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『野ざらし紀行』における章段構成 : 後書を持つ 章段の構成について

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『野ざらし紀行』における章段構成 : 後書を持つ 章段の構成について

著者 濱 森太郎

雑誌名 三重大学日本語学文学

巻 7

ページ 23‑38

発行年 1996‑06‑02

URL http://hdl.handle.net/10076/6495

(2)

『野ざらし紀行』における章段構成

‑後暮を持つ章段の構成について1

一はじめに

『野ざらし紀行』(松尾芭蕉作、貞享二年秋〜貞享四年秋)

の叙述は、詞書と発句とに二分され、詞書は発句を詠出するま

での事実経過の叙述とされる。このためこれらの二つは「前書・発句」の形をしたユニットであり、このユニットが『野ざら

し紀行』の章段の最小単位と見なされる。ところが同『紀行』

の山場には、発句詠出までの事実経過の叙述の他に、発句によ

る集約から漏れた叙述が後書の形で付随している。このためこ

れらの章段は「前書・句・後書」の形で構成されたものと理解

される。本稿は、これら特異な構成を持つ三つの章段に着目し、

主として後書の役割を分析することで、その章段を配置する作

者の意図を復元しようとする試みである。

森太郎

作品を構成する手法

『野ざらし紀行』(松尾芭蕉作、貞享二年秋〜貞享四年秋)

が彼の他の作品と同じく首尾照応の構成を持つこと並びに、そ

の照応に、種々のコードがあることはよく知られている。今、

そのコードの骨格部を示せば、次のようになろうか。

①江戸出発

江上の破屋をいづる程、風の声そゞろ

さむ気なり。

野ざらしを心に風のしむ身かな

②大垣(秋の暮)

武栽野を出づる時、野ざらしを心に思

.ひて旋立ければ

23

(3)

死にもせぬ放ねの果よあきのくれ

③伊賀山中(年の暮)旅ねながらに年の‡ければ

年くれぬ笠きてわらちはきながら

④水口(春の暮)

廿年を経て故人にあふ。

命ニッ中に括たるさくらかな

⑤江戸帰着

いほりにかへり旅のつかれをはらす。

なつ衣いまた乳をとりつくさず(以上「泊船木」)

ストーリーの枠組みは①「江上の破屋をいづる」に始まり、

⑤「いほりにかへり」で結ばれている。これはこの作品が江戸

出発に始まり、江戸帰着で結ばれることを意味する。その間に

季節は秋から夏に替わり、.凰の凍む身に、熱がわいている。ま

た野ざらしの覚悟は、乱を捕るくつろぎの気分に替わり、緊張

とともにあった行脚の日々は、日差しに透かして独り乳を捕る

休息の日々に替わっている。それら季節・衣装・心理・行動の

変化の軌跡をたどるべく、『野ざらし紀行』(以下『紀行』と

略することがある)は珍しく整然と構成されている。 この整然たる骨格部のコードを捉えて、白石悌三氏は芭蕉の精神の∧緊張∨と<くつろぎ>とを読み取ることが出来ると言い、①②⑤の照応を重視する富山奏氏は、ここに『おくのほそ道』に通じる決死の旅立ちと「蘇生の者に会ふ」がごとき健やかな帰還の脈絡を読み取っている(柾1)。

こうしたストーリー全体を貫通するコードの他に、この『紀

行』の前半・後半の照応のコードを指摘する意見もある。たと

えば、先に挙げた白石氏は、種々の前後の照応を上げて「死に

もせぬ旅痩の果」からの延りを綴るのが後半のモチーフであっ

た」という(珪2)。

.確かに、当麻寺・青野山と修行者の足跡を訪ねて「旅寝の果」

に至る主人公の行脚は、必然的に心境の変化を生み出すに違い

ない。その彼はいまだ②「死にもせず」「野ざらし(野に晒さ

れたむくろ)」の途上にいるが、②「秋の暮」が③「年の暮」

に替わることで、時はさらに深まり、②「兼ねの果」が③「兼

ねながら」に替わることで、「旅寝の果」の向こうにさらに続

く「旅寝のさま」が示される。もとより、道に倒れるまで旅寝

に果てがない以上、主人公の心境は当面「放ねながらk年の‡

ければ」となる他はないだろう。しかし、だからといってすべてが無限軌道に乗って果てもな

く連続するわけではない。無から有が生ずるように、時の経過

にも「極限」というものがある。一年という時の流れは、年末

の除夜の鐘とともに新生し、その新生に連れて人の心も新しく

‑24‑

(4)

なる。『紀行』の中の時の流れが、年末から暮春に移るとき、

独り旋の主人公にも追随する賛同者が現れる。合わせて「故人

にあふ」に似た大きな驚きと共に、「命ニッ中に括たるさくら

かな」と再会の喜びが語られ始める。「死にもせぬ旅ねの果」

「笠きてわらちはきながら」と続いた灰色の軌跡は、この「命

二ツ中に活たるさくらかな」で一転し、歓喜の時を刻み始める。

そして最後に、「いまだ風をとりつくさず」と、今の季節とく

っろぎの気分とが報告される。「命ニッ中に括たるさくらかな」

で一転した歓喜の暗が、同時に軋の棲息期でもあったことがさ

り気なく報告されているのである。

加えて『紀行』の中には、さらに小さくコードされた幾組も

の対照がある。この小さな照応を丹念に拾い、詳細に分析する

のは、高橋庄次氏の『芭蕉連作詩篇の研究』(笠間書院、昭和

五四年刊)だが、氏は個々に独立した要素が連鎖することによ

って生じる模様の読解を企てるため、この模様の読解が作品の

構造や主韓といかに関わるかは必ずしも明瞭ではない。しかし、

少なくともこの小さな照応が、旅行記念のスナップ写真を見る

時のような旅の多彩な楽しみを照らし出すことは確かだろう。 ゆく駒の麦に慰むやどりかな

②女性の対照

いもあらふ女西行ならば寄よまん

蘭の香や蝶の規にたきものす

堪打てわれにきかせよや坊が妻

つゝじいけて其陰に干鰐さく女 (麦\駒)(芋\女)(蘭\女)(砧\妻)

(割印\女)

③花と小動物の対照

冬牡丹千鳥よ雪のはとゝぎす

海自し昨日や鶴をぬすまれし

菜畠に花見兵なる雀哉 (冬牡丹\千鳥)

自げしにはねもぐ蝶のかたみかな (梅\鶴)(菜\雀)

(芥子\蝶)

25

①馬の対照

道のべの木棲は馬にくはれ農

馬に寝て残夢月達しちやのけぶり

馬をさへながむる雪の旦かな (木種\馬)

(月\馬)

(雪\馬) 牡丹築ふかく分ケ出る蜂の名残かな(牡丹\蜂)

④時間の対照

あけぼのやしら魚白き事一寸(喝\しら魚)

海くれて鴨の声ほのかに白し(夕暮\鴨)

革まくら犬もしぐる1歎夜の声(夜\犬)

誰ガ靖ぞ歯菜に餅おふ牛の年{昼\牛)

⑤風の対照

野ざらしを心に風のしむ身かな(風のしむ身)

(5)

みそか月なし千歳の杉を抱く嵐

蔦植て竹四五本のあらし哉

義朝の心に似たり秋の風

狂句末枯の身は竹斎に似たる哉 (杉を抱く嵐)(竹のあらし)

(心に似たる凰)

(木枯の身)

もとより今、これらの諸句を分析し、それぞれの対照が重大

な意味を持つと主張するのではない。物語性に乏しいこの種の

ジャンルで、それを補うぺく作品の配列が時の推移に従い、対

照の妙を重んじつつ実行されることは編集の常識である。この

ため、ここに色彩、姿態、大小、強弱、緩急、動静等、様々な

対照の妙があるのは当然であって、その当然の上に立っ七、作

品を読み直すことが必要である。そしてそれと同じ意味で、先

に述べた三幸の「前書・句・後書」という構造上の類似もまた

対照的な意味を持つものと推測されるが、いまだその観点から

これらの章段の照応を取り上げた考察がない。そこで以下に、

その構造上の類似を持つ章段を取り上げ、考察を加えたい。こ

れちの章段に限って考察を加えるのは、先にあら方紹介した通

説とは異なり、それらの章段に同『紀行』の主題が集約されて

いると考えるからである。

宮士川の捨て子

捨子で有名な富士川の一節の虚実には、興味深いものがある。 富士川のほとりを行(く)に、三つ計なる

捨子の哀気に泣(く)有(り)。この川の

早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず、

再計の命を待(つ)まと捨置(き)けむ。

小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、

あすやしほれんと、枚より鳴物なげてとをるに、

猿を聞(く)人捨子に秋の風いかに

いかにぞや、汝ち1に悪まれたる欺、母

にうとまれたるか。ちゝハ汝を悪(む)

にあらじ。母は汝をうとむにあらじ。.唯

これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ。

(『野ざらし紀行画巻』)

前書・発句・後妻の三部で構成されるこの章段には、まず事

実らしいものが捷示されている。そこで、その脈絡に睦意する

と、富士川の辺でおおよそ「三歳ばかり」と見える捨て子が

「哀気」に泣いていたという。その場所が富士川の辺であるこ

とは動かないが、「三つ計」「捨て子」「哀気」の三点は主観

的な判断を含んでいる。さらにこれに続く「この川の早瀬にか

けてうき世の波をしのぐにたえず、霹計の命を待(つ)まと捨

置(き)けむ」は、子を捨てた親心に対する推測であり、「小

萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれん」は、

26

(6)

捨て子の哀れさを吐露したものである。

■蕊

、ニーニとござ二一

富士川の捨て子

さらにもし、ここにいう「こよひや

ちるらん、あすやしほれん」が事実

なら、捨子の命は今日明日限りと見

るべきだろう。だが、体力を消耗し

た瀕死の捨子が大声で泣くだろうか。

またその捨子が、投げ与えられて転

がるはずの喰物に手を伸ばし口に運ぶだろうか。さらにその捨

子は、茸った「喰物」盲自分の歯で噛み砕き、飲み下すことが

できるだろうか。いずれも、否である。

加えて、この主人公と捨子との間には「鳴物」を投げ渡す程

度の距離があるご」の距離から察するに、主人公が子供の手を

取り、丹念に身の上と年齢とを問いただしたとは考えがたい。

では彼はどうやって、泣いている子を「捨て子」だと確認した

のだろうか。

しかし、その「行動」の曖昧さを別にすれば、「川」「早瀬」「うき世」「波」「しのぐ」「露」「命」「得(つ)」

「捨

(つ)」と続く縁語仕立ての独白には、裏傷の気配が盗れてい

る。主人公はただ幼児を見」その泣き声を聞いただけで「三つ」

ぱかりの「捨子」だと看破し、さらに、子供を捨てた親心の切

なさと、捨て子の命の停さとに思ぃを馳せたとみえる。そ.の時、

彼の想念はまるで少女のそれのように軽々と舞い上がり、畷り

泣く捨て子の声までが瞬時に末期の時を刻み始めるのである。

問題の後事「いかにぞや、汝ち1に悪まれたる琴母にうと

まれたるか」は、「いかにと聞かけていかにぞやと序詞につゞ

けた」(『野ざらし紀行革園抄』)ものであり、その言葉の中

身は、捨て子に寄せる哀れみの感情である。この感情の奔流が、

尾形助氏の指摘通り、、雇子』 「大宗噺」の「引導」の蒜を

踏まえたとす局なら、この「引導」かち主人公の想念の庵まる

さまを見ることができるだろう(警)。ここに描かれているも

のは、詰まるところ切羽詰まった主人公の想念の空転するさま

であって、その証拠に、この詞章に添付された『野ざらし紀行

画巻』の「富士川」の絵は次のように措かれている。

27

・・き・一竿‑‑こ・言

‑‑

転転.、 L軸

珊l野岬

屯・

・、」㌧」‑、

■1・

i l.、、・ノ

・:了l\・∴∴

『野ざらし紀行画巻』富士川

(7)

さて、『野ざらし紀行画巻』の図柄は、画面の右手上から左

手下に向かって流れ下る音士川を挟んで、向こう岸に旅人らし

い男を一人、こちら岸に子供を一人描いたもので、問題の子供

は、よく見ると両腕を横に振って、今にも駆け出しそうな風情

で立っている。そして、その足元には、風呂敷かなにかに包ん

だ荷物が一つ転がっている。

あるいは、この小包から「捨て子」なりと推測することが可

能かも知れないが、しかし、この光景全体は、・どう見ても「小

萩がもとの秋の凰こよひやちるらん、あすやしほれん」と表現

された主人公の感傷的な科白とはかけ離れている。もし、この

絵に照らして『画巻』の詞書を読むなら、この時の主人公の一

人合点はいっそう明らかに見えるだろう。

またもし、同時代の冷静な読者なら、多分、主人公のごとく

に狼狽する前に」捨て子を最寄りの番屋に届ける手段を捜すだ

ろう。「私額は其村々名主、五人組、町方ハ其所之名主、五人

組え共晶申出べし。はごくみなりがたきにおいてハ、某所にて

養育可仕候」(元琴二年十月、御触書寛保集成)。これが捨て

子に関するこの時代の常識的な規則だからである。

もとより三歳ほどの幼児に話すには、それなりの言葉と話し

方とがある。.いきなり「いかにぞや、汝ち1に恵まれたる琴

母にうとまれたるか。」と切口上で切り出されては、分かるも

のも分からなくなる。

しかし、それは、必ずしもこの後書の欠点ではない。この詞 書はそういう主人公の波立つ感傷の断片を無造作に並べることで、かえって切実に、切羽詰まった主人公の心の動揺を表現し得ているからである。むろん、その狼狽振りが常識的な読者の軽い微苦笑を誘うことも付け加えておいてよいだろう。

伊勢参宮

次に取り上げるのは、「伊勢参宮」の粂の後書である。この

「伊勢参宮」の粂は諸本間に大きな異同があり、この異同に基

づいて諸本の推敲段階が想定されてきた。具体的には「腰間に

寸鉄をおびず」以下の一文が「泊船木」(次貢上段)では発句 の後に配置され、「画巻本」(次真下段)では発句の前に配置 されており、本文は「泊船木」(上段)から「画巻本」(下段)

に向かって推敲されたと見なされてきた。しかし、用字法の分

析に基づく私見によれば、「泊船本」の成立時期は元禄七年と

推定されるため、「画巻本」に先立って「泊船木」が成立した

とは考えがたい。この二種の本文は、画巻と書物というメディ

アの相違に端を発する表現の相違であって、いわゆる「推敲」

とは性質を異にする。それをいわゆる推敲過程として扱ったた

めに、先のような誤解が生じたものと推測される。(この点の

詳細についてはすでに私見を述べたので、ここには概略をしる

すに止める。句読点・濁点は筆者、以下同。)

‑28‑

(8)

泊船本野ざらし紀行

松葉や風潅が伊勢に青

けるを尋音信て十日ばか

り足をとゞむ。

暮て外宮に詣侍りけるに

一の鳥井の陰ほのぐらく

御燈処々に見えて、また

上もなき峯の松風身にし

むばかりふかき心を起し

みそか月なし千とせの

杉を抱あらし

腰間に寸鉄を不帯、襟に

一嚢を懸て手に十八の珠

を携ふ。僧に似て塵あり

俗に似て髪なし、我僧に

あらずといへども贅なき

ものは浮屠の属にたぐへ

て神前に入をゆるさず。 野ざらし紀行画巻松葉屋風涛が伊勢に有りけるを尋音信て十日計足をとゞむ。

腰間に寸鉄をおびず、襟

に一嚢をかけて手に十八の

珠を携ふ。僧に似て塵有、

俗に1て髪なし、我僧にあ

らずといへども浮屠の属に

たぐへて神前に入事をゆる

さず。暮て外宮に詣侍りけるに、

一ノ華表の陰ほのぐらく、

御燈処々に見えて、また上

もなき峯の松風身にしむ計

ふかき心を起して、

みそか月なし千とせの

杉を抱あらし

きf

‑29‑

伊勢参宮(内宮)

(9)

参宮を志した主人公が先ず内宮で禁足され、やるせ無い気分

で外宮まで引き返して来たことは既に述べた(注4)。したがっ

て、「画巻本」の構成は、参拝禁止の一件を事実経過の順に配

置したもの、「泊船木」の構成は、事実関係を逆直したものと

見ることが出来る。事実経過の順に事実を配列するメリットは、

参拝禁止という、発句に噴出する主人公の嘆きの真因を予備知

識の形で読者に予め捷供することにある。逆に、事実関係を逆

置するメリットは、事実経過をいったん保留し、主人公の感情

の起伏をいきなり読者の胸に突きつけ、その後でなるほどと納

得させることにあるだろう。

今、「画巻本」に即してこの粂の推敲の子細を言うと、伊勢

参宮の一節に絵を添える段階で、芭蕉には二つの可能性がある。

一つは外宮を絵の中心に据え、外宮礼拝の現場を描くこと、他

の一つは、内宮を絵の中心に据え、禁足事件の現場を描くこと

である。しかし、もしこの詞書のままで外宮を絵の中心に据え

たなら、参拝禁止め一件は間違いなく外宮で起きたものと誤解

される。一方、内宮を絵の中心に据えた時は、読者の大部分が、

なぜこの叙述で内宮が描かれるのかを理解しかねるだろう。

芭蕉ならずとも、自作の意図を読者に正確に伝えたいに違い

ない。このため、人によれば、絵を添える程度の思案は湧くか

もしれない。だが、原因が詞書の構成にある以上、文章構成を

改める以外に、納得のゆく修正の仕方があるとは思えない。殊

に『画巻』の場合、添付する絵と同じく叙述もまたビジュアル に吟味される。その時、心理経過の再現を目指して構成された「泊船本」の叙述には誤読の心配が生ずる。このままの叙述では、事実関係がビジ.ユアルには捉えがたいからである。

その不都合を察した芭蕉は、画面中央に内宮の社殿の絵を描

くと共に「腰間に寸鉄をおびず」以下、問題の「後書部」を

「暮て外宮に詣侍りけるに云々」の前に移すことで、詞書の修

正を計った。この修正を経て、「画巻本」の伊勢参宮の詞書は

先に見た形で完成するのである。

しかし、これはあくまで「画巻」というメディアに即した改

訂であって、『画巻』(画巻本)の場合も予備知識なしに「伊

勢参宮」の詞書を読めば、事実経過ばかりか主人公の悲嘆の波

動までが曖昧になる。当然、絵のない『野ざらし紀行』では手

がかりを欠くため、この傾昧さはさらに増加することになる。

さて、次は発句の吟味である。

みそか月なし千とせの杉を抱あらし

(『野ざらし紀h行』)「貞享暦」によると、八月は二十九日までで、「三〇日」は

存在しない。主人公は、何かの拍子に八月二十九日.(あるいは

九月一日)を「三〇日」と誤ったことになるだろう。次に、月

齢で日付を決める旧暦では、三〇日は「月なし」が常識であっ

て、それを敢えて「月なし」というところに、返ってこだわり

の気配がある。では、主人公は、何故「月」の有無にこだわる

のか。

30

(10)

そのヒントは、たとえば芭蕉が下敷に使った『西行物語』の

次の用例に隠れている。

神ちやま山月さやかなるちかひありて雨のしたをば

てらすなりけり(『西行物語』)この「神ちやま山」は内宮の背後の山、L「月さやかなるちか

ひ」は、「天照大神」がこの地上に安穏を約束する誓いをいう。

よく似た状況を描いた謡曲『御裳濯』の「月」は、そのことを

もっと端的に語っている。

月も要らで天照らす御影をうけて神路山、更け行く月の

夜とともに、所からにてありがたや(謡曲『御裳濯』)

ここでは神路の月が、直接「天照大神」を暗示する懸け言葉と

して用いられており、これによって、伊勢の月が天照大神の神

威を蒙徹する月だったことが明らかである。そしてこの表現の

コードを踏まえるとき、「月なし」には「天照大神」.の不在を

嘆く意味を込めることが可能になる。また、その嘆きの中には、

当然、先に内宮で経験した禁足に伴う傷心が畳み込まれている

だろう。

次に、同じ発句の下の句、「千とせの杉」は「千古の杉」の

意で、宇治山田にあった「あや暫

(杉の神木)などがその代

表と言える。

万代を山田のはらのあや杉東風しきたてて

こゑよばふなり(宮河歌合)

続いて、座五の「抱あらし」は、「あらし」が「千とせの杉 を抱く」と解するか、主人公が「千とせの杉を抱く」と解するかで解釈が分かれている。そこで、まずこのレトリックが『野ざらし紀行』の要所に配置され、内心の葛藤を表示する修辞法であることを示そう。

①野ざらしを心に風のしむ身哉

②手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜

③.誰が智ぞ歯柔に餅おふうしの年

④みそか月なし千とせの杉を抱あらし

①では、「しむ」が、「心に風のしむ」と「風のしむ身」との

両方に懸かり、②では、「あつき」が、「なみだぞあつき」と

「あつき秋の霜」との両方に懸かる。また③では「うし」が、

「餅おふうし」と「うしの年」との両方に懸かり、④では、

「抱(く)」が「杉を抱く」と「抱く嵐」との両方に懸かる。

っまり、この「千とせの杉を抱あらし」は、主人公が「杉を抱

き」つつ、嵐もまた「杉を抱く」と解することが必要なのであ

る。

かくして主人公が、石河積翠や故岡田刹兵衛の言うように

「月なきを嘆」きつつ、外宮の一の鳥居付近で杉木立に嘆きよ

り、同じく参拝骨禁止された西行の心を偲ぶことは明らかであ

る。偲ぶよすがは、神路の「月」と「松風」、さらに外宮の

「杉木立」と「一の鳥井」。生憎今日は八月三〇日、「月」は

隠れ、風は落ちているが、幸い目の前には、西行の和歌にいう

「山田の原のあや杉」がある。「あや杉」は神の寄り代にして、

31

(11)

「夙しきたてて声よばふ」神木である。折から、主人公の背後

には、厳かな神域の閤があり、灯明が瞬いている。その瞬きに

つれて、夜気が動き、やがて、神域全体を押し包む大きな嵐気

に変わる。この嵐気の中の主人公が六キロ彼方に吹く「神路の

松風」を聞き取ることは困難だが、もし彼にその奇跡が兆すと

すれば、それは彼が悲嘆の余り、この「あや杉」の幹を強く抱

きしめる一瞬にして「永劫の時」の他はあるまい。この激情の

さ中でなければ、神路山の「松風」か外宮の.「あや杉」を押し

包んで声を発することは有り得ないからである。

いずれにんても、発句に登場する「月」も「杉Jも「あらし」

も、ともに伊勢の神威を象徴する自然物だったことが明らかで

ある。伊勢の内宮で、人為としての伊勢神宮に激しく幻滅した

主人公は、しかし『西行物語』の西行と伺じく、これら外宮の

神域の自然物、すなわち神々しい闇と神の寄り代たる樹と風と

に助けられて、辛うじて回復するのである。主人公は参拝を禁

止されることで返って、神社という物の本質に近付いたと言う

べきだろう。また、その回復の軌道が多少大げさな軌跡を描く

ところに、この主人公のユーモラスな性格が暗示されている。

読者は柔らかな微苦笑をもって、この感じ易い老人の性格を受

け入れれば良いのである。

ちなみにこれに続く後書「僧に似て塵有」云々もまた、富士

川の捨て子の場合同様、内宮で遭遇した神官との口論を描きな がら、実体は口論の現場というより主人公の独自である。しかもその独自には、心理学に言う「合理化」や正当化の気配が乏しく、また、事件の経過を時系列に従って、読者に分かり易く説明する気配もない。近年、この後善がさながら発句の注釈のごとく他の地の文より一段下げて善かれている(注5)ところから、これを発句と一連の物と見る見方が有力だが(注6)、それがどのように連続するかの考察は欠けている。そこでその連続の仕方に注目すると、後書で神官に応酬する主人公の言説は、一見、神官との応酬らしく見えて、その実、主人公の煩悶を伝える心内語である。加えて、彼の主張は、「僧に似て塵有」「俗に1て磐なし」▼「我僧にあらず」と曲折し、主張も論拠ももどかしげに揺れている。彼はただひたすら、卒然と涌き上がる心内語の形で1心の「わだかまり」を噴出させるかに見える。この文体が内包する心の揺らめきは確かに特異であって、理解にたどり着くまでに多少の時間を要する。だが、これは例えば謡曲の「物狂」の叙述に、その端的な先例を見ることが出来る。

『高野物狂』『閑寺小町』等々、謡曲に登場する狂人たちは、

吹く風、散る花に触発されて不意に狂乱し、心にわだかまる煩

悶を噴出させるからである。

‑32‑

新しい謎ところで繰り返して言うが、『紀行』の主人公はまず初めに・

(12)

伊勢の内宮に参詣しようとしで禁足され、仕方なく外宮の一の

鳥居付近まで引き返してきた。暮れ方の一の鳥居付近には、人

影も絶え、神の寄り代たる「あや杉」だけが黒々と枝を広げて

いる。かつて西行は、この神域を照らす「月明り」に神の垂迩

を見、「松風」に神の声を聞いた。主人公はその西行に習い、

神域の自然物に助けられて、辛うじて参拝禁止の「嘆き」を解

くことが出来た。

しかしそうだとすると、さらに不可解なことが残る。問題は、

「画巻」の文章の修正の後に行われた次の修正である。これは

気づきにくいことなので少し丹念に示すと、次のようになる。

‑‑1

‑1

■‑1‑

I

l‑・1■ヨ

1.、■ ‑

料紙切接ぎ跡(点線部)

この絵の通り、最後に追加されたのは画面右端の芋洗う女で

あって、この追加によって、八月晦日の参拝禁止事件を描いた

はずの絵は、その翌日(または翌翌日)の西行谷探訪を描いた

絵に替わることになる。もとよりこの変更には、芋洗う女が醸

し出す「都びたるけしきの無下に過ぎがたき」(泊船集註解紀 行之部)味わいを惜しむ気持ちがあろう。だが、それ以上に重要なことは、この絵の修正によって、この西行谷探訪の記事が前日の参拝禁止の記事とひと続きの脈絡で理解されることだろう。すなわち前日、西行になぞらえて参拝禁止の痛手を癒した主人公が、今日は西行谷を訪ねて「西行ならば寄よまん」と、

芋準っ百姓女を相手にはしゃいで見せる一続きのストーリーが

ここに流れているのである。

この推敲の結果、この一節、なかんづく先の後書の比重が軽

くなり、後書を構成する特異な時制や事実関係や論理的な脈絡

は注意の周辺部に拡散するのだが、それでもこれは悪文とは言

い難い。注意して読めば、前後不覚に立ち至った主人公の内心

の波立ちが読者の脳裏に鋭く現前するからである。私たちは、

この鋭い文章意識に限を凝らす必要がある。ここには、時制や

前後関係といった表現の枠組みを突破せんとする前衛的な試み

があるからである。

またさらに時を経て、絵を持たない「泊船木」を執筆するに

当たって(苧)この一節を読み返す芭蕉は、当然「一念一動」一

(『野ざらし紀行』践)を再現すべく力を尽くした最初の文型

(天理本・泊船木)に立ち返って考えるだろう。特に「泊船木」

が執筆される最晩年の芭蕉は、この大胆な文体を肯定し、こう

主張してはばからぬ人物だったからである。「跡や先やと書集

侍るぞ、猶酔ル著の憶語にひとしく、いねる人の率言するたぐ

ひに見なして、人文亡聴せよ」(『笈の小文』)。この言葉は、

33

(13)

表向き謙退の形を取るにしても、要するに前後の脈絡を問わず

不意に噴出する酔漢の妄言を聞き取るような「妄聴」.の心得な

くして、芭蕉の諸作が読み難いことを物語るものである。

書野山.

さて、この感じ易い老人の心境が、故郷における母の死を契

機に大きく変化することは別に述べた(注旦。洞を拭って再び

「大和竹の内」に旋立つ主人公が、その旅立を「大和の国に行

脚して」と語り初めることがその変化の徴表である。ここに言

う「行脚」が文字通り「回国修行」の意味であることは、「北

国行脚の時」

(真蹟画賛「あかくと」)、「北陸道に行脚し

て」

(銀河ノ序)など、芭蕉自身の言葉によって確かめられる。

また、この『紀行』にいう「行脚」が桑門(僧)の修行行為で

あることは、「蛭が小嶋の桑門、■これも去年の秋より行脚しけ

るに」(『野ざらし紀行』)という実例から明らかである。さ

らに、山口素堂の「我友はせを老人ふるさとのふるきをたづね

むつゐでに、行脚の心つきて云々」(『紀行』「素堂序」)と

いう発言も、その傍証となるだろう。ちなみに、こ.の「大和」・

が芭蕉好みの行脚の地であったことも、「大和行脚のとき」

(「草臥て」前書」)・「やまとの国を行脚して」(「猶見た

し」詞書)・「やまとのくにを行脚しけるに」(「はなのかげ」 前書)など、繰り返される芭蕉の言葉によって裏付けられる。また加えて興味深いことに、先の「猶見たし」自画(托9)には、句文の下に膝を組んで昼寝する山伏が描かれている。この昼寝する山伏が葛城山を霊場とする山岳修行の山伏であることは、この句の詞書に、「やまとの国を行脚して葛城山のふもとを過るに」

(泊船集)とある事によって確かめらる。したがっ

て、芭蕉の「大和行脚」を、単なる旋行や吟行と混同してはな

らない。江戸から故郷までの旋が「帰郷の旋」なら、この「大

和竹の内」以降の旅は、明らかに母の菩捷を弔う「修行」の旋

なのである。

さて、その「大和行脚」の途中、彼は青野山に詣でて、次の

ような感想を抱いたという(苧0)。

ひとりよしの1おく

にたどりて、まこと

にやまふかく、、自書

峯にかさなり、煙雨

谷を嘩で、にしに

一木をきるおと東に

ひゞき、院々の鐘の

こゑは心のそこに

こたへて、ある坊に一よ

をあかして

はせを

34

(14)

きぬたうちて

われにきかせよや

坊がつま

この一文が『紀行』の中で次のように用いられている。

独(り)よし野のおくにたどりけるに、まこ

とに山深く、白雲峯に重り、梱雨谷を嘩ンで、

山購の家処々にちいさく、西に木を伐ル音東

にひゞき、院々の鐘の声、心の底にこたふ。

、、、、、

1

1

1

1

1

1

1

むかしより此山に入て世をわすれたる人のお

、、、、

1

1

1

1

1

1

1

1

ほくは帝にのかれ寄にかくる。いでや唐土の

1

1

1

1

1

慮山といはむもまたむべならずや。

ある坊に一夜をかりて

砧打てわれにきかせよや坊が妻

主人公は今、煙雨に濡れ、寒さに震えながら、ひたすら青野

の山道を登り続けている。登るに連れて視界が開け、吉野の山

並が目の儲に現れる。その光景が「山購の家処々にちいさく」

と、情景を語る言葉を補強してビジュアルに表現されているQ

さらに、注意して見れば、この山並を遠望する広い視野の中

には、この山に生きる人間の痕跡が小さく点在する。山購の家、

木を伐る音、鐘の声七いったかすな生存の痕跡に導かれて、彼 は疲れた足を運ぶのである。そしてやがて山の全景が見え始めたとき、青野山は、「度、隠者の鹿山にも喩えられるが、それは「此山に入て世をわすれたる人のおほくは特にのかれ寄にかくる。」と表現されるマイナートーンの理解である。なかんづく、「世をわすれたる人」「特にのかれ」「寄にかくる」と、

丹念に補強された消橿的な言葉の配列からは、紛れもなく批判

的な響きが聞こえるだろう。土の批判意識のために、この山の

停まいを概括する言葉は「いでや唐土の度山といはむもまたむ

べならずや。」と」やむを得ず認証する形で結ばれることにな

る。

ちなみにその夜、仮泊した宿坊で目に付いたものは、青野の

山道を登りながら見たものと同じく、この宿坊に住み、客をも

てなす妻女の真筆な生態である(注ll)。

次に、この「青野行脚」の山場、「西行庵」になると、彼の

視線も着実に働き始める。

西上人の草の魔の跡は、奥の院より右の方二

町計(り)わけ入ほど、柴人のかよふ道のみ

わづかに有て、さがしき谷をへだてたる。い

とたふとし。彼(の)とくくの清水は昔に かハらずとみえて、今もとくくと雫落(ち)

ける。

露とくく心みに浮世すゝがばや

35

(15)

若これ扶桑に伯夷あらバ必口をす1がん。

もし是、杵由に告(げ)バ、耳をあらはむ。

山を昇り坂を下るに秋の日既(に)斜(め)

になれば、名ある所くみ残して、先(ず)

後味醐帝の御廟を拝む。

御廟年経て忍は何をしのぶ草

ここでは、西行席の位置とそこに至る道筋とが、やや大きな

視野の中で簡潔に把握されている。また、魔の側の「とくく

の清水」は、その雫のしたたり具合いから水量までが素早く考

量され、「昔にかハらず」と確認されている。この時、清水の

様態を目測する視線の動きは、着実な上に機敏である。

ところで、吉野と言えば「桜」だが、その桜は霊場「吉野」

の神木であって、参拝者はその神木の中を歩くぺく設計されて

いる。すなわち参拝者は道中、「発心」「修行」「等覚」

「妙

覚」の四門をくぐり、最後に山上本堂に至って、仏果円満に達

するのである(牲12)。またこのため、山頂は「霊界」とされ、

その霊界に立ち入るには、農の宿坊「柳の宿」で沐浴し、潔嘉

する必要があった。この「沐浴」が、魂の再生に先立つ「みそ

ぎ」である。「行脚」の一徳を求めてこの聖地に入山した主人

公も、この「みそぎ」の例外ではない。「心みに浮世すゝがば

や」という主人公の言葉は、この修験霊場での「みそぎ」の習

慣を踏まえて、西行の詩心の霊験を讃えたものと推測される。 すなわち、気高い詩心もまた、俗塵を払い、魂の再生に役立つのである。

もとよりこの発句の着想は、隠遁を尊ぶ伯夷・杵由には不本

意に違いない。伯英は仕官を嫌って首陽山に隠遁した義人、杵

由は、勇帝より天下を譲らんと聞かされて、汚れたりとて耳を

挽て隠れた隠遁着である。伝説的な彼らの言動が浮き世の頼み

がたさを確信した末の言動であることは容易に察せられる。そ

の視点から見れば、主人公は頼みがたい詩文を頼み、すすぎが

たい「浮世」をすすがぼやと願うことになる。何と又、人の世

を知らぬことかと疑われても仕方がない。主人公自身がその疑

いを予感している.ことは、後書に「若これ扶桑に伯夷あらバ必

口をすゝがん。もし是、杵由に告{げ)バ、耳をあらはむ。」

と注記することから明らかである。この後青もまた、「僧に似

て塵有」(伊勢参宮)や「いかにぞや汝」(富士川)の場合同

様、主人公の独白であって、主人公はこの独自を通じて、伯夷

や杵由と自分との違いを明示する。その意図は、純正隠者から

の反発が予め織り込み済みであることを示唆するものだろう。

思えばこの世界は■、「憂き世」または「浮き世」といわれる。

ここに、人心を愚弄し、志を腐敗させる俗情が無いわけではな

い。このため、時には出家・遁世の志さえ捨て難く思われるが、

中には「御廟年経て忍は何をしのぶ草」と追想される後醍醐帝

も居ないわけではない。その上、ここは修験道の聖地であって、

36

(16)

この霊域の内では聖域・俗界が融合し、聖も俗も循環する。そ

して登山を厭わぬ庶民には、この聖域・俗域間の往復を通して

「魂の再生」が約束される。言い換えれば、俗界・俗情は、聖

地における「魂の再生」に不可欠な構造の一部と見なされるの

である。、

「霜とくく心みに浮世す1がばや」。′今、多分、主人公は

「詩にのがれ歌にかく」れる隠遁者の処世観を偏狭に思うだろ

う。彼の俳話は、隠遁者たちの詩文のごとく自慰の道具ではあ

ってはならない。なぜなら、俳粛とは「風雅」であり、「風雅」

とは「まつりごと」を正すべく、風化・風刺を詩歌に託すこと

だからである(注13)。

かくして風雅の表層でうろたえていた主人公は、ようやく詩

人の魂の往く所、すなわち風儀の《志》を知るのである。した

がって、この西行谷に続く後醍醐帝の御陵の一節が、「山を昇

り坂を下るに云々」とまるで弾むような軽快なテンポで綴られ

のは当然と言えよう。これは「入山」に対する「出山」の光景

であって、志を得て「出山」する主人公は、これまでに無く伸

びやかに青野の坂道を下るのである。

七 結論

『野ざらし紀行』のストーリーの枠組みは、「江上の破屋を

いづる」に始まり「いほりにかへり」で結ばれている。その間 に季節は秋から夏に替わり、風の凍む身には軋がわいている。それらの季節・心理・その他の変化の軌跡をたどるべく、『紀行』は珍しく整然と構成されているのである。

本稿のはじめに、私は「詞書は発句を詠出するまでの事実経

過の叙述」と概括して書き始めたが、この認識には修正が必要

である。当面の問題である「富士川」「伊勢参宮」ノ「青野山」

の後書は、発句に集約しきれなかった「心内語」を記すための

工夫である。このため、これらの後書は複雑な思案を呼び起こ

す章段に限って用いられ、鮮やかな感情の波動を通して主人公

の揺れ動く心模様とナイーブな人柄とを射照する役目を果たし

ている。この事実は、これら『野ざらし紀行』の各章段が第一

に感情の波動を通して主人公の心模様を構成的に表現するため

の章段だったことを意味するだろう。また、その文脈で読み進

むとき、修行者の足跡を訪ねる主人公の行脚の深まりや、その

主人公が聖地において獲得した「心みに浮世すゝがばや」とい

う覚悟が見えるだろう。

もともと目立たない『野ざらし紀行』では、構成や主題を探

求した発言が少ないのは当然である。だがそこに、『おくのほ

そ道』に似た決死の耗立ちと「蘇生の著に会ふ」がごとき健や

かな帰還の脈絡があるのは、作者芭蕉が処女作ですでに自分の

フォームを会得した堅実な紀行文作家だったことを意味する。

またこの作品でこれまで読み落とされてきたことは、そのフォ

ームに即して、自然に主人公の人間的な変化を生み出す「工夫」

37

(17)

である。当麻寺・青野山と修行者の足跡を訪ねて「旅寝の果」

に至る主人公の行脚は、必然的に心境の変化を生み出すに相違

ない。またその主人公が行脚の聖地で「心みに浮世す1がばや」

と覚悟するのも自然と言えば自然である。そしてこの覚悟こそ、

以後の主人公の行動の変化を呼び起こす真因なのである。

今にして思えば、r野ざらし紀行』は「何故句を作るのか」

に正面から答えることで「作家」の誕生を告げる文字通りの処

女作だったと言えるだろう。

注l「四季の構図」白石悌三(江戸人物読本r松尾芭蕉』欄本六男蠣、ペリカン杜刊)

宮山奏'俳句に見る芭蕉の芸墳b前田書店刊、鯵照。

注2

注1白石論文参照。白石氏が指摘した前後の照応の実例を上げると、以下のようなもの

がある。

義朝の心に似たり赦の風

狂句末枯の身は竹斎に似たる歳

死にもせぬ撫ねの果よあきのくれ

合ニッ中に活たるさくらかな

手にとらは消んなみだぞあつき秋の霜

梅こひて卯花押むなみだ哉

注3

鳥形仇氏によれば、このモノローグはr荘子】「大宗肺」の一節を踏まえた「引導」

の文体で善かれているという(「野ざらし紀行評釈(〓)」(『俳句一昭和田四年三月

号)。またこの集の解釈としては、「「纂を臆人L考」(振本一郎っ文学・諺学‑昭和

五十一年一月)が行き届いている。

注4

拙者・1松尾芭籠の1200日b(二」垂学術出版会、平成7年3月刊こ二第三専2「滑稽

な主人公」♯照。

注5

同「た行】天理木・泊船木がこの形を保っている。

注6

弥蕃管一昔r芭蕉r野ざらした行しの研究b(桜≠社刊)、古山葬r俳句に見る芭蕉

の芸塘‑I前田舌店珂、参照。

注7

弥吉菅一氏によれは、「野ざらしだ行』の初稿本(天理本)は、貞夢二年数嘲成立、

「泊船木」は貞章二年秋より貞幸三年六月以前の成立、「甲子吟行串巷b(芭蕉自筆

和田勧書氏彗は、貞享四年頃成立と推定されている(「改版野ざらし紀行・鹿島諭し

(明玄書房刊)。しかし、私が行った用字法の分析によると、「泊厳木しの成立は元禄

七年の作と推定される。し.たがって、r野ざらし紀行‑の慮鞭作は「泊船木しだったこ

とになる。

注8

拙者r松尾芭蕉の1200日b(三重学術出版会、平成7年3月刊)帯三幸3「傭行

の回廊」参照。

注9

r滞泊の詩人芭蕉展】図録所収、一九∧一、俳文学会・日本経済新聞社編。

注1川富山奏者二俳句に見ゑ巴蕪の肇境」(平成3年、前田害店刊)に紹介された写真による。

ただし濁点・句読点は筆者の私意による。この旬文は土芳のr森厳全伝‑にも転写され

ているので、ますは侶頼できる初横形と判断した。

注11古山奏者r俳句に見る芭蕉の蔓境L(平成3年、前田轡店刊)に紹介され尭「砧打て」

の句文の内の一点は「はせをしと女手の署名を持つところから、この宿坊の妻に贈られ

たものと推定されている。

往12

「大挙奥航行場と入峰行」福井良盈、「近畿霊山と修♯遭ト(五米産編、名誉出版刊)

二〇四頁。

注ほ‥癒紹車「#った見撃(‑日本近代文学新史《近世》ナ松田修編、重文蛍刊)による。

[本学教員]

38

参照

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