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Ⅰ. 暗示の文献的検討

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Academic year: 2021

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は じ め に  Janet, P. 21)が晩年近くに自らの研究の来し方 を振り返りつつ慨嘆していたのは,暗示に対する 関心が19世紀末ににわかに高まり,それを取り上 げた心理学関連の論考は文字通り枚挙に暇がな く,人々は専ら暗示についてしか語らなかったに もかかわらず,その後間もなく暗示への関心が潮 の引くように急速に衰えたことであった.19 世紀 末は当時すでに世界的名声を博していた神経科医 であった Charcot, J. M. がヒステリーとともに催 眠も自然科学としての医学へ導入するという力業 を成し遂げ,短命ながら暗示を精神医学の主役に まで押し上げた時代であった6).昨今,解離性障 碍研究が活況を呈し Janet への回帰が声高に説か れており,そこに19世紀末の精神医学の再来をみ る向きもあるが,暗示という主題は表舞台からは 下ろされたままのようである.なお,この小論で 取り上げる催眠はそこで暗示が施されるものを意 味しており,暗示なき催眠は想定していない.  以下,単行本文献からの引用が複数にまたがる 場合は頁数をそのつど表記する.海外文献に関し ては邦訳を参照した場合は〔・・頁〕,原著からの 場合は〔p. ・・〕と表記する.   暗 示 が 不 遇 を か こ っ て い る 理 由 に つ い て

暗示とその周辺問題

岡 一 太 郎

Kazutaro Oka:On Suggestion and its Related Problems

 昨今の解離性障碍への関心の高まりの中で Janet の再発見が世界的になされているにもかかわ らず,Janet が終生問い続けた暗示という問題は管見ではなお講壇精神医学において等閑視され たままのようである.今回,その再検討が必要であるという Janet の強い促しに従って暗示の考 察を試みた.暗示は Mesmer―Puységur―Freud という力動精神医学の系譜において理論的・実 践的に形を変えながらも一貫して個別主体の意志の力動関係すなわち能動的な暗示者と受動的な 被暗示者という構図に還元されてきた.これに対して我々は Janet の初期暗示論とそこで参照さ れている Biran の経験論のうちに従来とは異なる見方の端緒を取り出し,暗示の基盤に中動的過 程があることを論じた.また Janet と互いに影響を与え合った Bergson に依拠しつつ人が―正 常か異常かを問わず―総じてつねに自身の歴史性を十全に担った自己であるわけではなく,と くに暗示において非自己的になり得ることを指摘した.この中動的過程と非自己化という暗示の 二契機から暗示の周辺問題としてヒステリーを考察し,ヒステリーとの関係において統合失調 症,離人症などにも言及した.なお上述した暗示へのアプローチの中で,Freud のいう心的装置 の最表層に,間主体的な中動的過程によって規定されている無意識が見出された. <索引用語:暗示,ピエール・ジャネ,ヒステリー,中動態,無意識> 精神神経学雑誌 第 115 巻 第 9 号(2013) 933 952 頁



原  著

著者所属:もみじヶ丘病院,Momijigaoka Hospital 受 理 日:2013 年 6 月 1 日

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Janet21)は,催眠をめぐるナンシー学派とサルペ トリエール学派の論争などいくつかの要因を挙げ ているが,Freud, S. への言及はそこにはない.し かし Charcot と Bernheim, H. という両学派の首 領と接点をもち,「私はかつて Bernheim の門下 で」9)あったと自認さえする Freud の影響もまた 無関係ではなかったであろう.Freud にとって 「真の精神分析の歴史は,催眠を放棄した技法上 の革新によってようやく始まる」8)のであり,転移 のみで症状を除去することは「しょせんは暗示治 療であって,精神分析ではない」7)と厳しく評され る.他方で Freud は「精神分析は,催眠現象から 継承したものを一つの遺産として管理しているの である」11)とも述べており,彼の催眠ないし暗示 に対する評価は否定的一辺倒ではない.こうした Freud の複雑な態度がよく表れているのが『集団 心理学と自我分析』10)である.暗示それ自体が正 面から論じられたこの論考の中に「一八八九年, 私自身が彼(引用者註:暗示治療で高名な Bern-heim を指す)の驚嘆すべき技能の証人となった. しかし私は思い出すことができるのだが,暗示の この圧制に対しては,当時もぼんやりした反発を 抱いていた」10)〔154 頁〕と約 30 年前の経験を回顧 するくだりがある.ここには催眠に積極的であり ながらも当時の Freud が暗示に対する一種の生 理的な嫌悪感を抱いていたことが示唆されている.  このことを支持しているのが,先の引用部のあ とに続く「私の抵抗は,その後,暗示がすべてを 説明するとしながらそれ自身は説明を免れるとさ れることに逆らう方向を取るに至った」10)〔154 頁〕という一文であり,暗示を主題化する Freud の動機がそもそも暗示に対する彼の「反発」や「抵 抗」にあったことがわかる.講壇精神医学におい て暗示が黙殺され続けている主な理由の 1 つは, こうした対人的な「圧制」に対する陰性感情にあ るように思われる.しかしまさにそうであればこ そ,Janet の力説する通り,暗示は積極的に主題 化されなければならない.  この小論では,まず主要文献である Freud の暗 示論を力動精神医学史の中において見直すことを 通して,検討すべき課題のありかを見当付ける. 次にその課題と取り組むべく,Janet の初期暗示 論を参照するとともに,Janet に少なからぬ影響 を及ぼした de Biran, M. と Bergson, H. の論考も 手がかりとしながら暗示を考察する.その上で暗 示の周辺問題としてヒステリーや統合失調症など の精神病理を扱うことにする.なお我々は暗示治 療を日々実践しているのでもなく催眠関連学会に 属してもいない.そのような門外漢の立場からの 考察は初歩的な誤解を免れていないかもしれない が,開かれた場で暗示を議論する呼び水にはなり 得るのではないかと思われる. Ⅰ.暗示の文献的検討  文献の検討において注視されるべきなのは暗示 の直達的な影響力がどこに由来するのか,また暗 示者と被暗示者はいかなる関係にあるのか,とい う暗示の存在を肯定する者であればおそらく誰し もが抱かずにはいられない問いがどのように扱わ れてきたかということである.以下ではこの問い に自覚的に取り組んだ Freud の暗示論を,彼の先 行者で催眠療法ひいては力動精神医学の成立と発 展に大きく寄与した Mesmer, F. A. と de Puysé-gur, R. とともに検討する.  1.Mesmer と Puységur  祓魔術から動物磁気へという力動精神医学史上 の最初の転回をもたらしたのが 18 世紀後半に活 躍した Mesmer であった.彼は自らが行った磁石 を用いた治療を端緒にして,「宇宙に遍在する物 理的流体」〔上 175 頁〕すなわち「動物磁気」〔上 68 頁〕なるものが存在しており,人体内にある動 物磁気の「失調」〔上 175 頁〕が病気の原因であ り,この流体の「平衡」〔上 71,175 頁〕を回復さ せれば病気が治癒するという理論をたてた6).磁 気術師が自らの流体を患者に作用させて,潜在的 であった疾患を顕在化させる「分利」〔上 71,73 頁〕を何回か生じさせる中で,分利自体が次第に 軽減していき遂には消え去るのであり,それとと もに病気も治癒した6).Mesmer の忠実な弟子の

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1 人であった Puységur において磁気術から催眠 術への移行を媒介する第二の転回が生じる.具体 的にはそれまでの磁気術ではてんかん患者ならて んかん発作の「分利」が起きていたが,Puységur の磁気術において患者は磁気術師とのみ選択的な 交流をする夢遊病状態となり,磁気術師の命令の ままに実行し,分利終了後に健忘を残した6).こ の現象は当時「磁気睡眠」6)〔上 136 頁〕とも呼ば れた.治療実践の中で Puységur は Mesmer の似 非物理学的理論から離れ,治療的に作用している のは「物理的流体」ではなく「磁気術者の意志」6) 〔上 83 頁〕であるとした.  Mesmer ではたしかに被暗示者に作用するのは 動物磁気であると信じられていたが,この流体を 意図的に動かすのは暗示者であると彼がみなして いたことを考慮すれば,「流体説」と「心理説」6) 〔上 175 頁〕という理論上の相違は相対的であり, Puységur は Mesmer においてなお無自覚にとど まっていた暗示者の意志のもつ意味をそれとして 取り出したといえる:「患者の苦しみを和らげ治 そうという,唯一で絶対の意志をお持ちなら,私 は確信をもって4 4 4 4 4 4成功をお約束いたします」4)(強調 は原著者).なお被暗示者の役割は Puységur にお いて服従という形でしか認められていなかった: 「その患者が(磁気分利のときに)あなたに全面的 に服従するようにしなければいけません.自分だ けの意志をもつ可能性すらあってはいけませ ん」4).直前の引用文と合わせてみると,絶対的な 意志をもつ暗示者と意志をもつ可能性すらない被 暗示者との間に明らかな対照があり,暗示の直達 的な影響力はこの圧倒的に不均衡な関係に帰せら れている.  2.Freud  Freud は先述したように暗示に対する抵抗感を 動機として『集団心理学と自我分析』において精 神分析的な暗示の解釈を試みているので,以下に やや詳しくその議論を辿ってみる.  集団形成には個人が他人に「自分を合わせ,そ の人にいかなる反発も感じない」10)〔171 頁〕とい う特性があり,そこに「ナルシス的自己愛の制限」 と「集団のメンバー相互間における新しいタイプ のリビード的拘束」が見出される10)〔172 頁〕.後 者に関して食人種が人を食べることで取り入れる のに喩えられる「同一化」10)〔177 頁〕という機制 が論じられ,指導者とのつながりに基づいて相互 に同一化し合うことで集団のメンバー間に拘束が 成立するとされる.そして「ナルシス的自己愛の 制限」を説明するのに「恋着」に注意が向けられ る.恋着では「制止されない性的欲動と目標制止 された性的欲動の協働」10)〔182 頁〕のために「感 性的な慾」10)〔同頁〕が抑制され,恋着の対象は理 想化されるとともに,そこへと「ナルシス的リ ビードが溢れ出し(中略)対象が,到達できない 自分の自我理想の代わりをする役目」10)〔183 頁〕 を負うようになる.以上の議論に基づいて「集団4 4 は4,同じ一つの対象を自我理想の代4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4わりに置き4 4 4 4 4, その結果4 4 4 4,自我が互いに同一化4 4 4 4 4 4 4 4 4してしまった4 4 4 4 4 4,相4 当数の個人から成る4 4 4 4 4 4 4 4 4」10)〔188 頁〕(強調は原著者) という定式が導き出される.催眠では受け手の自 我理想に催眠術師がとってかわり10)〔184 頁〕,「直 接の性的追求の脱落」によって催眠は恋着から分 けられた10)〔186 頁〕.  先の定式はよく知られており,また「自我理想」 と「同一化」はともに「超自我」の概念形成に大 きく寄与し,メランコリーの考察の際に参照され るという意味でも重要であることは論を俟たな い.しかし見落とされるべきでないのは「催眠そ のものには,しかし―直接的な性的追求が排除 された恋着であるとする―ここまでの合理的な 説明をすり抜ける特徴が依然として含まれてい る」10)〔187 頁〕という自説の相対化である.我々 が注目するのは,先の定式では集団心理と催眠の 「謎」10)〔188 頁〕は未解決のままであるとしてさら に展開されていく議論である.  催眠術師は相手を催眠状態へと誘導し,この睡 眠類似の状態において「原始から相続してきた遺 伝的資質の一部」10)〔202 頁〕が呼び戻される.こ こで「原始」と言われるのは Freud が「原始群 族」10)〔195 頁〕なるものを想定しているからであ

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り,「原父」10)〔198 頁〕との関係が暗示において再 現される.先の引用部にある遺伝的資質は父子関 係の中でも再生される類のもので,そこで父親は 「きわめて強力で危険な人物」として登場し,その ような父親に対しては「受動的 マゾヒズム的な態 度」をとるしかないとされ,父親を前にして「人 はその意志を失わずにはすまなく」なる10)〔202 頁〕.このような「原始群族」における原父とその 息子をめぐる集団心理学が,暗示者と被暗示者か らなる集団にも適応される.原史から遠く離れた 今日もなお集団は指導者の「無制限の暴力に支配 されることを欲しており…隷属への渇望を抱い て」10)〔203 頁〕おり,自我理想にとってかわった 原父の集団理想に支配されることになる.  Freud の暗示解釈においては転移関係の中で暗 示者は原父に,被暗示者はその息子になってお り,原父のように危険なまでに力にあふれた暗示 者に対してその意志を喪失してしまうとされ る*1.暗示者はその強大な「暴力」をもって被暗 示者を支配すると書かれており,Freud がここで いう原父とその息子の関係は,先にみた Puysé-gur における絶対的な意志をもつ暗示者と全面的 に服従する被暗示者の対比に呼応している.ただ し被暗示者も「支配されることを欲して」という 仕方で暗示者に服従する意志を働かせていること に Puységur との相違が見出せる.たしかに無意 識へと問題となる心的次元が移され,転移を扱う という解釈の根本的な革新が Freud においてな されている.しかし暗示の不合理な作用は無意識 へと場所を変えつつも究極的には主体の意志に帰 されており,この点に限っていえば Freud は Mesmer や Puységur とともに 1 つの系譜をなし ている.  なお我々がここでいう無意識の主体はたとえば Freud の超自我に関する次の論述に示されている 主体に相当する:「自我とはもっとも本来的な意 味での主体なわけですから,そのようなものをど うして客体にすることができるのでしょうか.と ころが,それができるのです,そのことに疑う余 地はありません.自我4 4は自分自身を客体化するこ とができます」12)〔76 頁〕(強調は引用者).ここで 論じられている主体は主客関係という枠組みにお ける主体であって,主体は客体に働きかけ,客体 は主体によって働きかけられるものとして捉えら れており,対象関係論の先駆けとも言える「自我 の下位区分」30)を通して超自我と自我の間に主客 関係が成立し,超自我は自我を「観察したり,批 判したり」12)〔76 頁〕する.そして引用文中で強調 した「自我」すなわち超自我は「エスと深い関係 にある」12)〔102 頁〕無意識の主体の 1 つに他なら ない.そもそも「もっとも本来的な意味での主体」 である自我それ自体が超自我とともに「通常は無 意識的」12)〔91 頁〕なのであってみれば,客体に働 きかけるという一般的な意味での「主体」を Freud のいう無意識に認めることに困難はない.そして 範例的には「かつて抑圧を実行し,今もそれをき ちんと支えようとしている自我の意志4 4表示でしか ありえない」12)〔90 頁〕(強調は引用者)*2という 「抵抗」に関する叙述にあるように,無意識の主体 についてその「意志」を論じることは Freud 自身 がしている.彼は意識・前意識・無意識を区別す る第一局所論と自我・超自我・エスからなる第二 局所論が一致しないことを明言しており12)〔95 頁〕,主体たる自我そして超自我が無意識に通常 あることは両局所論のズレを構成する.このズレ の領域の記述に際して「批判したり」や「支えよ う」といった能動態を中心とする主体の文法を適 用することは,Freud の精神分析における理論的 支柱の 1 つであったように思われる.  本論に戻れば,暗示は Mesmer から Freud に至 *1  Freud の議論において転移関係は患者が睡眠類似の状態に入って初めて成立することになっており,患者をこの状態 にもっていく暗示の効力は転移以外のいかなる機序に基づいているのかという問題が残されている. *2  なおこの引用部の原文は以下の通りであり,訳文中の「意志」は原文では名詞ではなく「意志する」を意味する助動 詞“will”として出てきている:“Der Widerstand kann nur eine Äu erung des Ichs sein, das seinerzeit die Verdrän-gung durchgeführt hat und sie jetzt aufrecht halten will.”12)〔S.75〕

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る系譜におけるように個別主体の意志の力動関係 に還元するしかないのかという疑問が頭をもたげ てくる.この疑問は暗示,そして暗示に依拠する 催眠や集団心理に対して Freud10)が「神秘につつ まれて」〔187 頁〕「不気味な」〔199 頁〕「奇跡が起 こる」〔205 頁〕という表現をあてて強調したその 不合理な側面を主体性の文脈の中でどこまで捉え られるのかという問いにつながる.Freud10)は集 団心理学の先行研究として自らが参照した Le Bon, G. ,Sighele, S. ,Trotter, W. について前二者 ではフランス革命,後者では第一次大戦がその研 究に影響を与えたとしているが,1921 年に刊行さ れた彼の『集団心理学と自我分析』も同様にその 着想を「明らかに一九一八年の終りに起ったハプ スブルク君主国の崩壊と,それに続くパニックと 危難から」6)〔下 126 頁〕得ている.これらの歴史 的出来事に加えて,ファシズムの国家レベルの熱 狂的受容という際立った集団の病理にも思いを致 すとき,個別主体の主体性がそこで相当に制限を 被っているといわざるを得ないように思われる. とはいえ集団の病理が―自己の主体性を脅かす 他者の在り方も含めて―統合失調症のような精 神病水準にないことはたしかである.しかし暗示 とその関連事象に対しては,世界史をも左右する そ の 不 気 味 な 影 響 力 を 十 分 に 捉 え る た め に, Schneider, K.38)の「基底」がそうであるように「精 神病か反応か」という古典的な図式が無効になる 特異な領域34)にそれが位置している可能性を想定 することも必要ではなかろうか.以下,こうした 問題意識のもとで暗示を検討していくことにする. Ⅱ.暗示という現象  Janet21)が挙げた次の例には直達的な対人作用 としての暗示が印象深く記述されている.若い女 性に Janet は「あなたに大きな不幸が訪れました. あなたの首は切断されてしまったのです.自分を 鏡に映してあなた自身で確かめてごらんなさい」 と伝える.するとその女性は自分の首を用心深く 手探りし,椅子から立ち上がって鏡を見やって悲 しげに言う,「本当.首がなくなってしまうのはな んて醜いこと」と.Janet は暗示を「意志に基づ く同意を介することなしに,ある人が他の人に影 響を及ぼすこと」19)〔pp.139 140〕と定義し,この 種の暗示が例外的にしか健常者には認められない とした.これに対して Bernheim は暗示を「それ によって観念が脳へと導入され,脳に受け入れら れる作用である」20)〔p.206〕と定義し,「弁護士, 説教師,教授,演説家,卸売り商人,山師,女た らし,国政を司る人などは,暗示をかける人であ る」40)として暗示の領域を異常心理に限定せず大 幅に拡大した.我々は暗示の内包としては Janet の定義を採用し,その外延については Bernheim の見解に与する.日常生活の中にはそれとして目 立たないながら,Janet のいう定義を満たす暗示 現象が見出せるように思われるからである.なお Bernheim の定義を採らないのは,Janet20)が批判 する通りその規定があまりに一般的にすぎる他, 「観念」という表現が示すように言葉の意味に重き を置き過ぎているためでもある.たしかに暗示に 具体的な内容を与えるのは言葉である.その一方 で,文言さえ同じであれば誰がどのように唱えて も暗示が成功するわけではない.このことは「病 像賦形的」・「病像成因的」という対の術語にな らっていえば,言葉の純粋な意味内容それ自体は 「暗示賦形的」であるのに対して,声音や口調と いったいわば言葉の身体面ないし前言語的な要因 の方が「暗示成因的」である可能性を示唆する.  範例として挙げた Janet の斬首の暗示ほど鮮や かではないが,我々は「意志に基づく同意を介す ることなしに」という条件を満たす暗示現象を若 干ながら経験したことがある.具体的には,①暗 示実演の立会者として,②いわゆるヒステロエピ レプシーの入院患者に暗示をかける暗示者とし て,③日常の何気ない場面で暗示を被る被暗示者 として,それぞれ異なった形で我々は暗示の影響 力に触れており,以下にその経験を記述する. ① 臨床において催眠療法を実践している精神科医 によって 50 人ほどの医療関係者を相手にした 催眠の講習会が開かれた.一通り催眠について

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の説明がなされた後,催眠の実演がそこに聴講 に来ていた 1 人の女性を相手にして行われる. 講師は彼女を壇上の椅子に座らせ,呼吸や体の 力の入れ具合などについてその女性に穏やかに 語りかける.女性は目を閉じ,リラックスした 様子で両手を足の上に置いて静かに自然な姿勢 で椅子に座っている.彼女がただ普通にそうし ているのか,催眠状態に入っているのかどう か,そこに参加している我々にはその時点では 判別がつかない.やがて「あなたの右手がゆっ くりとスーと上がっていきます」という暗示が 与えられると,被験者である女性の右手がその 通りに上へ動いていく.見物している我々がそ の光景に息をのむと,唐突にその被験者が自ら の右手の動きの不思議さ・滑稽さに耐えかねた ように笑い出し,「なんで,なんで?」という声 をあげる.そのとき,壇上にのぼらずに後方の 席でこの実演を我々とともに見物していた 1 人 の女性にも同様の変化が生じ,その人は恥じ入 り顔を真っ赤にして下を向いてしまうが,皆の 視線が壇上の被験者から彼女へと一斉に振り向 けられ,いよいよその赤面が強まる.  右手が上方に動いた 2 人のうち壇上にいな かった女性は,その振る舞いから推測するに, 自分と周囲に起きている状況をそれとして認識 していたと思われ,その意味で典型的な催眠状 態にはなく覚醒していたはずであるが,それで も暗示はその言葉通りに遂行されたようにみえ る.ちなみに Janet も Bernheim も暗示が覚醒 状態で可能であると指摘している20) ② 早産にて未熟児で生まれたその女性患者は 2 歳 より全身けいれん発作が出現し,7 歳以後いっ たん発作はおさまっていたが 13 歳のときに再 び大発作を来した.それからは明らかなてんか ん発作なく経過しているが,15 歳頃より些細な ことに刺激を受けて急に脱力して倒れてしまう ようになる.20 代になると,とくに父親が病弱 な母親の世話などで患者の相手を十分にできな い状況下で,急に倒れて何時間も昏迷様状態に なったり,後弓反張を伴った全身けいれんを起 こすなどのヒステリー性の反応を容易に示すよ うになる.両親も亡くなり 50 歳を超えた現在 は,後弓反張を伴った派手な「けいれん」はな くなったものの,なお失声,失立,失歩がしば しば出現する他,数時間以上にわたって脱力し て無言無動のまま臥床し閉眼していることが稀 ならずあり,入院生活を送っている.これらの ヒステリー症状はいずれも治療スタッフに陰性 感情を多少なりとも抱かせた.なお昏迷様状態 のときに脳波検査が繰り返し施行されている が,正常時の脳波と比べてとくに大きな変化は 認められない.  食や喫煙へのこだわりが比較的強く,食事や 嗜好品の時間になると通常の状態に回復する傾 向がみられたが,あるとき上述した昏迷様状態 が重症化し,食事や喫煙という契機があっても 回復せずにベッド上で長時間寝たきりとなるた め服薬も困難な時期があった.この状況を打開 しようと筆者は,ベッドサイドにて中立的な態 度で一連の神経学的検査をして問題がないこと を確認し,そのことを本人に伝えた上で,「あと 半時間もすればまた歩けるようになります」と 昏迷様状態が解けるまでにかかる時間を具体的 に患者に告げることにした.その結果,毎回で はないにせよ,回復するまでの時間が明らかに 短縮化し,ときにはほぼこちらが指定した通り の時間にベッドから起き上がることもみられ, 周囲を驚かせた.なお本人にどのようにして目 が覚めて体が動くようになったのか尋ねても, 「自然に」そうなる,としか答えず,治療者によ る予言的な暗示を意識化して想起したことは一 度もない. ③ それは 1 日の外来当番を済ませた夜に車で帰宅 する途中,セルフ式のガソリンスタンドに立ち 寄って給油しているときであった.視野の端に アルバイトとおぼしき若い男性スタッフがパン フレットらしきものをもってこちらに向かって くるのが見えた.また何かの勧誘であろうと思 い,些細なことではあるものの仕事を終えた後 ということもあって,その勧誘が少なからず煩

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わしく感じられて,予め断ろうと心の中で決め ていた.案の定その青年は自分のすぐ近くまで やって来ると,「…のカードを作ってもらった ら…になるんですけどぉ」とくだけた口調で話 しかけてくる.この誘いを適当に断ろうと相手 の顔もろくに見ずに答え始めたところ,「そう ですか,じゃあ」と彼の勧誘に半ば快く半ば仕 方ない風に応じている自分の声が聞こえてきて 思わず耳を疑った.たしかに自分は拒絶すると 前もって心積もりしていたはずなのに,その意 図とは全く反対の行動を自分はとっている.半 ば仕方ない風に応じたのであれば躊躇いや迷い が介在していたのではないか,という疑義が出 されるかもしれないが,もしそうならば自分の 返答にあれほど驚き戸惑うことはなかったであ ろう.「半ば快く半ば仕方ない風に」という相反 する形容が意味しているのは逡巡や 藤ではな く,主人を差し置いて勝手にしゃべっている声 の謎めいた捉え難さである.内心は一体何が起 きたのか理解できず,気色悪さをぬぐえないま ま,表面上はとりつくろってスタッフの求めに 従って手続きを済ませ,早々にガソリンスタン ドを後にした.  帰途の車中は専らこの珍事が自分の頭を占め ていた.自分は外来診療後の多少とも疲弊した 状態にあり,青年はたまたまなのか,そういう 術を心得ているのか,目の前の相手であるこち らの懐に入り込んで彼がそう望み,そしてこち らがそうしないと意図していたことを実現させ た.これはまさに「意志に基づく同意を介する ことなしに,ある人が他の人に影響を及ぼすこ と」19)であって暗示現象とみなすことは不可能 ではない.このようにして説明がついても,自 分が事前および事後からみれば明らかに意に反 しているにもかかわらず,事の最中は他人の思 う通りに自ら行動した不可解さは少しも軽減せ ず,作りたてのカードはその不気味な力で意の ままに自分を動かした他者の呪縛を文字通り 「断ち切る」ため帰宅後すぐに鋏を入れて捨て た.  わずかな経験ながら我々にとって暗示の「圧制」 を知るには十分であり,また暗示が催眠という特 殊な機会だけに限られず,日々の臨床や日常生活 において問題になる場合があることも示されたと 思われる.我々の経験の乏しさを補うという以上 に,多くの貴重な洞察を含んでいることから次に Janet の暗示論を参照し,それを通して暗示の時 間や主体といった諸局面を検討していく. Ⅲ.Janet の暗示論  Janet はその長きにわたる臨床研究の初めから 暗示現象への関心を終生もち続けたが,晩年近く になって自らの初期暗示論を厳しく批判するに至 り,その暗示論は初期と後期でその内容を大きく 変化させる.そこで彼の二種の異なる暗示論をそ の両者を分かつ自己批判も含めて概観する.  1.初期暗示論  第一主著『心理自動症』19)の中で Janet は暗示を 現 象 的 に 規 定 す る 主 な 特 性 と し て「 自 動 症 (automatisme)」と「意識下性(subconscient)」 の 2 つを取り出す.Bergson にならえば生のあら ゆる現象には時間の痕跡が残されているはずであ るが,Janet はそうした「創造的活動」と並んで, 過去の保存ないし反復として一様なままにとどま る少なからぬ部分が存在すると主張し,このよう な「再生産的活動」を自動症と名付けた19)〔p.60 (Préface)〕.自動症は 1 つのシステムへと統合さ れた諸要素から構成されており,その中の 1 つの 要素が作動すると他の全ての要素も秩序だって規 則的に展開し,主体がそこに関与することはない とされる.そのため自動症的過程はそれが発動し ても当の主体には意識化されず,しばしば意識下 にとどまる21)  意識下の自動症である暗示が成立する条件とし て Janet は,今ここで与えられている諸現象をそ のつど組織化する総合能の低下を論じ,これを 「意識野の狭窄」19)〔p.195〕として概念化した.こ こでヒステリーという精神病理の本態として知ら れているこの鍵概念の出自がもともとは暗示に

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あったことを強調しておきたい.というのもその ことが Janet のヒステリー論において暗示の占め る位置をよく示しているからである.意識野には 視覚,触覚,筋肉感覚などの各様態において多数 の「感覚(sensation)」19)〔pp.38 39,p.199,p.306〕 が存在している.これらのたえず変化しつつある 「感覚」はその多数が総合され凝縮した「知覚 (perception)」19)〔p.38,p.199,p.307〕へとまとめ られるが,この知覚はそれを構成する諸感覚とい う部分の集合に還元され得ない全体とみなされ る.知覚には感覚のみならず解釈や記憶も含まれ ていることから,知覚の成立は「自我の観念 (l idée du moi)」〔p.199〕ないし,たとえば「私 が見る」と発言する「人格(personnalité)」〔p.307〕 の形成をもたらすという19).それゆえ感覚と知覚 はそれぞれ「非人格的(impersonnel)」「人格的 (personnel)」19)〔p.314〕と形容されて対置される. 前述の総合活動が機能不全に陥ると,知覚される 諸感覚が制限され,総合を受けない感覚は主体に よって気付かれないことになる.「部屋を一周し なさい」という暗示の場合,被暗示者はその行動 の愚かさ,周囲の嘲笑などが意識野の狭窄のため に認識できずに実行に至る.以上の議論をもとに Janet は暗示を「知覚の自動症」19)〔p.200〕とみな した.  Janet の初期暗示論には Freud の場合と異なり 「支配されることを欲して」などの主体の文法を用 いた暗示解釈は見出せない.むしろ反対に Janet においては意識野の狭窄によってたとえば「欲す る」という主体の主体性そのものが一定の制限を 受けることが暗示の成立条件とされている.  2.自己批判と後期暗示論  70 歳を前にして Janet21)は自らの初期暗示論を 回顧しつつそれに手厳しい批判をくわえる.その 際,自動症も意識下も暗示のみに特有の標識では ないことが確認され,暗示における「異他的な作 用(action étrangère)」21)の重要性が指摘される. たしかに自動症も意識下も被暗示者という個別主 体内部の事態しか扱えていない.この自己批判か ら Janet21)は暗示を「信念(croyance)」として捉 え直すことを試みる.しかし後期暗示論では信念 の階層論に力点があり,自他関係は十分に問われ ていない.Janet の初期暗示論には彼がその可能 性を開いておきながら展開させずに閉じていた別 の見方があり,それによって暗示の間主体的な局 面がより見えるようになると思われる.  3.感覚と知覚  暗示の異他的な作用を検討するのに,暗示の圧 制的な影響を受けるのは誰であるのか,と問うこ とから始める.この問題に関して Janet の初期著 作の中に 2 人の症例に関する興味深い記述があ る.1 人は Justine という極めて被暗示性の高い症 例で,「あなたの望むことはすべて受け入れます. あなたに服従できればそれに越したことはないで す し, あ な た の 望 む 通 り に す る の で す が 」20) 〔p.207〕と能う限り恭順の態度を Janet に示して いるにもかかわらず彼の暗示にかからないことが あった.もう 1 人は Lucie という症例で,Janet の 自分のいうことには従わないようにという指示に 対して,彼のいう通りに行動したりはしないと断 言しておきながら,実際には暗示のままに動かさ れており,彼女自身はそのことに全く気付いてい なかった20)〔p.223〕.  感覚と知覚を区別するのに Janet は,感覚の段 階ではまだ「私が」と発言する人格が形成されて いないため,たとえば視覚であれば単に「見る」 と表現するしかないのに対して,諸感覚を総合す る主体としての人格の形成を伴う知覚では「私が 見る」といえるというように説明していた19) 〔p.39〕,20)〔pp.34 35〕.この用法を援用すると Justine と Lucie は,「私が」と発言する知覚主体 である限り人は暗示の成立ないし不成立に関与し 得ないことを対照的な形で示している.すなわち Justine の場合,知覚主体としての自己がいくら 服従しようとしても暗示は不成立に終わり, Lucie の場合は知覚主体としての自己が反抗して いるつもりでも暗示が成立している.  暗示が知覚主体の手の及ばないところに位置す

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ることは,時間的にみれば,暗示の成立が知覚の 時間に先行していることを指し示す.感覚も知覚 もともに今という時間にあるようにみえるが, 「見る」という感覚の後にしか「私が見る」という 知覚が生じ得ないことが示しているように,知覚 は感覚に遅れる*3.自己が他者と現に交わるのは 過去でも未来でもなく現在においてであるが,こ の時間は厳密には感覚の今に帰されなければなら ない.暗示の異他的な作用を被るのは,いわば世 界との接触面である感覚の今において活動する感 覚主体である.他者と現に交わっているのは感覚 主体であって,これに対して知覚主体はたしかに 「私が」という主格的自己として能動性を有し,自 らの行為に責任を担うような存在ではあるが,自 身および他者に関する自らの表象にとらわれて, 感覚の今における現実を見損なうことがある.暗 示は両主体の差異が―暗示に動かされているこ とを知らなかった Lucie の場合のように―可視 化される 1 つの契機となる.  暗示に関わる主体の活動は精神分析からすれば 無意識的なものであり,Freud の第二局所論の図 式12)〔103 頁〕の中では「知覚 意識」よりも「エ ス」に近い深層の側に置かれるであろう.しかし これまでの議論から,感覚主体の無意識的な活動 は,むしろ第二局所論における「知覚系」12)の最表 層に位置付けられるべきであり,その意味で意識 的な事象である.感覚において主体は外界と接す るいわば最前線にいるのであり,世界との現下の 交流にこそ感覚の内実は存しているからであ る*4.この点で『心理自動症』の中で Janet が感 覚を「意識下」とみなす一方で,感覚を「要素的 意識(conscience élémentaire)」19)〔p.43〕といい 替えたり,別の初期著作の中では感覚に「それ自 体ではおそらく意識的な」20)〔p.223〕という形容を 与えているのは示唆的である.  単なる「見る」の感覚主体は「私」なしに動い ており,能動態が主格的自己としての知覚主体の 「私が」にふさわしい態であるとすると,感覚主体 の活動は非能動的なものになる.しかし Janet が 感覚を単なる「見る」と表現するとき,「見る」と いう動詞は明らかに能動態である.私見では,ふ だんは背景化している「私」なき感覚主体の非能 動的な動きこそが知覚主体である「私」の能動性 を裏打ちしており,この意味で感覚主体はすぐれ て能動的であるように思われる.  4.触 発  Janet の感覚と知覚の区別は Biran の強い影響 下で構想された.フランス革命期におけるこの在 野の哲学者は生の領域を「動物的生(la vie ani-male)」「人間的生(la vie humaine)」「精神的生 (la vie de l esprit)」19)〔p.41〕に分けたが,Janet に

は前二者の区別が重要であった.これに関して Janet が引用している Biran の議論を参照してお く:「生命機能は結果として動物感覚と呼ばれる 内的印象をもたらす.この動物感覚とは快や苦痛 の一般的な様態であり動物の存在を作り上げてい るものである.動物は自分が存在することを知ら なくても存在しているし,自分の感覚を統覚しな くても動物としてそのように感じているのであ る」「デカルト流の完全な意識と機械装置との間 に一つの座をもうけ,その座に意識なき感覚をも つ存在,つまりは感覚を統覚する自我をもたない 存在をつかせることができる」19)〔p.41〕.以下では Biran の表現を借りて,知覚主体の「私が見る」に おける能動性は「人間的能動性」,感覚主体の単な る「見る」におけるそれは「動物的能動性」と表 記し,後者が前者の意味での能動性ではないこと *3  Janet 自身が感覚と知覚の時間関係について,第一主著で「2 つの時間」19)〔pp.306 307〕,その後の著作で「第一の時 間」と「第二の時間」20)〔pp.35 36〕という構図のもとで,知覚に対する感覚の時間的先行性を明らかにしていた. *4  Weizsäcker, V. v43)に依拠しつつ木村25)は無意識を「界面現象」として論じている.「界面」も「最表層」もともに境 界をなす点で共通しているが,木村のいう「界面」は自己と非自己の「あいだ」25)にあって個人には属しておらず,彼 自身が強調するように Freud の「個人的な」25)無意識とは水準が異なる.これに対して我々がここで問題にしている 「最表層」は Freud のいう心的装置のそれであって,個人に属する.

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を明示する.感覚主体はまさに「デカルト流の完 全な意識と機械装置との間に」位置するからであ る.  自我意識なき「動物的生」を「人間的生」から 分けるという Biran の構想は彼の初期著作である 『習慣論』における感覚(sensation)と知覚(per-ception)の対にまで遡る.感覚は感受的な器官の 受動的な印象であり,「この純粋に内的な活動は 私のうちで私なしに行われる」26)〔p.116〕.これに 対して,知覚は主体の運動に伴う能動的な印象で あり,運動を意志するのが「私」であり,またそ の意志によって動かされるのも「私」であるとい う二重の仕方で「私」の存在を基礎づけるとされ た26)〔pp.119 120〕.Biran は彼のいう動物的な感 覚を「触発(情感)(affection)」19)〔p.41〕と呼ぶ. 触発は「完全な感覚から個体性あるいは自我を取 り去り,さらにそれに伴う時間的空間的形式をも 取り去ったあとに残るもの」であり,たとえば「知4 的な思考が衰退して堕落したとき4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4」「意4志がなく4 4 4 4 なっているとき4 4 4 4 4 4 4」「自我が感覚的印象のなかに埋 没してしまっているとき」などの状態がこれにあ たる19)〔pp.41 42〕(強調は原著者).快や苦痛を範 例とする触発において主体は意志的な努力から切 り離され,「私のうちで私なしに」なされる感覚と 1 つになる.主客の区別が失われる仕方で内的・ 外的に触発されることは自我ではなく「生命機能」 に帰されている.  我々は Janet と Biran の議論から二種の「感覚」, すなわち単なる「見る」をその一例とするような 「私」なき感覚主体の動物的能動性による「感覚」 と,「私のうちで私なしに」なされる非能動的な 「触発」としての「感覚」を取り出した.人間的な 「知覚」にしか能動性を認めない Biran は動物的能 動性を否定するであろうが,暗示の成立を捉える にはこの二種の「感覚」をおさえておく必要があ ると思われる.以上の議論をもとに,改めて暗示 について考察していく. Ⅳ.暗   示  はじめに暗示の圧制に言及したが,以下では暗 示の様態ならびに被暗示者の自己性という暗示の 2 つの側面に眼差しを向けることで,いかにして 暗示が直達的な影響力を行使するのかという問い と取り組む.その中で,Mesmer―Puységur― Freud という力動精神医学の系譜において一貫し て個別主体の意志の力動関係に還元されてきた暗 示について別の見方が可能ではないかどうか模索 する.予め確認しておくと,ここでは精神分析と は異なる立場から暗示を検討するのであり,無意 識の力動を扱うことはしない.我々の関心は Freud の暗示解釈の是非を問うことにはなく,上 記した力動精神医学とは別のアプローチの可能性 を探ることにある.  1.暗示の様態  冒頭で引用した暗示の圧制への反発に言及した すぐ後に Freud は,次のエピソードを持ち出す: 「言いなり4 4 4 4になろうとしない一人の病人が《あなた は暗示に抵抗4 4しているのですよ》」と大声で叱りつ けられた時,私は,これは明らかに不当な行為4 4 4 4 4で あり暴行4 4だ,と独りごちたものだ.もし暗示に よってその男を屈4服4させようと試みられているの なら,その男は,暗示に反抗4 4する権利を確かに もっているのだ,と」10)〔154 頁〕(傍点による強調 は引用者)*5.注意すべきなのはこの引用部が暗 示の成立していない状況を描いているということ である.能動的な「抵抗」にせよ受動的な「屈服」 にせよ主体の意志なくしてはあり得ないが,暗示 の圧制はむしろそうした主体の意志や主体性を前 提とした能動/受動の図式の彼方に暗示が位置し ているところに存している.  エピソード②において心因性発作の持続が暗示 *5  ちなみに引用部の原文は以下の通りであり,傍点によって強調した訳語の一部は意訳であるものの,原典の文意を適

切に反映している:“Wenn ein Kranker, der sich nicht gefügig zeigte, angeschrieen wurde:>>Was tun Sie denn? <<so sagte ich mir, das sei offenbares Unrecht und Gewalttat. Der Mann habe zu Gegensuggestionen gewiβ ein Recht, wenn man ihn mit Suggestionen zu unterwerfen versuchte.”10)〔p.84〕

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によって短縮化されていたが,どのようにして目 が覚めて体が動くようになったのかという問いに 患者本人は「自然に」そうなる,としか答えられ ず,そこには反抗も屈服も関与していない.エピ ソード③で筆者は勧誘の拒絶を予め意図し,抵抗 していたにもかかわらず,なぜか勧誘に唯々諾々 と従っていた.自分自身を驚かせたこの不可解な 行為を現在進行形で行う事の最中において屈服感 は微塵もなく,自分がミズカラしたことは確かで ありながら,そこには能動的にしたという実感が 奇妙にも欠落しており,なぜかオノズカラ事がそ うなるようにして自分が動いたとしかいいようが ない.つまり,あたかも熟した果実が自然に落ち るようにして暗示はオノズカラ成立する.それに 対する反抗,当惑や服従など何らかの主体的な反 応を相手が惹き起こす以前にすでに相手を「言い なり」にしてしまうこと以上に「不当な行為」は ないだろう.暗示の圧制はこうした類のものであ り,通常の圧制とは異なる.  整理してみると,自ずから然る自然としての暗 示が生起するのは,被暗示者が暗示者から受け取 る外来的な指示と被暗示者自身の内発的な行為と の間の懸隔が―暗示者の「暴行」も被暗示者の 「抵抗」や「屈服」もなしに―架橋されるそのと きである.この架橋の後に初めて暗示の実行へと 至るのであり,被暗示者は能動的に,といっても 「私」なき感覚主体の動物的能動性をもって暗示を 遂行し,事が済んでしまった後で被暗示者は,今 度は知覚主体の「私」として,自らのなした行為 にときに気付いて驚愕する.他者由来の外来的な 指示から自己由来の内発的な行為へという転換が オノズカラ成立する場面において主体はいかなる 在り方をしているのであろうか.別のところで 我々は,能動的な主格的自己でも受動的な対格的 自己でもなく,自ずから然る中動的な過程がそこ で産出される場所としての与格的自己を論じたこ とがある32)  比較言語学的に池上嘉彦18)は,自然の自発性を 重んじる日本語の「なる」の論理を主体の能動性 を強調する西欧語,とりわけ英語の「する」の論 理と対比させ,日本語の「なる」の論理が主体の 意図を排除し,この排除が「〈動作主〉の〈場所〉 化」という特異な文法的特徴を伴うことを指摘し ていた.たとえば「天皇陛下ニオカセラレマシテ ハオ召シアガリニナリマシタ」という尊敬文につ いて「〈動作主〉であるはずの主体が,場所化さ れ,その場所であたかも(主体なき)行為が生じ ているかのような形になっている」という.この ことは自ずから然る自発を意味する動詞「みえ る」・「きこえる」,助動詞「れる」・「られる」と いった中動的な表現でも同様であり,「私には… にみえる」という文でいえば,「私には」という与 格としての自己が「みえる」という自然の動きの 現出する場所として機能している.与格的自己に 出来する中動的過程の例として,自己と他者が双 方の意図や予期の彼方でオノズカラ出会う偶然が 挙げられるが,自己ないし他者が単独でこの邂逅 の成立する場所を形成することはできない.それ ゆえ与格的自己は一方で個別主体の在り方であり ながら,他方では個別主体を超えた間主体的な在 り方でもあるという両義性を含む.また間主体的 な中動的過程が個別主体の能動的行為を支えてい ることが統合失調症における偶然の排除29)におい て示されている.偶然が失われると,たとえば戸 外で偶々出会っただけの犬が患者の行為を先取り して意図的に待ち構えていた38)という異様な相貌 を帯びて立ち現れ,個別主体としての患者の能動 性は自らの行為を先読みされる形で深く侵害され る33).また何の原因もなく自然に変転していく 「基底」38)も中動的過程の 1 つであるが,Schneider はそこに非精神病的な了解不能性を見出してい た34)  再び暗示へと眼差しを戻すと,Biran は暗示が 動物的生に属する現象であることを示唆してい た19)が,たしかに暗示では「私のうちで私なしに」 なされる非能動的な「触発」が問題になっており, 生命の原理に従って自然に作動する「触発」はす ぐれて中動的な事象である.力関係の圧倒的な不 均衡のゆえに抵抗困難なのではなく,そもそも意 志が機能しない水準にあるがゆえに抵抗不可能で

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あり,自ずから然るようにして生起することは暗 示が与格的自己という場所で産出される中動的な 出来事の一種であることを示している.暗示者も 被暗示者もこの中動的過程に与っている限りで与 格的自己という在り方をしている.この見解は能 動的に治療をする暗示者には妥当しない,という 異議が容易に予測されるが,暗示の基盤としての 中動的過程が確保されなければ,暗示者の能動的 な働きかけは,先述した症例 Justine の場合のよ うに機能しない.これより Janet を自己批判へと 向かわせた暗示の「異他的な作用」の出自は暗示 者という個別主体ではなく,暗示者と被暗示者が 出会うことで開かれる間主体的な場にあるといわ ねばならない.異他的な作用はその間主体性のゆ えに被暗示者だけが被るものではなく,暗示者も またそれを免れていない.  中動的過程へと治療者が患者とともにオノズカ ラ導かれることは,暗示治療に限らず精神療法一 般の要であるラポールの成立様式でもある.暗示 からラポールへの敷衍が必ずしも不当でないこと は,この術語の起源へと遡ると Mesmer に行きあ たるという史的事実によって支持されよう.彼は 似非物理学的に磁気術師が自身の磁気流体を患者 に移す「径路」の意味で「ラポール」を用いたが, これは互いに触れ合った人々に電流が伝わる通電 現象を「ラポールがついた」と表現した当時の物 理学から借用したものらしい6)〔上 179 頁〕.我々 の観点からするとラポールとは,中動的過程とし ての治療作用をそこに出来させるのに不可欠な場 所として,治療者と患者が出会う中で自然に形成 される与格的自己のことを指す.この間主体的な 場所もそこに生起する中動的過程も決して治療者 ないし患者の作為によってもたらされず,反対に そのような計らいは治療作用が自然に働くのを阻 害する.ラポールの有無ないし深浅が治療者の意 図的な努力の手前ですでに決してしまっているこ とは,我々の平均的な日常臨床を顧みれば否定し 難い事実であろう.系統的な理論と治療者育成の ための制度化された訓練を兼ね備えた正統的な精 神療法にも間主体的な中動性に重きを置いている ものがあり,その例としてさしあたり森田療法 と,やや意外かもしれないが一部の精神分析*6 挙げておく.  1)暗示の文法  暗示と中動態の関連について興味深いのは暗示 の文法である.暗示の文法について Ellenberger は,ナンシー学派もサルペトリエール学派も主に 「命令法」を用いたという6)〔上 178 頁〕.たしかに 暗示の実践について Janet によってそのような命 令法の暗示が記載されているが,その一方で先に 引用した斬首の暗示の場合も含めて別種の文法を 見出すのは困難ではない:「あなたの首は切断さ れてしまったのです」21) 「ほら腕が動いています よ」19)〔p.146〕 「私が手を叩いたら,あなたは起き 上がって部屋の中を一周します」19)〔pp.150 151〕. これらの非命令的な暗示はいずれも事実描写や予 言の形をとっており,その言明は事が今そうなっ ている,あるいは未来においてそうなるという形 式を有する.命令が主格的自己による対格的他者 への能動的な働きかけを表わすのに対して,事実 描写や予言ではそのような主体の意図的な作為と は無縁な事実の自然な成り行きが問題となってい る.この違いは文法的には命令文が「∼せよ」と いう能動的な「する」に属する動詞をとる一方で, 事実描写や予言は「(今)∼になっている」「(これ から)∼になるだろう」という中動的な「なる」 *6  精神分析家の藤山直樹によると,精神分析は「[引用者註:分析家と患者という]二人の関与者の手の届かないところ で自律的に展開する」16)のであり,こうした自律的な展開である「間主体的体験」は「『浮かび上がってくる』『考えが ひらめいた』『ふと思いついた』という形で…私たちに去来する」14).そのように「治療者のこころがひとりでに動く こと」は「意図的な『共感』によって困難になる」15).ここで論じられているのは間主体的な中動的過程としての治療 作用であり,この過程に対して分析家は「私たちに」という与格的在り方をしている.これに関連して藤山は「私で はなく,『場』そのものが何かの仕事をしている感覚」17)にも言及し,治療を担うのが主体ではなく場所であるとして いる.

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という動詞をとることに表れている.実際,たと えばエピソード②で患者に与える言葉として「あ と半時間もすればまた歩けるようになります」と いう予測と,「あと半時間したら歩きなさい」とい う命令では全くニュアンスが違ってくる.後者で は治療者と患者の双方が主格的自己として支配と 服従を両極とした潜在的な力関係に置かれるのに 対して,前者にはそのような緊張関係はみられな い.主格的自己の作為が与格的自己において産出 される自ずから然る自然を阻害することは経験的 に知られている32)ところであり,今日の暗示関連 の文献37)において中動態をとる暗示の言明が主流 のようであるのはゆえなきことではない.  2.暗示の自己性  暗示の直達的な影響力と並んで暗示を不可解な ものにしているのは,暗示者が被暗示者に植え込 み,被暗示者が行う―ときに喜劇的でさえあ る ―非現実的な錯覚や意外な行為である. Janet による斬首の暗示のような極端な例でなく とも,我々のエピソード①や③の暗示でも被暗示 者はその当該の行為の突拍子のなさ,脈絡のなさ に戸惑う他なかったのである.このように暗示は 被暗示者のそれまでの在り方に主観的にも客観的 にもそぐわないことをもたらす.  我々のたえず更新され変転していくこの今の生 はつねに展開途上の生成であることから,そのつ どのこの今とそれ以前の過去は地続きであり, Bergson2,3)がその「持続」という概念で示唆して いたように,この今には過去が多少とも凝縮され て現れている.これに関連して個々人の人格が千 差万別である主な理由は,各人が生きてきた歴史 がそれぞれに異なるからであり,この意味で人格 は当人の縦断的な歴史の横断的な表現である.な おここでいう歴史は,完了済みの客観的に確認可 能な諸々の出来事が寄せ集められた総体のような ものではない.Bergson3)の表現を借りれば「過去 の現在への延長」〔37 頁〕として,現在へと流れ 込みつつ同時にその現在によって今まさに自らを 豊かにしつつある 1 つの全体としての過去を我々 は歴史とみなしている.  人格に具現されている歴史の厚みが「今ここ」 における私の行為に対して他の誰のものでもない 「私らしさ」を賦与することは自己の自己性を支え る主要因の 1 つに数えられる.もし誰もが他に 1 つとして同じもののない自らに固有の歴史全体を 常に余すところなく体現しているならば,暗示は 存在しなかったであろう.しかし健常者であって も暗示によって一時的に,その人らしい在り方か ら多少とも逸脱し得る.他者からの直接的な触発 を被ることで,自身の歴史による自己性の規定を 多少とも免れ得る可能性が良い意味でも悪い意味 でも我々には与えられているように思われる.換 言すれば人はいつも十全に自己自身であるわけで はなく,稀ならず非自己的な自己になり得る.こ こに暗示の成立にとって不可欠な基本条件の 1 つ がある.たしかに,この今における他者との交わ りが我々の血となり肉となるのであり,他者から の働きかけこそが我々の歴史の内実を主になして いる.しかしそうした他者との交流においてたい ていの場合,自らのそれまでの歴史が自己の行為 にその自己に特有の「らしさ」を与えており,そ れゆえに当人にとってもまた周囲にとっても違和 感を生じさせることがない.このように歴史に担 われているはずの自己の自己性が暗示においては 被暗示者自身を驚愕ないし困惑させる程にまで低 下する.  ただし暗示ではいわば自己性の程度4 4が問題にな るのであり,被暗示者の自己性はその度合いが下 がるという意味で非自己化はしても,自己性の存 立そのものが危機に瀕することはない.暗示に 従った行為は,感覚主体としての被暗示者が動物 的能動性をもって自ら遂行するのであり,統合失 調症の作為体験における自己の主体性の他者によ る圧倒的な侵犯といった事態は生じていない*7 自己の歴史性の度合いが低下する暗示と,自己の 能動性の存立それ自体が動揺する作為体験とでは 同じ自己性の問題でもその水準が異なる.いかな る行為も間主体的な中動的過程から個別主体的な 能動性が立ち上がるようにして結実するのであ

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り,暗示もこの基本的な枠組みに支えられている が,後述するように統合失調症では間主体的な中 動的過程という行為の発生機においてつまずきが 生じる.  暗示についてのこの辺りの議論は,Bergson が Janet と同じく 1889 年にソルボンヌ大学に提出し た学位論文における自由と暗示に関する以下の考 察*8に少なからず負う:「自由は複数の度合いを 容れる.―なぜなら,すべての意識状態が,ちょ うど雨滴が池の水と混じり合うように,その同類 と混じり合って一体化するなどということはおよ そありえないからだ.等質的空間を知覚する限 り,自我はある表面を呈示するのだが,この表面 上に,それから独立した数々の肥大部が形成され 漂動することもありうるだろう.だから,催眠状 態において受け取った暗示が意識的諸事象の塊と 一体化することはなく…」2)〔185 186 頁〕.我々の 文脈に置き直すと,自己の歴史をよく反映してい る行為ほど自己性の度合いが高く,池の水によく 溶け込む.他方で暗示は自己性の度合いが低い事 象として―例外的な場合*9を除いて―池の水 には混じらず,水面に浮いていることになる.強 調されるべきなのは,Bergson2)が自己のモデル とした池は非自己性を帯びた暗示も浮遊物として 水面に担えることである. Ⅴ.暗示の精神病理  暗示とヒステリーの緊密な関係は E. Kraepe-lin27)の時代からいわれてきた.先に指摘したよう に,Janet19)は彼が暗示を検討する中で見出した 「意識野の狭窄」をそのままヒステリーの本態とみ なしていた.我々は Janet の暗示論を端緒としつ つも彼とは別の視角から暗示を検討し,主体性の 拠り所である能動性をときに裏切るようにしてオ ノズカラ働く中動的過程という基盤の上に暗示が 成立すること,また自己がその歴史に十分に担わ れず非自己的になり得るという我々に与えられて いる可能性が暗示において極端な形で現実化する ことをみてきた.以下ではこの非自己化と中動的 過程という二契機からヒステリーの精神病理に考 察をくわえる.  1.非自己化  ヒステリー者の不自然でわざとらしい,虚偽的 ないし自己顕示的な言動は以前より「演技的」と 記述されてきた.この術語がそこから由来する 「演技」という言葉は辞書的には,台本に従って役 者が観客相手に行う表現行為を意味する.ヒステ リー者の言動を「演技的」と表現するとき,そこ には「演技」の原義における台本に相当するもの は存在しない.にもかかわらず「演技的」という 術語が今日まで多用されてきた理由として,ヒス テリー者の振る舞いが周囲への訴えかけを多分に 含み不自然である様子が,あくまで芝居であって 本当の事実ではない演技に通じているから,とい う類の見解がまず思い浮かぶ.しかしある行為が *7  「自己」を軸とする議論の中で「主体」への言及があり,両概念の使用に恣意性をみられるかもしれない.この小論で は主体の主体たるゆえんの 1 つとして能動性をみており,能動・受動・中動という様態が問題になる場合には「主体」 を用いている.これに対し,自己を他者から分かつ自己性を論じる際は自己も他者も主体であることから「自己」を 用いざるを得ない.しかし主体でない自己は想定し難く,能動性は歴史性とともに自己の自己性にとって不可欠な構 成要件に属する.「主体」と「自己」の入り組んだ関係から両者を截然と分かつことは文脈によっては困難となる. *8  「Bergson と暗示」という組み合わせは意外かもしれない.しかし Bergson は Janet と同じ 1859 年生れで,共通の文

化的雰囲気に包まれていた.またリセで教鞭をとっていた頃,Bergson 自身が催眠実験をしていたことも知られてい る13)

*9  この例外とは,「仮に自我の全体が暗示をみずからに同化するなら,暗示は信念と化したであろう」2)〔186 頁〕と Berg-son が述べている場合である.つまり暗示によって人が自身の歴史をより全体的に反映させた新たな自己を見出すよ うな事態であり,たとえば宗教的回心がその一例となるかもしれない.なお引用文中の「信念」は原文では“persua-sion”2)〔p.125〕であり,精神療法の技法をめぐって Bernheim の「暗示」と P. Dubois の「説得(persuasion)」の対 立5)が当時あったことを考慮するならば「説得」とも訳し得る.

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「演技的」なのではなく実際に「演技」ならば,そ れは臨床的には詐病であって,もはやヒステリー とはいえない.ヒステリーという病態にとって本 質的である「演技」と「演技的」の隔たりを,そ の高い被暗示性を通して検討してみる*10  被暗示者の暗示に基づく言動は,たとえば我々 のエピソード①におけるように,しばしば「演技 的」ではあっても決して「演技」ではない.もし 「演技」なのであれば,それは暗示とは別物であ る.「演技」である行為は,「本当であるようで本 当ではない」という条件を満たしていなければな らない.この条件を満たしていない暗示がそれで も「演技的」であるのは,「演技」という言葉が含 んでいる別のある意味を暗示という現象のうちに 我々が見出すからである.役者が台本に即して振 る舞うという「演技」の原義には―台本が脚本 家という役者とはまた別の人物によって用意され たものであることから―役者が内発的に自らの 歴史を反映させながら自然に行為しているのでは ないという意味合いも込められており,「演技」の この含意は暗示にもあてはまる.暗示の場合,暗 示者の与える言明がいわば台本にあたり,被暗示 者はこの台本の通りに振る舞うわけであり,その 行動において歴史による自己性の規定は上述した ように多少とも緩められているからである.ヒス テリー者の暗示との高い親和性が示しているの は,肯定的にいえば自己の歴史性による拘束を相 対的に免れたという意味で可塑的な,否定的にい えば自己の歴史性に十分に支えられていないとい う意味で自分らしくない非人格的な領域がヒステ リー者では肥大化しており,自己自身の本来の在 り様がみえにくくなっているということである. この歴史性に関わるヒステリー特有の病理を「演 技的」という術語はよくいいあてている.  ヒステリー者の「演技的」なところはその際立っ た模倣傾向と関連していようし,解離性障碍の諸 現象は我々に与えられている非自己化の可能性を 現実化するための様々な手段のさながら見本市で あるようにもみえる.歴史性の問題からヒステ リー者の非自己化をみる捉え方は Rümke, H. C.36) がヒステリー者の本質的な特徴として取り出した 「非真正性(Unechtheit)」によっても支持される. Rümke はこの非真正性をとりわけヒステリー者 における「表出の可能性」や「表出手段」の貧困 化のうちに認めていた:「ヒステリー者を長くみ ていると,『彼らがただ二,三の表情しかもたな い』ことがわかる」「表出にニュアンスをつける能 力の乏しさから,ヒステリー者が名優であるとい う見解に私は反対する」36).若い頃には後弓反張 を伴う偽発作がみられ,近年も失声や失立などの 古典的な転換症状を呈するエピソード②の患者は ある診察で自分の長兄の訃報を聞いたと涙ながら に話し出した.彼女の長兄は父親の死後,患者の 世話をやいてくれていた人であったが,数年前に 脳卒中を患った後は認知症となり施設に入所して いた.そのときの彼女の泣き様はいかにも「泣く」 という行動について人が思い描くステレオタイプ な表出様式をさらに戯画化した類のもので,喜劇 において役者がわざとらしく泣く様子そのままで あり,近親者の死という重い現実に直面した者が そのような非人格的な泣き方をするということが 我々を唖然とさせた.  再び Bergson によるならば,感情は「生き,展 開し,ひいては絶えず変化する」2)〔148 頁〕現象で あるがゆえに,言語という「不動で共通で,ひい ては非人格的な impersonnel」2)〔147 頁〕社会的手 段によってその内実をもっとも奪われてしまうも のである.ここでの文脈にそっていい直すと,人 のそのつどの感情の動きには,それに直接・間接 的に関連している当人の唯一無比の歴史が凝縮さ *10  付言しておくと我々が用いる「演技」という言葉は,Kraus, A.28)がその役割理論を展開する中で,父親である,医者 であるといった社会的役割を主体が「演じる」というときの「演技」とは異なる.こうした哲学的な語法はたしかに 発見的であるが,ヒステリー臨床で問われる「演技」と「演技的」の区別に関しては,この問題設定それ自体を困難 にする.この小論ではごく日常的な語法に従っており,たとえば医者である人が日常会話で「私は医者を演じている」 などとは言わない.

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