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著者 松村 一男

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比較神話と文化史 : 『オデュッセウス』、『ロビ ンソン・クルーソー』、『ユリシーズ』(シンポジ ウム 東西文化交流と比較神話)

著者 松村 一男

雑誌名 東西南北

巻 2002

ページ 42‑50

発行年 2002‑03‑20

URL http://id.nii.ac.jp/1073/00003601/

(2)

吉田敦彦先生は私が神話学を研究するようになったき

っかけを与えてくださった恩師です︒大学卒業に際して︑

サラリーマンになるより大学に残って研究者になりたい

と願っていた私は︑関心のあったデュメジルのインドⅡ

ヨーロッパ語族の比較神話学について卒論を書くことを

決め︑著書でしか知らなかった吉田先生でしたが︑思い

切って研究室を訪ねました︒先生は卒論のテーマ︑参考

文献など丁寧にご教示くださり︑その後も大学院進学や

留学に際して親身に相談にのってくださいました︒そし

て現在にいたるまでつねに暖かい手を差し伸べてくださ

っています︒

鶴岡真弓先生とは︑本学の旧芸術学科で︑ここにいら

っしゃる前田耕作︑松枝到両先生を中心にかつて開催さ

れていた象徴図像研究会で知り合い︑その後︑美術史と lはじめに 松村一男 シンポジウム○東西文化交流と比較神話 比較神話と文化史 ﹃オデュッセウス﹄︑﹃ロビンソン・クル︲︲ソー﹄︑﹁ユリシ︲︲ズ﹄

・本学表現学部教授

神話学ということで直接の専門は重ならないにしても︑

古ヨーロッパ文化とかケルト文化という共通の関心をも

って︑互いに刺激しあいながら研究を進めてきています︒

このように︑お二人は私個人にとっては恩師と学友な

のですが︑それ以上にお二人は国際的に多彩な方面で活

躍されている大学者です︒したがってきわめてご多忙な

お二人ですが︑今回の和光大学での﹁東西文化交流と比

較神話﹂のシンポジウムにご無理をお願いして参加して

いただきました︒そうした素晴らしいお二人のご発表と

関連をもちながら︑ある程度全体のまとめになるような

問題を考えてみたいと思います︒

まず﹁比較神話学﹂です︒この分野はフランスのジョ

ルジュ・デュメジルによって確立されました︒デュメジ

ルは弟子を取らないことで有名で︑吉田先生はその唯一

の例外です︒デュメジルの比較神話学では︑歴史的に統

一性を有した言語文化集団に見られる世界観を解明する

2

(3)

ことに主眼が置かれています︒このシンポジウムは︑本

学の表現学部長である前田耕作先生の監修のもとに︑今

年︑デュメジルの比較的初期の著作群の八冊が︑ちくま

学芸文庫から四分冊で﹁デュメジル・コレクション﹂と

して︑すべて本邦初訳で刊行されたことを記念する意味

もあるのですが︑このデュメジル・コレクションをご覧

いただければ︑その底知れぬ語学力︑学識︑分析能力が

納得していただけるでしょう︒

ではこうしたデュメジルの比較神話学とは異なる種類

の比較神話というものは可能なのでしょうか︒私は可能

だと思っています︒それは同じタイプの神話を比較する

爾 ゞ

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ひ一

という形での比較研究です︒人類に共通の基盤を有する 体験を神話化したもの︑それは時代を超えて現代にまで 神話として生きつづけているはずだと思うからです︒

そうしたタイプとして︑ここでは未知の島々をめぐる

苦難の航海と帰還の神話を取り上げてみます︒このタイ

プの神話を年代順にいくつか比較してみることによって︑

古代と現代をむすび︑さらには吉田先生の取り上げられ

たインドⅡヨーロッパ文化と鶴岡先生の取り上げられた

ケルト文化を現代まで含めて結びつけることができれば︑

と虫のいいことを考えているのです︒

百ビンソン・クルーソー﹂

私は︑今回このテーマをあれこれ考えている際に︑本

学の学長である三橋修先生が書かれた﹁意地悪読み百ビ

*01

ンソン・クルーソー筐と題された文章を読んで大変に刺

激を受けました︒そのおかげで今回の発表の構想もでき

たといっても過言でないほどです︒大変におもしろいも

ので︑本当ならその全文を紹介するのがよいのですが︑そ

れでは一体誰の発表なのか分からなくなってしまうので︑

特に私にとって印象が強かった一点のみに触れることに

します︒なお聴衆の皆さんは是非︑全文をご覧ください︒

ロビンソン・クルーソーの物語のあらすじは︑改めて

申すまでもないほど︑皆さんご存知でしょう︒本当の書

名は次のように大変に長いものです︒﹃ヨークの船乗り︑ *l三橋修﹁意地悪読み百 ビンソン・クルーソーこ﹁かわ ら版再三筐S|言﹂和光大学人 間関係学部人間関係学科発行

二○○一年︑三四〜三七頁︒

043一一一一

(4)

ロビンソン・クルーソーの奇妙で驚くべき冒険と生涯︒

彼は船が難破して他のすべての乗組員が死んだ時︑一人

だけ岸に打ち上げられて生き残り︑アメリカ大陸沖合い︑

大河オリノコ川の河口近くの無人島にたった一人で二八

年間も生活した︒なお︑どうやって海賊の下から奇跡的に

逃れられたかについても述べられている︒本人による執

筆﹄︒これだけでもう︑あらすじが分かってしまいますね︒

彼は航海に出て︑難破して︑ただ一人生き残って孤島に

流れ着き︑そこで一人ぼっちの生活を二八年もする︵ただ

し最後の三年はフラィデーという黒人の召使もいました︶

が︑やがて島に流れついた船でイギリスに戻ります︒そし

て大金持ちになって︑めでたしめでたしという結末です︒

しかしなぜ船に乗り込んだのかという理由の部分は︑

それほど知られていないのではないでしょうか.三橋学

長も指摘されているように︑実は︑彼は黒人奴隷の密輸

入の目的で船を仕立て︑航海に出たとされているのです︒

私も昔︑まだ小学生の時分にこの話を読んだのですが︑

黒人奴隷の密輸入のために船に乗ったとは覚えていませ

んでした︒そこで慌てて︑学研の少年少女世界文学全集

を大学の図書館から借りてきて眺めてみると︑確かにブ

ラジルで農場を営んでいたロビンソン・クルーソーは︑

働き手が足りないので︑近所の農場主たちとともに﹁ひ

と航海で秘密に黒人たちをつれてきて︑かれらの農場で

わけよう﹂と相談をしたとなっています︒ 子どものときには︑黒人奴隷貿易の意味も知りません でしたが︑大人になった今では︑この点は看過できませ ん︒しかし普通は︑この動機の部分はあまり問題視され ていませんよね︒学研版の少年少女文学全集の﹁読書の てびき﹂には︑これは﹁名作﹂で︑﹁夢をまんぞくさせ て﹂くれ︑﹁スリル﹂があり︑﹁よろこび﹂があり︑﹁生き ていくための知恵をくみとる﹂ことができると述べてい るだけです︒無人島で知恵を絞ってさまざまな家や農地 や家具を作り︑食料を生産し︑家畜を育て︑敵と戦うと いう開拓と冒険の描写は精綴で生き生きとしていて︑確 かにおもしろい︒だけど︑それだけでいいのでしょうか︒

まず時代背景を考えてみましょう︒この作品は一七一

九年に刊行され︑この頃の時代の情勢については︑世界

史の参考書をひも解けば︑次のような記述があります︒

﹁地理上の発見いらい︑一六世紀にはポルトガルが

アジア方面へ︑スペインが中南米方面へ進出し︑貿易

拠点をにぎり植民地を建設した︒一七世紀になるとオ

ランダ・イギリス・フランスなどが植民・貿易活動を

積極的に展開しはじめたので︑一七一八世紀にこれ

らの国々の間に植民地争奪戦が行われた︒この植民地

争奪戦はヨーロッパ本土における国家間の戦争と結び

ついて展開した︒そしてこの植民地争奪戦の最後の勝

利者はイギリスであり︑一八世紀中頃にイギリス海上

(5)

このようにダニエル・デフォーが﹁ロビンソン・クル

ーソー﹄を書いた頃のヨーロッパでは︑各国が世界各地

に進出して植民地を形成し︑さらにアフリカから黒人を

奴隷として連れてきてプランテーションで働かせるとい

う構図が出来つつありました︒奴隷貿易のために船を仕

立てることは︑ロビンソン・クルーソーだけではなく︑

ヨーロッパの多くの国でも見られたことだったのです︒

この作品自体も︑先ほどの題名にも﹁本人による執筆﹂

とあったように︑ほとんど実話のように書かれて︑作中

ではロビンソンがイギリスに戻ってきたのは︑一六八七

年のこととなっています︒

では私たちは︑奴隷貿易は当時の社会では一般的であ

って︑小説自体の価値を損なうものではないから︑そう

した社会状況を十分に理解して読めばよいのでしょうか︒

どうもそうは思えません︒かっての私の場合のように︑

小学生くらいでは︑﹁黒人たちをつれてきて︑農場でわ

ける﹂という表現の意味は分からないでしょう︒その結

果︑孤島での創意工夫とか一人で多くの敵と戦う場面の

スリルなどに目が行き︑そちらしか覚えていないことに

なります︒また奴隷貿易という航海の動機のほかに︑人

種についてのステレオタイプの問題があります︒白人は

一部のどうしようもない悪党以外は︑基本的に善人ばか

*世

帝国が成立した﹂

l困難な航海と帰郷

航海でさまざまな不可思議な島々を訪問し︑知恵と勇

気で苦難に勇敢に立ち向かって︑苦難を克服するが︑難

破して一人だけ生き残り︑孤島で生活するが︑最後には

故郷に戻って幸福に暮らすという英雄として︑真っ先に

思い浮かぶのは︑オデュッセウスでしょう︒

より古い古代オリエントの﹁ギルガメシュ叙事詩﹂の主

人公で︑不死を求めて世界の果てまで旅をするギルガメ

シュも有名ですが︑オデュッセウスの方が苦難の描写が

はるかに具体的で︑後代の作品への影響も類似も大きい

ので︑ここでは﹁オデュッセイア﹂と主人公オデュッセウ

スを基準にして︑後の時代にこのタイプの物語とその主

人公が︑どのような形で現れているのか︑そしてその意味

は何かを考えてみます︒つまり多少勿体ぶった言い方を りです︒トルコ人︑ムーァ人︑モロッコ人といったイスラ ム教徒は︑基本的にみな海賊とされています︒黒人はま だ奴隷にされる以前の自由な身分で自分たちの社会にい る場合には︑﹁真っ黒でしかも素っ裸﹂とか﹁土人﹂とだけ いわれます︒そして西インド諸島やアンチル諸島の原住 民は︑﹁蛮人﹂とか﹁食人種﹂︑﹁人喰い人種﹂と呼ばれ︑ロ ビンソンは︑﹁両眼から涙を流しながら天を仰いで︑自 分がこんな恐ろしい人間の仲間にならなくてすむ国に生 まれたことを神に感謝した﹂と描かれています︒ *2堀米廠三・前川貞次郎共 著︑チャート式シリーズ﹁新世 界史﹂改訂版︑数研出版︑一九

七三年︑二六四頁︒

5 一 一

(6)

するなら︑﹁﹁オデュッセイア﹄型神話の歴史的文脈におけ

る変容の形態と意義の考察﹂ということになるでしょうか︒

このテーマは︑﹁ギルガメシュ叙事詩﹂をはじめとす

る異界訪問の物語の一部︑つまり海上の島々を訪問する

タイプに属します︒異界訪問の物語全般については︑イ

ォァン・クリァノという宗教学者が﹁この世の外部11

ギルガメシュからアルバート・アインシュタインまでの

*勾晶

異界への旅﹂という本堂者しています︒なおクリアノは

ルーマニア系で︑同じくルーマニア系であった有名なエ

リァーデの後継者としてシカゴ大学教授となり︑しかし

おそらくルーマニアのテロリストによって大学内で射殺

されたという人物です︒夜の大叢礪内は暗いし︑人がい

ないから︑殺人事件が起きやすい︒ちなみにエリアーデ

もまた︑大学退官直前に研究室が火事になり︑蔵書すべ

てを失っています︒これもテロの可能性が高いようです︒

クリァノの本を紹介したのは︑このテーマについては

クリァノが書いていますよ︑興味のある方はご覧くださ

いというだけです︒また以下で私が取り上げる作品は︑

どれもクリァノが取り上げていないものです︒彼の本で

はダンテの﹃神揺巴以降の作品は取り上げられていませ

ん︒なお︑副題にはアインシュタインまでとなっていま

すが︑奇妙なことにアインシュタインは文中にはどこに

も登場していません︒

もう一つ︑﹁オデュッセイア﹂の後代の影響について は︑首都ダブリンにあるアイルランドの最高学府トリニ ティー・カレッジでギリシア学教浸であったスタンフォ

*4

−ドが﹁ユリシーズのテーマ﹂という研究券著していま

す︒大変に有名な本ですが︑今回の発表とは直接の関係

はありません︒今回の発表が考察の対家としているのは︑

表題に掲げた三つの作品︑﹁オデュッセイア﹂︑﹁ロビン

ソン・クルーソー﹂︑﹁ユリシーズ﹄です︒そして直接に

関除はないのですが︑関連をもつ物語として︑ウムラヴ

ァというケルトの航海物語群と﹁ガリヴァー随行聿些に

ついて︑ここで言及しておきます︒

ケルトの航海物語については︑鶴岡先生がご専門で︑

*︒J

すでにこの問題について一書を著されています︒なお副

題が示すように︑同書ではジョイスと祖国離脱︵エグザ

ィル︶についても詳しい考察がなされています︒

大西洋に面した島国のアイルランドで航海の物語が発

達したのは不思議ではないでしょう︒ケルト人は西の海

の彼方に﹁常若の国﹂があると伝えてきました︒聖パト

リックによってアイルランドがキリスト教国になると︑

八世紀に﹁マルドゥーンの航海﹂と﹁聖ブランダンの航

海﹂という二つの作品が生まれます︒アイルランドに生

まれた者にとって︑これら二つの航海物語は︑いわば日

本の浦島太郎のような感じであったことでしょう︒長じ

て作家となった二人のアイルランド人︑すなわちスイフ

トとジョィスは︑島々を訪問する航海物語を書くように *5鶴岡真弓﹁聖パトリック 祭の夜1ヶルト航海調とジョ ィス変幻﹂岩波智店︑一九九三 年︵その後︑﹁ジョィスとケル ト世界﹂と改題して︑平凡社ラ

イブラリー︑一九九七年﹀. *3F宅●○.晨目︒如○員旦暮計毫耳苞叱○暮零室s鼻等旨昌月扇辱gご良葡嘆冨のきざ﹄諄×剴固︒豊営︑讐閏弓冨Fz2乏○升マご筐.*4雲・画・際昌呑乱↑ご命﹇要圃盟明目写里ョか因毎号乏豊壱○×ずa﹄箪騨.

− 6

(7)

なるインスピレーションをそこから受けたはずです︒

その結果︑ジョナサン・スイフトは﹁ガリバー旅行詞聖

を書きました︒一六六七年にアイルランドの首都ダブリ

ンに生まれた彼は︑一七二六年にこの作品を発表してい

ます︒つまり一六三二年に生まれ︑﹁ロビンソン・クル

ーソー﹂を一七一九年に出版しているデフォーとはほぼ

同時代人ということですね︒

﹁ガリヴァー旅行記﹂は英国生まれのレミエル・ガリ

ヴァーが外科医となって船に乗り込み︑一六九九年に南

太平洋に向けて出発するところから始まります︒ところ

が船は現在のインドネシアのスンダ列島の近くで難破し︑

ガリヴァーはリリパットという誰もが一五センチ以下と

いう小人の国に漂着します.次の航海では︑ガリヴァー

はブロブディングナッグという︑誰もが身長二○メート

ル近い巨人の島に漂着します︒そして第三の航海では海

賊に襲われて︑ポートで漂着するのが空飛ぶ島ラピュタ

です︒宮崎駿のアニメでも有名になった名前ですね︒そ

して最後の旅ではフーイナムの島に着きます︒ここの住

民は姿は馬のようだが︑高い知性を持っていて︑逆に人

間そっくりなヤフーあるいはヤプーが卑しい獣なのです︒

ちなみにインターネットのヤフーはこれから採られてい

ますね︒卑しい獣のような人間というのは結構皮肉が利

いていて逆に名付け親の知性を感じさせます︒

百ビンソン・クルーソー﹂と﹃ガリヴァー旅行記﹂ という︑いずれも船に乗って遠い世界に出かけ︑そこで 難破して︑珍しい体験をするという物語がほぼ同時期に 書かれているのは︑先ほど述べたようにこの時代がヨー ロッパの列強が殖民地・奴隷獲得のための海上帝国建設 に熱中していた時代だからですね︒しかしそれ以外の点 では二つの作品は大きく異なっています︒﹃ガリヴァー 旅行記﹂には︑百ビンソン・クルーソー﹂のような権 力をもって成功しようとする人間の真面目さ︑そしてそ の裏返しの他者への傲慢さはありません︒なぜならスィ フトはこの物語を風刺として書いているからです︒デフ ォーとは執筆態度が根本から違っているのです︒アイル ランド人のスイフトがイギリス人を主人公にしているの は海上帝国建設に逼進するイギリスへの風刺だからでし ょうか︒表面上似ているけれど︑これら二つの作品は別 物です︒﹃ガリヴァー旅行記﹂は神話的ではありません︒ 風刺と神話は共存できない概念です︒ l﹃ユリシーズ﹂

二○世紀において︑苦難の航海の末に故郷に帰還する

物語の代表といえるのは︑一九二二年に刊行されたジェ

イムズ・ジョイスの﹁ユリシーズ﹄でしょう︒ジョィス

もスイフトと同じくアイルランドのダブリン生まれです︒

ユリシーズとはオデュッセウスのラテン語名ですから︑

ホメロスの﹁オデュッセイァ﹂に範をとったことを意図

7 一 一

(8)

的に示す表題といえるでしょう︒しかし内容の方は大変

に倭小化されてしまっています︒時は一九○四年六月一

六日という一日に限定され︑オデュッセウスに相当する

人物は中年の広告取りのユダヤ人レオポルド・ブルーム

です︒ペネロペに相当するその妻モリー︑テレマコスに

相当する文学青年スティーヴン・ディーダラスなども登

場しますが︑彼らはダブリンの町にいるだけで︑派手な

事件は何一つ起きません︒つまり物語の筋書きは︑古代

の叙事詩とあまり共通点はありません︒この点について

は︑むしろ意識の流れに焦点が当てられ︑その表現のた

めに多彩な文体が駆使されていることに意味があるとす

る解説も見られます︒本学の吉川信教授はジョイスの専

門家ですから︑詳しくは吉川先生にお尋ねください︒こ

こでは素人の神話学者の読み方のみをお話しします︒

ところで問題は︑ジョイスに至って︑島々を巡る苦難

の帰還の航海物語はその性格を変え︑形骸化してしまっ

たのか︑ということです︒内容的にはそうとしかいえま

せん︒作品の表題とは相反して︑﹁ユリシーズ﹂は意識

の流れを追う別種の文学ジャンルを形成しています︒

しかしにもかかわらず︑ジョイスが枠組みとして﹁オ

デュッセイア﹂を利用したことには意味がありそうです︒

一つの解釈はジョィス自身の状況です︒﹁ユリシーズ﹂

はすでに一九○六年にローマで最初の構想が練られ︑第

一次大戦期をはさんで︑一九二二年に刊行されています︒ 舞台は生まれ故郷のダブリンに設定されていますが︑ジ ョィス自身はダブリンになじめ領に国外に去り︑この作 品はローマ︑パリ︑チューリッヒ︑北イタリアの都市ト リェステなど住まいを変えつつ︑祖国離脱あるいは亡命 ︵エグザイル良一亙の状態で書かれました︒そうなのです︑ 作品よりもむしろ著者であるジョイスの生き方こそがオ デュッセウスⅡユリシーズの物語のようなのです︒

危険を冒しても帰還しようとする故郷を物理的にも心

理的にも喪失した人間が︑ジョイスだけでなく世界中で

多数生まれたのが︑二○世紀でした︒この作品が第一次

大戦時に書かれていることは偶然ではないでしょう︒物

理的な故郷あるいは心の故郷を探してさ迷う世界各地の

亡命者を︑ジョィスは自分を含めてオデュッセウスⅡユ

リシーズと名づけたのかも知れません︒

もう一つの解釈は︑ジョィスは意識的に主人公を凡人

にしたのではないか︑ということです︒オデュッセウス

に対応するはずのレオポルド・ブルームがあまりに平凡

であること︑オデュッセウスが広大な地中海をさ迷うの

に︑ブルームはダブリン市内だけしか動かず︑しかも彼

には何も大事件は起こらない︒もしこれを意識的な倭小

化と考えるなら︑ジョイスはなぜそうしたのかが考えら

れるべきでしょう︒彼はこの作品によって二○世紀の姿

を描き出そうとしたとは考えられないでしょうか︒つま

り二○世紀とは︑もはやオデュッセウスのような神話的

− 8

(9)

lおわりに 英雄は存在しえない︑神話的冒険も存在しえない時代で す︒あるのは凡人の送る︑大した事件もない平凡な日常 生活です︒個人の才覚で活躍できる太古の英雄的時代と は違う︑個人の力だけではどうしようもない世界大戦の 時代としての二○世紀のイメージを︑﹁ユリシーズ﹂に 読み取ることができるように私には思えるのです︒

﹁オデュッセイア﹂をプロトタイプとする︑英雄の苦

難の航海と帰郷の物語は︑近代社会においてもっとも忠

実な後継者として百ビンソン・クルーソー﹂をもって

いるといえるでしょう︒船が難破して他の乗組員全員が

死んで︑自分ひとりが生き残って島にたどり着くとか︑

孤島で長い年月を過ごすとか︑知恵と勇気で危険な敵を

かわしたり︑退治したりするとか︑デフォーは﹁オデュ

ッセイァ﹂を意識していると感じさせます︒

しかし先ほど述べたように︑百ビンソン・クルーソ

ー﹂には一七一八世紀のイギリス海上帝国のイデオロ

ギーが色濃く反映しています︒人種差別︑奴隷制︑植民

地主義などです︒そしてそうした部分が暗黙の前提とし

て含まれているこの物語は︑私の意見では︑いかに少年

から大人までの男性すべての心をときめかす孤島での冒

険が詳しく述べられているにせよ︑その裏面の帝国主義

イデオロギーを無意識のうちに読者に刷り込むであろう と思います︒百ビンソン・クルーソー﹂は近代社会そ して現代の資本主義社会の神話となり︑生きつづけてい るのではないでしょうか︒

では翻って︑本家の﹃オデュッセィァ﹂はどうでしょ

うか︒オデュッセウスについては︑普通は知恵の英雄と

して︑同じく知恵の女神であるアテナの庇護を受け︑幾

多の苦難を乗り切って︑不在中に妻ペネロペに言い寄り︑

彼の財産を食いつぶしていた求婚者たちを策略を用いて

ほとんど独力で退治し︑妻と再会を喜ぶという具合で︑

優れた知恵と不屈の糖神力と妻や家族への強い愛情をも

った︑大変に好感の持てる人物として受け取られている

気がします︒

しかしそれもまた︑﹁ロビンソン・クルーソー﹂を優

れた人物の物語と賞賛するような︑近代の帝国主義イデ

オロギーによる近代のオデュッセウス像であるという可

能性は︑考えられないでしょうか︒つまり現代の私たち

の目から見るととんでもない人物なのだが︑古代ギリシ

アのミュケナイ時代の貴族にとっては︑それが理想であ

り︑そして近代の帝国主義国家のイデオロギーを受容し

ていた支配者階級の知識人もまた︑そのオデュッセウス

像に自分たちの理想に近いものを認めたからこそ︑賞賛

しもく

したという可能性です︒たとえば彼は権力の忠実な僕で

す︒そして求婚者たちを皆殺しにするのはもちろん︑彼

らと通じていた自分の家の下女たちも全員首吊りで処刑

0 4 9 ‑ ‑

(10)

しています︒自らに逆らう者は容赦せず皆殺しです︒そ

れから妻を大事にするというのもロマン主義的な解釈か

も知れないのです︒妻も大事だったのでしょうが︑それ

以上に自分の財産を守ることの方が大事だったのかも知

れないじゃありませんか︒

さて︑果たしてこうした考察は新しい比較神話学や文

化史学になりうるのでしょうか︒それは正直な所︑まだ

私にも分かりませんが︑以上の諸作品についての考察か

ら︑いくつかの論点を指摘して終えることにします︒

不思議な島々を巡って不気味な怪物や敵を退治すると

いうハラハラドキドキの英雄の冒険物語は︑男性には子

どもから大人まで人気があります︵もっとも女性にはさ

ほどないようですが︶︒こうした構図は今も昔も変わり

ません︒そしてこれらの物語はみな基本的には単なる娯

楽としてではなく︑神話として考えられるべきだ︑とい

うのが第一点です︒言葉を変えて言えば︑﹁オデュッセ

ウス﹂︑﹁ロビンソン・クルーソー﹂など神話的構造をも

つ物語は︑イデオロギー性を帯びやすいし︑イデオロギ

ー性の高い物語は︑必ずしも事実とは限らない要素が入

り込みやすいということです︒

ジョイスの﹁ユリシーズ﹂も神話構造とイデオロギー

性を持っています︒しかしこれまで見てきたように︑そ

の神話構造とイデオロギーとは従来とは異なる利用をさ

れている新しいタイプのものです︒一言で言えば脱構築 ということになるでしょう︒偉大な英雄を主人公とする 神話構造を意図的に用いながら︑主人公を倭小化してし まう︒そしてそれは同時に︑それまでその神話構造が担 ってきたイデオロギーをも倭小化することになる︒アン チとしての神話とイデオロギーです︒つまりジョイスは この作品で︑それまでの支配的な神話イデオロギーを換 骨奪胎し︑逆にそれを無化してしまっているのです︒

それをジョィスの考えた新しい時代の英雄像と呼ぶこ

とも出来るでしょう︒ともかく︑私はジョイスの﹁ユリ

シーズ﹂をそんな風に理解しています︒

二○世紀の末から一二世紀にかけて︑地球規模での難

民の流動が起こっています︒先述のように︑伝統的な苦

難の航海によって帰郷を目指す英雄像は相変わらずアニ

メやゲームで再生産され︑﹁男の子﹂たちに消費されて

います︒しかし英雄像と悲惨な現実との乖離はどのよう

に埋められるのでしょう︒神話学と文化史が手を槐えて

考えていくべき領域は︑まだまだあるように思われます︒

あと一つ︑取り上げきれなかったオデュッセウス型の

物語があります︒アーサー.C・クラークの﹁2001

*︽⑥

年生工由の燃坐です︒果たしてこの物語の主人公は︑ロビ

ンソン・クルーソーとレオポルド・ブルームのどちらの

タイプでしょうか︑それともどちらでもない第三のタイ

*7

プでしょうか︒このシンポジウムの後に︑ひとつビデオ

でこの作品を眺めながら考えてみてください︒ *7スタンリー・キューブリ ック﹁2001年宇宙の旅﹂ワ ーナー・ホーム・ビデオ︑一九

九二年発売︵映画は一九六八年︑

U・S.A︶

*6アーサー.C・クラーク ﹁2001年宇宙の旅﹂早川瞥

房︑一九七七年昏昏員︒.Q日常.頤8房シ吻冒8○包蔚附顎﹈麗聖︒

− 0 5 0

参照

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いない」と述べている。(『韓国文学の比較文学的研究』、

ADAR1 は、Z-DNA 結合ドメインを2つ持つ ADAR1p150 と、1つ持つ ADAR1p110 が.

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