中国軍将兵と朝鮮戦争(続き)(都法六十一-一)一
中国軍将兵と朝鮮戦争(続き)
――良心的兵役拒否を中心に――
陳 肇斌
本稿は、本誌第六〇巻第一号掲載の拙稿 (1(の第五節にあたり、主として中国軍将兵における良心的兵役拒否を考察
する。
拙稿の第四節(「四、脱走」(でみたように、志願軍第二六軍の自殺した張忠秀には「生を貪り死を恐れる」とか、
「命を惜しむ」というような「罪名」が当たらない。このことは、志願軍将兵における良心的兵役拒否のあり方に
ついて考える契機を提供してくれる。良心的兵役拒否とは通常、キリスト教徒、とりわけクェーカー信者が「人を
殺すなかれ」という神の教えに従う信仰上の理由で兵役を拒否したり、あるいは従軍したとしても衛生兵のような
命を助ける業務にとどまったりする、というようなことを意味する (2(。 当時の中国には、約三七〇万人のキリスト教信者がいた (3(。戦争と平和に関する彼らの声の一つが、記者によって
拾われ記録されている。朝鮮戦争勃発後の一九五〇年六月二八日付の『蘇南日報』の報告によれば、江蘇省高淳県
双山郷農民協会のある幹部は、東西両陣営間の平和共存を呼びかける署名活動を国内の国共間の和平のためと捉え、
「本当によかった。解放軍は蒋介石と和平し、永遠に戦争しなくなるだろう」と喜び、「解放軍の銃砲はもうすぐわ
二 れわれの生産用の鎌に鋳直してくれるだろう」とみずからの期待を語った (4(。その発言は言うまでもなく、『旧約聖
書』イザヤ書第二章第四節で述べられる「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向っ
て剣を上げず、もはや戦うことを学ばない (5(」という件が出典であった。
キリスト教関係者のものと思われるこのような声はどの程度、軍隊内の良心的兵役拒否の行動に反映されたであ
ろうか。まず志願軍内のキリスト教信者の兵士数を推定しなければならない。三七〇万人の信者を一九五〇年当時
の人口数五億五一九六万 (6(で割ると〇・六七〇三三%になり、その性別と年齢構成などを考慮せずに単純にその比率
を計二九〇万の志願軍兵士に当てはめれば、約一万九四三九名の信者が志願軍内にいた計算になる。そのうちの二
名については、関係する資料が確認できる。一名は一九五一年一月に従軍した張正発というカトリック信者である。
張は一月一九日付の日記に、「人間は不死不滅の霊魂かどうか」について考えたことを書き、その続きの頁には、
夜の祈りの後、もっていた前年の教会月刊誌を捲り返しながら「右盗の懺悔」とのキーワードを使って感想を記し
た。この日記帳は、従軍に際して教友の李義立から送別の記念品として贈呈されたものである。その連絡先からみ
て二人の郷里は河南省南陽専区唐河県内にあったと思われる (7(。カトリックは唐河県に長い歴史を有し、一八八五年
にイタリア人宣教師が今の湖陽鎮で教会を建てたのを皮切りに、日中戦争勃発前の一九三六年に至るまで一五の教
会堂や地 タ域 ン教 コ会 ウ(「堂口」(が設けられた。戦後の一九四六年には五三五九人の信者を有し、革命後の一九四九年に おいても、四四四七名の信者の規模を保っていた (8(。そのうちの一名であったと思われる張は、日記帳の表紙に「主
の栄光を讃えて」と書いたのみならず、所有者の住所欄には一般民家ではなくカトリック教会堂名の「聖ヨゼフ」
と記し (9(、敬虔な信者のようであった。
もう一名は氏名不詳で、一九五〇年一一月に四川省を発った第三兵団の兵士と思われる。その日記によれば、本
中国軍将兵と朝鮮戦争(続き)(都法六十一-一)三 人は中旬に重慶市朝天門埠頭から汽船に乗り、長江を下って湖北省の宜昌市で一日休憩した後、再び汽船に乗り換え、漢口市に至る。二一日に漢口から京漢鉄道で北上し、「二三日の夜零時、無事に河北省石家庄に到着した。一
ヵ月余り休養し、新暦の新年もそこで過ごした。旧暦年一二月二五日(新暦二月一日にあたる(に石家庄から出発
し、二七日に遼西にある錦西県に着き、臨時的再編を待った。砲兵師団二〇二〇一九六中隊に異動し、観測関係の
砲兵術を学んだ。」旧正月の直後に、出動の命令を受けて錦西県から出発し、「二月九日に瀋陽市を経て蘇家屯で休
憩し、朝食をとって一〇日朝九時に遼東の鳳凰城に着いて休憩した。朝食をとり、一二日に安東市に、一三日には
朝鮮に到着した。」兵士は、三八度線の南にある近畿道抱川郡に至るまでの「一路は、聖母のお守りを蒙って平安
無事だった」と日記に記した (33
(。筆跡が乱れて判読しにくく、空襲を受けながら転戦した慌しい日常がうかがわれる。
この二名の信者の残存した数頁の日記からは、神との関係から兵役について考えた痕跡は見当たらない。良心的
兵役拒否について、かりにキリスト教という形式にとらわれず、「人を殺すなかれ」の戒めそれ自体に焦点を当て
て考えれば、「不殺生」を戒律とする仏教徒の態度に関する考察も一つの接近法になる。多くの志願軍将兵にとっ
ては、キリスト教に比べて仏教がより身近な存在であったからである。実際、日中戦争中にも少なからぬ仏教徒が
従軍していた。仏教の聖地五台山では、戦争勃発当初から、一〇〇〇名在籍していた僧侶のうち四〇余名ほどの青
年僧侶が抗日戦争に加わった (33
(。また一九四一年初頭に、浄土宗の始祖である慧遠が悟りを開いた恒山から二〇キロ
ほどしか離れない霊寿県のある寺院に出家していた仏僧の姿が、河北省中部を流れる滹沱河の畔のある村で行われ
た新兵訓練の隊列にいた。同年一月一五日付の『晋察冀日報』の記事によれば、従軍動機に関する記者の質問に対
し、兵隊になることは根拠地「住民の義務」であることに加えて、「日本軍を駆逐しなければ、生きられない」と
その僧は応えたと報じられた (33
(。
四 それは、自己保存と社会的義務の観点から模範的に回答したものであるが、その二点と仏僧の信仰上の「人を殺
すなかれ」の戒律との間で生じるはずの葛藤をどのように乗り越えたかについては、記事では語られなかった。し
かし訓練中の八、九百名ほどいたその新兵連隊のうち、わざわざ仏僧のことが取りあげられたのは、むしろ彼には
守らなければならない「不殺生」の戒律があったがゆえであったろう。つまり戒律に厳しく縛られる出家僧ですら
従軍したのだから、僧侶ではない一般読者にはなおさら従軍しない理由はなかろうという新聞側の意図があったよ
うに思われる。さらにその論理が読者に響くであろうと予期されたのも、仏教徒には「不殺生」の戒律があるとい
うことが一般常識であるという認識が新聞側にあったからであろう。
ただ、仏僧本人がその葛藤を簡単に乗り越えたとは想像しにくい。大乗仏教には統計学的または功利主義的な観 点から、一人を殺すことで多数を生かすという「一殺多生」の考えがあると説明することも可能であった (3(
(。しかし
戒律との関係への明示的な言及は同記事では回避された。紙幅の関係もあったろうが、不用意にその点を敷衍する
と、兵力となる人的資源の開拓に努める同紙の編集意図に反し、在家の仏教徒を含む一般読者が従軍を考える際の
障害要因を喚起しかねないと判断されたからと思われる。むしろ同記事の前述のくだりの続きにあった一文は注目
される。その新兵僧が所属した中隊の政治指導員の言葉として、「和尚は業務に非常に積極的で、読み書きができ
ることから毎日、文書係の登録事務に協力している」と紹介され (33
(、戒律から生じる葛藤を乗り越える便法として戦
闘以外の業務に従事することも実際にあり得ることを暗に読者に伝える一文であった。
五台山の西側に位置する山西省北部で八路軍を掃討する「北支派遣吉沢部隊」の一兵卒、宮柊二が、一九四〇年
一〇月一日付の『短歌研究』に寄せた「一人の八路兵」と題する一文で戦場での一場面を伝えている。岩だらけの
山岳地帯で「激しい戦ひ 00000」が済んだ昼過ぎころ、敗走する八路兵は「五、六人ずつ固まって稜線から谷へまた斜面
中国軍将兵と朝鮮戦争(続き)(都法六十一-一)五 へと歩きながら時には日本軍を味方と思い違いして近づいて来ては打たれたりしていた。」一人の八路兵は地面の
割れたところに身を隠した。谷をおりながら敵を求めていた日本兵はそれに近づいていく。銃を構えたその瞬間、
八路兵の隠れたところで轟音と白煙が起った。手りゅう弾で自爆したのである。休憩中の宮は少し離れたところか
らそれを眺めていた。「敵は発見されるや両手を合わせて助けて貰ひ度い心を表現したさうだが、既に沢山の戦友
を失ひ、又銃を構えた彼自身が首を上げれば射たれ手を上げれば射たれる弾丸の暴 あらし風雨の中におかれた憤ろしさは、
とてもそんな恰好に妥協する余裕が無かったし、又、今更助けて呉れもないものだというやうなせっぱつまった憎
しみで〝否〟と首を横に振ってしまったさうである。それと同時に敵はもってゐた手榴弾で自爆して了った。」後
からそれを聞いた宮は、「自爆する位ならばどうして手を合わせたであろうか」と疑問を感じ、「その際の彼に起っ
た精神の動揺」について想像をめぐらせた (32
(。
八路兵が両手を合わせたのは、助けてもらいたい心よりも、別の理由による可能性が高い。投降の意思表示とし
て両手を上げたのではなく、また命乞いの意思表示として両手を合わせながら額を地に打ちつける(「磕頭」(ので
もなかったことから、僧侶がみずから入寂を実施する際に意識を集中すべく手を合わせる姿勢を連想させる。八路
兵の遺品には「手榴弾三、チェッコ弾倉、同弾〇〇〇発、青竜刀、水筒、背嚢等」があった (32
(。十分に弾薬があった
にもかかわらず、彼は近づく日本兵に対してそれらの使用を試みなかった。手りゅう弾を投げられないほど負傷し
たことも考えられるが、「死なばもろとも」という考えで相手がもっと身辺に近づいてから自爆する方法も選ばれ
なかった。同人は元僧侶か仏教の影響をつよく受けた者であったように思われる。
一般的に言えば、八路軍には武器弾薬が極端に不足していたことがよく知られている。青竜刀を携帯していたと ころをみると、この部隊も例外ではなかったようである。しかし「激しい戦ひ 00000」の末ににもかかわらず、まだ四発
六
もの手りゅう弾と三けたにのぼる銃弾を所持していたことから、その八路兵は戦闘当初から敵に向けて投弾や発砲
をほどんどしていなかったか、給弾補助要員のような存在であったように思われる。また彼の背嚢には、高等小学
校の地理教科書と小学校初級用の国語読本、手習帖に加えて、『抗日軍人読本』や同年一月発表の毛沢東『新民主
主義論』を一部抜粋した謄写版刷りが含まれた。識字率がきわめて低かった軍隊では高等小学校の学力程度で「知
識分子」と認められていたことを考えれば、彼は戦闘要員よりも、そもそも文書・通信連絡係であった可能性が高
い。「チェッコ弾は美しく磨かれてあった」と確認されたが、最期には復讐や憎しみではなく、なるべく相手に危
害を加えない慈悲の心で成仏することが選ばれた (32
(。
自己保存や社会的義務と、信仰上の「不殺生」の戒律との間で生じた仏教徒の葛藤については、日中戦争中の仏
教界一般の対応にもあらわれていた。盧溝橋事変の直後に、全国仏教界の指導的存在であった太虚法師が国内外の
仏教徒に対して呼びかけた行動のうち、仏法の修行を続けて侵略国が暴力を止めるよう祈祷することに加えて、
「負傷兵の救護、難民の収容、死者の埋葬、民衆に対する防空防毒など戦時常識の普及」など後方活動の業務習得
とその従事をあげていた。実際、たとえば第二次上海事変の際に上海の仏教界が「僧侶救護隊」の旗を掲げて八二
七三名の負傷兵と難民を救助した (32
(。さらに翌年二月に戦乱のなかで半年も上海郊外に放置されたままの六一八七体
の戦死者を埋葬した (32
(が、戦闘それ自体には加わらなかった。
従軍は不殺生の戒律に悖るとの意見は、その後の一九四七年一月一日に公布された中華民国憲法にある人民の兵
役義務をめぐっても表出された。憲法第二〇条に「人民は、法律の定めるところにより兵役に服す義務を負う」と
定められたが、それについて青島仏教分会などの仏教徒らは声明を出し、漢民族の僧侶を兵役が免除されるモンゴ
ル・チベット族の僧侶と同じように扱うべきことを求めた。彼らは「国民の義務に服すことと、戒律に反する殺人
中国軍将兵と朝鮮戦争(続き)(都法六十一-一)七 行為を行わないこと」の両立を模索したのである (33
(。この宣言から三年を経て朝鮮戦争に直面した仏教徒にとって、
信仰上の「不殺生」の戒律は、むろん消えたはずはない。
仏教のさまざまな影響が志願軍将兵の脳裏に残っていたことの片鱗は、三八軍一一四師団三四〇連隊の高潤田小
隊長がみせた一つの行動からうかがわれる。高は出動する前に私物を部隊の留守所に預けるとの規定に従わず、そ
れを防水シートで包んだうえで、集結地であった遼寧省旧開原城の郊外にある仏寺境内の古塔の近傍に埋めた。高
のこの行動は、江擁輝・副軍長が後に書いたところによれば、「彼は間もなく自分が帰って来られると思った。蒋
介石を簡単に打ち負かしたし、アメリカの鬼どもも同じく中国人民志願軍の前で敗将になるに決まっていると信じ
たからだ (33
(」と説明された。
このような江の説明は、羅貫中著『三国志演義』のうちの「関羽が華雄を斬る」という故事を連想させる。曹操
ら一八路の諸侯は、袁紹を盟主として推挙し董卓を討伐すべく反旗をあげた。それを迎え撃つ董軍側は、武将・華
雄が先頭にあたり、連合軍側の数名の将軍を立て続けに斬った。萎縮の空気が漂う袁紹の大本営内にまだ無名の関
羽が、みずからの出馬を申し出て許された。曹操から燗をつけた「壮行の酒」を差し出されながら、飲まずに「慰
労の酒」として預けておき出陣した。まもなく関羽は華雄の首を提げて帰還し、取り置きしたその酒を飲んだ。酒
はまだ温かった、という粗筋である (33
(。長年いくさ物語として好まれ、京劇の演目にもされた (3(
(。回想を書いた江およ
び他の資料提供・執筆分担者ら (33
(は直接に『三国志演義』からその故事を知ったのか、それとも三八軍の所属した第
一三兵団司令官の鄧華が兵団の直属団体として京劇団を置いたほどの京劇愛好者であった (32
(関係で観劇を通じて同故
事を知ったのかは、確認する術がない。重要なのは、実力に関する自己評価が高く簡単に勝利できるという確固た
る自信をもつ場合の描写手法において、両者が酷似していることである。
八 しかし模倣された『三国志演義』は文学作品であり、歴史そのものではなかった。史書『三国志』では華雄を斬
ったのは関羽ではなく孫堅であったことがよく知られているが、そのことは問題ではない。ここでの問題は、同じ
自信の強さを示すのに、温酒が冷めるのに要する時間の短さと仏塔が意味する永遠の時間という逆の意味しかなさ
ない参照物が使われた点である。つまり、出動後のみずからの生命の儚さを強く意識したからこそ、自己を永遠性
のあるものと一体化させようと考えられるのであり、高の行動は一時的に所属する軍組織よりも輪廻転生で永遠を
約束してくれる仏教に信頼を寄せたことを前提に取られたものとして解釈しなければ論理が成り立たない。
高の勝利への自信に関する江の解釈は、後に軍事作家の王樹増によって踏襲された。しかし他方、それではなぜ 仏寺なのかという必然性は説明できないと気づいたかのように王は、「すべて 000が変ってしまうかもしれないが、こ
の古塔はここに数百年も聳え立ってきたため、アメリカの鬼どもを討つこの数日の間に消えることはないであろう
から」と書いた (32
(。王の敷衍は図らずも江の解釈に内在する矛盾をいっそう際立たせた結果になった。論理的に考え
れば、変わる可能性のある「すべて」のもののなかに、所属する軍組織それ自体も当然含まれる。江と王はいずれ
もみずからの解釈によってジレンマに陥ったのである。
江と王がここまで文章の論理を無視せざるを得ないのは、イデオロギー上、志願軍将兵の意識のなかに存在して
いた宗教性を認めるわけにはいかなかったからである。このような政権側の公式な立場は、前述した第三兵団のカ
トリック信者が自己の無事を聖母マリアの庇護に帰した文言を記した市販の日記帳の下部欄外に、「人間の階級性
は、階級社会における人間の本性であり、社会の本質である」という劉少奇の言葉が時の流行の「警句」として印
刷してある (32
(ことからも、うかがわれる。そもそも仏教は信仰の告白を要しない宗教という性質をもち、それに加え
て、政権による宗教性の否定があるため、志願軍内における良心的兵役拒否の事例を発見しようとする作業をより
中国軍将兵と朝鮮戦争(続き)(都法六十一-一)九 困難にした。 以上のようにキリスト教と仏教という二つの観点から志願軍内における良心的兵役拒否の状況に接近を試みたが、ここでは「人間性」という第三の補助線を引いてみたい。具体的な宗教形式の如何にかかわらず、人間は、はるかなる昔から文化が広まってきたことで発展してきたもの、すなわち人類という「同胞」を殺すことに対する抵抗感や嫌悪感を生まれながらもっている。それはアインシュタインとの往復書簡でフロイトが、人間の破壊的な衝動に対抗しうる感情として語った「戦争嫌悪」の感情でもある (32
(が、その観点から接近することである。しかし、毛沢東
らは「宗教性」にとどまらず、「人間性」も「階級性」に従属すると捉えていた。毛は一九四二年五月に延安で開
催された「文芸座談会」で語っている。「〔人には抽象的な人間性はなく、〕具体的な人間性しか存在しない。階級
社会の人間性は、階級性をもつものであり、階級を超えるような人間性は存在しない。われわれはプロレタリアの
人間性を主張し、ブルジョアやプチブル階級はブルジョアとプチブル階級のそれを主張する。 (32
(」普遍的な人間性の
存在が否定されていたため、中国側の当時の資料に基づいて正面からこの問題に接近することは難しい。
そこで、朝鮮における志願軍将兵の相手であるアメリカ軍将兵が抱いていた「人を殺す」ことに対する感情を一
瞥し、もって志願軍将兵のそれへの逆照射を試みたい。朝鮮戦争中にアメリカ軍兵士の実際の「発砲率」は五五%
であったが、殺人に対する兵士の抵抗感を減らし殺人の「効率」を高めるために「科学的」に訓練が施される以前
の数字は、それよりも一段と低かった。たとえば第二次世界大戦の場合、日独軍との接近戦に参加した四〇〇個以
上の歩兵中隊を対象にアメリカ軍のS・L・Aマーシャル准将らが行った一連の調査によれば、「同大戦中の戦闘
ではアメリカのライフル銃兵はわずか一五~二〇%しか敵に向って発砲していない。日本軍の捨て身の集団突撃に
くりかえし直面したときでさえ、彼らはやはり発砲しなかった ((3
(。」
一〇 奇しくもこの比率は、キリストと釈迦を問わずそのよさを自らの思想に吸収し、かつ人間への非凡な洞察力をも
つトルストイが、合法的殺人を行うナポレオン軍兵士を描く際にイメージしていた「発砲率」の低さや抵抗感の強
さと比較してもさほど変らない。一八一二年秋に起きたモスクワ大火の放火犯とされた者の処刑にあたり、一列に
並ぶ八名のナポレオン軍兵士から射撃が行われたが、わずか八歩しか離れない至近距離から発砲したにもかかわら
ず、死刑囚の体には二ヵ所の出血箇所しか主人公のピエールによって視認されなかった。怯えて顔面蒼白となった
兵士らに関する現場描写 ((3
(とともにそれに込められたのは、四分の三の兵士が意図的に標的を外したという暗示であ
る。すなわち合法的な殺人にもかかわらず、七五%の兵士はそれの拒否を選び、一種の変形した軍隊内における良
心的兵役拒否を実施したのである。
この比率に毛沢東が気づいたかどうかは判然しないが、トルストイの作品に込められたヒューマニズムについて、
毛は儒教の唱えた「仁」とともに文芸座談会で批判したことがある。「いわゆる〝人類の愛〟については、人類が
階級に分裂してからは、そのような統一した愛などはもう存在しない。支配階級はそのようなものを提唱し、孔子
も、トルストイもそのようなものを提唱するが、誰も本当にそれを実施した例がない。階級社会においてはそれが
あり得ないからである ((3
(。」
しかし、中国軍将兵に存在していた人を殺すことへの抵抗感という人類共通の生得感情は、毛の否定によってた
だちに消し去られるものではなかったであろう。アメリカ軍ほどに「科学的」かつ「効率的」に殺人の訓練を受け
なかった志願軍将兵の発砲率は、せいぜい一五%~二五%程度にとどまっていたと推測される。それを裏付ける直
截な統計数字はないが、みずからの生命を絶つまでして兵役拒否をした志願軍の前身組織に関係する事例はいくつ
もある。抗日戦争中の一九四〇年冬に晋察冀根拠地の北岳区で部隊の規模拡大が行われ、五台第一四区のある村で、
中国軍将兵と朝鮮戦争(続き)(都法六十一-一)一一 一名の青年が首吊りを企図したが未遂に終わり、また「ある村では従軍を忌避する一名の青年がみずから縊死し
た。」一九四一年冀魯豫軍区第三分軍区では一〇〇八名の減員が生じたが、その〇・二%を占めたのは自殺者であ
った。また国共内戦中の一九四七年に軍拡を行った山東省渤海第一分区では、その悩みで「精神が錯乱した者一一
名、自殺した者三六名、自傷して障害となった者九八名がいた (((
(。」さらに一九四九年四月に冀魯豫区党委員会の作
成した文書によれば、南下準備のために進めた新兵募集のなかで、それを忌避して逃亡した青年は少なからずおり、
山東省東阿県では縊死や水死をもって兵役拒否を示した者が三名いた ((3
(。
むろん、これらの者のすべてが良心的兵役拒否の理由のみで自殺を選んだと安易に結論することはできない。し
かし自己保存の観点から「殺すか、殺されるか」という究極の選択を迫られ、ついに自死というそのいずれでもな
い選択肢を選んだ不戦・反戦を志向した将兵がそのなかに一人もいなかったとも言えないであろう。そう解釈でき
るのであれば、これまで勇気のないものとして片づけられた行動には、むしろ「殺さない勇気」があったと捉える
ことができるようになる。そして従来、「生を貪り死を恐れる」結果として位置づけられた一連の「脱走・自傷」
行為についても、少なくとも部分的または一時的な良心的兵役拒否の側面が含まれると理解することが可能となり、
もっぱら「利己性」の本能という従来の視点ではなく、同胞の人類を殺すことを拒否する人間性、いわば「利他
性」の視点から、その理由を考え直す必要が出てくるのである。
(
( 1(拙稿「中国軍将兵と朝鮮戦争――対米感情・復員・脱走を中心に」『法学会雑誌』第六〇巻第一号(二〇一九年七月(。
( 稲垣真美『兵役を拒否した日本人』(一九七二年(、同『仏陀を背負いて街頭へ』(一九七四年(を参照されたい。 2(日本の良心的兵役拒否の事例については、岩波新書として刊行された阿部知二『良心的兵役拒否の思想』(一九七〇年(、 3(拙稿「朝鮮戦争における戦局の転換と中国市民」『法学会雑誌』第五八巻第二号(二〇一八年一月(一六頁。
一二
(
( 4(「蘇南高淳県農会幹部誤解和平簽名為『講和』」『内部参考』一九五〇年七月四日。
( 八七、一九八八(一〇六三、一四五三頁。 5(『旧約聖書』ミカ書第四章第三節にも同様の件がある。共同訳聖書実行委員会『聖書新共同訳』(日本聖書協会、一九
( 6(国家統計局『中国統計年鑑―二〇一九』(中国統計出版社、二〇一九年(三一頁。
( 7(『중공군문서』제4권、342―346쪽。
( 8(唐河県地方史志編纂委員会編『唐河県志』(中州古籍出版社、一九九三年(六三五頁。
( 9(『중공군문서』제4권、342―346쪽。
( 10 (同右、347―348쪽。
( 〇一五年(二二一〇―二二一一頁。 11 (李隆海等「五台山和尚的抗日愛国事跡」政協河北省委員会編『晋察冀抗日根拠地史料彙編』(下((河北人民出版社、二
( 12 (江波「一個新兵団」『晋察冀日報』一九四一年一月一五日。
( の考えについては、学愚『佛教、暴力与民族主義』(香港中文大学、二〇一一年(を参照されたい。 『禅学研究』(花園大学、第六五号、一九八六年、七八―八〇頁(を、また日中戦争中の中国仏教徒にとっての「一殺多生」 13 (仏教における殺人の正当化の問題については、ポール・ドミエヴィル(林信明訳(「仏教と戦争――殺生戒の根本問題」
( 14 (江波「一個新兵団」、前掲。
( 五―四九頁(を参照されたい。 おける「殺人への抵抗感」については、鹿野政直『兵士であること動員と従軍の精神史』(朝日新聞社、二〇〇五年、二 15( 宮柊二『宮柊二集6』(岩波書店、一九八九年(九―一一頁。同『別巻』、一二〇―一三八頁。宮の歌に詠まれた戦場に
( 16( 『宮柊二集6』、前掲、一〇頁。
( 耀『徐光耀日記』第一巻(河北教育出版社、二〇一五年、三五二頁(にある。 取って印刷されたものと思われる。また、高等小学校程度の学力で「知識分子」と考えられていた事例は、たとえば徐光 17( 同右。毛の謄写版刷りの題名は『新民主主義的憲政』と記されたことから、毛の『新民主主義論』の第五節だけを抜き
( 二三三―三一七頁。 18 (樂觀「佛教在抗戰期間的表現」張曼濤主編『中國佛教史論集(七(――民國佛教篇』(大乘文化出版社、一九七八年( 七八頁。 19 (範成・彗開口述「仏教掩埋隊実写」上海佛学院主編『妙法輪』第三巻第一至九期合刊、一九四五年一〇月一日、七五―
中国軍将兵と朝鮮戦争(続き)(都法六十一-一)一三 (
( 20 (「為漢僧服兵役宣言」上海印光大師永久記念会『弘化月刊』一九四七年第七三期。
( 21 (江擁輝『三十八軍在朝鮮』、前掲、三四頁。
( 22 (羅貫中『三国演義』第五回。
( 雄」または「汜水関」という別名がある。 23 (曽白融主編『京劇劇目辞典』(中国戯劇出版社、一九八九年(一九五―一九六頁。同劇は「斬華雄」以外に、「温酒斬華
( 24 (江擁輝『三十八軍在朝鮮』、前掲、五八二―五八三頁。
( 25 (『杜平回憶録』、前掲、二三頁。
( 26 (王樹増『遠東朝鮮戦争』(解放軍文芸出版社、二〇〇五年(一二九頁。
( 27 (『중공군문서』제4권、347―348쪽。
( 一―五五頁。 28 (A・アインシュタイン、S・フロイト(浅見昇吾訳(『ひとはなぜ戦争をするのか』(講談社学術文庫、二〇一六年(二
( 29 (毛沢東文献資料研究会編集(竹内実監修(『毛沢東集』第八巻(北望社、一九七一年(一三九―一四〇頁。
( 30 (デーヴ・グロスマン(安原和見訳(『戦争における「人殺し」の心理学』(筑摩書房、二〇〇四年(四三―四五頁。
( 31 (トルストイ(藤沼貴訳(『戦争と平和(五(』(岩波書店、二〇〇六年(三六〇―三六三頁。
( 32 (竹内実監修『毛沢東集』第八巻、前掲、一四〇頁。
( 33 (斉小林『当兵』、前掲、一九九、二八五頁。
編』第三輯文献部分(下((山東大学出版社、一九八九年(五二四頁。 34 (「冀魯豫区党委拡大会議総結報告(一九四九年四月(」中共冀魯豫辺区党史工作組弁公室編『中共冀魯豫辺区党史資料選