長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第24巻 第2号 97‑111 (1984年1月)
Chaucer と『リディア物語』
II
比良俊典
Chaucer and the Comedy of Lydia
II
Toshinori HIRA
打算的な主人と骨抜きになっている主人
Lydiaの悪巧みに愚弄されるDeciusのことは、その考えも情念の程 も、これといって別に、何一つ判っている訳でもない。狩に興じてLydiaを顧 みない他、 Lydiaに迫られると、骨抜きになっているDeciusは、奥方の思い の儀、婁抜き、歯抜きをまんまとして遣られ、揚句の某は、奥方に、 Pyrrhus との情事を仕組まれ、寄ってたかって馬鹿にされている点に、某かの人柄が覗 いていると言えばいる。
これに対し、 Mayを要るJanuaryの考えは打算的だ。自由気健な暮 らしをして、年を取ったJanuaryは、奥を迎えることを決意、この先、情慾の 対象(尤も、話手の商人の言によれば、墓碑したせいか、それとも神の御心に 副おうとしてか)となる年若い女子(10を、あれこれ心に措いた揚句、自分の町
に住む美しいMayを伴侶とすることに決めたのだ。
IV(E) 1417
"She (i.e. January's wife) shal nat passe twenty yeer, certayn;
Oold丘ssh and yong flessh wolde I have ful fayn.
Bet is, 'quodhe, "a pyk than a pykerel,
」And bet than old boef (beef) is the tendre veel."
この六十路を過ぎたJanuary、パヴイ‑ア(Pavia)の騎士という触れ込みにし ては、万事に打算的。動機は如何わしいとしても、宮廷愛志向がない訳でもな
いo(1乃若い恋する騎士宜しく、 Mayを庭へ誘うのだ。ところが、 Mayを鳩に準
える処なぞは、些か、宮廷愛的とは言い難い。
IV(E) 2141
Com forth now, with thyne (i.e. May's) eyen columbyn (like a dove)!
How fairer been thy brestes than is wyn!
The gardyn is enclosed al aboute;
Com forth, my (i.e. January's) white spouse ! out of doute Thou hast me wounded in myn herte, 0 wyf!
No spotofthee ne knew Ial my lyf.
Com forth, and lat us taken oure disport;
I chees thee for my wyf and my con fort.
確かに、美しい姿と釣合が取れた色合からか、鳩は『蕎蕨物語』 The Romaunl oftheRose)の庭にも姿を現わし(18)はするものの、いとしい者とか、連れ合い を思い遣る処から、仲が好いことの誓えの他、恋する者に対するatermofen‑
dearmentとして使われる。(19)万事に打算的で、凡そ、騎士らしからぬJanuary の台詞eO)だけに、このMayへの呼掛けは、十四世紀後半、すでに指頭し掛け ていた豪商出の騎士の、宮廷愛に対する抑輪の線が強い。 Chaucerは過ぐる年 (1382年頃)、すでに、実質的には、宮廷愛を廻る論争を、鳥のお喋りという形 で遣っている。倫理的宮廷愛を是とする猛禽類の考えに、功利的な水鳥の意見 を対比させている。鷲鳥の発言がそれだ。
Parliament ofFowls 567
But she (i.e. the lady) wol love hym (i.e. the lover), lathym love an‑
other!
たとい、恋する相手がどん」1二つれなくても、恋する者は、相手の女性の思召
に与れるよう心を砕く、こんなことはJanuaryにしてみれば、青臭いお笑いな
のだ。
ChaucerとFリディア物語』 no DO
IV(E) 1274
thise bacheleris synge "alias,"
Whan that they fynden any adversitee
In love, which nys but childyssh vanytee.
それに引き換え、奥とは、主人の面倒見が好い控1)上、 Theophrastus ではないが、大層安上り。主人の持物の中で、金は言うに及ばず、田地田畑、
家畜、地代といったものの、どれより有難い。
IV(E) 1311
A wyf is Goddes yifte verraily;
Alle othere manere yiftes hardily, As londes, rentes, pasture, or commune, Or, moebles, alle been yiftes of Fortune, That passen as a shadwe upon a wal.
これは『パリの家長』(Menagierde Paris)が、年若い女房に対し、求 めている処と同じだ。
M否nagier但2)
.‥for a better and stronger reason women, to whom God has given nat‑
ural sense and who are reasonable, ought to have a perfect and solemn
love for their husbands; and so I (i.e. Menagier) pray you (i.e. Me‑
nagier's wife) to be very loving and privy with your husband who shall be.位3)
Menagierは、.孫のような女房が、この先、また誰かの女房になることを、無
碍にはしたないこととして遠ざけてはいない。むしろ、理解を示しているぐら
いだが、所詮、女房には、男が嫌になる、口煩い女になって貰いたくはないの
だ。主人の言う処には、何事によらず、素直に従うことを、何にも増して女房
に求めている。 『パリの家長』は、若い女房が「家」の中で、いかに処すかを説 いているので、主人の情慾の程は、 『商人の話』とはまるで違い、格別、これぞ というようなことは、何一つ分からない。それどころか、Januaryの汚名を濯 いで余りあるものがある。 Griseldaの我慢とまではいかないとして、 Menagi‑
erの女房は、主人に素直で、 Mayとは違っていたと考えていい。それにして も、 Januaryの話手ではないが、 Menagierの女房は、一体、主人のことをど う思っていたのか、定かでない。
IV(E) 1851
God woot what that May thoughte in hir herte
尤も、Mayについては、 「主人なんか屈とも思っていない」と、話手は言い添え ている。取方によっては、バースのおかみさんの強かさは、 GriseldaやM6‑
nagierの女房の我慢に対する反動とも考えられる。このおかみさんも、何事に よらず、我慢我慢で、華燭の典を重ねる度に、亭主には煙い存在になっていっ たのかも知れない。おかみさんが若かった時分の、豊穣亭主は、執れも勘定高 く、万事に金銭本位。女房とて、業突張り共には、決して、おかみさんが発く、
次の域を出るものではなかった。
Ill (D) 282
Thow (i.e. the Dotard) seyst we wyves wol oure vices hide Til we be fast, and thanne we wol hem shewe, ‑
Wei, may that be a proverbe of a shrewe!
Thou seist that oxen* asses, hors, and houndes, They been assayed at diverse stoundes;
Bacyns, lavours, er that men hem bye,
Spoones and stooles, and al swich housbondrye, And so been pottes, clothes, and array;
But folk of wyves maken noon assay,
Til they be wedded‥.
Chaucerと『リディア物語』
milこの姿勢は、 Januaryの嫁取りにも顔を出している。
IV(E) 1605
And whan that he on hire was condescended (丘xed), Hym thoughte his choys myghte nat ben amended.
この嫁取り、畢貴するに、 Mayの不貞に終わる処から、巧くいかなかったのだ が、奥方も、己の持物と並べて評価する辺り、バースのおかみさんの年老いた
めおと
亭主と、考えを一にするものがある。この年寄りの亭主も、夫婦という法の枠 を使って、まだ若かった時分のおかみさんに、情慾をぶち当てていたのかも知 れぬJanuaryは、そこの処を披渡している。
IV(E) 1347
0 blisful ordre of wedlok precious, Thou art so murye, and eek so vertuous, And so commended and appreved eek.
Hymenの手を煩わせば、お目当ての美しい女子を独り占め出釆ると、 January は至極御満悦。罪も罪ではない。
IV(E) 1839
A man maydo no synne withhis wyf.
奥になら激しい情慾を、幾らでもぶち当てられるのだ。
求めた愛と求められた愛
Mayに対し、 Damianが抱いた思慕の情と求愛の仕方は、宮廷愛の作 法通り。だから、Damianには己の愛の行き方など、知る由もない。その真撃
な姿勢には、滑稽な愛の結末を、予め知らせるようなものは微塵もない。それ
だけに、宮廷愛の作法に適ったDamianの求愛は、 Januaryの下卑た考えとも
相侯って、いかにも皮肉である。予てからMayを慕っていたDamianは、奥 方に付け文をし己の苦しい胸の裡を披渡、e4)快いお返しの文に接すると、人に 知れぬよう、身のこなしにも気を配り、脚努めて、思いを心の底に沈めるのだ。
IV(E) 2012
He dooth al that his lady lust and lyketh;
And eek to Januarie he gooth as lowe As evere dide a dogge for the bowe.
He is so plesant unto every man (For craft is al, whoso that do it kan) That every wight is fayn to speke hym good;
And fully in his lady grace he stood.
Mayを慈しむ余り、目が見えなくなったJanuaryの焼餅が嵩じ、 Damianは 付け文も思うに任せぬようになりはしたものの、奥方の計らいで、 January自 慢の庭に、まんまと遥入ることを得、梨の木の上で奥方を待ち受けることにな るのだ。主人の激しい情慾に肝易していたMayには、Damianの思慕は渡りに 船、ひたすらMayの導きで、若い騎士の募る思いは、梨の木へと進んだ。
PyrrhusもLydiaと共謀、 Deciusを愚弄することに間違いはない が、 Damianとすると罪はまだ軽い。 Pyrrhusは奥方に対し、仕掛けていった のではない。だから宮廷愛の姿勢はない。 Lydiaの情慾に攻め立てられて、主 人をたばかる処に追い込まれていったのだ。恐るべきはLydia。 Pyrrhusは Lydiaの激しい情慾に、初め、戸悪い、次いで、奥方を般すのに隼殺しを初め
とする難鱒をもってするが、額抜き、歯抜きもものかは、Lydiaはこれも遣っ て退けるから、 Pyrrhusが奥方を妹すには、新たな背徳の上塗も止もう得ぬ。
難題も次々に片付けられたからには、奥方との取り交Lを、Pyrrhusとしては 果たさねばならぬ。 DeciusやLuscaが見ている前で、梨の実を取るというこ とは、 Pyrrhusにしてみれば、もう、これ以上後がない難題に違いないが、こ れとて、奥方の前では何の決め手にもなりはせぬ。いや、 Lydiaには、これこ
そ情慾と惑い冗談のいき着く処。
Chaucerと『リディア物語』
103Lydia 511
Lydia, looking up, sees Pyrrhus in the pear tree:
In the fruit of the tree was the fruit of love.
"Spare, I beg you," exclaims Pyrrhus, "oh Duke, spare decency;
It is not honorable to plough in this place.
This love is too forward, this is not rational desire;
Duke, you can thrust panting Lydia elsewhere.
You have rooms, Duke, and there are places appropriate for such things;
Please yourself, but not so that I must see this boorish display."
避けに避けた揚句とはいえ、結局、 PyrrhusはLydiaに唆される俵、愛の実 を取ったのだから、奥方と共謀の上、主人をたばかったということだ0
女の聖域
Januaryの庭は、いつだって青々とした月桂樹の蔭に、泉を持ってい て、 Plutoも、后と女御を従え訪うぐらい快い所。 Priapusも到底、筆を巧く 揮うことが叶わぬ程の庭なのだ。位6)
IV(E) 2034
Ne Priapus ne myghte nat sumse,
Though he be god of gardyns, for to telle The beautee of the gardyn and the welle, That stood under a laurer alwey grene.
この庭は、周りを石で囲ってあって、ここに出道入りする木戸の鍵は、January がいつも大事に自分で所持していたのだ。だから、妄りに人の出道入りを許さ ぬ、女の聖域を表わしているom夏には、 May共々、 Januaryはこの庭に遊び、
奥方に負目を払うのだ。
Lydiaも、Pyrrhusと謀ってDeciusをたばかるのに、矢張り庭を選
ぶのだ。倣病を使い、養生目的と称し、庭へ出ているPyrrhusには、予め、
事を運ぶ所を示して置いて、当日は、主人共々、病人の介添をし庭へ出て乗る のだ。この庭は、周りを水で囲まれ、緑に包まれた木が数多あるばかりか、真
ん中には、梨の木が影を落とす泉があって、 Lydiaの熱を冷ますには、恰好の 場を提供している。
Lydia 495
spring nows in the middle; a pear tree shades the spring
With its branches, truly endowed with the joys of spring.
To relieve the heat of the fever and the burning of the illness, Languishing Lydia, made glad by her guile, proceeds there.
女の能弁
MayはDamianと梨の木の上で懇ろにしている処を、目が見えるよう になったぼかしのJanuaryに見害められるや、透かさず、主人に良かれと思っ てしたことだと言うのだ。男と撲み合うと目に良いという訳。それも駄目とみ ると、見損ねたのだと、Lydiaと同しような言抜けをしている。尤も、弁の前 提には多少の違いはある。 JanuaryはPlutoの御蔭で、突然目が見えるよう になるのだから、初めは寝起きの場合同様、はっきり物を見ることが出来ない。
これに対し、Deciusの方は、高い所では、得てして物が正しく見分け難いとい うのである。悪いのは主人だ。見誤ったという訳。
IV(E) 2405
Til that youre sighte ysatled (settled) be a while, Ther may ful many a sighte yow bigile.
Beth war, I (i.e. May) prey yow; for, by hevene kyng, Ful many a man weneth to seen a thyng,
And it is al another than it semeth.
He that mysconceyveth, he mysdemeth.
Chaucerと『リディア物語』
m監Lydia521
…Thistreehasadefect,"saidLydiasighing;
"Indeed,heightsareoftenapttodistortvision.
Heseesanddoubts;hetremblesandgroans;hepeers;
Hardlytrustinghiseyeshesinksinastupor.
"Eitheritisso,orIerr,"hesaid,"eithermyeyesexcite Fancies,orawakeIthinkwhatIseeisadream."
Pyrrhusが、梨の実を取る不作法を口走って、Deciusに怪しまれると、Lydia は、悪いことは、一切梨の木の仕業にするのだ。高い所だと、兎角、何でも歪 んで見えるという次第。自分の目を確かめるため、DeciusがPyrrhus共々、
木に登ると、予め計算して置いた通り、Lydiaは主人に、兄もしなかったこと を、見たかのように、思い違いしたのだと言いくるめるのだ。Pyrrhusのこと を、何やら胡散臭い奴だと思っているDeciusに、Lydiaは木の告を申し立て、
揚句の某は、木を倒して仕舞うよう進言する始末。
Lydia548
Lydiasaid:HItisnotPyrrhusbutthepeartreethatmovesme."
"Ashesaw,Isay,sosawI,andIthoughtitwastrue;
ButnowIseemoresurelythatitisnothing."
…AsItoldyou,Duke,itwasthefaultofthetree;
Perhapsitwillmisleadothersagain.
Itsguiltremains,sincesuchanevildelusioncastsitsshadow, Letthepeartreebefelled!"
バースのおかみさんではないが、嘘を吐くのは、女が神から授かった
贈物。これも、何事によらず、亭主に素直に従い、耐え忍ぶを善しとされた女 房の、惨めな身の上に対する埋め合せということ。だからと言って、女房たる 者、宮廷のお方様のように、気高い愛の対象なんかになったりする訳もない(28)
。
愛の女神宜しく、崇められたりはしないのだ。いいとこ、バースのおかみさん
のように、機を織る腕に、多少の覚えがあって、向こう意気が強いとか、亭主 がギルドの束ねを勤め、町の豪い人だと、女房が『御寮人』などと褒めそやさ れたりするとかが精一杯のとこ。いや、それどころか、男を駄目にするEveの 末喬として、決して亭主から善く言われはしない。 Januaryの話は、笑いを 狙った極端な唖だとしても、話手の商人や、これに同調する宿の主人が言う女 房とは、凡そ、善い処がない、悪いとこずくめのあばずれ。女の善くない処ぼ かしが挙げっらわれている。罪障を背負った人間の地金が発かれるのだ。亭主 とて御同様m)だから、女房からは、ケチだの、助兵衛だの、悪態を吐かれる一 家のおぞましい存在なのだ。バースのおかみさんが紹介する初めの亭主達は、
January同様、老篭のくせお盛んで、やっかみが酷い。おまけに香奈ときてい る。 January程の宮廷志向すらない。女の悪いとこぼかしが目に付くイケスカ ヌ奴。おかみさんが編したり、甘えたり、推し立てたりして、しこたま懲らし めて遣ったと噴く所以だ。亭主が亭主なら、女房も、己の肉をいとおしみ、己 の肉の命じる処に素直な人間なのだ。それ以外の何者でもない。
話手と話
『リディア物語』の話手は、一人乃至はそれ以上の、今では詳らかで杏 い宮廷の詩人だったと考えられている。
Lydia 1
After the first had smiled at the measures of the sportive warrior, A second muse sharpened my mind once more.
So that a new Lydian comedy modeled on the old might please, I have devised matters remarkable for women's wiles.
作者は、宮廷社会の人々を操って、女の悪巧みを戒めようとする、多分に教訓 的な話(30)を意図したものと考えられる。
『商人の話』はこれとは違う。 fabliauだ。筋立、人物共に『リディア
物語』に酷似してはいるものの、 fableとは、少々違う種の話になっている。(31)
更に、 fabliauとしても一般的でない。騎士が笑い種になるからだ。 January
を初めとして、作者が操っている人物は、総て宮廷の人々だから、宮廷以外の
人の教養の程や生き様が、宮廷の読者聴衆からみておかしいということにはな
Chaucerと『リディア物語』
107らぬ。ところが、『キャン夕べリ物語』(TheCanterburyTales)の作者は、色 んな話手に、概ねその社会階層に見合う話をあてがっている。(32)だから、商人 にはfabliauが打って付け。功利的なJanuaryは、話手の商人その人のこと と考えていい。話手をJanuaryと一緒にして、一人の人間の全体的な姿が、示 されるようになっているのかも知れない。Mayは無論のこと、Januaryは話手 の商人同様、Chaucerの読者には、元々の騎士でないことは、その考えや志向 から、直ぐにそれと知れたと思われるJanuaryの話手の名は明かされてはい ないが、身形から、豪い人であることが示唆されている。この商人のモデルは、
Maghfeldとも考えられている(33)が、それは兎も角、十四世紀後半には、騎士 と身分を同じくする豪商出の宮廷人も、砂くなかったのだ。(34)
してみると、作者は、まずは読者の志向する処に副って、Januaryや
Mayを笑い種にして置き、実はこの老騎士を笑う読者の僅界を、批評していた のではあるまいか。年を取った亭主が、若い女房と懇ろになったこれまた若い 男に愚弄される、このたわいもない筋立は、確かにおかしい。だが、Chaucer のfabliauはこれだけではない。こうした筋立の中に、宮廷的ではない考えと か、志向、生き様が、散見している。(35)読者の宮廷的視点からすれば、功利的 なJanuaryにしても、あることないこと、口から出任せに、櫨を吐いて言い抜 ける知恵を持ち合わすMayにしても、執れも誇張はあるとして、愚かな人間 そのものだ。たとい、どんく日こ愚かでも、汚くっても、JanuaryやMayのよ うな人間の目からは、逆に、やんごとないお方に思いを至し、苦悩する宮廷愛 なぞ、まことに怠惰な椅策ごとすくめの遊びと映るのだ(36)
。この視点からする
と、Januaryはパヴィ‑アの騎士だから、『商人の話』は、恰好の騎士や宮廷愛 を執刺する話と、作者には映ったに違いない。この鼠巡礼の作者は『トパ スの話』(SirThopas)をして、騎士の愛とか武勇を抑輸することになるのだが、
宿の主人から、韻律が低調だなどとお小言を頂戴するものの、romanceをから かうということからすると、打って付けの韻律ということになりそうだ。Thopas は、イギリスが羊毛を売り込むお得意先、フランドル(Flanders)のエセ騎士 ということ的として、それではイギリスの騎士は、そうではなかったのかとい うと、決してさにあらず、大同小異であったと考えて差支えあるまい。エドワ ード三世(EdwardHI)は、̲騎士道精神の昂揚と施策に努めたにもかかわらず、
イギリスの騎士社会は変貌を余儀なくされていたのだ。郷士を旗頭にして、フ ランスとの百年戦争に臨んでいたし、ヨ‑メン(yeomen)に大弓を持たせ、敵
方の騎士を負かしていたのだ。(3秒軍資金の諦達には、羊毛商人が与って功があっ
た。羊毛が古いイギリスを変えていたのだ。羊毛で′駄目になる者もいれば、逆 に高い位に上る者もいた。
Gower Mirour de I'Omme
O wool, noble dame, thou art the goddess of merchants, to serve thee they are all ready; bythy goodforture and thy wealth thou makest some mount high, and others thou bringest to ruin.
今や、羊毛が商人ならずとも、荘園の領主(40)にも、実益を伴った愛の対象とし
いくさ
て、敬われるようになってきていたのだChaucerは、戦であれ、羊毛であ れ、読者に係わりが深いことには、極力触れることを避けている。(41) January の話手の商人は、多分羊毛で財を成し、身を立てたか、その若旦那か何かと思 えてならぬ。というのも、この商人、オーウエル(Orwell)とミッデルプルヒ (Middelburg)の間の、船の往来が巧くいくよう、酷く気を拝んでいるのだ。
Chaucerが、 『キャン夕べリ物語』に筆を染めたと考えられている年の明くる 午(1388年)まで、僅か四年程度であったが、ミッデルプルヒは、イギリスの 羊毛が送り込まれる港だった。
尤も、巡礼の作者は、この商人の口から、羊毛は言うに及ばず、どん な物を商っているのか、一切開けなかった様子だが、もしかしたら、この商人、
富有で高い位に上ったパヴィ‑アの豪い商人とも、出会っていたということか も知れぬ。何せ、羊毛は海を渡って、世界の富める人の許へ送り込まれていた からだ。(42)もしもそうなら、これまた巡礼の船主(Shipman)とも係わりが深い。
荷主から頼まれた物が羊毛だったとしても、この船主の船が、ボルドーから荷 積している処から、羊毛が酒に摩り替えられているように思えてならない。商 人は、羊毛、酒を問わず、様々な物を引き合っていたのだ。羊毛が、当時のイ
ギリスの主な積荷なら、酒は、大陸から持ち込む大事な船荷だった。(43)この船
主が話す、パリ近郊の商人は、フランドルと引合いがある。商う物は、ここで
も明らかでないものの、生活態度は商い第一。 Januaryの話手の商人もこうだ
ったと考えていい。才覚があって、営々と利を求め、財を成す。それでいて客
番、無駄なことは一切しない分限者の態度がそれだ。これは、決して、例えば
巡礼の騎士(Knight)やその楯持(Squire)の、高遠な宗教的社会理想のために
干支を取ったり、(44)思いを寄せる愛の対象から、覚えが愛でたいよう身を処す
Chaucerと『リディア物語』
109態度ではない。巷間、世の移り変りに、抑撮、楓刺が存在する所以である。
Piers the Plowman C‑text IV 2661
Hyt by‑cometh for a kyng・that shal kepe a reame,
To yeue men mede・that meklyche (humbly) hym serueth,
To alienes, to alle men・to honoury (honour) hem with yyftes;
Mede maketh hym be by‑loued・and for a man yholde.
Emperours and erles・and alle manere lordes
Thoruh yiftes hauen yemen・to rennen and to ryde.
Marchaundise and mede・mote nedes (necessarily) go t0‑gederes.
証
(16)中性では、亭主に対し、女房の年が随分と離れていることは、格別、珍しいことでは なかった。 E. Power, Medieval People, Penguin Books, 1954, p. 97を参照せよ。
(17) IV(E), ll. 1600‑1604参照。
RR, ll. 1297‑1298参照のこと.
(19) OED, s.v. Turtle, 2.
C. Muscatine, Chaucer and the French Tradition, Berkeley, 1957, pp. 236‑237 参照のこと。
(21) IV(E) 1291
She (i.e. a wife) nys nat wery hym(i.e. the husband) to love and serve.
「慕い仕える」のは、宮廷愛で恋する騎士が、己の思慕の対象に対して示す姿勢。
(22) E. Power, Medieval People, Penguin Books, 1954, p. 104から引用。
(23)バースのおかみさんは、六人目の亭主を持つことも辞さない。 m(D),ll.44‑45参 照。
C4)例えば、 V(F), ll. 941‑942参照。
A. Capellanus, The Art of Courtly Love, tr. J. J. Parry, New York, 1959, p.
30を参照。
鍋 GuiHaume de Lorris作F暮夜物諦j (Le R&脚de laRose)の庭も参照せよ。広
い庭は石で周りを囲まれ、様々な木や花に交じって、あちこちに泉がある。中でも、高い松 の下の湧き水は、大理石で周りが囲まれ、清明を水を湛えるNarcissusの泉だ。 The R0‑
maunt of the Rose, ll. 1455f.を見よO
(27) ThomasD. Cooke, op. cit., p. 188参照。
W. Langland, Piers the Plowman, ed. W.W. Skeat, (Vol. I, Oxford, 1954)C‑
text, Passus xi, ll. 256f.参照。
Thomas D. Cooke and Benjamin L. Honeycutt, op. cit., pp. 75‑92も参照のこ と。
ThomasD. Cooke, op. cit., p. 110参照。
(311 Fabliauは笑い唖で、意図がはっきりしないと、 Cookeはしている。 Thomas D.
Cooke, Ibid., p. 87.
(32)中性に於ける社会の仕組と、文学の在り方との係わりについては、T.Hira,̀Chaucer's Framing Device of the Canterbury Tales, Part I'in Nagasaki University Annual Bui‑
letin (Faculty of Liberal Arts), Vol. xvi (1975), pp. 83‑84を参照せよ.
M. Rickert, Chaucer's World, New York, 1948, p. 112を見よ。
(341 IV(E)1492‑1495参照。なお、Chaucerと係わりがあったと思われる商人出の豪 い人は、 Nicholas Brembre, John Philpot, William Walworth, John of Northamptonとい った人々M. Chute, Geoffrey ChaucerofEngland, NewYork, 1956, pp. 141‑143を
見よ。
(351 BryanとDempsterの蒐集になる『商人の話』の類話は、手が込んでいない。 W.
F. Bryan and G. Dempster, op. cit., pp. 341‑356参照。
T. Hira, ̀Chaucer's Laughter'in Nagasaki University Annual Bulletin (Faculty of Liberal Arts), Vol. xx(1979), No. 1, pp. 38f.を見よ。 D. Starkey, ̀The age of the household'in The LaterMiddle Ages, ed. S. Medcalf, London, 1981, pp. 230 f.参照。
(37) F.N.Robinson, op. cit.,pp.736‑737を参照のこと。 ̀MockeryoftheFlemings' in Historical Poems of the XIVth and XVth Centuries, ed. R. H. Robbins, New York, 1959, pp. 83‑86も参照せよ。
(38)イギリスのbogus chivalryについては、 M. McKisack, The Fourteenth Century 1307‑1399, Oxford, 1959, pp. 234f.を参照せよ。 W. C. Meller, A Knight's Life in the Days ofChiVairy, New York, 1982, pp. 286‑292も参照のこと.
69)引用したGowerのMirourdeI'OmmeはPowerの英訳E. Power, op. cit.,p.
127.