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風 人 土3 と と

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土 3

田中樹・宮 英寿・石本雄大 編

フィールド で 出 会 う

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10 使用写真

  表紙 畜力揚水井戸で水を汲み上げる少年

      [ 2015 年 10 月 インド・ラージャスターン州 撮影=宮㟢英寿]

  P. 1 おとうさんのウシ

      [ 2010 年 6 月 ザンビア南部州 撮影=石本雄大]

  P. 2 スイギュウと少年

      [ 2015 年 10 月 インド・ラージャスターン州 撮影=宮㟢英寿]

  P. 3 刈り残されたソルガムの穂

      [ 2008 年 3 月 ザンビア・南部州 撮影=田中樹]

  P. 4 さんぱつイタイよー!

      [ 2009 年 6 月 ザンビア・南部州 撮影=石本雄大]

  P. 5 川辺に建つ家々の石垣はきれいだが、トイレや台所の汚水パイプが突き出ているのは困ったものだ       [ 2017 年 10 月 インドネシア・ボゴール市 撮影=田中樹]

  P. 6 インド洋で魚釣り、でも、空振り

      [ 2018 年 2 月 タンザニア・ザンジバル 撮影=田中樹]

  P. 7 沢山とれたよトウモロコシ

      [ 2010 年 1 月 ザンビア・南部州 撮影=石本雄大]

  P. 8 作物残渣の除去作業

      [ 2014 年 6 月 セネガル・中西部 撮影=清水貴夫]

  P. 9 仔ヒツジを抱く牧畜民の子ども

      [ 2014 年 8 月 インド・ラージャスターン州 撮影=宮㟢英寿]

  裏表紙 夜店を飾る幻想的なランタンの灯

      [ 2017 年 9 月 ベトナム・ホイアン市 撮影=田中樹]

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多くの執筆者の協力を得て、早くも「フィールドで出会う風と人と土」の 第三巻をお届けすることができました。

第一巻(2017年3月)と第二巻(2018年2月)、そして今回の第三巻の記事 を読んでいて思い浮かんだ言葉があります。それは、「ひらめき」です。

「ひらめき」という言葉は、「思いつき」ではありません。言い直すと「長い あいだ心の中にとどめてきた発見や経験や想いなどが熟成し、ある瞬間に 明快でまとまりのある言葉やイメージとともにあらわれること」でしょうか。

無理して難しく言うと「蓄積された知識や経験の瞬間的な洞察の発露」と 言えるかもしれません。

このエッセイの記事は、「ひらめき」に至る前の発見や経験や想いを紡いだ ものです。それらを豊かにするものは、一人ひとりの感性や優しい眼差し、

様々な問題に向き合う厳しい態度、理想の実現を目指す強い心、そしてユー モアだと信じています。

このエッセイを手に取ったあなたは、多くの未完成な研究者たちに出会って います。そこから見えてくる風景は、アジアやアフリカとそこに住まう人びと につながっています。これから研究の中で幾度も訪れるであろう「ひらめき」

は、このような人びとと共にあります。また、あなたと共にあります。

田中樹、宮㟢英寿、石本雄大

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カドナで朝食を  渡芳倫

西アフリカ外食紀行 その4  ワガドゥグの厳母  清水貴夫 市場での出会いとお弁当  荒木良一

デーツの名産地  サハラのオアシス都市ビスクラ  石山俊

サヘルのウシはいつ眠る  ブルキナファソ、サヘル地域の牧畜民フルベの事例  宮㟢英寿 ガーナの子どもと何して遊ぶ?  トロトロごっことだるまさんが転んだ  桐越仁美 徒弟アジズのお金の話  遠藤聡子

受け継がれるもの  神代ちひろ 嘘つきは本当に悪い人?  柴田誠

熱帯アフリカのフィールド調査では体調管理が大切  角野貴信 裁判から見えたこと  子どもに石を投げられて  砂野唯  撮られるのは音楽に興じるその姿  大門碧

印度の井戸  遠藤仁

極小書店の心意気  寺田匡宏 編者と執筆者の紹介

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カドナで朝食を

 長期の野外調査を行う上で、食事は重要であ る。朝食はこれから始まる1日のエネルギーと やる気の充填に、夕食は疲れを癒し心地よい睡眠 のために。

 ここでは、思い出深いナイジェリアの朝食に ついて書きたいと思う。なぜナイジェリアの朝食 が思い出深いのかというと、その風景が私に とって非常に心地よかったからである(写真①、

図①)。

 私は 2002 年ごろ、ナイジェリアの北部、カ ドナの街で人工林の調査をしていた。カドナは 半乾燥地で、サバンナの植生が広がっているが、

ユーカリなどの人工林を形成するには十分な雨量 があった。カドナでは、ユーカリを育てて電柱 を作ろうと計画していたのだが、植林がうまく いく所、そうでない所があり、その原因を調査 するために私は滞在していたのだ。

 人工林へ調査に行く前、早朝の涼しい時間に 調査スタッフと共にカフェに入る。カフェでは、

マスターがコーヒーを用意し始め、そのあい間 に、ヌードルを作る。朝の青みがかかった緑の 灌木の下、黄や青色のコップに注がれる茶色の コーヒー、パチパチと燃えた薪の上でさっとゆ でられ粉末ソースを絡められたヌードル。これ

らの風景が美しかった。

 ナイジェリアと聞くと、ラゴスなどの車の渋滞 とクラクションが鳴り響く風景を思い浮かべる かもしれないが、ここカドナの朝は静かであっ た。アフリカの多くの街で見るような、建物と 道路の間の緩衝帯(専門的には、中央分離帯と言 うようです)、日本では歩道にあたる部分の幅が 4車線くらいあり、そこにこのカフェはあるの だけれど、そこから見える風景は、たまに通る車、

たまに通る鶏、程よく行き来する人々、吹き抜 ける半乾燥地の乾いた早朝の風、すべてが心地 よかった。

 余談であるが、私は、涼しいか少し寒いくら いの半乾燥地が好きである。なぜなら半乾燥地 は、目に入ってくるモノが湿潤地より少なく、

写真①参考として、最も形式の近い露店カフェ(ガーナ)

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乾燥地よりは多く適量である。また、少し寒い というのが、清潔で神聖な感じがして私は好き だからである。

 その好きな半乾燥地の中でも、特に好きな少し 寒い早朝、日が昇った後の1時間は最高に気持 ちがいい。その気持ちがいい時間に取る朝食は、

心地よい空間の中で、これぞ!というものが食べ たい。

 そういうことで、カドナの朝食はよく覚えて いる。それでは、どのような食事をとったのか を以下に記したい。

練乳入りのコーヒー

 カドナのカフェで飲むコーヒーはどのような 物であるのか?ずばり、インスタントのカフェ オレである。このカフェオレは、薪で沸かした 湯をプラスチックのコップに注ぎ、インスタント のコーヒーをティースプーン1杯、さっと混ぜ た後、牛乳ではなくて練乳を、これでもか〜と いう程度入れる。カフェオレ全容積のざっと3割 が練乳と言っても過小評価ではない。ナイジェ リア、少なくともカドナでは、コーヒーを頼む と基本的にこの練乳カフェオレが出てくる。

 練乳は缶に入っていて、使用するときは釘のよ うな工具で2か所、カンカンと缶に穴をあける。

一つは注ぐ用、残りはエア抜きだ。すかさず、

ひっくり返された缶は、プラスチックのコップ に傾いた状態ではめ込まれ、自立する。計算さ れたコップの程よい内径が、缶を斜め 45 度で ホールドする。アイボリー色の練乳の細い線が コップに注がれる。この間、マスターはオムレ ツ料理など別の仕事を行う。

 この練乳カフェオレ、はっきり言って激甘だ。

最初は甘すぎてあまりおいしくなかった。しか

図①私がお世話になったカドナのカフェのイメージ図

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16 し、調査が長引き、疲れがたまってくると、こ

の味がたまらなくおいしく感じる。慢性の労働 疲れを癒し、その日のエネルギーを充填するこ とができるのは、このくらいパンチの効いた甘っ たるい飲み物であると強く感じた。

 日本にも、これとよく似た飲み物があると思 う、そう、甘酒である。日本で体を動かす仕事 を生業にしている方や、フィールドワーカーは、

朝に甘酒を1缶くらいグビッと飲んで仕事に向 かえば、疲労も軽減されるのでは?と考えつつ、

ナイジェリアのカフェオレの味を今思い出して いる。

インドネシアのラーメン

 午前の作業は、前述の練乳入りのカフェオレ だけでは、腹が減ってもたない。朝食は?と言う と、パンかヌードルの 2 択である。パンは、次 の項で書きたいので、ここではヌードルについ て書かせていただく。

 ヌードルはインドネシア製のインスタントラー メン、「Indo mie(インドーミー)」である。イン ドネシアで作られたインスタントラーメンも、ま さか、ナイジェリアで食されていたとは思っても みなかっただろうと当時は思っていたが、実はこ のインスタントラーメン、世界的に有名であった。

 フライパンに水を薄く引いて、この麺を入れ

てほぐした後、粉末ソースをまぶし、卵を混ぜて、

焼きそばのようにして皿に盛る。焼きそばと違 うところは、混ぜるのが卵だけで、付け合わせ としてソーセージや、玉ねぎなどが、ヌードル の横に付く。

 これが、見た目はとてもインスタントラーメン であるという感じがしない。よく言うと、西洋の パスタのようである。味も、卵の甘さと、ラーメ ンの塩味が混じり、非常においしい。

 カドナのカフェのマスターは、インスタント ラーメン本来の作り方を大幅にアレンジし、ま るで新しい食べ物を作り出した。それが、すご くおいしくて素敵だった。

 そういえば、この調査の数年後、インドネシア からの留学生が、袋麺の袋に麺を残し、スパイス 等の小袋を取り出した後、その袋麺の袋に湯を 注ぎ、取り出した小袋の中身を入れてラーメン を作っていた。固定概念にとらわれないってこ ういうことなのかなと思った。

パンの事情について

 朝食のもう一つの選択肢、パンについて書き たいと思う。是非、西アフリカに滞在した際に は注意して観察してほしいのだが、西アフリカの パンは、コッペパン圏(食パンも含む)とフランス パン圏の2つに大きく分類される。私が調査し

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ていたナイジェリアは、コッペパン圏であった。

 コッペパンに肉と玉ねぎを挟んでムシャムシャ と食べるわけであるが、コッペパンの皮の部分に ほのかに甘みがあって、サンドする具材と合い、

非常においしかったのを覚えている。

 私は、フランスパン圏にも滞在したこともあっ たが、フランスパンはコッペパンよりも見た目 が美しく、これもなかなかおいしい。ただ、滞在 場所が乾燥地のニジェールであったので、パン を不用意に放置しておくと、カチカチに乾燥し、

硬くて歯が立たなくなるので大変だったことを 覚えている。日本では煎餅やパスタを放置する と湿気てしまうので逆の感覚だ。

 このフランスパン圏、現地の人々の唯一のフ ランスパンへの不満はボソボソした食感である と言っていた。しかしなぜか、コッペパン圏を 見習って、コッペパンを作ろうとフランパン圏は しない。ナイジェリアのコッペパン圏から国境 をこえて隣国のフランスパン圏ベナンに入国した 瞬間に、売られているパンがフランスパンになる ので面白いものである。

 と、思っていたら数年前、外見はフランパン だけど、コッペパンのようなしっとりした食感 のパンを、フランスパン圏で見つけた。「これは、

アフリカにおける大いなる改良だ」と地元の方が 言っていた。私もそうだと思い、開発者へ賛辞 を贈りたい。

 野外の調査はしんどい。簡単に表現すると、

それはまるで魂を削る作業である。それでもなぜ 調査を続けるのか?その先に新しい発見がある からであるが、程よい疲労を感じつつ取る心地 よい朝夕の食事の存在も、野外調査を続けるこ とができる一要因であると最後に指摘し、この 話を終わりたい。

渡邊芳倫

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西アフリカ外食紀行 その4

-ワガドゥグの厳母-

ワガドゥグのある「メシ屋」の光景

 注文を取る声と食べ終わった客が発するお礼 の言葉以外は麺をすする音しかしない。頑固お やじのラーメン屋にしばしば見られる光景だが、

このような屋台が、このエッセイの舞台となる ブルキナファソの首都ワガドゥグにもある。

 「西アフリカ外食紀行 その4」は、「その1」1 でも紹介した「牛皮メシ」を売るオバチャンの話 である。このオバチャンの屋台は私の定宿の並 びに店をだしており、コメ食いの私にとっては、

最も手軽に、そして唯一朝食でコメが食べられ る屋台である。「その3」で紹介した「メシ屋」の 分類から言えば、2つ目の模擬店舗型にあたる。

私はすでに 7 〜 8 年間このオバチャンの店に 通っているが、実は私は未だにこのオバチャン の名前すら知らない。ただ、一人の客として、

ひたすら腹を満たし、その背徳的なほどの旨さ に舌鼓を打つのみである。

 オバチャンの屋台の開店は朝 6 時半ころだ。

暑いワガドゥグでは、日の出の前までの涼しい 時間帯が最良のデスクワークの時間だ。私は6時 ころになると定宿の2階のテラスからそちらを

覗く。オバチャンが山盛りのコメのタライを頭 の上に乗せて、古びた木のテーブルに運び込む さまが見えると、私はすぐに小銭をもってそち らに向かう。

 以前は 7 時半、8 時にオバチャンの屋台に行 くことも多かった。しかし、8時半ころに行っ たときには、ほとんどの場合が売り切れている。

そして、なによりも、早い時間に行けば、アツ アツのメシが食べられるので、6時半ころにノコ ノコとオバチャンのところに行く、という日課 であった。

オバチャンの「メシ屋」

 オバチャンは柄が折れたお玉でメシをよそう。

一玉にトマトソースがついて50セーファ・フラ ン(約10円、以下フラン)。これに牛の皮2を煮 込んだものが一片で50フランだ。数年前までは、

つまり、今よりも少し若く、いくらでも食べら れたころには、コメ200フラン、牛皮150フラ ンが私の定番だったが、最近はコメ100フラン ということもある。それでも普通の「メシ屋」の 一人分よりも多いくらいだ。いずれにしても、

200フラン〜350フラン、これがこのオバチャ ンの屋台の価格帯である。「その3」で紹介した 有名なセネガル料理のレストランを営むFさんの 店は、平均よりもかなり高いものの、大方700

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フラン〜800フランだから、このオバチャンの 屋台の安さはよくわかるだろう。

 現在は牛皮ソースと揚げ魚のみの具材しか出し ていないが、以前は、ムギラという、炊いたコメ をすりつぶして団子状にする料理も出していた。

ガーナでよく食べられるオムトゥという料理と 同じものだ。ムギラは牛皮ソースと並ぶ、オバ チャンの屋台の看板メニューだったが、ここ数年 はやらなくなってしまった。

オバチャンの流儀

 ワガドゥグの「メシ屋」では、注文の時も押 しが強くなければ、後から来た客にどんどん先 を越されて注文されてしまう。すっかりブルキ ナファソとはそのようなものだと思い込んでい た私は、初めてこのオバチャンの屋台で食べた 時も前の人を押しのけて注文をしようとした。

すると、なんとオバチャンは「わかってるから

写真①牛皮ソース

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20 黙っていても私の順番になると、「ナサラ(モシ

の言葉で「白人」)」と呼んで注文をとってくれる。

順番が逆になったのは、学校に行く前に急いで 朝メシを駆け込もうとする小学生が居た時くら いである。もちろん、オバチャンからは「悪いね。

先に食べさせてやって」という声掛けがあった。

 オバチャンの屋台には、毎朝テーブルが3組 しつらえられ、15名ほどがそこに座って食べる。

しかし、その安さとボリューム、そしてオバチャ ちょっと待ってなさい」と外国人の私を叱りつ

けたのだ。周りで並んでいた人は、聞かなかっ たフリをしていたのだと思うが、きっと外国人 がオバチャンに叱られている姿はなかなか面白い 光景だっただろう。私は、とてもばつが悪かっ たことをよく覚えている。言わずもがなだが、

それ以降は、私は静かにオバチャンが注文を取っ てくれるのを待つようにしている。だが、オバ チャンは、ちゃんと客が来た順番を見ていて、

写真②ムギラ

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ンの作るメシの旨さからだろう。近くの家から 大きなホーローの鍋を持って家族分を買いに来 る人たちも少なくない。そのようなわけなので、

目の前で食べている客の数以上にオバチャンの 屋台で腹を満たしている人は多いのだ。

 ある日、私はいつものように一皿を頼み、テー ブルに座って静かに牛皮メシを食べていた。基本 的にスプーンを付けてもらうのだが(手で食べる には熱すぎるので)、そのスプーンはブリキ製だ。

ブリキはご存知の通り、アルミ製品に比べると 非常に曲がりやすい。そして、その日の牛皮は いつも以上に固く、ブリキ製のスプーンを曲げ ないように、細心の注意を払っていたつもりだっ た…しかし、スプーンは曲がるどころか、ポキッ と音をたてて折れてしまった。絶望的な気分で、

オバチャンに謝罪するが、「外人はスプーンを まともに使えないのか」とひとしきり怒られて、

新しいアルミのスプーンに替えてくれた。その 後、僕はオバチャンの中でスプーンすら使えない 奴になったからか、ようやく常連客として認め られたからかはわからないが、トロトロの柔ら かい牛皮を盛ってくれるようになった。そして、

これがとてつもなく旨いのだ。

 また別の日に何人かの日本人を伴ってオバ チャンの屋台を訪れた時のことである。早朝か ら脂ぎった山盛りのメシを食べさせられて、一 緒に来た人たちからは「朝メシにしては重すぎ

る」とクレームの嵐。私たちがこのように色々 と言いあいながらノロノロと食べていると、「ほ かのお客さんが待ってるから食べたら帰りなさ い!」とやはり怒られる。このような光景はこ の日だけでもなく、また、私たち外国人に対し てだからというわけでもない。議論が盛り上がっ たブルキナべ3に対しても頻繁に投げかけられる オバチャンのセリフだ。アフリカとは言え、一国 の首都ワガドゥグの朝はみな忙しいのだ。

厳母の優しさ

 こんなオバチャンなので、写真を撮らせてく れなどと頼めるわけもない。自分の皿の写真を 撮るのには怒られたことはないが、無謀にもオ バチャンの写真を撮ろうとした私の知人たちは 悉く撃沈している。とにかく、ぼんやりと食事 をしていると怒られるので、最初に述べたよう に、頑固おやじのラーメン屋よろしくサッと注 文をし、サッと食べ、きれいにして帰る。この 屋台はそういうところなのだ。

 しかし、都度の滞在初日にこの屋台を訪れると、

厳しい顔つきで仕事をするオバチャンがにっこ りして「ボナリベ(ようこそ)」と言ってくれる。

そして、頼んでもいないのに、私が注文したよ りもはるかに多く盛った「メシ」と何枚か余分に 牛皮を盛ってくれて歓迎してくれる。おかげで

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22 初日の午前中はいつも以上に腹が重くて困って

しまう。おっさんとなった愚息のメタボな腹回 りを気にする実家の母とは若干方向性が違うの だが、母の愛に触れたような気がして、なんだ かほっこりして一日を過ごすことができるので ある。

清水貴夫

1 田中樹(編) 2017 年 3 月 『フィールドで 出会う  風と人と土』)総合地球環境学研究所に 収録

2 「牛の皮」は屠殺した牛の皮を天日で干して 板状になったものを水でもどしてから調理す る。牛はブルキナファソの北部、マリやニジェー ルの牧畜民フルベが生産したもので、肉あしらい がうまいとされるハウサの職人によって乾燥し た牛の皮が作られる。以前は西アフリカの乾燥 地と海岸部との交易の重要な品目であったとされ ている。

3 ブルキナファソ人のこと。ブルキナファソは 1984年の国名変更の際に、ブルキナファソの3 大民族の言語を「ブルキナ(モシ語):誇り高き」、

「ファソ(ジュラ):人びと」、「ブルキナべ:「べ」

はフルベ語で「…人」」と振り分けて民族の融和 を象徴した。

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市場での出会いとお弁当

 「初の海外調査の地であるインドで、一人で 行動する日に食べたお弁当のことを忘れること はありません!」と今でも胸を張って言えます。

市場のお弁当の話にたどり着くまで、色々あり ました…。

そうだ市場に行こう

 調査も終盤に差しかかったある日の晩、突然、

一人で過ごすことになりました。二週間ほど何事 もなくインドに滞在していたとはいえ、いきなり 一人で過ごすとなると心細くなりますし、不安 も覚えます。ただ、普段よりも多めのお金を払っ てホテルで食事をして、冷房の効いた部屋で仕事 をすれば、ホテルの外に出ることなく一日過ご せます。また考え方を変えれば、なれない異国 での現地調査でたまりにたまった疲れをとるに は良い一日です。「なんとかなるな」と考え、そ の日は眠りにつきました。

 気持ちよく晴れ渡った真夏日のある日、冷房 のよく効いた部屋で、一人きりの一日が始まり ました。朝食を終え、部屋で過ごしていると気持 ちがムズムズし始めました。私は仕事が嫌いな わけではありません。冷え性なわけでもありま

せん。テレビが嫌いなわけでもありません(テレ ビは電波の受信が不調で視覚的内容がよくわか りませんでしたが…)。部屋の中で考え事をして いると、ヨーロッパで行われた学会でご一緒し た先生の姿を思い出したのです。

 学会終了後、何人かで会場の近くを散策し、

市場(蚤の市?)を歩きました。その先生は、珍 しい野菜やおいしそうな果物を見つけると次々 に買い始めたのです。英語が通じない店主には、

現地の通貨を手のひらに載せて、 信用 取引を していました。「食べてみないと、良い悪いはわ からないでしょ」というようなことを仰っていた のと、その豪快な信用取引がとても印象的でし た。気持ちのムズムズの原因は、この思い出で した。

 私は市場を目指すことにしました。頭の中で は、私たちのような旅行者1が、開発途上国の 大衆レベルの生活を見ることはそうそうないと 思っていました。しかし、熱気と活力がみなぎ るインドの町や村を往復していると、人々の日常 生活が見てみたいと思うようになっていました。

そのような思いを胸に、私はホテルから出て、車 やバイク、人にぶつからないように砂埃が舞う中 をテクテク歩きだしました。市場へ向かう道中で は、信号や横断歩道がない片側3.7車線2の道を、

現地の人やドライバーさんたちの好奇の視線を 浴びつつ3、無事に渡りきりました。前日にスコー

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24 ルのような雨が降っていたので、水たまりがたく

さんありました。インドでは道路があらゆる生 活の場になりうるので、私は水たまりの水も感 染症の原因なるかもしれないと考え、現地の人 には考えられないような回り道をしながら、 恐 るべき 水たまりを避けてテクテク歩きました。

ダラダラ歩いていると悪い人に声をかけられた り絡まれたりすると思い、早足でテクテク歩き、

なんとなくあのあたりだろうと見当をつけてい た市場に到着しました。

市場の色彩豊かな光景

 広大な敷地の中に市場がありました。市場の中 は、水はけの悪い土で覆われていました。前日の 雨の影響が残っていたので、ここでも水たまり は私の極力避けるべき対象物となりました。し かし、車の往来を気にせずに自由に歩き回れる 空間に、ホッとしました。市場の中は区画ごと に大きく区切られていて、店が整然と並んでい ました。野菜ゾーン、肉ゾーン、日用品ゾーン、

駄菓子屋(?)ゾーンという感じでした。大部分 は、野菜ゾーンでした。車の往来が激しい埃っ ぽい道を歩いてきた私にとっては、その野菜ゾー ンの色彩はとても魅力的に感じました(写真①、

②)。次の写真はバナナ屋さんで、単色ですが、

ディスプレイの仕方が日本のスーパーではまず

見られないので、私には印象的でした(写真③)。

 綺麗に土が取り払われた野菜が並んでいまし た。調査で大半が土色だった半乾燥地を行った り来たりしていた私にとっては、このような色彩 豊かな野菜が並んでいる光景はオアシスのようで した。ぶらぶら歩きながらそのような光景を眺 めていると、この野菜はどこから来ているのか 疑問が湧いてきました。店番の人に野菜の栽培 地を何度か聞いてみましたが、言葉が通じない ことが続いたので、最終的には質問せずに、ニコ ニコ笑いながら市場をぐるぐる回っていました。

 そうこうしていると、葉物野菜のキャベツを 売っている店を見つけました。根菜よりも傷み やすそうなイメージの葉物野菜を見つけたので、

このときばかりは言葉の壁を気にせずに、「どこ で栽培しているか」お店の人に聞きました。お 互いイメージを膨らませながらコミュニケー ションをとっていると、周囲に人がどんどん集 まって来て、ただ事でない様子になりドキドキ しました。すると、どこかのお店の裏で働いて いた高校生か大学生ぐらいの青年が英語で話し かけてくれました。あまりにも私の現地語での コミュニケーション能力が低かったため、集まっ て来た人たちが英語を話せる人を探してきてく れたのです。ようやく、「どのあたりで栽培し ているのか知りたい」とか、「栽培用の水はある の?」など、色々聞くことができました。若い人

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25 写真①綺麗に土が取り払われた野菜たち

写真②市場の色彩を豊かにする野菜の赤や緑

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26 は英語が話せる人が多いです。コミュニケーショ

ンがとれ始めると、キャベツ売りの店主らから 質問攻めにあい、その後は終始お店の人のペー スで物事が進みました。

陽気な店主との出会いとお弁当

 キャベツ屋の二人はとても陽気で親切でした

(写真④)。「どこから来た?」から始まり、「スマ

ホを持っているなら写真撮らないかい?」と言っ て、ポーズをとってくれたりしました。「ヤシの実 ジュースを知っているか?」と聞いてきて、突然

「ビデオ、スタート!」と言いだし、売り物である ヤシの実を硬い岩にガツンとぶつけて、できた穴 からほとばしるヤシの実ジュースの一気飲みを 見せてくれました。ヤシの実ジュースを一滴も こぼさず、ジュースが滝のように落ちていく様子 が分かるようにヤシの実を高く持ち上げ、口を

写真③売り物のバナナと店主の女性 写真④陽気で親切な店主たち

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大きく開けて飲み干すその手際の素晴らしさに とても感心しました(ひょっとして取材慣れして いる??)。その後も彼らとの会話は続きました。

私の感じたインドの素敵なところを話していた ときに、食事がおいしくて仕方がないというこ とを言ったら、「俺たちのお弁当の味は知らない だろう?」といい、お弁当を差し出してくれた のです(写真⑤)。店主が今日食べるお弁当だと 言われたので遠慮したのですが、結局は店主の ご厚意に甘えてお弁当を頂くことにしました。

差し出されたのは、新聞紙に包まれたお弁当で した。最初に私が食べたインドのお弁当とは少 し違っていて、バナナの葉ではなくビニール袋に 包まれており、カレーソースの小袋はありませ んでした。ご飯は既にカレーソースのようなも のとの混ぜご飯風で、ご飯の上にゆで卵が一つ 乗っていました。スプーンも一緒に渡してくれ たのですが、私は店主のお弁当に敬意をはらい、

現地の流儀にのっとって食べました。みんなの 視線を浴びながら右手でご飯を食べ始めると、

写真⑤実際にいただいた八百屋さんのお弁当

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28 周りから笑い声を含めた歓声のようなものが聞

こえてきました。何を言っていたかは定かでは ありませんが、身振りや手振りを見ていると「あ の日本人、俺たちとおんなじように手で食べて いるよ」とでも言っていたようです。これは、

日本人が外国人の箸使いに感心するようなこと と似ていたのかもしれません。「おいしい、おい しい!」と私は観客たちに言いながら食べまし た。リップサービスではなくて、本当においし かったです。ビニール袋にご飯は包まれていま したが、ジュクジュクのご飯ではありませんで した。味はまるでカツオ出汁をとっているかの ように和風風味のカレー味で、辛さも程よく、

私のおなかにもう少しスペースがあればおかわ りもしたいぐらいのおいしさでした。ゆで卵と 和風カレーご飯の相性も抜群で、「少し辛みが 強くなってきたな〜」と思ったタイミングで、卵 をかじると程よく辛みが中和され、またご飯に 文字通り手を伸ばしてしまいました。

 お弁当を食べた後は、お土産としてキャベツを 一玉もらって帰りました。店主からはなにもかも もらってばかりとなったため、一人になった私を 市場に行こうと突き動かしたある先生の取引の姿 とはほど遠いものとなりました。しかし、市場の 陽気な店主たちとの出会い、リアルな家庭の味 のお弁当、緑鮮やかなキャベツ、一人で過ごした この日は何事にも代えがたい思い出となりまし

た。この三カ月後に再び現地を訪れることになっ たのですが、日程の関係で市場を訪れることは 叶いませんでした。いつか、あの人たちと 信用 取引を成立させることを夢見ています。

荒木良一

1 今回は旅行ではなく、お仕事です。

2 本当は片側3車線ですが、ドライバーさん達 の空いているスペースを見つけてどんどん割り 込んでくる技術で0.7車線ぐらい増えているの です。

3 車・バイク社会ですので、暑い日中に外国人 が歩いているのはとても珍しい光景です。

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デーツの名産地

-サハラのオアシス都市ビスクラ-

デーツって何?

 デーツという果実を知っていますか?デーツ とはナツメヤシという植物になる実のことです。

つまり「ナツメヤシの実」ということになります。

日本ではそれほど馴染みはありませんが、近頃 では輸入食品のお店でも買うことができます。

 デーツを実らすナツメヤシには植物学的にお もしろい特徴がいくつかあります。雄と雌があ ること(雌雄異株)、寒さに弱いこと、幹の先端に しか成長点がないため、その部分を切ってしま うと枯れること、寿命が70−80年と長いこと、

などです。

 ナツメヤシの起源はペルシア湾岸と考えられ ていますが、そこから東と西へ、砂漠地帯のオ アシスを伝って拡散していきました。東はインド のタール砂漠、西はモーリタニアの砂漠地帯ま で、多くのオアシスでデーツが生産されている のです。

 20世紀になると、アメリカ、南部アフリカの 乾燥地でもデーツが生産されるようになりまし た。最近ではインド南部でもナツメヤシ農園を 見かけることができます。

 砂漠のオアシスでは雨がほとんど降りません。

そんなところで、どうしてナツメヤシの栽培が 可能なのか。その理由は、地下水を集めるため の水路にあります。アルジェリアのオアシスでは

「フォッガーラ」と呼ばれます。地中に横に掘ら れたフォッガーラの水流が、地表にでたところ にナツメヤシ農園があります。人々は貴重な水 を分け合って、生活用水やナツメヤシへの灌漑 に利用してきました。またオアシスによっては 湧水を利用することもあるし、比較的雨が多い オアシスでは、川の水を引いて灌漑に使う場合 もあります。最近では井戸を掘り、ポンプで水 をくみ上げるところも増えています。

 こうしてつくられるデーツは、基本的に熟し て乾燥させたものをそのまま食べることが多い のですが、料理に使い、甘みを出すこともあり ます。デーツは独特の風味と味をもっています が、あえてたとえれば「干し柿」の食感に近いと いえます。

デーツの大産地ビスクラ

 私は 2009 年からサハラ砂漠の小さなオアシ スに通い、人々の生活や農業、それらの変化に ついて調査を進めてきました。サハラに点在する オアシスには、人口数百人程度の小さなものもあ れば、数十万人規模のオアシス都市もあります。

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30  最近私が通い始めた、サハラの北部に位置す

るアルジェリアのビスクラというオアシス都市 の人口は30万人を数え、かなり大きなオアシス ということになります(図①)。

 ビスクラ一帯はデーツの大産地としても有名で す。アルジェリアは、1830年以降フランスによっ て植民地化されました。その植民地時代にビスク ラがナツメヤシの生産地として発展したのです。

ビスクラはサハラの北部にあり、地中海沿岸の

人口が多い地帯までの距離が比較的短く、輸送 に便利なこと年間の降雨量が100mm 程度で、

地下水が抱負であったことが理由として考えら れます。

 ナツメヤシは品種が多く、アルジェリア国内 だけでもおよそ1000品種が確認されています。

しかし、ビスクラで栽培されるナツメヤシの大半 はデグレット・ヌールという品種です。デグレッ ト・ヌールが導入された主な理由は、デーツの 生産性が高いことによります。デグレット・ヌー ルの 1 本あたりの生産量は 50 〜 80kg といわ れ、他の品種よりも格段に多いのです。

収穫シーズン

 デグレット・ヌールの収穫期は10月から11月 です。この時期、どの農園でも人々が忙しく働 いています。

 アブデルラ  ティフさんはビスクラでナツメヤシ 農園を持っています。実はアブデルラ  ティフさん は、弁護士の資格も持っていて、午前中はナツ メヤシ農園で、午後は弁護士として働いている のです。以前は、もっぱら弁護士として働いて いたのですが、どうしてもナツメヤシの農園を したくて、農地を買ってナツメヤシ栽培を始め たそうです。収穫期には数人の季節労働者を雇 い、忙しい時期を乗り切ります(写真①)。

図①ビスクラの位置

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 まず重要なのは、ナツメヤシに登って収穫をす る人、そして収穫されたデーツを地面で受け取っ てトラックまで運ぶ人、さらに農園の作業場で デーツの房をきれいに整える人です(写真②)。

 こうした一連の工程を経てデーツが売られてい くのです。ビスクラ周辺には、デーツを軒先に 吊るして販売する店が多数あります(写真③)。

また、郊外の市場にはデーツを売り買いする人 たちが集結します(写真④)。こうして、デーツは 首都のアルジェや大都市に運ばれていくのです。

輸出されるデーツ

 ヨーロッパの食料品店や市場を覘くと、デーツ が売られている光景をよく目にします。その中に はアルジェリア産のデーツもあることでしょう。

 ただ、日本でアルジェリア産のデーツを見る ことはまずありません。サハラ・オアシスの研究 を始めて以来、私は店でデーツを見かけると、

産地を確認する癖がついてしまいました。チュニ ジア産、イラン産、アラブ首長国連邦(UAE)産の

写真②ビスクラ近郊に広がるナツメヤシ農園

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32 ものが大半を占めているようです。アメリカ産、

イスラエル産も時折見かけることがあります。

 2011年に世界で生産されたデーツはおよそ 800万トンでした。これは日本のコメの生産量 とほぼ同じです。この年、もっとも多く生産した

のはエジプトでおよそ140万トン、アルジェリア は5位でおよそ70万トンでした。

 ただ、日本人は多くのデーツを食べているとは 言えません。ちょっと古い統計ですが、2006年 のデーツ輸入量はおよそ1000トンでした。加工

写真②アブデルラ ティフさんの農園での収穫

写真③デーツの房を整えるアブデルラティフさん

写真④デーツが取引される市場

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用のものを計算に入れないとしたら、日本人1人 あたり、1粒のデーツしか食べていないことに なります。

 日本人がデーツをもっと食べてくれたら、オ アシスに興味を持つ人も増えるのではと、私は 期待しているのです。

石山俊

写真⑤デーツの売り買いで賑わう市場

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サヘルのウシはいつ眠る

-ブルキナファソ、サヘル地域の牧畜民 フルベの事例-

 

 機会は突然おとずれた。2015年12月に9年 ぶりにブルキナファソへ渡航することになった のだ。

 そのころの私は、2012年から所属していた 総合地球環境学研究所の「砂漠化をめぐる風と 人と土」プロジェクトで、インド班の一員として ラージャスターン州およびタミル・ナードゥ州で、

牧農業共存社会の在り方を探ることを目的とし た調査に励んでいた。そして、かつての調査地 ブルキナファソで調査する同僚を羨ましそうに 眺めていた。それは、私が調査をしていたT 村 はブルキナファソ北東部ウダラン県というとこ ろにあり、イスラム過激派の活動拠点に地理的 に近いため、外務省の海外安全情報で最高レ ベルのレベル4(退避勧告)が出されている危険 地域で、調査できない状況だったからだ。しかし、

レベル2の地域も多いことから、何らかの方法 があるのではないかと虎視眈々とブルキナファ ソで調査する機会をうかがっていた。

ことのはじまり:放牧経路のGPS計測

( 2001 年-2007 年)

 2001年4月から2007年3月にかけて『西ア フリカ・半乾燥熱帯圏のミレット農耕と家畜・

休閑植生・土壌の共生的連環』というテーマで 博士研究をおこなっていた。その研究の一部と して、GPS を用いて、乾季に T 村を訪れる牧畜 民フルベの放牧経路やキャンプの移動、牛糞の 散布域を計測していた。当時用いていたGPS はガーミン(Garmin)社のポータブル GPS で、

たしか3万円程度であったが、少ない研究予算 の中から数万円するGPS を複数個購入するの は至難の業であった。

 そんなに高価なGPS にもかかわらず、放牧 経路を計測するには様々な問題があった。まず、

そのGPS は単三電池2本で動くのだが、放牧 経路をトラック(軌跡)データでとろうとすると 常時電源を入れておく必要があり、そうすると 電池の寿命が24時間持たない。電源を入れてお いても、その間のデータがしっかりと取れてい ないことがある。これはGPS の問題ではないの だが、そんなに高価なGPS をウシにつけてお いて砂丘の中に落としてきたら、それこそ砂漠 の中で1本の針を探すようなもので、元も子も ないので、牧夫に携帯してもらい計測していた

(写真①)。そのため、時折、牧夫の行動がGPS

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り、村のデレゲ(日本語では代表となるが、顔役 といった感じ)であるMaïga Tahiri Yamba 氏 と共に、放牧に出る前の牧畜民フルベのキャンプ を毎日回り、電池交換と簡単な聞き取り調査を おこなった。(写真②)。

 牧夫らに1日の行動を聞くと、朝の搾乳と昼過 ぎの水遣りはほぼ同時刻に毎日おこなうが、日帰 り放牧は毎日同じ時間に同じところへ行くわけで はないことがわかった。また、放牧は日中では なく夕刻以降におこなわれていた。では、ウシは データとして現れる。また、この手段は滞在時

に毎日電池交換し、データを吸い上げることで 継続的な計測ができるが、不在時には、電池交換 とデータ吸い上げができないため、計測をおこ なうことができないという致命的な問題があっ た。このように色々と問題があるGPS を効率 良く使おうとすると、なるべく長時間のトラッ クデータをとるために、放牧に出る直前の牧夫 GPS を預けて回る必要があった。そこで、

私はブルキナファソでのパパであり、通訳であ

写真① GPS を持ってウシの放牧をしている牧夫( 2004 )

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36 いつ眠るのだろうか。先述したように、GPS を

携帯していたのは牧夫であり、ウシそのものの 行動がGPS のトラックデータとして計測されて いるのではない。また、24時間完全にデータが 取れていないことから、行動にも空白があった。

サヘルのウシはいつ眠るのかという疑問を残した まま、ブルキナファソでの調査は 2007 年 3 月 幕を閉じた(写真③)。

希望が見えた:放牧経路のGPS計測

( 2013 年-2017 年)

 2013 年から、インド、ラージャスターン州 およびタミル・ナードゥ州で、牧農業共存社会 の在り方に関する研究の一環として、家畜の放牧 GPS を用いて計測していた。先ほどまでの 話から 10 年以上もたっており、価格もサイズ もお手軽なポータブルGPS が販売され、また、

学生時代には存在自体知らなかったが、知って いたとしても予算の都合から使うことができな かった首輪GPS(動物に装着する GPS)を用い ていた。しかも、この首輪GPS は、こぶし大の バッテリーを使うことで、1年間継続してトラッ クデータが計測できるという代物である。T 村 に訪れる牧畜民のウシにこの首輪GPS を装着 できれば、1年間どのように遊牧しているかが わかるのではないか。インドで首輪GPS での 計測に慣れ始めた私は、どうすれば危険地域で の首輪GPS 計測が可能か構想するようになっ た。

写真②インタビューをしている Maïga Tahiri Yamba氏(2004 )

写真③Maïga Tahiri Yamba氏とその息子(2015, I.M.さん撮影)

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る。あとは牧畜民が承諾してくれるかだが、こ れに関しては行ってみないとわからない。とい うのは、彼らは遊牧生活を送っており、先ほど I.M. さんの場合とは異なり、携帯やインター ネットなどのネットワーク環境がないことのほ うが多いからである。そもそも、私がブルキナ ファソを離れたころには携帯もそれほど普及 しておらず、彼らの連絡先がわからない。最大 の課題を残しながらもリーダーに相談してみた。

サヘル地域の牧農共存社会、遊牧の現状を把握 することはプロジェクト上大きな功績となるが、

やはり安全面とロジ面で不安があったようだ。

しかし、S さんの後押しもあり、現状を良く知る S さんと同じ日程で渡航し、行動することを条 件に承諾された。S さんが渡航するのは牧畜民 フルベがT 村を訪れ始める乾季初旬の12月で、

GPS の設置にも好都合であった。すべての幸運 がつながり、9 年ぶりにブルキナファソでの調 査が可能になったのは2015年11月のことであ る。

首輪GPSの装着

 12 月のブルキナファソでの滞在期間は 7 日 間。その間に首都に住む協力者のI.M. さんと 打ち合わせをし、彼がT 村へ行き、訪れている 牧畜民フルベの家畜に首輪GPS を装着し、簡単 渡航にむけて

 課題は山積していた。予算の面ではブルキナ ファソまでの渡航費、首輪GPS 購入費、ロジ 面では危険地帯にいるウシに誰が首輪GPS を 装着するのか、装着しに行ったとして牧畜民が 承諾してくれるのかなどである。構想から1年 経ったある日、ついにそのチャンスがおとずれ た。年度末に向けてプロジェクトの残り予算を 計算した所属プロジェクトのリーダーが、「予算 に少しゆとりがあるので新規展開の研究あるい は調査拡張の案はないか」というではないか。

また、首輪GPS についてはラージャスターンで 使用していたものとザンビアで調査していた 同僚が転職したため、使わなくなったものが利用 できる状態になっていた。残す課題はロジ面だ けである。そこで、「T 村出身で首都ワガドゥグ NGO で働いている I.M. さんにお願いできな いかな」とブルキナファソの比較的安全な地域で 調査をしている同僚S さんに相談したところ、

「大丈夫でしょ。彼は宮㟢さんに恩義があるので」

と返答された。『そうなのか、まったく身に覚え がない。知らぬまに恩を売っていたのか』善は 急げと早速Fecebook の Messenger を使っ て相談してみたところ、I.M. さんから快諾が得ら れた。こんな風に、簡単に現地と連絡が取れる なんて2007年には考えられなかったことであ

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38 なインタビューをおこない、戻ってくる。そして、

報告を受け、来年度のGPS の回収に向けて更 なる打ち合わせをする。という、いたってシン プル簡単な仕事である。が、何度も書いている ようにフルベが家畜にGPS を装着させてくれ るかが課題である。I.M. さんとの打ち合わせの 結果、I.M. さんだけではフルベとうまく交渉で きない可能性もあるので、以前、私と共に調査 していたT 村のデレゲ Maïga Tahiri Yamba 氏に同行してもらうことになった。彼がT 村へ

発ち、S さんと別調査をしている間も T 村での 交渉が気になった。首輪GPS はウシ用 9 個、

ヤギ・ヒツジ用 4 個の全部で 13 個を彼に託し ていた。移動に1日ずつ取られるのでT 村での 滞在期間は3日間、いったいいくつの首輪GPS を装着してくることができるのだろうか。もし かして…。そんなことを考えながら彼の帰還を まった。帰国日にI.M. さんがホテルに現れた。

「どうだった?」彼はにやりとしながら、「全部 装着できたよ」とこたえた(写真④)。彼が言う

写真④ GPS をウシに装着する牧畜民フルベの O.M. 氏(2015 , 撮影:I.M. さん)

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彼の体調を気遣って、それ以降の同行を断った そうだ。心配である(写真⑤)。

首輪GPSの回収

 調査には常に不安がつきもので、次々と心配 事がわいてくる。首輪GPS が装着できた今、心 配なのは、首輪GPS をちゃんと装着したままに してくれているか。インド調査では、途中で首輪 GPS を外されていることが数回あった。1年後 には、牧夫たちが僕のことを覚えており、みん

な快く引き受けてくれたそうだ。また、お土産 として託していた我が家の家族写真にも、「彼は 元気にしていたか。子どもが2人もできたのか」

と喜んでくれたらしい。なんともいえない気持 ちになった。でも、ひとつだけ気がかりな報告 を受けた。私のブルキナファソのパパ(Maïga  Tahiri Yamba 氏)の体調がよくないとのこと である。最初の1日はI.M. さんと一緒にフルベ のキャンプを訪問して回ってくれたらしいが、

写真⑤ Maïga Tahiri Yamba 氏とその家族( 2015 , 撮影:I.M. さん)

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