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詩と宗教の狭間 : 法華経の世界

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詩と宗教の狭間 : 法華経の世界

その他のタイトル Something between a Poem and a Religion : The World of Lotus Sutra

著者 中農 晶三

雑誌名 関西大学社会学部紀要

巻 13

号 1

ページ 135‑144

発行年 1981‑11‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00022808

(2)

研 究 ノ ー ト

詩 と 宗 教 の 狭 間

—法華経の世界一一

中 農 晶

山のあなたの空遠く

さいはひ

「幸」住むと人のいふ。

喧,われひと如尋めゆきて,

涙さしぐみかへりきぬ。

山のあなたになほ遠く

さいはひ

「幸」住むと人のいふ。

中年以上の人なら,若き日に一度ならず愛唱したはずのカアル・プッセの詩である。このドイ ツの抒情詩人の小品を名訳したのが上田敏で,明治38年に刊行された訳詩集『海潮音』に,収め

られている。上田敏は明治42年に京大教授になった学者詩人であるが,ヨーロッパ近代詩を訳出 した『海潮音』は,わが国の詩壇に大きな影響を与えた。明治以後,森鵬外は古い詩形から脱却 して,『於母影」で新体詩の模範を示したが,『海潮音』はそのあとを受けて,新体詩から近代詩 へと進む道を切り開いた。そしてこの『海潮音』 1巻は,森鵬外に捧げられている。

運命の偶然のいたずらかもしれぬが,大正5年,中耳炎を病んでいた上田敏は, 78日森鵬 外を訪問するため外出しょうとして,突如尿毒症を併発し,翌日43歳の若さで早逝している。

訳詩集の題名に選ばれた海潮音ということばは,法華経観世音菩薩普門品第二十五の詩頌の1

節から採られている。「妙音銀世音,梵音海潮音」(妙えなる音•世を観ずる音,静寂な宇宙の 音•海潮の音)を引用したもので,海潮音とは,海の潮が干満の時間をたがえることがないよう に,衆生救済の時を失わずに出す音を意味する。

上田敏は明治22年に第一高等中学校予科に入学し,そこから東大文科イギリス文学科に進んで 同30年に卒業している。彼より 10年あまり遅れて,一高から東大法学部に進み,明治42年に卒業 した自由律の俳人に,尾崎放哉がいる。尾崎放哉は酒の上の奇行がたたって,就職先の2つの保 険会社を2度にわたって馘首され,大正12年から脱社会の道に入る。彼の放哉(本名,尾崎秀雄)

という号の由来は, 「私ノ短冊ノ 『号』ノ放哉トハ……ナンニモ放ッテシマッテ,今ハ,カラ

(3)

ダーツデ居ルワイ(哉)「クックー人デ,ナンニモ無イ』卜云フ処二有之候。」(大正1411月, 日付不明)と,姉夫妻に宛てた手紙の中で明かしている。

彼は京都知恩院山内の常称院(浄土宗),須磨寺(真言宗),福井県小浜の常高寺(臨済宗)を 寺男ないしは堂守として転々としたあげく,荻原井泉水の縁につながって,最後は小豆島の南郷 庵(真言宗)に移り住み,そこで終焉を迎える。結核に侵されていた独りぐらしの放哉は,南郷 庵で「せきをしてもひとり」の孤独きわまる句を残しているが,彼がそこで書いた随筆『入庵雑 記』の「島に来るまで」の章では,つぎのように述べている。

「井師(荻原井泉水)の恩に思ひ到る時に私は,きっと,妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十 五を朗読して居るでありませう。何故なれば,どう云ふものか,私は井師の恩を思ふ時,必ず普 門品を思ひ,そして此の経文を読まざるを得ぬやうになるのであります。理窟ではありません。

銀音経は実に絶唱す可き雄大なる一大詩篇であると思ひ信じて居ります。」(中農晶三・竹内洋編

「転換期の文化』創元社,昭和54年)

尾崎放哉が晩年になって,この経を「雄大なる一大詩編」と呼んだのは正しい。妙法蓮華経を ー大ロマンといい,その文学性について語る人は多い。

妙法蓮華経はサンスクリットでは,サダルマ・プンダリーカ・スートラという。サダルマは妙 法または正法で,正しい真理を意味し,プンダリーカは白蓮華,スートラは経,つまり仏の教え のことばである。法華経本門の巻頭を飾る従地涌出品第十五では「世間の法に染まらないこと は,ちょうど蓮の花が水の中にあるようである」と,説かれている。蓮は水中にあっても,世間 の法に染まらないし,しかも泥沼にのみ生長する。蓮の花は泥沼にあってこそ,純白の花を咲か せ,清浄な社会の実現に向かって結実する。法華経が「経の中の王」と称される理由である。

「山のあなた」を名訳した上田敏は,さらにベルギーのすぐれた詩人ヴェルハアレンの詩を,

「火宅」という題で訳出している。

火宅

らんゑ わう Cん あた

鳴呼,爛壊せる黄金の毒に中りし大都会,

Itむり

石は叫び姻舞ひのぼり,

まるやね す ぐ た ち せ 鼻 ら ゆ う

駿慢の圃茎よ,塔よ,直立の石柱よ,

虚空は震ひ,努役のたぎち沸くを,

だ い い ふ

好むや,汝,この大畏怖を,叫喚を,

t:びうど

あはれ旅人,

悲みて夢うつら櫨りて行くか,属韮を,

つつむ火焔の帯の停車場。

(4)

詩と宗教の狭間(中農)

なかぞら をど くわりん

中空の山けたたまし跳り過ぐる火輪の響。

こが Iiやがね おと

たが胸を焦す早鐘,陰々と,とよもす音も,

ゅうべ あかあか

この夕,都會に打ちぬ。炎上の焔,赤々,

ひ の こ おもて

千萬の火粉の光,うちつけに面を照らし,

こわぐろ Cゑ

墜黒きわめき,さけびは,妄執の心の矢整。

とくせい ねぢ

満身すべて漬聖の言葉に捩れ,

意志あへなくも狂瀾にのまれをはんぬ。

If 

こ "

は た の ろ

賓に自らを誇りつつ,将,阻ひぬる,あはれ,人の世。

これも秀訳で,原題は「都会」であるが,原詩の内容に即して「火宅」と意訳している。おし なぺて明治生まれの文筆家は,古語,漢語,さらに仏典の引用がたくみで,作家檀一雄の遺作と なった小説の題名も,『火宅の人』である。火宅というのは法華経替喩品第三に出てくるたとえ 話で,仏のたくみな教育方法といえよう。つぎにその部分だけを訳出する。

  ゆ ほ ん

「醤喩品第三より」

し や り は つ

そのとき,仏は舎利弗に告げられた。「わたしは前に,もろもろ0)仏・世尊がさまざまないわ れと,たとえと,ことばを上手に使いわけて,法を説かれたのは,すべて至上の完全な悟りのた めであると,いわなかったか。このもろもろの所説は,みな大乗の修行者である菩薩を教化しょ

うとするからだ。

しかも舎利弗よ,いままさに,再びたとえ話によってその意義が一層よく分かるようにしょ う。多くの知恵ある者は,たとえ話をしても,理解することができるからだ。

舎利弗よ,ある国,ある都,ある村,その場所はどこでもよいのだが,大長者がいたとしょ う。年をとって老いてはいたが,たくさんの財産があってゆたかで,田畑,屋敷と大勢の若い召 し使いをもっていた。かれの家は広大なのだが,門はただひとつしかない。 100人, 200人あるい は500人という非常に大剪の人間が,その中に住んでいた。しかしずいぶん昔に建てた家だから 大きな建物は朽ち果て,垣根や壁は崩れ落ち,柱の根元は腐り,軒や棟も傾いて危険な状態だっ た。突然その家のあちらこちらから同時に火災が起こって,家全体が火に包まれた。長者には10 人, 20人とか,あるいはそれ以上30人もの子どもがいて,この家の中にいる。長者は大火が四方 から起こったのを見て,驚きおののいてつぎのように思った。

『自分だけは,この燃えさかる家の門から,す早く安全に逃げ出すことができる。といって も,幼い子どもたちは火宅(燃えさかる家)の中で,おもちゃで遊び戯れていて,火災をさとら ず,知りもせず,したがって驚かず,恐れもしない。火が身体0)そばまで来て,苦痛が迫ってい るのに,心に思いわずらうところがないから,家から逃げ出そうとする気持さえ起こさない。』

(5)

舎利弗よ,この長者は, 『わたしは身体が強くて腕力がある。だから大事な花器か,机をもっ て,家からこれを出そうか」と考えた。

それから,もう一度考え直した。『この家には,ただひとつの門だけあって,しかも出口は狭 い。それに子どもたちは幼稚で,思慮が足りないから,遊び場にうつつを抜かしている。ひょっ とするとよこしまな悪の道に落ちて,火に焼かれるかもしれない。だからわたしが注意を促そ う。この家はすでに焼けている。よい時期に早くとび出して,大火で焼け死なないようにしなさ い。さもないと死んでしまうよ。」

このように考えをまとめて,その通りに『おまえたち,すぐにこちらへ出ておいで」と子ども たちに呼びかけた。

父は子どもたちのためを思って,適切なことばで誘いさとしたのだけれども,大勢の子どもた ちは,楽しい遊びに執着して,それでも承知しましたとはいわない。ちっとも驚かず,恐れるこ とがなくて、ついに出てくる気配がない。またなにが火事なのか,なにが家なのか,なにを失う のかも知らないから,ただ火宅の東西に走り戯れて,父を見つめるばかりであった。そこで長者 はつぎのように考えた。

「この家は,すでに大火に焼かれているのだから,わたしとおまえたちが,適当な時期に逃げ 出さなければ,きっと焼け死ぬだろう。わたしはいま,巧みな教育方法を使って,子どもたちを この災害から誘い出そう。』

前から父は子どもたちが,それぞれ好んで欲しがるいろんな種類の珍らしいおもちゃや,一風 変った物には,必ず心を動かされて,気に入り大切にすることを知っていたから,こう呼びかけ た。『おまえたちが愛好するものは,台数が少なくて入手しにくい。おまえがもし取らなければ,

あとできっと後悔するだろう。色とりどりの山羊の車(声聞乗),鹿の車(縁覚乗),牛の車(菩 薩乗)が,いま門の外にあるんだよ。その車に乗って遊びなさい。おまえたち,すぐにこの火宅 から走り出ておいで。おまえたちひとりひとりが欲しいものを,どれでも一つづつ上げよう。」

すると子どもたちは,父がいった珍らしい車の名を聞いて,前々から欲しがっていたものだか ら,それぞれの心が大いに勇み,互いに押し合いへし合いしながら,一番になることを競って駆 けっこをし,争って火宅を飛び出した。

こうして長者は,子どもたちが無事に屋外に出ることができ,みな村の四つ辻の広場に座り,

けががなかったのを見て,心安らかになり,躍り上って喜んだ。すると子どもたちは父に向って

『お父さん,さっき約束して下さった一番好きな山羊の車,鹿の車,牛の車を,どうぞいま下さ い」といった。

舎利弗よ,そのとき長者は,子どもたちひとりひとりに,大型の最高級車を与えた。その車は 高くて広くて,七宝造りで,周りに欄干があり,四面に鈴がかかっている。車上にはほろを張り 珍らしい宝玉のかずかずで,これを飾ってある。宝玉の輪をめぐらして,そこから花飾りが垂れ 下がり,敷布を敷き重ねた寝床があって,赤い枕を置き,真白な牛が引いている。牛の膚の色は

(6)

詩と宗教の狭間(中農)

清らかで,体形は美しく,偉大な筋力がある。歩いて行くときは揺れがなく,その反面,風のよ うに早く走る。また多くの召し使いが,つきそって守っている。なぜかというと,この大長者は 大金持で,多くの倉庫はすべて満ちあふれているからだ。しかもこのように考えた。

『わたしがもっている財物には限りがないので,安物の小さな車を,子どもたちに与えてよか ろうか。いまこの子どもたちは,みなわが子であるから,目に入れても痛くないという愛し方に かたよりはない。わたしには,このような七宝で飾った大きな車があって,その数は数えきれな い。まさに等しい心をもって,それぞれにこのような車を与えるべきで,差別すべきではない。

なぜかといえば,わたしはこの乗り物を,広く国中の人に贈っても,それでも乏しいということ はないからだ。子どもたちに与えるだけなら,なにほどのことがあろう。』

そこで,子どもたちはそれぞれ大きな車に乗ってみて,もともと望んでいたのとは違った不思 議な体験をした。

舎利弗よ,お前はどのように考えるか。最初に三種の乗り物を約束しておいたこの長者は,子 どもたちに等しく珍しい宝の大車を与えた。これは嘘をいったことにならないだろうか。どうだ ろう。」

]I 

雨ニモマケズ 風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク

決シテ瞑ラズ

イツモシズカニワラッテヰ}レ 一日二玄米四合ト

味噌卜少シノ野菜ヲタベ アラュルコトヲ

ジプンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ薬ブキノ小屋ニヰテ 東二病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテャリ 西ニッカレタ母アレバ

(7)

行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南二死ニソウナ人アレバ

行ッテコハガラナクテモイイトィヒ 北ニケンクワヤソショウガアレバ'

ツマラナイカラヤメロトィヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナッハオロオロアルキ

ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ

クニモサレズ サウイフモノニ ワクシハ ナリクイ

いうまでもなく宮澤賢治の「雨ニモマケズ」である。この詩は昭和6年113日,賢治が35歳 のとき,病床の中で手帳に書きつけられた。ここにうたわれた「サウイフモノ」のやさしさと は,いったいなんだろう。

わたしはこの詩を読むと,法華経常不軽菩薩品第二十の主人公である常不軽菩薩を,思い出さ

しょうぼう

ずにはいられない。この人は正法(釈尊入滅後千年の間で,教・行・証OJ3つがそろっている時 代)が終って,砿屈(そのつぎの千年の間で,教・行のみがある時代)の世に,出てきた菩薩で ある。像法の時代には高慢な僧が猛威をふるっていた。そのときにこの僧侶だけは,僧であれ尼 僧であれ,男性の信者であれ女性の信者であれ,出合う人ごとに近より,礼拝してつぎのように いうのだった。

「わたしは深くあなた方を敬います。決して軽べつしません。なぜなら,あなた方はみな菩薩 の道を修行して,きっと仏に成ることができるからです。」

かれはたとえ遠くの人を見ても,わざわざ近づいて行って,礼拝して同じことばを繰り返すの だった。ところが,声をかけられて心おだやかでない僧,尼僧,男性,女性の信者らは,怒って 悪口をいい,ののしった。それでもかれは,いつもののしられながらも,決して悪意をもたず,

常にこのようにいった。

「あなたは,きっと仏に成られるでしょう。」

すると,こういわれた人びとが,棒や石でかれを打ってたたくと,かれは遠くへ逃げて行っ て,さらに太声をあげた。

「わたしは決してあなたがたを軽べつしません。あなたがたはみなきっと,仏に成られるでし ょう。」

(8)

詩と宗教の狭間(中農)

いつもこういうものだから,高慢な僧,尼僧,男性,女性の信者らは,この人に常不軽(常に 他人を軽べつしない)というニックネームをつけた。しかし,この人は死にのぞんで,法華経の 教えを聞き,この教えを受持して,六根の清浄を得た。その結果,広く人びとのために法華経を 説いたので,慢心した人たちも,常不軽菩薩に信伏し,つき従ったのである。

「雨ニモマケズ」のミンナニデクノポウトヨバレ,ホメラレモセズ,クニモサレズ,サウイフ モノニ,ワクシハ,ナリクイという,末尾の6行は,常不軽菩薩の心象風景に似てはいないだろ うか。しかも賢治が,この詩を手帳に書きとめたのは,上京中に病を得て,かれが死を覚悟して 遺書を書いた直後である。そこには菩薩の行の気迫が,こめられていないだろうか。

宮澤賢治は浄土真宗を信仰する家に生まれ, 10歳のころから父に従って,たびたび法話を聞き に行っている。だが,盛岡高等農林学校に入学した18歳のかれが,法華経に接してから,昭和8 年37歳で死ぬまで,法華経を傍らにおいて離さない生活がつづいた。そのため父との間に,宗教 上の対立が生じた。 24歳になると,大導師日蓮の教えに違背しないことを学友に報じ,日蓮竜ノ

口法難650年の夜には,花巻町内を唱題して歩いた。その年の年末には,当時の花巻町内には日 蓮宗の寺院がなかったのに,うちわ太鼓をたたいて寒行に歩いたりもした。

25歳のときには信仰の気持がますます強く,父に改宗を迫ったが入れられず,家出して上京す る。文筆による布教を決意して,『どんぐりと山猫」「狼森と筑森,盗森」『注文の多い料理店』

などの童話が生まれた。かれは人間の心理や行為のみにウエイトをおく小説よりも,森羅万象を うたいあげるに適した童話のほうが,自分の資質に向き,そして「法華文学」にかなうと考えた からである。

それ以後は,貧しい東北地方の農民を救うために,農事指導と肥料改良に精を出し,かたわら 大乗仏教である法華経の真理を説くために,生前陽の目を見ることの少なかったかれの童話と詩 作に没頭した。その一方で,生きものの生命を尊重するあまり,菜食主義を実践していた。こう した無理が重なって昭和3年, 32歳の暮に急性肺炎を引き起こしてから,病床生活を繰り返し,

昭和8年, 37歳の若さで永眠した。

『国訳妙法蓮華経』千部を醜刻して,友人知己に頒布するよう父に依頼したのが,かれの遺言 となっている。賢治の葬儀は花巻の安浄寺で行われたが,その後昭和26年に,日蓮宗身照寺に改 葬されている。(文芸読本•宮澤賢治,河出書房新社,昭和52年)

宮澤賢治はサンスクリットの南無妙法蓮華経という 7字の題目を,なんども詩の中のリフレイ ンに使っている。

オホーツク挽歌

町やはとばのきららかさ

その背のなだらかな丘陵の鴇いろは

(9)

いちめんのやなぎらんの花だ

りん C:<t

爽やかな草果青の草地と 黒色とどまつの列

(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)

五匹のちいさないそしぎが 海の巻いてくるときは

ょちょちとはせて遁げ

(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)…………

樺太鉄道

おお満艦飾のこのえぞにふの花 月光いろのかんざしは

すなほなコロボックルのです

(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)…………

日さへまもなくかくされる かくされる前には感應により かくされた后には威神力により

はくきんくわん

まばゆい白金環ができるのだ

(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)…………

この2篇の詩は,賢治が大正13年に自費出版(千部)した『春と修羅』に収められている。生 前刊行されたかれの唯一の詩集である。修羅は阿修羅の略であって,ヒンドゥ教神話では悪神で あるが,仏教では仏法の守護神になっている。しかし,ヒンドゥ神話の影響が残っているのか,

仏典によると生前の行為によって死後に導かれて行く世界の「六道」では,地獄・餓鬼・畜生・

阿修羅・人間・天(神)の6種の順に属している。

賢治は『春と修羅』を自費出版する2年前に, 2つ歳下の最愛の妹トシを亡くした。翌大正12 年, トシとの魂の交感を求めて,樺太へ旅行したおりの詩の 1部が,上記の2篇である。かれが 妹を失って激しいショックを受けたときの詩に「無声慟哭」がある。

こんなにみんなにみまもられながら

おまへはまだここでくるしまなければならないか ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ また純粋やちいさな徳性のかずをうしなひ

(10)

詩と宗教の狭間(中農)

わたしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき おまへはじぶんにさだめられたみちを ひとりさびしく往かうとするか

信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくしが

じゃうしん

あかる<つめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて 毒草や螢光菌のくらい野原をただよふとき

おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

(おら おかないふうしてらべ)

何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら またわたくしのどんなちいさな表情も

けつして見遁さないようにしながら おまへはけなげに母に訊くのだ

(うんにや ずゐぶん立派だぢやい けふはほんとに立派だぢやい)

ほんたうにさうだ

髪だっていつさうくろいし まるでこどもの草果の頬だ どうかきれいな頬をして あたらしく天にうまれてくれ

(それでもからだくさえがべ?)

(うんにや いつかう)

ほんたうにそんなことはない かへつてここはなつののはらの ちいさな白い花の匂でいっぱいだから ただわたくしはそれをいま言へないのだ

(わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)

わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ ああそんなに

かなしく眼をそらしてはいけない

最愛の妹と永別するときの賢治の悲しそうなまなざしが,そくそくとして伝わってくる。「かへ つてここはなつののはらの,ちいさな白い花の匂でいっぱいだから」と,口に出していえないか れ。トシが死んだのは11月27日である。それでも仏国土なら,季節を問わず宝の花と果実が,咲

(11)

き乱れかんばしい香りが票っている。だが賢治は,まだ修羅を歩いている。死期が迫ってやっと 菩薩の道を歩きはじめる賢治とのちがい一ー。

「春と修羅』の序で、かれはこう詠んでいる。

う に

これらについて人や銀河や修羅や海胆は

宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが それらも畢覚こヽろのひとつの風物です たゞたしかに記録されたこれらのけしきは それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで ある程度まではみんなに共通いたします

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに みんなのおのおののなかのすべてですから)

この最後のカッコ内の詩旬は特に重要である。この序の中には,日蓮が説いた「事の一念三 千」の原理が,含まれている。法華経,その中でも寿量品第十六を, 18歳のとき身ぶるいしなが ら読んだといわれる賢治は,西欧の科学的世界観とはちがった大乗仏教的世界観—宇宙観,時 間・空間の観念,森羅万象を貫く生命観,仏の永遠の生命などを把握した。賢治の作品が,宗教 と科学と芸術とをひとつに総合しょうと試みたもの,時間・空間を超えて大宇宙の森羅万象と交 感するものと,評されるゆえんである。

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