「上の人々」と「下の人々」 : オラン・アスリ社 会における開発と階層化
著者 信田 敏宏
雑誌名 社会人類学年報
巻 26
ページ 129‑156
発行年 2000‑09‑30
URL http://hdl.handle.net/10502/5522
﹁上の人々﹂と﹁下の人々﹂
オラン・アスリ社会における開発と階層化
信田 敏宏
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一 はじめに
英国植民地期にペラ博物館長として活躍し︑日本占領期に不
慮の死を遂げた人類学者ヌーンは︑その論考において︑トゥミ
ア(寒ミミ"マレー半島の先住民オラン・アスリ(Oミ薦
謎のN賊)の下位民族集団の一つ)はマレー化(イスラーム化)し
ない限り︑生存の道はないとして︑マレー化を半ば容認する主
張を行っていた[り400Z国]‑㊤ωO日α﹃]︒その背景には︑ジャング
ルを出て︑マレー人の多く住む下流の村落で生活しはじめたト
ゥミアの人々の一部が︑イスラームに改宗し︑﹁マレー人﹂と
なったものの︑周囲のマレー人社会に溶け込むことができず︑
親族の住むジャングルに再び戻っていく状況が存在していた[ZOOz国目㊤ω①"α①‑零]︒ヌーンはそうした状況を憂慮して︑右
記の主張を行ったのである︒また︑トゥミアをはじめとするオ ラン・アスリの文化の保護を主張していたヌーンは︑オラン・
アスリの文化を破壊するとして︑オラン・アスリに対するキリ
スト教の宣教活動を批判していた[ZOoz国おω①"α゜︒]︒キリス
ト教に改宗してマレー人社会との摩擦が生じるよりも︑周囲の
マレー人との融和をはかるためにイスラームに改宗すること
を︑オラン・アスリの生存戦略として主張したのである︒
こうしたマレー化(イスラーム化)論は︑マレーシア独立以
降のいわゆる﹁オラン・アスリ政策﹂に部分的にではあるが反
映されていった︒一九六一年のオラン・アスリ政策の指針のな
かでは︑オラン・アスリのマレー社会への統合が提唱されてお
り[OO︿男zζ国z↓o閃ζ津﹀話H>お①昌︑一九七〇年代以降のブ
ミプトラ政策下では︑オラン・アスリの経済開発政策は︑オラ
ン・アスリ社会の経済レベルを引き上げ︑最終的にはマレー社
会へ統合させることを意図したものであった[○第喫 H㊤①︒︒"
ヱ30
ζ○巴゜幻¢ωタzお起]︒また︑同時期には︑オラン・アスリの
イスラーム化論が試みられており[bd>=﹀勾oZH㊤①゜︒"O>幻題
一㊤ざ]︑一九八三年にはオラン・アスリ局が公式にオラン・ア
スリに対するイスラーム化政策を表明したロロ国O>一Φ︒︒ω]︒
一九八〇年代以降のイスラーム化政策では︑イスラーム化を目
的とした経済開発政策が表明されている︒(イスラーム化を含
意する)緩やかなマレー化から(イスラーム化を全面に押し出
す)性急なイスラーム化まで︑統合政策と同化政策という振り
子の中に︑今日のオラン・アスリ政策は存在していると言って
もよい[oh信田 一九九九]︒
調査地ドリアン・タワー村(§§ミ鑓bミ適§建ミミH仮
名)(図一参照)は︑一九七〇年代以降︑右記の意図の下︑経
済開発計画が他のオラン・アスリの村に先駆けて実施され︑い
わば政府による開発のモデル村の役割を果たすことになった村
である︒一九七〇年代初頭に︑当時のオラン・アスリ局長官で
あったバハロン[じU>霞﹀閃oz目零呂が︑ドリアン・タワー村に
おいて人類学的調査を実施したことも︑経済開発の対象となっ
た所以でもある︒経済開発は︑将来的なマレー化(すなわちイ
スラーム化)を意図して実施されたものであった︒
オラン・アスリ局をはじめとする政府当局には︑経済開発に
よって経済レベルを引き上げたドリアン・タワー村の人々をイ
スラームへ改宗させることで︑﹁オラン・アスリのイスラーム
化﹂の模範とする意図が存在していた︒しかし︑ドリアン・タ
ワー村では︑当初は開発計画を拒絶し︑後には開発計画から排 除されていった経済的な貧困層(後述する﹁下の人々﹂)を中
心として︑イスラームに﹁名目的﹂に改宗する人々が増える事
態となっている︒逆に︑本来のイスラーム改宗の対象であるは
ずの人々(後述する﹁上の人々﹂)は︑名目的なイスラーム改
宗者たちへの反発から︑イスラーム化政策そのものに対しても
抵抗の姿勢を示すようになっている︒つまり︑政府の意図する
経済開発の延長線上にある﹁イスラームへの改宗﹂︑あるいは
マレー社会への統合・同化が︑ドリアン・タワー村の場合に
は︑政府の意図とは逆の現象として表出しているのである︒
本稿で開発現象を考察するに際して︑筆者は︑開発が経済状
況ばかりでなく人々の意識やアイデンティティをも変えてしま
う点に注目する︒なぜなら︑開発を拒否した人々が開発と結び
ついているイスラーム化を選択し︑開発を受け入れた人々がイ
スラーム化を拒否しているというドリアン・タワー村の現実が
存在するからである[信田 一九九九]︒開発計画という制度
の下では︑開発を拒絶している人々が結果的に開発がもたらす
価値基準を受け入れてしまう場合もあれば︑それまで貧しさを
知らなかった人々が自分たちの貧しさを知ってしまう場合もあ
る︒逆に︑開発を受け入れたはずの人々が︑開発をもたらした
国家に抵抗することになる場合もあれば︑開発によって獲得し
た地位を維持しその真正性を強調するために︑(開発の言説に
反する)﹁伝統﹂(例えば︑アダット)を政治的に流用する場合
もある︒このような開発にまつわる村レベルの様々な現象を﹁開発の人類学﹂[足立 一九九五二二九1=二三]として記
ヱ3ヱ 「上 の 人 々 」 と 「下 の人 々 」
Kenaboi
Peradong
Durian Tawar,
Lakai Rutra Sawah
Kuala Kelawang
Pertang Simpang
•Pertang
︑マレi半島
Chergon Batu Kikir Dalam
Selangor
Pahang
Bukit Lanjan
Kiang Kuala
Lumpu
Jelebu
Durian Tawar
,Kelawang
Seremban
Bahau Kuala , Pi lah
州 境 県 境 道 路
Fort ,Dickson
Negeri Sembilan
Tampin
Melaka
Melaka
図[調 査地
ヱ32
述・考察することが︑筆者のさしあたっての課題である︒
そうした課題を念頭に置きながら︑本稿では︑開発計画によ
って生じたドリアン・タワー村の階層化(階層意識の生成)の
問題を扱う︒ドリアン・タワー村はトゥムアン(冒§ミ§)と
範疇化される人々の村であるが︑トゥムアン社会は︑平等社会
が強調されるオラン・アスリ社会において︑位階的な社会構造
を持つ社会として注目されている[出oOuHり゜︒㊤]︒こうしたオ
ラン・アスリ社会の社会組織論において︑トゥムアン社会の代
表例としてドリアン・タワー村はしばしば取り上げられてい
る︒バハロン[Ud駐﹀召z一零ω]が一九七〇年代初頭にドリア
ン・タワー村で人類学的調査を実施した当時は︑バティン
(窪蛛ミ)などのアダット・リーダー(隷§魎§亀§︑)を上層
とする階層は存在していたものの︑村人の間の経済的格差はあ
まり見られなかった︒それが︑筆者が調査を実施した時点(一
九九六年‑一九九八年)では︑開発計画によって村人の経済的
格差が広がっており︑村人は﹁上の人々﹂と﹁下の人々﹂とい
う範疇で分類され︑そこにドリアン・タワー村における(開発
による)階層化の過程を見ることが可能となっていた︒
本稿では︑ドリアン・タワー村の歴史を紐解きながら︑開発
計画の結果として生じた村人の範疇化を記述・考察する︒本稿
で対象とするのは︑開発計画が進行するにつれて精鋭化した
﹁上の人々﹂と﹁下の人々﹂というドリアン・タワー村の村人
の範疇の生成過程である︒村人が使用する﹁上﹂と﹁下﹂とい
う言葉には︑単なる地理的な位置ばかりでなく︑村社会のなか の﹁上層﹂と﹁下層﹂という階層意識が含意されている︒そこ
で︑本稿では︑﹁上の人々﹂と﹁下の人々﹂という範疇の生成
の歴史をたどり︑今日の﹁上の人々﹂と﹁下の人々﹂の経済状
況を比較し︑開発計画の結果として生じた階層化がどのような
意味を持つのかを考察する︒
ドリアン・タワー村における移住史と称号継承の
政治学
1 移住小史
今日のドリアン・タワー村は︑森の生活を中心とした﹁伝統
的﹂なオラン・アスリの集落のイメージとは異なる︒集落の歴
史から︑彼らが避難のために移動を繰り返してきたことが分か
る︒実際に︑その移動過程の中で今日の親族関係は形成されて
いる︒ここでは︑そうしたドリアン・タワー村の歴史を︑バハ
ロンの記述[切﹀国﹀閃oZH旨ω"α①よ出を参照しながら︑簡単
に振り返ってみる︒
ドリアン・タワー村の人々の祖先バティン・バニン(窪§
津ミ凝)とその親族たちがヌグリ・スンビラン州(≧偲鳴適
縛§ミミミ)のタンピン(§§§)方面からドリアン・タワー
村の南側に移住してきたのは︑バハロンが調査を行った時から
一世紀以上前の一八七〇年代頃のことであったという(移住
①)(本節のドゥスンおよび居住地の位置については図二を参
照)︒彼らが最初に落ち着いたドゥスン・イラム(b§§
ミ§)において︑陸稲・タピオカ・トウモロコシなどの焼畑
Pertang Peradong
Kg. Gelang
シア ラン
ドゥスン ・イ ラム 、 ジ ェラ ワ ー
(Dusun 11a) t
ドゥス ン ・スル ダン
(Dusun Serdang)
ドウス ン ・パ ー'(Dustin Pah)
ドゥス ン ・ガテ ィ 、
Dusun Gati
︑
0
憲謬 鋤 舜一一
ゴン グ川'、
図2
ドウスン・スル八
(Dusun Sergah)
ド リ ア ン ・タ ワ ー 村
④
オラン ・アス リ保留地 ゴム畑 地域
養魚池 川 道
134
耕作を行い︑ドリアンの木を植えたという︒
バティン・バニンとその妻がウル・ブラナン(Sミヒロミー
§黛鑓"今日のヌグリ・スンビラン州とスランゴール州の境界
付近)にドリアン収穫に出かけ︑マレー虎に遭遇して殺されて
しまうと︑バティン・バニンの﹁母方イトコ﹂であったピンダ
(国謡§隷)の﹁マレー人﹂夫バティン・シゥントゥン(寒妹§ (1)9§ミ亮)がバティンの称号を引き継いだ︒そして︑一八八
〇年代ころにバティン・シウントゥンに率いられた人々は︑ド゜ウスン・イラム付近から現在のドリアン・タワー村の居住地付
近に移住した(移住②)︒そして︑そこで水田耕作をはじめた
という︒ドリアン収穫期には︑近隣のマレー人親族を招いて︑
ドリアンやその他の果物を共食したという︒こうしたドリアン
収穫期にマレー人を招く習慣は日本軍のマレー半島侵攻まで続
いた︒
バティン・シウントゥンの娘の夫ボンス(ヒOo毒ミ)が︑一
九二〇年頃に次のバティンの称号を継承して︑バティン・シウ
ントゥンの息子アリ(工N帖)はジェクラの称号を名乗った︒当
時のジェルブ曾貯ミ)のウンダン導&︑硲ミ﹄勘(H°︒ゆゆ‑ (2)H8α)︑bミ︒︑謎ミミミミ(H㊤OαIH㊤心㎝)は彼らをワリス・デ
ィ・ダラム(導喜b凡§ミミ"奥地の親族)と呼び︑近しい
関係にあったと伝えられている︒
バティン・ボンスの時代(一九二〇年ー一九四〇年)に︑近
隣のラカイ(卜幕ミ)村のバティン・ドゥラン(しロミミ
bミ貯鑓)や今日のダラム(])巴蝉目)村付近のチェルゴン (○曹悪§)のバティン・ケセット(惣職§漆のミ"バティン・
ボンスの実兄)はドリアン収穫期に招かれてドリアン・タワー
村を訪れていた︒そのため︑ドリアン・タワー村の人々はラカ
イやチェルゴンの人々と通婚関係を持つようになっていったと
いう︒一方︑ジェクラ・アリに率いられた人々は︑バティン・
ボンスに率いられた人々と離れて︑現在のシアラン
(紹ミ亮)付近に移住した(移住③)︒ジェクラ・アリの息子
ドゥラマン(b馬ミミ§)が次のバティンの称号を継承してシ
アランに留まったので︑バティン・ボンスの息子レワット
(卜§︑ミ)がムントゥリの称号を継承して旧バティン・ボンス
派のリーダーとなった︒ここに︑ジェクラ・アリ派とムントゥ
リ・レワット派が形成された(以下︑アリ派とレワット派と表
記する)︒
日本軍占領期に︑バティン・ボンスの娘の夫パンリマ・セン
(ぎ鑓ミ§§縛鑓"華人)は日本軍に捕まり殺されたが︑彼を
かくまったとして日本軍の怒りをかった(と判断した)ドリア
ン・タワー村の人々は︑森の奥へ避難した(移住④)︒今日の
ドゥスン・パー(b§ミ§壽隷)やドゥスン・ガティ(b§ミ§
曾赴)において︑これもまた華人をかくまったとして日本軍
の襲撃を恐れて逃げてきたダラム村やチェルゴンの人々と合流
したのである︒日本占領期の混乱が落ち着くと︑ドゥスン・ス
ルガ(b器§縛§勘)付近にまで森から出てきたという︒
日本軍が降伏して︑英連邦軍からそのことを教えられた人々
は︑森から出てくるようになった︒アリ派はシアランに戻り︑