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スペインの民主化に関する理論的分析−⊥朋壊と移行

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スペインの民主化に関する理論的分析−⊥朋壊と移行

永 田 智 成

一 はじめに

ニ エリートと政治的リーダーシップの理論

三 協定主義論とスペイン

四 移行後最初の総選挙

五 おわりに

一 はじめに

       ︵1︶ ポルトガル︑スペイン︑ギリシアといった南欧諸国から始まった一連の民主化は︑﹁第三の波﹂と呼ばれ︑その

後︑アジア︑東欧諸国でも民主化が実現し︑一九八〇年代から一九九〇年代にかけて︑当該地域の独裁体制は次々

と崩壊した︒

   スペインの民主化に関する理論的分析−崩壊と移行      ︵都法四十入ー二︶ 四七一

(2)

       四七ニ

 ハンチントンは﹁第三の波﹂の民主化の主要な発生条件として︑すでに民主主義の価値が受容されていること︑

一九六〇年代の世界的な高度経済成長による生活水準の上昇︑教育水準の上昇︑中流階級の拡大︑第ニバチカン公

会議を受けてのカトリック教会の権威主義体制打倒への方針転換︑国際社会の政策転換︑デモンストレーション効      ︵2︶果を挙げている︒

 ハンチントンの研究は︑一九七〇年代から始まった民主化の世界的な流れを分析している︒彼の研究の特徴は構

造的な要因に起因して民主化が起こるとするところにある︒しかし一連の民主化の比較分析であるがゆえに︑個々

の国の分析としては不十分である︒

 本稿は︑スペインの民主化という一国の地域研究の成果から理論化を目指すものである︒構造的要因ではなく︑

エリートの相互関係やリーダーシップに焦点を当てる︒

 民主主義への移行研究︵以下︑移行と略記︶において︑今日でも依然として最も影響力のある研究の一つであ

る︑オドンネルやシユミッ亨らによる︑﹃民主化の比較政治学−権威主義支配以後の政治齢﹄は・南欧とラテ

ンアメリカの事例をもとに︑権威主義体制から民主主義体制への移行に関する︑理論的な分析を行ったものであ

る︒オドンネルとシュミッターによる理論編は︑協定主議論を体系的にまとめたものである︒

 しかし︑協定主議論は優れた民主化の一般理論であったが︑﹃権威主義支配以後の政治世界﹄研究プロジェクト

は︑一九入○年代半ばという︑南欧とラテンアメリカで移行が起こった直後に出版されたものであったため︑様々

な誤解が生じている︒スペインの事例研究では︑協定主義論に基づかないものが一般的であふ艇・オドンネルと

シュミッターの研究の影響力が強く︑スペインの移行は協定主義論に基づくものと考えられてしまっている︒

 そこで︑本稿では︑協定主議論では十分に説明できないスペインの移行過程を︑協定主議論の修正を試みなが

(3)

ら︑理論的に検討する︒まず︑協定主義論について検討し︑スペインの移行過程のどのようなところが協定主議論

では説明できないかを示し︑スペインの事例に基づいて︑協定主議論の修正を試みたい︒

二 エリートと政治的リーダーシップの理論

 オドンネルとシュミッターは︑スペインの事例を協定に基づく権威主義体制から民主主義体制への移行の典型例

とし短・したがって・本稿においても・彼らの研究を検討するところから始め蕊・

 オドンネルとシュミッターによる協定主義論は︑民主化の移行期︵叶﹃①⇒6カ一江05︶と定着期︵8目︒・o臣注︒5︶を厳

密に区別し︑議論を移行期に限定している点に特徴がある︒移行は権威主義体制の危機に始まるとし︑移行期はあ

る政治体制からある政治体制へと移行する中間期であるとする︒そして︑この体制移行期は﹁不確実性﹂︵巨8﹃−

霞暮司︶が支配していると特徴づけている︒﹁不確実性﹂という言葉でオドンネルらが主張したことは︑たとえあ

る国で権威主義体制が崩壊して移行期に入っても︑移行の行く先が民主主義体制になるか︑また︑新たな権威主義

体制になるかは不明であるということであつ︵民・移行の結果が不明確なのは︑移行期の制摩ル←の不明確さに

由来するものである︒移行の結果を少しでも民主主義へと近づけようとするためには︑移行のルールが民主主義を

生み出すものへとしなければならないとする︒

 移行期のルールを明確にし︑民主主義への移行を実現するためには︑当然ルールを作成し︑確定させることが必

要となる︒オドンネルとシュミッターは︑そういった課題を一つ一つ達成するための︑独裁体制が民主主義体制に

なる最も有利な変遷ルートは︑自由化された独裁制であるディクタブランダ︑限定的な民主主義であるデモクラ

   スペインの民主化に関する理論的分析−崩壊と移行       ︵都法四十入ー二︶ 四七三

(4)

       四七四      さ ドゥーラを経る︑段階的なものであるとする︒このルートに示される自由化と民主化は︑広い意味での民主化各段

階であり︑前者は自由化を権利の再定義と拡大の退樫・後者は市民権のル|ルおよび手続きの拡大過型となる・つ

まり︑自由化が民主化に先立って実現される移行が︑最も有利であるということになる︒

 各移行の段階を進める方法として︑オドンネルとシュミッターは︑暴力的な対立と対極にある協定︵冨︒9︶と

いう手法を提案する︒それは︑各政治アクターが︑移行の各段階で協定を結び︑相互の利益を保証し︑移行に向け

たルールを確定させることで︑移行を容易にするというものである︒

 では︑オドンネルとシユミッターはどのようなアクター間で協定を結ぶことを想定しているのであろうか︒協定

が結ばれる段階以前では︑体制派においても︑反体制派においても・原理派︵牛已﹃o°り︶と柔軟派︵ひ一主翌の対立

が存在するとする︒体制派で言えば︑原理派は自己の権力の階層的︑権威主義的性格を温存できる何らかの外見を

作り出すことによって︑権威主義支配を持続させることが可能かつ望ましいと信じているグループであり︑柔軟派

は体制が近い将来︑何らかの程度あるいは形態で︑選挙による正統化を実行しなければならなくなるであろうこと

を︑強く認識しているグループである︒他方で︑オドンネルとシユミッターは反体制派の原理派︑柔軟派はどう       ね いったグループであるか明確に述べていない︒しかしながら︑急進的な民主化を要求する最大綱領主義者が原理派

にあたり︑最小綱領主義者が柔軟派に相当すると考えられるので︑最も協定を取り交わす可能性の高い当事者は︑

それぞれの原理派を排除した︑体制派柔軟派と反体制派柔軟派であると想定される︒

 協定が成立すると︑移行のルールが確定するので︑ルールに反して体制派が反体制派を暴力的に弾圧する可能性

が低くなる︒すると︑反体制派の社会運動や組織が拡大する可能性が生まれる︒これをオドンネルとシュミッター

は市民社会の復活と呼んでいる︒市民社会の活動が活発になると︑体制派は暴力的な抑圧手段で社会運動を押え込

(5)

むことが困難となり︑反体制派も暴力的な手段で政権を打倒する必要がなくなる︒したがって︑次期政権は選挙の

結果に委ねられることになる︒選挙を経ることにより︑民主主義的な政権が確立し︑移行が達成されるとする︒移

行後最初の総選挙については︑後に述べることとしたい︒

 ここで︑実際に理論の検証を行う前に︑スペインで民主的な選挙が実現するまでの︑年表を整理しておこう︒フ

ランコ体制からの離脱は︑一九七五年十一月二十日の独裁者フランコ︵ウ﹃①﹈﹈﹇O﹄OりOO司﹃①昌OO﹈﹈①︼ρ①巳PO﹈口画①︶の死によ

り始まった︒国家元首の座にはフランコが生前指名していた︑フアン・カルロス︵言呂○邑oω﹈巳Φロo巳合望

ロ自ぴ合︶が国王として就任し︑アリアス・ナバーロ︵○知﹃一〇〇力﹀﹃一①oリウつρく①﹃﹃O︶がフランコ死去後も引き続き首相職

を継続した︒第二次アリアス・ナバーロ内閣は表向き︑政治改革の実施を表明したが︑直接普通選挙の実施や完全

な言論・結社の自由は認めず︑新たに副首相となったフラガ︵ζ碧β匹国日Φq①Hユぴ①日Φ︶のイニシアティブで︑限

定的な自由化をしたにすぎなかった︒当初から国王との関係が良好でなかったアリアス・ナバーロは︑一九七六年

六月︑国王によって首相を解任された︒

 アリアス・ナバーロの後を受けて首相となったスアレス︵︾巳o宮白り息器NΩo白N巴oN︶は積極的に民主化を推進       ︵13︶      ︵14︶し︑一九七六年十一月にはフランコ議会において︑民主化宣言とも言うべき政治改革法を通過させた︒政治改革法

は十二月に国民投票で圧倒的多数の支持を得て承認され︑スアレスの民主化改革の追い風となった︒翌一九七七年

にはスペイン共産党︵勺隅江口oOo日已巳ω9国㊦b①50一①︶の合法化をはじめとした一連の準備期間の後︑一九七七年六

月一五日には四十一年ぶりの総選挙が行われた︒スアレスは民主中道連合︵ご巳合庫①○巾ロ貫○﹈︶①Bo︒﹃豊8︶を率

いて総選挙を勝利した︒

 こうした簡単な事件の推移を見ても︑ハンチントンの議論によって︑スペインの民主化を分析することが難しい

   スペインの民主化に関する理論的分析−崩壊と移行      ︵都法四十入ー二︶ 四七五

(6)

四七六

ということがわかる︒

 ハンチントンは政治︑経済といった構造的要因に︑民主主義の成立と崩壊の条件を求めている︒基本的に政治エ

リートによるリーダーシップのあり方や選挙のやり方には言及していない︒スペインではハンチントンの挙げる条

件は満たしてはいたものの︑特定のリーダーの存在や選挙ならびに選挙過程の成功なくしては民主化が達成されな       ︵15︶かったと考えられる︒特に経済発展に関して言えば︑スペインの民主化期は経済低迷期であった︒よって︑構造的

要因だけでは移行の正確な把握は難しいように思われる︒

 オドンネルとシュミッターの研究は︑個別事例を超えた理論であると共に︑当為の議論でもあった︒では︑この

民主化理論は︑実際の移行過程とはどの様なギャップが生まれているのであろうか︒一般理論と現実ではギャップ

が生まれるのは常であるが︑次節ではオドンネルとシュミッターの研究を︑スペインの移行過程に当てはめて考察

することにしたい︒

三 協定主義論とスペイン

 協定主義論は︑スペインの移行過程をどのように捉えているのであろうか︒ここではオドンネルとシユ︑ミッター

の研究プ・ジェクトに加わっていた・マラバルとサンタマリアのスペイン移行過程研究を検討仁馳・

 マラバルとサンタマリアの研究は︑旧体制の危機から新体制の確立までを視野に入れるものであるが︑その体制

移行は一連の交渉や協定による産物と捉えており︑協定主議論を代表する見解といえる︒

 マラバルとサンタマリアの研究の特徴は︑政治指導の分析を重視し︑社会運動の動向を組み入れたことである︒

(7)

その結果︑政府の政策実施にあたって︑反体制派がスアレスとの交渉の中で︑様々な譲歩を引き出したことを強調

し︑反体制運動の影響力を重視する視点を採用するため︑政治改革は反体制派主導で行われたと主張したのであ

る︒反体制派は﹁下からの圧力﹂と称す︑労働運動や学生運動︑ストライキを展開し︑体制派エリートの譲歩を引

き出した︒マラバルとサンタマリァの研究は社会運動の激化により︑エリートが突き動かされた結果︑スペインの

民主化が達成されたことを強調するものであった︒

 このような研究の特徴を踏まえ︑マラバルとサンタマリアは︑スペインの体制移行の始まりを反フランコ運動が

激化し︑フランコ体制が危機に陥ったとする一九六〇年代の半ばに求め︑実質的にフランコ体制の終わりを告げた

ものが︑﹁下からの圧力﹂を押さえ込めなくなったことを示す︑一九七三年のカレロ・ブランコ︵↑巳゜・○①旨隅o      ︵17︶切一芦8︶首相暗殺事件であったとする︒

 こうした反体制派を移行の主体として捉える見方に基づき︑通常の民主化研究で扱われるフランコ死去後の第二

次アリアス・ナバーロ内閣については︑次のように解釈する︒同内閣は︑反体制派の多元的な民主主義の実現とい

う要求を︑決して受容しなかった︒反体制派の民主化の要求に対しては︑内閣改造により︑フランコ体制の改革を

訴える数人の体制内柔軟派を入閣させるにとどまり︑部分的な自由化を約束するも︑反体制派の分裂を狙って抑圧

を強めた︒結果︑反体制派は︑労働争議やストライキといった﹁下からの圧力﹂を強め︑アリアス・ナバーロ在任

中の一九七六年にはかつてない数の労働争議が発生した︒その結果がアリアス・ナバーロの辞任であった︒フラン

コの死からアリアス・ナバーロの辞任までの期間をマラバルとサンタマリアは﹁準備段階﹂として捉えており︑オ

ドンネルとシュミッターの﹁自由化﹂に相当する期間と考えられる︒

 マラバルとサンタマリアの評価では︑スアレスがアリアス・ナバーロと異なった点は︑就任に際して︑所信表明

   スペインの民主化に関する理論的分析−崩壊と移行       ︵都法四十八ー二︶ 四七七

(8)

四七八

演説で反体制派と敵対せず︑民主主義的政治システムの確立を目指すと宣言したことを挙げている︒また︑その民

主主義的政治システムの確立は︑フランコ体制下で作られた国民投票制度をはじめとした一連の旧体制下の法制度

に基づいて行うものだったので︑その宣言は体制内原理派を含めた体制内部からも受容され︑民主化を主張する反

体制派の要求に適うものであった︒政府はこれにより︑反体制派と体制内原理派どちらとも敵対することなく︑中

間に位置することができたとする︒

 マラバルとサンタマリアは︑このスアレス内閣期を移行期とし︑二段階に分ける︒第一段階をスアレスの首相就       ︵B︶任から国民投票後の反体制派との交渉まで︑第二段階を総選挙から憲法制定までとする︒

 体制移行の第二段階が︑﹁協定戦略﹂型の政治であった︒ただしこの﹁協定戦略﹂は︑選挙の結果︑スアレス率

いる民主中道連合が過半数に届かなかったために︑この戦略が重要となったという結果論である︒スペイン共産党

の提唱する大連合は︑与党民主中道連合も野党第一党の社会労働党︵勺胃﹇昆︒○︒06巨︷ω90亘﹃隅o国゜・O呂をも拒否

し︑スアレスは状況に応じて右派や左派と協力して問題解決にあたった︒スアレスはその戦略を発展させ︑経済危      ︵19︶機に対処するためにモンクロア協定を結んだ︒さらにマラバルとサンタマリアは︑自治州問題や憲法制定にも︑協

定戦略が用いられたとする︒

 モンクロア協定は︑一九七七年十月に成立した政党間の政策協定である︒この協定は経済協定と政治協定から構

成され︑協定の中心を担っているのは︑賃金抑制によるインフレ緩和を目標とする短期的な経済協定である︒政治

協定は︑付随的なものであり︑テロ対策に主眼が置かれ︑民主化に関しては︑当たり障りのない宣言にとどまって

 ︵20︶

いた︒こうした内容を考えると︑むしろ総選挙の実施によって︑議会内に政治的対立が限定されたからこそ︑議会

内の与野党間でモンクロア協定が締結できたとみるべきである︒

(9)

 このように︑協定主義論によって理解可能なのは︑総選挙以降の﹁合意の政治﹂に限定される︒マラバルとサン

タマリアが︑総選挙から憲法制定までの第二段階が民主化にとってより重要であるとした理由は︑実は第一段階の

総選挙までの過程については︑協定を軸に据えた分析が困難だからである︒

 第一段階の政治改革法の成立に関しては︑フランコ議会で可決されることが重要であったため︑スアレスの交渉

は体制内有力者間のみに終始した︒政治改革法の政策協議に本格的には加われない反体制派は︑国民投票の際︑国

民に棄権を呼びかけたが︑政治改革法は国民投票によって圧倒的多数で承認されたので︑スアレスの地位は︑一層        ︵21︶強固なものとなった︒

 しかしマラバルとサンタマリアは︑政治改革法の分析に際しても︑実体のある協定よりも反体制派の影響力を重

視し︑社会運動によって民主化が促進されたとする︒社会運動の圧力が︑体制派エリートに民主化を促した結果で

あるとするのである︒ゆえに政治改革法はオドンネルやシュミッターが想定する協定には該当しない︒

 このように所説を見れば︑スペインにおける協定主義論では︑協定の捉え方がオドンネルとシュミッターの言う︑協定と大きく異なっているこピは明らかである︒そもそも︑スペインの民主化において具体的な文書となった協定

はモンクロア協定以外には見当たらない︒モンクロア協定は︑その後の民主主義の制度形成にとって重要であった

としても︑移行を実現した原動力となったとは言い難い︒スペインのその後の民主主義の性質を決定したであろう

としても︑フランコ死去に始まる民主化過程の中で︑モンクロア協定締結以前の約二年間の間に行われた総選挙な

どが︑民主化を決定付けたことは明らかであろう︒

 マラバルとサンタマリアは︑反体制派の介入の余地が少ない政治改革法から総選挙までの選挙準備期間を︑政治      ︵22︶改革法で謳われていることを実行に移す期間と考え︑軽視していると思われる︒

    スペインの民主化に関する理論的分析1崩壊と移行      ︵都法四十八ー二︶ 四七九       S

(10)

      四八〇

 マラバルとサンタマリアは︑政治改革法成立以後を以下のように述べる︒スアレスは反体制派との交渉に臨み︑

反体制派から構成される九人委員会が突きつけた政治的恩赦︑比例代表制の導入︑政党の合法化︑国民運動の解

体︑垂直組合の解体といった要求を︑呑んだとしている︒結果︑スアレスは政治改革法に基づく合法的な改革で︑

体制内原理派の抵抗を抑え込み︑民主主義的な反体制派の要求には制限を加えて︑﹁合法的改革﹂を成功させたと

︵23︶

する︒政治改革法から総選挙までの期間について触れていることからしても︑本来は政治改革法成立から総選挙ま

での期間を︑対立のない事務処理期間などとして無視できないという潜在意識が︑マラバルとサンタマリアにもあ

るはずである︒

 このように選挙後の政策過程の重視にひきかえ︑選挙までの期間を軽視している理由は︑マラバルらが社会労働

党系の研究者であることを抜きには理解しがたい︒社会労働党が民主化に関与した時期を強調することは︑スペイ       ︵24︶ンの移行における社会労働党の貢献を主張することになるからである︒

 スペインの体制移行が成功した要因として︑より重要であったことは︑総選挙が民主主義の出発点となるという

信頼醸成が図られたことであると思われる︒権威主義体制下で︑選挙が形骸化して︑民主化が達成されなかった例      ︵25︶は数多く存在するからである︒たとえ社会運動の後押しで︑反体制派エリートが政府に対して要求を飲ませること

に成功したとしても︑政府が体制内原理派をコントロールし︑反体制派の要求を忠実に政策に反映させることがで

きなければ︑民主化が頓挫してしまったであろう︒協定主義論のスペインモデルは︑政府のリーダーシップと総選

挙の成功があってはじめて生きてくると考えられる︒

 では︑本来オドンネルとシユミッターの抱いた協定のイメージは︑どのようなものであったのであろうか︒再三

再度にわたる協定の締結が︑スペインの移行の重要な特徴であったと述べているものの︑協定について明示的に

(11)

       ︵26︶扱ったものはカールの論文だけであるとしている︒そこで︑ベネズエラの移行を扱ったカールの議論について検討         ︵27︶を加えることにしたい︒はじめに︑ベネズエラの移行過程をまとめておくことにする︒

 ベネズエラでは︑一九五八年に︑反体制派の社会民主主義政党︑民主共和主義連合a巳ひ⇒国︒言ぴ膏き①OΦ日9

6品叶民①︶とベネズエラ共産党︵勺①﹃⌒︷口OOO巳P已ロ一ω﹇①口Oノ\O口ON已O一◎︶が中心となって結成された愛国評議会︵言⇒富

勺巴民ひ﹇︷o阻︶がペレス︵ζ胃︹oω勺舎①N廿日合oN︶軍事独裁政権を打倒するために︑ゼネストを展開した︒ペレスは

軍部にゼネストを鎮圧するよう要請したが︑軍部はこれを拒否し︑ペレス政権は崩壊した︒

 軍事評議会のララサバル︵≦o亮き09冒苔①N書豊大将は︑ペレス政権以後も軍部支配を継続する意向を示した

が︑愛国評議会の反対に遭い︑民主化を約束することになった︒ここにベネズエラの移行が開始されたのであっ

た︒ 移行が開始されたといっても︑どのように民主主義へ移行するか︑不透明であった︒ララサバル大将の決定を不

服に思う右派系軍人︑今までの利権が失われることを恐れた石油業界などが︑愛国評議会を構成する有力政党の一

つ︑民主行動党︵>8答巳︶︒日06感叶︷8︶主導の急進的な民主化の動きに反対を表明したのであった︒

 また︑愛国評議会も一枚岩ではなかった︒独立政治選挙組織委員会︵○○巨9匹⑦○お①巳塁口ま口勺合江8日①︒9邑

冒昔o①口合︒巳︒︶という中道右派のキリスト教社会党系の政党と民主共和主義連合は軍部︑石油業界︑教会と密接

な関係があり︑民主行動党を牽制していた︒       ︵28︶ このような状況の中で生まれたのが︑プントフィホ協定であった︒プントフィホ協定は︑総選挙の前に大統領候       ︵29︶補者全員によって締結された協定で︑政治︑経済上の﹁最低限の共通政策プログラム﹂であった︒同時に軍部とも

妥協が図られ︑軍が脱政治化した従順な非思考的な機関となる代わりに︑文民側は︑装備や技術の近代化︑将校の

   スペインの民主化に関する理論的分析−崩壊と移行      ︵都法四十八−二︶ 四八一

(12)

四八二

経済的地位の向上︑徴兵制の維持を軍部側に約束した︒

 その後の大統領選挙を勝利した︑民主行動党のベタンクール︵肉ひ日己○口臼き02旦は︑プントフィホ協定を遵

守し︑ベネスエラの民主化を進めたのである︒

 このべネスエラの事例において︑協定とは政治諸勢力が集まって会議を開き︑移行のルールの確定および政策の

妥協を図り︑相互の利益を保証し︑移行を実現させる手法であった︒プントフィホ協定は一九五八年八月から十月

にかけて協議され︑総選挙前に移行のルール確定に寄与している︒総選挙までに協定が成立しなかったスペインと

は異なるベネズエラの事例は︑オドンネルとシュミッターの原点イメージであり︑いわば﹁円卓会議﹂による民主

化であった︒

 このように協定主義論を捉えると︑政治諸勢力間での合意形成がほとんど行われていなかったスペインの総選挙

までの移行過程は︑別の説明枠組が必要となる︒そこで一般的には協定主義論者と見られているリンスの暫定政府        ︵30︶論を検討してみよう︒

 リンスは体制移行期の政府を︑選挙という民主主義の審判を受けていないという意味で︑暫定政府であるとす

る︒リンスは﹁現職後見政府﹂︵︹ぼ9爵巽西o<①昌ヨ⑦邑︶が﹁臨時革命政府﹂︵器く○一巨o口①蔓買o≦乙・一8巴ひqO<巽苧

日①巳︶や﹁権力分有政府﹂︵O︒妻①﹃−°︒9匡巨σqσqoく①き目︒巳︶より︑正統性獲得が容易であるとしている︒﹁現職後見

政府﹂とは︑反体制派によってではなく︑退場しようとする旧体制派が主導して︑体制移行を実現する政府のこと

である︒﹁現職後見政府﹂の特徴は︑旧体制の中でも新しいエリートで構成されること︑選挙で国民によって選出

される者への権力委譲を約束して︑民主化を実現するところにある︒

 一般的に民主主義的な反体制派の方が︑非民主主義的な体制派よりも︑民主主義の体現者として信頼を得やすい

(13)

 が︑体制派が民主的選挙を実現することは不可能ではない︒リンスが述べるように︑体制派の選挙を確実に実施す

 るという意思表明が︑信用を得ることができるか否かで︑その成否がわかれるのである︒

  以上のような﹁現職後見政府﹂論に基づき︑リンスは総選挙までのスアレス政府について︑以下のような評価を

 下す︒  スアレスの最大の功績は︑フランコ体制の合法性を維持したまま︑反体制派を選挙に参加させ︑民主化過程にコ

 ミットさせたことである︒また︑第二の成果として︑﹁権力分有政府﹂を作らず︑反体制派を政府に参加させな

 かったことを挙げている︒この結果︑一九七七年総選挙では︑それまで民主化過程の中核を担っていたスペイン共

 産党は泡沫政党になったのである︒もし︑反体制派を含めた形での選挙管理内閣が形成されていたならば︑総選挙

 後は反体制派が更に躍進していたであろう︒しかし︑スアレスはフランコ体制内反対派の指導者と一部の反体制派

 をも含めて民主中道連合を形成し︑イデオロギーの多様性を維持したので︑より広範な支持を得て︑第一回総選挙

 の成功をもたらしたのである︒

  それではどのようにして︑スアレス政権は民主化支持者の信頼を得ることに成功したのであろうか︒スペインの

 場合︑総選挙までの移行過程が︑協定と対照的な暴力的な対決によって行われたわけではないのは明らかであろ

 う︒スペインの民主化は世界でもまれにみるほど︑平和裏に達成されている︒では︑どのような手法で何らかの合

 意形成が図られたのであろうか︒反体制派が選挙に参加する理由について︑ディ・パルマの保障主義論︵ひq胃昌⌒軍       ︵13︶ 日o︶が有効な説明を提供してくれる︒

  その主張を一言で述べると︑民主化の結果は不確実であるが︑民主化というゲームのルールだけは確定させるこ

.      ︵32︶

 とができるというものである︒

     スペインの民主化に関する理論的分析−崩壊と移行      ︵都法四十八ー二︶ 四八三

(14)

      四八四

 ディ・パルマの保障主義論は︑協定主義論に代表されるアクター間の明確な妥協形成とは異なる論理を持ってい

る︒政府による一方的な行為であっても︑民主主義の手続に限定してルールが提示されるならば︑合意を形成でき

るとするものである︒

 会議形式で︑全ての参加者間で妥協が図れても︑その会議に参加しなかったアクターの利益は保証されない︒と

ころが︑民主的なルールに従うことが︑最も自分たちに利益をもたらすと感じさせると︑会議に参加しなかったア

クターも不本意ながら民主主義にコミットせざるを得なくなる︒

 保障主義論の論理に基づき︑スペインの民主化を再解釈すれば︑フランコが死去した時点では︑体制が危機に

陥っていたと考える必要はない︒危機が訪れるのは︑その代表的な体制内柔軟派であるフラガが︑自由化を断行し

たためである︒スアレスは選挙のルールを提示したが︑そのルールが真の民主主義に基づくものであったため︑反

体制派の選挙参加を確実にした︒スアレスはこのような既成事実を積み重ね︑合意の政治と政権の維持を達成し

た︒ よってリンスとディ・パルマの議論を接合すると︑スペインの総選挙までの移行過程は以下の通りとなる︒スア

レス政権は︑選挙のルール作りにおいて︑反体制派が総選挙を回避できない状況を作り上げた︒この過程には協定

主義が想定している︑交渉や明らかな妥協といった力学は存在していない︒スアレスは反体制派︑体制派を問わ

ず︑多くの要人と懇談したが︑それは交渉というよりは︑相手の要求をスアレスが一方的に聞きおく機会であった

とみるべきである︒マラバルとサンタマリアは反体制派が体制派から妥協を引き出したとするが︑実際にはスアレ

ス側の情報収集であったと言える︒

 具体的に言えば︑政治改革法の内容も︑国会議長のフェルナンデス・ミランダ︵↓08毒8句隅口芦口①N−

(15)

旨︷蚕ロ合︶とスアレスを中心に作成され︑反体制派の意見を反映したものではなかった︒その後︑政党合法化過

程︑選挙法作成過程において︑反体制派の九人委員会と事前に懇談を持つが︑その場で提示された意見が︑政策に

反映される事はほとんどなかった︒総選挙までのイニシアティブはスアレスが握ったままであった︒

 このように政治改革法から総選挙までの間に︑スペインの民主化の基本的なルールが︑スアレスの手により一方

的に行われたとすると︑これまでの民主化の段階分析も再考を必要とする︒既にオドンネルとシュ︑︑︑ッターによ       お り︑スペインの場合︑権威主義体制の正統性喪失である自由化と民主化が同時に生じたことが指摘されているが︑

権威主義体制の制度的解体も並行していたのであったと考えられる︒       ま  マラバルとサンタマリアはフランコ体制の危機は一九六〇年代中頃に始まり︑フランコが亡くなった一九七五年

には政治的な機能はほぼ停止したとす玩奨・反体制派の量的拡大はそのまま体制の纏になったとは言えない︒フ

ランコが亡くなった直後︑フランコ体制内部でポストフランコ体制を模索し始めた人は多かったとしても︑そのポ

ストフランコ体制が西欧民主主義と同等のものと考えた体制内柔軟派は極めて少なかったとみるべきである︒フラ

ンコ死去後に︑体制内の柔軟派が部分的な自由化を構想していたフラガを中心に結集したことを考えれば︑容易に

想像できる︒またフアン・カルロス国王が就任した直後も︑フランコが育ての親という経緯があったため︑多くの

国民から大きな変革が起こるとい︑う期待はなかった︒スアレスが首相に就任した一九七六年七月においても︑スア

レスがフランコ体制の中核組織︑ファランへ党の青年部アスーレス出身ということで︑彼が民主化を推進するとは

考えられていなかった︒

 よってフランコ死後︑スアレスが首相となるまでに︑反体制派は民主化に向けて活動し始めていたが︑この時点

でのフランコ体制内部でのポストフランコ体制の帰着点は︑決して民主主義体制ではなかったと言える︒この意味

   スペインの民主化に関する理論的分析−崩壊と移行      ︵都法四十入ー二︶ 四入五

(16)

      四八六

では︑フランコ体制はスアレス首相就任までに崩壊したとは言えず︑総選挙までの過程において︑スアレスが一連

のフランコ体制の制度的解体をしたことにより︑はじめて権威主義体制と決別し︑民主主義体制の建設が明白に

なったのである︒

 具体的には︑フランコ体制の中核的な政治組織︑抑圧装置に対して︑スアレスは政治改革法成立によって得た権

力基盤を活用して︑一九七七年一月には治安裁判所を廃止︑三月には選挙法を制定︑ストライキ権を公認し︑恩赦

により多数の政治犯を釈放した︒四月にはスペイン共産党の合法化を達成し︑フランコ体制で唯一の合法政党で

あった国民運動を廃止︑労働組合を合法化した︒六月には労使強制加盟の官製単一組合である垂直組合も廃止し︑

総選挙を実施した︒

 このように︑フランコ体制の解体は︑移行と同時に進んだとみることができる︒スペインの事例は︑体制崩壊︑

民主主義への移行という段階的に進むものではなかったと言える︒

 次節では︑移行後最初の総選挙に焦点を当てて検討したい︒

四 移行後最初の総選挙

 既に見たように︑オドンネルとシュミッターによれば︑協定により体制移行というゲームのルールが民主化に確

定すると︑市民社会が復活し︑体制派も反体制派も暴力的な手段に訴える可68性がなくなると為・反体制派は

クーデタを画策するよりも︑総選挙において勝利し︑政権交代を狙う方が︑より合理的な行動となるからである︒

 また︑既に見たように︑スペインにおいては︑移行後最初の総選挙までの過程における合意形成のあり方は︑協

(17)

定主義論とは異なったメカニズムであったものの︑総選挙までのゲームのルールは︑政治勢力間の合意が得られて

おり・選挙に関してオドンネルとシユミッターの議論から示唆されるものは少なくない︒彼らの移行後最初の総選

挙に関する議論は︑スペインの事例研究にも有益であろう︒

 オドンネルとシユミッターは︑総選挙を行う前提として︑参加アクター間で総選挙のルールに関する条件付同意

を得ることが重要であると論嘉・そのルルとは︑璽に参加することが出来る政党はどれか︑どのような璽       制度を用いるのか︑議院内閣制を採用するのか大統領制を採用するのかという三点についてである︒

 オドンネルとシュミッターは︑移行後最初の選挙においては政党システムが不完全なため︑選挙の結果を予測す

ることは不可能であるとするが︑選挙結果が予測不可能であるからといって︑選挙をボイコットしたり︑その延期

を主張したりする政党は︑政治の舞台から排除されるとする︒

 また︑競争的な選挙は政治的民主主義への移行が長期にわたり存続可能となる条件として挙げる一方で︑総選挙

の結果は反体制派が圧勝しない状態が望ましいと主張する︒その理由は︑体制派が選挙で大敗した場合︑体制派を

打倒するという一点でまとまっていた反体制派はやがて分裂し︑お互いを出し抜こうとする急進的な約束を有権者

に提示することとなり︑急進的な民主化を目指す反体制派原理派は︑穏健的な民主化過程である選挙過程にとどま      ハ らなくなってしまう可能性が高くなるからであるとしている︒

 他方で体制内柔軟派は選挙に臨む際︑かつての権威主義体制の一員であるというイメージを拭えないので︑国民

から政治的民主主義の一員としての信用を得ることが困難であるとする︒場合によっては︑妥協を重ねすぎて︑本

来の自己の支持基盤から︑支持を失う可能性もある︒しかしその困難克服のため︑選挙法をあまりにも明白に体制

派に有利なものへと歪めると︑選挙は民主主義へとつながらなくなってしまうとする︒

    スペインの民主化に関する理論的分析−崩壊と移行      ︵都法四十八ー二︶ 四八七

(18)

       四八八

 結果︑体制内柔軟派は選挙によって排除される危険を抱える不安定な中で︑上記三つのルールをどのように設定

するかが重要な課題となる︒この状況において︑体制内柔軟派が政権を担い続けられる保証は︑どこにもないから

である︒ 以上のオドンネルとシュミッターの議論は︑スペインの文脈においても︑ある程度妥当性を持つものである︒し

かしここでは紙数の関係上︑選挙に参加する政党の範囲とそれに付随する党派の再編の問題に限定して︑簡単に触

れておくにとどめたい︒

 総選挙へ参加できる政党の範囲を決める作業は︑スペインの場合︑非常に困難を伴った︒フランコ体制において

は唯一国民運動だけが︑合法的に存在し︑その他の政党は全て非合法であったからである︒移行過程において︑政

党を合法化する上で更なる難問は︑スペイン共産党の存在であった︒

スペイン共産党の合法化はフランコ体制派の多くにとって︑決して認められないものであつ︵望反体制派です

ら︑スペイン共産党の存在が体制派との交渉に対して悪影響を及ぼすのではないかと危惧したほどであった︒

スアレスはいかなる政党も参加が可能な選挙を目指していたとさ鮭・首相就任前の一九七六年六月頃から・政      あ 党の合法化に向けた政策を実行し︑困難と思われたスペイン共産党を合法にするタイミングを計っていたと考えら

れる︒最終的に︑軍部の反対が弱まる時期をうかがい︑聖週間の土曜日︑突如としてスペイン共産党の合法化を宣

言し︑基本的に全政党の選挙への参加を容認したのであった︒

 こうした選挙制度の具体化と並行して進んだのが党派の再編であった︒ここで当時の体制内部の党派状況を見て

みよう︒一九七七年総選挙以前のスペインにおいて︑オドンネルとシュミッターの言う体制内原理派とは民主的な

改革を一切拒絶し︑フランコ体制の維持を主張していたブンケルと呼ばれたグループとなる︒他方︑体制内柔軟派

(19)

は重要な差異が認められる二つのグループに分裂したことが︑スペインにおいて特徴的なことである︒ひとつめの

体制内柔軟派は︑フランコ時代から体制の改革を主張してきたフラガを中心としたグループであり︑もうひとつは

移行期に大方の予想を裏切って首相となったスアレスが統合を図ったグループである︒

 政治改革法成立までは︑体制内柔軟派の二つのグループに大きな差異は見られない︒しかし︑この時期に︑フラ

ガは国民同盟︵≧G5N①勺8巨胃︶を結成した︒一方で体制内原理派は︑政治改革法が圧倒的多数で成立したこと

によって︑政治の場から排除されることになった︒

 総選挙へと向かう過程で︑体制内柔軟派の二つのグループは︑異なるグループと認識出来るようになる︒フラガ

率いる国民同盟はもともと原理派傾向が強かったが︑体制内原理派も含める形で︑旧体制派の統合を図ったため︑

より原理派的色彩が強調された︒その方が︑総選挙において有利であるとフラガたちは考えたのであった︒既に集

団的な勢力としてのブンケルが崩壊していたため︑フラガを中心としたグループは︑相対的に原理派となってい

つ(チ・元でスアレスを中心としたグループは・フラガと決別したフランコ体制内の要職にいた者から︑社会民主

主義者やキリスト教民主主義者までをも取り込んで︑イデオロギーのデパートのようなグループを︑別個に作り上

げていった︒後者は後の民主中道連合となった︒

 総選挙では左派と考えられる反体制派が存在していた上に︑体制内原理派がほぼ消滅している状況では︑相対的

に国民同盟は体制内原理派︑スアレスグループは体制内柔軟派とみなされてしまったのであった︒

 オドンネルとシュミッターは移行過程において︑アクター間の関係の変化や様々な新規参入アクターが存在する      ことにより︑その都度︑協定の再交渉をせざるを得ないと述べている︒また︑原理派︑柔軟派双方とも一枚岩では      あ なく︑複数のグループにより構成されることを認めている︒

    スペインの民主化に関する理論的分析−崩壊と移行       ︵都法四十八ー二︶ 四八九

(20)

       四九〇

 しかし具体的な移行過程の分析において︑原理派と柔軟派は固定的に捉えられている︒ところがスペインでは移

行期に︑有力な柔軟派の政治家が登場し︑早期にその組織化が進められたにもかかわらず︑総選挙を前に主要な柔

軟派のイデオロギー変動が起こり︑体制派の再編が起きたのであった︒スペインの事例は︑移行過程においてはア

クターの柔軟派︑原理派というレッテルは非常に流動的なものであり︑常に変化する可能性があることを示唆して

いる︒これを見るに︑体制内外の合意という協定主義論の枠組は︑一層実現困難なものと考えられる︒

 選挙結果について︑既にみたように︑オドンネルとシュミッターは︑反体制派が圧勝しないようにすることが︑

政治的民王主義への移行が長期にわたり存続可能であるための必要不可欠な条件であると述べて滋・そのために

は︑選挙が公平に行われるという信頼醸成以上に︑体制派が色々な状況に助けられる必要があるとする︒例えば︑

選挙のルールを︑体制派にとって多少有利なように設定する︑反体制派政党が乱立する︑または体制派政党が一本

化するといった事柄を想定している︒このような状況が生まれることによって︑政治的民主主義への移行が長期に      ︵47︶わたり存続可能であるとする︒

 スペインにおいても︑体制派が反体制派の圧勝を抑えることに成功した︒しかし︑それがそのまま両派柔軟派の

協力を意味しなかった︒民主中道連合は社会労働党よりもむしろ国民同盟との協力を求め︑民主化の行き詰まりさ

え︑懸念される事態となった︒民主中道連合が社会労働党との協力で憲法制定作業を行うようになるのは︑社会労

働党の議員数の力によるところが大きい︒社会労働党の議席数は到底無視できない数であったからである︒

(21)

五 おわりに

 本稿は︑スペインの移行過程︑特に総選挙までの過程という個別事例を︑一−般理論と突き合わせることで︑理論

的な貢献を目指したものである︒最後にこれまでの検証結果をまとめておこう︒

 スペインの総選挙までの過程では︑移行のルールは協定主義とは異なる力学によって︑確定したと考えられる︒

ベネズエラの事例からもわかるように︑協定主義が予定している合意形成は︑その協定に参加するアクター全員で

会議をし︑意見を出し合い︑納得した上で内容を決めていくものである︒ところが︑スペインの場合は︑意見を聞

く機会は設けたものの︑旦ハ体的な内容はスアレスが決定していた︒反体制派から見れば勝手に決まったルールに︑

ボイコットできない状況を作り出され︑反体制派のコミットメントを得ていく手法は︑協定主義とは異なるメカニ

ズムであり︑保障主義として描き出される像そのものである︒

 協定主義論では︑勢力が均衡なアクターがルール形成に参加し︑妥協を図るのに対し︑保障主義論では︑原則的

に政府のイニシアティブによりルールが決定される︒ルールを設定する側は︑他の政治アクターの参加が余儀なく

されるルール作りが必要となる︒

 かつてはスペインの最も競争力ある輸出品として称えられた協定主義が︑実際にはどこまで妥当するかみてみる       へ ならば︑ブルッカーは協定による移行はほとんど存在しないと指摘している︒通常︑政権を担っている軍部勢力と

反政府勢力と想定される文民勢力が勢力均衡状態になることは︑珍しい現象であるからである︒この種の移行は︑

歴史上︑コロンビア︑ベネズエラ︑ポーランドだけであったとしている︒       お  そのポーランドも各アクターの相互保障を確約する円卓会議によって合意を形成した後︑総選挙に臨んでいる︒

スペインの民主化に関する理論的分析ー崩壊と移行      ︵都法四十八ー二︶ 四九一

(22)

      四九二

一般に︑ポーランドをはじめとする東欧の民主化は︑スペインの協定主義モデルを参考にしたとされる︒しかし︑

このスペインモデルが幻であったというのが︑本稿の主張である︒

 スペインでは︑移行後最初の総選挙で︑フランコ支配の継続は否定されるものの︑総選挙以前に︑フランコ体制

の存続が危ぶまれるほどの危機に陥った形跡はない︒フランコ体制が崩壊したために移行が始まったのではなく︑

ポストフランコ体制を模索した結果が︑民主主義への移行であったと解すべきである︒そのため︑政治改革法成立

以後︑スアレスは総選挙の準備とフランコ体制の解体作業を同時に進めたのであつ︵斑・この点を踏まえると・スペ

インの移行は︑体制派から見ればフランコ体制の改革︵器︷o﹃日餌︶であり︑反体制派から見ればフランコ体制の断

絶︵≡09轟︶を意味することになった︒このことは︑﹁移行﹂という段階の抽出可能性についても︑再検討を要請

するものである︒

 最後に︑アクターの性質について述べておきたい︒オドンネルとシュミッターは︑アクターの性質は恒久的なも

のではないとしながらも︑移行過程においては︑柔軟派や原理派というグループを固定的に捉えている︒柔軟派や

原理派内部での対立や変化は認めているが︑柔軟派や原理派というレッテルそのものが︑相対的なものであるとは

考えていない︒しかしスペインの移行過程においては︑体制派の柔軟派グループは原理派へとシフトした︒このこ

とは︑権威主義体制下のレッテルは︑移行期という異なるルール下では︑レッテルそのものが相対化し︑変化する

ことを示唆している︒      ﹁

 理論が現実を捕捉しきれないのは︑当然のことである︒しかし︑本稿はスペインという個別の事例研究が︑理論

に対してどのような貢献が可能かを検討したものである︒

(23)

︵1︶ 國已耳宣口9Po力①B已匹巾゜..O①日oo日o司.°・↓け冒臼司陪くo.︑﹄oξ口巴亀O①日o自8□<oドN宕ON︵oり買日ぴq這O声︶O寧﹂㌣ω鼻゜また

  は︑自巨叶日ひ今9戸Gりo日已o一勺こ﹃第三の波ー20世紀後半の民主化1﹄中道寿一︑藪野祐三訳︑︵三嶺圭旦房︑一九九五年︶︵原

  書名⁚﹃汀﹃ミミミぎ㌻OOさミ目︑烏ミへ§ざさ○↑経譜﹃§ミ苦ミ○§ミ這゜︶を参照のこと︒

︵2︶ 国已ロ江口讐o戸白り①日ρ色勺二▽へ罫O°﹂ω゜

︵3︶ ○︑Oo目o戸○⊆自隅Bo碧画゜り合目#6□勺巨壱OoP﹃民主化の比較政治学−権威主義支配以後の政治世界﹄真柄秀子︑井

  戸正伸訳︑︵未来社︑一九八六年︶︵原書名⁚㌔ミ意ひミ↑慧ミ甘︑﹄ミ導ミヘミ注§㌔ミ鳴㍉∋篭ミ誉代○§6ミ篭§句忘゜ミ

  9g︑ミざ﹃ミ逮亀識O汰句゜︶

︵4︶ 代表的なものは︑勺o司㊥ロ○け①﹃庁ω弓∵︑問o甘﹃日く隅ω⊆の.国已09冨︑ぼ乙のO巴目.勿弓日白ω置o口80°日o°日6ぺ︑︑台︵勺戸﹈︶°合゜・°・°詳㌣

  ﹇δ戸○×♂&d巳くo匿蔓w﹂㊤○︒口゜︶スペインの民主化は︑体制派主導で行われたことを強調する︒︵5︶qO︒目Φ戸○匡⑦§・pえ゜︒6一旨巨9窪言b︒P宣昏も゜巨゜

︵6︶ オドンネル・シュミッターの研究の整理はもちろんのこと︑スペインを中心とした移行に関する研究の整理として以

  下のものが参考になる︒野上和裕﹁民主化の政治学とスペインーいわゆる協定主義をめぐってー﹂﹃東京都立大学法学会  雑誌﹄第三十九巻第一号︑一九九八年︑二二三−二五九頁︒

︵7︶OO︒目巴○巨①§︒①邑゜り6庁巨汁§口匡署①ρe°喜日b°賠山ω゜

︵8︶ ○︑Oo5器 ︑Ω已巨2日oき巳oり合日﹇口隅㌔巨号OoO°w合ミも込Ol昏◎

︵9︶○.o︒目①戸Ω匡6§︒芦口゜︒6ぎ︷﹇目㌔巨宮①n二▽ミも招

︵10︶ ○︑﹈︶8口①≒Ω已巨窪日oきユQり合日庄2㌔匡巨ObΦ○°ニミやもOし︒o︒よO°         

︵H︶翻訳ではタカ派︵画ξoω︶とハト派︵ぴ冨巳o°・︶となっている︒○﹈︶o目①戸○巨冨﹁日o昌口゜︒合日葺め門勺巨甘OoP宣S

  O°袈

︵12︶ 以下の論文で詳しく検討されている︒野上和裕︑前掲書︑二二七頁︒

︵13︶ フランコ議会は諮問機関であり︑議員︵買o口ξ註自︶の大多数は任命制であった︒

︵14︶ ↑隅O胃巴①苫ま﹃日ρ勺o法一6P補足ではあるが︑政治改革法は協定としてみなすことはできない︒なぜなら︑反体制派

  は疑似民主化のための法であるとして︑賛成しなかったからである︒︵15︶ 一九六〇〜一九七三年の期間︑OECD諸国の中で日本に次ぐ高度経済成長を遂げたが︑一九七〇年代後半は石油危

  機の影響を受けて︑インフレ︑国際収支赤字︑失業の三重苦に見舞われていた︒戸門一衛﹁第m部 現代のスペイン﹂  楠貞義他著﹃スペイン現代史 模索と挑戦の120年﹄︵大修館書店︑一九九九年︶三〇〇頁︒

スペインの民主化に関する理論的分析ー崩壊と移行       ︵都法四十八ー二︶ 四九三

(24)

四九四

︵16︶ζ曽2巴こ・ω∩ζ日①昌臣゜りき冨§曇ご菖...勺9﹇富δ9握︒﹈;冨一え邑庄め印⁝冨︒巨︒﹁Oゆ§n日自..日○︑O︒目①F

   Ω巳 隅Bpn°っ6げ邑g5勺匡目c邑≦プ冨9註㊨﹇①ξ而gp9°・°﹃目sミ§句︑︒さ﹄ミぎざミ︑へ§㌔§◆.い§誉§団ミ息︹

   ︵ 臣叶目︒﹃︒⁚昌こ︒巨゜・出8苔゜・己昌﹂くΦ宣q印︒ωω︑﹂Φ゜︒①︑︶oo°や=O︒︒°

︵17︶ ζ曽①<①戸甘ω●旨①﹃■き匹乙︒§8B呂靭言法戸きへ真もb﹃ω㎏ふカレロ・ブランコはフランコから首相職を譲り受けた人物

   であった︒

︵81︶ζ①8畠戸冒ω∩法§①①邑︒め芦g日慧p言法戸へ↑ミも◆︒︒切゜

︵19︶雷゜9乙りユ巴知ζ8︒δ①

︵20︶ 野上和裕﹁スペイン﹂馬場康雄他編﹃ヨーロッパ政治ハンドブック﹄︵東京大学出版会︑二〇〇〇年︶九四頁︒

︵21︶ζ①臣く① ﹂︒ω∩呂艮①き口○り芦富日§禦言已貫Bミ゜も゜︒︒ω゜

︵22︶ζ昌①<昌冒ωΦ法①昌芦臼白︒芦冨日昌担言法戸§へも゜︒︒心゜

︵23︶ 反体制派は体制派と反体制派合同の臨時政府を提案していたとする︒ζ剖①<①戸甘ωひζ胃鼠§△︒︒§9日①﹃買言声富戸

   §や署゜︒︒㌣︒︒︽°︵24︶ マラバルはフェリーペ・ゴンサーレスPSOE政権において入閣を果たしている︒

︵25︶ 例えば︑隣国ポルトガルではサラザール体制下でも国政選挙が行われていた︒最近の例では︑例えばケニアの例︒

   自︒き具呂曽・呂日;巳図︒︒切゜・言勺巨甘ρ.︑巳ぴ①邑匡轟日︒︒§巴○耳8日而ωヨ○§o否ま︿︒﹀已庄日巨巨㍑ひq巨Φω..︑

   ﹄§喜§さミ§Sミき§§SG︒富誌舞︿︒5ρ乞︒◆Nス﹀日一80Φ︶もo◆ω①午ω︒︒﹂°

︵26︶qO︒目①戸○巨百日︒①⇒臼゜り合巨書﹁㌔巨昼罵○°w§異も゜﹂Oド

︵72︶密巳吋2目耳目w︑︑頴﹇旦巴日①巳勺︒巨8一霊︒け切≒9司き゜・三︒三︒O①日8日自日く窪︒N⊆︒泣︑︑喧日qO︒目巴○巨百日⇔

  

@○°・各巨﹇醇這巨暑︒①邑≦葺書窪江F巨§8江゜・◆冒速§§ミ§﹄§§ミ§き合゜.トミざ﹄§富や︵出①三日・尺Φ⁚

   昌巳︒巨゜・出8匠5d巳くΦ叶゜・身印の゜・°・二Φ゜︒Φ゜︶o巳⑩O己﹂⑩︵82︶霊§9勺巨8豊︒

︵29︶零︒ひq﹃昌①巨巳§○︒昌合

︵30︶°︒巨・□︒°・︒・﹂㏄昆ご日言図こ◆°き§・§富§°・ミミ§⑤ミ§・ミ冴§⇔へ§も§誉﹃ミSミ§㌘︵9§えσqΦ⁚

  6§9昔Φd巳く︒邑q印Φ゜・ω二っΦ切゜︶o昆゜︒よN

︵31︶o一勺巴§Ω⊆°︒ψ・80pご6§b§⇔§富鮪゜・き穿§§o§ミミ民ぎ汰§.§︑︵国①済︒専き臼↑︒ψ・巨・Φq①冨

   d巳く6邑身︒吟9=嘗巳①零①゜・°・°﹂8P︶

(25)

︵32︶ O一勺巴日PΩごωoりめOOPきへSb﹄◎

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︵34︶ ﹈≦昌①<巴声﹂8∩﹈≦曽冨①昌亀○り①口叶知日胃菅﹂.巳ぷ戸§°○でO°や十     ︑

︵35︶ ﹈≦昌㏄<巴一w﹈−Oo力∩﹈≦昌日①⇒エoり①白9﹈Bρユ①こ巳罫ロへ恐礼Ob◎ρ

︵36︶ ○︑OOづ昌①戸Ω巳=①﹃日Oρ⇒口oり6げヨ﹇詳①お﹃巨=OOOO°ミ⑭゜○でO◆﹂︽ド

︵37︶ qOo口昌Φ口○已 9R5四巨OQooげ日︷詳o□勺巨匡Ob①n二㌻やりOO◆置ロー口ρ

︵83︶ ○︑OOづ口而戸○已巨震日o智目画◎ooげ日一詳o□勺巨罵OO而Ωニミや︑bb◆嵩Oー口N◆

︵39︶ O︑Oo口昌o=Ω已 零Bo①⇒△o力oげ﹈B﹂詳o﹃勺巨嵩OOoOでミ合∨OO°﹂切Φ山㎝S

︵04︶ スアレス内閣の閣僚でもこの時期のスペイン共産党の合法化に反対した者は多数いた︒例えば︑オソリオ︵≧甘問ωo

  Oω日oO胃90︶第二副首相︒﹀ぴ㊦=pO邑︒°・﹄合■皆心さN︑災ぎさ㌣ミ合竃へこミ目sヘへ芯§︵ζ艮﹃匡⁚国創﹂9ユ①品゜りO器①

  ○巴Ooむり゜﹀°NOOΦ゜︶﹁b◆一﹃↑

︵41︶ ○詳︷N二≦①口⊆9﹄⇔o■防ミ心︑C>ミ忠§合﹀さ⇔6ざ8︸ ︵ロ胃8δロ円国巳9巳巴四①昌09白り゜﹀°NO8°︶︑bNN﹃°

︵42︶ スアレスは国民運動担当大臣時代に政治結社法を支持し︑その後首相となってからは結社の妨げとなっていた刑法の

  改正を行っている︒○庄Nwζき毒=↑ミもO◆や①㎏べもbρ︵43︶ 政治改革法成立前からフラガは保守色強化の傾向があった︒フラガが中心となって結成された国民同盟は︑それまで

  のフラガの足跡を考えれば︑およそ想像のつかない人物たちと協力して組織された︒○﹄一日o巨﹈oげP§§災邑§守︵

  ↑⇔︑嵩軸⇔ミ⇔き○㌔合﹃導ミ︒㊤⇔ミ切÷Ooボ染さミ傍§﹂℃畑−﹂b㎏9 ︵﹇ゆ綱日o力9□○已06巨ω﹇o昌①p阜↑餌日O①﹇巽⁚↓廿①国口司一5﹈≦⑦已oロ

  勺﹃①oりoり︑﹂Φ︶P︶°O°一ω鱒

︵44︶ ○.Oo口昌①拝○巳已巽Bo①口色oりoげ目︷口o門勺臣嵩OboOこミ °昏へでO﹂O㎝゜

︵45︶ ○︑Oo口昌o戸Ω巳目窪日o①口創Qりo匡日一詳①門勺宮巨OOoO二㌻合︑O◎古

︵46︶ ○︑Oo⇒⇒①FΩ巳=2日o①⇒ユoり口げ日詳﹇o□喝巨巨OO①○こ魯゜☆でOb°﹂切Oー﹂切や゜

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︵94︶ 川原彰︑前掲書︑一〇四−一〇六頁︒

︵50︶ スペインの場合︑フランコ体制の崩壊というよりは︑解体といったほうがより適切であると考えられる︒

スペインの民主化に関する理論的分析i崩壊と移行       ︵都法四十八ー二︶ 四九五

参照

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