人間的生の構造と疎外 : 空虚と充溢
その他のタイトル The Structure of Human Life and Alienation : Emptiness and Fullness
著者 小原 仁
雑誌名 関西大学社会学部紀要
巻 14
号 1
ページ 99‑126
発行年 1982‑11‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00022791
—空虚と充溢ー一
小 原 並以上のしあわせな夢は,みんな実現された 小ぢんまりとした古館,妻,娘,息子をもち,
すもも,キャベツの植わった庭があり,
詩人やオ人からちやほやされるようになった。
「ふん,それから」とプラトンの亡霊は歌った。
「ふん,それから」
ー イ ェ ー ツ
I .
は じ め に仁
それぞれの個人がそれぞれの主体選択によって,現代という歴史的・社会的・文化的な状況の 中で,それぞれに生きている。そのそれぞれの生の原質は,それぞれの個人の,それぞれの状況 の中での,それぞれの主体選択に依存している。
「現代は疎外の時代である」と言われてすでに久しい。だがこうした銀点から言えば,それも またひとつの人間個々人の主体選択以外のなにものでもない。まさしくサルトルも言うように,
「各人はみずからを選ぶことによって,全人類を選択する」1)0
わたしたちはくいま• ここ>でいかなる主体選択をしているのか,このことの自覚化の営みと して,本稿では主として,人間的生の構造と疎外をテーマとして,<生きがい>論を手引に,人 間的生の空虚と充溢についての基本的な枠組みを提起しておきたい。
全体の構成について若干述ぺておこう。第1I章では,<生きがい>論の構図に照明をあて,そ の中で,生の空虚と充溢・疎外と解放の位置づけを類型論的に明らかにしておきたい。そしてそ れを通じて,<生きがい>の二つの位相ー<実存の位相>と<存在の位相>—を提起してお きたい。第直章では,前章を受けて<生きがい>の実存的位相の構造を対象化し,且つ実存的位 相における生の空虚と充実・疎外と解放について論じておきたい。第IV章では,前章で考察し た実存的位相に加えて存在の位相を取り上げ,それらの統一的全体性としての人間的生において
<生きがい>を捉え,その疎外としての<空虚>とその解放としての<充溢>について論じてお きたい。
1) J.‑P. Sartre, L'Existentialisme est un humanisme, NagP,i, 1946. 伊吹武彦訳「実存主義とは何 かー一実存主義はヒューマニズムである一』人文書院, 1976,20頁。
詳細な展開は次論に譲るとして,全体を通じてとりあえずここで提起しておきたい論理は,人 間的生の空虚と充溢あるいは疎外と解放を語る場合, それは「存在・即・実存,実存・即・存 在」としての人間的生の全体性において語られなければならないということである。したがって
. . . . . .
現代における人間疎外を問題とする場合,実存の位相における疎外のみならず同時に実存の位相
. . .
への疎外,つまり存在の位相からの疎外を問題としなければならないということである。現代人 はその意味で二重の疎外を生きており,とりわけ今日わたしの言うところの存在の位相からの疎 外が深化・拡大しているのではないかと思われる。
I I .
< 生 き が い > 論 の 構 図<生きがい>論にはいくつかの構図があると思われるが, とりあえずわたしの仮設している
「実存・即・存在,存在•即・実存」としての人間存在論からすれば,基本的にはおよそ五つに 分類することができるであろう。本章ではとりあえず三つの構図を,梅綽忠夫,島崎敏樹,神谷 美恵子各氏の論述を資料にして明らかにし,それに基づいてわたしなりの五つの類型を提起して おきたい。したがって本章では,上記各氏の<生きがい>論の批判的検討を目指しているわけで はなく,とりあえず「三つの構図」の内容を明らかにするためのひとつの事例としてあるいは資 料として提示するところに主眼があるので,各氏の含蓄のある展開は割愛せざるを得ない。
まず,梅柿氏の<生きがい>論の構図を明確化することから始めよう。ここで使用する参考文 献は,過去に発表された氏の<生きがい>に関する論稿を一冊にまとめた『わたしの生きがい論 一人生に目的があるか』(講談社, 1981)である。梅綽氏の視座は,まず本書「まえがき」の 次の一句にうかがえる2)0
. .
—わたしの人生論は,人生いかに生きるぺきかを論じたものではない,といった。しかし,
わたしに実践的関心がいささかもなかったといえば,それはうそになる。この人生をどう生きる
. .
か, わたしは, わたしなりに,現代に生きるすぺの思想的探索をつづけていたのである。その 結論といえるかどうかわからないが,この本のなかでくりかえしあらわれてくる基調音というの は,目的大系からの離脱ということであり,無目的の自己放出ということである (2頁)。
ー読してわかるように,梅樟氏の人生論の基調音は, 「目的大系からの離脱」,「無目的の自己 放出」にある。そしてそれは,梅綽氏の<生きがい>論が,以下に明らかなように,<目的論>
的な視点に限定されて捉えられていることに対応している。
一そもそも, 「生きがい」とか「何々がい」というのはどういうことなんでしょうか。……
<中略>……たとえば「努力のしがいがあった」といいますね。たいへん努力して,その結果が ちゃんと実をむすんだ,ということです。……<中略>……それから, 「あの人は,たのみがい のない人だ」といいます。せっかくたのんだのに,なんにもやってくれなかった。成果がなかっ
2)梅樟氏の上記文献からの引用部分には文末に頁数を示す。
た。これはたのみがいのない人だということになります。この用例からかんがえますと, 「何々 がい」があるということ,あるいは「何々しがい」ということは,要するに何か,緊張,努力が あって,その結果として成果がある,そういうことでしょう (65‑66頁)。
―これだけの前提をおいた上で,さて,生きがいがあるということはどういうことなのかを かんがえてみます。そうすると,生きがいがあるというのは生きたかいがあった,生きたという ことの結果として,何かの成果がえられた。あるいはむくわれたということです (67頁)。
―生きて奮戦した,ある努力をした。そのことによって報酬があった。人間の生きがいとい うものは基本的にそういう構造のものだということです (72頁)。
―生きがいをかんがえるということは,ある目的ないし目標をたてて,それにむかって努力 する,ここまできたら目的を達した,そのときにおかえしがある,そういうようなかんがえ方に なっている。 いわば, 人生における効果主義のかんがえ方だとおもいます。 生きがいというの は,達成主義のかんがえ方じゃないかともおもいます。だから生きがい論というものは,人生の 目的論化である,ともいえますね (79‑80頁)。
簡単に要約しておこう。 「かい」というのは,主体的な努力があってその結果として何かの成 果がえられた,ということである。 したがって,「生きがい」というのは,主体的・合目的的に 生きた結果として何かの成果がえられたということである。それゆえ,生きがいというのは,効 果主義・達成主義の考え方であり,生きがいを考えるということは,人生の目的論化である,梅 綽氏は,ほぽこのように述べていると言っていいであろう。
梅棒氏自身, 「たいへんドライな,索漠たる話になってしまいまして,もうしわけないんです が,生きがいというのは,基本的にはそういうものなんです。」 (72‑73頁) と述べているよう に,梅悼氏の概念規定には,<生きがい>という言葉が日常的にもっているある<ひびき>のよ うなものが含まれていないように思われる。聴衆は次のような問いを発っしている。
―生きがいというのは,たとえ何かがむくわれなくとも,心によろこびを感じることじゃな いんでしょうか。むくわれなくても,心によろこびを感じることだってあるんじゃないでしょう か (75頁)。
—さっき,人生とは生きるということだとおっしゃったんですが,そしてまた,生きがいと は目的をもつことだとおっしゃいましたが,わたしたちがよくきかれるのは, 「いま,あなたは 生きていると感じていますか」ということなんです。みんな生きているけれども,生きていると 感じないというか,自主的にというか,主体的にかんがえることをしないで,ただ時間をつぶし ている。生きているということを感じないで生きているところに,何か問題があるような気がす るんです。目的というんじゃなくて,生きているということを感じられないということに,何か わりきれないものがあるんじゃないか。ただ呼吸をして,たべて,それだけが生きているという ことか,ということです (80頁)。
これらにみられる聴衆の反応は,梅柿氏の<目的論>的な<生きがい>の捉え方から,こぼれ
落ちてしまうものを表現しようとしているように思われる。梅綽氏の<生きがい>論の構図から は,わたしたちの<生きがい>という言葉にたいする日常的な実感をすくい切ることができない ように思われる。
梅綽氏の<生きがい>論の構図は,いわば人間存在の<実存
( e x i s t e n c e ) >
としての位相に,しかも<目的>ないし<成果>,あるいは<結果>へと疎外された<実存>としての位相に限定 されているように思われる(このことについては,後論で更に明確化したい)。
他方,島崎氏は,わたしの言うところの<生きがい>の実存的位相を,その全体において捉え ている。
—はたらきがい,あそびがい, 薬の飲みがい, 演奏会の聴きがい……こうしたことばの使 いようからわかってくるとうり, 「甲斐」 とは,なにかをするにあたって私たちがあらかじめ期 待した予測が結果において十分実現したかどうかできまる評価の高低のことをさしている。……
<中略>……。
こうみてくると,自分がたてたもくろみが十分達成された場合に生まれる高い評価によって,
生きがいがたっぷりあったときまるわけだから,でた客観的成果によって生きがいの度合いがき まることになる。しかし生きがいということばから受けとられる感じは,えられた結果の高低に 照合することででた充実感の分厚さあるいは薄さで尽せるものではない。……<中略>……。
つまり,えられた結果からでてくる生きがいよりもむしろ,現に目標へむかって努力している 生活のなかにこそ重みのある張合いが感じられるのである。……<中略>……。 「生きがい」と いうことばをきくと,明言しにくい含蓄的ななにものかを私たちは内実として感じとるが,……
<中略>……。この含みのために, 「生きがい」ということばは丸みとふくらみをそなえている のだといえよう3)。
ー「甲斐」とは,なにかをするにあたってあらかじめ期待した予測どおりにことが運んだか どうかできまる評価の高低をまず意味するから,自分でたてた標的をめざして前進していったそ の結果,おもいどおりの成果,予期以上の好首尾がえられれば,目的の果たしがいがたっぷりあ ったことになる。それからまた,目標の実現はまだ先だけれども,達成したときの幸せな充実感 を先取りして今感じとり,張りあいのある生活をいとなめたら,それで生きがいにみちた暮らし
となる。
働きがい,育てがいのように,なにかをすることの充実感,なにかをめざして努力していくと きの充実感がずっしりとあったら,生きがいの濃い生活といえる。私たちがふつう生きがいとよ びならわしているのはこれのことで,なにかをめざして生きていく暮らしのなかの充実感が生き がいを保証する丸
島崎氏の場合梅綽氏と異なって,<生きがい>を単なる行為,すなわち目的・価値・意味のた 3)島崎敏樹『生きるとは何か」岩波書店, 1974, 35‑37頁。
4)同上, 63頁。
. .
めにくすること
(doing)>
の結果としての<成果>にのみ限定することなく, <すること( d o ‑ ing)>
そのもの,プロセスそのものをも含めて捉えている。そしてそのことによって,<生きが い>という言葉のもつ「ふくらみ」を捉えかえそうとしている。神谷氏もまたこの点に関して 一『生きがいについて』(みすず書房, 1966) において 5) —ー,「生きがいということばにはい かにも日本語らしいあいまいさと,それゆえの余韻とふくらみがある。」 (12頁),「生きがいとい う表現にはもっと具体的,生活的なふくみがある」(同上)と述べている。そして神谷氏の場合,その内容の展開において,前述したところの人間的生の<実存>としての位相に加えて,いわば
<存在
(being)>
あるいはくあること(being)>
としての位相についても論じられているよう に思われる。神谷氏は,「生きがい感」と「生きがい」そのものを区別し,前者を「生きがいを感じている精 神状態」として,後者を「生きがいの源泉,または対象となるもの」として捉える (13頁)。そし て「生きがい感」を更に「感情的なもの」と「理性的なもの」に区別し,次のように述べている。
—なんといっても生きがいについていちばん正直なものは感情であろう。もし心のなかにす べてを圧倒するような,強い,いきいきとしたよろこびが,「腹の底から」,すなわち存在の根底 から湧きあがったとしたら,これこそ生きがい感の最もそぽくな形のものと考えてよかろう。…
…<中略>•••…。理くつは大ていあとからつくようで,先に理くつが立っても感情は必ずしもそ れについて行かない。ゆえにあるひとに真のよろこびをもたらすものこそ,そのひとの生きがい
となりうるものであるといえる (16頁)。
ここで神谷氏は,生きがい感の最も素朴な形のものを, 「腹の底から」,「存在の根底から」湧 きあがってくる,強い,いきいきとしたよろこびと捉えている。それは, 「みどり児」にみられ るようなものである。 それは,「ただ生きていること」からふきあがってくるよろこびである。
—みどり児はべつにそばにだれが見ていなくとも,そしてとくにこれというきっかけがなく とも,うれしくてたまらなさそうに,歌のようなものをさえずり,手足をばたばたさせ,ひとり で笑っている。ただ生きていることがたのしくてたまらないから声をあげて笑っているようにみ える (17頁)。
こうしたよろこびは, 「おとなのなかでは詩人のようなひとが一ばんこれを味わいうる人種で あろう。」(同上)と述べ,ベルギーの象徴派詩人ヴェルアーランの詩「よろこび」を例示してい る(18頁)。
よろこび
おお,燃えあがる朝にはじまる美しき日よ 烈々として壮麗なる大地ほこらかに
5)神谷氏の上記文献からの引用部分には文末に頁数を示す。
‑103‑
めざめたるいのちの香り強くはげしく 存在はすぺて酔いしれ,よろこびにおどる。
ありがとう,わたしの眼よ,
すでに老いたる額の下でなおも澄んだまま はるかにきらめく光を眺めうるを。
ありがとう,わたしのからだよ,
疾風やそよかぜにふれて,
なをきりりとしまり,おののきうるを。
すべてのもののなかにわたしは在る,
わたしをとりまきわたしにしみわたるすぺてのなかに。
厚き芝生よ,かそけき小径よ,
樫の木々の茂みよ,かげりなき透明な水よ,
あなたがたはわたしの記憶であり,わたし自身となる。
おお,熱き,強き,やさしき跳躍よ,
もしそれが巨大な翼のように君をもちあげ,
無限へとむかわせたことがあるならば,
ひとよ,つぷやくな,不幸なときでさえ。
どんなわざわいが君を餌食にしようとも,
思え,ある日,ある至高な瞬間に この甘き,おどろくべきよろこびを おどらせてあじわいたるを。
君の魂が君の眼にまぼろしをみせ,
君の存在を万物のなかにとけこませ,
このたぐいなき日,この至上の時に 君を神々に似たものとなしたるを。
以上, 「みどり児」の「ただ生きていること」そのものからふきあがるよろこびについて,そ してまた,詩人の<存在
(being)>=
くあること( b e i n g ) >
そのものから湧きあがるよろこび についてみてきた。 しかし神谷氏は,生=存在がただよろこびであるといっているわけではな い。また,生きがい感がただよろこびだけからできていると言っているわけではない。—いうまでもなく生きがい感はただよろこびだけからできているものではない。子供でもた えずよろこんでいるわけではない。さまざまの感情の起伏や体験の変化を含んでこそ生の充実感 はある。ただ呼吸しているだけでなく,生の内容がゆたかに充実しているという感じ,これが生 きがい感の重要な一面ではないか。ルソーは「エミール」の初めのほうでいっている。 「もっと も多く生きたひととは, もっとも長生をしたひとではなく,生をもっとも多く感じたひとであ
る」と (21頁)。
神谷氏も言うように,生きがい感の重要な一面はたんなるよろこびではなく,生の内容があふ れんばかりにゆたかに充実している(生の充溢)という感じであろう。その意味でルソーが述べ ているように,生をどれほど広く深く生きているかが問題となるであろう。
ところで,神谷氏は,以上のごとき位相における生きがい感を,つまり「無償の,無目的のよ ろこび」 (22頁)を「生存充実感」 (21頁)と呼んでいる。わたしは,存在としての位相における 生きがいを,とりあえず<存在充実>と規定しておきたい。そしてまた,すでにみたところの実 存としての位相における生きがいを<実存充実>と規定しておきたい。
さて,以上の三者の論点を簡単に整理しておこう。梅棒氏の場合は,人間存在の<実存>とし ての位相の一面,つまり,合目的的な行為の<成果>の問題に,<生きがい>論は限定されてい た。他方,島崎氏の場合は,梅樟氏と同様<実存>としての位相に限定されているようではある が,それは<成果>と同時に合目的的な行為そのもの,あるいはそのプロセスそのもの,わたし
. . . .
の言い方ではくすること
(doing)>
そのものをも含むものであった。更に,神谷氏の場合ではそ うした把握に加えて,. . . .
「ただ生きていること」そのものの位相, わたしの言い方では,<存在(being)>=<
あること( b e i n g ) >
そのものの位相にも言及されていた。とりあえずこれらを類 型論的に述べておけば,次の三類型に分類できるであろう。第一類型は,生の実存的位相の<目 的>の契機へと一次元化して捉えるもの。第二類型は,生の実存的位相の<目的>の契機と<活 動>の契機との統一的全体性において捉えるもの。第三類型は,生の実存的位相と存在的位相と の統一的全体性において捉えるもの。これらを人間的生の空虚と充溢,疎外と解放の観点から更に厳密に分類しなおせば—上記三 分類と重複するが—,次の五つの類型に分類できるであろう。第一類型は,第二類型の同位対 立物として,生の実存的位相の<目的>の契機へと疎外された<結果主義>(<活動>からの疎 外)。第二類型は,第一類型の同位対立物として,生の実存的位相の<活動>の契機へと疎外さ れた<活動主義>(<目的>からの疎外)。第三類型は,第四類型の同位対立物として,生の実存 的位相へと疎外された<実存主義>(<存在>からの疎外)。第四類型は,第三類型の同位対立物 として,生の存在的位相へと疎外された<存在主義>(<実存>からの疎外)。第五類型は,生の 実存的位相と存在的位相との統一的全体性としての<実存=存在主義>(生の充溢・解放)。
わたしの「人間的生の構造」に関する仮説は,<実存
( e x i s t e n c e ) >
と<存在( b e i n g ) > ,
くすること( d o i n g ) >
とくあること( b e i n g ) >
との統一的全体構造, というところにあるわけ で,したがってく生きがい>論としては先の第五類型に属するわけであるが,まず次章において,生の実存的位相における<生きがい>の構造及び当位相における生の空虚と充実・疎外と解放に ついて論じておきたい。
尚,<生きがい>論の構図について主題的に論ずるためには,他に多くの論及すべき点があろ うかと思われるが,ここではこの程度にとどめて先に進みたい。
][. < 生 き が い > の 実 存 的 な 構 造
<生きがい>の実存的な構造について論じるまえに,まず「実存」という必ずしも一義的な概 念とは言えないクームについて若干なりとも述べておかなくてはなるまい。
今日,言われるところの「実存主義 (existentialisme)」 という言葉が新造語として使われだ したのは,第二次大戦が終わったころからである。そしてこの名称が世界的に流布するきっかけ をつくったのは,周知のごとく
J .
サルトルであった。 しかし,言うまでもなくサルトルの概念 規定が一般的であるわけではない。E .
ムーニエの「実存主義者の系統樹」6)やその修正版として の松浪信三郎氏の「実存主義の樹」7)にみられるように, そこには多様な思想家がかかわっており,したがってそれぞれ異なるニュアンスをもって語られている。
「実存主義」という名称を世界的なものにしたサルトル自身,自分のことを実存主義者と呼び だすのは1945年9月の『実存主義はヒューマニズムであるか」という講演(これは翌46年に『実 存主義はヒューマニズムである (L'existentialismeest un humanisme)」という断定形の表 題で出版された)以来である。
こうした事情から,ここで一義的な規定をしておくわけにもいかないし,また「系統樹」をた
. . . .
どってその意味の外延について検討している暇もない。したがってここでは,わたしのここでの 意味づけについて若干述べておくに留めざるを得ない。
サルトルの実存思想は,上記の講演において述べられているわけであるが,その理論的な根拠 は大著『存在と無』のなかにある。そしてそれは, E.フッサールの現象学, とりわけ M.ハイ デッガーの『存在と時間」を基礎としている。しかし,サルトルとハイデッガーは根本的に異な るように思われる。たとえば,先のサルトルの講演記録の訳者である伊吹武彦氏は次のように述 べている。
—ハイデッガーの場合,実存とは「存在の光のなかに立ちいでる」こと,人間が主体性の枠 を破って存在そのものの光のなかに帰りたつことであるのにたいし, サルトルの場合,実存と は,みずからの存在をみずからが選択する主体性の意味である8)。
あるいはまた,
R.C.
クワントは,メルロ=ポンティが『シーニュ』の序文の中でサルトルに ふれている部分を引用しつつ次のように述べている。一彼はさらに続けて,「サルトルの友人であることは容易なことではなかった」,なぜなら,
サルトルが自分自身の事実性との間に保っている距離が,また同時にサルトルを,他の人が経験 しなければならぬものからも切り離していたからだ,と述べている。彼は,サルトルの「呪われ
6) E. Mounier, Introduction aux Existentialismes, DENOEL, 1947. 竹下春日訳『実存主義案内」理 想社, 1964, 19頁。
7)松浪信三郎『実存主義』岩波書店, 1962, 37頁。 8)サルトル,前掲訳書, 109頁。
た明快さ」についても語っている。それというのも,サルトル,はいつも自分自身の体験を彼の いわゆる絶対的自由の観点から眺めており,したがって自分自身に,或ものであること,すなわ ち本当に悲しみや不安や希望の中で生きることを許さないからである。サルトルはつねに距離を とり続けており,またまさに自分のそうした人柄によって,他者にも同じことを要求する,とい うわけである9)0
いわば―わたしの誤解であるかもしれないが—ハイデッガーは,存在への自己超越をめざ
. .
しているのにたいして,サルトルは「或ものであること」を拒否しており,したがって存在から の自己超越の次元で主として語っているように思われる。こうしたサルトルの思潮にたいしてハ イデッガーは,上記のサルトルの講演のなかで無神論的実存主義者として分類されたことを遺憾 とし, 1942年に発表した "Uberden Humanismus"において「サルトルは存在の真理を忘れ 去っている形而上学に固執しています」と批判し,サルトルの命題とは「いささかも共通してい ません」と断言している10)0
実際ハイデッガーは,サルトルのように存在から飛び立ってゆく近代人の形而上学的・主観主 義的なヒューマニズム(人間主義)を「存在忘却」 として批判しているわけである。 したがっ て,先の"Uberden Humanismus"は,文字どうり,「ヒューマニズムについて」を意味する だけでなく「ヒューマニズムを超えて」をも意味するわけである。
ここでサルトルとハイデッガーについて断定的な評価を下すつもりはないが,本章ではいわば
. . .
サルトル的な存在からの自己超越としての「投企 (projet)」,つまりいまだあらぬかなたに向か って現にある自己から脱出してゆく人間的生のありかたをとりあえず「実存」と規定しておきた い。したがってこれは, K.マルクスが『経済学・哲学草稿」で人間主義と自然主義の統一的全 体性として人間的生を捉えるときの人間主義の契機に対応するであろう。
ハイデガー的な存在への自己超越としての実存は, わたしの場合, 「人間的生の存在の位相」
....
とか「存在充実」とかの用語とかかわっている。そしてわたしの場合,存在からと存在への双対 的な自己超越の絶対矛盾的自己同一として人間的生を捉えている。なぜならば,サルトル的な方 向への一面化もハイデッガー的な方向への一面化も人間的生の抽象化,ヘーゲル流に言えば悟性 的な抽象に他ならないだろうからである。
G .
ヘーゲルは,『法の哲学』緒論 (§5)で「悟性の欠陥は, ある一面的な規定を唯一かつ 最高の規定にまで高めることである」と述べ次のような例をあげている。—たとえばインド人にあっては,たんに自分が自分との単純な同一性を知ることのうちにこ の空なる場のうちに,純粋な直感のなかでの無色の光のように, いつまでもとどまっているこ 9) R. C. Kwant, The Phephenomeuological Philosophy of Merleau‑Ponty, Duquesne Univ Pree, 1963. 滝浦静雄・竹本貞之・箱石匡行訳「メルロ=ボンティの現象学的哲学」国文社, 1976, 349‑350 頁。
10) M. Heidegger, Uber den Humanismus, 1949, 佐々木一義訳「ヒューマニズムについて』理想社,
1974, 38, 39頁。
と,そして生活のあらゆる活動,あらゆる目的,あらゆる表示を断念することが,最高の境地で あるとみなされる。こうして人間は梵天となる。もはや有限の人間とそして梵天とのどんな区別 もない。むしろどんな差異もこうした普遍性のなかで消えているのである11)。
こうしたいわば東洋的神秘主義(ハイデッガー的な方向への一面化)も近代合理主義(サルト ル的な方向への一面化)をもわたしは採らない。
. . . .
この問題についてここではこれ以上深入りしないが,以上の論述でここでの「実存」および
「実存主義」という言葉の意味ないしは射程についてはほぽ了解していただけたと思う。
さて,先程サルトルの実存主義の理論的根拠は『存在と無」のなかにあると述べたが,ここで 言うところの<生きがい>の実存的な構造とは,そこで展開されているところの人間的生の<対 自>としての規定性の内にある。すなわち人間存在は,対自存在として自分自身に対してある存 在,自分をも意識の対象となしうる存在,つまり自由な実存として存在する。
このように自由な実存として存在することによって人間は,自己自身を意識における認識作用 と評価(価値づけ)作用の対象と化す。したがってまさしくこのことによって人間は,自己自身 の意味・価値を問わざるを得ない。あるいは,自己自身を意識の評価作用の眼前に晒さざるを得 ない。ここに,生きることそのものの価値・意味を問うという<生きがい>の問題が生じる根拠 があるわけである。まさしく人間的生の実存の位相こそ,<生きがい>を問題として提起する基 盤をなしているわけである。
ところで,自己自身の意味・価値を問うというとき,その意味・価値はどのようにして確定さ れうるのであろうか。まず確かなことは,一個の存在そのものにはなんらの意味もなければ価値 もないということ,すなわち一個の存在そのものには,なんら意味や価値が内在するわけではな いということである。したがって,意味・価値が確定されうるためには,意味づけし価値づけす る<主体>の存在が前提されなければならない。しかし,意味づけし価値づけする<主体>がそ
. . .
の対象(客体)に直接的に向き合うとき, その対象の意味・価値はどのようにも確定されえな い。すなわち,その対象の意味・価値は,当の対象の他の諸存在との関係においてのみ確定され うる。あるいは,他の諸存在との関係における当の対象の一定の性能においてのみ確定されう る。したがって,自己自身の意味・価値を現実に支え,存立せしめているものは,第一に,意味 づけし価値づけする主体。第二に,自己自身と関係する諸存在である。自己存在を対象化する主 体,自己存在と関係する諸存在,これらの媒介においてはじめて自己自身の意味・価値は確定さ れうる。そしてこの自己存在と関係する諸存在は,即自存在としての諸々の<事物>,および対 自存在としての諸々の<他者>以外にはありえない。したがって自己存在の意味・価値は,他存 在としての他者および事物を媒介することによってはじめて現実に獲得しうるわけである。そこ
11) G. W. F. Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts, 1821. 岩崎武崎武男責任編集『ヘーゲ ル」中央公論社, 1967, 194頁。
で,肯定的・積極的に自己を価値づけ意味づけするような(というのは,憎悪,敵対,差別,強 制労働,等々のごとく,獲得される意味・価値は必ずしも肯定的・積極的なものではありえな い)他者および事物を媒介する主体との関係性を,前者については<創造=交流>,後者につい ては<創造=労働>と呼んでおきたい。なぜならば,肯定的・積極的な他者および事物を媒介す る実践としての交流・労働は自己超越の活動として未来へと自己を創造的に超越してゆくからで ある。
自己自身の肯定的・積極的な意味・価値は,このように,創造的な交流,創造的な労働におい てはじめて獲得しうる。しかし,創造=交流,創造=労働それ自体が「価値のある存在」・「意味 のある人生」=<生きがい>としての意識を充実するわけではない。それらが統合的自我の機能 において固有の時間性の内に統合されるとき,それははじめて現実的に獲得されうる。なぜなら ば,それら個々の創造=実践(創造=交流・創造=労働)は相互に相乗的あるいは相克的であり うるからである。主体の実践が一貫した主題によって統合されていなければ,それらは相互に打 ち消し合い否定し合って,自己分裂,自己解体,自己嫌悪,等々を帰結する。したがって,それ ら個々の実践が統合的自我の機能によって一貫した統合軸において統合されるときはじめてそれ ぞれの実践は相乗化され,それらの統体としての生の新なる自己創造のなかで,生の意味・価値 は自乗化されうる。
かくして,創造=交流, 創造=労働,創造=統合(「統合」もまた新な自己創造である)はそ れぞれ他者,事物,自己を媒介とする肯定的な自己定立あるいは,自己創造である。そしてそれ ら肯定的自己定立=自己創造の三契機は,実存としての人間的生の創造=実践の三契機に他なら なし、12)
。
ところで,こうした構造を図示するとすれば図
I
のように描くこともできるであろう。尚,中 客体=自己他者 事物
図
I
<生きがい>の実存的構造 (A)12)以上の「<生きがい>の実存的な構造」の展開にあたって,真木悠介「人間解放の理論のために」(筑 摩書房, 1971)の第二章"節「対自欲求と対自価値」を参照にした。
心点(原点)は実存としての自己という意味でとりあえず<実存=自己>ないしは<主体=自 己>と表現したい。そしてこの<主体=自己>に媒介される自己をここでは<客体=自己>と呼 んでおきたい。これは
1 i
出G . H.
ミードの「I
」と「Me
」に該当すると言えるかもしれなぃ13)0
次に,こうした人間存在の実存的構造から演繹されたこれら三重に媒介された生の享受として の実存的位相における<生きがい>の構造を経験的事実から帰納された<生きがい>の構造と照 合してみよう。
見田宗介氏は,『現代の生きがい一ー変わる日本人の人生観』(日本経済新聞社, 1970)におい て,調査データを駆使しつつ,わたしの言うところの,人間的生の実存的位相における<生きが い>の構造を,経験的事実の帰納に立脚して導出している。そこでここでは,見田氏の経験的事 実に基づく立論をわたしなりに整理しながら,先の演繹的結論と照合してみよう14)。
まず,見田氏の<生きがい>についての観点を明らかにしておくためにその定義をみておこ う。
一人間の行動には目的があるが,その目的にはまた目的があるというふうに,どんどん追及 していくことができる。 「なぜ」という問いをどこまでもくりかえしてゆくと,結局自分は何の ために生きているのかという究極の問いにつきあたる。この究極の問いにたいして,それぞれの 人が,実感をこめて答える仕方が<生きがい>であるというふうに,さしあたり定義しておくこ
とができよう (9頁)。
‑<生きがい>とはその字のごとく,……生きることそのものの「かい」=意味・価値であ る(16頁)。
まさしく見田氏は,<生きがい>を,わたしの言うところの実存的な位相に限定してとらえて いると言えよう。あるいはそれは,前章でみたところの神谷氏のようなふくらみをもたない。前 章のわたしの類型から言えば第三類型,つまり実存的位相へと疎外されたいわゆる実存主義の銀 点に立っていると言えよう。
とりあえずこうした意味での<生きがい>を構成する諸条件の探索にあたって見田氏は,まず
<生きがい>の条件をいわば裏から照らしだすものとして,「生きがいなし」 と答えた人びとの 特性の検討からはじめる (118‑120頁)。図Ilはその数量的デークである (119頁)。 これらの数 量的デークを基礎にし,質的デークを考慮することによって,「生きがいの四つの基礎的な条件」
が抽出されている (121‑125頁)。
① 極度の貧しさからの解放。
R 未来をもつこと一未来とのかかわりのなかで現在の生が意味づけられる。
13) G. H. Mead, Mind, self, and society, Univ. of Chicago Press, 1934. 稲葉三千男・滝沢正樹•中 野収訳「精神・自我・社会」青木書店, 1974.
14)見田氏の上記文献からの引用・引照部分には文末ないしは段落末に頁数を示す。
60 60 未 離 小 下 無 全 代 代 婚 死 学
男 女 別 薪 国
子 子 者 者 中
‑ ‑ ‑ ‑ 卒 層 職 民 N (178) (157) (341) (291) (1,537) (165) (203) (2,639)
1963年テレポール調査。
図
n
「生きがいなし」の多いグルーフ゜⑧ 具体的な人間関係一人びととのつながりの なかで自分の生が意味づけられること。
④ 仕事をもつこと一「つながり」と「未来」
の媒体。
見田氏は,①の「極度の貧しさからの解放」は
<生きがい>の前提,あるいは,それ以前の問題 であるとして,いくつかの質的なデータを示して いる (121頁)。
ー一生きがいというものじゃないですよ。追わ れっぱなしの生活だな(東京・25 29歳・男・単 純労務者)。
生きがいを感じることなんてないですよ。
生活に追われて……子供は成長期で楽しみより心 配の方が多いし…••• (東京・40 44歳・主婦)。
したがって,生きがいの構造の考察にとって重 要なのは,③, ⑧,④,とりわけ,④ということになるわけである。これは,図
I I
でみられるように, 「無職」のものに, 生きがい喪失者がいちじるしく多いという意味でも重要であり,そし てこのことは,他の多くの生きがい調査においても,例外なく追認されていると言う。あるいは また,「日本経済新聞」が68年11月に行なった大企業150社の20代後半の青年社員1229名の謡査 によると,「幸福の条件」として,「やりがいのある仕事」を第一位にあげているもの, 45.3彩。 第二位にあげているもの, 20形。第三位にあげているもの, 7彩。合計すれば,実に70形以上の 人びとが幸福の条件として,「仕事のやりがい」をあげていると言う (125頁)。
ところで,なぜかくも,人間の生きがいに充実した生にとって仕事が大きな位置を占めるので あろうか。それは一一見田氏もふれているが一ー,その構造に由来するであろう。それは,その 構造が人間の生きがいに充実した生にとって基礎的な条件を構成しているからである。あるい は,人間の生きがいに充実した生の基礎的な三つの条件が仕事において統合されているからであ る。先ほどみたように,多くの人びとが示したような人生における仕事の意味の大きさは,まさ しくこのような仕事の固有な構造に由来するように思われる。仕事において,第一に,生きがい に充実した生の基本的な前提である生活資料および環境諸条件の確保が保証される。たしかに,
「人はパンのみにて生きるものにあらず」ではあるが,「人はパンなくして生きるものにあらず」
である。第二に,仕事による主体的・創造的な自己実現は,未来による現在の意味づけとして,
生きがいに充実した生を保証する。第三に,仕事における他者との交流は,その中での,他者に よる自己の意味づけとして,生きがいに充実した生を保証する。かくして,仕事において,生き がいに充実した生の前提条件としての, ①生命体としての人間の本源的な必要が保証されるこ
と,R未来とのかかわりの中で,現在の生が意味づけられること,⑧他者との関係の中で自分自 身の生が意味づけられること,という生きがいに充実した生にとっての三つの要請が具体的に結 合されるわけである (126頁)。
このことを逆に言えば,仕事からこれらの諸条件が失われる時,仕事の人間的意味は失われて しまう。つまり,仕事から,主体的・創造的な自己実現的活動性が失われ,空虚な時間的労働に まで抽象化され,未来の意味との内面的なつながりが失われ,更に,仕事をとおしての他者との 内面的なつながりが失われる場合,仕事の人間的意味は解体されてしまう (127頁)。まさしくこ れは,マルクスが「疎外された労働」 15)として述べたところのプロレタリアートの労働(目的か ら疎外され,活動から疎外され,他者から疎外され,事物から疎外された労働)に等しい。そし てそれは,先にみたようにその人生そのものにおける比重からして,人生そのものの意味も大き な打撃を受けることになる。
「仕事の生きがい」の構造はほぽこのようなものであろうと思われるが,もう少しくわしくみ てみよう。見田氏は,自由回答方式の調査データの分析から, 「仕事の生きがい」の要因として 次の四つの側面があることを指摘し,検討を加えている (127‑130頁)。
A.
仕事の対価としての報酬。B.
仕事をとおしての交流。C.
自己の能力の実現,確認。D.
「仕事をすること」それ自体。見田氏によれば,これら四つの要因は仕事にとってより「外的」な要因からより「内的」な要 因へと順次ならべてある。すなわち
A
要因は,純粋な功利の極として,仕事にとっての意味の全 き外在性である。D
要因はこれと全く正反対に,純粋な非功利の極として,仕事にとっての意味 の全き内在性である (130頁)。これら,
A, D
の要因について少しみておこう。A
要因の場合,つまり「報酬」の要因のみが 仕事の意味である場合には,ほんとうの生きがいは仕事の結果としての<成果>(富・地位・名 誉等々)にある。 したがって,「報酬」 という要因はたしかに「仕事のやりがい」の一つではあ るけれども,「生きがいとしての仕事」ではありえない。むしろ反対に,生きがいがその仕事の....
外にあることを示している。そこでは,仕事は<成果>を手に入れるための手段,あるいは必要 悪であるにすぎない。その意味で,仕事にたいする「報酬」は, 「仕事の生きがい」にとって消 極的な必要条件(保証要因)であっても,積極的な「仕事の生きがい」そのものではありえない
(132頁)。
D要因の場合,つまり「仕事をすることそれ自体」の要因のみが仕事の意味である場合には,
それを純粋な活動そのものの楽しみ・喜びと解釈すれば,それは「あそび」と同じである。すな 15) K. Marx, Okonomisch‑philosophische Manuskripte, 1944. MEW, Erg. 1, SS. 465‑588. 城塚登
•田中吉六訳「経済学・哲学草稿J 岩波書店, 1964.
わち, 仕事の意味のうちから, いっさいの効用性をはぎとってしまうならば, そこにあるのは
「あそび」である (134頁)。その意味でD要因もまた,積極的な「仕事の生きがい」そのもので はありえない。
こうして仕事の意味を,仕事の結果としてえられる<成果>にのみ見出す場合も,逆に仕事の
<活動>それ自体のうちにみいだす場合も,ともに「仕事の生きがい」の固有の実体は見失われ てしまう。前者は現在の活動そのものの意味を疎外した未来の立場,抽象化された<結果主義>
であり,後者は逆に未来にめざされる意味・目的を疎外した現在の立場,抽象化された<活動主 義>に他ならない (135頁)。両者は共に人間的生の実存的位相における疎外態であり,疎外され た地平における同位対立物に他ならない。すなわち前章でのわたしの類型で言えば,それぞれ第 ー,第二類型に属する。
ところで,見田氏も言うように,「仕事」という言葉は通常二重の意味で使われる。たとえば,
「わたしの仕事をみてください」のようにも使われるし, 「わたしは今仕事中です」のようにも 使われる。これは,英語の
"work"
という言葉でも同じである。たとえば,"The works o f S h a k e s p e a r e "
のようにも使われるし," Ihave a work t o d o "
のようにも使われる。前者に おいては<成果>が表現されており,後者においては仕事をするという<活動>それ自体が表現 されている (130‑131頁)。仕事という言葉がこのように使われているように,「仕事」に固有な構造を,<成果>と<活 動>,<目的>と<行為>,<未来>と<現在>, <モノ>とくコト>, これらがたがいに 意味を照らしあう弁証法的な統一構造にあるとみなすこともできよう。その意味で,かりにここ で<労働>を成果を目的とする活動としくあそび>を自己目的的な活動とするならば,仕事
( w o r k )
はそれぞれを契機とする統一態としての活動と言ってもいいかもしれない。したがって 見田氏も, 「仕事をもつこと」といわゆる「職業をもつこと」とを必ずしも同じことと捉えているわけではない。
‑‑「仕事をもつこと」ということは,かならずしも「職業をもっ」ということと同じではな い。家事であれ職業であれ,あるいはさらに社会活動や政治運動などであれ,ある集団や社会の なかで一定の役割をもって,「すること」
( w o r k )
をもつということであろう。( 1 2 6
頁)わたしは,実存的位相をくすること>の位相として述ぺてきたわけであるが,<仕事をもつこ と=くすることをもつこと>として,仕事を実存的投企の全体性として捉えることも可能であろ・・・
つ 。
ところで,このように,純粋功利の極としてのA要因,純粋非功利の極としての D要因が,
「仕事の生きがい」の固有な実体を構成しないとすれば,<未来>と<現在>,<モノ>とくコ ト>,<成果>と<活動>, がひびきあう関係そのものとしての, BおよびCの要因,すなわ ち,仕事における他者との<交流>,および自己実現としての<創造>の要因にこそ求められる であろう。
見田氏は,調査データを参照しつつ, 「仕事の生きがい」の固有の構造を, <未来>と<現 在>,<モノ>とくコト>,<成果>とく活動>,<他者>と<自己>とがたがいにその意味を 照らしあい確認しあう関係を内包している,<交流をとおしての創造>,<創造をとおしての交 流>,という「創意=交流の相互媒介的な構造」として捉えかえしている (147, 149頁)。 更に また,「家庭」に生きがいを見出す人々,「余暇」に生きがいを見出す人々についても検討し,そ こに仕事の生きがいと同様の構造を確認している (158, 178頁)。 したがって見田氏は,<生き がい>の一般的な構造として「創造=交流の相互媒介的な構造」を提起しているわけである。
-—「生きがい」を固有に生きがいたらしめるものは,まず何よりも,先に「仕事」の項で抽 出し,「家庭」の項でも確認し, さらに「余暇」が中心的な生きがいであるときにも多く発見し うる,創造=交流の相互媒介構造そのものなのではないか (174頁)。
そしてこうした生きがいの構造を,人間の生が自己の超越をとおしてみずからその<意味>を 獲得する構造に着目し,生きがいの<ディアスポラ的構造>と呼んでいる。すなわち,<いま・
ここにある自己>がそれ自身の内部に凝固しているのではなく,未来に向かい人びとに向かって 開かれていることによって,<いま• ここにある自己>は未来に向かい人びとに向かって自己を のりこえ炸裂することをとおしてはじめて自己の存在の意味を獲得することができるわけである
(178頁)。
まさしく,未来は現在の意味であり,他者は自己の意味である。そして,<いま• ここ>に生 きる自己がこのような未来と他者に向かって自己をなげかけることをとおして,その未来と他者 とから意味を獲得すること,<未来>と<現在>,<モノ>とくコト>,<成果>と<活動>,
<他者>と<自己>が,相互媒介的,相乗的にその生の内容を豊富化することこそが,実存的位 相における<生きがい>の固有の構造に他ならないだろう。あるいはわたし流に言えば,創造=
. . . . . . . . .
交流の相互媒介的な活動そのものの直接的な享受の中で,それ自身が未来と他者によって媒介的
. . . . . . . . . . . . . .
に享受される構造こそが,あるいは創造=交流の相互媒介的な活動の即かつ対自的・直接かつ媒
. . . . .
介的な享受こそが,実存的な位相における<生きがい>の構造と言うことができるであろう。
以上,見田氏による生きがいの実証研究をわたしなりに整理してきたわけであるが,この研究 における見田氏の功績は生きがいの実存的位相における疎外された同位対立物(前章の第一•第 ニ類型)の止揚された構造を明らかにしているところにあるであろう。そして問題は一一次章に
おいてその克服の展望を提起したいわけであるが—―ー,生きがいの問題を実存的位相へと疎外
(前章の第三類型)しているところにあるであろう。
さて,上記の生きがいの実存的構造に関する見田氏の帰納的結論をわたしなりに再構成して図 示すれば,次のように描くことも出来るであるう(図m)。 そして, 図
I
と図皿を統合したもの が図Wである。簡単に図について述べておけば,まず,時間軸を設定することによって過去に向かっての「想 起=自己追認」による自己自身の意味・価値づけの契機を新に導入した。そしてまた,見田氏に
未来
他者 事物
過去
図直 <生きがい>の実存的構造 (B) 客体=自己
他者 未来
図IV <生きがい>の実存的構造 (C)
よって「創造=交流の相互媒介的な構造」と述べられたのを先の理論的考察に基づいて「労働=
交流」に変更し,未来に向かっての「創造=自己実現」を導入した。尚,中心点(原点)は図
I
と同様である。さてこうした生の実存的位相における<生きがい>の構造に関する解釈図式を前提にして,以 下生の実存的位相における空虚と充実について若干論じておこう。
. . . . . . .
<実存充実>の特質は,すでにみたように生の媒介的享受というところにある。そしてそれ