• 検索結果がありません。

『上方落語の戦後史』

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『上方落語の戦後史』"

Copied!
10
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

初代桂春団治(大正 11 年ごろ, 南地法善寺本堂前)

第一章

(2)

島之内寄席の口上   昭 和 四 十 七 (一 九 七 二) 年 二 月 二 十 一 日、大 阪 市 南 区 千 年 町 (現 ・ 中 央 区 東 心 斎 橋) の 島 之 内 教 会 礼 拝 堂 は 異常な熱気に包まれていた。   上方落語協会主催の初の落語定席「島之内寄席」の開席口上が始まったからである。   会場は観客・報道陣で立すいの余地もない。礼拝堂内を寄席囲いにしつらえた舞台には、上方落語協 会会長の六代目笑福亭松鶴、副会長の桂米朝の二人が万感の思いで紋付袴姿で口上に居並んでいた。   松鶴の嚙み締めるような甲高い声が場内に響き渡る。笑福亭の紋である五枚笹までも震えているよう に見える。   「今 こ こ で ホ ン マ に 涙 こ ぼ し た ら、気 障 な や っ ち ゃ と 思 い は り ま っ か 知 り ま へ ん が …… ま あ、涙 は こ ぼさんことにいたしましたが、ともかく口に言い表せんぐらい嬉しゅうございます。もう我々だけの夢 やなしに先輩たちの年来の宿願でございました。たとえ五日にしろ噺の定席が出来ましてこんな嬉しい ことはございません。なにとぞ益々この定席をば……盛り立てていただきますのは我々だけの力ではや っていけませんのです。みなこれ皆さん方の双肩にかかっているようなわけで……日本の国を良くする か、上方落語界を発展さすか……どうぞ皆さん方、なお一層ご支援くださいますよう古うはございます が、決まり文句。隅から隅までズィ

ッとお願い奉りまする

」   笑いとともに彼ら二人の感動までもが客席に伝わって来た。

(3)

第 1 章 戦後上方落語前史   こ の と き 松 鶴、五 十 三 歳、米 朝、四 十 六 歳。 「上 方 落 語 四 天 王」と 並 び 称 さ れ た 彼 ら の 同 志 ・ 三 代 目 桂春団治、桂小文枝 (五代目桂文枝) はともに四十一歳であった。   彼ら四人がこの世界へ入った昭和二十二年当時から比べると、自分たちの作った協会で、たとえ月に 五日間にしろ落語定席が開催でき、観客が押し寄せること自体が奇跡であった。   昭和二十年代、上方落語は滅亡したといわれた時代があった。当時、入門間もない若手落語家たちは、 手を携え、今日の隆盛へと上方落語界を誘った。ゆえに人知れぬ感慨があったのだ。 上方落語の衰退   かつて「大阪は漫才」で「落語は東京」といわれた時代が長らくあった。   大阪の落語が「上方落語」と称されるようになったのは、そう古いことではない。文字として「上方 落 語」と あ ら わ さ れ た の は、南 木 芳 太 郎 が 編 集 人 を 務 め た 雑 誌『上 方』の 第 十 九 号 (昭 和 七(一 九 三 二) 年 七 月 一 日 発 行) が 最 初 で あ ろ う と い わ れ て い る。そ れ ま で は 関 西 で も、単 に「落 語」あ る い は「大 阪 落 語」といわれていた。   ただ、この「上方落語」という言葉が出現した時代には、すでにその衰退は始まっていた。   この衰退は、新興の演芸・しゃべくり漫才の出現と関係があった。近代漫才の父といわれた漫才作者 の 秋 田 實 が、 「大 阪 の 人 間 が 二 人 寄 れ ば 漫 才 に な る」と 言 っ た よ う に、大 阪 人 に は も っ て 生 ま れ た と も いえる漫才的気質があった。この新興の演芸が流行るのには、そう時間がかからなかった。   ここでいう漫才とは、 〈しゃべくり漫才〉 のことをさす。それ以前のマンザイは、万歳と書かれた。   寄 席 演 芸 と し て の 万 歳 の 歴 史 も、そ う 古 く は な い。明 治 三 十 九 (一 九 〇 六) 年 に 大 阪 ・ 天 満 天 神 裏 の 寄

(4)

席で初代玉子屋円辰が「名古屋万歳」の看板をあげたのが最初だといわれている。   伝 統 的 な 万 歳 ( 千 せ ん ず 秋 万 歳 の 略 語) と は、正 月 に 太 夫 ・ 才 蔵 と い う 二 人 の 滑 稽 な 掛 け 合 い で、め で た い 言 葉を唱えてはその家々に福を呼び、長寿を祝うものであった。玉子屋円辰は、その万歳の笑いと、円辰 自身が得意とする江州音頭や河内音頭とを一体化し、独自の芸を創作して興行を始めた。これが今日の 漫才にまで繫がっている。   その万歳を、昭和一桁代にしゃべり一本だけに絞って 〈しゃべくり漫才〉 というジャンルに仕立てあげ た の が、の ち に「ラ イ オ ン」と あ だ 名 さ れ、平 成 三 (一 九 九 一) 年 四 月 二 十 四 日 に 九 十 二 歳 で 亡 く な る ま で現役であった吉本興行部の林正之助である。   現 在 の 吉 本 興 業 株 式 会 社 の 前 身 ・ 吉 本 興 行 部 は、林 正 之 助 の 実 姉 ・ 吉 本 せ い と そ の 夫 ・ 吉 本 泰 三 (吉 兵 衛) に よ っ て 創 業 さ れ た。吉 本 の 社 史 に よ れ ば、大 阪 ・ 天 満 天 神 裏 の 第 二 文 藝 館 の 開 場 し た 明 治 四 十 五 (一 九 一 二) 年 四 月 一 日 を 創 業 日 と し て い る。だ が、そ れ は 誤 り で あ る と し て 大 正 二 (一 九 一 三) 年 四 月 を 採用する芸能史研究家もいる。   吉 本 は 落 語 が 寄 席 の 番 組 の 中 心 で あ っ た そ の 時 代 に、太 夫 元 (興 行 師) ・ 岡 田 政 太 郎 と 組 ん で 色 物 (落 語 以 外 の、物 ま ね、女 講 談、音 曲、剣 舞、曲 芸、琵 琶、怪 力、新 内、軽 口、義 太 夫、女 道 楽 な ど) を 中 心 に し た 番 組 編 成 で「木 戸 銭 (入 場 料) の 安 さ」と「無 条 件 に 楽 し ま せ る 演 芸」と「細 や か な サ ー ビ ス」で 興 行 の 世 界 に進出、大いに観客に支持された。大正の末頃には、大阪の目ぼしい芸人と寄席のほとんどをその傘下 に収めている。   「ま あ、よ う 働 い た も ん で す」と 当 時 を 述 懐 す る 林 正 之 助 は、さ ら に 観 客 が 喜 ぶ 安 来 節 や 万 歳 の 売 り 出しにも力を注ぎ、やがて吉本独自の演芸 〈しゃべくり漫才〉 を創成することになる。そうなると、それ

(5)

第 1 章 戦後上方落語前史 までの古い権威に縛られた落語はしだいに寄席での居場所を失ってゆく。そして、その上方落語黄金時 代の最後のスターが、映画・演劇・小説・歌謡曲でその名を幅広く知られ、 「後家殺し」 「爆笑王」と呼 ばれた、初代の桂春団治であった。 初代桂春団治   桂春団治は、本名を皮田藤吉という。本来は二代目に当たるのだが、後に寄席・圭春亭席元となった 先代は落語家としての芸歴も短く、また皮田春団治の存在があまりにも大きくなってしまったので、皮 田を初代として代々を数えるようになった。   一 般 に 上 方 落 語 の 全 盛 期 は、明 治 三 十 年 代、大 阪 ミ ナ ミ の 法 善 寺 境 内 の 金 沢 席 (の ち 南 地 花 月) と 紅 梅 亭という二つの落語席を根城に落語家が桂派と浪花三友派に分かれて覇を競い合っていた時代から、初 代春団治が売り出した大正末頃までだろうといわれている。その後は吉本の台頭により、関西演芸図の 勢力は落語から万歳~漫才へと徐々に入れ替わってゆくことになる。それでも初代桂春団治は、昭和九 (一 九 三 四) 年 十 月 六 日 に 亡 く な る ま で、上 方 落 語 の 孤 塁 を 守 り ぬ い た と い う 感 が あ る。そ れ だ け 大 き な 活躍をした。   戦 後 活 動 し た 六 代 目 笑 福 亭 松 鶴 で さ え も、 「わ た い が い ち ば ん 影 響 を 受 け た ん は (初 代) 春 団 治 師 匠 だ んな」と書き残している。以後の大阪の落語家によくも悪くも絶大な影響力を与えた初代春団治は、明 治 二 十 八 (一 八 九 五) 年 に 十 八 歳 で 浪 花 三 友 派 の、芝 居 噺 で 有 名 な 初 代 の 桂 文 我 に 入 門。当 初 の 芸 名 は 桂 我都である。   浪 花 三 友 派 と は、月 亭 文 都 (桂 を 月 亭 と 改 号) が、初 代 笑 福 亭 福 松、二 代 目 桂 文 団 治 ら と と も に 旗 揚 げ

(6)

した同盟である。幕末から明治初年にかけて桂派中興の祖として重きを成した初代の桂文枝の名跡を、 門 下 の 四 天 王

初 代 文 之 助 (二 世 曽 呂 利 新 左 衛 門) 、二 代 目 文 都、初 代 文 三、初 代 文 団 治 が 争 い、結 局、 文三が二代目文枝を襲名、桂派を受け継ぐこととなった。文都はこれに異を唱え、浪花三友派を立ち上 げたのである。   明治三十五年、桂我都は浪花三友派の頭目・二代目桂文団治 (のち七代目桂文治) 門下に入り、翌年、桂 春団治を名のる。余談であるが、春団治以前に『いかけや』の演目を得意にして、彼が多分に影響を受 けたといわれている二代目桂米喬

藤本義一が直木賞を受賞した『鬼の詩』に登場する桂馬喬は彼が モデルである

の名跡を春団治が襲名するという話もあったらしい。   初 代 春 団 治 の 虚 像 実 像、さ ま ざ ま な エ ピ ソ ー ド が 後 世 に 伝 え ら れ て い る。 「後 家 殺 し」の 異 名 を と っ たのは道修町の薬種問屋の未亡人・岩井志うとの艶聞で、彼女は春団治の二人目の妻となる。この時、 戸籍を皮田姓から岩井姓へと改めている。   ヤ タ ケ タ (無 分 別 で 乱 暴) で ス カ タ ン (失 敗 ・ あ て は ず れ) 、ゴ リ ガ ン (強 引 に 物 事 を す す め る 人) な 春 団 治 は、 ひいき客にそそのかされて、寒中、道頓堀川へ飛び込んだり、客席のうしろから観客をかきわけて舞台 に登場する、生き葬式はする、せんべいでレコードを制作しては大損をしたりと話題にことかかない。 それが、後に伝説となった。   もっとも有名なエピソードは、口に差し押さえの札を貼られたことであり、その写真は朝日新聞に掲 載された。その頃、吉本興行部は所属芸人のラジオ出演を禁止していた。無料で聴くことが出来るラジ オの影響で、寄席へ客足が遠のくのを恐れたのだ。これに春団治が逆らった。   昭 和 五 (一 九 三 〇) 年 十 二 月 七 日、N H K ・ 京 都 の ス タ ジ オ か ら 落 語『祝 い 酒』を 放 送 し た の だ。そ の

(7)

第 1 章 戦後上方落語前史 折りにスタジオへ同席した春団治の娘・東松ふみ子は、駆けつけた吉本の社員を見て「お父さん、何か 悪いことしはったんやろか」と思ったという。この事件で、春団治の家財が差し押さえられることとな った。   ち な み に『祝 い 酒』と い う 演 目 は、上 方 落 語 に は な い。 『祝 い 酒』は S P レ コ ー ド (の ち L P 化) に も 残 さ れ て い る が、こ れ は 得 意 の『寄 合 酒』で あ る。 「祝 い 酒   桂 春 団 治」と の 名 ビ ラ の あ る 映 像 (十 六 ミ リ、 無声・昭和八年六月一日撮影) も残されているが、仕ぐさなどを見ると『黄金の大黒』と推測される。あま り細かなことにこだわらない春団治が、祝いの席に相応しい題名をつけて演じていたと考えられる。   問題のラジオ放送の演目は、寄席などで春団治がいちばん多く口演していた『寄合酒』と考えるのが 無難のようである。盟友であった花月亭九里丸が、のちに春団治のエピソードを虚実ない交ぜにして描 いた小説『すかたん名物男』 (杉本書店) にも、このときの演目を『寄合酒』と記している。   春 団 治 の 落 語 は、ポ ン チ 絵 (漫 画) 風 の 模 写 と ナ ン セ ン ス の 極 致 で あ っ た。そ の 世 界 を、決 し て 音 域 の 広くない「大阪声」といわれる太いダミ声を駆使し、テンポの速い語り口で表現した。   「ベリバリ、ボリ」 「カラカッチ、カッチ」などの劇画のような擬音、 「こんにちは」 「まあ、こっち入 らんか」と演じる落語の冒頭を「さあ、こっち入らんか」 「お宅でやすか?」と聞き返したり、 『阿弥陀 池』と い う 演 目 で は「体 (た い) を か わ し た」の「た い」と い う ひ と 言 を 導 き だ す た め に、 「西 ノ 宮 や な い」 「 戎 えべっ さ ん や な い」 「魚 釣 り 竿 や な い」と 言 い な が ら 戎 の 持 つ「鯛 (た い) 」ま で も っ て ゆ く と い っ た 数 々 の バ カ バ カ し い 演 出 を 創 作 し、そ れ ら を 語 り の リ ズ ム や 言 葉 の 調 子 を 急 に 変 速 し た り し な が ら(特 に す か す 声 が お か し い) 、言 葉 の も つ〝音〟そ の も の の お か し さ に よ っ て 観 客 の 五 感 に 訴 え る 高 度 な 技 術で披露した。

(8)

  作 家 で 寄 席 文 化 研 究 家 で あ っ た 正 岡 容 いるる は、そ の 著 作「先 代 桂 春 団 治 研 究」 (『随 筆   寄 席 風 俗』所 収) の な か で、 〈ま っ た く 思 い も 及 ば ざ る と こ ろ に 哄 笑 爆 笑 の 爆 発 点 を 発 見 し、遮 二 無 二、そ の 一 点 を 掘 り 下 げ ていった大天才〉 と記している。   春団治の落語は決して受けるがためのムチャクチャな演出ではなく、その芸は、現在に伝わる上方落 語の爆笑演出を集成した祖であり、演劇界におけるシェイクスピア的な存在ともいえるであろう。   現在では、歴史的に評価される初代春団治ではあるが、彼の在世中は、邪道

正統落語を破壊した 張本人であるとの批判が強かった。   だが、正岡容の門下生であった桂米朝は書いている。   し か し そ の 先 輩 連 中 〔落 語 家〕 が 一 様 に 言 っ た こ と は、皮 田 春 団 治 は、少 な く と も 正 統 派 の 落 語 を 尊重していたということである。彼は充分に本当の噺の何たるかを知った上での異端であったと言 うのである。  (「解題にならぬ解題  

  富士正晴『桂春団治』 」)   初代春団治の芸が、後輩に与えた影響は絶大であった。落語のみならず、新興の演芸・しゃべくり漫 才にも春団治の芸脈を見てとることが出来る。   花 菱 ア チ ャ コ と コ ン ビ を 組 み、し ゃ べ く り 漫 才 を 創 始 し た 横 山 エ ン タ ツ は、春 団 治 の〈斬 新 な ポ ン チ 絵 風 の 手 法〉 と い わ れ る 独 特 の 言 葉 の 調 子 や 間、音 に 強 い 影 響 を 受 け た よ う に 見 受 け ら れ る。現 に エ ン タツは春団治の落語に学ぶところ大であったと告白している。   エンタツ・アチャコの代表作『早慶戦』は、当時、有名であったNHK・松内則三アナウンサーのス ポ ー ツ 実 況 の パ ロ デ ィ で あ る が、春 団 治 は そ れ 以 前 に も 同 じ 実 況 の パ ロ デ ィ で 落 語 を 演 じ て い る。 『早 慶戦』への直接の影響は分からぬが、これは面白いエピソードである。

(9)

第 1 章 戦後上方落語前史   エンタツ漫才の後継者である中田ダイマル・ラケットのダイマルも、春団治芸に深く心酔し、その話 芸を見事に自身の漫才の調子に採り入れている。また、漫才作者の秋田實でさえも、学生時代、親友で のちに作家となる藤沢桓夫、長沖一らと共に春団治の高座を追いかけ、彼の得意のかくし芸は春団治の 落語であった。   春団治の芸は、当然、戦後の上方落語界にも大きく影響を与えた。上方落語四天王の年長者であり牽 引 者 の、松 鶴、米 朝 に で あ る。六 代 目 松 鶴 が 亡 く な っ た 際、米 朝 は「あ の 春 団 治 と い う 人 と で す な、 (松 鶴 は) ま あ 子 ど も に し ろ『お っ ち ゃ ん』て な こ と を 言 う て、じ か に 知 っ て た 噺 家 の 最 後 で も あ り ま す」とこの時にことさら強調している。   その米朝も昭和八年、小学二年生の時に初めて大阪・南地花月に行った際、春団治の高座に接した。   「も の ご と を ア バ ウ ト に 出 来 な い、ち ゃ あ ち ゃ ん (米 朝 の 愛 称) 」と 門 下 生 に い わ れ る 米 朝 で も、幼 す ぎ てはっきりとした記憶はないそうだが、その時に同行した叔母から「あんたは初代中村鴈治郎も初代桂 春団治も見聞きしているはずだ」といわれたという話をのちに披露している。   要は戦後の上方落語復興の立役者二人がともに、初代春団治の空気に触れて繫がっているという事実 が、上方落語史を考える上で大切なことなのである。   そしてその松鶴、米朝の門下である笑福亭仁鶴、桂枝雀の二人は、初代春団治の影響を強烈に受け、 やがてそれぞれの爆笑落語の世界を創ってゆくことになる。   その初代桂春団治が死んで、大阪は名実ともに漫才の時代となってゆく

(10)

漫才の台頭   昭 和 五 (一 九 三 〇) 年 五 月 十 一 日、吉 本 興 行 部 直 営 の 演 芸 場 で あ る 大 阪 玉 造 ・ 三 光 館 で、 「二 人 漫 談」の 看板をかかげて、横山エンタツ・花菱アチャコのコンビがデビューした。   これが漫才時代の幕開けであった。コンビを組ませたのは、吉本の林正之助である。   エンタツ・アチャコ以前の万歳という芸能は、着物姿に三味線や鼓を片手に、ご陽気ではあるが、さ てその内容はというと猥雑で、時には卑猥極まりなく、面白くはあるが低級で品がなかった。それを支 える観客もまた、ごくごく限られた男性中心の層であった。   エンタツ・アチャコは、サラリーマン風の洋服姿で、家庭やスポーツの話題、世相のスケッチなど庶 民の身近な話題をテンポよく、スピーディなしゃべくりだけで演じてみせた。低級な娯楽であった万歳 を、幅広い世代が安心して無邪気に笑える芸能へと開拓したのである。   その人気は急速に高まり、デビュー三カ月後には、吉本でも最高の演芸場であった法善寺境内の南地 花月に「インテリ萬歳」として出演している。   エンタツ・アチャコの演目のなかでも、プロ野球出現以前に人気を極めた六大学野球のラジオ中継を 題材にとった『早慶戦』は大好評で、以後の漫才隆盛のきっかけとなった。 アチャコ「投げました」 エンタツ「投げました」 アチャコ「打ちました」 エンタツ「打ちました」 アチャコ「大きな当たり」

参照

関連したドキュメント

雑誌名 金沢大学日本史学研究室紀要: Bulletin of the Department of Japanese History Faculty of Letters Kanazawa University.

前述のように,本稿では地方創生戦略の出発点を05年の地域再生法 5)

地方自治法施行令第 167 条の 16 及び大崎市契約規則第 35 条により,落札者は,契約締結までに請負代金の 100 分の

「地方債に関する調査研究委員会」報告書の概要(昭和54年度~平成20年度) NO.1 調査研究項目委員長名要

2 前項の規定は、地方自治法(昭和 22 年法律第 67 号)第 252 条の 19 第1項の指定都 市及び同法第 252 条の

周 方雨 東北師範大学 日本語学科 4

(4) 鉄道財団等の財団とは、鉄道抵当法(明治 38 年法律第 53 号)、工場抵 当法(明治 38 年法律第 54 号)、鉱業抵当法(明治 38 年法律第 55 号)、軌道

尼崎市にて、初舞台を踏まれました。1992年、大阪の国立文楽劇場にて真打ち昇進となり、ろ