首長制とキリスト教 : ミクロネシア,ポーンペイ 島とコシャエ島の事例
著者 中山 和芳
雑誌名 国立民族学博物館研究報告
巻 16
号 3
ページ 633‑680
発行年 1992‑03‑11
URL http://doi.org/10.15021/00004262
中 山 首 長 制 と キ リス ト教
首 長 制 と キ リ ス ト 教
一 ミク ロネ シア ,ポ ー ンペ イ島 とコシ ャエ 島の事例
中 山 和 芳*
Chieftainship and Christianity on Pohnpei and Kosrae, in Micronesia
Kazuyoshi NAKAYAMA
In the early 19th-century Pohnpeian and Kosraean societies, there were many areas of similarities in social and cultural practices. Each had chiefdom structures denoted by a system of titles. All land was own- ed by the paramount chiefs (Nahnmwarki on Pohnpei and Tokosra on Kosrae). Thier subjects were allowed to use the land, paid tribute in return, and used respectful language to them.
The Pohnpeian and Kosraean experiences of Western contact in the 19th century were also basically similar. From the 1830s increasing numbers of whaleships visited the two islands. Pohnpei and Kosrae ex- perienced a depopulation caused by diseases which foreign ships brought. In 1852 American Congregational missionaries came to the two islands to propagate their religion. Later both islands accepted
Christianity.
On Pohnpei Christianity was accommodated into the existing social
and political framework, and Pohnpeians retain their traditional chief- tainship even today. But on Kosrae the acceptance of Christianity
caused the abandonment of the chieftainship. In spite of the seemingly similar situations in the two islands, the outcome in each case was markedly different.
The purpose of this paper is to examine why there was such a great difference between Pohnpei and Kosrae. There are several factors which influenced processes of change and continuity.
東京外国語大学,国 立 民族 学博物館併任
Key Words : Pohnpei (Ponape), Kosrae, chieftainship, Christianity, socio-cultural change
キ ー ワ ー ド:ポ ー ン ペ イ(ポ ナ ペ),コ シ ャ エ,首 長 制,キ リス ト教,社 会 ・文 化 変 化
国立民族学博物館研究報告 16巻3号
First, although the two societies suffered a decline in population, Kosrae, because of the smaller size of its population, was more vulner- able to changes than was Pohnpei. On Kosrae it became difficult to find an eligible candidate to the paramount chief title.
Second, there were five autonomous chiefdoms on Pohnpei while Kosrae had a unified polity. On Pohnpei a strong rivalry existed among the five chiefdoms and each of them often pursued different policies from the others. Therefore unified action was hard to attain.
Third, Pohnpei was subjected to a far wider range of foreign in- fluences than Kosrae. On Pohnpei many beachcombers settled. On Kosrae they were discouraged from remaining on shore after their con- flicts with the Kosraeans. The expulsion of the beachcombers from the island was possible because of the political centralization of Kosraean society. Spanish government officials and soldiers, Catholic priests and German government officials and soldiers came to Pohnpei, but none of them settled on Kosrae. Therefore, when they stood at the crisis caused by depopulation and were looking for a new model for their society, there were many examples on Pohnpei, while the Protestant teachings were the only one for the Kosraeans.
Fourth, Spanish and German government officials appointed the Pohnpeian chiefs to the post of native headman to maintain order on the island. The foreign governments helped Pohnpeian chiefs to maintain their positions. The Spanish officials were indifferent to Kosrae.
Although the Germans appointed the Kosraen paramount chief to the post of native headman, it was too late to retain the chieftainship.
The difference in those factors mentioned above caused the Kosraeans to abandon the chieftainship system and the Pohnpeians to manage to maintain it. On Kosrae, conversion to Christianity is regard- ed as discontinuous change, while on Pohnpei the process of change since Isokelekel, the first Nahnmwarki, is perceived in terms of cultural continuity.
1.は じめ に
B.ポ ー ンペ イ 島 の 首 長 制 と キ リス ト教 III.コ シ ャ エ 島 の 首 長 制 と 王 位 の 継 承 N.人 口減 少 と コ シ ャ エ 島 の 首 長 制
V.コ シ ャエ 島V̀ け る首 長制 か ら教 会 へ の移 行
M.現 在 の コシ ャエ 島 社 会
Vd.存 続 す る首 長 制 と廃 止 され た 首長 制
中 山 首 長 制 とキ リス ト教
1.は じ め に
ミク ロネ シア の カ ロ リン諸 島 の東 部 に 位 置す るポ ー ンペ イ 島(旧 名 ポ ナ ペ 島)と コ シ ャユ 島 は,560キ ロを 隔 て て 隣 りあ って い る。 ポ ー ンペ イ の面 積 は375平 方 キ ロ。 コ シ ャエ は116平 方 キ ロで,ポ ー ンペ イ の 約3分 の1の 大 き さ で あ る。1980年 の人 口は ポ ー ンペ イ が22,081人,コ シ ャエ が5,491人 で あ る。
西 洋 との接 触 の始 まっ た19世 紀 の は じめ に は,こ の2つ の 島 は 多 くの 共通 す る特 徴 を 持 って い た。2つ の 島 の伝 統 的 な政 治 体 制 は 首 長 制 であ り,し ば しば 王 と呼 ば れ る 最 高位 の 首長 は絶 対 的 な権 力 を有 して い て,王 位 は 特 定 の 母 系 氏 族 員 に よ って世 襲 的 に 継 承 され て い た 。 王 は神 の子 孫 で神 聖 な存 在 と見 な され,彼 らの 権 威 は 超 自然 的 な 制 裁 に よ って 守 られ て い た 。 す べ て の土 地 は王 の も の と考 え られ て いた 。 一 般 の 人 々 は 土 地 の 使 用 を 認 め られ た が,そ の 返礼 と して王 に貢 納 す る義 務 を 負 った 。 政 治 組 織 は 位 階 の ヒエ ラル キ ーを構 成 し,そ れ に は敬 語 の体 系 と表 敬 行 動 が伴 っ て いた 。 さ ら に,ポ ー ンペ イ と コシ ャエ に は 類 似 した 巨 大 な石 造 建 築 遺 跡 が 存 在 す る。 そ して,ポ
リネ シ アや 一 部 の メ ラネ シ ア地 域 で 見 られ る カ ヴ ァの飲 用 の慣 習 は,ミ ク ロネ シア で は この2つ の 島だ け に 存 在 した 。
ポ ー ンペ イ と コシ ャエで は,西 洋 との 接 触 の 状 況 も きわ め て類 似 して い た。 両 島 と も1820年 代 に西 洋 との接 触 が 始 ま り,1830年 代 よ り多 くの捕 鯨船 が寄 港 す る よ うに な った。 外 国か ら もた らされ た 病 気 が 流 行 して,急 激 な 人 口減 少 が 生 じた こ と も共 通 し て い る。 さ らに,1852年 に ア メ リカ の プ ロテ ス タ ン ト(ア メ リカ ン ・ボ ー ド)の 宣 教 師 に よ るキ リス ト教 の布 教 活 動 が 開 始 され た こ と も,そ して,そ の 後 島 民 が キ リス ト 教 に 改宗 した こ と も同様 で あ る。
この よ うに,ポ ー ンペ イ と コ シ ャエ では,伝 統 的 な社 会 ・文 化 の 多 くの 側 面 で 共 通 す る特 徴 を もち,歴 史 的状 況 も類 似 して いた 。 しか しなが ら,両 島 の 間 に は 重 要 な 相 違 も存 在 す る。 ポ ー ンペ イ で は現 在 に至 る ま で首 長 制 を 維 持 してい るの に 対 して,コ
シ ャエに お い て は 島 民 自身 の 手 で 首長 制 を廃 止 した の で あ る。
本 稿 は,一 見 す る と似 た よ うな 状 況 に あ った2つ の 島 に お い て,首 長 制 の 存 続 に 関 して,何 故 この よ うな相違 が 生 じた の か を 明 らか にす る こ とを 目的 と して い る。
筆 者 は,ポ ー ンペ イ に お い て1980年7月 〜1981年4月 に現 地 調 査 を行 な った が,コ シ ャエ 島は まだ 訪 れ る機 会 を 得 て い な い。 した が って,以 下 の コ シ ャエ に関 す る資 料 はす べ て文 献 調 査 に も とつ くもの で あ る。
国立民族学博物館研究報告 16巻3号
本 稿 は,ポ ー ン ペ イ と コ シ ャ エ の 首 長 制 の 変 化 を 比 較 考 察 す る も の で あ る が,ボ ー ン ペ イ の 首 長 制 に 関 して は,既 に 述 べ た こ と が あ る 。 そ こ で,ポ ー ン ペ イ の 首 長 制 に 関 し て は,本 稿 で は,要 約 し て 述 べ る に 留 め る 。 詳 し く は,拙 稿 【中 山 1985,
1986,1988,1989】 を 参 照 され た い 。
皿.ポ ー ン ペ イ 島 の 首 長 制 と キ リ ス ト教
ポ ー ン ペ イ の 神 話 的 歴 史 は,Bernart[1977]に よ る と,以 下 の よ うで あ っ た1も ポ ー ン ペ イ の 人 々 は,人 が 住 み 始 め て か ら 今 日 ま で の 島 の 歴 史 を4つ の 時 代 に 分 け て い る。 最 初 は 他 の 島 々 か ら 人 々 が ポ ー ン ペ イ 島 に 移 住 し て き た 時 代 で あ り,次 い で シ ャ ウ ・テ レ ウ ル 王 朝 の 時 代,3番 目 が ナ ー ン マ ル キ と い う称 号 を 持 つ 首 長 に よ り統 治 され た 時 代,最 後 が 西 洋 と接 触 す る よ うに な っ た 時 代 で あ る 。 こ れ ら4つ の 時 代 の 区 分 は,様 々 な 外 来 者 の 到 来 を 契 機 と し て い る と い う共 通 の 特 徴 を 持 っ て い る。
島 の 歴 史 は,遙 か か な た の 島 よ り16人 の 男 女 を 乗 せ た カ ヌ ー が,「 天 の 軒 」 の 向 こ うに 土 地 を 求 め て,海 に 乗 りだ した こ と か ら始 ま る 。 一 行 は 蛸 と 出 会 い,リ ー フ の 存 在 を 教 え られ た 。 カ ヌ ー は リ ー フ に た ど り着 き,人 々 は 石 と 土 と で リ ー フ を 土 地 に 変 え た 。 人 々 は こ の 土 地 を 「石 の 構 築 物 」(ポ ー ン ペ イ 語 でpei)と 呼 び,こ の 石 の 上 の す べ て の も の を 「ポ ー ンペ イ(Pohnpei,石 の 構 築 物 の 上)」 と 呼 ん だ 。 そ し て,こ の ポ ー ンペ イ を 守 る た め に 一 組 の 夫 婦 を 残 し て,一 行 は 自分 た ち の 島 に 戻 っ て い っ た 。 島 に 残 った 夫 婦yTは た く さ ん の 子 供 が で き,こ の 土 地 に は 人 が 増 え て い っ た 。 そ の 後,様 々 な 地 域 か ら 人 々 が5度 に わ た っ て や っ て 来 て,様 々 な 植 物 や 文 化 が 島 に もた
ら され た 。 しか し,統 治 者 や 貴 族 は ま だ い な か った 。
そ し て,オ ロ シ ー パ(010sihpa)と オ ロ シ ョ ー パ(010sohpa)と い う兄 弟 に よ っ て 率 い ら れ た カ ヌ ー が 島 に 到 着 し た 。 彼 ら は 島 へ の7番 目 の 来 訪 者 で あ っ た 。 彼 ら は 祭 祀 場 を 作 る 仕 事 を 始 め た 。 ポ ー ン ペ イ 中 の 人 々 が 手 伝 っ て,ナ ン ・マ トル(Nan Madol,ポ ー ン ペ イ 島 の 南 東 部,マ タ ラ ニ ー ム の 港 内 の タ モ ン 島 にごあ る 巨 石 建 築 物) を 作 りあ げ た 。
や が て オ ロ シ ー パ は 死 亡 した 。 オ ロ シ ョー パ は,シ ャ ウ ・テ レ ウ ル(Sau Deleur) と い う位 を 得 て ポ ー ンペ イ 島 の 最 初 の 支 配 者 と な り,ナ ン ・マ トル に 住 ん で 全 島 を 統 治 した 。 す べ て の 人 々 が 彼Y'従 っ た 。 オ ロ シ ョ ー パ は 人 々 に 封 土 と位 を 与 え た 。 シ ャ
1) ポ ー ンペ イ の 神 話 的 歴 史 に つ い て は,清 水 【1990】が詳 し く分 析 してい る。
中 山 首 長 制 と キ リス ト教
ウ ・テ レ ウ ル 王 朝 の 歴 代 の 王 に は,良 い 王 も い た が 悪 い 王 も い た 。 悪 い 王 は 人 々 を 残 酷 に 扱 っ て 抑 圧 す る よ う に な り,人 を 食 う こ と も した の で,次 第 に シ ャ ウ ・テ レ ウ ル 王 朝 は 人 々 の 信 望 を 失 っ て い っ た 。
雷 の 神 の ナ ー ン シ ャ プ エ(Nahnsapwe)は シ ャ ウ ・テ レ ウ ル 王 に 捕 え ら れ た が, 逃 げ 出 し て コ シ ャ エ 島 に 渡 っ た 。 ナ ー ン シ ャ プ エ は コ シ ャ エ 島 の 女 性 と の 間 に 男 子 を も うけ た 。 子 供 は イ シ ョ ケ レ ケ ル(lsokelekel)と 名 づ け ら れ た 。 イ シ ョ ケ レ ケ ル は 成 長 す る と,333人 の 男 女 ・子 供 を 引 き つ れ て ポ ー ンペ イ へ 向 か っ た 。 そ し て,彼 は シ ャ ウ ・テ レ ウ ル 王 を 倒 し,ナ ー ン マ ル キ(Nahnmwarki)と い う称 号 を 名 乗 った 。 こ れ に よ り,ポ ー ン ペ イ 島 は 第3の 時 代 を 迎 え る こ と に な っ た 。
シ ャ ウ ・テ レ ウ ル 王 朝 の 時 代 に は,王 が 全 島 を 支 配 して い た が,イ シ ョ ケ レケ ル は マ タ ラ ニ ー ム地 域 の み を 支 配 し,他 の2つ の 地 域 は 他 の 首 長 が 支 配 し た 。 そ し て,西 洋 人 の 来 訪 に よ り,ポ ー ンペ イ は 第4の 時 代 を 迎 え た 。 以 上 が,Bernartの 述 べ る ボ ー ン ペ イ の 神 話 的 歴 史 の 要 約 で あ る 。
3人 の 首 長 が 支 配 し て い た ポ ー ンペ イ だ が,そ の 後,内 紛 が あ っ て 分 裂 し た 地 域 も あ り,西 洋 社 会 と接 触 す る よ うに な っ た19世 紀 の は じ め 頃 に は,マ タ ラ ニ ー ム,ウ ー, キ チ ー,ネ ッ ト,シ ョカ ー シ の5つ の 独 立 した 首 長 国 が 存 在 し て い た(こ の 政 治 単 位 は 今 日 に 至 る ま で 継 続 され,現 在 はmunicipalityと 呼 ば れ る 行 政 単 位 と な っ て い る)。
こ こ で,ポ ー ン ペ イ の ナ ー ン マ ル キ 首 長 制 が ど の よ うな も の で あ る か を 説 明 し て お こ う。 個 々 の 首 長 国 に は,ナ ー ン マ ル キ と ナ ー ニ ケ ン(Nahnken)と い う2人 の 最 高 位 の 首 長 が お り,彼 ら を そ れ ぞ れ の 頂 点 と す る,12の 位 階 を 伴 う2つ の 系 統 が あ っ た 。 人 類 学 で は,ナ ー ン マ ル キ の 系 統 をA系 統,ナ ー ニ ケ ンの 系 統 をB系 統 と し,位 階 の 順 に 数 字 を 付 け て,A1,A2, A3,…,Bl, B2, B3,… の よ う に 表 現 す る こ とが あ る 。 A1 は ナ ー ン マ ル キ,B1は ナ ー ニ ケ ン を 示 す 。 A系 統 の12人(Al〜A12)とB系 統 の12 人(B1〜B12)の,計24人 の 首 長 は 厂貴 族(sohpeidi)」 と 呼 ば れ,政 治 的 ・社 会 的 に 重 要 な 役 割 を 果 た し た 。 貴 族 以 外 の 人 々 は 「平 民(aramas〃r wahl)」 と 呼 ば れ た が, 平 民 に も ナ ー ン マ ル キ か ら 称 号 が 与 え ら れ た 。 首 長 国 は 字(kousapw)に 分 か れ,字 は ナ ー ン マ ル キ が 任 命 す る 字 の 長 に よ っ て 支 配 さ れ た 。 個 々 の 字 は,い くつ か の 拡 大 家 族 に よ っ て 構 成 さ れ て い た 。
貴 族 の2つ の 系 統 の 称 号 は,そ れ ぞ れ 特 定 の(首 長 国 に よ っ て 異 な る)母 系 氏 族 の 成 員 に よ っ て 占 め ら れ た 。 個 々 の 系 統 に お け る 称 号 保 持 者 の 順 位 は,出 生 順 に 格 づ け ら れ た 母 系 氏 族 内 部 の 系 譜 的 序 列 に も とつ く と い う の が 原 則 で あ る。 死 亡 や,そ の 他 の 理 由 で 空 位 が 生 じた 場 合,そ の 下 の 称 号 保 持 者 が1つ ず つ 順 に 昇 進 す る の が 理 念 的
国立民族学博物館研究報告 16巻3号 な 形 態 で あ っ た 。 け れ ど も,称 号 の 獲 得(と く に,下 位 の 称 号)に は,軍 事 的 な 手 柄 と か,祭 宴 に お け る 貢 納 も 重 要 な 要 素 で あ っ た 。 つ ま り,政 治 的 ・社 会 的 地 位 の 上 昇 は,生 得 的 な 要 因 だ け で な く,個 人 の 努 力 に よ る と こ ろ も 大 き か っ た の で あ る 。 ナ ー ン マ ル キ や ナ ー ニ ケ ン を 出 す 氏 族 の 成 員 で な い 平 民 の 場 合,地 位 の 上 昇 は,ま っ た く 個 人 の 力 に よ っ て い た の で あ る。 ポ ー ンペ イ の 首 長 国 は,理 念 的 に は ナ ー ン マ ル キ を 頂 点 と した ヒ エ ラ ル キ ー を 構 成 し て い て,個 人 の 地 位 は 称 号 に よ っ て 示 さ れ た 。 首 長 国 の す べ て の 土 地 は ナ ー ン マ ル キ と ナ ー ニ ケ ン が 所 有 す る も の で あ り,人 々 は 土 地 の 使 用 に 対 す る 返 礼 と し て,ナ ー ン マ ル キ や ナ ー ニ ケ ン に 対 し て 祭 宴 (kamadipw)を 催 して 収 穫 物 を 貢 納 す る 義 務 を 負 っ た 。 貢 納 さ れ た 品 々 は 位 に 応 じ て そ の 場 で 分 配 され た 。 祭 宴 は よ り高 い 称 号 を 獲 得 し て 政 治 的 ・社 会 的 に 地 位 を 高 め る 重 要 な 機 会 で あ っ た か ら,人 々 は 競 っ て 貢 物 を 献 上 し た2)0
さ て,こ の よ う な 首 長 制 を 持 っ た ポ ー ン ペ イ 島 が 西 洋 と初 め て 接 触 す る の は1820年 代 の 終 りの こ と で あ る 。1828年 に ロ シ ア の 探 検 船Senyavin号 が 寄 港 し て い る。1830 年 頃 に は 難 破 した シ ド ニ ー の 捕 鯨 船 の 乗 組 員 が 島 に た ど り着 き,そ の う ち の1人, James O'Connellと い う 男 が1833年 ま で 島 に 滞 在 し た こ と が わ か っ て い る 【0℃oN‑
NELL 1972】。1830年 代 に な る と,交 易 船 が 島 を 訪 れ る よ うに な り,捕 鯨 船 も補 給 の た め に 寄 港 す る よ うに な る 。 太 平 洋 地 域 で の 捕 鯨 業 は,1840年 代 か ら50年 代 に か け て が ピ ー ク で あ り,1855,56年 に は,年 間50隻 以 上 の 捕 鯨 船 が ポ ー ン ペ イ 島 に 寄 港 した {HEZEL l983:132】 。 捕 鯨 船 の 寄 港 が 多 く な る と,そ れ に つ れ て,船 か ら 逃 亡 し て 島 に 居 着 く,ビ ー チ コ ー マ ー と 呼 ば れ る 人 々 も 多 く な っ た 。1850年 に は,こ う した 人 が 150人 ほ ど も い た[Friend 1850:68】 。 彼 ら は,首 長 の 庇 護 の 下 で 暮 ら し,首 長 の た め に 寄 港 す る 船 と の 交 易 に 従 事 し た 。 交 易 に よ っ て,様 々 な 西 洋 の 品 が 大 量 に ボ ー ン ペ イ 島 に も た ら さ れ た 。 衣 類,布,銃,弾 薬,斧,ナ イ フ,タ バ コ等 々 で あ る 。 しか し な が ら,伝 染 病 も 島 に 持 ち 込 ま れ た 。1854年 に は 天 然 痘 が 島 中 に 蔓 延 し,1万 人 と 推 定 さ れ る 人 口 は 半 分 に 減 っ た 。 島 民 は 自 分 た ち は や が て 絶 滅 し て し ま うだ ろ う と 感 じて い た[The Missionary Herald(以 後MHと 略 記 す る) 1855:131‑132」 。 人 口減 少 は1890年 代 ま で 続 い た 。
1852年 にごは,ア メ リカ の プ ロ テ ス タ ン ト(ア メ リカ ン ・ボ ー ド)の 宣 教 師 が ボ ー ン ペ イ に や っ て き て 布 教 を 開 始 す る 。 首 長 た ち は,宣 教 師 が 島 に 居 れ ば 外 国 の 船 の 寄 港
2)後 述 す る よ う に,ポ ー ン ペ イ の ナ ー ン マ ル キ 首 長 制 は,土 地 が 私 有 化 さ れ る な ど若 干 の 変 化 は 生 じ た も の の,現 在 に 至 る ま で 続 い て い る 。 首 長 制Y'関 し て は,Riesenberg【1968L Petersen[1982], Shimizu【1982]を 参 照 。
中 山 首 長 制 とキ リス ト教
が 多 く な る と し て,宣 教 師 を 受 け 入 れ る。 しか し な が ら,宣 教 師 は,ビ ー チ コ ー マ ー と は 違 っ て,首 長 の 権 威 に 服 し よ う と し な い し,酒 や カ ヴ ァを 止 め る よ うに 言 い,首 長 の 特 権 で あ る 一 夫 多 妻 に も 反 対 す る 【MH(Sturges)1860:35】 。 や が て 首 長 た ち は
宣 教 師 の 布 教 活 動 に 異 を 唱 え る よ うに な る。
し か し,1854年 に 天 然 痘 が 流 行 して 人 口 が 急 激 に 減 少 した 時 に,島 の 神 々 へ 祈 願 し て も な ん の 役 に も た た な か っ た の に,宣 教 師 の 施 した 種 痘 は か な りの 効 果 を あ げ た
【MH(Sturges) 1856:162]。 ま た,捕 鯨 業 が 衰 退 し て く る と,寄 港 す る 捕 鯨 船 の 数 は 減 り,ビ ー チ コ ー マ ー の 数 も 減 少 した 。 そ こ で,西 洋 の 品 々 の 供 給 源 と して の 宣 教 師 の 重 要 性 が 高 ま っ た 【MH l860:35,290】 。 布 教 の 方 針 が,首 長 を 中 心 と した も の か ら,平 民 を 対 象 とす る も の へ と変 え ら れ 【MH(Sturges)1860:1361,や が て,キ
リス ト教 は 平 民 層 の 間 に 浸 透 し て い っ た 。
1860年 に 初 あ て3人 の 改 宗 者 を 獲 得 して 以 来,信 徒 の 数 は 飛 躍 的 に 増 え て い っ た 。 宣 教 師 の 影 響 力 が 大 き く な る の に 伴 っ て,首 長 の な か に は,宣 教 師 や 増 大 しつ つ あ っ た 信 徒 集 団 の 力 を 利 用 し て,政 治 的 優 位 に 立 と う と す る者 も 出 現 し た[MH(Sturges) 1865:199】 。1870年 に は ア メ リ カ の 軍 艦 が 寄 港 し,首 長 た ち は 信 仰 の 自 由 を 保 証 す る 条 約 を 結 ば ざ る を え な か っ た[Friend 1870:102]。 キ リス ト教 に 敵 対 す る 首 長 は 次 第 に 苦 しい 立 Ỳ立 た され た 。 一 方 で,今 や 信 徒 集 団 は 統 制 が 困 難 な ま で に 強 大 と な っ た 。 他 方,ア メ リ カ の 軍 艦 の 来 訪 に 見 ら れ た よ うに,宣 教 師 の 活 動 は 圧 倒 的Y'優 位 Y'あ る 軍 事 力 に よ っ て も支 援 さ れ て い た 。 異 教 徒 の 首 長 は 袋 小 路 に 追 い 込 まれ,残 さ れ た 唯 一 の 道 は,彼 自 身 が 改 宗 す る こ と で あ っ た 。 こ う して,ス ペ イ ン の 統 治 が 始 ま る1887年 ま で に,5つ の 首 長 国 の ナ ー ン マ ル キ の う ち4人 は 改 宗 し 【MH(Doane) 1887:224],ほ と ん ど の 島 民 が キ リス ト教 徒 と な っ た3)0
1885年 に カ ロ リ ン 諸 島 は ス ペ イ ン の 植 民 地 と な り,1887年 に は ポ ー ン ペ イ に ス ペ イ ン人 の 官 吏 が 着 任 して,島 の 北 部 に あ る現 在 の コ ロ ニ ア を 政 庁 の 所 在 地 と し た 。 知 事 は 各 首 長 国 の ナ ー ン マ ル キ と ナ ー ニ ケ ン を 村 長 に 命 じ て,首 長 の 権 利 を 認 め た 。 官 吏 と共 に カ ソ リ ッ ク(カ プ チ ン 派)の 司 祭 も来 島 し,布 教 を 開 始 した 。 統 治 の は じめ か ら,ス ペ イ ン政 庁 ・ス ペ イ ン人 の カ ソ リ ッ ク の 宣 教 師 と ア メ リカ 人 の プ ロ テ ス タ ン ト の 宣 教 師 は 対 立 し た 【MH 1887:389】 。 ス ペ イ ン政 庁 と 島 民 と の 間 で2度 に わ た り 戦 争 と な った が,ス ペ イ ン軍 は 島 民 を 完 全 に 鎮 圧 す る こ と は で き な か っ た 。 こ の 後, ス ペ イ ン政 庁 は 島 民 と友 好 的 な 関 係 を 維 持 せ ざ る を え な く な り,ス ペ イ ン の 統 治 を 受
3) ポ ー ン ペ イ に お け る キ リ ス ト教 に 関 し て は,FriendやMissionary Heraldの 記 事 の 他,
Crawford and Crawford【1967】, Hanlon【1984】, Hezel【1983】O'Brien【1979]を 参 照 。
国立民族学博物館研究報告 16巻3号
け 入 れ させ るた め にこ,ナ ー ンマル キ に俸 給 を与 え,プ ロテス タ ン ト教 徒 に対 して も寛 大 な態 度 を と った。
ス ペ イ ン政 庁 の支 持 もあ って,カ ソ リッ クは次 第 に 勢 力 を伸 ば し,1897年 に は マ タ ラ ニ ー ムの ナ ー ンマル キ を 除 く4人 の ナ ー ンマ ル キが カ ソ リ ックにこ改 宗 し,半 分 以 上 の 島民 が カ ソ リッ クの 影 響 下 に あ った[Friend(Nanpei) 1897:81亅。 北 部 の シ ョカ ー シ村,ネ ッ ト村,ウ ー村 の ア ワ ク地 区 は カ ソ リ ックの地 域,南 部 の キチ ー村(た だ し, ウ ォネ 地 区 は カ ソ リ ッ ク),マ タ ラ ニ ー ム村,ア ワ ク以 外 の ウー村 は プ ロテ ス タ ン ト の地 域 とな って,ポ ー ンペ イ 島 は宗 教 に よ り二 分 され た。1898年 に は,カ ソ リ ック教 徒 と プ ロテ ス タ ン ト教 徒 との 間 で戦 争 に な った が,ス ペ イ ン軍 の介 入 で戦 闘 は 停 止 し た。 スペ イ ン政 庁 が ポ ー ンペ イ 島 の統 治 に苦 慮 して い る うち に米 西 戦 争 が 起 こ り,ス ペ イ ンは敗 北 す る。 そ して,1899年 に カ ロ リン諸 島 は ドイ ツに売 却 され,ス ペ イ ン統 治 は終 りを 告 げ るの で あ る。
ドイ ツの知 事 は 伝 統 的 な社 会 組 織 を尊 重 し,首 長 の権 力 を支 持 した 。 宗 教 に 関 して は 中立 の立 場 を 採 り,プ ロテ ス タ ン トと カ ソ リ ックを平 等 に扱 った 。 両 派 の 勢 力 範 囲 も固 定 化 しつ つ あ った 。1907年,ド イ ツは 植 民 地 の経 済 発 展 を推 進 す るた め に 土 地 の 私 有 化 政 策 を 採 用 した。 土 地 の私 有 を 認 め るか わ りに,首 長 た ち に俸 給 が 支 払 わ れ, 島民 に は 労 役 が 課 され る こ とに な っ て いた 。 ポ ー ンペ イ 島民 は,土 地 の 所 有 権 に 大 き な変 化 を もた らす この土 地 改 革 案 を こ ころ よ く思 わ なか った 。 け れ ど も,土 地 の 私有 化 に よって 利 益 を 受 け る プ ロテ ス タ ン ト教 徒 の 指導 者 の影 響 の下 で,南 部 地 域 の 島民 は 改 革 案 を 受 け 入 れ た。 北 部 の シ ョカ ー シ村 民 は,南 部 地 域 へ の対 抗 意 識 もあ って, 改 革 案 に 強 く反 対 し孤 立 して い った 。1910年 に シ ョカ ー シ村 民 は 反 乱 を起 こ し,ド イ ツ人 知事 らを 殺害 した。 難 を まぬ が れ た ドイ ツ人 官 吏 は,他 の4つ の 村 の 島 民 の援 助 を 得 て,政 庁 の あ る コ ロニ ア の町 の 防 衛 に あ た った。 や が て ニ ュー ブ リテ ン島 の ラバ ウル か ら派遣 され た討 伐 隊 の力 で,反 乱 は完 全 に鎮 圧 され た 。 島 民 の 間 で の対 立 の延 長 線 上 に 発 生 した反 乱 は,島 民 の間 で の対 立 を利 用 して鎮 圧 され た 。5つ の村(首 長 国)に 分 か れ て い た ポ ー ンペ イ 島で は,島 民 が一 体 とな っ て植 民 地 政府 と対 決 す る と い う状 況 は存 在 しなか った 。
これ ま で,ポ ー ンペ イ 島民 は,ス ペ イ ンの統 治下 に あ って も,生 活 を 自主 的 に営 ん で きた。 しか し,ド イ ツ軍 の圧 倒 的 な軍 事 力 に よっ て反 乱 が 鎮 圧 され た後 は,ボ ー ン ペ イ 島 民 は植 民地 政 府 の権 威 を 受 け 入 れ ざ るを え な くな り,こ れ に反 抗す る こ とは も は や不 可 能 とな った 。 反 乱 の後,土 地 の私 有 化 が 実 施 され,土 地 の耕 作 者 に地 券 が 発 行 され た。 ドイ ツ政 庁 は,首 長 の権 利 を制 限 しなが ら も改 め て 公 式 に認 め た ため に,
中 山 首 長 制 とキ リス ト教
ポ ー ン ペ イ の 伝 統 的 な 首 長 制 度 は 維 持 さ れ て い っ た4)0
1914年,第1次 世 界 大 戦 が 勃 発 す る と,日 本 は ドイ ツ 領 の ミ ク ロ ネ シ ア を 占 領 し た 。 そ し て,こ の 地 域 は1920年 に 日本 の 委 任 統 治 領 の 「南 洋 群 島 」 と な った 。 日本 政 府 は 統 治 に あ た っ て,こ れ ま で 外 国 政 府 に よ っ て と られ て き た,伝 統 的 政 治 シ ス テ ム を で き る 限 り利 用 す る と い う政 策 を 踏 襲 した 。1922年 に 厂島 民 村 吏 規 定 」 が 制 定 さ れ,総 村 長 と村 長 が 任 命 さ れ た 。南 洋 庁 は 原 則 と し て,伝 統 的 な 首 長 を 村 吏 に 任 命 した 。ポ ー
ン ペ イ の5村 の 総 村 長 の う ち,ナ ー ン マ ル キ で な か っ た の は1人 だ け で あ っ た とい う
【矢 内 原 1935:423‑424】 。 日 本 政 府 も,ド イ ツ と 同 じ よ う に,首 長 た ち の 権 力 に 制 限 を 加 え な が ら も,彼 ら を 統 治 組 織 の 中 に 組 み 入 れ て そ の 地 位 を 保 証 した の で あ っ
た5)0
第2次 大 戦 後 ミ ク ロ ネ シ ア は ア メ リ カ の 統 治 の 下 に 置 か れ た 。1948年 に,ア メ リ カ 政 府 は ポ ー ンペ イ 島 の5つ の 首 長 国 をmunicipalityと し,そ れ ぞ れ のmunicipalityに Chief Magistrateと い う行 政 職 を 設 け,ナ ー ン マ ル キ をChief Magistrateに,ナ ー ニ
ケ ン を そ の 補 佐 役 に 任 命 した 。 そ の 後,Chief Magistrateは 選 挙 で 選 ば れ る よ うに な っ た が,最 初 の う ち は,ナ ー ン マ ル キ や 他 の 高 位 の 称 号 を も つ 「貴 族 」 が 選 ば れ た 。 1952年 に は,ポ ー ンペ イ 島 議 会 が 設 置 さ れ た 。 これ は 貴 族 院 と衆 議 院 とか ら な る 二 院 制 で あ っ た 。 各municipalityか ら ナ ー ン マ ル キ,ナ ー ニ ケ ン を 含 む5人 の 高 位 の 首 長 が 貴 族 院 の 議 席 を 占 め た 。 衆 議 院 の 議 員 は 選 挙 で 選 ば れ た 。 初 期 の ポ ー ンペ イ 島 議 会 で は,貴 族 院 の 活 躍 が 目立 っ た 。1952年 の 議 会 で 両 院 を 通 過 し た 決 議 案 の ほ と ん ど
は,貴 族 院 で 最 初 に 提 案 さ れ た も の で あ っ た 。 し か し,英 語 の 使 用 や 議 会 で 討 論 す る と い う新 し い 政 治 の や り方 に 不 得 手 で あ っ た 首 長 た ち は 次 第 に 欠 席 し,貴 族 院 は 機 能 し な く な っ た 【M肌LER 1969:1261。1958年 に,議 会 が 改 組 され た 時,貴 族 院 は 廃 止 され,選 出 議 員 の み か ら な る 一 院 制 と な っ た 。 こ の 結 果,ポ ー ン ペ イ 島 の 政 治 は,首 長 制 の 伝 統 的 な 政 治 シ ス テ ム,「 土 地 の 側(pall en sapw)」 と,ア メ リ カ の 制 度 の 下
で 教 育 を 受 け た 新 し い タ イ プ の リ ー ダ ー に よ る 民 主 主 義 的 な 政 治 シ ス テ ム,「 役 所 の 側(pall en opis)」 と で 二 重 に 構 成 さ れ る よ う に な っ た 。
こ う した 状 況 に お い て,首 長 は,民 主 主 義 的 な 政 治 シ ス テ ム の リ ー ダ ー に 称 号 を 与 え る こ と で,彼 ら を 伝 統 的 な 政 治 シ ス テ ム に 組 み 込 む こ と を 試 み た 。 ポ ー ンペ イ で は 現 在 で も,称 号 と土 地 を 持 っ て い な け れ ば 一 人 前 の 男 と は 見 な され な い 。 新 し い タ イ
4) ポ ー ン ペ イ の ドイ ツ 時 代 に つ い て は,Ehrlich[1978】, Hambruch【1932‑36】, Hempenstall [1978]を 参 照 。
5) ポ ー ンペ イ の 日本 時 代 に つ い て は,今 西[1975】,矢 内 原[1935]を 参 照 。
国立民族学博物館研究報告 16巻3号 プの リー ダ ー も,称 号 を獲 得 すれ ば伝 統 的 な シス テ ムの な か で も地位 を確 立す る こ と が で き る の で,競 って 首長 に 貢納 を行 な って い る。
現 在 の ポ ー ンペ イ の経 済 に は,自 給 自足 的 な 農 業 の 伝 統 的 な シ ス テ ム,「 土 地 の生 活(mourki wahnshapw)」 と,貨 幣経 済 の近 代 的 な シ ス テ ム,「 貨 幣 の 生 活(rnourki mwohni)」 とが存 在 す る。 そ して,こ の2つ の シ ス テ ムは 大 き な 矛 盾 を 生 ず る こ と
な く併 存 して い る。 コ ロ ニ アの 町 に住 ん で勤 め て い る人 が 週 末 に 農村 に帰 って農 作 業 を した り,農 村 に 住 ん で い る人 が 町 に通 勤 した り短 期 間 の 出 か せ ぎに 出 る な ど,形 は 様 々だ が,い ず れ も農 業 と賃 金 労働 を両 立 させ て い る。
首 長 は,祭 宴 を 用 い て貨 幣経 済 に対 応 して い る。 祭 宴 で の 伝統 的 な 貢納 品 は,ヤ ム イ モ ・シ ャカ オ(カ ヴ ァ)・ ブタ で あ るが,近 年,店 か ら購 入 した 品物 や 現 金 も加 え られ る よ うに な った 。祭 宴 は首 長 が現 金 や 富 を 獲 得 す る手 段 と もな った。 ナ ー ンマ ル キは 称 号 を 乱 発 して,称 号 を 「ビ ジネ ス」 と して い る との 批 判 も一 部 に あ る ほ ど で あ る6)0
これ まで,様 々な政 治状 況 の下 で,ポ ー ンペ イ の 首 長 制 が い か に維 持 され て きた か を記 述 して きた 。 最後 に,現 在 の ポ ー ンペ イ に お い て 首 長 制 とキ リス ト教 が どの よ う な関 係 に あ るの か,筆 者 の調 査 地 で あ る プ ロテス タ ン ト勢 力 の 強 い マ タ ラニ ー ム地 域 の事 例 を 述 べ る こ とに し よ う。
ア メ リカ人 宣 教 師 に よ って キ リス ト教 の布 教 が 行 な わ れ る と,キ リス ト教 の神 は, ポ ー ンペ イ の 伝 統 的 な 神 々 の 世 界 に 付 け 加 え ら れ,や が て 伝 統 的 な 最 高 神 の Daukatauに と っ て代 わ る よ うに な った 。 伝 統 的 な 様 々 な精 霊 は,聖 書 に現 れ る 「悪 霊 」 とみ な さ れ る こ とで,キ リス ト教 の 神 と共 存 す る こ とが 可 能 とな った[WARD
1977:274‑275】 。 こ う して,キ リス ト教 を受 容 しな が ら も,伝 統 的 な 宗 教 の 要 素 も残 す こ とが 可 能 とな った。
人 々 は教 会 制 度 を,「 神 様 が一 番 上,そ の 次 に イ エ ス ・キ リス ト,次 に 外 国 人 宣 教 師,そ して,島 民 の牧 師,伝 道 師,役 員 」 とい った 順 序 を なす 位 階 制 と して考 え て い る。 そ して,信 徒 た ち は,ナ ー ンマ ル キや ナ ー ニ ケ ンに対 して特 別 の敬 意 を 払 い,彼 らを牧 師 の上 に位 置 づけ る こ とに よっ て,首 長 制 と教 会 制度 を接 合 させ て い る。 こ う して,ポ ー ンペ イ で は,首 長 制 とキ リス ト教 が 矛盾 す る こ とな く共 存 して い るの で あ る。
6) ポ ー ン ペ イ の ア メ リカ 時 代 に つ い て は,Bascom【1965亅, Dahlquist【1974】, Fisher【19741, Hughes【1970】 を 参 照 。
中 山 首 長 制 とキ リス ト教
皿.コ シ ャエ 島 の首 長 制 と王 位 の継 承
ポ ー ン ペ イ 島 で は5つ の 首 長 国Y'分 か れ て い た の に 対 して,コ シ ャ エ 島 は 島 全 体 で 1つ の 首 長 国 を 構 成 して い た 。 そ し て,伝 統 的 な コ シ ャ エ 島 社 会 は,少 数 の 首 長(「 貴 族 」)と 大 多 数 の 「平 民 」 の2つ の 階 層 に 分 か れ て い た 。
か つ て は18の 主 要 な 称 号 が あ り,こ の 称 号 保 持 者 が 貴 族 を 構 成 して い た 。 ポ ー ン ペ イ で は 貴 族 の 称 号 は ナ ー ン マ ル キ 系 統 と ナ ー ニ ケ ン系 統 の2つ の 系 統 に 分 か れ て い た が,コ シ ャ エ の 貴 族 の 称 号 は1つ の 系 統 の み で 構 成 さ れ て い た 。 貴 族 の 称 号 を も つ 首 長 の う ち,上 位9人 は 高 位 の 首 長 で あ り,10番 目 以 降 は 下 位 の 首 長 で あ っ た [LEVVIS 1967: 15; SARFERT 1919‑20:340】 。
最 高 位 の 首 長 は 「王(ト コ シ ャ,Tokosra)」 と 呼 ば れ,コ シ ャ エ の 全 島 民 に 対 し て 絶 対 的 な 権 力 を も っ て い た 。 王 の 次 の 位 はKankaで あ り,王 の 命 令 や 要 求 を 監 督 し,「 首 相 」 の 役 割 を 果 た し た 。 こ の 点 で,Kankaは ポ ー ン ペ イ の ナ ー ニ ケ ン に 対 応 す る が,ナ ー ニ ケ ン と異 な り,Kankaは 王 の 地 位 を 継 承 す る こ と が で き た[SARFERT
1919‑20: 358)0
コ シ ャエ 島 は,本 島 と 本 島 に 付 属 す る 小 さ な 島 の レ ラ 島 とか ら な っ て い た が,首 長 た ち は 皆 レ ラ 島 に 住 み,大 き な 石 の 壁 で 囲 まれ た 屋 敷 の 中 に 建 て ら れ た 家 に 住 ん で い た 。 平 民 は 首 長 の 世 話 を す る 者 以 外 は す べ て 本 島 に 居 住 し て い た 。 コ シ ャエ の す べ て の 土 地 は 王 の 所 有 で あ っ た 。 王 は 若 干 の 地 域 を 直 轄 の 領 土 と した け れ ど も,残 りの ほ と ん ど の 土 地 は,首 長 に 分 け 与 え て 管 理 さ せ た 。 本 島 は か つ て60近 い 字 に 分 か れ て い た が,王 は 首 長 に 飛 び 離 れ た 領 地 を 与 え て,首 長 の 権 力 が 集 中 し て 強 大 に な る の を 注 意 深 く避 け た 【BITTER and BITTER l982:113】 。 首 長 は 平 民 か ら字 の 長 を 任 命 し,字
の 長 は 字 の 管 理 と貢 納 品 の 運 搬 の 責 任 を 負 っ た 【LEwis 1967:17】 。
宣 教 師 のGulickは,コ シ ャ エ 島 民 が 厳 し い 統 治 者 の 権 威 に 服 従 し て い た こ とを, 以 下 の よ うに 述 べ て い る 。
王 は ま さに 絶 大 で あ る。 あ らゆ る こ とに つ い て 王 の言 葉 が 法 で あ り,あ らゆ る財 産 を 王 が 支 配 して い る。 王 の下 に数 人 の 高位 の 首 長 が い て,そ れ ら の首 長 が土 地 と臣 下 を 所 有 して い る 。 … 支 配 の 権 利 を こ の よ うに表 現 す る こ とは,平 民 が 置 かれ て い る奴 隷 の 状 況 を 最 も 良 く示 す だ ろ う。 こ の高 位 の首 長 の 下 に,位 の 低 い首 長 た ち が い る。 彼 らは,高 位 の 首 長 た ち と は 遠 い 関 係 で 結 ば れ て い る が,高 位 の 首 長 の 土 地 の 差 配 人 以 上 の 者 で は な い
【0,BRIEN 1979:1781。
国立民族学博物館研究報告 16巻3号
こ こで,「 位 の 低 い 首 長 た ち 」 と呼 ば れ て い る の は,平 民 か ら選 ば れ た 字 の長 の こ とで あ る。
王 や 他 の首 長 は 多 くの 特 権 を持 って い た。 首 長 だ け が 一 夫 多 妻 を行 な うこ とが で き た。 平 民 は 首 長 に 対 して 敬 意 を表 さね ば な ら なか った 。 平 民 は 首長 の前 では うず くま り,頭 を 下 げ な け れ ば な らなか っ た。 平 民 が 首 長 に 話 す 時 に は,低 い声 で敬 語 を 用 い て話 した 。 この よ うな表 敬 行 動 は コシ ャエ語 でsinakと 呼 ば れ た[SCHAEFER 1976:
20‑211。 平 民 は首 長 だけ で な く,彼 ら の妻 や 子 供 た ちに も敬 意 を 表 した 。 首 長 の 子 供 た ちは,特 に這 い 出す よ うに な る ま で の期 間 は,頭 が 何 か に触 れ る こ との ない よ うに
ど,以 下 の よ うな 特別 の扱 い を受 け た 。
子 供 は 床 の上 に 横 た え て は い け な い。 夜 も昼 も,何 か 月 間 も子 守 や 召 使 が腕 に抱 い て い な け れ ば な らな い 【Wain 1967 vo1.4:457】 。
平 民 た ち は,土 地 を使 用 させ て も ら った返 礼 と して,首 長 た ちへ 食 料 を 貢納 した。
レラ島 は面 積 が小 さ い の で,農 耕 は ほ とん ど本 島 で行 なわ れ て い た 。 字 の長 の指 示 に よ って,貢 納 は本 島か ら レラ島 ヘ カ ヌ ーで運 ばれ た。 首 長 に 送 られ た 貢 納 の半 分 は首 長 の もの とな り,残 りの 半 分 は 首長 か ら王 へ と送 られ た 。 首 長 は 平 民 に 対 し,食 料 の 貢 納 だ け で な く,様 々な 労働 奉 仕 も要 求 す る こ とが で きた 。 平 民 は 首長 の家 の建 築 や カ ヌー の建 造 を 行 な い,首 長 の催 す 祭 宴 に必 要 な品 々 も届 け た 。 首 長 の 間 で は,ポ ト ラ ッチ に似 た 祭 宴 の 競争 が 時折 行 なわ れ て いた 。 最 初 は1籠 の 食物 の贈 与 で始 ま った 祭 宴 が,相 手 を 出 し抜 くた め に,敷 物 ・衣 類 ・カ ヌーな どの贈 答 も加 わ って,し だ い
に大 き な もの へ と発 展 した 【0'BRIEN 1979:179‑181】 。
王 は神 聖 な 存在 と して 崇 め られ,聖 俗2つ の 世 界 の 長 で あ った。 コ シ ャエ 島に は 様 々 な神 や 精 霊 が い た が,そ の なか で一 番 重 要 な 神 はSinlakaと い うパ ンノ キ と台 風 を 司 ど る女 神 で あ り,英 語 で はBlue Skinと も呼 ば れ て い た。 このSinlakaは 王 を 輩 出 したTon氏 族 の神 で あ り,王 は 神 と特 別 な 関 係 を持 つ といわ れ て いた 。 本 島 に は こ の 神 を祭 祀 す る場 所 が あ り,王 に よ って 平 民 か ら司祭 者 が選 ば れ て いた 。 この 聖 域 に は 王 と 司祭 者 のみ が立 ち 入 る こ とが で きた 。Sinlakaの 司 祭 者 は 王 が即 位 す る時 に重 要 な役 割 を果 た した 。 司 祭 者 は,聖 域 で祭 祀 を行 な った あ と,レ ラ 島で の 即 位式 にこお い て王 と王 妃 の頭 に花 輪 を か ぶ せ,王 の称 号 を 宣 言 した 【LEwls 1967:21;O'BRIEN 1979:200‑201]o
パ ン ノキ の収 穫 時 に は,司 祭 者 がSinlakaの 聖 域 に 出 向 いて 祭 祀 を と り行 な った。
中 山 首 長 制 とキ リス ト教
ま た,年 に1度 か2度,何 か 異 常 な こ と が 起 こ っ た 時 に も,sinlakaを な だ め る た め に 儀 礼 が 行 な わ れ た 。 司 祭 者 は,人 々 を 従 え 行 列 を 作 っ て 首 長 の 家 々 を 回 り,神 へ の 供 物 を 集 め た 。 供 物 は ふ つ う,白 い 樹 皮 布 と 島 で とれ た 品 で あ っ た 。 人 々 は 体 に 椰 子 油 を 塗 り,花 輪 を 頭 に 載 せ た 。 司 祭 者 は 法 螺 貝 を 吹 い て 恐 ろ し い 音 を 出 し,人 々 は 悲 し そ う な 鳴 き 声 を あ げ て 行 列 に 加 わ っ た 。 集 め られ た 供 物 は 山 の 中 の 神 の 社 へ 供 え ら れ た 【JONES 1861:131j。
コ シ ャ エ に は4つ の 母 系 の 氏 族 が あ っ た 。 そ れ ら は,Ton, Penme, Lishne, Neasで あ った 。 氏 族 の 間 に は 序 列 が あ っ た が,こ の 順 序 に つ い て は,西 洋 と の 接 触 が 始 ま っ た 時 期 に コ シ ャ エ を 訪 れ た 外 国 人 の 報 告 は,必 ず し も一 致 し て い な い 。 例 え ば,1824 年 に 島 を 訪 れ たDuperreyは, Tonが 最 高 位 の 氏 族 と し て い る が 【RITTER and RITTER 1982:16】,1827年 に 訪 れ たLutkeは,王 はTon氏 族 の 者 だ が,重 要 で 裕 福 な 首 長 の ほ と ん ど はPenme氏 族 の 者 だ と 述 べ て い る 【BITTER and BITTER 1982:
113】。 しか し,こ れ ら の19世 紀 の は じ.めの 報 告 は,TonとPenmeの2つ の 氏 族 が 上 位 を 占 め て い た と い う こ と と,そ の 次 にLishne氏 族 が 位 置 し, Neas氏 族 は 最 下 位 を 占 め た と い う点 で は 一 致 して い る 。19世 紀 の は じ め に は,首 長 は 上 位2つ の 氏 族 か ら 出 て い た 。Lutkeも,レ ラ 島 の 主 要 な 首 長 に は3番 目 のLishne氏 族 の 者 は お ら ず, Lishne氏 族 の 者 は 字 の 長 に 限 ら れ る と 述 べ て い る 【BITTER alld BITTER 1982:113】 。 Neas氏 族 の 者 は 首 長 に な れ な か っ た 。 氏 族 は 外 婚 の 単 位 で あ っ た と考 え られ て い る 。 ま た,氏 族 は 亜 氏 族(サ ブ ・ ク ラ ン)に 分 か れ,亜 氏 族 の 間 に も 序 列 が あ っ た [O'BRIEN 1979:183‑184]0
か つ て,王 位 はTon氏 族 員 が 世 襲 的 に 継 承 し た と 考 え ら れ て い る が 【PEOPLES 1985:34】,そ の 後,こ の 原 則 が くず れ て 他 の 氏 族 員 も 王 位 に 就 く よ うに な っ て,継 承 の 形 態 は 複 雑 に な っ て い く。 こ の こ と は,Nで 述 べ る 人 口減 少 の 問 題 や, Vで 述 べ る キ リ ス ト教 の 浸 透 の 問 題 と 密 接 な 関 係 を も つ も の で あ る 。 以 下 で は,Sarfert [1919‑20:378‑387】 の 記 述 に も と つ い て,コ シ ャ エ の 王 位 の 継 承 が ど の よ うに 行 な わ れ て き た の か を 見 る こ と に し よ う(表1,図1を 参 照)。
コ シ ャ エ の 王 に つ い て 系 譜 関 係 が は っ き り とわ か る の は,1800年 頃 王 位 にご就 い て い たAwane Sa王(Ton氏 族)か ら で あ る が,こ の 王 の 在 位 期 間 中,兄 弟 で あ る2人 の 首 長 が 本 島 に 行 っ た 時 にMatante地 域 の 人 々 に 襲 わ れ,兄 弟 の1人 のSipaが 殺 され た 。Sipaの 一 族 は 直 ち に 復 讐 す る こ と は せ ず,機 会 を うか が っ て い た 。
Awane Sa王 の 死 後,殺 さ れ たSipaの 息 子 た ち(Ton氏 族)が 次 々 と王 位 に 就 い た 。 Sipaに は5人 の 息 子 が い た 。 長 男 は 残 忍 で あ っ た の で,首 長 た ち の 反 対 に あ っ て 王
国立民族学博物館研究報告 16巻3号
表1 コ シ ャエ の歴 代 の王
在位 の期 間 王 の 名 出身氏族 キ リス ト教 に 対 す る態 度
:11年 頃
1.Aware Sa
Ton2.Aware Likiak
Ton3. Awane Na
Ton4.Awane Salik I
Ton5.Awane Sru I
Ton1835年 頃
6.Awane Sru皿
Penme〜1837年 頃
1837年 頃
7.Awane Lepalik I
Penme 好意 的 だが,改 宗 しなか った 。^‑1854
(Good King George)
1854‑1856
8.Awane Sru III
Ton キ リス ト教Y'反 対 。 1856‑18589.Awane Oa
Penme キ リス ト教 に反 対 。1858‑1863
10.Awane Lepalik II
Penme キ リス ト教 に反 対 だ が,教 会 の 建 設 に は協 力。 信 徒 の土 地 を 奪 った 直 後Y'死 亡 。 1863‑187411.Awane Salik II
Penme キ リス ト教 に反 対 だ が,礼 拝 堂 建 設 に 協 力 。王 の地 位 か ら追 放 され る。
1874‑1880
12.Awane Sru N
Penme 信徒 。 平 民 の土 地 を 教 会 に 与 え た こ とで 王 位 を 剥奪 され る。::1 :::
13.Awane Sru V
Lishne 信徒 。"! 14.Aware Lepalik皿
Penme 信徒 。isgo‑igio
15.Awane Sa II
Lishne キ リス ト教 に反 対 だ った が,1905年 に 改 宗 。 1910‑194716.Awane Na
Lishne 信徒 で執 事 。 王 位 を 廃 止 した 後,牧 師 に 。(King John)
1957年 死 亡 。Schaefer【1976:47]と0'Brien[1979:1871よ り 作 成 。
位 に 就 け な か っ た が,残 り の4人 の 兄 弟 が 次 々 と 王 位 に 就 い た(2代 か ら5代)。 こ の4人 の 兄 弟 に よ る 統 治 の 初 期 に,殺 さ れ た 父 親 の 報 復 が 行 な わ れ た 。 こ れ が 契 機 と な っ て 紛 争 は 拡 大 し た 。 本 島 の 南 部 と 西 部 の 人 々 はMatante地 域 の 人 々 に 加 勢 し, 北 部 と 東 部 の 人 々 は 王 を 支 援 し て 両 軍 が 戦 っ た が,王 の 軍 勢 が 相 手 を 打 ち 破 っ た 。 兄 弟 の 最 後 の 王,Awane Sru Iが 死 亡 し た 時, Ton氏 族 に は 王 の 後 継 者 が い な か っ た 。 そ こ で,首 長 た ち の 反 対 に も 拘 ら ず,王 の 息 子 のAwane Sru皿 が 王 位 に 就 い た 。 首 長 た ち はAwane Sru IIの 姉 妹 の 息 子 のSelikを 王 位 に 就 か せ よ う と し て い た 。 こ の6代 目 のAwane Sru五 はPenme氏 族 出 身 の 最 初 の 王 で あ る(こ の 後,14代 目 ま で2人 を 除 きPenme氏 族 の 者 が 王 位 に 就 く)。 こ の 王 は 残 忍 で 思 慮 が な く,多 くの 島 民 を 殺 し た と い わ れ て い る 。 王 がSelikの 土 地 を と りあ げ よ う と した の で, Selikと 彼 の 兄 弟 た ち が 王 に 対 し て 反 乱 を 起 こ した 。 本 島 の 島 民 も2つ に 分 か れ て 戦 っ た 。 反 乱 軍 は 勝 利 し,王 位 は 剥 奪 され た 。 しか し,こ の 戦 い でSelikは 死 亡 し た の で,首 長 た ち はSelikの 弟 を 王 に 選 ん だ 。 こ れ が7代 目 のAwane Lepalik Iで あ る 。
中 山 首 長 制 と キ リス ト教
図1 王 位 の 継 承
Sarfert[1919‑20:378‑387】 の 記 述 に よ り作 成 。
Awane Lepalik Iは 自 分 の 一 族 を 高 位 の 首 長 に 任 命 した 。 彼 は 外 国 人 に 対 し て 友 好 的 で あ っ た の で,外 国 人 か らGood King Georgeと 呼 ば れ た 。 島 民 も彼 を 名 君 と し て 尊 敬 し た 。King Georgeは1854年 に 死 亡 した 。 王 の 兄 弟 は 皆 死 亡 し て い た の で,長 男 が 次 の 王 と な っ た(Awane Sru皿, Ton氏 族)。 Awane Sru皿 に は 精 神 病 を 患 っ て い た 娘 し か お ら ず,彼 の 兄 弟 た ち も 既 に 死 亡 し て い た か,ま だ 幼 か っ た 。 そ れ で Awane Sru皿 の 死 後 は, King Georgeの イ トコ(母 の 妹 の 息 子)のSesaが 王 と な っ た
(Awane Oa)0
9代 目 の 王 のAwane Oaが 死 亡 した 時,近 親 者 の 中 に 王 と な り う る 者 は い な か っ た 。 そ れ で,3代 目 のAwane Na王 の 娘 の 息 子 が 王 位 に 就 い た 。 彼 はKing Georgeの 娘 婿 で も あ り,Awane Lepalik皿 と名 乗 っ た 。
こ のAwane Lepalik IIの 死 後,11代 目の 王 と な っ た の はAwane Salik IIで あ る 。 彼 は 王 族 一 家 と は 妻 を 介 し て 遠 い 親 戚 関 係 に あ る だ け で あ っ た が,首 長 た ち や 人 々 の 反 対 を 押 し き っ て 王 位 に 就 い た 。 こ の 王 は 臣 下 か ら金 を 奪 っ た り した の で,人 々 に は 不 評 で あ っ た 。1869年 に は 王 ・首 長 と平 民 とか ら な る 評 議 会 が 結 成 さ れ,1874年11月 に
国立民族学博物館研究報告 16巻3号
は,評 議 会 は 王 を 退 位 さ せ て,先 代 のAwane Lepalik IIの 弟 を 新 し い 王(Awane Sru】V)に 選 ん だ 。
12代 目 のAwane Sru Nは 前 の 王 と異 な り教 会 に 好 意 的 で あ っ た が,教 会 に 提 供 す る た め に 島 民 の 土 地 を と りあ げ た こ と が 原 因 で,王 位 を 追 わ れ た 。 そ し て 人 々 は Awane Sru Vを 新 しい 王 に 選 ん だ 。
13代 目 のAwane Sru VはKing Georgeの イ ト コ(母 の 兄 弟 の 息 子)で あ り,娘 婿 で も あ っ た 。 彼 はLishne氏 族 か ら 出 た 最 初 の 王 で あ っ た 。 Awane Sru Vが 死 亡 した 後,人 々 はSesaに 王 位 に 就 く よ う に 要 請 した 。 Sesaの 妻 はKing Georgeの 直 系 の 子 孫 で あ っ た 。Sesaは こ れ を 断 わ っ た 。14代 目 の 王 に な っ た の は,11代 目 のAwane Salik IIの 息 子 で あ っ た 。 彼 の 妻 はKing Georgeの 兄 の 孫 で あ っ た 。 こ のAwane Lepalik皿 は す ぐ に 死 亡 した 。 再 びSesaに 王 位 に 就 く よ うに と の 人 々 か ら の 要 請 が あ
っ た が,こ の 時 もSesaは 断 わ った 。 王 の 近 親 者 に は 王 に ふ さ わ し い 者 が い な か っ た の で,ホ ノ ル ル に い たAwane Sa皿 が 島 に 呼 び 戻 さ れ,15代 目 の 王 と な っ た 。 彼 は9 代 目 のAwane Oaの 甥(兄 弟 の 息 子)で あ り,姉 妹 が12代 目 のAwane Sru Nの 妻 で あ
っ た の でAwane Sru Nと は 義 理 の 兄 弟 の 関 係 に あ っ た 。 Awane Sa IIの 後 に は 甥(姉 妹 の 息 子)のAwane Naが 王 位 に 就 い た 。
以 上 がSarfertの 記 述 に も と つ く王 位 の 継 承 の 実 態 で あ る 。 King Johnと も 呼 ば れ たAwane Naは,1947年 に 王 位 の 廃 止 を 宣 言 し,こ れ に よ り コ シ ャ エ の 首 長 制 は 消 滅
し た 。
これ ま で の 記 述 か ら,王 位 の 継 承 は6代 目 のAwane Sru II以 降,母 系 と い うル ー ル が 放 棄 され,王 の 近 親 者 が 王 位 に 就 く よ うに な っ た こ とが わ か る 。 こ の た め,王 位 の 継 承 は 流 動 的 と な り,Penme氏 族 やLishne氏 族 か ら 王 を 輩 出 す る よ うに な っ た 。 1861年 頃,宣 教 師 のSnowは,王 位 の 継 承 に つ い て 以 下 の よ うに 述 べ て い る 。
こ の地 位 【王 位1は 世 襲 で は な い。 必 ず しも死 亡 した 王 と 同 じ部 族 【氏 族」の近 親 者 か ら選 ば れ る とい う訳 で は な い が,そ れ で も王 の死 期 が 迫 る と,王 位 の た め に ア メ リカ の政 治 家 が
【政 治 上 の】協 力(10g‑rolling)と 呼 ぶ ものが しき りに 行 な わ れ る。 あ らゆ る手 を つ く した 後 で,人 々の 意 向 が 強 けれ ば別 の部 族 の首 長 が 王 位 に 就 くこ とが あ る。
王 位 の継 承 の方 向 は 明確 に 定 ま って い る訳 では な い が,前 の 王 の 息 子 が 父 の 跡 を 継 い だ り,王 の 兄 弟 姉 妹 の 息子 が継 ぐ こ と もあ る[WARD 1967 voL 4:455‑456]。
つ ま り,母 系 の 継 承 の方 式 が機 能 しな くな る と,王 の 近 親者 で,首 長 た ち の(後 に