はじめに 一公告された規則案における﹁根本道場﹂ 二立正佼成会教規における﹁根本道場﹂ ⑪教規の意義及び制定の背景 ②﹁根本道場﹂とは何か 1﹁根本道場﹂は本山である 2﹁根本道場﹂は信仰活動の主体であり、柱︵中心︶である 3﹁根本道場﹂は支部教会を誕生させ、育成する根源である 4﹁根本道場﹂は布教の淵源である 5﹁根本道場﹂のモデル︵手本︶機能 ③﹁宗本一体﹂から教団理事会の権限拡充へ
山本佳央
173立正佼成会会規・規則等に見られる﹁根本道場﹂の意義とその変遷
立正佼成会の教規、法人規則には﹁根本道場﹂なる語が使われている。この語が使われたのは、一九五一︵昭和 二十六︶年九月に公告された教団の規則案が最初で、その第二五条の二項には﹁本部教会は立正佼成会発祥の根本 道場であるから、支部教会は常にこれを推尚擁護しなければならない。﹂となっている。この規則案と連動している と思われるが、一九五二︵昭和二十七︶年一月に制定された立正佼成会教規にも﹁根本道場﹂なる語が使用されて はじめに V司 る 0 三立正佼成会会規になくなった﹁根本道場﹂ ⑩東京教会に続いて十数教会が発会する ②包括関係の﹁展開方式﹂から﹁積上げ方式﹂への移行
③教団のその後の変化
四新しい会規での﹁根本道場﹂ 174 しかしその後、一九六○︵昭和三十五︶年九月二十二日施行の会規及び規則には、この﹁根本道場﹂という語は 見えない。すなわち会規では、第十九条﹁立正佼成会本部は、立正佼成会信仰の中心であり、教化活動の発する本 源である﹂という表現になっている。ここでは﹁根本道場﹂という語を意識的に使用してはいないが、﹁根本道場﹂ に持たせていたのと同様の機能を持たせようとしたのではないかと考えられる。しかし、この場合その﹁根本道場﹂第二四条 第二五条 一九五一︵昭和二十六︶年九月一日付けで、機関誌﹃佼成﹄︵昭和二十六年九月号︶に設立公告された立正佼成会 規則案に初めて﹁根本道場﹂が登場する。次にその条文を掲げる。 ﹁根本道場﹂という語が使用されているか否かのほかに、その機能を持つ主体とされているものが﹁本部教会﹂、 ﹁本部﹂、﹁大聖堂﹂と変化していることがわかる。本源とされ、中心とされているものが変化しているのは、一体、 どういうことなのだろうか。何故このような事態になって来たのか、この問題を考えていくことにしたい。なお、 教規、会規、規則の変遷を歴史的に追っていくことを根幹として、適時に当時の立正佼成会における﹁根本道場﹂ の意義の移り変わりを見て行くことにしたい。 本道場﹂となっている。 と同じ様な機能を持つのは、﹁本部教会﹂ではなく﹁本部﹂である. そして、今年、一九六○︵昭和三十五︶年の制定から数えれば、実に三十数年振りに会規が全面的に改正される ことになり、平成九年六月十三日の佼成新聞紙上で、立正佼成会会規の改正案が発表された.その第十二条には ﹁大聖堂は本会の信仰の中心であり、教化活動の発する本源及び正法興隆の根本道場である﹂とあり、大聖堂が﹁根 立正佼成会会規・規則等に見られる| 根本道場」の意義とその変遷 公告された規則案における﹁根本道場﹂ この法人が包括する教会は本部教会及び支部教会とする。 東京都杉並区和田本町七○九番地の教会を本部教会としその他の教会を地方支部教会とする。 2本部教会は立正佼成会発祥の根本道場であるから支部教会は常にこれを推尚擁護しなければなら
第三章教会
175あった。 第二五条この法人が包括する教会は本部教会及び支部教会とする。 第二六条東京都杉並区和田本町二七番地の教会を本部教会とし、その他の教会を支部教会とする。 2本部教会は、立正佼成会発祥の根本道場であるから支部教会は常にこれを推戴擁護し、別に定め る制約事項を遵守しなければならない。 この二つの規則案の違いとして、本部教会の事務所の所在地を挙げることができる。当時の立正佼成会の主な施 設は、和田本町七○九番地に建てられた最初の本部道場︵二十五坪であったとされる︲筆者注。以下、次の段落まで のカッコ内は同じ︶と、昭和二十三年十二月二十八日に入仏式を終えた修養道場︵現在の発祥の地修養道場︶で i2 この後、多少の変更があったとみられ、一九五一一︵昭和二十七︶年二月一日付けで規則案が再度、公告された。 な い C
第三章教会
176 この頃の立正佼成会では、昭和二十五年五月に第二修養道場︵後の研修会館、現在の杉並教会、中野教会の道場︶ の建設計画が決定され、昭和二十六年七月に竣工した.七月二十七日に第二修養道場の入仏式が挙行されたが、そ れに先立って、七月十七日には﹁和田本町二七番地の境内では、本部会堂︵最初の二十五坪の本部道場︶から本部 修養道場︵発祥の地修養道場︶へ釈迦牟尼仏・虚空蔵菩薩・八幡大菩薩、以上三体の守護神厨子を遷座する儀式 ③ が執行され、これにより本部修養道場は本部となるとともに、第一一修養道場は会員修行のセンターとなった。﹂ さらに、立正佼成会の会員数が初めて十万の大台に乗って、十三万三千と記録されたのが昭和二十七年末である ことから想像できるように、立正佼成会の門をくぐる会員の数は日々増加の一途をたどり、本部会堂と修養道場だ七○九番地から二十七番地になったのだから大きく移転したように思えるが、当時地番の表示が変更になったた めで、実際は同じ境内の修養道場に本部を移したわけである。もし﹁発祥の根本道場﹂を字句だけで判断すると、 霊園に移築された礼拝堂が、立正佼成会の最初の道場であるからそれにあたる。そのような使用法の一例として﹁霊 園礼拝堂は昭和十七年に建てられた旧本部建物で、実に立正交成会発祥の根本道場である。この旧本部建物が霊園 4 礼拝堂として永く残される事はまことに意義深い。﹂という﹃佼成﹄の記事が挙げられる。これは、恐らく﹁立正佼 成会発祥の根本道場であった施設である﹂という意味であると思われ、このようなことばの用例は、後の機関誌紙 にも散見できるのだが、本論で扱う﹁根本道場﹂は、立正佼成会の会規・規則類で使用されているものに限ること とする。 て移築されている。 であるが、本部があった会堂は記念の建物とするため、その年の十月に開園されたばかりの佼成霊園の礼拝堂とし の二つが提案された。討議の結果、本部会堂を取り壊して二階建て百二十坪の事務所を建てることに決定したわけ 所、二十五坪の本部会堂を改造して事務所にする案と、本部会堂を取り壊して、その跡に大きな事務所を建てる案 移転させたが、いろいろな部門が分散されている状態なので一ヶ所に集中させる必要が出て来た。そこで検討した った。そのような理由から第二修養道場の建設が開始されたわけである。ところが、竣工して事務所も一部そこに けでは到底収容が困難な状態となった.雨天の命日などは屋外にあふれて傘をさして説法を聞いている人々も多か 次に教規で﹁根本道場﹂がどのように規定されているかを見るのだが、よく話題になることがあるので、この機
立正佼成会教規における﹁根本道場﹂
177 立 正 佼 成 会 会 規 ・ 規 則 等 に 見 ら れ る 「 根 本 道 場 」 の 意 義 と そ の 変 遷会に教規の意義及び制定の背景について見ておくことにする。 ⑩教規の意義及び制定の背景について 案として公告された規則は、宗教団体が宗教法人となるために、宗教法人法に定められた一定の手続きを経て所 轄庁の認証を受ける法人規則であって、一般的によく言われる﹁俗的活動の部分﹂を規制する規則である。ところ が宗教法人法は、憲法第二十条で保障する﹁信教の自由﹂の精神に則って、宗教団体の自主性を尊重して、宗教団 体の目的である宗教活動を、法律的規制の対象とはしないことを明記している。宗教団体が宗教上の活動、いわゆ る﹁聖的活動の部分﹂を一定の規範を定めて、計画的、組織的に行なうことは全く宗教団体の自治に委ねられてい るわけである。この自治規範を、それぞれの宗教団体で宗憲・教規等と呼び、いわば自治規範の中での憲法的性格 のものとして整備して来ている。立正佼成会ではこれを当初、﹁教規﹂と呼び、後に﹁会規﹂と名称を改めている。 この教規が制定されたのは昭和二十七年一月二十八日だが、その年の立正佼成会では﹁事務局に机をもつ常勤的 な人々に非常勤的な常時奉仕者を加えれば、育子園・病院関係者を除いても、百名近くに達した。この段階で労働 ⑤ 基準法の適用を受けることを労働基準監督署から一示唆された.﹂という。ここから常勤的奉仕者を職員として採用す ると共に、就業規則、事務局組織及び事務分掌などが決定され事務局が整備されていった。立正佼成会においては、 布教の教勢はますます盛んで、病院、育子園の社会事業にまで活動の枠が広げられ、独自の月刊機関誌をも発行す るようになっている。 178 一方、社会の宗教団体に対する見方に眼を転じてみれば、宗教団体法では、新しい宗教は﹁宗教団体﹂としての 地位を認められず、世間でも﹁いかがわしいもの﹂といった眼で見られることが多かったと言える。続いて宗教法 人令になると﹁信教の自由﹂の精神を尊重して、宗教法人の設立は容易になったが、宗教団体としての実質がない
昭和二十七年のいわゆる﹁蔵敷事件﹂をキッカヶに、立正佼成会に対する誤解に基づく報道や批判が、NHKな どの一部ジャーナリズムによって繰り広げられた。そのこととこのような社会の宗教団体に対する見方や法の整備 などを総合して考えると、自治規範の憲法的立場を与えられている教規を初めて制定し、規則等を整備することを 含めて、想像ではあるが、文部省係官の非公式な示唆もあったのではないかと考えられる. 7 I 望されている。 のに宗教法人となる等の弊害が多数生じており、新しい宗教に対する世間の厳しい眼はまだ変化していない。 さらに宗教法人法になると、宗教法人法の制定についての国会での﹁宗教法人法案審議における説明ならびに質 疑応答﹂には、この法案があたかも淫祁邪教を制圧するために制定されるかのような新聞記事もあり、淫祁邪教と 新興宗教とがしばしば混同される恐れがあったような発一一一一口がある。その発言に対し、篠原政府委員は宗教団体であ るならば新興宗教も平等に、公平に地位を確保していく法律であると説明しつつ﹁われわれも淫祁邪教はただちに 新興宗教団である、こういうふうな解釈はとっておらないのであります。なおお説のごとく、新興宗教団の中にも、 非常に信仰的に、あるいは宗教的にもりっぱな新興宗教といわれる教団もあることを、われわれは了承しておる次 ⑥ 第でございます。﹂と答えている。 また、その篠原政府委員︵当時の文部省宗務課課長︶の著作では、宗教法人令では宗教団体の自由を保全するこ とが意図せられ準則主義がとられていたが、宗教団体側から届け出された規則をみると、自己の権利義務の根本法 である規則が全く不分明で、業務の運営、財産の管理についての規定がないことが、多くの宗教法人の規則の例で あった、と指摘している。これでは宗教団体の目的達成をはじめ、取り引きの安全、社会公共の福祉の面からも健 全性を欠くわけで、これを宗教法人法制定の理由の一つに挙げており、宗教団体のこの点の理解、自覚、自制が要 179 立正佼成会会規・規則等に見られる「根本道場」の意義とその変遷
森岡清美博士は、宗教団体を次のように分類されている。 ﹁宗教団体は、まず教祖・布教師・祈祷者などを中心として局地的に形成される。これが単位団体である。ところ が布教が成功すると信徒の地域的な範囲が広がり、それにしたがって最寄り最寄りに単位団体がつくられる。ここ に複数の単位団体を包括するものとして上位団体が生じてくるのである。﹂ と単位団体と上位団体を明らかにした後、 ﹁単位団体の間に本支、本末の格差をもった系統づけがあって、最高究極の本源が単位団体結集の焦点となり、卜 8 位団体の事務所も多くそこに併置されているのが、仏教系の宗派である.﹂ としている.ここにある﹁最高究極の本源﹂﹁単位団体結集の焦点﹂が本山であり﹁根本道場﹂になると考えられる が、具体的にはどのような意義あるいは機能が考えられるのだろうか.ここで教規の条文と法人規則及び当時の状 況等から、立正佼成会における﹁根本道場﹂の具体的な意義付けをしておきたい。なお、教規では﹁根本道場﹂は (2) 第八条本教団発祥の根本︾ 第九条立正佼成会本部教ハ ー﹁根本道場﹂は本山である 伝統的宗派では、本山を﹁根本道場﹂と呼んでいる例が際立って多い。そのいくつかを挙げておくことにする。 9 ﹁総本山は宗徒及び檀信徒が信奉帰依する根本道場とする﹂︵天台宗宗憲九条一一項︶ 一根本道場﹂とは何か 第三章本部及び支部教会 本教団発祥の根本道場たる立正佼成会本部教会を本部として信仰の中心とする。 立正佼成会本部教会はこの教団の本部であって支部教会及びすべての信者によって永遠護持される。 180 況等から、立正佼成会にお油 次のように規定されている。
ここで注意しなければならないことは、﹁根本道場﹂である本山は、かつては単位団体に分類出来たのだが、例え ば一九八七︵昭和六十二︶年十二月、宗教法人﹁本願寺﹂を宗教法人﹁真宗大谷派﹂に吸収合併する認証を受け登 記したので、合併により包括団体が本山であり、﹁根本道場﹂である︵﹁法体系も本山本願寺をして包括法人の中心 0 的地位に位置づけしようとするものである﹂とする︶例も多くなっている。 立正佼成会教規では本部教会を﹁根本道場﹂と規定しているが、本部教会と茨城支部教会とを本末関係にして、 その上に包括団体である﹁教団﹂を置く体制を取っている。 2﹁根本道場﹂は信仰活動の主体であり、柱︵中心︶である 教団が出来る過程に﹁展開方式﹂と﹁積上げ方式﹂の二種がある。 ﹁[二種の上位団体]わが国の教宗派に二つの種類が識別される。第一の好例はキリスト教新教系の教派である。 事実上あるいは擬制として、まず複数の同じ系統の単位団体があり、それらを結集するかたちで上位団体が形成さ れるという下からの積上げ方式である。一八七七年に長老派の日本基督一致教会が結成されたときも一八六六年に 派 院 、 ﹁総本山智積院は、この宗派発祥の法源、一宗信仰の根本道場であるから、末寺は、常にこれを推尊護持しなけ ればならない﹂︵真一一一一口宗智山派規則三六条二項︶ ﹁本山は、一宗弘教の根本道場であり、すべての寺院及び教会の本寺である。宗門に包括されるすべての個人及 び団体は、これを永世護持しなければならない﹂︵浄土真宗本願寺派宗法五条︶ ﹁大本山妙心寺は、一派崇敬の根本道場であって本派寺院及び教会の本寺である。本派に包括されるすべての寺 院、教会僧侶及び檀信徒又はこれに属する団体はこの大本山を永世護持しなければならない﹂︵臨済宗妙心寺 3 宗綱十五条︶ 181 立 正 佼 成 会 会 規 ・ 規 則 等 に 見 ら れ る 「 根 本 道 場 」 の 意 義 と そ の 変 遷
うである。 これに対して、単位団体の間に本支、本末の格差をもった系統づけがあって、最高究極の本源が単位団体結集の 焦点となり、上位団体の事務所も多くそこに併置されているのが、仏教系の宗派である。そこにはまず究極の本源 つまり本山があり、そこからの布教の拡大によって末寺が形成され、本山末寺の連合体として上位団体があらわれ $ た。これは上からの展開方式といえよう。﹂ 立正佼成会は、上からの﹁展開方式﹂であったと考えることが出来るが、教団となる経緯を詳細に見ると次のよ 上位団体といってよい。 会衆派の日本組合基督教会が設立されたときも同様であった.︵略︶積上げ方式の場合、単位団体は母教会、分教会 という沿革上の関係をもっていても、互いに対等であって、その間に本部支部、本会支会のような社会的格差はな い.第二次大戦直後、国家神道の廃止にともなって結成された神社神道系の神社本庁は、伊勢神宮を本宗として奉 戴しているが、被包括の神社は本来それぞれ独立であり、神宮の分社ではないから、神社本庁もまた積上げ方式の 182 立正佼成会が初めて宗教法人となったのは、昭和二十三年八月一日︵登記は八月十一日︶であった。これは、旧 本部の建物︵現在の発祥の地修養道場︶を建設する際、土地を取得する、建築許可を申請する、等すべてのことに 法人格の必要性を痛感してのことだったと言われている。当時は宗教法人令の時代なので、規則を制定して登記を すれば設立することが出来た。従ってこの立正佼成会は、東京都知事が主務官庁となった単立宗教法人であった。 ところが昭和二十五年に茨城支部が修養道場を建設することになり、同様の事態となった。現在であれば、東京 の立正佼成会という法人格を使用すればよいことが明らかだが、当時はもう一つ宗教法人をつくらなければ不便で あろうと考え、現地で設立させることになった。
見られる「根本道場」の意義とその変遷 規 則 等 に 茨城では﹁所属する︵宗教法人令では包括といわずに所属といった︶教団﹂はどこかと訊ねられ、本部は東京の 立正佼成会だと答えると、それは東京都の単立宗教法人であり、所属する教団ではないと教えられた。そこでもう 一つ教会を設立して茨城支部教会を所属させることになり、立正佼成会という教団を設立︵昭和二十五年九月二十 八日付設立登記︶し、単立法人であった立正佼成会を本部教会に変更︵昭和二十五年十月一日付名称変更登記︶し、 さらに昭和二十五年十一月七日付で教団との被包括関係登記を行なった。そして茨城支部教会は、昭和二十五年十 月二十五日付で設立登記を行ない、同日、立正佼成会との被包括関係を登記した。 前段記事にある登記の日付と登記名は﹃佼成年鑑﹂昭和三十二年版、昭和三十三年版によった。この﹃佼成年鑑﹂ の記事について森岡博士から資料の欠落があるのではないか、という強い疑問がこの原稿の指導を受けた際に寄せ られたことを記録しておかねばならない。当時の登記簿が登記所にもないため確認することが出来ないのだが、宗 教法人令の規定からすれば教団設立の概略は次のようになると考えられる。単立教会立正佼成会を本部教会に名称 変更し、他方、茨城支部教会を設立する。この段階の法人規則には所属の教団名が記載されていない。登記簿も所 属する教団名の記載欄は白紙となる。その後、本部教会と茨城支部教会を所属教会とする教団を設立する。その上 で、二つの教会は所属する教団名を記載した規則に変更して所属の手続きを取る。そこで初めて登記簿上でも所属 する教団名が登記されることとなる。そう言われれば準則主義にしては、一連の手続きに九月二十八日から十一月 二十五日の二カ月が費やされているが、当時の感覚では早かったのか、遅かったのか、疑問が残るところである。 そして又、この資料では、﹁被包括関係﹂の登記としているが、宗教法人令には﹁包括・被包括﹂の語句はなく、 ﹁所属関係﹂である。さらに閉鎖登記簿から移記された登記簿謄本によれば、茨城支部教会の登記日付が昭和二十 五年十一月二十五日であり、誤記が指摘できるし、設立と所属関係の登記が同一の日にされるのは可能だろうか。 183 守 下 佼 成 会 会 規 .
うことである。 要所の一つであって、新しい資料の出現が待たれるところである。 あり、形式的にも同日にするには無理があると思えるからである.いずれにしても立正佼成会の歴史研究における なぜなら設立と所属関係設定の間に規則の変更がなければならないのだが、規則変更には総代の同意を得る必要が 以上を要約すると、単立教会立正佼成会が、本山たる本部教会となって茨城支部教会を誕生させ、教団である 立正佼成会を設立させるわけであるから、信仰的な活動の中心は本部教会が担い、教団の管理統轄は教団が担うよ うになってくる。そのような点から、立正佼成会の信仰活動の中心的存在としての意味で﹁根本道場﹂であるとい 184 3﹁根本道場﹂は支部教会を誕生させ、育成する根源である 当時の本部教会と茨城支部教会との関係から考えてみよう。 後に茨城支部の支部長となる野崎は、家族同様の世話をした長沼広至︵後に立正佼成会理事、責任役員となる。︶ に案内されて開祖・脇祖の二人から親しく指導を受けた.野崎は拝み信仰にはなじめなかったが、立正佼成会で﹁人 のために奉仕しなさいと教えられ、この教えこそ信仰の革命であり、現代の信仰だと実感した﹂という。奮い立つ 思いで茨城に帰ると指導通り導きに専念した。﹁野崎の生きる姿勢が変わったことに驚き、生きる支え、人生の指針 を求めて﹂多くの人が入会した。野崎は﹁信者から質問されてわからないことがあると、夕方であろうがすぐ上京 して日敬・妙佼の指導を受ける﹂のだった。 やがて、自宅とは別に修行と布教の拠点をもつことになったが、それも﹁教線の伸びによる会員の爆発的な増加 のため、仮道場はたちまち狭さを感ずるように﹂なって﹁昭和二十五年三月、野崎は支部道場建設について本部の 指示を仰ぎ、妙佼から﹁道場を建てるなら、今すぐ建てなさい。そうしないと建てられなくなりますよ﹂との指導
を受けた。すぐ修養道場建設速成会を結成し、﹃あんたが裸にならねばだれがやる﹄との妙佼の言葉どおり、自宅を 0 売り払って全財産を道場資金にと捧げたところ、幹部たちは一﹂れに感じて応分の寄付をした。﹂という。 ここでは、本部教会と茨城支部教会が親子のような関係にあることが分かる。現実の親子は親がなければ子が生 まれないし、親の姿を見ながら子は成長すると言われる。それと同じように、茨城支部教会も本部教会がなければ 生まれなかったし、組織としても成長しなかった、と言えるのではないだろうか。 また、本部教会と茨城支部教会との関係は人体の心臓と各器官の関係にたとえることも出来る。心臓が規則正し く活動して血液を循環させることによって酸素や栄養分が送られ、老廃物が適切に処理されて各器官が生き生きと 活動を続けていくように、本部教会を中心とした活動を続けることによって、支部教会における会員との触れ合い を通して脈々と法の輪が広げられていく。 そのように命を与え、命を育む働きは支部教会でも果たしている。事実、昭和二十七年四月に、水戸、日立、小 名浜支部が、昭和二十八年十月には平支部が茨城支部教会から独立している。本部教会は茨城支部教会を通して、 それらの支部を誕生させた、究極の根源であり本源であるから﹁根本道場﹂とされるのである。 4﹁根本道場﹂は布教の淵源である この点についても、茨城支部教会の発展過程から見てみることにする。 野崎が入会して半年程たった昭和二十一年に、開祖と脇祖を迎えて茨城支部の発足式が行なわれた。この時の会 員は野崎の実兄、小学校時代の同級生、いとこたちの十一名だったが、副支部長となった者は立正佼成会の教え を学ぶために神田の古本屋を訪ねては小林一郎著の﹃法華経大講座﹂等を買い求め、それをテキストにして皆で議 論したという。そして﹁疑問が出て解決できないと、翌日野崎以下数名が上京して日敬・妙佼に教えを乞う﹂たと 185 立 正 佼 成 会 会 規 ・ 規 則 等 に 見 ら れ る 「 根 本 道 場 」 の 意 義 と そ の 変 遷
ある。 このことは、疑問が起きたり、分からなくなったりした時、必ず本部に行って教えをいただいたということであ る。野崎支部長は開祖・脇祖の説く信仰に触れ、今までにない感動をおぼえて布教するようになるのだが、導かれ て会員となった者は開祖・脇祖の信者である。自分が今まで受けて来た指導で解決できるものなら、それを分けれ ば済むことだが、今までに聞いたことのない問題であれば、本部へ行って確認したい、間違いのない教えを布教し たい、こんな考えではなかったのだろうか。教えについて、修行について、儀式について、文字通り立正佼成会の 信仰を伝える場合の一切の疑問を本部で確認する、これこそ布教の淵源という意味での﹁根本道場﹂というわけで 名、二十二年には三名とつづき、野崎を中心として幹部が養成されていった。﹂ いう。こうした修行の結果、﹁二十一年に野崎は御守護尊神の勧請を許され、会員で御星陀羅の勧請を許された者四 昭和二十三年十一月の身延山秋季参拝の時のことである。野崎は最初気乗りがしなかったが、﹁野崎宅の御守護尊 神が落ちるはずもないのに供養中の野崎の目の前に落下し、代わって供養した夫にも落ちたので、野崎は急ぎ本部 に参拝して結んでもらった。すると妙佼に降神して、﹃七面山に行け、人の功徳になる・屋と指示された。﹁こうし て参拝に決したところ、たちまち十六名が集まり、茨城から揃って参拝した。本部でも支部長の決じよう次第で会 員が動くと評判になり、地元では参拝のあと大漁に湧くという現証さえあった。この体験は野崎に深い感銘を残し り た﹂とい、フ。 186 この茨城支部教会の実例では、開祖・脇祖から直接、指導を受けているが、その後は、直接的な指導が得られな くなって来る。しかし、本部教会に開祖・脇祖の指導に直に触れ、たくさんの体験を積んでいる幹部がいれば、こ の﹁布教の淵源﹂的機能が果たせる。その人達が体験をまじえながら指導を伝えていけるからだ。むしろそれこそ
さらにまた、﹁釈尊に返れ﹂と叫ばれたりすることを見掛けるが、時代がくだり、場所が異なることにより、その 教団の信仰の真髄が見失われることがあるようである。その時、泉の源に返り、自己の信仰の確認をすることが、 どうしても必要になってくるのではないか。お役をいただいて地方の拠点の布教に赴いた幹部が、本部教会を参拝 した折に、本部教会の雰囲気や幹部と触れ合うことによって、立正佼成会の信仰の原点を改めて教えられ、初心に 戻って赴任地へ力強く帰って行った、などということも数多くあったのではないか、と思われる. ﹁根本道場﹂は、そのような布教の淵源としての役割も果たしているのだと考える。 5﹁根本道場﹂のモデル︵手本︶機能 茨城支部道場の建設にあたって、﹁修養道場建設速成会﹂を結成したことは上に述べた。この﹁修養道場建設速成 会﹂は、本部で道場建設にあたって結成されたことをまねて結成されたものであるが、そのほか、道場の規模や体 裁も本部を手本として建設された︵渡辺幹夫氏からの聞き取り︶という。また、茨城支部や長野支部等の青年部の ⑱ 活動についても、本部参拝の折りに一月年部員の﹁溌刺とした﹂姿が刺激になったことが挙げられているが、これな どもモデル機能と言えなくもない。単位団体同士であるから活動にプラスになることは、逸早くまねて活用するこ とが出来るのではないかと思う.このモデル機能は、﹁信仰の中心﹂﹁布教の淵源﹂と比べると次元が異なるが、現 実面では大きな機能を果たしていると考える。 以上、教規や法人規則の内容と茨城支部教会の実例等を通して﹁根本道場﹂について考えて来た。本末関係にお ける本山の役割、末寺との関係の詳細は、まだ十分に明らかにすることができていない。今後の課題としたい。 にもなる。 が組織化した意義があるのであって、その組織を通して開祖・脇祖の理想とした信仰が後世に伝えられて行くこと 187 立 正 佼 成 会 会 規 ・ 規 則 等 に 見 ら れ る 「 根 本 道 場 」 の 意 義 と そ の 変 遷
③﹁宗本一体﹂から教団理事会の権限拡充へ 本部教会は立正佼成会発祥の根本道場である、と規定されているわけだが、その位置付けは次のようであった。 すなわち、本部教会規則によって﹁教団の理事長・理事・顧問がそのまま本部教会の代表役員・責任役員・顧問と ⑲ なると規定し、︵略︶教団中枢と本部教会中枢の合致を実現している。﹂ この教団中枢と本部教会の中枢の合致は、一般には﹁宗︵宗派Ⅱ包括団体︶本︵本山Ⅱ単位団体︶一体﹂といわ れて、伝統的な宗派ではよく採用されている体制ということができ、立正佼成会でもその体制が採用されたわけで ある。ところが先に触れた労働基準法の適用以来、教団の理事会の機能が強化されたのだが、昭和二十八年十一月、 ﹁本部教会の総代会は、法人の運営にかかる一切の議決権限を教団に委任することを決定した。教団への委任とは 教団評議員会への委任であるが、実際は教団理事会への委任に異ならなかった。このように事務局機構が度重なる 改正をみている間に、理事会の正規の活動が軌道にのり、人貝が増強されただけでなく、権限の拡充が実現してい
三立正佼成会会規になくなった﹁根本道場﹂
Ⅲ った・﹂ 次に、規則の変遷にそって﹁根本道場﹂を考えることにする。 一九六○︵昭和三十五︶年九月二十二日には教規が大幅に改められ、会規として制定された。また、それに伴い 188 つまり、本部教会は﹁根本道場﹂とされてはいたが、法人運営の一切の議決権限を教団に委任し、代わって教団 機構が柱となり、中心となって機能していたことが考えられるのである。この時点で、単位団体を法人化していく ﹁宗本一体﹂体制というよりも、教団体制を現実化していくことが目ざされていたのではないかと推測できる。、 フ 法人規則も改められた。本論に関係することで言えば、どちらにも﹁根本道場﹂なる語が使われていないことを指 摘することができる。立正佼成会会規では次のように変わった。
第三章本部
第十九条立正佼成会本部は︵以下、﹁本部﹂という︶、立正佼成会信仰の中心であり、教化活動の発する本源で 第三条立正佼成会本部︵以下﹁本部﹂という︶は、立正佼成会の信仰の中心であり、教化活動の発する本源で 第二一条本部には、久遠実成大恩教主釈迦牟尼仏の尊像を、本部周辺の施設には、久遠実成大恩教主釈迦牟尼 第二十条本部は、東京都杉並区和田本町にある大聖堂に置く。 仏の尊牌並びに大漫陀羅を奉祁する。 一方、法人規則は次のようになった。 第二条この宗教法人は、事務所を東京都杉並区和田本町二七番地に置く. 第三条立正佼成会の信仰の中心として、前条の所在地に本部を置き、久遠実成大恩教主釈迦牟尼仏の尊像を奉 祁するところとする。 この条文は、一九六五︵昭和四十︶年五月六日改正施行された規則では次のようになっている。 第二条この宗教法人は、事務所を東京都杉並区和田二丁目一一番一号に置き、これを﹁立正佼成会教庁﹂とい 立正佼成会会規・規則等に見られる「根本道場」の意義とその変遷 ある。 2本部は東京都杉並区和田二丁目にある大聖堂に置く。 ある。 189190 3本部には久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊の尊像を奉祁する。 この一連の条文では、﹁立正佼成会本部は﹂﹁信仰の中心﹂であり、﹁教化活動の発する本源﹂であるとされている が、その﹁本部﹂は何故か、会規第二十条で﹁大聖堂に置く﹂、第二一条に﹁本尊像を奉祁する﹂と規定されている だけで内容が明らかにされていない。法人規則も、同じことを繰り返しているだけであって、本部の実体は把握出 来ない。かつては本部教会に﹁根本道場﹂として﹁信仰の中心﹂﹁布教の淵源﹂という機能を持たせてきたのだが、 本部教会に代わって﹁本部﹂にその機能を移行したと考えられる。 続いて、昭和三十五年十月には、本部教会が東京教会となるという大きな規則の変更が行なわれる。これは会規 の制定と連係しているだけでなく、後に見る教団体制を先取りした規則変更と思われる。変更の内容を見てみると、 法人の名称と役員定数、事務所の所在地に及ぶものであった。すなわち、名称が﹁立正佼成会本部教会﹂から﹁立 正佼成会東京教会﹂へ変更された。また、役員定数は九人から五人となった.立正佼成会と本部教会の役貝を兼ね ていた︵上に述べたように﹁宗本一体﹂の体制をとっていた︶九人の役員はそろって退任し、新しく別の五人が役 員に就任した。そして、事務所は﹁和田本町二七番地﹂の事務局︵発祥の地の開祖・脇祖の銅像のある所︶から﹁和 田本町一二番地﹂︵第二道場、研修会館、現在の杉並教会と中野教会の修養道場︶へと移転し、大聖堂が使用可能と なった段階で大聖堂へ移転した。 この間に、立正佼成会は、脇祖の遷化、ブロック制への移行という大きな変革を経験している。導き・系統の関 係から、ブロック制に移行させ定着させることは大変な難事業であったと思われるが、ここでは本論と関係する部 分についてのみ触れることとする。
/ 次のBは会規に改正された状態を図示したものである。つまり、本部教会は東京教会となり、茨城教会︵昭和三 十六年に茨城教区が出来、茨城教会となるのでこう呼ぶことにする︶と同格になる。もともと法的には、本部教会 と茨城教会は対等の単位団体でなく、本部教会は本山という特別な地位を持っていたが、その特別な地位がなくな り、茨城教会と全く同格の単位団体となったということである。従来﹁本部教会﹂で図示された部分は立正佼成会 の頭部が残ることになるが、それが﹁本部﹂になるように思われる。 そして﹁東京地区の会員は、本部直属会員のような意識があったのですが、全国一律の観点から﹁東京教会﹂と であった、 本部教会は﹁根本道場﹂と考えられており、本部教会が﹁本部﹂とされていた。これが教規で定められた組織形態 会は頭部では一致していた。そしてこの本部教会と茨城支部教会とは本末の関係があり、いわば親子の関係にある。 本部教会から東京教会に変更になったことを図で示すと右のようになる.まずAのように、立正佼成会と本部教
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/ 本 、 、 目 / / 191/
寸 而 佼 成 会 立 正 佼 成 会 会 規 ・ 規 則 等 に 見 ら れ る | 根 本 道 場 」 の 意 義 と そ の 変 遷 茨 城 支 部 教 会 十 六 の 教 会 茨 城 教 会 東 京 教 会 / / 〈 ノ{
ここ数年の間に大聖堂に事務所を置いていた在京の教会が、それぞれ地元に修養道場を持ち移転して行った。こ れは、地域に密着した布教活動をしていくという自然の勢いなのだとも考えられる。地元に教会が設けられたこと で地元の会員や地域の人達に喜ばれている。同時に、大聖堂では次のようなことが分かり易くなっているように見 佼成会のその後に何等かの影響を与えていると考えられないだろうか。 式﹂から教団による﹁展開方式﹂への変更は、未だ改革の手が加えられていない。このような大きな変更は、立正 本部教会が東京教会に変更され、﹁本部﹂となった時、﹁根本道場﹂の何が受け継がれ、何が継承されなかったか、 これを明らかにすることは困難な作業を伴うだろう。しかし、見逃すことが出来ないのは、信者の把握に関する問 題である。教会が支部や地区を通して信者を把握する体制と、教団がご命日ごとに入れ代わり立ち代わりで大聖堂 に修行にやって来る信者を把握する体制とでは、その関係の濃淡の違いは指摘するまでもないことである。 信者は皆、立正佼成会の信者に違いはない︵根本的所属︶が、教会が信者を直接的に把握する︵日常的所属︶よ うな﹁本部﹂機構が組織されていないのではないだろうか。つまり、本末関係を基盤にして信仰上の指導面を担っ ていた﹁根本道場﹂をなくしたことにより、宗教団体の行政面を担う﹁教団﹂を中心とした体制となっているので はないかと考えられることである.そのことが、教庁の組織の中に本部参拝に来た信者の悩みの相談に乗る部署が ないことに繋がるのではないだろうか。また、教庁の業務が対外的に大きく拡大されることの遠因となっているの ではなかろうか。さらに全国教会のモデル︵手本︶となるものが、﹁本部﹂になくなっていることになるのではない だろうか。 大聖堂では、全国の教会からの団参者を対象に御命日の式典やお当番が行なわれている。しかし、御命日以外の 194 えるc
﹁信仰の中心﹂﹁教化活動の発する本源﹂とは別にして、﹁正法興隆の根本道場﹂と理解する、つまり、﹁根本道場﹂ を正法興隆だけに係らせて読むこともできるかも知れない。すると﹁根本道場﹂は、この小論のテーマとして見て ⑫ 来た意味とは少しニュアンスが異なるかも知れない。例えば、大聖堂を﹁法華経広宣流布の根本道場﹂とした使い 方に近いものになるのではないだろうか。 あるいはこれを現行の会規の中に﹁根本道場﹂という語を復活させたと解釈するとどうなるだろうか。大聖堂が ﹁信仰の中心﹂であり、﹁教化活動の発する本源﹂であり、﹁正法興隆の︵ための︶根本道場﹂ということになる。 いずれにしても大聖堂を信仰の中心とし、教化活動の発する本源とすることでは変わりはないが、大聖堂に﹁根本 道場﹂をどのように確保し、定着させていくかが、これからの課題となってくるのではないだろうか。 記録によれば、﹁大聖堂の完成を期に、教団体制の確立と能率的な布教活動の昂揚を図るため、総合的な見地から 教団運営に関する基本的な事項を調査審議することを任務とする﹂﹁教団運営基本問題調査会﹄が、一九六三︵昭和 ている。 条には
四新しい会規での﹁根本道場﹂
うことと比較すると、今一度、﹁本部﹂のあり方の検証が必要であると思われる。 源﹂とされた﹁本部﹂は、一体、どうなって行くのか。﹁根本道場﹂とは﹁信仰の中心﹂﹁布教の淵源﹂であるとい 日には、大聖堂で何が行なわれているのか、分からない状態も見受けられる。﹁信仰の中心﹂﹁教化活動の発する本 I はじめに﹂でも触れたように、平成九年六月十三日の佼成新聞に会規・規則の改正案が公表された。会規第十二 には﹁大聖堂は、本会の信仰の中心であり、教化活動の発する本源及び正法興隆の根本道場である﹂と規定され 195 立正佼成会会規・規則等に見られる| 根本道場」の意義とその変遷このような真剣で衆知を集めた取り組みにより、数々の改良、改善が積み重ねられ、現在の大聖堂を中心とした 教団体制があるわけである。新しい会規の制定に伴っても、積み重ねられた伝統と歴史を尊重しつつ、大聖堂を全 国教会にとっての﹁根本道場﹂とするために、各方面からの検討と改革が望まれてくるのではないだろうか。 0 施に移された。 この後にも大聖堂を中心とした布教体制の確立強化が図られて来たのだが、その一、二、の例を挙げると次のよ うになる。一九六六︵昭和四十二年の基本方針は﹁信仰の充実﹂﹁団参の強化﹂﹁宗教協力﹂であったが、﹁団参の 強化﹂に対応して﹁大聖堂を中心とする全会員の修行体勢を確立しよう﹂というスローガンが掲げられ、団参によ ” る信仰の増進、参拝者の指導などが留意点に挙げられている。また、一九八一一︵昭和五十七︶年東京布教区の東京 地区二四教会の教会長、事務長の代表者によって﹁大聖堂活性化推進会議﹂が組織され、種々の計画が立てられ実 価されている。 卿 三十八︶年一二月設置された。そして、この調査会の答申に基づき、布教体制の強化拡充を図るため数々の改革が加 えられたが、この調査会について﹁大聖堂完成を契機として、教団組織に根本的な点検を加え、既存の制度を抜本 伽 的に問い直して問題点を整理し、それへの対応を体系化した答申を作成したこと自体に、意義が認められる﹂と評 ては改めずに使用した。 196 、王 、、ノ 仙立正佼成会の表記は﹁佼﹂に統一した。開祖・脇祖は、昭和五十一一一年六月四日の全国幹部指導会において発表された尊称 であるが、法燈継承を経過しているので当時の呼称にかかわらず、表記は﹁開祖・脇祖﹂に統一した。但し、引用文につい
﹃佼成﹂昭和二十七年二月号 、篠原義雄﹁宗教法人法の解説﹄中央法規昭和二十六年三頁取意 ⑧森岡清美﹁宗教集団﹂﹁宗教学辞典﹄東京大学出版会一九七五年三○七頁 ⑨﹁愛知学院大学宗教法制研究所紀要﹂第三八号愛知学院大学宗教法制研究所 ⑥文化庁文化部宗務課監修﹃宗教関係法令集﹂第三巻第一法規二二○九頁衆議院文部委員会︵昭和二十六年三月七 ⑤﹃立正佼成会史﹂第二巻六五頁 例﹃佼成﹄昭和二十七年二月号グラビア ③﹃立正佼成会史﹂第二巻佼成出版社一九八三年五二頁 ②﹃佼成﹂昭和二十七年二月号 日︶の若林委員に対する答弁
同右第四十号五九
同右第四一号三頁
﹃真宗﹂二月号真宗生同右号外一九八七
森岡清美﹁宗教集団﹂同右第四十号五九頁
同右第三九号一一三頁
遷i、冒冒︲J,11〆:︲・に一睡⑥文化庁文化部宗
珪日︶の若林委員に
霊例篠原義雄﹃宗教
の割⑧森岡清美﹁宗教
極⑨﹁愛知学院大学賑⑩同右第三九号
侭伽同右第四十号
註⑰同右第四一号
に 等⑬﹃真宗﹂二月号 則規卿同右号外一
認⑮森岡清美﹁宗教
会㈹﹁立正佼成会史﹄藤⑰同右七一三頁
垂⑱﹃立正佼成会史﹂ 真宗大谷派宗務所一九八八年四頁 九八七年七月三十日一頁 集団﹂﹃宗教学辞典﹂東京大学出版会一九七五年三○七頁 第三巻佼成出版社一九八四年七一四頁 第一巻六二九頁 九九○年三頁 197﹃佼成年鑑﹄昭和四十二年版立正佼成会佼成年鑑編集委員会一九六七年一○八頁
同右昭和五十九年版二七頁 同右一一三頁 同右一一○頁 ﹁立正佼成会史﹄﹁立正佼成会史﹄第二巻一一八頁 宮部公男﹁新宗教教団﹁立正佼成会﹂の組織と機能﹂﹁宗教法﹂第二号宗教法学会一九八四年八三頁 同右六七頁 同右第二巻
四九頁
198 (26リ(25)(24)(23りぃ01)CO)(19リ