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石鹸洗剤メーカーにおけるマーケティング・チャネル行動の変遷

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(1)

      No.56

  石鹸洗剤メーカーにおける

マーケティング・チャネル行動の変遷

      高宮城朝則

      1999勾三12月

   小樽商科大学商学部商学科

(2)

目 次

工6はじめに一… 一・・・・… 一・一・・一・一一・一・一一・一・… !

H.マーケティング行動における卸売業との関係・一一一一一2

III。卸売業依存のマーケティング・チャネル行動・一・一… 一5 1.事業の生成期・一一・・一一・一一一… 一一一・一一一一… 5 2 マーケティング生成期(戦闘期から戦中まで)… 一・ 一・8  (1)花王のチャネル三惑

 (2)ライオンのチャネル政策  (3)チャネル政策の差異

3.マーケティング展開期(戦後から高度経済成長期まで) ・19  (!)花王:卸統合へのプロセス

 (2)ライオン:卸とのパートナーシップ構築  (3)チャネルにおける競争構造の変質

W.卸売業依存マーケティングの帰結一一一一・一一一一・一31

 !.卸売業依存のチャネル開発… 一・・… 一・… 一… 一一・31  2.チャネル政策の転換一 一一一一一・一・・一一・・一・一一・32  3.卸売業の変質・一・・一・一一一一・・… 一・・一・一・・一一一33  4.卸売業依存の帰結一一・一一・一一一… 一一・一一一一一34

注一一一・一一一一・・・・… 一一・一一一一・・一… 一・一・… 36

参考文献:一… 一一一・一・一・・・… 一・・一・一一一… 一一・・38

(3)

   石鹸洗剤メーカーにおける

マーケティング・チャネル行動の変遷

高宮城朝則

工.はじめに

 本稿は,石鹸洗剤メーカーのマーケティング・チャネル行動の 変遷を検討することによって,日本企業のマーケティング行動に おける適職流通業者との関係について論じる。議論の焦点は,晒 本企業のマーケティングにおける卸売業への依存である。

 日本企業では継続的で包括的な取引関係が志向されることから,

マーケティング行動においてはマーケティング・ミックス要素の なかでもとくにチャネルを重視して展開される傾向にある。この プロセスからあらわれる特徴の1つが卸売業への依存という側面 であるD。この側面が実際に日本企業においてなぜ生じたのか,ど のように展開してきたのか,それがマーケティング行動全般にた いしどのような影響を及ぼしたのかについて検討を行う。

 以下ではまず,企業と申間流通業者(とくに卸売業者)との関

係について,主として日本と米国とを比較することにより,日本

企業のチャネル行動の1特性である卸依存が「日本的」である所

以を明らかにする。つづいて,卸依存のマーケティング行動につ

いて,その特徴と具体的な展開を石鹸洗剤メーカーの歴史的分析

を通じて明らかにする。最後に,卸依存のマーケティングの帰結

について論じることにする。

(4)

11.マーケティング行動における卸売業との関係

 まず日本企業におけるマーケティングの特徴を米国の場合と比 較してみよう。米国企業のマーケティングは一般に市場取引型の 取引関係に基づいて展開される傾向にある。マーケティング担当 者は最終顧客への訴求をもっとも重要な目標として設定し,最終 需要を統制するために各種の販売促進手段を駆使するとともに,

顧格操作を塾主する。流通チャネルでの流通業者の統制はどちら かといえば二次的な課業であり,全体的にはプル型の戦略が重視 されている2)。マーケティング担当者がこういつた行動を採用する のは,米国企業では組織内での機能分化が鼎立になされる傾向に あるためである。マーケティング職能は製品開発や製造過程とは 厳洛に切り離され,最終的に生産された製品の販売に専念するこ とを求められる。マーケティング部門内でも各活動ごとに職能が 明確に規定される。

 これにたいし日本企業の場合,継続的・包括的な取引関係を基 盤としてマーケティングが展開される。ここから導かれるマーケ ティング特性がチャネル志向であり,米圏との対比でいえばプヅ シュ型戦略となる。日本企業のマーケティング目標は自社の営業 部隊をつうじてチャネルにたいし影響力を及ぼし,資源圏定的な 生産過程から排出される製品を安定的に供給することにある。日 本企業は米国のように価格操作を通じて需給を調節するのではな く,むしろ価格安定をめざしてチャネルにたいし供与する各種の 経済的報酬を主たる操作変数として駆使する1頃向にある。また日 本企業では,営業部隊が多様な活動を担っていることに典型的に 示されるように,マーケティング職能が厳格に規定されているわ

けではない。

 マーケティング行動におけるこうした違いは,日米の企業がそ れぞれ依拠する市場の基礎的条件の差異によるところが大きい。

様々な市場条件のうちで本稿との関連で重要な流通構造とそこに

おける行動の特性をみてみよう。業種による違いや時代による変

遷はあるが端的にいえば,まず米園では伝統的に卸売業が流通過

(5)

程を支配していた時代から,比較的早期にメーカーによる卸売事 業所の設置や小売への直販,小売業の組織化による卸売機能の統 合が進み,卸売業の活動領域は限定される傾向にあった。それで も卸売業の活動規模は小さいとはいえず,そこでは金機能を担う 商人卸売商の他にブローカーやレヅプなどの限定機能卸売業が発 達しており,メーカーがチャネルを編成する際の選択肢は比較的 豊富である。また卸売業はメーカーから直接取引をする場合が多 く,商晟種類を越えた比較的広い品揃えを保持する傾向にある3)。

 このような流通システムであるため,米国企業のチャネル政策 に関する意思決定においてはチャネル管理とともにチャネル設計 が重要な事項になる。チャネル設計においては既設チャネルの勝 連とともに代替的なチャネルの探索と評価がたえず行われる。流 通業者を利用する場合には,i業績動向や戦略の成否に応じて比較 的短期的に取引業者の変更がなされる。つまり米国企業のチャネ ル政策では流通業者を操作可能な対象としてみる傾向にある4)。米 国において卸売業者の選択基準や機能行為に関する調査が実屠性 をもって受容されるのはこのためである5)。

 一方,日本の場合は周知のとおり流通経路における卸売業支配 が根強く続き,メーカーはそれを前提としてマーケティングを展 開せざるえを得なかった。日本の卸売業の特徴を概括すれば,① 伝統的に多機能を担っている,②商昂種類ごとの専門分化が進ん でいる,③多殺階構造が形成され,元卸を中心に取引系列が形成 されているなどとなる6)。このような条件下で日本のメーカーには 流通業者の選択に関して相対的に選択肢が少なく,〜度取引関係 を結んだ流通業者とは関係を継続させる傾向にある。つまりチャ ネル政策ではチャネル設計にかかわる意思決定を行う機会が少な

く,チャネル管理にたいし獺対的に比重が置かれることになる。

 チャネル管理では,日本企業は種々の手段を講じて卸売業など の流通業者を自社の販売代理店として系列化することに努力を傾 注した。この点に関して,系列化された卸売業は販売代理という 意味では米国のブローカーやレップなどの卸売業と岡様である。

だがブローカーなどの米国の限定機能卸は特定メーカーの鞍馬の

みを扱い,商品の所有権をもたず物流活動にはほとんど関与しな

(6)

いが,日本の卸売業は所有権機能を含めより広い卸売機能を担っ

ているのである7)。

 さて以上のような日米の対比から,伝統的に日本企業が相対的 に卸売業に依拠してマーケティングを展開してきたことがわかる。

日本企業は市場開拓にさいして卸売業のもつ全国的な販売網と小 売店に対する密着的なサービス提供能力に依拠し,また市場情報 の収集に関しては卸売業のもつ情報収集・縮約能力に依存してき た。さらに卸売業の嬢合機能によって売掛債権の保全を行い,リ スクを軽滅することができたのである。

 だが時代を経るにつれ,とくに戦後には大規模メーカーが米国 型マーケティングの展開とともに積極的にチャネルを支配する動 きをみせ,卸売業を選別して系列化を強化したり,一部では卸段 階を自社内に統合することで卸売業への依存から脱却する傾陶に ある8)。しかし,たとえば卸段階を統合するさいには,メーカーは 卸売業への依存関係を基盤として統合を進めている。また依然と

して多くの企業では卸売業のネットワークに依拠してマーケティ

ングが展開されているのである。

(7)

III.卸売業依存のマーケティング・チャネル行動

 本節では石鹸洗剤メーカーのマーケティング・チャネル行動を 取り上げ,創業時から戦後の高度経済成長に至る段階までの政策 展開の変遷を検討することで,日本企業の卸売業依存マーケティ

ングの特質をとらえることにする。

 取り上げるのは花王とライオンの2社であり,両社は比較的早 い段階から異なるチャネル戦略をとっており,かつ現在では花王 が卸段階を自社に統合し,ライオンが卸売業を活用する中でマー ケティングを展開するというきわめて対照的な政策を展開させて いる点で興味深い素材である。

 以下では明治中期の創業段階,第一次・第二次世界大戦のいわ ゆる戦心墨,戦後の高度経済成長に至る段階の3つに分けて検討

していくことにする。

1.事業の生成期

 簸初に爾社の創業の経緯について簡単に触れておこう9>。

 花王の前身である長瀬商店は,1887年(明治20年)に長瀬富郎

が石鹸を含む洋小間物の卸・小売販売事業を始めたことから呂発

している。舶来昂にくらべて國産化粧石鹸の品質が著しく悪いの

を見て,長瀬は高品質化粧石鹸の製造に着手し,1890年(明治23

年)に有銘高級(ブランド)化粧石鹸の販売を開始した。一方ラ

イオンでは,初代小林富次郎が明治初頭から石鹸の製造・販売を

経験し,その後独立して国外(上海)での石鹸製造を試みたりマ

ヅチの軸木の製造・販売に関与したりしながら,1991年(明治24

年)に小林富次郎商店を開設した。この商店では石鹸原料などの

取次からはじめて各種原秘料の卸・販売に手を広げ,同時に石鹸

の委託販売,さらには1992年(明治25年)に石鹸工場の建設を行

い本格的な石鹸製造に取りかかっている。なお,これらに先立つ

1872年には売薬業として資生堂が創設され,次第に化粧品製造に

事業の主力を移しだしている。

(8)

 明治時代の石鹸業界では高品質高価格の舶来品が出回る一方,

国産化は技術的に著しく立ち遅れており,多数の零細な製造業者 が有力問屋の委託生産により粗悪な廉価品を生産していた。だが 明治も中期になると,長瀬や小林のように石鹸の品質改善に取り 組む業者もみられ,国産高級石鹸はこの努力の過程で生み出され

てきた。

 しかし当時,石鹸の消費市場は高級石鹸を受け入れるほど十分 な潜在力がなかった。一部の高所警鐘を除けば石鹸は大衆が臼常 的に使用する物昂ではなかったし,その後徐々に浸透してきたが それでも品質の良し悪しを判断できる能力を大衆に期待すること はできなかった。このため廉価贔が多数出回る中で圏産高級石鹸 の販売は困難をきわめた。

 この時代石鹸は小間物屋や雑貨屋,売薬業者などによって小売 販売され,卸段階では伝統的な卸閥屋が本舗として介在し二次卸 などに販売していた。この状況下で長瀬と小林は一方で積極的な 宣伝活動を展開するとともに,販路の開拓に力を注いでいる。ま ず長瀬は花王石鹸の発売にあたり,当初から全国的販売を躍指し ている。このために東京,大阪などの各地の有力卸聞屋を代理店

(A級代理店〉として指定し,卸の利幅を確保するとともに数量 割引などの販促策を用いて販売に努めた。代理店からは帳合先の 二次的(B級代理店)に販売され小売店へと流されていった。

 長瀬が早くから全国市場を目指していたことは,花王石鹸発売 当初から大阪の卸売商との取引を開始したことから見てとれる。

大阪は江戸時代から薬品や小間物の流通の中心であった。長瀬は 大阪で舶来雑貨輸入卸を営んでいる大崎組商会にたいし関西での 一手販売を依頼している。大崎は長瀬とは旧知の仲であり,長瀬 が独立した折りには商品供給により援助し,石鹸の製造販売でも 支援を与えている。大崎組などの卸にとって輸入雑貨などはきわ めて薄利であり,利幅が大きく成長の可能性のある国産石鹸を取 り扱う魅力は非常に大きかったといえる。大崎組は花王石鹸の取 り扱い後は徐々に輸入雑貨から小間物化粧品に主力を転換させて

いっている。

 一方,小林も長瀬とほぼ同様に,それまでの事業経験で得た人

(9)

的ネットワークを使って既存の多様な卸問屋を通じて商品を流通 させていた。ただ小林の場合,当初全国市場を閣指していたかど うかは不明である。後にライオン石鹸株式会社が設立された1919 年(大正8年)当時でも石鹸の販売地域は北海道,東北,奥羽,関 東,房総,信越程度であった。大阪から西[ヨ本の市場開拓は昭和 に入ってからである。これに対して花王は20世紀初頭には北海道

と東北を除く金鎖に販売網を設けている。なお,爾社とも当初か ら大口需要家への直接販売に着手している。長瀬の場合は陸海軍 や東京周辺の病院に,小林は陸軍や鉄道のほか八幡製鐵,東芝,

鐘紡などの大規模製造業に商品を納入している。

 さて,創業期の両社の経営とチャネル政策の展開について簡単 に見てきたが,その特徴を整理する。第1に両社ともに既存の卸 売流通網を利用することで比較的短期間で市場を開拓できたとと もに,それによって取引費用を節約し製品開発や広告宣伝などの 販売促進に注力できたといえる。この点に関連して,創業当時に おけるメーカーの営業活動では罵者取引と呼ばれる様式がとられ ていたことが重要である。伝統的に東日本一帯の小間物の地方取 引では,地方の卸売商が上京して日本橋馬喰:町あたりを定宿とし,

そこからメーカー一本舗に出向いて商談を行うというスタイルが一 般的であった10)。また宿に本舗店員が出向く宿 羅も広く行われて いたll)。石鹸などの比較的新しい商品も同様の方法で販売がなさ れ,これにより交通・通儀手段がいまだ十分整備されていなかっ た時代にメーカーが地方に出向いて営業活動を行う費用を節約で

きたのである。

 ただし,既存流通網の利用に際しては旧知や縁故関係が最大限 活用されていることを見逃してはならない。創業者たちは前歴ば かりでなく独立後も石鹸の製造にのみ関わっていたわけではなく,

卸・小売,仲介業など多種多様な活動に携わっている。つまり商 機のあるところには積極的に関与し,こうして形成された人的ネ ヅトワークが石鹸の販売網構築の際に十分に活用されているので ある。これが第2の特徴となる。

 第3に,販売網の開拓に際してメーカーは単に既存卸売業から

販売協力を得たばかりではなく,生産自体に関わった資金援助も

(10)

受けている。すなわち江戸時代に確立された前貸制度に代表され る問屋制資本の機能を,部分的であれ彼ら自身も享受したといえ る。しかしより興味深いのは,彼らメーカー自体が本舗としてよ り零細な石鹸製造業者に委託販売を行っていたことである。この ように創業段階において,彼らの事業は製造にも関わり問屋とし ても機能していたという特徴ももっている。こうした製造と流通 の未分化の段階から,成長分野としての製造事業にたいし次第に 事業を下々させていった。これが創業時から大正時代初頭にかけ ての石鹸メーカーの成長プロセスにおけるもう1つの側面であっ

た。

2。マーケティング生成期(戦間期から戦中まで)

 この段階は製造企業が本格的に市場獲得支配を囲指し,とりわ け流通チャネルに対する政策を積極的に展開し出したという意味 で,マーケティングの生成段階であると言えよう。以下そのプロ

セスをたどる12)。

 日清,日露戦争の激動期から第1次世界大戦をへて好不況の波 を受けながらも,石鹸業界は次第に大規模産業へと成長してきて いる。この時代に花王やライオンがとった経路政策はその後の爾 社におけるチャネル統制の噛矢といえるものである。まず当時の 石鹸業界の状況を見てみよう。

 消費市場についてみると,これ以前までは一般家庭における石 鹸の消費は洗濯石鹸を申心に徐々に浸透しつつあったが,必ずし も実用品とはいえなかった。とりわけ花王石鹸などの化粧石鹸は 大衆にとって依然として高樋であった。しかし1920年前後になっ て石鹸はようやく日用生活用品として認知されるようになり,

1922年には政府によって税制上贅沢品としての適用を除外されて

いる。

 一方,第1次世界大戦前後から鉄道網が全圏的に整備されたこ とや電話が普及したことなどで,流通インフラストラクチャーが 整備され,メーカーに市場範囲の拡大を促した。

 しかしこうした輸送・通儒手段の整備・改善にもかかわらず,

(11)

石鹸業界の生産・流通構造は旧来の形を引きずっており,これが いわゆる落間期になって花王・ライオンなどの石鹸メーカーに販 売問題をもたらした。最大の販売閤題は流通の小売・卸段階での

乱売であった。

 第1に石鹸生産においてはいわゆる二重構造が生じつつあった。

一方で大手メーカーは設備投資と経営合理化を活発に行い,嗣時 に石鹸製造と原料生産を統合しつつあった。他方で中小規模の石 鹸製造業者は前段階から見られた問屋による委託生産に加えて,

大手統合メーカーの下請生産に甘んじる傾向があった。こうした 従属的な立場での生産プロセスから生み出された石鹸は相対的に 低品質であり,大手メーカーのブランド商品とくらべ品質面の格 差も著しかった。たとえば卸聞歴の中には中小メーカーの生産閑 散期をねらって留型石鹸を安く発注することもあった。こうした 結果,市場にはブランド品の石鹸と追申質な無銘品が併存する状

態となった。

 第2に流通では卸段階だけではなく小売段階でも競争が激化し ていた。まず卸売段階では伝統的な卸問屋が支配する構造が維持 されていた。かれら卸問歴はメーカーによる数量割引を利用する ために小売店にたいし押し込み的販売をする傾向があり,これが 小売段階での廉売を促していた。〜方小売段階では中小零紹iな一 般11、売店と台頭しつつある百貨店,購買組合などとの競争が激化

し,とりわけ百貨店の勢力拡大は中小小売店を圧迫ししばしば紛 争が生じている。石鹸や化粧品はこの業態問競争におけるおとり 廉売の標的の1つとなった。

 第3に販路をめぐるメーカー間の競争もあらわれ始めている。

活発な広告・販売促進活動が大手メーカーでなされる一方で,流 通業者を争奪する動きが生じたり,一都では小売店への直接販売 が試みられたりした。とりわけメーカーが流通業者を確保する活 動のなかでなされた特売や値引きが経路での廉売の原資となる傾

向にあった。

 こうした状況下で各石鹸メーカーは本格的な販売網の改革に着

手せざるを得なかった。

(12)

(1)花王のチャネル政策

 昭和に入ってから,花王は小刻みなチャネル政策を展開してい る。卸・小売段階山方での乱売への対応として花王がとったチャ ネル政策は卸段階にたいするものであった。

 まず前もって注意すべきは,石鹸メーカーが対楽した卸売ネッ トワークはこの時期でも全国的に均質な卸閥屋によって構成され てはいなかったということである。明治の石鹸産業の生成期から この時期においても,商品種類では薬業系,香芋系,小魚物系,

輸入雑細心などの卸が石鹸の取り扱いをしていた。洗濯石鹸につ いてはこれに荒物系の卸問屋が加わる。衰亡店にとって石鹸が主 力商品であるとは限らず,同時に各卸店は商業者として石鹸につ いても複数メーカーの商品を取り扱っていた。また経営組織の面 からみれば,江戸時代からの老舗に加えて明治期以後の新興業者 が石鹸販売に関わった。これら間屋の事業規模の面でも東日本や 西臼歯といった大商圏をもち自らは帳合取引のみを行う元卸問屋 もあれば,都市や地方の零細な二次・三次卸店も多数存在してい た。また全般的にはのれんや人的関係を重視する姿勢を経営体質 として有していた。このように石鹸メーカーの販売網を溝成する 卸白市の性質は伝統的であり,かっきわめて多種多様であったの

である1:D。

 この多様さを吸収する1つの方策がA級代理店とそれ以外の区 別である。しかしこれは石鹸メーカー自身が選択した方策ではな く,江戸時代に発する大手間麗支配の流通を前提としなければ販 売が立ち行かず,創業以来それに従ってきた結果である。当r時の 花王製島の販売網は基本的には花王から都市と地方の無心(A級 店)を経て二次卸(B級店)や三次卸(C級店)に流れる経路で あった。商品の物流自体はA級店に配送される店入晶とB・C級 店に直送される帳合宅送品の2通りがあった。この販売網をさら に複雑にしたのは,A級店の申でも東京や大阪の大規模な卸は広 域代理店として機能し,他地方のB・C級店と帳合関係にあった ことである。また一部の卸では二重帳合関係も形成されていた鋤。

このように卸ネットワークはきわめて複雑な状態にあり,これは

花王が当初から全国市場をめざして可及的に代理店を増加させて

(13)

きたためでもある。さらに関粟大震災の前後からは,従来の居者 取引から出張販売に転換し代理店を一層開拓するとともに,卸に

たいする値引きとしての特売を恒常化し拡販につとめていた。

 このような販売網においておとり廉売を申心とする乱売が長年 続けられていたため,1931年(昭和6年)の新製品「新装花王」

の発売をきっかけとして,チャネル網の整理に着手している。開 発された新装花王は高品質化して緬格を下げるといういわばエク セレント商品であり,チャネル政策の一貫を撮うものであった15)。

 まず1931年に全国を約!0のプロヅクに分割した上で,広域代理 店の他地域の卸との帳舎関係を解消させて,帳合先と花王との直 接取引に転換している。この際,元の広域代理店にたいしては謝 礼金と称した実質的な手切れ金を支払った。第2に二重帳合関係 を整理し,原則的に一店一帳合としている。第3に広域代理店網 と二重帳合の解消の結果生じる空隙を埋める施策としては地域ご とに異なった方法を採っている。まず西日本において従来大阪の 広域代理店と関係があったB心血の中から選別して,花王と直接 取引を行うA級鷹に昇格させている。他方,これまで東京のA級 代理店との帳合関係が多数あった東海道甲信越地域では,従来直 接取引のあった卸をA級代理店に格上げし,さらに各県下の二 次・三次卸店の中から副代理店を選別した。この代理店・副代理 店を中心にして各地域のB級店を配するという販売網とした。同 時に卸問屡の横断的組織である花王会を結成し,各十階の卸と花 王問の連携関係の強化につとめている。いずれにせよ,取引関係 については従来よりも簡素化したものとしたのである。

 経路網の整理とともに,取引条件の改善にも取り組んでいる。

新装花王の発売では織製品の小売価格(正価)が15銭であったも のを10銭とした。これにともない卸建値も1ダース!円5銭とし この維持につとめた。卸への販促手段としてA級代理店にたいし ては従来の報酬券(一種のりべ一ト)を廃し実質的な取引毎の値 引き販売とし,B級以下についてはりべ一ト制を明確化した。こ れに加えて数量割引をA級店・B級店にたいし年度末に付加した。

こうした手厚い施策によって各卸段階の建値を明確化するととも

に小売段階での正価維持につとめている。

(14)

 しかし,これら一連の政策展開の成果はめざましいものとはい えず,依然として建纏は維持されずに乱売が頻発した。また帳合 関係の解消などは一部卸店の反感を買い,越境販売が見られたり

した。

 ところで新装花王の発売で間題となったこととして瞼製品の取 り扱いがあった。これについては旧製品の返品買い取りに実質的 に無条件で憾じることにした。このため皮製品の返品は膨大なも のとなり,花王の見込み買い取り予算をはるかに越える金額に達 した。この努力にもかかわらず市場には縫製晶が残り,新旧乾製 品が併存する状態がしばらく続いた。なおこの展開で注自すべき は,返品された翻製品を再訂朝して別ブランドの石鹸とジャンプ ーを闘発したことである。このうち石鹸の販売では雑貨系という 新たな販路の開拓に取り組んでおり,シャンプーでは市場調査が 綿密に実施されている。こうした取り組みがきっかけとなり,関 連製品ラインの形成につながっている。

(2)ライオンのチャネル政策

 花王が既存卸売網の中で改革に取り組んだのにたいし,ライオ ンの政策展開はその枠をはみ出すものとなっている。

 大正8年(!919年)に小林商店から独立したライオン石鹸株式 会社は,商品開発体制と販売体制の見直しを行っている。当時の 石鹸業界では化粧石鹸の分野で花王の長瀬商会とミツワの丸見屋 が二大勢力として優勢であり,ライオンの化粧石鹸はこの市場に はなかなか食い込めない状況であった。そこで洗濯石鹸分野に暴 力し,大正9年に国内初の植物性洗濯石鹸を開発・販売した。こ れはその後改良を加えて同社の主力商品に育っている。

 一方,販売に関しては従来小林商店に依存していたが,独立と

ともに自前の販売体制をしいた。新たな販売体制はいくつかの成

果をもたらしている。まず,大正!0年に市内販売部を設けて東京

都下の小売店への直接販売を開始している。ライオンが直販に取

り組んだのは,販売を問屋に依存しているかぎり消費者大衆へは

高品質高価格のライオン製品がなかなか浸透しないと認識したた

めである。つまり消費者に直接製品の品質を知らせる方法が検討

(15)

され,小売店への直販が採られたのである。実際,ライオンが主 力としている洗濯石鹸はこれよりやや後の時期でも,化粧石鹸に

くらべて消費者の品質認知が弱かったようである16)。

 小売への直販は従来の問麗への完全依存からの離脱であり,憲 然のこととして既存卸売業者から反感をかった。しかし都下での 試みは成功し,大正14年には横浜で,昭和3年の大阪出張所設立 後は大阪,京都,神戸,和歌山,姫路などにおいて小売店への直 販を広げていっている。この結果,この段階におけるライオンの 販売体制は販売部をトップとして市内販売部と地方部に分かれ,

商品は①市内販売部から都市小売店へ,②市内販売部所属の団体 購買係から職域へ,③地方部から一次卸・二次卸を通じて小売店 へという3ルートで販売された17)。

 2番目の成果は②のルートでもたらされている。創業当初から 製造業などの大口需要家への販売を行っていたが,大正9隼に全 国産業組合中央会物資斡旋所との直接取引を開始している。物資 斡旋所はすぐ後に全国購買農業協同組合連合会(全購連)に組織 替えされた大口需要家で,戦後の全国農業協嗣組合連合会(全農)

の前身にあたる。

 物資斡旋所との取引は洗濯石鹸,化粧石鹸などをライオン・ブ ランドと相手先ブランドで供給することを内容としていた。この 取引は全購連になって以後も順調に推移し,大正1!年には独占販 売契約を締結するにいたっている。この契約により嗣年の取引額 は150万円となり,実にライオンの総売上高の3割に達している。

この取引関係は戦前を通じて保たれ,安定需要を確保できたこと によりライオンの成長に大きく貢献したことはいうまでもない。

 第3に,花王が取引制度の改革に乗り出した時期に,ライオン は小売段階での専売店制を実施している。当時ライオンは新鋭工 場を建設中であり,これによって原料から製品までの一叢・統合 メーカーとしての地歩を進む途上にあった。また卸・小売段階で の乱売に対する資生堂連鎖店組織化などの動きが〜定の成果を架 せ始めた時期でもあった。

 ライオンは専売店制の実施に際して昭和6年に社内で検討を開

始している。その内容を要約すれば次のようになる18)。①専売店

(16)

は各代理店管轄下の/1、売店より代理店の推薦によって選定する。

選定基準はライオン洗濯石鹸を年間50パーセント以上販売してい ることとし,その店を専売店として登録する。②専売店は洗濯石 鹸に関する限り,今後ライオン・ブランドのみ販売し,前年の扱 い高以上に増介する。③ライオンは専売店が②に従って他社製品 に販売を取り止めた場合,その年間販売額が前年に比べて減額す る時は滅売のない時に得られるべき利益(小売価格の20パーセン ト相当)を保証する。④ライオンは販促資材を登録量売店に提供 する。⑤代理店は管轄下の専売店の売上を毎月ライオンに報告す る。また専売震の売上麟標達成のために専売店に協力する。

 実施に要する③の利益保証が懸念され1年半ほど先延ばしされ たが,昭和8年に実施に移されている。早速各地の代理店である 卸間屡に協力を求め,また共存共栄を謳って小売店にたいする説 得を行った。ほどなくその成果が表れ,開始1年間で東京を除く 全国で約1400店が専売店として登録され,専売店のライオン製品 の売上は5割増になっている。その後昭和10年には全体で5000店 となり,翌11年からは東京都下でも開始し,総店数は1万店を越 える規模に達している。専売店の全体露な売上は好調に推移し,

実施前に懸念された利益保証は制度発足!年目で不要になってい

る。

 このように成功を収めた取り組みであったが,昭秘14年以降は 準戦時体制に入ったために制度を継続することが不可能になって

いる。

(3)チャネル政策の差異

 戦問期における両社のチャネル対応を全体的にみれば,花王が 既存販売網の枠内で政策展開したのにたいし,ライオンは小売直 販や専売店制など大胆な政策転換を行っていることがわかる。こ こでは,こうした両社の政策展開に見られる違いはなぜ生じ,そ れがどのような帰結をもたらしたのかについて検討する。まず花 王から見てみよう。

 この時期に花王は創業当時からの強い成長志向を持続させ,生

産プロセスへの積極的な投資により統合メーカーとしての地位を

(17)

確立させていった。そしてそこから生み出される製品の販路を獲・

得することがマーケティング囲標となり,本格的な拡販体制に入 っている。このような政策穏標の下で可及的に販路開拓に取り組 んだが,そのプロセスで政策展開の阻害要因となったのが既存卸 売流通網であった。

 第1に,既存卸売業が持っている販路網には限界があったとい う点がある。比較的先発のメーカーとして花王は各地の有力卸を 代理店・特約店として組織化していったが,そのネヅトワークを しても全国をくまなく埋めるものではなかったのである。花王自・

身がそれまでの居者取引から出張による販路開拓に転換したこと がこのことを示唆している。第2にこの時期には資生堂,クラブ,

レート,ライオンなどのメーカーとの販路獲得競争が本格化して きている。これにたいし花王は特売などの施策により卸の獲得・

維持につとめたが,既存卸売網には激化するブランド間競争への 花王の対応策が十分浸透しなかったのである。これら2点はいず れも当時の卸売業の特質に直面している。既述のように,当時の 卸売業は規模や取り扱い商品の藤できわめて多様であるとともに,

帳合取引に甘んじる経営体質やのれんを重視する江戸時代以来の 伝統が継承され,メーカーが期待する拡販にたいし積書的に対応 しなかったのである。商業者として機会主義的に行動するという 彌もあったが,むしろこうした非成長志向性,つまり安定志向が 花王の成長志向とは衰齢をきたしたという点が,花王によって認 識されたと考えられる。

 この翻案がより明確に意識されるのは流通段階における乱売の 頻発によってであった。乱売はすでにみたように複合的な要因に よりもたらされたであろうが,花王にとっては自社の卸売ネヅト ワークにその根源があった。すなわち既存卸を活用することで販 路網を拡大することができたが,その結果として花王はすでにみ たように雑多な卸とともに経路網や繧合が輻藤するチャネルを抱 えることになった。こうしたチャネルでは,たとえば卸が拡販値 引きを求めて押し込み的販売を下流の経路にたいして行ったり,

二重帳合のために下位卸に適切な下荷がなされないなどのように,

ネヅトワークの各所で乱売の発生源がもたらされた。このためい

(18)

くら特売・りべ一一ト供与などの手厚い施策を卸に施しても,かえ って逆効果となった。こうして乱売におけるブランド内競争も発 生しこれへの対応が危急の課題になったといえる。そこで花王は 経路に対する政策を転換し,販路網の整理と取引条件の改革に取

り組んだのであった。

 しかし上述したように,一連の政策は卸の反発を招くとともに 乱売を阻止することも実質的にはできず,その成果は芳しいもの ではなかった勘。それほど既存卸売業の志向性は根強く,その経 営体質を変えるにはいたらなかったのである。だが,花王にとっ てはマイナスばかりではなかったであろう。第1に,業界のトヅ プ・メーカーとしてチャネルにたいし明確に自己の意思表示をし たことの意味はゼロではなかったはずである。少なくとも卸にた いし「もの言う」メーカーとしてのプレゼンスを示すことはでき たであろう。第2に,一連の制度改革への取り組みをつうじて,

絶えず生じた卸とのコンフリクトへの対処の経験や,帳合関係の 整理のために実施した調査などの情報収集能力が内部に蓄積され,

その後ノウハウとして体現されることになったと考えられる。ル ービンファインが「問題は次々に起こっただろうが,花王にはそ れに対処する術が身についてきたようである」2G)というのはこの 意味においてである。第3に,既述のように新装花王石鹸の市場 導入の際に旧製品の返品が大量に発生したが,これは新商品の開 発に再利用されている。この結果生み出された製品群が後に製品 系列を拡張することにつながり,卸との取引を有利にするための 支つの基盤となったことも無視されてはならない。以上のことか ら,花王のこの段階におけるチャネルへの取り組みは漸進的革:新 2Dというよりはむしろ次の段階での華新の芽を生み出したという

ことができるだろう。その意味で戦後におよぶ長期聞にわたるプ ロセス・イノベーションの端緒であったと見なせる。

 一方ライオンの場合,この殺階におけるマーケティング目標が 市場拡大にあったことは花王と同様である。ただしライオンでは 花王とは異なる背景での拡販追求であった。すなわちライオンは 業界の下位企業としてのポジションにあり,先発大手に追随する

ことが謹標となっていたということである。この特定化された鰹

(19)

標下での販路拡大政策なのであった。この点がライオンのチャネ ル政策に色濃く反映されることになる。

 ライオンは成長自標の選択にあたって2つの制約に直面してい た。第1に,化粧石鹸を主軸とする先発大手企業にたいし商品力 の点で競争劣位にあったという点である。このためライオンはニ

ヅチ市場を形成すべく洗濯石鹸に傾斜することを選択している。

しかし第2に,主力とすべき洗濯石鹸にたいしては消費者市場に おける認知度が相対的に低かったという点である。したがって需 要自体を掘り起こすという課題にライオンは直面したのである。

 このような戦略課題を抱えつつライオンは販路拡大に着手した のであるが,当時の卸売ネヅトワークは花王が直織したものと同 じであり,既存卸売業は伝統的な性格を保持して成長志向に欠け ており,ライオンの拡販政策には同調しないものであった。しか

しより重要なことは,開拓すべき市場における主要な卸販路がす でに先発メーカーによって奪われており,比較的後発のライオン にとっては不利であったこと22>,ならびに卸にとっては消費者認 知の低い洗濯石鹸を取り扱う魅力が相対的に低かったということ である。これらのためにライオンは既存卸を活用するというチャ ネル政策を転換せざるを得なかったのである。

 このライオンの政策転換を背後から支持したこととして大口需 要の確保を指摘しなければならない。物資斡旋所との直接取引の 開始とその後の全購連との独占販売契約は,売上高の3割に達す る安定需要を提供してライオンの経営基盤確立に寄与するととも に,販売力をその他の分野に振り向ける資源的な余裕を一与えるこ とになった。以上のことからライオンは小売への直販や専売店制 の導入という革新を展開していったのである。

 ところでライオンが小売への直販制を導入する際に既存卸の反 発を回避することと,小売直販にともなうコストやリスクをどの ように吸収するかが戦略上の要点であっただろうが,ライオンが それをどのように克服できたかは明らかになっていない23)。ただ

し前者については,1つにはライオンの取引先卸が花王などにく

らべ相対的に有力な卸ではなく,かれらの卸売業界での発需力も

小さかったことが考えられる。もう1つとして,ライオンは二番

(20)

手以下の企業であり花王のようなリーダー企業ほど業界における プレゼンスがなかったという点も指摘できる。実際,昭和11年度

(1936年度)の花王の売上規模819万円にたいし,商品構成の違い はあるもののライオンは415万円と半分程度であった。このうち3 割強が大口需要家への直販であったから,卸経由規模となるとそ れ以下になる。このように帯場シェアの小ささゆえにライオンの 政策が花王ほど業界の注圏を集めず,小さな動きとして卸の危機 感をそれほど煽らなかったということが考えられる。

 さて,その後の経過が示すようにライオンの政策転換は目立っ た成果を収めている。すなわち部分市場においてではあるが,ラ イオンは卸を迂回する経路の構築に成功し,專売店制も着実に拡 大しつつあった。こうしてライオンは選択した成長経路を進んで いくはずであったが,しかし戦時経済への突入によりこれらの政 策遂行が函難になってしまっている。この点が後の段階における ライオンの政策展開に作用したといえる。すなわち,ライオンは 小売直販の推進プロセスを通じて小売と直接取引するノウハウ,

すなわち卸売業の経営ノウハウを内部に蓄積していったと考えら れる。しかしこのノウハウは卸段階における配給統制組合の組織 化を中心とする戦時統制経済下では活かされない性質のものであ ったのである24)。このためライオンは蓄積したであろう経営資源 を後の時代に十分継承することができなかったといえる。

 だが,次の時代に継承できなかったものがもう!つあるだろう。

それはライオンが政策転換において部分的であれ卸を文字通り迂

回したことで,花王のように卸にたいし全社的に対応してコンフ

リクトを解消していくというプロセスをあまり経験していなかっ

たということである。もちろんライオンも既存卸と取引関係にあ

り卸との間でコンフリクトに直面している。だがそれは市場地位

が相対的に低い企業のそれであり,花王のようにトヅプ・メーカ

ーとしてある意味では業界の帰趨を賭けた取り組みであったとは

言い難いであろう。

(21)

3.マーケティング展開期(戦後から高度経済成長期まで)

 ここでは戦後の統制経済下における石鹸業界の生産流通体制と チャネル政策から,昭和40年代における花王による卸段階統合に 至るまでの動きについて検討する。巖初にこの段階の史的展開に ついて簡単に触れておく25>。

 まず,戦後統制経済はメーカーの生産体制に大きく影響を及ぼ すと嗣時に,流通チャネルにおける政策展開にも作贋し,ある意 味ではその後のチャネル政策転換の契機となっている。石鹸など の滴脂製品は政府統制下にあり,原料は割当となったため原料の 確保が各メーカーには至上命令となった。昭和22年に指定生産資 材割当方式が施行されたが,いくつかの弊害をもたらしたため岡 24年にはクーポン制に切り替えられている。クーポン制は割当量 を決定する時に需要動向を基準とするもので,消費者から小売・

卸売店を経由してメーカーに収集されたクーポン(購入切符)の 数に応じて原料を割り当てる制度である。このクーポンをめぐっ てメーカーが卸・小売段階を巻き込んで激しい争奪戦を引き起こ している。この争奪戦は図らずもメーカーによる荒廃した販売網 の再生プロセスと時期的に璽なり,むしろ再生を促進しているよ

うにさえ見える。

 統制解除と朝鮮戦争が起こった昭和20年代後半には,業界にお ける過剰生産体制のために中小メーカーと卸華麗の倒産が相次い だ。この結果,生産段階での集中化が生じる一方で,中小メーカ ーによる価格ダンピングなどが横行し,その反動で業界の中で安 定化を求める動きが生じた。石鹸メーカーは自社の販路網の建て 直しに本格的に取り組み出した。

 昭和30年代は日本経済が戦後復興期から脱し高度経済成長への

橋渡しをする時代である。石鹸業界ではメーカーによって旺盛な

設備投資が行われ,同時に消費市場における家電製品(とりわけ

電気洗濯機)の急速な普及に対応して,洗濯溺では石鹸から合成

洗剤への切り替えがなされ,昭和38年には石鹸と合成洗剤の生産

量の逆転を見ている。洗剤市場の伸びとともに業界への新規参入

が相次いだが,むしろ花王とライオンの土場2社がそれ以下を引

(22)

き離す結果となった。つまり急速に寡占市場が形成されていった

のである。

 しかしその〜方で流通過程では小売段階においてスーパーが登 場して急速に台頭し,小売段階に価格競争をもたらすとともにこ れに対応できない卸売業者を急速に窮地に陥れた。また輸入自由 化による外資参入の脅威も強まってきており,これらがメーカー にたいし流通経路網を再構築する強い動機を提供した。

(!)花王:卸統合へのプロセス

 戦後復興期に花王は戦前に確立した経路網を徐々に復活させて おり,クーポン争奪戦においても代理店約500,特約店約2600のネ ヅトワークカが強みを発揮した。統制解除から昭和30年代はじめ は石鹸・油脂メーカーが復活させた販路網の強化に乗り出した時 期であるが,花王はいち早く昭和29年に花王共栄会を結成し問 屋・代理店との連携関係強化に着手している。そして同年の花王 油脂と花王石鹸の合併による新花王石鹸の誕生を期に販売体制の 改革を行い,営業部を廃して販売部を独立させ,その下に代理店・

特約店を結集する体制を整えた。その後,大口顧客との取引では 特販部を設置し,1963年には全購連への納入契約を成立させてい る。既述のように,これは戦前ライオンが独占契約していた需要

であった。

 新花王の誕生を期に,戦前同様の小刻みなチャネル改革を開始 している。まず取引サイト短縮の取り組みである。従来流通業者 にたいする取引サイトは90日から!20日が一般的だったが,1958年 の新製品発売の際に新製晶については都市部で45日,地方で60日 を売掛回収期間として設定した。次いで新花王石鹸の発売の際に は帳合の再編を図っている。ここでは新花王石鹸の代理店契約を 新たに締結した卸のみを代理店として選定し,同時に代理店が推 薦するエリア内の卸窩のなかから特約店を選定し,その上で代理 店にたいし傘下の卸・小売店への価格維持の指導を励行するよる 要請した。さらに毎月2回の決済期限を設けるとともに,取引サ イトを45日に厳守することを要求した。その他にも予約注文制,

計画出荷制なども導入している。その酒こうした取引様式を他の

(23)

製撮にも適用していくとともに,現金決済の促進,即時数量割引 の導入などを行い,徐々に業界初の作業として取引慣行に手を加 えていったのであった。

 しかし,このように伝統として根づいている取引慣行にたいし 段階的に改革のメスが入れられたにもかかわらず,業界での過当 競争は収まらず,取引先代理店の経営が逼迫するという状況が続 いた。とりわけスーパーなど大型小売業が30年代後半以降急成長 するとともに,その大量販売の1つの戦術であるおとり廉売の対 象に石鹸・洗剤のブランド品が利用されだした。とりわけトヅプ・

ブランドとしての花王製品は格好の標的になった。この戦術下で 大型小売業は納入業者である卸問屋にたいし特別割引を要求し,

卸問歴の利益を圧迫した。さらにおとり廉売の影響は既存近隣小 売店の経営にも影響を及ぼし小売店自体も納入業者にたいし値引 きを要求するようになった。このため卸門門の経営はますます圧 追され,既に記したように大量倒産が発生した。昭和36年から⑭ 年までの間に石鹸洗剤問屋3300余社のうち119件の倒産が生じて いる。このうち花王代理唐の倒産は463店中23件に及んでいる。

 そこで昭和38年に業界初で再販制の導入に踏みきっている。ま ず再販制導入の基礎として,従来の商品別の取引契約を金商品に 関する総合取引契約に変更した。また再販制導入促進するために 割引制度を改定し,数量割引を卸段階のみでなく小売段階にも拡 大している。そして同年に代理店・特約店との間で,翌隼には小 売店とも再販売緬格維持契約を結び,全国の問屋3500店,小売店 27万軒との聞で〜店一帳合による仕入の一本化,統一伝票の使丁,

一定編での価格維持などの義務づけを行った。また同じ時期に,

小売段階の組織化として大都市域の有力小売店を対象に「花王フ ァミリークラブ」を結成している。

 これらの取り組みとほぼ平行して生じたのが卸段階における協 業化の動きである。昭和39年に再販制の実効性を高めるために大 阪地区の代理店・特約店の間で花王製品卸協同組合が設立され,

その後兵庫,京都,福瞬でも展開された。またこの一方で,前年

には禰閥地区では代理店12社と花王が呼声出資してスーパー向け

の花王製品専購の販売組織として禰岡花王商事(株)を組織した。

(24)

これに続き昭和む年には東京,神戸において経営の苦しい代理店 から花王製品部門のみを独立分離させている。これらがすぐ後の 全国的な販社設立につながる最初の動きであり,花王のチャネル 政策の一大転換点となった。独立させた部門の経営が順調なのを 見て,同年花王は販社整備5ヶ年計画を立てて販社を全国的に設 立していき,60年代後半には全国で138社に達した。周知のように その後販社は幾度かの統念をへて,現在では全国8販社体制とな

っている。

 花王の販社設立の動きは業界に大きな波紋を投げかけた。まず 販社設立自体にたいする反対運動が各地の既存代理店・特約店に よって展開された26)。既存卸の中で販社設立に参加しない代理 店・特約店にとって,販社設立はそのまま媛合の譲渡,すなわち 既得権益の侵害になるため反発したのである。反対運動はその後 花王が販社設立を強力に推し進め,販社への参加卸が増加するに つれ消滅していった。第2に既存卸で細花王代理店・特約店だっ たところが合併や提携を行pた。既存卸にとって自社の主力齎品 だった花王製品の扱いを販社に移行することで本業の核が失われ ることになるため,合併や提携で事業規模を拡大し経営を合理化.

することが危急の課題であった。このため昭和43年から44年にか けて西日本共和物産,ユーホー,九州明和,ダイカ,粧連,関西 物産などの大型卸が誕生している。第3に業界2番手の競合企業 に成長していたライオン油脂は,後述するように販社設立に乗じ る形で撰花王代理店・特約店だった卸を中心に連携関係を強化し,

その結果一時的ではあるが花王を上回る業績を達成している。

(2)ライオン:卸とのパートナーシヅプ構築

 ライオンの戦後におけるチャネル政策展開は戦前の販売体制を 再生する試みとその挫折として表現できるだろう。クーポン争奪 戦における対応から見てみよう。

 すでに記したようにクーポンは消費者から小売店が順潮し卸問 屋を経鐵してメーカーに還流されるが,メーカーの集券では卸問 屋の協力が決定的に重要であった。だが,戦前にライオンは東京,

大阪などの都市部において小売直販体制をしいていたため,卸間

(25)

麗との関係が相対的に弱くなったまま戦後を迎えている。また卸 側にもライオンが戦前の直販を復活させるのではないかという疑 念を持っていたためライオンに協力的な姿勢を示さないことが予 想された。このためクーポン争奪戦において大票田である大都市 でライオンは苦戦を強いられることになり,ライオンには文字ど おり死活闘題となった。

 そこでライオンは関連会社であるライオン商事を活些しつつ全 社的な集券体制をとった。ライオン商事自体についてはすぐ後で 触れるが,直接的には金融緊急措置令による新円切り替えへの対 応策として昭和21年に設立された会社である。東京地区において、

はライオン商事が小売店開拓を担当するとともに卸にたいする説 得をつくして集券につとめ,その他の地域では取引関係にあった 卸問屋にたいし全社体制で協力を要請してクーポン獲得につとめ た。組織的な対応の結果,塗回実施されたクーポン制割当におい てライオンは当初こそ苦戦したが,その後は獲得高を伸ばすこと ができたのである。

 クーポン獲得プロセスにおいて支援を与えた卸売商との関係が きわめて緊密になるとともに,卸との関係を構築する重要性をラ イオンは掌んだといえるだろう。すなわち,クーポン集券で卸に たいし大きく依存したことがその後の岡社のチャネル:対応を決定 づけている。それはライオン商事の事業の変容経緯を見ればより 明瞭にわかる2η。ライオン商事は戦後統制経済下で統制外の油脂 関連商品(代用ワヅクス,クレンザーなど)を取り扱い,関東・

東北地区の旧代理店との取引や新規取引先の開拓に携わっていた。

その後クーポン争奪戦下では東京地区でライオンの1卸として小 売店開拓を行い,集券活動を行った。

 昭和25年に統制が解除されたが,ライオン商事はクーポン以前

の事業には戻らず,都下を担当エリアとするライオン油脂直属の

卸店として小売店開拓を使命とするようになった。これは既に触

れたように,東京では戦前の小売直販体制のために卸問屋との関

係が弱かったためである。つまりクーポン時代の事業を継続・発

展させることにしたのである。しかし同時に,別会社とはいえ外

部からはライオン直属と見なされ既存卸には誤解を与えるために,

(26)

ライオン油脂本社からの出向社員を引き土げ,純粋に独立の1卸 店として機能する体制が採られている。

 こうして明確になった使命の下でライオン商事は順調に小売店 を開拓していった。だが外部からは依然としてライオンとの関係 の深さが懸念され,同社が順調に事業を陣ばせば伸ばすほど,ラ イオンが戦前の直販体制に復帰するのではないかという疑惑を既 存卸にもたらし,不満の声があがり出した。ライオンはこうした 声に抗することができず,ついに昭和27年に「ライオン商事の保 有する自己の開拓した小売店は,本社ならびに問屋の顕し出によ り,審議の上公平に間麗に譲り渡す」という決定を行っている。

そしてこの決定にしたがい,ライオン商事が開拓した小売旛につ いて問屋側との協議により帳合譲渡がなされたのである。ライオ ン商事はその後,東京周辺の小売店開拓,問屋の勢力管楽外とな っていた地区での販路蘭拓,ライオン油脂の工業製品の販売,外 食などの業務用市場の開拓を行ったが,開拓したこれら新規得意 先はすべて無条件で各代理店に譲渡された。こうして昭和40年に は実質的な活動を終えている。

 資料の制約があるため明確にはできないが,ライオン商事の活 動にたいし既存代理店が不満の声を出したのは,自分たちの取引 拡大を侵害されるということもあっただろうが,さらには現実的 な損失の鳶無は別にしてもクーポン争奪戦でライオンにたいし自 分たちが大きな買繋をしたのに,ライオンはそれを裏切る行為を なしていると受け止めたためと理解できる。ライオン側にしても クーポンをはじめ戦後の復興期に卸から援助を受け,いわば問屋 には「頭が上がらない」という状況にあった。つまり双方とも単 なる取引関係上の問題ではなく仁義上の問題としてライオン商事 の活動を受け止めたといえるだろう。

 こうした経緯をへてライオンは小売直販から完全撤退し,以後

卸売業者との関係強化に向けて政策を展開している。時期はやや

前後するが,クーポン争奪戦の経験から統制解除の直前から代理

店・特約店との懇談会を各地で開催し,さらに統制解除後は西日

本での市場開拓のために大阪出張所を開設することで販売網の整

備と拡大に着手している。また昭和27年以後は代理店だけではな

(27)

く二次卸の特約店,小売店までを販売促進活動の対象として設定 し,全国的な規模での小売店開拓のために代理店・特約店との岡 行販売を展開している。

 販路開拓の一方で,卸小売段階での水平横断的な組織化にも取 り組んでいる。これは統制解除をにらんでその直前から開かれた 代理店との懇談会からはじまり,その後各地区に代理店・特約店

どうしの「ライオン会」が結成された。昭和30年代には各地区の ライオン会をライオン石鹸会として全国8プロヅクに組織し,卸 との共存共栄を掲げて連携関係を強化していった。さらに30年代 後半のスーパーの台頭期にはそれまでの地区ライオン石鹸会の統 合的な組織として全国ライオン石鹸会(昭和38年)を設立し,以 後各地区組織と全国組織の二重体制により卸との連携を図り,共 存共栄の精神を確立させていった。

 このように戦後復興期から昭和30年代半ばまでは販路拡大をチ ャネル政策の最大霞標にして卸の協力を獲得していく努力が展開 された。しかし昭和30隼代後半にはすでにみたスーパーの台頭を 契機とする卸問屋の衰亡に直面し,ライオン油脂の取引先代理店 では12件の倒産がみられ,なかでも関西地区の有力代理店の倒産 はライオンに大きな被害をもたらした。この状況下でライオンは 先発する花王に追随する形で経路政策の見直しに取り掛かってい

る。昭和40年には再販制を導入し,42年には販売促進課を設麗し スーパーなど量販店向けの販売促進を強化した。後者は小売膳に たいしライオンが直接接触を行うことを核としており,従来型の 営業活動の質的な転換である。

 ライオンが卸との協力関係をより一層深める契機になったのは,

いうまでもなく花王の販社設立の動きである。販社設立が本格化

した昭和43年にライオンは「三子政策」を打ち出し,花王の卸統

合にたいし卸との協力関係を基盤にして販売を進めていくことを

明確にしている。三陸政策は①「ライオン油脂は自ら努力して体

質を強化する卸店に販売の重点を置きますあ②「ライオン油脂は

ライオン油脂製品を強く育てる卸店活動を期待します」,③「ライ

オン油脂は行動的ライオン党との結びつきを強め,激動期に処し

てゆきます」という宣言からなっている。この政策で特徴的なの

(28)

は,卸を選別していくことを明確に示していることである。

 ライオン石鹸会などの卸段階の横断的組織化は欄間の親睦を図 るとともにメーカーの政策を浸透させていく囲的を有しているが,

組織化の過程において参加資格・条件を求めることにより卸を選 別していくプロセスにもなっていた。しかし従来この点はそれほ ど強調されてはこなかった。これが明瞭になっていくのが昭和40 年代のこの時期であり,三章政策はその典型である。これはこれ までの卸の協力を得て自社製品の販路を拡大していくという方向 から,花王販社設立の動きを受けて,あるいはそれに乗じつつ卸 を選別して取引先として強化する方向への転換である28)。つまり 販路の量的確保から質的向上により経路での競争力を高める時代 に入ったといえる。花王販社が急速に拡大したことに対施してラ イオンも政策展開を急いだ。さらに卸側の要困もある。昭和30年 代以降,卸闘には規模と販売力で格差が見られていた。その後,

既述のように花王販社設立にたいし危機感をもった地方の卸は合 併や協業化により大規模化の方向に転換している。このプロセス で,代理店・特約店の卸闘で規模格差と競争力格差がより一層明 確になったのである。このためライオンにとって従来の全方位的 封応ではチャネル政策が非効率になり,有力な卸にたいし傾斜投 資をしていかざるを得なくなるのであった。この後ライオンは既 存卸との取引をベースとして,花王販社とのチャネル間競争に臨

んでいった。

(3)チャネルにおける競争構造の変質

 戦後における2社のチャネル政策は,伝統的な卸売流通経路に たいし挑戦を行ったという点では共通している。しかしその展開 をつうじて一方が卸への依存を強め,他方が卸依存から脱却する という相反する結果がもたらされた。このような展開がなにによ

り導かれたのかについて検討しよう。

 まずライオンについては,戦前に成功を収めた小売直販を戦後 すぐに復活させようとしたが,卸側の抵抗にあってほどなく断念 している点がその後の同社のチャネル政策全体を規定している。

卸の抵抗にたいしライオンがうまく対応できなかったのはなぜだ

(29)

ろうか。第1に,伝統的な卸売流通経路と取引慣行が戦中と戦後 をつうじて根強く残存していたことが,戦後においてメーカーの チャネル政策展開に影響を及ぼしたであろう。すでに触れたよう に,戦時体制において生活物資の流通が卸段階の配給統制組合を 基盤としてなされ,戦中をつうじてメーカーの卸系列網が維持さ れたことが知られている。そこでは価格統制こそ行われたが伝統 的な取引様式と取引慣行が維持され,むしろそれが強化される傾 向さえあった。このため戦後復興期においても卸売流通網におけ る取引関係・慣行は健在だったのである。この状況下で,ライオ ンをはじめとして石鹸メーカーは,戦後の再建期には生産の建て 直しのために販売に振り向ける資源が乏しく,明治時代の創業段 階と同様に外部資源としての既存卸売販路網に依存しなければな

らなかったのである。

 第2に,こうした伝統的な卸売流通網とそこでの取引関係に依 存しながら,さらにライオンの場合は戦後復興期を各地の卸聞麗 から様々な支援を受けて乗り切ったという点が重要である。クー ポン争奪戦が典型的であり,都市部において卸との関係が弱かっ たライオンは原料獲得のために全社あげて卸問歴に依願して回っ て集券につとめた。この経験は「今日あるのは問屋のおかげだ」

という関係者の言葉29)に示されるように,企業間関係における信 義上の事柄に転化し,卸との関係を簸優先するという形で販売政 策に反映されることになった。この点は,営業権を既存問屋に譲 渡した後にライオン商事が開拓した販路さえ問屋にそのつど譲り 渡していることからもうかがい知れる。

 第3に,ライオン商事については,統制解除後に卸の疑惑を解 くために出向社員を引き上げたことをみれば,小売直販をより強 引に進めることも可能であったのではないかと考えられる。しか

しライオンには,花王が販社設立時に強引に政策を推し進めたよ

うにはできなかったのである。この点はすでに触れたように,戦

前において職域販売や小売直販に支えられながら卸との関係にお

けるコンフリクトの発生を相対的に回避でき,それゆえに卸との

関係を管理するノウハウや組織対応力があまり蓄積されなかった

ということが考えられる。このため,直販への試みに際して蘇蜜

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