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つけることを目標にしたものである 昭和三十年 (1955 年 ) 石炭鉱業合理化法( スクラップアンドビルド ) により 筑豊の中小炭鉱は事業団に買上げられ整理されていった 有名な土門拳の 筑豊のこどもたち をみると 当時の中小炭鉱の姿がわかる 昭和三十四年 (1959 年 ) 黒い羽運動をきっかけ

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(続)十太郎の孫時代

――渉、輝隆をめぐって

ここで、高度成長期の日本の世相を、各種資料を参考にしてみておこう。 昭和三十五年代(1960年~)には東京オリンピックの開催やベトナム戦争、昭和四十五年 に開催された大阪万博などによる特需などがあった。 そして昭和四十三年(1968年)には国民総生産(GNP)が、当時の西ドイツを抜き第2位 となった。戦後、焼け野原で何もないところから世界第2位の経済大国まで上り詰めたと いうのは世界的に見ても例がなく、第二次世界大戦終戦直後の復興からつづく一連の経済 成長は「東洋の奇跡」といわれた。この驚異的な経済成長への憧憬や敬意から日本を手本 とする国まで現れた(マレーシアにおけるルックイースト政策など)。現在では、「戦後昭 和」の代名詞として昭和三十五年代(1960年)の映像資料が使われることが多い。 この時代、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の 3 種類の家電製品は三種の神器と呼ばれ、急速に家 庭に普及していった。これら家庭製品の普及は生活時間の配分にも大きな影響を与え、女 性の社会進出を少しずつ促すことになった。この当時の風潮としては「大きいことは良い ことだ」が流行語となり、「巨人・大鵬・卵焼き」に象徴される。「東洋の奇跡」という言 葉が使われ始めた頃は日本人独特の「勤勉」「個より集団を重んじる(=和の文化)」等が 要因として挙げられた時期もあった。――このような世相であった。 さて、日本の学生運動は、大正デモクラシーの時期に始まり、戦後になって盛んになった ものである。昭和三十五年(1960年)の安保闘争、昭和四十三年(1968年)~同四十五 年(1970年)の全共闘運動・大学紛争に盛り上がりをみせるが、全共闘や過激派による暴 力、100名以上の殺害等により、以後急速に後退し、現在では、多くの大学ですでに衰 退している。 全共闘運動とは全学共闘会議の略。昭和四十三年から同四十四年にかけての大学闘争で、 従来の学生自治会(全学連・共産系)とは別に大学改革を掲げてつくられた。全国の大学に広 がり、一部では高校生も参加した。当初はノンセクト(無党派)の学生が中心だったが、次第 に新左翼各派が前面に出るようになり、警察力で排除される中、影響力を失っていった。 昭和二十八年(1953年)には早くも石炭鉱業は深刻な不況を迎え,人員整理と中小炭鉱の 休廃止があいついだ。そこで合理化による石炭鉱業の自立化をめざす政策が構想され,昭 和三十年(1955年)七月に石炭鉱業合理化臨時措置法が成立した。同法は,立坑開発を中 心とする合理化工事の促進と石炭鉱業整備事業団による非能率炭鉱の買上げ整理というス クラップ・アンド・ビルド政策によって,石炭鉱業に輸入エネルギーに対抗しうる競争力を

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つけることを目標にしたものである。 昭和三十年(1955年)、石炭鉱業合理化法(スクラップアンドビルド)により、筑豊の中 小炭鉱は事業団に買上げられ整理されていった。 有名な土門拳の「筑豊のこどもたち」をみると、当時の中小炭鉱の姿がわかる。 昭和三十四年 (1959年)黒い羽運動をきっかけに炭鉱離職者法が決議され、その後第四 次石炭答申により、ビルド鉱の大手鉱も閉山して、昭和四十八年(1973年)貝島大之浦炭 鉱(最後の坑内掘り)、昭和五十一年 (1976年)貝島炭礦(露天掘り)を最後に、筑豊か ら炭鉱は消えて、赤字ローカル線が残った。 ――三池争議後、全国的に石炭産業は急速に衰退し、日本は離職者の対応を迫られること になったのである。 渉は、昭和四十年三月の東京大学大学院博士(哲学)課程単位取得退学後、同年四月に名古屋 工業大学専任講師。この年、結婚する。翌年助教授となるが、昭和四十四年に名古屋大学 に助教授として迎えられる。 例の大学紛争は名古屋大学にも波及。渉は学生と共に行動し、学生から親しみ込めて「反面 教師」とあだなされたといわれる。しかし、翌年(昭和四十五年)、学生運動を支持して、名 古屋大学を辞職するにいたったのである。三十七歳のときであった。 その後は、共産主義思想が衰退する中、各雑誌に広松哲学・マルクスに関する論文等を発 表しつづけ、昭和四十七年、これまでの論文を一書にまとめ、初めて「世界の共同主観的 存在構造」と名づけて刊行したのである。 この著書の解説者は、「廣松渉は、思想としての近代とはなにか、近代を超克するとはどの ようなことがらであるのか、を哲学的につめる。その若き日の主要論文をおさめたこの書 は、「大きな物語」の終焉がささやかれる現在においてなお、新鮮なかがやきと衝撃力をう しなっていない。否、思想的指針の一切を喪失したかに見える今日にあってこそ、それら の論考の課題意識が十分にふまえられてなければならないとおもわれる」と結んでいる。 ――渉はこの著書によって日本における哲学者としての地位を確実なものにしたのである。 輝隆は、三池争議後の昭和三十六年、鉱害問題で苦吟する事業所(福岡県金田町・金田炭鉱) に赴任。その折衝解決にあたることになった。ここでの鉱害とは、坑内掘削にともなう地 盤沈下による家屋、稲作等の損害のことをいい、その補修、減収分等を補償する業務にあ たったのである。部落解放同盟をバックにした被害者との交渉には息が抜けなかったが、 誠心誠意、折衝解決に努力した結果、大きな問題になることはなかった。 ところが、昭和三十七年になって、石炭合理化法にもとづく、この事業所の閉山が決定さ れたのである。会社と労働組合との団体交渉が始まることになったのだが、組合交渉に経 験のない職員は戸惑った。相手となる所長は元労組の幹部であったから、なおさら怖気づ

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いたのであろうか。 結局、輝隆が三役(書記長)に選ばれることになり、まずは総会が開かれ、要求項目が決議さ れた。団体交渉は直接本社(福岡市)と三役で行い、要求が満たされないときはストライキに 突入することも決議された。 交渉は、三役の二人が都合で参加せず、輝隆一人で本社に乗り込むことになったが、交渉 は全面的に本社が受け入れ、無事解決したのである。 その年の十二月、多くの人たちに見送られて、この年結婚していた輝隆は身重の妻と共に、 再び上京したのであった。 日本の高度成長はオイル・ショックによって頓挫する。 オイル・ショックとは、昭和四十八年(1973年)と昭和五十四年 (1979年)に始まった (ピークは1980年・昭和五十五年)、原油の供給逼迫および価格高騰と、それによる世 界の経済混乱である。石油危機または石油ショックとも称される。世界同時不況(せかい どうじふきょう)とも呼ばれた。 日本では地価急騰でインフレが発生したが、オイルショックによって便乗値上げが相次ぎ、 インフレが更に加速されることになった。インフレを抑えるために公定歩合の引き上げや、 企業の設備投資を抑制した。このとき、マイナス成長を記録して、戦後から続いていた高 度成長期が終わりを迎えたのである。 直接原油価格とは関係のない、トイレットペーパーや洗剤などの買占め騒動が起きたり、 エスカレーターの運転が中止されるなどの社会現象が起きた。買いだめは砂糖や醤油など にも及び、今買わなければ買えなくなる、物がなくなってしまうとの噂が広まり、スーパ ーでは開店と同時に商品が売り切れる状態がつづいた。こうしたことから、店舗側は『お 一人様一点まで』との制限をかけるが、反対に消費者の不安を煽ることになった。テレビ は深夜放送が自粛され、ネオンサインが早い時間から消灯されたり、日曜日にガソリンス タンドが休業するなどの措置がとられたのである。 渉は、昭和四十八年、東京大学教養学部非常勤講師。昭和五十一年、同大助教授。昭和五 十七年、同大教授に就任する。四十九才のときであった。 この間、渉は「世界の共同主観性存在構造」で提示した認識論関係の論点を敷衍した論著 や、本書では示唆に留っている論点を主題とした著作を、次々と公刊する。例えば、「科学 の危機と認識論(紀伊国屋書店)」の認識論、「もの・こと・ことば(勁草書房)」に収録してあ る言語論、「弁証法の論理(青土社)」中の判断論、「物象化論の構図(岩波書店)」における物 象化論、「表情(弘文堂)」での表情論や記号論、「心身問題(青土社)」中の身体論、「共同主観

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性の現象学(世界書院)」中での役割行為論、「事的世界観への前哨(勁草書房)」第一部所収の カント論・マッハ論・現象学論・ハイデッガー論はもとより、同書第三部の人間論・歴史 論・時間論なども、すべて本書での所説を前提としたものである。 このように、渉は、いよいよ日本を代表する、いや、世界に注目される哲学者になってい くのである。 そうかといって、渉は象牙に塔に引きこもるというタイプではなかった。積極的に各地で 開催される講習会はもとより座談会、研修会、討論会等に参加し、マルクス主義の対極に ある宗教とも接点を持ち、持論を展開していたのである。 輝隆は、昭和三十七年、いったん横浜の法律事務所にお世話になった後、自動車会社、建 設会社等を転々と勤務。昭和四十九年、独立自営(建設・不動産)。昭和五十八年市議会議員 (神奈川県・茅ヶ崎市)に初当選する。五十才のときであった。 この間、輝隆は不景気の中で、サラ金で地獄の生活を余儀された、債務者の救済に奔走し ていた。 茅ヶ崎市は高度成長期に、急速に人口が増加した、いわゆる新興のまちである。横浜まで 三十分、東京まで一時間の通勤圏内にあった茅ヶ崎町は、地方からの上京組にとっては、 格好の住宅地であった。そのため、一挙に住民が流入し、三万人から二十万人の茅ヶ崎市 に膨張したのである。住民の増加には、また商工業が発展する。景気のいい時は問題なか ったが、不景気に襲われると零細業者やそこに勤めていた従業員は失業する。田舎であれ ば急場しのぎに親戚に借入を頼むことができるが、上京組はそうはいかない。そこで、と りあえずということで、サラリーマン金融に頼ることになる。そこが地獄の一丁目で、借 入に法外の利息が上乗せられ、その返済のために、また借入をせざる得ない状態まで追い 込まれていく。サラ金業者の債権の回収には暴力団の影が、常につきまとうので、気の弱 い債務者は自殺をはかる。 輝隆は法律の知識と気概で、自殺寸前の債務者を、無償の奉仕で救済していたのである。 さて、ここで、昭和の末から平成の初めにかけて発生した、バブル経済とソ連の崩壊を、 各種出典によってみておこう。 昭和(しょうわ)とは、20世紀に定められた日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。 昭和天皇の在位期間である昭和元年(1926年)十二月二十五日から、昭和六十四年(1 989年)一月七日まで。 平成(へいせい)とは、日本の元号の一つ。昭和の後、平成元年(1989年)一月八日 から現在に至る。平成十三年(2001年)の始まりには西暦における20世紀から21 世紀への世紀の転換もあった。本年(西暦2013年)は平成二十五年にあたる。

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昭和六十年代(1985年)に入ると、住宅投資は経済への波及効果が大きいことから、たび たび景気対策として住宅建設促進策がとられるようになり、それにともなって公庫融資も 従来の(住宅取得額の)80%限度から初めて100%まで拡充された。また、民間銀行など でだぶついていた資金が不動産融資に向かうようになり、昭和末期から平成初期にかけて のバブル経済を引き起こし、不動産価額の急騰を招くようになってきた。 平成三年後半にバブルがはじけ不動産市況が急落すると、住専が破綻し、次いで民間銀行 でも不動産向け融資を中心とする不良債権問題が社会問題となり、いわゆる公的資金が注 入される事態となった。 大正六年(1917年)十一月七日のロシア革命(十月革命)により成立したソビエト連邦は、 第二次世界大戦後にはアメリカ合衆国に伍する超大国として君臨したが、74年後の平成 三年(1991年)十二月二十五日に崩壊した。同日、ソビエト連邦に比して規模が小さいロ シア連邦が成立した。 ――ポーランド人民共和国の崩壊を皮切りに、東欧各国の共産党国家は次々と崩壊し、自 由選挙と多党制を布く民主国家が次々と成立した。これら一連の東欧民主化革命に対して も、ゴルバチョフは早急な東西ドイツ統一と、それにともなう北大西洋条約機構(NATO) の拡大を警戒したのみで、ハンガリー動乱やチェコ事件の時のように、武力による民主化 運動の鎮圧という立場を取らなかった。これは、中華人民共和国で平成元年(1989年) 年六月四日に発生した天安門事件が国際的な非難を浴びたことから、西側諸国からの非難 と外圧を恐れて、強硬な措置を取れなかったと考えられる。また、ドイツ民主共和国(東 ドイツ)の指導者だったエーリッヒ・ホーネッカーに対する警告のように、既にゴルバチ ョフ自身が旧態依然とした東欧の指導者たちに対し見切りをつけていたという事情もあっ た。 渉は、昭和五十二年(1977年・44才)、肺がんの疑いで二カ月の入院生活を送っている が、昭和五十九年(1984年・51才)にも胃潰瘍で二カ月、入院している。 平成二年(1990年・57才)、渉は東欧社会主義政権の崩壊にともなう、マルクス主義終 焉論の台頭に抗して、マルクス論、社会主義論などを精力的に展開。正統マルクス主義を 擁護する論陣を張ったのである。 平成四年(1992年・59才)、入院加療を繰返しながらガンとの闘病生活をつづけていた が、執筆活動は衰えず、独自の哲学体系である大著「存在と意味(岩波書店)」の発刊に情熱 を傾注していた。 平成六年(1994年・60才)三月、東京大学定年退職。五月、名誉教授。五月二十二日、

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入院中の虎の門病院で死去。享年六十才であった。 輝隆は市議会議員を連続三期(昭和五十八年・同六十二年・平成三年)つとめた上、平成七年、 同十一年、市長選に挑戦するが、いずれも落選した。母介護のため三回目の市長選は断念。 介護に専念する。 平成十五年(2003年・70才)、母の死去を機に、供養を兼ねて全国行脚(修験道)を志し、 関東・関西・東北等を順次巡り、いま、なお継続中である。 平成二十一年(2009年・76才)には、求菩提山(大分県)から英彦山・三郡山を経て、篠 栗の若草山(福岡県)まで縦走し、その後、宝満山奥宮を参拝する。 平成二十二年、神奈川県から大分県に妻と二人で移住。 いま(平成二十五年・80才)、輝隆は吉開家のルーツを求めて福岡県柳川市に仮寓。柳川市 図書館で、中島鎮夫・廣松渉に出会うことになった。 最後に、両者の内実を一瞥して筆を置くことにする。 渉と輝隆は、同世代として多くの共通性を持合せているが、志向する道(方法)はまるで違う。 しかし、両者とも、大衆の救済においては同様であったようにおもわれる。 渉はコミュニズム(共産社会)による大衆の救済を志向した。そのためにはプロレタリア―ト (労働者)による資本主義社会の打倒が必須条件となると考えた。その考えの基底にあるもの はマルクス・エンゲレスの理論(マルクス主義)であった。マルクス主義の完全な実現と思わ れたソ連が崩壊。世界はマルクス主義に疑問を呈するようになった中、正統のマルクス主 義を説いてその擁護にあたっていたのが、まさしく渉であった。しかし、渉の膨大な著述 はマルクス・エンゲレスに基底を置きながらも、それを越える廣松哲学の体系を構築する に至っている。 ――ソ連崩壊後の渉の夢は、日本と中国による東亜(東アジア)社会(コミュニズム)の建設に あったようである。 輝隆はアミニズム(宗教)による大衆の救済を志向した。そのためには旧来の宗教が立てる本 尊観と合わせて、各人が各人の本尊観を立てるべきだと説いた。それを説く基底には修我 道があった。 修我道とはアミニズム(事物)と仏教の諸法実相(空)とに依拠した、輝隆が提唱している宗教

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である。いうなればアミニズムを越えるアミニズムである。 アニミズムとは、自然界のあらゆる事物(物的、霊的存在態)は、具体的な形象もつと同時 に、それぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的存在(相性体)を有するとみなし、諸現象(因縁果 報)はその意思や働きによるもの(力作)とみなす信仰のことである。 他方、諸法(あらゆる事物)実相とは、「如是相・如是性・如是体(物的、霊的存在体)・如是 力・如是作(その意思)・如是因・如是縁・如是果・如是報(諸現象)・如是本末究竟等(物的、 霊的存在態)」である。 そこで、修我道でいう諸法(あらゆる事物)実相は、次のようになる。 実相諸法=物的、霊的存在体(相性体)・その意思(力作)・諸現象(因縁果報) =物的、霊的存在態(本末究竟等=本末究竟相性態) 以上は、修我道が未開社会のアミニズムと誤解されないためにその一部を示したまでのも のである。 ――輝隆のいう修我道の本旨は、各人の人格の向上によって、各人の、各人による、各人 のための、共同社会の建設をはかることにある。

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