愛国的ジャーナリストから批判的知識人へ
――マックス・フリッシュの従軍日記を手がかりに1
葉柳和則
はじめに
私たちは産み落とされるのであって、自分たちに生を与えてくれるよう頼んだのでも、自分 たちの祖国を選び取ったのでもない。しかし一度生を手にすると、そう、私たちはそれにい かに強く執着することか、そしてまた私たちの祖国であるこの国をいかに深く愛することか。
たとえ皆がそれを口にするのではないにしても、たとえそのことが私たちに苦しみをもたら すにしても。(!,Blätter:116)
1939年9月1日、ナチス・ドイツのポーランド侵攻と同時に、スイスは総動員体制に入った。
チューリヒ工科大学(ETH)の建築学科の卒業試験を目前に控えていたマックス・フリッシュ Max Frisch(1911−1991)もその日のうちに召集され、10月18日までテッシン州イタリア国境で 砲兵として陣地の構築の任に当たった。フリッシュは、チューリヒ大学在学中の1932年に父親が 死亡したことが原因となって学業を断念し、フリー・ジャーナリストとしての生活を始めた。仕 事は傍目には順調であり、スイスを代表するクオリティ・ペーパー『新チューリヒ新聞』Neue
Zürcher Zeitung(NZZ)などの契約記者としてルポルタージュや書評などを執筆する傍ら、二篇
の小説を発表していた。しかし、1936年に根無し草的な文筆生活に一旦見切りを付け、市民的職 業を身に付けるため、ETHに入学し建築学を学び始めた2。召集された時点ではまだ学生だった が、翌1940年の夏に動員休暇(Diensturlaub)を申請し、卒業試験を受験して、建築士の資格を 取得している(Bircher1997:102;Schütt2011:275‐280)。上の引用は、最初の動員期間中に執筆 され、1940年に出版された従軍日記『背嚢からの紙片』Blätter aus dem Brotsackの中の一節である。
戦後、スイスを代表する批判的知識人として、公安警察から「国賊No.1」(Staatsfeind Nr.1)
と名指されることになるフリッシュが(Bircher2000:146‐147)3、従軍日記の中で上のようなあ からさまな愛国心を表明していたことは、種々の伝記的叙述の中でも言及されている(Bircher 1997:94‐100;Waleczek2001:46‐49;Gleichauf2010:57‐61;Hage2011:32‐33;Kilcher2011:29‐
32;Schütt2011:253‐282)。ところが、この愛国的若手ジャーナリストが、5年経った1945年の 1月、すなわちナチス・ドイツが降伏する4ヶ月あまり前には、ヨーロッパ戦線における根源的 な罪障の問題を焦点化した戯曲『ほらまた歌っている――レクイエムの試み』Nun singen sie wie- der. Versuch eines Requiems4を執筆し、その翌年、『日記1946‐1949』Tagebuch 1946-1949(1950)の 中では、武装中立によってナチス・ドイツから民主主義を守り抜いたスイスというナショナル・
イメージの欺瞞性を全面的に批判するようになる。
しかし、既存の伝記的叙述を通してこの転向の軌跡を内在的に辿ることは困難である。という のも、フリッシュは1930年代から40年代前半の経験について多くを語ってはおらず、この時期の 記事や作品の著作集への収録にも積極的ではなかったからである。フリッシュ自身によるライフ ヒストリーの語りは、『日記1946‐1949』に収録された『自伝』Autobiographie(",Tagebuch!: 583‐590)がほとんど唯一のものである5。これまでの研究は、フリッシュの前半生について論じ
る際に、この『自伝』に依拠することが多かった。しかし、このテクストを個人史の再現として 読むことには留保が必要である。なぜなら、既存のパリ表象のネットワークを脱し、その外部に おいて自らの経験に基づいて、自らの言葉で「パリをスケッチする」ことの不可能性ついての考 察が『自伝』の直前に置かれているからである。つまり、『自伝』は一人称の「私」が「私」の 経験について語るという行為が内包する構造的困難を暗示しているのである。
さらに、フリッシュ自身が、他者の手になる伝記に参照枠を提供しているという事情がある。
1982年にジャーナリストで文芸評論家のフォルカー・ハーゲVolker Hageがフリッシュの伝記を 書くためにインタビューを行った際に手渡されたメモには、フリッシュの人生における決定的な 経験が箇条書きされていた。その一行目には「1)重要、劇場ZH(1933‐1950)」とある(Hage
[1983]2011:128)。これは、フリッシュが自身の伝記上の決定的転回点をチューリヒ劇場での 経験に置くよう示唆したと解することができる。1983年に出版されたこの伝記は、1976年の著作 集刊行後、最初に書かれた伝記であり、それまでのものとは異なった水準にあったため、以後の フリッシュの伝記的叙述に範型を提供することになった。
これらの伝記は、フリッシュの転向を「1944年夏、チューリヒ劇場に集う亡命知識人・芸術家 との出会い」という出来事に集約させて説明する傾向が強く、総動員以降のフリッシュの経験と 思考の変化を見えづらいものにしている。スイスの劇場、とりわけチューリヒ劇場では、ナチス が政権を握っていた期間中も、1933年に焚書されたユダヤ系、マルクス主義系、モダニズム系の 芸術家たちの作品の上演や朗読が行われていた。戦後のフリッシュの仕事がこうしたチューリヒ 劇場の活動の延長線上にあることは確かである。しかし『自伝』や伝記の叙述に依拠する限り、
1911年にチューリヒで生まれ、チューリヒで学び、チューリヒで文筆生活を送っていたフリッシュ が、なにゆえようやく1944年になって、チューリヒ劇場を中心に形成されていた認識と表象の共 同体の中に入っていったのかを説明することはできない。
筆者はこれまで、転向の直前に執筆された戯曲『サンタ・クルツ』Santa Cruz(執筆1944、初 演1946)、小説『ビンあるいはペキンへの旅』Bin oder die Reise nach Peking(執筆1944、出版1945)
という作者自ら「現実逃避の文学」(Frisch mit Arnold1975:20)、「夢幻作品」(Träumerei,",Tage- buch!:589)と呼ぶテクストの中に密やかに書き込まれた、スイス市民社会や軍隊に対する批判 について検討を加えることによって、フリッシュの思想が変容する過程をいささかなりとも明ら かにすることを試みてきた(拙稿2011参照)。「密やか」と書いたのは、これらの作品における「批 判」、特に軍隊に対するそれはテクストの周縁に残されたかすかな痕跡のようなものであり、事 後的に見て「批判」の萌芽と言えるに過ぎないからである。
とはいえ、この作業を通して明確になったことがひとつある。それは、フリッシュの作品にお
いては、どの時代に執筆されたものであっても、すなわち転向以前の作品においても、登場人物 たちはみな自らの置かれた環境に閉塞感を覚えており、そこからの脱出を図っているという共通 性である。脱出していく先は多様であり、環境と外部との対立図式にそれぞれの時代のフリッシュ の思想が現れているが、出発点としての環境は常にスイス市民社会である。
次に問われるべきは、どのような経験を経てフリッシュは閉塞感を抱くに至ったのか、である。
これに答えるために本稿はフリッシュの従軍時代の日記に着目する。国民国家論において軍隊は
「ネーションの学校」であると言われる(Kalnoky2008)。しかし、国民国家への愛着のみなら ず、市民生活と軍隊が密接に関係しているという点で、スイス市民社会とスイス軍との関係は類 例を見ない。この関係は民兵(Miliz)制度のあり方から生まれたものである。現在、スイスに は職業軍人は2000人程度しかおらず、その他約20万人の兵員は平時には何らかの職業を持つ民兵 である。彼らには召集があれば直ちに応召する義務がある。このシステムを維持するため、20歳 になったスイス人男性は、15週間の初任訓練と、毎年または2年ごとの現任訓練を受けなければ ならず、銃器を自宅に保管し、自治体が催す射撃訓練を受けることも義務づけられている。民兵 の初任訓練に際しては一定の地域の多様な職業の若者が同一の部隊に編入され、4ヶ月近い期間、
寝食を共にする。そのため、市民生活においても軍隊内の人的ネットワークが途切れずに機能し 続ける。さらに、多くの職場において、民兵として昇進することと、本業の組織内で昇進するこ との間に相関関係があり、会社や官庁の幹部、議員などの多くは民兵将校である(国松 2003:86
‐104)。このシステムは1878年の改正連邦憲法発布の際に導入され、部分的な修正は何度もなさ れながらも、基本的枠組としては変化していない。直接民主主義で知られるスイスにおいて女性 に参政権が与えられたのは、ようやく1971年であったのも、武器を手に戦う力のある者こそが社 会のフルメンバーであるという考えが根強くあったからである。このように、市民であることと 兵士であることは、日常においても切り離すことができないのがスイス社会の特徴である。その 意味で、この国では「軍隊はネーションの学校」であるのみならず「市民の学校」でもある。そ れどころか、「スイスは軍隊を有していない。スイスとは軍隊なのだ」という選挙向けスローガ ンすらも市民の間でリアリティを持って受け止められている(Jost2006)。それゆえ、フリッシュ の従軍時代の経験の中にスイス軍批判の萌芽だけではなく、市民社会批判に対する萌芽もまた現 れていると予想できるのである。
フリッシュの従軍日記を読み解く作業は、一義的にはその転向の軌跡をできる限り内在的に辿 ることを目的としている。しかし、この作業は、これまで十分に注目されてこなかったフリッシュ の従軍日記というミクロコスモスの中に、スイスのナショナル・アイデンティティと軍隊という 問題系、ひいては国民国家と軍隊という問題系が映し出されている様を見出すことでもある。
1.三つの従軍日記
フリッシュが1939年9月1日に入営してから同年10月18日に一旦除隊するまでの日記は、雑誌
『アトランティス――国・民族・旅』Atlantis. Länder, Völker, Reisenの11月号と12月号に『ある兵 士の日記から』Aus dem Tagebuch eines Soldatenというタイトルで連載され、翌1940年3月末に、
同社から『背嚢からの紙片』というタイトルで単行本として発行された。
この日記には、類似の名称を持った先行/後続テクストが存在する。先行テクストは、NZZ に掲載された1935年8月の軍事再訓練の体験記、『ある兵士の日記』Tagebuch eines Soldatenであ る6。後続テクストは、1940年の春から秋にかけて実施された再招集の際の日記である。これは
『続・背嚢からの紙片』Blätter aus dem Brotsack: Neue Folgeというタイトルで同じくNZZに連載 された。
伝記的な叙述以外で、フリッシュの従軍日記に紙幅を割いて検討しているのはダニエル・ド・
ヴァンDaniel de Vinの学位論文(1977)のみであり、それもフリッシュが公刊した日記的テクス
トの実証的な成立史にとどまっている。『背嚢からの紙片』は著作集に収録されており、これに ついては筆者自身も既に詳細に論じたことがある(拙稿2010参照)。残るふたつの従軍日記につ いては、著作集に未収録であることもあり、先行研究で言及されることはほとんどない。本稿で はこれらふたつのテクストにも光を当てることで、フリッシュの従軍体験を時系列に追う。
あらかじめ確認しておけば、この時代のフリッシュの従軍日記に、そもそもあからさまな軍隊 批判の言葉は記されていない。9月1日の総動員令を受けて、スイスでは軍部によるメディアに 対する検閲が開始された(Rüegg1998:70‐71)。フリッシュ自身も、『軍務手帖』Dienstbüchlein
(1974)の中で7、「私たちの国の出版界はヒトラーに口実を与えないよう慎重であらねばならな かった。[……]1939年9月8日から印刷物に対する検閲が始まり、1939年9月20日から映画に 対する検閲も始まった」(!,Büchlein:573)と述べている。スイス政府は、1939年3月、スイス 文化の保護と振興を目的とした民間財団プロ・ヘルヴェティアの設立を促し、この財団を中心に して総動員体制型の文化運動である精神的国土防衛(Geistige Landesverteidigung)を展開した
(Kreis2011:146)。精神的国土防衛という言葉自体は、1934年頃から用例が見出されるが、半国 策の運動として制度化されることで、スイス国内の主要メディアを動員する体制が構築された(北 田2005:79)。この言葉が人口に膾炙するのと同じ時期に、スイス政府はメディアに対する言論 統制を開始している。その主眼は、「ドイツに対して批判的な記事を書く新聞に対する自主規制 の要請」、すなわち、「ドイツにスイス侵攻の口実を与えないこと」であった。これと並んで「ス イスに対して批判的な言説を発表しないこと」も言論統制の柱となっており、直接的なスイス軍 批判は検閲の対象であった(Rüegg1998:79)8。それゆえ、軍隊に対する批判は、それをかいく ぐって表現される痕跡や断片、あるいは消極的な言い回しや言葉の綾の中に現れることになる。
これに対して、市民社会に対する批判は、それが総動員体制の方向性から大きく逸脱しない限り 許容されていた。なぜなら、「全人民を国民共同体の運命的一体性というスローガンのもとに統 合」する試みが総動員体制である以上、市民社会の中にこの統合と相容れない要素があれば、そ れは批判されるべきものだからである(山之内1995:12)。とはいえ「軍隊はネーションの学校」
であり、「市民の学校」でもあるスイスにおいて、市民社会を批判することは、軍隊それ自体を 批判するモメントを潜在させている。このような制約と屈折を内包する形でフリッシュの従軍日 記は公刊されたのである。
2.『ある兵士の日記』Tagebuch eines Soldaten(1935)
この日記の冒頭では、軍事再訓練に対して若者たちが見せる懐疑的な姿勢が描かれている。国 境の向こう側では既に1933年にナチスが政権を奪っていたが、1935年の段階では、ドイツ軍がス イスに侵攻してくる可能性は現実的なものではなかった。そのため、訓練に召集された若者が、
民兵制度のことを「コストのかかる平時のぜいたく」、「勤労者がコストを負担する男性向けスポー ツ」と罵る場面が見られた(TeS:16.9.1935)。フリッシュ自身も積極的に応召したわけではな かった。しかし、「教練が自己目的化してしまう」ことに違和感を覚えながらも、それを「必要 不可欠の手段であり、規律=軍紀(Disziplin)それ自体を意味する」もの、とはつまり個々の市 民が国土防衛の担い手として機能するために必要なものだと解するようになる。
だが、10倍もつらい戦闘演習の中で、納得できる何かを身に付けることができるなら、だれ も文句を口にしたりしない――だから、ぼくは自分自身の考え方は間違っていないと思うの だ。乗りかかった船だ、とことんやるっきゃない!(Wenn schon, denn schon!, TeS:16.9.1935)
「乗りかかった船だ、とことんやるっきゃない」。この言葉には、国境を防衛する兵士へと自ら を成型していくことの意義を自分自身に言い聞かせようとする若き砲兵の思いが集約されている。
しかし他方で、スイスを代表するクオリティ・ペーパーNZZに掲載されることで、この言葉は、
「軍隊はネーションの学校である」、「市民の学校である」というテーゼを正当化する役割を果た していたことも否定できない。
後続する一節でフリッシュは、軍事再訓練の意義をメタレベルにおいて理解しようとする。
こうした精神的状況はおそらく、大きな危機というものはみなそうだが、破壊的であり、ま た同時に恵み豊かなものでもある。この状況によって不安の中に追いやられ、放埒に、無関 心に、そして絶望的なまでに無力になってしまう人たちもいる。[……]――が、もしかす るとこうした脅威によってまさしく豊饒な思慮へと、自分たちの力のすべてを結集すること へと、人間としての謙譲(Bescheidung)へと向かう人たちもいるかもしれない。私たちが 永遠の尺度の前に立たされ、私たちの自我を過度に重要視することができなくなり、これに よって最後の任務へと、すなわち成熟へと向かうことによって。(TeS:16.9.1935)
生命の危険をもたらす極限状況の中に、現状を乗り越えていく変容の契機を見出そうとする思考 スタイルは、この日記においてのみ見られるのではなく、1930年代のフリッシュの仕事に頻繁に 現れるものである。たとえば、フリッシュの2番目の小説『静寂からの返答――山岳からの物語』
Antwort aus der Stille. Eine Erzählung aus den Bergen(1937)では、前人未踏の「北尾根」の単独登 頂を通して「ほんとうの、偉大な、生きるに価する生」(Antwort:87)をつかみ取ろうとする学 校教師にしてスイスの市民軍の少尉バルツ・ロイトホルトの限界経験が物語の中心に置かれてい
る。
このような図式は、決してフリッシュ固有のものではない。たとえば、トーマス・マンThomas Mannが1924年に発表した『魔の山』Der Zauberbergの中の「雪の章」で、主人公のハンス・カ ストルプが、雪山への単独スキーの途次、遭難の危険に晒されながら幻視した、時代(1920年代)
の思想的混沌を克服する新しい人間主義の予兆がその典型である。
戦争が生み出す限界経験とそこに見出される肯定性や変容の契機という文脈においては、『魔 の山』と同年に出版されたハンス・カロッサHans Carossaの従軍日記『ルーマニア日記』Rumä- nisches Tagebuch(1924)が『ある兵士の日記』のモデルになっている(Waleczek2001:47)。この 日記の扉に掲げられている「蛇の口から光を奪え!」(Raub das Licht aus dem Rachen der Schlange!,
Carossa[1924]1962:392)というモットーは、暗黒と恐怖が支配する第1次世界大戦のただ中
に、肯定的な希望の契機を見出そうとする意志の表明である9。このように、第2次世界大戦の 前夜に書かれたフリッシュの従軍日記は、第1次世界大戦の経験に基づく先行テクストの認識の 枠組でもって新たな戦争の危機を表象しようとしたテクストとして捉えることができる。
この日記には、軍事訓練だけではなく、アルプスの自然もまた詳細に描かれている。たとえば 9月22日の日記の冒頭でフリッシュは「秋の優美な光景」をひとしきり賛嘆した後、この一節を
「この国はなんと美しいことか!」(wie schön ist dieses Land!, TeS:22.9.1935)という言葉で締め くくる。アルプスの自然を賞賛するこの一節それ自体が、直接的に愛国的な思考と結び着くわけ ではない。しかし、『ある兵士の日記』という名称を持つテクストの中で、アルプスがスイスの シンボルとして表象され、訓練中の兵士がその美を賞賛することによって、精神的国土防衛と軍 事的国土防衛が表裏一体のものであることを強調する文脈が生じる。
注意すべきなのは、ここでの「国」は、「国民国家」(Nationalstaat)ではなく、「土地」(Land)
として捉えられていることである。
彼ら[農民出身の兵士]は、土地(Land)とは何であるかを知っており、もしかするとこ の国土(dieses Land)のための戦いに対するあの根源的な姿勢をなお保持しているのかもし れない。彼らは戦争を遂行する疑う余地のない理由を持っているのだ。そして、まさしくそ んなふうにして自然なやりかたで自分の命を自分の土地/国のために賭す田舎人(Land- mensch)は、榴弾に破壊された沃土(Erde)を目にしたとき絶望せずにはいられないのかも しれない。(TeS:16.9.1935)
ここでは農民出身の兵士の「根源的な姿勢」を参照項にして、同時代の戦争が批判的に捉えら れている。しかし他方で、この「根源的な姿勢」という言葉は、この戦争を、ヴィルヘルム・テ ル伝説を生み出した国民的な戦いと結びつけてもいる。というのも「Landを防衛する」という 行為は、ハプスブルク帝国の侵略から「土地」の独立と自治を守り、「スイス誓約者同盟」(Schwei- zerische Eidgenossenschaft)を結成した農民たちの物語に起源を持つからである。スイスの正式名 称は、まさにこのスイス建国をめぐる語りの核心を集約的に表している10。すなわち、精神的=
軍事的国土防衛(Landesverteidigung)は、スイスにおける始原の神話の反復としての意味をまと
うことで、1930年代のヨーロッパの政治状況が生み出す地政学的平面のみならず、1291年以降の
「誓約者同盟」という歴史の重層性の上に自らを位置づけてもいるのである。
だが、LandやErdeという言葉は、類義語であるBoden(大地)を連想させる。それゆえ、こ れらの言葉への着目によって、ナチスの「血と大地のイデオロギー」(Blut-und-Boden-Ideologie)
とスイスの国土防衛者フリッシュの思想の類縁性という問題が浮上するのである。実際、ウルス・
ビルヒャーUrs Bircherは、フリッシュが著作集への収録に消極的だった30年代の書評、ルポル タージュ、短編小説などは、「当時[ドイツ語圏の文学の]トレンドとなっていた血と大地の文 学(Blut- und Bodenliteratur)と内容的にも形式的にもほとんど境を接していた」と指摘してい る(Bircher1997:39)。あるいは、ソーニャ・リュエッグSonja Rüeggは、同時期のチューリヒ 大学ドイツ学科(Germanistik)教授エーミール・エアマッティンガーEmil Ermatingerがそのス イス文学研究の中で、「血と沃土と政治的生の普遍性の深い結び付き」という言葉を使ったこと を指摘し、「血と大地のイデオロギーへの近さを見逃すことはできない」と述べている(Rüegg 1998:95)。エアマッティンガーは、ドイツ学科の同僚にして作家のローベルト・フェジィRobert
Faesiや、自身の後継者のエーミール・シュタイガーEmil Staigerと並んで、精神的国土防衛の
中でもナショナリズム的的傾向の強い立場の知識人であった。そして、チューリヒ大学を中退し たフリッシュのためにNZZをはじめとするスイスのメディアに推薦状を書いたのは彼らであっ たことを考えれば(Bircher1997:35)、ビルヒャーのようにフリッシュの従軍日記におけるLand の思想と「血と大地のイデオロギー」との間に類縁性を見出すことには一定の根拠がある。しか し、フリッシュの日記の中には、「血」すなわち、血統主義のモメントは一切見られないという 点は確認しておく必要がある。これはフリッシュだけではなく、精神的国土防衛およびそこに合 流する思想運動に共通して見られる特徴である。この一点において、多様な民族的・言語的・文 化的背景を持った諸州を国境の内に統合しようとする「意志のネーション」(Willensnation)ス イスは(Widmer2011)ナチズムとは相容れない本質を持っていた11。その意味で、精神的国土防 衛とナチスの文化運動との違いを、「『血』ではなく、『大地』が、すなわち自然とアルプスが『ス イス人』を形成していた」(Mooser1997:694)というヨーゼフ・モーザーJosef Mooserの指摘が、
『ある兵士の日記』の精神史的位置を測るための最も妥当な基点であると言える。
3.『背嚢からの紙片』Blätter aus dem Brotsack(1939/1940)
『背嚢からの紙片』は、第2次世界大戦の勃発直後に砲兵として国境警備に動員された時期、
すなわち枢軸国の軍隊がいつ国境を越えて侵入してもおかしくない状況の中で執筆された。しか し、国境の山岳地帯に擬装を施しつつ展開するスイス軍の前に侵略者が姿を見せることのないま まに時間が過ぎていった。そもそも、国境の彼岸では戦争が現実に生起しているにもかかわらず、
此岸では緊張の中で待ち続けること以外何も生じないという状況があったからこそ、フリッシュ に毎日一時間、従軍日記を書く時間が与えられたのである(!,Blätter:127)。
緊張の中でただ待ち続けるという状況は、『背嚢からの紙片』のテクストとしての性格を強く 規定している。ただし、この日記については既に論じたことがあるため(拙稿2010参照)、ここ
ではふたつの特徴を指摘するにとどめたい。
ひとつは、客観的には敵の姿を目にすることも、砲火を交えることもないままに、戦闘態勢を 取り続ける中で、戦争とそれがもたらすものについての考察が次第に抽象性を増していくことで ある。
過ぎし数年の間、たえず生の変容を希求しなかった者がいただろうか。ひょっとするとそれ は常に別の側からやってくるのかもしれない。なぜなら生は、私たちを先へと進めるために、
常に驚愕を必要としているからである。[……]私たちが平和を手にしていたあいだ、私た ちにとってそれは何であったのか? 夜の闇がなければ、どうして太陽に跪くことがあろう。
死の戦慄なくして、どうしていつの日か存在とは何かを理解することがあろう。生はみなす べて、危機に晒されるところから生まれ出るのだ。(!,Blätter:115)
フリッシュは『ある兵士の日記』の中で、限界経験を経ることを通して初めて見出される生のリ アリティという論理を用いて、従軍生活に身を置くことの意義を自らに納得させていたが、『背 嚢からの紙片』でもまた同型の論理によって戦いに参加することの意義を説明している。しかし、
ここではかつての日記にはあった、兵士への自己成型を求められた若者の苦悩は背景に退き、問 いの地平は「夜の闇」と「太陽」との対立という神話的とも言いうる次元へと移されている。
『背嚢からの紙片』のテクストの大部分は、動員生活における具体的な出来事についての記述 という点では一貫している。しかし、ところどころに挿入される戦争のイメージは、テクストの 後半に向かうに連れて、抽象性と美学的性格を強めていく。
いつの日か壁が崩れ落ちる、慣れ親しんだ壁、確固不動たる壁が、音もなく私たちの前から 崩れ落ちる。そして壁の外では太陽が輝き、真空の宇宙に浮かぶ月のように、世界の夜(Welt- nacht)に向かって目に見えぬ光を投げかけている。(!,Blätter:165)
ここでの戦争は第2次世界大戦の現実からはるかに遠ざかり、内的な世界の表象としての性格を いっそう強くしている。時代と個人の閉塞状況の象徴、日常の象徴、そして間主観的現実の象徴 としての壁、その崩壊、壁の外部に広がる別様の世界。これらの黙示録的表象は、国境の山岳地 帯で戦闘態勢を取り続けるスイス軍砲兵フリッシュの想像としての戦争である。しかし、それを 表象するための語彙と論理はここでも決してフリッシュ固有のものではない。時代閉塞の状況を 世界の没落として捉える思考スタイルは、第1次世界大戦前夜の表現主義の芸術家たちに共通し て見られるものであり12、彼らの多くは、戦争こそがこうした閉塞と没落を克服する唯一の契機 であると考えていた。先に触れた、マンやカロッサもまたこの黙示録的世界表象の系譜の中にあ る。このように、フリッシュは第2次世界大戦のただ中にあってなお、第1次世界大戦とそれに 至る時代の中で作られた認識と表象のパラダイムの中でこの戦争を捉えようとしていたのである。
この日記に見られるもうひとつの特徴は、ネーションという集合体への同一化がもたらす高揚 感のあからさまな強調である。
私たちは期待されていた――これは素晴らしい感情である。自分がどこに属しているのか、
わかっているのだから。(!,Blätter:114)
「私たち」の帰属意識の向かう先は、祖国スイスに他ならない。冒頭で引用したナショナリズム 的な感情の吐露はこの一節の直後に置かれている。「私たち」の愛の対象と苦しみの原因が同一 であり、それこそが私たちの本来的な帰属先であり、しかも「私たち」は絶対的な受動性におい てその中へと「産み落とされる」。別様の可能性を認めず、外部への志向をあらかじめ排除する という点において、これはGrenze(境界=国境)の内側への絶対的帰属意識の表明である。こ の意識が、「生はみなすべて、危機に晒されるところから生まれ出るのだ」という認識、さらに は自らは兵士としてそのGrenzeを防衛しているという事実と結びつくとき、総力戦の集合的イ デオロギーがもたらす高揚感は頂点に達する。
このようにフリッシュは、「公刊を前提にした兵士の日記」という言説の形式において、軍事 的国土防衛と精神的国土防衛を有機的に結びつけている。スイス軍の持つ本来的な機能のひとつ がまさしくそこにあることを考えるなら、この時期のフリッシュは「ネーションの学校」の優等 生であった、あるいは少なくともそうあろうと努力していたと言うことができる。
4.『続・背嚢からの紙片』Blätter aus dem Brotsack. Neue Folge(1940/41)
第2次世界大戦期間中、フリッシュは合計650日にわたって動員された。その結果、従軍生活 と市民生活を数週間ごとに体験することになった。『続・背嚢からの紙片』が掲載されたのは、
1940年の12月末から翌年の1月1日にかけてであるが、対象となっている時期は1940年の5月か ら11月にかけてである。1939年9月3日にフランスとイギリスがドイツに宣戦布告し、同月末に ドイツとソ連がポーランドを分割占領するという事態になったにもかかわらず、ポーランド救援 のための戦いは行われず、西部戦線では7ヶ月間、「まやかしの戦争」(Phoney War)、「座りこみ 戦争」(Sitzkrieg)、「奇妙な戦争」(Drôle de guerre)と呼ばれる状態が続き、戦闘らしい戦闘はほ とんど生じていなかった。しかし、ドイツ軍は1940年5月10日に独仏国境を越えて侵攻を開始し、
西部戦線の火ぶたが切られた。動員休暇中だったフリッシュも再招集され、今回はドイツとの国 境地帯に配備された。つまり『続・背嚢からの紙片』は、ドイツ軍が国境を越えてスイスに侵入 し、ジュラ山脈側からフランスに侵攻する可能性、さらには地理的分断という枢軸国側の問題を 解決するためにスイス自体を占領する可能性が高まる中で執筆されたのである。
しかし、「まやかしの戦争」の期間、戦争の当事国であるフランスですら、西に向けては実質 的な攻撃を開始しようとしないドイツ軍を過小評価していたことを考えれば、「まやかしの戦争」
の直接の当事国ではないスイスの市民たちの間では、7ヶ月が過ぎるうちに総動員開始時の緊張 感が薄れていったことは想像に難くない。「まやかしの戦争」がヨーロッパ全土を巻き込んだ総 力戦へと転化した後も、スイスに対する軍事行動は一度として生じなかったのであるから、交戦 国に囲繞された中立国スイスにとっては「まやかしの平"和"」が終戦まで続いたと捉えることもで
きる。かくして『続・背嚢からの紙片』は、激化した西部戦線に対する備えに勤しむ兵士たちと 銃後の市民たちとの間に生まれたリアリティ感覚のずれを嘆くところから始まっている。
かつて私たちは大流行だった。乙女たちも夫人たちも、年配の男たちもコートの襟に私た ちを、スイス軍のバッジを付けていた。愉快だった。だが、それは1年前のことであり、も はや過ぎ去ってしまった――
私たちはいまなお軍務に就いている。
だがいまや兵士たちの消息を聞きたいと思う者などいるだろうか?(Blätter NF:73)
『背嚢からの紙片』の中で、高揚した愛国心を表明していたフリッシュにとって、従軍義務のな い女性や老人たちの軍に対する無関心は、「自分がどこに属しているのか」という問いに対する 答の自明性の揺らぎをもたらすものとして経験されている。「軍隊はネーションの学校」であり、
「スイスとは軍隊なのだ」から、この揺らぎはスイスという国民国家における一個人のアイデン ティティの動揺であるだけではなく、「意志のネーション」スイスの集合的アイデンティティの 動揺をも示唆している。
「まやかしの平和」は、銃後の市民だけではなく、スイス軍に共有されていた国土防衛への意 志すらも変化させていった。国境を守る戦いの中に神話的とも言える死と生の意識の変容を幻視 していたフリッシュに、聖性を失い、ルーティン化していく軍務は深い失望を与えた。
はっきりとはしないが、しかし確かにあるものとして私たちはそのことを強く感じている。
私たちの軍務は変質してしまった、気をつけないとわからないほどではあるが、しかし根本 的に。(Blätter NF:73)
ここでフリッシュが軍務の何かが根本的に変わってしまったと語るとき、その形式それ自体が、
従軍日記というテクストが成立するための前提すらもあらわにする。本稿では詳論しないが、フ リッシュの従軍日記の文体上の特質は、一人称単数の「私」(Ich)よりも、一人称複数の「私た ち」(wir)が多用される点にある13。すなわち、「私」が「私たち」の中に包摂されていくプロセ スを、マスメディア上の物語り行為を通して可視化することにこそ精神的=軍事的国土防衛者の 手になる従軍日記の本来的な役割があった。とすれば、「私たち」の一体性にゆらぎが生じるこ とで初めてこの一節における違和感の表明は成立する。換言すれば、「私たちの軍務は変質して しまった」と語る際の主語=主体は集合的身体としてのスイス軍から物語り構造のレベルで距離 を取っていると解釈できるのである。
語りの主語=主体が、市民のみならず軍隊に対しても違和感を覚えるとき、対象を批判するた めの距離が生まれる。これまで見てきた市民と軍隊との関係からして、この批判はスイス市民社 会全体に対する批判へとつながる可能性を内包している。実際、『続・背嚢からの紙片』におい てフリッシュは、スイス人のメンタリティに対する失望を繰り返し表明している。
誓約者同盟的な思考様式というもの(eine eidgenössische Art des Denkens)がある。つまり、
肯定を回避するための根本的策略というものが。(Blätter NF:79)
これは、掩蔽壕の擬装作業の出来について部隊内で「私たちの同士的な裁判」(unser kamerad-
schaftliches Gericht)、すなわち意見交換するという軍務を描いた一節である。憂慮や懸念の表明
という部分否定の連鎖によって肯定を無限に先延ばししていく言説のスタイルを評する際に、フ リッシュは「誓約者同盟的」という形容詞を用いている。ここではこの形容詞は、スイス人の保 守性、現状維持を何より優先するネガティブな姿勢を形容するものに転化している。原初三州の 戦いは「ハプスブルク的ユートピアに対しては反動的であり、偏屈者たちの謀反」(",Tagebuch
!:25)、すなわち地域性を超えたネットワークを志向するハプスブルク家に対する地域の利害 のみに固執する保守的で頑迷な農民たちの抵抗運動であったという(建国伝説の側から見て)対 抗的な歴史叙述が書き手の念頭に置かれていることを、この意味変容は示している14。この文脈 において、「誓約者同盟的」はスイスのナショナリズムに対する距離感があってはじめて選択さ れる語彙なのである。
『続・背嚢からの紙片』の後半では、軍隊および駐留する村での体験からスイス人のメンタリ ティの問題点を導き出すという論述が随所に見られる。
物事が動いているというだけでもう、心底悪く取ってしまうこと。それは憂慮すべきことだ。
煩わしいと言って腹を立てているが、それは世界が、一般的なスイス人が見たいと思ってい るような持続(Bestand)ではなく、運動であるということに対する驚愕なのである。(Blätter NF:92)
[……]私たちに関してよく知られた醒めた態度、それは周知のように昂揚、熱狂、冒険心、
創造性がことごとく欠如していることを全面的に正当化するものである。(Blätter NF:95)
ここでの「運動」、「昂揚、熱狂、冒険心、創造性」といった生成への志向は、『ある兵士の日記』
において端緒を現し、『背嚢からの紙片』において総力戦の美学へと展開していったフリッシュ の思考の構成要素である。しかし、二度目の召集時にフリッシュの目に映ったのは、「まやかし の平和」の中で安閑とし、「慣れ親しんだ壁、確固不動たる壁」の崩壊どころか、それを維持す るために、生の本質的な変容を可能な限り遅延させようとするスイス人の姿だった。
以上のように、1939年9月の最初の動員から一年を経て、フリッシュは、「ネーションの学校」
の優等生からはほど遠い姿勢で、スイス市民社会とそのフルメンバー養成装置としてのスイス軍 に共有された保守的メンタリティを批判する言葉を日記に書きつけたのである。
おわりに
フリッシュの従軍日記における語り手と対象との間の関係性の変化は、「1935年の軍事再訓練
の際にスイス軍の兵士としてのアイデンティティを確立したフリッシュが、1939年の秋から1940 年の春の期間に、精神的=軍事的国土防衛者であることの精神的高揚とそれが幻想であったこと に対する失望を味わうことによって、スイス・ナショナリズムに対する批判者へと変容した」と いうストーリーを一義的に示唆するものではない。この失望をきっかけとして、安固たるスイス 市民社会を否定し、第1次世界大戦が生み出した認識と表象の枠組を超克しようとしてナチズム と同型の強制的同質化(Gleichschaltung)の思想へと至ることも可能であり、他方でスイス軍イ デオロギーの脱神話化を軸にしてトータルな市民社会批判へと至ることもありえる。戦後、ノン コンフォルミズムの論客としてフリッシュが展開した言説を基準に考えれば、後者の解釈が妥当 であるように見える。しかし、『続・背嚢からの紙片』はNZZ紙上で連載されたという点を見逃 してはならない。スイスの保守的市民を主たる読者とし、精神国土防衛の路線に沿って編集され ていたNZZが、検閲の時代にスイスの市民社会と軍隊のメンタリティを批判する従軍日記を掲 載したという事実が既に、総力戦の集合的イデオロギーの再喚起という役割がこの日記に期待さ れていたことを傍証しているのである15。
ビルヒャーによれば、フリッシュは自らのスイス関連の散文を集成した『故郷としてのスイ ス?』Schweiz als Heimat?(1990)を彼に贈った際、献辞に「ある怒りのゆっくりとした成長に ついて」(Vom langsamen Wachsen eines Zorns)と書いたという(Bircher1997:14)。『続・背嚢か らの紙片』の中に書きつけられた同胞に対する失望が、『日記1946‐1949』においてスイス市民社 会に対するトータルな批判へと展開されるまでには、5年あまりの年月を要している。確かに1944 年の「チューリヒ劇場経験」がフリッシュに決定的な転換をもたらしたことは否定できない。し かし、1939年秋から1940年秋にかけての従軍体験を通してフリッシュの中に生まれたスイスに対 する違和感において既に転向の可能性が開かれていた。1944年の『サンタ・クルツ』や『ビンあ るいはペキンへの旅』は一見すると非時間=時代的作品であり、同年の「チューリヒ劇場経験」
の影響が明確に反映されてはおらず、この影響はむしろテクストの中の目立たない異物のような ものとして書き込まれているに過ぎない16。このように、フリッシュの転向は決して1944年に突 然生じたものでなく、「ゆっくりとした」変容のプロセスとしての前史が存在する。「ネーション の学校」としての軍隊を体験する中で、スイス市民社会とその形成装置である軍隊に対する違和 感や閉塞感がアモルフなままにふくれあがっていったフリッシュに、第1次世界大戦の際に作ら れた認識と表象のパラダイムでもなく、スイス固有の精神的国土防衛のパラダイムでもない、批 判的思考のパラダイムを与えてくれた場所こそがチューリヒ劇場であったのである。
※本論文は、平成21‐23年度科学研究費・基盤研究(C)「20世紀スイスの国民統合と知識人の共 同体――未公刊資料の文書館調査をてがかりにして」(課題番号:21520334、研究代表者:葉柳 和則)、および平成25‐26年度科学研究費・基盤研究(B)「20世紀スイスの国民統合と文化の政 治――チューリヒ劇場をめぐる諸言説を手がかりに」(課題番号:25284063、研究代表者:葉柳 和則)の助成を受けて執筆された。
1 キーワード:スイス、精神的国土防衛、従軍日記、ナショナル・アイデンティティ
2 ただし、文筆生活の断念とETH入学との間に、フリッシュ自身が自伝的テクストで記しているほどに明瞭な 切断線が引かれているわけではない(拙稿2009参照)。
31989年11月、90万人ものスイス住民が40年以上に亘って、公安警察によって非合法に監視され、個人情報が記 録されていたことが明るみ出た。フリッシュは最優先の監視対象であった。
4 この戯曲は今日にまで至るドイツ語圏における「(ナチズム時代の)過去の克服」(Vergangenheits-bewältigung)
に向けた思想的、芸術的、政治的試みの嚆矢であるとされている(Bircher1997:138)。
5 散文『モントーク岬』Montauk(1975)も自伝的語りの一種であるが、「現実と虚構」、「経験と物語」といっ た問題系についての自己言及が複雑に入り組んでおり、経験のリアリズム的媒介としての自伝として無条件に 扱うことは困難である。
6 掲載は同年9月。ギムナジウムを卒業した1930年の冬学期にフリッシュはチューリヒ大学に入学したが、同じ 時期に徴兵検査を受け、翌年の2月12日から約2ヶ月半にわたって、新兵学校で軍事訓練を受けた。1932年か ら1938年の期間、フリッシュは毎年16日間の軍事再訓練を受けている(!,664‐665)。
7 これは、批判的知識人として若者たちの側に立った68年闘争の総括を『背嚢からの紙片』の再読というスタイ ルで試みたテクストである。
8 戦前のフリッシュと精神的国土防衛の関係については、拙著第1部第4章において論じた。
9『背嚢からの紙片』が、カロッサの『ルーマニア日記』の影響を受けているという指摘は、刊行当時の書評に おいて既になされている(Anonym1941:71)。
10スイスの建国は、ウーリ、シュヴィーツ(Schwyz=スイス)、ウンターヴァルデンの三州が1291年8月1日に 軍事同盟を結んだところに端を発している。Eid=誓約、Genosse=同士・仲間、-schaft=組織・領域を意味す る。1291年の誓約自体には同盟誓約書(Bundesbrief)という史料が現存するが、その前後に生じた一連の出来 事、特にヴィルヘルム(ウイリアム)・テルがハプスブルク家の代官ゲスラーを弓で射殺したという事実は確 認されていない(宮下1979:159‐167)。しかし、このテル伝説は、国民国家形成期にフリードリヒ・フォン・
シラーFriedrich von Schillerの最後の戯曲『ヴィルヘルム・テル』Wilhelm Tell(1804)の成功と結びつく形で、
広義のスイス建国神話として受容されるようになった。
111930年代から終戦までのスイスでは、精神的国土防衛と表裏一体の形で思想・言論統制が行われた。その最大 の特徴は、左右双方の極、すなわち共産主義とナチズムを排除すると同時に、それ以外の諸党派・運動の間で、
「多様性の中の統一」を図るところにあった。1930年代初頭には、スイスにおいてもファシズムを唱道するフ ロント諸派の活動が活発化したが、地域レベルの運動にどどまった。1937年には、最大の左派勢力である社会 民主党が市民派勢力と協力する意思を表明し、労働組合と資本家とのあいだにも平和協定が結ばれた。同じ年 には共産党が非合法化され、さらに翌1938年にはフロントが非合法化された。
12たとえばヤーコプ・ファン・ホッディスJakob van Hoddisの詩『世界の終末』Weltend(1911)は表現主義にお ける黙示録傾向の嚆矢とされている。同年に発表されたゲオルク・ハイムGeorg Heymの詩『モルグ』Der
Morgueには、「ぼくたちは没落してしまった/ほら、ぼくたちは死んでいる/ぼくたちの白い両目の中にはす
でに夜が住まっている/ぼくたちが朝焼けを目にすることは二度とない」という一節がある(Heym[1911]
1960:474)。
13戦後のフリッシュは「私」を「私たち」に還元することに対して禁欲的な姿勢を貫き、一人称の語りが持つ可 能性の極北へとたどり着くための方途を探究する(拙著第1部第4章参照)。
14フリッシュは後に『学校のためのヴィルヘルム・テル』Wilhelm Tell für die Schule(1971)等の中で、脱構築的 なスイス史叙述を試みる(Frühwald & Schmitz1977:83‐112;中村2008:225‐242)。本文内の引用は、1947年に フリッシュがベルトルト・ブレヒトBertolt Brechtから受けた助言の回想であるが、誓約者同盟の成立史の伝説 化については既に19世紀に史料にもとづく批判があった(#,Tagebuch":440)。
15『背嚢からの紙片』に関する書評からも、この時期のフリッシュが身を置いていた言説の共同体の性格を確認 できる。NZZと近い立場にある保守的論壇誌であり、エアマッティンガーやシュタイガーも常連執筆者であっ た『スイス月報』Schweizer Monatshefteは、「この書ほどに、人間存在の根底へと到達している書はわずかしか ない」と評価している(Anonym1940a)。保守的傾向の強かったベルン大学の学生新聞も「我々の時代におけ る最も成熟した言語構築の力を有した仕事」と評価し、「[このテクストにおいて]出来事は、永遠なるものに 到達した言語芸術へと凝縮されていく」という言葉で書評を締めくくっている(Anonym1941)。これらの書 評に顕著な、抽象化と美学化の傾向は、既に見たように『背嚢からの紙片』それ自体にも明確に現れている。
この事例に見られるように、当時のスイス市民社会においては、マスメディアと芸術とアカデミズムは共通の 価値基準を有する閉じられた言説の共同体を形成していた。この共同体は、「想像の共同体」としてのスイス の「国民の物語」を生産し、流通させ、価値付けするサブシステムとして機能していた。若手のジャーナリス ト、芸術家、そして人文社会系研究者にとっては、この共同体の規範を再認し、強化する方向で仕事をするこ とが、スイス国内で自らのテクストを公刊し、しかるべき地位を得るための近道であった。そして1932年から 1944年までのフリッシュもまた、精神的国土防衛の立場に近い保守的知識人たちによって形成された言説の共 同体の枠内で文筆活動を行っていたのである(拙著第1部第4章参照)。他方、保守系メディアの高評価とは