金 融 機 関に よる生 産 物 貸 付ジャ ワ銀 行 やオ ラ ンダ商 事 会 社, 蘭 印商 業 銀 行は いず れ も
,
生産 物を担 保とする貸
付を行っ て IT) い た。
砂糖
や コ ブラ,
カポ ッ クな どの農産
品に対
して,
市 場価
格に応じ て貿
易 商や買
付 商に資
金 を前貸
し し,商
品が納入 さ れ た指
定倉庫
の鍵
を預か るこ とで その商
品を担保
とす
る方法
である。貸
付 分は,
砂 糖の輸 出後
に 回収された代 金や輸 出 先か らの為 替で返 済された。 銀 行に とっ て は, 短 期 間で 資 金が回 収で き,貸
付 額が大 きい 砂糖
は最
も収益 が高
い対 象だっ た。
貸 付の 限 度 額は
,
市 場 価 格の70 〜90 %
の範 囲とする場合が多
く,
供与
先の信 用状況 や その時
点
の市
況によっ て異
なっ た。 例 え ば,
ジャ ワ銀行
が1911
年に華 商に行っ た 貸 付で は,
建 源へ は 18) 市 場価
格の 90 %, 郭河東へ は同80
% で提 供し てい る。 同様に貸 付 利 子も供 与 先ごとに異な り,
19) ジャ ワ銀 行の公 定 利 子を基 本と して,
ク ル チ ュー
ル バ ン クは これに α5 〜
1
%
程度
を上 乗せ し た5 〜6%
の範
囲に設 定 するケー
ス が多か っ た.
例 えば,A
社に対し て は市 場 価 格の90
% を 金利6
%
で貸
し付 け,B
社に対し て は1
司80 %
を5.
5%
で貸
し付
ける とい う形で,
各行
が案
件ご とに条 件 を 提 示し, 合 意 内 容に基づき 公 証 人が契
約書
を作
成し た。こ の生
産物貸付
の枠組
み に よる資
金供
与は,
各行
と も1905
年 頃か ら増 加し てい る。
ジャ ワ銀 行で は,
生産物貸付
の残高
を輸 出 品と輸入品に分 けて記 録してい る が, 全 店ベー
ス で は輸 出 品貸 2D) 付の残 高が1906
年 以 降に急 増した (図3
)。
ス マ ラ ン に着
目する と,
オ ラ ン ダ商 事 会 社の 同地 支 14) これ らフ ァー
ス ト・
ハ ン ドも,
地位が固 定さ れ てい た わけでは な く,
セ カン ド・
ハ ン ドとし て 転売された 砂糖を購入する こともあっ た
。Djaw
αTeng
αh ,13
Jun .1917.
15) 1ピ クル (担 )=61
.
76キ ロ グラ ム。
16) 例 えば 華人 企業の大 手とい われる建 源の資 本 金は 140 万ギル ダ
ー,
郭河東が 20万ギルダー,
顔 江守が25 万ギル ダー
と突 出して い たが,
商業 部 門の華 商の大多数は資 本金が 10万 ギル ダー
以下だ っ た。H
侃dbo
曲 voor cultuur.
enh
αnelsondernemingen in Nederlαndsch−
lnditi,
A
エnsterdam,
1910
,
17) 銀行に よ り名称は異 なるが, オ ランダ語で voorschotten op producten
,
あるいはbeleeningen
(〜pproducten の項 目で計上 された
。
18
)JB
:1346,
スマ ラン支店 書簡。19) 砂糖に対 する公定 利子 は
,
1900 年代 初頭 か ら20
年 代に かけて は5
% に設 定 され,
他 商 品に比べて も低 利であ り
,
政策的に砂 糖 輸 出が 振 興されて いた。
20〕 同行は この ほ かに
,
貸付 項 目 として有 価 証 券貸付と不 動産 貸 付を計 上し てい る。L .
D .
Bree,
Gedenkboele
vαnde
Jav
αscheBank ,deel
2,
Weltevreden :G.
Kolff,
1928,
統計資料B .
The Socio-Economic History Society
NII-Electronic Library Service The Sooio
−
Eoonomio History Sooiety[論 説] 蘭領 東イ ン ドにおける オラ ンダ系銀 行の対華商取引 (⊥藤裕 子 ) 図 3 ジャ ワ 銀 行 の輸入 品貸付額 と輸 出品貸 付額 (1901
〜
1920年) (1.
000ギルダー
) 35.
000 「30,
000
25,
000 2010001S,
OOO
10.
000 5,
000 0 1901 1904 1907 1910 1913 1916 1919(年 )出所 ) L
.
D.
Bree,
Gedenkboefl van de Javasche Bαnk,
deel 2,
Weltevreden:G,
Ko!ff,
1928,
統計 資料 B
,
よ り作 成。 図 4 オランダ 商事会社ス マ ラン支店の貸 付 額 (1901〜
1928年) (LOOOギルダー
) 70、
000 60DOO 50,
000 40,
000 30、
000 20,
000 10,
000 0 1901 1904 1907 1910 19131916
1919
1922
1925 1928 (年 ) 出所 ) NHM :5162−
6165,
スマ ラン支店 1903−
1928年 年 次 報 告 より作 成。 店で は,
生 産物貸
付は1906
年か ら急
増し,
一
時 的な落ち込み は あるもの の1916
年に は1906
2ユラ 年の5
倍 以上の規 模となり,
貸 付 全 体の8
割 以上 を占め る まで になっ た 〔図4)。次に供 与 先を みて み る と
,有価証
券や 不動 産を 担保とする貸
付の主 な対 象が,
ヨー
ロ ッ パ 系の商店
や個 人である の に対し て, 生 産物貸
付は華商
へ の 供与
に 集 中して い る。 オ ラ ン ダ商 事 会 社の 2z) 生産
物貸
付に よ る利 益は,
主に華 商の 輸 出 業 者に対す
る砂糖
の貸付
が大半
を 占めた。
表1
は,
21
) オラ ンダ商事会社で は,
会 計 報 告で は貸 付 を,
生産物貸付,
輸入品貸付,
有価証 券貸付,
手 形貸付の 4項 目に分けて計 ヒし て い る
。
NHM :5162−5165,
ス マ ラ ソ支 店1903−
1928 年 年次報 告。
22) NHM :5162,
スマ ラ ン支店 1906 年年次 報告。
96 (400) N工 工一
Eleotronio Library
r
社 会 経 済 史 学』79−
3 (2013 年 11月 ) 表 1 オランダ商 事会 社スマ ラン支 店の生 産 物貸 付残 高 (1913年12月末付)1
鮒 額1
1
(ギ ル ダー
)1 抵当髄
l
I (ギルダー
) 内容I Be Kwat Yoe (馬 厥 猷 ) 153
,
030 177969 砂 糖 米Be
Kwat
Yoe
(馬 厥 猷 ),
500 146 46.
500 砂糖 Ek Goan Kongsie 41ρ64 61,
083 カポック,
米 Gan Ka Sioe(顔 江 守 ) 179,
081 215,
361 米,
砂 糖Jacobson
van den Berg& Co 67,
055 67,
783 カ ポック,
タ ピ オ カ Kwik Hoo Tong (郭河東 ) 145,
049 196,
385 砂 糖,
米Mestfabriek
Java
213,
U8 264.
829Oei Tjoe(黄住) 288
,
651 387,
952 砂糖,
米Semarangsche AutQmobie[ 67
,
953 82,
893 自動 車Soh Kten Seng 89
,
098 102,
425 砂 糖,
米Tan Goan Soei 6
,
716 8,
726 タピオ カ Tan Kong Dja[ 13,
140 20.
360
カ ポックThe Ing Tjiang (鄭 永 昌) 360β33 423
,
065 砂 糖Tian Pik Sing 20
,
389 25,
948 米、
豆類,
砂 糖MirandoU巳VQute& Co 5L996 183
,
114 コ ブラ 出 所 ) NHM :4618,
ス マ ラン支店1913年期末残高よ り作成。
表2
蘭 印商 業 銀行スマラ ン支 店の生 産 物貸 付残 高 (1913 年12月 末 付 ) 貸 付 額 (ギル ダー
) 抵 当価 値 (ギルダー
) 内容 Be Kwat Yoe (馬厥 猷) 192,
985 200,
000 砂糖 米 Maintz& Vo 109,
918 300,
000 各種生産 物 Oei Tj。e (黄 住 ) 382,
165 600,
000 砂糖,
米 GQ Boen Kwan 60,
432 125,
000 各 種生産 物Sien
Sioe
Bte12964
115,
000
各種 生 産 物Leun Hing 52
,
403 200,
000 砂糖,
米Oen Seng 51278 100
,
000 各種 生 産 物Oei Djie Sien 13
,
735 100,
000 各種 生 産 物Sieh Diwie Kwie 44
,
246 200.
000 砂糖 米Go Tjeng Tjay ・j。・P・・gH ・・
i75
.
63671,
096 100,
0001 150ρ0。1
各種生 産 物 各種生産 物 Loe An Sieml10
,
031
200
ρ00
}
砂糖、
米 Tjin Hin H Liong Bie 49,
810 13.
282 100,
QOO 50.
000 各種 生 産 物 各種 生 産 物 出所 ) NIHB :1317,
ス マ ラソ支店 1913年 年 次 報告よ り作 成。
(401) 97The Socio-Economic History Society
NII-Electronic Library Service The Soolo
−
Eoonomlo Hlstory Soolety[論 説 ] 蘭領東イ ン ドにお け る オラ ン ダ系銀行の対華商 取 引 (工藤 裕 子) 同 行の
1913
年 末 時 点における生 産 物 貸 付の 供 与 者 別の残 高である。 担 保 対 象と なる生 産物
は,
砂糖,
米,
カポ ッ ク,
タ ピオ カ,
豆類な ど だが,
砂 糖と米へ の 貸 付を受 けて い る 馬 厥 猷 (Be Kwat Y・e)や顔 江 守, 郭 河 東,
黄 住 (Oei
Tj
・e), 鄭 永 昌 らは,
いず れ も他の商 品よ り規 模の大 き 23) い10
万ギルダー
以 上の残高
と なっ て いる。
比
較
の た めに,
同年
末における蘭
印商 業 銀行
の 生 産物貸
付の残 高を示し たの が 表2
で ある。蘭
印商業
銀行
で は個々 の債務者
に対
し て供与
限度額
も併
せて記録
してお り, 砂 糖と 米へ の貸
付で 50 万 ギル ダー
以上の 限 度 額が設 定された華 商は黄 住,
鄭 永 昌,
顔 江 守,
郭 河 東と,
オ ラ ンダ商 24] 事 会 社の 人口債 務 者とほ ぼ重なっ てい る。 鄭 永 昌,
顔 江 守,
郭 河 東 らは ま た,
ジ ャ ワ銀 行ス マ ラ 25) ン支 店の1900
年 代 初 期か ら常 連の顧客でもあっ た。こ こか ら分かる こ とは
,
いずれの銀 行で も生産
物の貸
付につ い て は,
砂糖
と米を担 保とする貸
付
の規 模が 大きい こ と,
馬厥
猷,鄭永
昌,顔
江守,
黄 住,郭
河東
とい っ た特定
の 大 手華商
を供与
先と してい る点 が 共 通してい る。 これ ら華 商は,19
世 紀 末か ら20
世 紀 初 頭に かけて株 式 会 社を 26) 設立 し, 法 人と し て事 業を行
い , ス マ ラ ン中 華 商 会の幹 部を務める右 力 者だっ た。一
方, その 他 の貸
付 先は個 人 名 義 あるい は個 人 名を商 号とした華 商が多 く,
カポ ッ クやタ ピオ カなどの産 物 を 取り扱い,
貸 付 残 高 も10
万 ギル ダー
以 下である。 特に蘭
印商 業 銀行
は ジャ ワ銀行
や オラ ンダ 商 事 会 社に比べ て, 生産 物 貸 付の件 数が多 く, 担 保 対 象の 生産 物 も 多 岐に わ た っ た。
つ ま り, これ らオ ラ ン ダ系 銀 彳亅は,
一
定 規 模の株式
会 社 化し た一
部の大 手華
人 系企業に対して,
砂糖
と米の取 引を積 極 的に 支援
して い た。 華 商 を め ぐ る銀 行 間の競 合ジャ ワ
銀
行ス マ ラ ン支店
は1909
年9
月,建
源に対して翌 年の砂 糖 と米の 買 付 資 金の貸 付 供 与 を申し出た。 建 源は その 時 点で すで にオ ラ ン ダ商事会
社か ら,倉庫
の鍵
を預ける代
わ りに個人保
証 なし で,
市 場 価 格の80
% の 貸 付を受 ける条 件を引 き 出してい た。 ま た蘭
印 商 業 銀行
か ら は,倉庫
の鍵
は 預か ら ない代
わ りに黄仲涵 自身
が全額
を個 人で保証
する こ とで,市
場価 格の100
% 分の 融資
を受 ける条 件が提示 さ れてい た。蘭
印商
業 銀行
の よ うな貸
付の 提供
方 法は,
以前
に ジ ャ 27) ワ銀 行が貸
付を拡 大 する際に用いた方 法で あっ た とい う。
これに刻し建 源 側は,
これ ら2
行よ りもよい 条 件であ れ ば 借入先
を切 り替
える 可能
性がある と 示唆
し,交渉
が続
けら れ た。最
終 的に 建 源は 砂糖と米を中心 に,700
万 ギル ダー
を上限と し て 市 場価
格の90%
分を,
金 利 4%
で 借り 2s) 入 れる契
約を ジャ ワ銀 行と締
結 する に至 っ た。 このよ うに ジャ ワ銀 行やオ ラ ンダ商事 会 社,
蘭 印 23)NHM
:4618,
ス マ ラ ン 支店 1913 年期末 残高。
24
)N
工HB
;1317,
ス マ ラン支店 1913 年年 次 報告。25
) 例えば,1901
年に鄭永 昌と顔江守,
1903 年に は郭河東へ の貸付を行っ て い た。 JB ;4805,
4806,
ス v ラ ン支店四半期 報告書。 26) 鄭 永 昌と顔 江 守は 1899 年,
黄 住は 1910 年,
郭 河 東は1894
年に 株 式 会 社を設 立し た。Hand −
boeh voor cuZtuur
.
enhanelsondernemin8en
in
Nederl
αndsche−lndiE,
Amsterdam ,1910.
;Tion
Hwa
Siang
Hwee
Semarang ,
Boeke pertngetan (ス マ ラン 中 華 商 会 記 念 誌 )1907−1937,
Se一
皿 arang
,
1937.
27
)JB
:1346,1909
年10
月 1 日付書簡スマ ラ ン支店発 信バ タビァ本 店 宛。
28
)JB
:1346,1909
年 11月2 日付書簡スマ ラ ン支店発 信バ タ ビァ本 店 宛。
98
(402
)
r
社 会 経 済 史 学』79− 3
(2013 年11月 ) 商 業 銀行
は他の大 手華商
に対
して も競
っ て優
遇策
を提示 し,華商
側 も よ り有
利な条件
を得るため に 交 渉 時に 他 行の融 資 条 件 を ち らつ かせ て 借 入 先 を 選 択 して い た。
大 手 華 商に生 産 物 貸 付を供 与できるか否か は,
支 店の業 績に も大 き な 影 響 を及ぼ した。
実 際に オ ラ ン ダ商事会社
ス マ ラン支店
で は1913
年,
ある大 手華
商との契
約を失っ た ことで生産 物貸
付 29) が 前 年か ら950
万ギル ダー
も減 少し た。一
方,
これら銀行
と取 引 関 係を持つ 華 商は,
買 付総
額 の10
〜
20
% ほ どの資 金があ れば, 砂 糖 を 大 量に購入するこ と がで ぎた。
華 商の側か らみ る と, ジャ ワ銀
行が最
も有
利な条件
を提
示 し た が,取引関係
にあっ たの はご く一
部の大手華商
に限ら れ 3o) て い た。この よ うに
,
金 融 機 関は1905
年 頃か ら華 商 向 けに砂 糖 買 付 資 金 を 大 量に供 与 することで,
利 益 を得ると 同時に,
クル チ ュー
ル バ ン ク にとっ て は, 自
行の経営
下にあ る製糖
工 場の販路を確保
31) し,
工場か らの委託
販売
手数料
を得
るこ と ができ
た。 特に蘭
印商 業 銀行
は表2
で も明 らか なよ 32) うに,
大 手華商
だ けで は なく,
中 小の華
商に対 する貸
付に も積
極 的であっ た。 この ことが,
第一
次世界
大戦期
に 砂 糖価
格が急 落し た 際に , 大 ぎな混 乱を引 き起こす結
果とな っ た 。2
1917 年
の砂糖危機
(
1)
大戦
期の投 機 ブー
ム s3)第
一
次 世 界 大 戦が1914
年7
月に勃
発 する と,
ジ ャ ワ糖
の輸
出市
場に も変
化が生じ た。1912
34)〜13 年
の輸
出 先は,
ほぼ全 量 がア ジ ァ向 けで あり,
特に英 領イ ン ドに 向けて大 量に輸 出された。
し か し大戦
の 勃発
によ り, それまで ドイツから甜 菜 糖 を 輸入 して いた英 国が大 量にジャ ワ糖 を 買 い 付 け,
その影 響でジャ ワ糖 価 格は大 戦 前の1
ピ ク ル7 〜8
ギル ダー
か ら,
一
気に12
ギル ダー
35) に ま で急
騰し た。
翌1915 年
に は英 国へ の 輸 出は減
少したが,
同 じく甜 菜 糖の 消費
国で あっ たフ ラ ン スやオー
ス トリ アか らも買
い 注文 が入 っ たほか, 英 領イン ドや 香 港,
中 国 などの ア ジァ 市 場 か らの 買い 付 け も増 加し,
価 格は一
時,
過 去最高
の1
ピ クル14
ギル ダー
に まで達
し た。1916
年は英 領イン ドか らの注文
は さ らに増
加 し, ま た4
月に は英 国政府
から大 量の 買い 付 け も入 っ 36) た。29
)NHM
:5163,1913
年ス マ ラン支 店 年 次 報 告。
30)
Alex
Clever。
Tr
αde
f
諺nαnce αnd commercial relαtion.
p.
288.
31) クルチ ュ
ー
ル バ ン ク は製 糖工場に対して短 期 運 転 資金の貸 付を行い,
これに対して生 産品の販売 委 託を受 けて,
その販 売 代金で貸付金 を回収 する のが一
般 的であっ た。
運 転資金に対す る利 息は年 3〜
6%,
さらに販売手数料 1.
5〜
2.
5%を得た。
ヘ ル フェ リッ ヒ 『海外企 業 銀行とし ての蘭 領 印 度 拓 殖 銀行の研 究 』54−
56頁。 32)Locomotie
デ,
11Jun .1917.
33
) 第一
次 大戦 期の ジャ ワ糖 業の状 況につ い て は, 植 村 泰 夫 「1910 年 代ジャ ワ糖 業と農 民 経済」r
史 学 研 究』169
号 (1985 年 9月 ),
23−
28頁,
に詳しい。
34
)Tio
Poo
Tjiang,
ヱ)e suiherh αndel vαn Jαvα, p,
38,
35
) 本 稿で用い る糖 価は,
オ ラ ン ダ標 本 25号 以上の superieurehoofdsuiker
(SHS
)の 価格を用いる
。SHS
は 直 接 消 費 可 能な砂糖と して,
イ ン ドや ヨー
ロ ッパ 向けに 輸出さ れ.1917
年に は全体の
50
% 以上を 占め る ように なっ た。
36) Tio Poo Tjiang
,
1)e suiherh αndel vαnJava,
pp,
39−
40.
The Socio-Economic History Society
NII-Electronic Library Service The Sooio
−
Eoonomio History Sooiety匚論説 コ 蘭 領東イン ドにおける オラ ンダ系銀行の対華商取引 (工藤裕 子 ) 大 戦 勃 発か ら約
2
年 間,
ジャ ワ糖は ヨー
ロ ッ パ か らの需 要が急 拡 大し たこ とで価 格 も上昇を 続 け,
ジャ ワ島
北岸
の各地で華商
の間に投機熱
が広がっ た。
特に1916
年に は , ス マ ランだけで な く,
バ タ ビアや ス ラバ ヤ,
チ レボ ン,
テガル,
パ スル アン な どで,
これ まで砂糖
取引
を行っ て 37) いなか っ た華 商 も参入する よ うになっ た。
こ の 要因の
1
つ に,
一
部の華商
に限定 さ れて い た クル チ ュー
ル バ ン ク からの 貸 付が, 中 小 規 模の 華 商にも広 がっ てい っ た ことが挙
げら れ る。 ジャ ワ銀 行は 「生産
者 側 もヨー
ロ ッパ からの注文
が 入るこ と を期 待し てお り,
華 商は ほぼ無 尽 蔵に 彼 らか ら融資
を受け るこ とができ
た」 と報告
3s} して い る。 実 際に オ ラン ダ商 事 会 社ス マ ラン支
店の生 産物貸
付は,1914
年
の2
,880
万ギル ダー
か ら,2
年後
の1916
年に は5,
979
万ギルダー
と2
倍 以上 に膨 らんだ。 蘭 印 商 業 銀行
は後に,
「1916 年まで は 華 商の 利 益が大 き く預 金 も潤沢 だ っ たた め に,
十分
に担 保を取るこ とは な か っ 39) た 」 と当 時の 状 況を 同顧してい る。華
商は 「土 地を持
っ て いれば,
そ れ を担
保に銀 行が次々 とお 4o) 金を貸
して くれる 」状態
であり,
クル チ ュー
ル バ ン クか らの潤 沢な資 金を得て,
フ ァー
ス ト・
ハ ン ドか らセ カ ン ド・
ハ ン ドへ,
さ らに サー
ド・
ハ ン ドへ と繰 り返 し転 売が行われた。1916
年は 多 くの華 商が投 機に よ り莫 大な利 益を 上げた ことで,
翌17 年
産糖
につ い て も1916
年から先 物 予 約 が人 り,1917 年 5
月 末には この年
の収穫
見込み分がすべ て売 約 済み となっ た。
し か し, これらの買
い 付 けは証
券上で の空売
り契
約 (blanco
contract )に よ るもの で, 多い時に は10
回 以上 も転 売 が 繰り返された た め,
最 終 的な砂 糖の所有者
が誰
にな るのかは製糖
工場で さ 41) え把 握して いない状態
だっ た。
一
方で, 砂糖の輸
出は1916
年 後 半か ら,
大 戦の影 響で陰 りが見 え 始め てお り,
船 腹の 不足に よ り16
年 産 糖は年 末まで に400
万 ピ クル が船積
み で きずに 売れ残る状態
だ っ た。17
年に入 る と船 腹不足は さらに深 刻に な り,
加 えて キ ュー
バ糖
の大豊
作が伝えられた こ と か ら,英系商社
や一
部の大 手 華 商は ジャ ワ糖の 買い付 けを停止 し た。一
方,
その他の華
商は英 国とフ ラン ス に よ る 注文
を見込
み,
投機
によ る買い 付 け を 続 け た。 し か し5
月 以降
も,
大 量に購
入す
る と思わ れて い た英 仏か らの買い注 文は入 らず, 糖 価はこれまで の平 均14
ギル ダー
か ら11
ギル ダー
へ と じ 42) り じ り と値
を下 げた。(
2
)危機
の発生1916 年
5
月 末時
点で 全工場で販 売された砂 糖は1,
200
万ピ クル に達してい たが,
その うち華
商に よ る購入は1,
000
万ピクル を 占め てい た。1
ピ ク ル 当た り3
ギルダー
の下落
に よ り,
華 商の損失
は全体
で3,
000
万ギル ダー
に達
し た こ と に な る。 各 地の華商
が受
け た損 失は,
チ レボ ンで約37
)DJ
’
aω αTengah ,
13Jun .
1917.
38
)Annu
α1
rep ・rt ・f
the president・μんe Jα びα Bα漉 α πゴ 地 ゐ・ard ・f
direct・ ・fo
厂 the yeα r 19171
1918,Batavia
;G .
Kolff
&Co .
,
1918,
p.
24.
39
)NIHB
:1320,1917
年ス マ ラン支店年 次報 告。
40
) 切b
ω αTengah ,
1Jun,
1917;Perniagαan,
30 Jun.
1917.
華 人の富 裕 者は,
市 街 地,
特に華 人 居 留 区に士 地を持つ ものが 多かっ た。 こ の よ う な 土地や私 領 地は,
法 人 設立 時の株 式に組み 入 れ たり
,
銀 行か らの借入の担保にもなっ た。
41
)p
/aω αTeng
αh,
30Jun .1917
;Locomotie
プ,
13 Jun.
1917.
42
)JB
:4859,
1917 年ス マ ラン支 店 年 次 報 告e100
(404
)
r
社 会 経済史学 』79−
3 (2013 年 11月 ) 43) 400 万 ギル ダー
, テ ガル で は 200 万 ギル ダー
, パ ス ル ア ンで は300
万 ギル ダー
とも伝えら れた。
資 本が脆 弱 なセ カ ン ド・
ハ ン ド以 降の買 付 商は,
砂 糖 価 格の下 落によ り買 付 先へ の支
払い に行 き 44)詰
ま り,契約
を破棄
せ ざる を得
ない 状 況に陥
っ た。一
例
を挙
げる と,
テ ガル の華
人系
商 社Bie
Liong
は 16 年に 砂 糖 取 引で巨額の 利 益を得てい た が,
1917
年5
月か ら6
月に かけて の価 格 下 落で80
万ギルダー
の損 失を被 り,
破 綻し た。Bie
45)Liong
は1908
年にテ ガ ル で設立 された商社
で, 登記上 の資
本 金は7
万 ギル ダー
である 。支払能
力を超え た 買い
付
け を行っ て い た こ と は 明 ら かで あ る。 社長のLiem
Djin
Tik
は破 綻後
, テ ガ 46) ル を 離 れて シ ン ガポー
ル に渡 り,
行 方不明と なっ た。
最 終 的に,
契
約が破棄
された砂糖
は フ ァー
ス ト・
ハ ン ドが引 き受
ける こ とになるが,
こ の 引 き 受 け 余 力があっ た フ ァー
ス ト・
ハ ン ドの華商
は,建
源 と郭
河 東の2
社 だ け だっ た。 その 他の 大 手 糖 商である鄭
永 昌や,
魏 嘉 壽 (Goei Keh Si・e),
黄 住 な どは,
銀 行か らの 貸 付を返済
す る 余 力 47) がな く危 機に陥っ た。 華 商と金 融 機 関の協 議こ の
事態
を受
けて6
月初旬,
ス マ ラ ンの 華 商 代 表は ジャ ワ銀 行に 対し て緊 急 融 資を要 請した 4s} が,
ジャ ワ銀
行はこれ を拒
否し た。 そこ で同 月11
日, 華 商の糖 商 代 表16
人とオ ラ ン ダ系 銀 行 と製
糖工場 がス マ ラ ン中 華 商 会で会 合を開い た。
こ の会 合を呼びかけたの は,中華商会総
理 で も あり,債
務 超 過に よ り破 綻の危 機にあっ た鄭 永 昌で ある。 こ の席
で華商
側は銀行
に貸
付の 際の 市 場価格
の基準
の引 き上げを求め,
製 糖工場に は約 定 価 格の引 き下 げを要 請した。 しか しこの申
し 出に 対し て クル チ ュー
ル バ ン クと製糖
工場側
は,r
華 商 が どの程 度の 量の 砂 糖を握り,
約 定 価 格 は い くらだ っ たのか,
ま た資産
がどの くらい あるの かを明 らか にす れば, なん らか の支援
を検討
する」 と述
べ るに とどま り,
具体
的 な 攴援
策の表 明は見 送っ た。 翌12
日 に再び会
合 が開
か れ,
華商
側は情報
の提供
を約
束し た もの の, 実 際に 明 らか にするもの は ほ とんど な く,個
別に支援策
を要 望し た た め に話し合い は決 裂した。 こ の 日 の会
合結
果を受 けて, ス マ ラ ン の華 人 街には 不穏 な空気
が広
がり,華
商ら は砂 糖 買 付 契 約 を 破 棄し,
砂 糖の受 け 取 りと債 務 返 済を拒 否 する とい う 強行策
に 出た。 ス マ ラ ン港の倉 庫に は製糖
工 場か ら 砂糖 が 次々 と運び込まれたが,
引 き渡しが行 49) われ ないま ま貨 車に山積みにさ れ た。 こ の た め,製
糖工場 側の資 金 繰 りも逼 迫しt ジャ ワ銀 行に se) 緊 急 融資
を求め る事 態 とな っ た。
43
) ヱ)jaw
α Tengah,
22Jun .
1917.
44) JB :5191
,
支店 間書簡DJ
’
aω α
Tengah ,30
Jun .1917
;Locomotief
,
13
Jun .
1917.
45) Hαndboek voor cultuur
−
enhan
(lelsondernemin8en
in
Nederlαndsch・
lndi巨,
Amsterda
皿,
191846) Djaw α
Tengah ,
22Jun .1917.
47)
NIHB
:1320,
1917 年スマ ラ ン支店年 次報 告。
48) スマ ラ ン華 商 代 表とオ ラ ン ダ系金 融機 関との交 渉につ い て は
,Tion
Hwa
Siang
Hwee,
Se・
marang
,
Boeku perin8etan のほ か,
LocotnotieL
12−13
Jun .
1917
;1
万α 即 α Tengαh ,
12Jun .
1917か ら28Jul
.
1917 の特 集‘
Kariboetan
dalam
perniagaan
goela (砂糖取引の混乱)’
;JB :4859,
NHM :5163
,
NIHB :1320 の 1917 年ス マラン支 店 年 次 報 告 を 参 照した。
49) Djaw α Tengα
h ,
14Jun ,
1917 ;Locomotief,
14Jun .
1917.
50
)JB
:4859, 1917 年スマ ラ ン支 店年次報 告。
The Socio-Economic History Society
NII-Electronic Library Service The Soolo
−
Eoonomlo Hlstory Soolety[論 説コ 蘭領東イ ン ドにおけるオ ラ ンダ系銀 行の対華 商取引 (工藤裕子)
華
商と銀行
との 交 渉が進展 し ない ま ま,華
商 側はヨー
ロ ッ パ系
の 銀行
や商社,仲買
人に 対す る 批 判 を 強め て い っ た 。 ス マ ラ ンの有 力 華 商,
馬 厥 猷が発 行 するマ レー
語 紙r
中ジャ ワ (切α 照 T・ngah )』は この砂糖 危機
の直
後から特集
を組み,危機
の経 過とヨー
ロ ッパ 人へ の批 判と英 系商
51) 社の陰 謀 説を連 日伝
えて い る。 その論
調は,前年
に華商
の 買 占め に よ り高値
で の 買い付
けを余儀
な くされた英 系の 商社が,
今 度は ロ シア か らの大 量 注 文が 入 ると喧 伝して華 商に17
年 糖の 予 約 を煽
っ た とい う ものだっ た。 さ らに こ の 「演出」 に は,建
源と並ん で危 機を 切り抜 けた郭 河 東 も 協 力し, 実 際に郭
河東が英
国へ の輸
出に成 功して い る こ と が その証だ と批 判した。 ま た,
ク ル チ ュー
ル バ ン クや ヨー
ロ ッパ 系の仲 介 人は これまで の華 商の 買い 付 けに よ り莫 大な利
益を得
てい る はず
であり,緊急時
に は華商
を支援
するべ ぎだ と訴 え,華商
の 破 綻は植 民 地 経済
の 危機
に もつ な 52) がるとし て政 庁の介入 を求
め た。 これ らの主張は,
「華
商の投 機を許 すべ きで は ない 」 とする現 53) 地オ ラ ン ダ語 紙の論 調 と真っ 向か ら対 立 する ものだっ た。事 態 打 開のため に
6
月18
日, 今度
はス ラ バ ヤ中華
商 会で会
合 が開
か れ,
銀行
側は1
ピ ク ル11
ギル ダー
で砂糖を買い戻 すこ とで合 意した。
契 約上の販 売 額 との差 額 分につ い ては,
銀 行 が 華 商に対し て現 金か約 束 千 形で の支 払い,
あるい は資
産を担保
と して貸
し付
けする こ とで, ス マ ラ ン華商
もこ の 提案
を受 け入れた。 ま た,
砂 糖の受 け 渡し は事 態 が 収 拾 する7
月1
日 ま で延 期 され,
製 糖工場の在 庫 分は 工場と銀行,華商
か ら 成る委
員会
で価 格を決 定し,
その量は受 け 渡し時
の状
況で 決定 する こ と となっ た。 この案
は実質
的に , 銀行
や製糖
工 場 と直
接 取引
したフ ァー
ス ト・
ハ ン ドに対し て の救 済 措 置であり, 銀 行 側は セ カ ン ド・
ハ ン ド以 降へ の支援
につ い ては消極
的であっ た。ジャ ワ銀 行は クル チ ュ
ー
ル バ ン クや製糖
工場と華商
側との一
連
の交 渉に関 する政 庁 宛て の報 告 書のな かで,
政 庁は こ の問 題に介入すべ きでない と助 言してい る。 危機
の発端
は,
牛産者
側が あ ま りに も高い 価 格で 砂 糖を 販売し たこ と と,
市 場価 格 との差 額を 買い 手に 負わ せ た こ と と が要因 i4) で ある と して,
買い 手 側との妥 協 点は生 産 者 側 が 克 服 すべ きとい う立場を貫
いた。破 綻し た華
商
の債務処
理7
月に 入 ると,
銀行側
もフ ァー
ス ト・
ハ ン ド と して買い付
けを行っ て い た大 手 華 商に対して.
救 済のため の交 渉を始め た。 クル チ ュー
ルバ ン クへ の債 務 返 済が滞 っ た黄 住 や 鄭 永 昌,
魏 嘉 壽 な どに対し,
銀 行と製 糖工 場の 債 権 者 団との交 渉が個 別に 進め ら れ た。総額 900
万 ギル ダー
もの 負 債を 負っ た 黄住の 場合,
オ ラ ン ダ商 事 会 社と蘭 印 商 業 銀 行 を 含め た債 権 者4
老 間での協議
の結果,
以下の6
項目が合 意された。
〔1
)購入 した砂 糖は1
ピ クル11
ギル ダー
で銀 行が 買い取る。
債 務900
万 ギル ダー
の50 %
は免 除さ れ,残
り450
万ギル ダー
は銀 行に 返 済 する。〔
2
)
黄 住の 手 持ちの現 金200
万 ギル ダー
と債務
残高 450
万 ギル ダー
を合わせ,
総 額650
万ギル ダー
を 資 本 金 とし て,
黄 住が株 主となる株 式 会 社を設 立 する。〔
3
)
事
業継続
のた めの資
金と して銀 行が 50 万ギ51) D
.
ノFawαTengah ,
12Jun .
−
28 Jul.
1917.
52) 1〜ノFawα Tengah
,
16Jun ,
1917.
53)
Locomotief
,
14 Jun、
1917;Soerαb
α亳ノαsheH
αn(ielsbl
α (1,
14Jun .1917.