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李 白 と 黄 山

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(1)

李白と黄山

1伝承の系列化をめぐってー

寺尾

目次 一︑序〜李白の﹁黄山﹂詩の用例

 二︑﹁贈黄山胡公求白鵬井序﹂と﹁送温処士帰黄山白鷲峯旧居﹂

 三︑黄山における李白の意義と関連遺跡

 四︑黄山一帯の李白伝承の系列化について

 五︑結語

   一︑序〜李白の﹁黄山﹂詩の用例

 李白の詩に見える﹁黄山﹂の用例は︑詩題中に五例︑詩句中に七

例ある︒いま︑それらをすべて列挙すると︑以下のようになる︒

 ①﹁秋浦歌︑其二﹂の第二句目﹁黄山堪白頭﹂

 ②﹁自梁園至敬亭山見会公談陵陽山水兼期同遊因有此詩﹂の第二

   愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇ー 第二七号 二〇〇二・三  十五句目の﹁黄山望石柱﹂③﹁贈黄山胡公求白鵬井序﹂の詩題中       ヘ  ヘ      ヘ  へ④﹁送温処士帰黄山白鴛峯旧居﹂の詩題中︑及び第一句目﹁黄山 四千偲﹂⑤﹁登黄山陵敵台送族弟漂陽尉済充汎舟赴華陰﹂の詩題中︑及び 第二十三句目﹁送君登黄山﹂⑥﹁至陵陽山登天柱石酬韓侍御見招隠黄山﹂の詩題中︑及び第十 九句目﹁黄山逼石柱﹂    ヘ  ヘ      ヘ  へ⑦﹁夜泊黄山聞段十四呉吟﹂の詩題中︑及び第五句目﹁我宿黄山 碧渓月﹂⑧﹁宿蝦湖﹂の第一句目﹁鶏鳴発黄山﹂

  延べ数にして十二例︑作品数にして合計八首の詩に﹁黄山﹂とい

 う地名が登場していることになる︒これら李白の﹁黄山﹂の所在地

三七−五一       三七

(2)

る名を

o 一 

愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇ー 第二七号

郁賢皓主編﹃李白大辞典﹄︵広西教育出版社︑一九九五年︶﹁地

︹黄山︺の条︵侃培翔執筆︶では︑以下の三地点に分類してい

ω﹁在今安徽池州市南︑一名黄山嶺︒﹂︵①③⑧を当該の例とする︶

②﹁在今安徽当塗県北︑相伝浮丘公牧鶏於此︑亦名浮丘山︑上有

 宋孝武避暑離宮及凌敵台遺趾︒﹂︵⑤⑦を当該の例とする︶

③﹁在今安徽黄山市︑賂県︑休寧︑飲県交界処︒﹂︵②④⑥を当該

 の例とする︶

 李白の言うところの﹁黄山﹂が︑各々どの地の黄山を指している

のかについては︑かなりの異論が存在するものの︵その点について

は以下に指摘してゆく︶︑この三地点のいずれかであるということ

については︑ほぼ異説はないようである︒

 本稿では︑この三地点のうち︑今日︑世界遺産にも認定され︑中

国だけでなく世界的にも広くその名を知られている㈲の黄山を中心

に︑李白伝承の一つの在り方を検討していくことにする︒なお︑以

下︑論を展開していく便宜上︑ωの﹁黄山﹂を秋浦黄山︑②のそれ

を当塗黄山︑③のそれを単に黄山︵あるいは徽州黄山︶と称するこ

ととしたい︒これは︑李子龍﹁李白新安之游質疑﹂︵﹃李白学刊﹄

第一輯︹上海三聯書店︑一九八九年︺所収︶の呼称に従ったもので

ある︒

一一 A

﹁贈黄山胡公求白閾井序﹂と

﹁送温処士帰黄山白鷲峯旧居﹂ 三八

 李白の黄山伝承を語るにあたって︑とりわけ重要となる作品が二

つある︒それは前節③④の詩︑即ち︑﹁贈黄山胡公求白鵬井序﹂と

﹁送温処士帰黄山白鴛峯旧居﹂である︒以下に頻繁に言及すること

になるので︑今ここに︑その全文を掲載することにしたい︒

 贈黄山胡公︑求白鵬 井序  ︹黄山の胡公に贈りて︑白鵬を求む︒

序を井す︺

  聞黄山胡公有双白鵬︒蓋是家鶏所伏︑自小馴押︑了無驚猜︒以

  其名呼之︑皆就掌取食︒然此鳥歌介︑尤難蓄之︒予平生酷好︑

  寛莫能致︒而胡公鞍贈於我︑唯求一詩︒聞之欣然︑適会宿意︒

  因援筆三叫︑文不加点以贈之︒      かん    ︹黄山の胡公に双白鵬有りと聞く︒蓋し是れ家鶏の伏する

         じゅんあふ    つひ    所︑小より馴押し︑了に驚猜無し︒其の名を以て之を呼

    べば︑皆︑掌に就きて食を取る︒然れども此の鳥︑歌介に

        やしな       はなは    して︑尤も蓄ひ難し︒予︑平生酷だ好むも︑寛に能く致す       ゆづ    莫し︒而して胡公︑我に鞍り贈らんとして︑唯だ一詩を求

       たまた      と    む︒之を聞き欣然として︑適ま宿意に会す︒因って筆を援っ

    て三叫し︑文︑点を加へず︑以て之に贈る︒︺

(3)

請以双白壁

買君双白鵬

白鵬白如錦

白雪恥容顔

照影玉潭裏

刷毛瑛樹間

夜棲寒月静

朝歩落花閑

我願得此鳥

翫之坐碧山

胡公能綴贈

篭寄野人還 請ふ 双白壁を以て君の双白鵬を買はん白鵬 白きこと錦の如く白雪 容顔を恥づ影を照らす 玉潭の裏     きじゅ毛を刷す 瑛樹の間夜は寒月の静かなるに棲み朝は落花の閑なるに歩む我願はくは此の鳥を得之を翫びて 碧山に坐せん     ゆづ胡公 能く鞍り贈れば

篭は野人に寄せて還らん

 送温処士帰黄山白鷲峯旧居

帰るを送る︺ ︹温処士の黄山白鷲峯の旧居に

黄山四千佃   黄山 四千偲

三十二蓮峯   三十二の蓮峯

丹崖爽石柱   丹崖 石柱を爽み       かんたん菌菖金芙蓉   菌菖は金芙蓉

  李白と黄山ー伝承の系列化をめぐってー ︵寺尾 剛︶ 伊昔昇絶頂下窺天目松仙人錬玉処羽化留余踏亦聞温伯雪独往今相逢採秀辞五嶽肇巌歴万重帰休白鷲嶺渇飲丹沙井鳳吹我時来雲車爾当整去去陵陽東行行芳桂叢廻渓十六度碧障尽晴空他日還相逢乗橋囁練虹 伊れ昔 絶頂に昇り下 天目の松を窺ふ仙人 錬玉の処羽化して余縦を留む亦た聞く 温伯雪独往 今 相ひ逢ふ秀を採って五嶽を辞し  よ巌を肇ぢて万重を歴たり帰休す 白鴛嶺渇飲す 丹沙井鳳吹 我 時に来たる雲車 爾 当に整ふべし去り去る 陵陽の東行き行く 芳桂の叢渓を廻ること十六度碧障 尽く晴空他日 還た相ひ逢はば        ふ橋に乗じて繰虹を踊まん

 ﹁送温処士帰黄山白鷲峯旧居﹂の﹁黄山﹂が︑前節③に該当する

きしゅトつ徽州黄山であるということについては︑現在のところ︑ほぼ異説は

ない︒﹁黄山四千偲︑三十二蓮峯﹂という壮麗な表現に見合うだけ

       三九

(4)

   愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇− 第二七号

の山岳で︑他に﹁黄山﹂という名称の山は近辺に存在せず︑また

﹁白鴛峯﹂という名称は現在もなおこの徽州黄山に残っている︒

 一方︑﹁贈黄山胡公求白鵬井序﹂の﹁黄山﹂については︑徽州黄

山とする説が多いとは言え︑異論も少なくない︵後述︶︒いずれに

せよ︑この詩の場合︑詩題︑詩序︑詩中︑いずれにも﹁黄山﹂の所

在地を具体的に認定できるような表現がほとんどないのであるから︑

その特定は不可能と言ってよいであろう︒むろん﹁白鵬﹂︵山鶏に

類する鳥であるらしい︶の棲息地から徽州黄山に特定しようとする

考えもあるが︵例えば王埼は﹃黄山志﹄に﹁白鵬﹂の条があること

から︑この詩の﹁黄山﹂を徽州黄山とする︶︑その点については︑

前掲の李子龍﹁李白新安之遊質疑﹂も指摘しているように︑当塗黄

山︑池州黄山でも棲息地として当てはまってしまうので︑論拠には

ならない︒従って︑この作品の﹁黄山﹂を徽州黄山とする説は︑あ

くまでも﹁俗説﹂であって︑論証の上︑認定された﹁定説﹂ではな

いことを予め注意しておきたい︵むろん現在の徽州黄山のガイドブッ

クの類は︑当然の如く︑徽州黄山を指すものとしている︒例えば陶

方平﹃黄山旅游指要﹄︹黄山書社︑一九九九年︺等︶︒というのも︑

李白の黄山伝承は︑こういった俗説が幾重にも重なって構築されて

いくという︑興味深い特徴を持っているからである︒

三︑黄山における李白の意義と関連遺跡

李白と黄山︵徽州黄山︶との関係を語るにあたって︑まず特記し 四〇

ておきたいことは︑この︑﹁詩跡﹂としても名高く︑膨大な量の詩

篇が書き継がれ︑現存している中にあって︑たいていの黄山関係の

地志類が︑李白の詩をその筆頭に掲げているという事実である︒例

えば︑黄山関係の詩文を豊富に収める閲麟嗣編﹃黄山志定本﹄︵康

煕十八︹一六七九︺年初刻︶においても︑巻六﹁賦詩志﹂の巻頭に

﹁唐︵以前無詩︶﹂とし︑次いでその筆頭に李白の﹁送温処士帰黄山

白鴛峯旧居﹂︑﹁至陵陽山登天柱石酬韓侍御見招隠黄山﹂︑﹁贈黄山胡

公求白鵬井序﹂︵但し︑﹁胡公﹂の下に﹁暉﹂字が加えられている︒

後述︶︑﹁夜泊黄山聞股十四呉吟﹂を順に列挙している︒黄山に関す

る詩が李白以前に存在しない︵少なくとも現存していない︶という

認識は︑すでに清初の康煕年間当時にあって︑一つの常識であった

らしく︑この﹃黄山志定本﹄においても︑その呉綺の序に﹁自唐以

上︑李供奉之前︑靡著雄文︒﹂とあり︑また同じく黄士墳の序にも

﹁黄山之勝︑甲於宇内︑独以地阻且幽︑人 宰至︑見之篇什︑自李

供奉始︑⁝︒﹂と述べている︒また︑ちなみに︑古い地志類に例を

取れば︑南宋の﹃方輿勝覧﹄では︑﹁黄山﹂の条︵巻一六﹁徽州﹂︶

に︑詩に関しては﹁送温処士帰黄山白鴛峯旧居﹂一首のみを掲載し

ている︵ただし﹁送人帰黄鶴峯﹂に作る︶︒南宋時代においても︑

すでに李白のこの詩は徽州黄山を歌った代表作であるという認識が

通行していたようである︒

 後述するように︑黄山の李白遺跡は決して少なくない︒それは単

に︑李白の名声にあやかって︑黄山に一層の箔を付けようという心

(5)

理だけでなく︑黄山に早くから着目した李白に対して︑敬意を表し

たいという念も含まれているのではないだろうか︒李白が現存最古

の詩を残している詩人であり︑さらに言えば︑李白以前の詩が亡侠

したのではなく︑そもそも李白が史上初めて︑詩的題材として黄山

に着目した詩人であるという可能性もある以上︑こういった読者心

理︑黄山愛好者心理をも想定しておく必要があろう︒

 なお︑一応︑付言しておくならば︑李白以前に﹁黄山﹂を歌った

例がほとんど皆無である理由として︑それ以前には︑この山の名称

が﹁黄山﹂でなかった可能性がある︑ということも指摘しておく必

要があろう︒今日の黄山関係のガイドブックのほとんどが︑この山

       い       ゆうは旧名を﹁︵北︶磐山﹂あるいは﹁︵北︶醐山﹂と称していたのを︑

玄宗が天宝年間に勅して﹁黄山﹂と改名したとしている︒また︑顧

祖禺﹃読志方輿紀要﹄巻二八︑﹃中国名勝詞典︵第二版︶﹄︵上海辞

書出版社︑一九八六年︶︑あるいは松浦友久編﹃漢詩の事典﹄︵大修

館書店︑一九九九年︶の﹁黄山﹂の条︵植木久行執筆︶も同様であ

る︒おそらくこれは︑前掲の﹃黄山志定本﹄等にある﹁﹃図経﹄云︑

黄山旧名磐山︒見之﹃水経注﹄中︒盤鋸宣・歎二郡之境︒⁝唐天宝

六年六月十七日︑勅改黄山︒﹂といった記述を論拠としていると思

われる︒ しかし問題は当該の﹃図経﹄なる書物である︒一般に﹃図経﹄と

言えば︑明清時代に大量に現われるそれを別にすれば︑主として唐

李白と黄山ー伝承の系列化をめぐってー ︵寺尾 剛︶ 代に編まれた各地の地図付き案内書の類を言うわけであるが︵完本として残っているものはほとんど皆無︶︑問題のこの文については︑管見のかぎり︑他の輯侠書等には全く見受けられないものである

︵例えば劉緯毅﹃漢唐方志輯侠﹄︹北京図書館出版社︑一九九七年︺

等︶︒一方︑これに類するものとして︑﹃太平御覧﹄巻四六﹁磐山﹂

     きふハきゅう の条で︑﹁﹃飲県図経﹄云︑北彩山在県西北一百六十八里︑高一千

百七十丈︒豊楽水出焉︒旧名黄山︑天宝六年勅改焉︒﹂としている︒

﹁磐山﹂を﹁黄山﹂と改名したと言うのではなく︑その逆なのであ

る︒信愚性において﹃太平御覧﹄の方が圧倒的に高いのは言うまで

もない︒むしろ︑﹃黄山志定本﹄の引く﹃図経﹄の出自を疑う必要

があろう︒

 また︑確かに﹃水経注﹄巻四〇﹁漸江水﹂に﹁磐山﹂とあり︑こ

の黄山と同一の山を指している可能性が高い︵ただし異説もある︶︒

しかし︑かりにそうだとしても︑唐以前から﹁黄山﹂﹁磐山﹂とい

う二つの名称があり︑玄宗当時︑﹁黄山﹂の名称の方が︑より通行

していたのを︑玄宗が何らかの理由から︑正式に﹁磐山﹂という名

称に統一したと考えれば︑一応︑矛盾はなくなる︒後世︑この玄宗

の勅命も功を奏することなく︑結局︑﹁黄山﹂という名称に落ち着

いた︑ということであろうか︒ちなみに黄山案内書の一つに宋立

﹃天下第一奇山黄山之謎﹄︵黄山書社︑一九九八年︶という書があり︑

その中の﹁黒山為何変黄山﹂という項で︑﹁黄山﹂という名称がす

でに漢代から存在したという説もあるとしているが︑その論の出自

四一

(6)

愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇ー 第二七号

を紹介していないのが悔やまれる︒

 むろん︑本稿では︑黄山の名称の由来が︑事実としてどうであっ

たのか︑という点を論議するつもりはない︒後世︑今日に至るまで︑

多くの黄山游記︑案内書の類が︑玄宗の御代に﹁賂山﹂が﹁黄山﹂

に改名されたということを︑頑なに信じているという現象こそが︑

重要である︒ 玄宗︵及び彼の黄帝信仰・道教信仰︶〜黄山〜李

白という一連の連想が︑強固であればあるほど︑李白伝承を生み

出す土壌としては最適なものとなるからである︒

 さて︑その黄山の李白関係遺跡を︑今︑管見のかぎり列挙してみ

たいと思う︒本稿においては︑明らかに強引な附会と思われるもの

も︑伝承研究としては重要と思われるので︑余さず取り挙げてみる

こととする︒

黄山 まず︑黄山自体であるが︑李白が﹁黄山四千偲︑三十二蓮峯﹂

  ︵﹁送温処士帰黄山白鴛峯旧居﹂︶と表現したことが︑少なから

  ず後世に影響を与えている︒黄山を﹁四千傍﹂︵一何は○・八

  丈︑従って四千偲は三千二百丈︒ちなみに一丈は約三メートル︶

  とするのは︑むろん誇張表現である︒﹃方輿勝覧﹄でも﹁高千

  一百八十何﹂としている︒また︑現在の測量では︑最高峰の蓮

  花峰でも一八六四メートルしかない︒しかし︑後世の文人は李

  白のこの表現に引きずられてか︑例えば明の謝肇漸﹁黄山游記﹂ 四二

  に﹁黄山高四千靱﹂と言い︑また同じく明の黄汝亨﹁游黄山記﹂

  にも﹁蓋黄山旧称高四千傍﹂と言っている︵いずれも﹃黄山志

  定本﹄﹁芸文志﹂より引用︶︒また︑﹁三十二蓮峯﹂という表現

  も同様で︑権威ある﹃大明一統志﹄でさえもが︑巻一五﹁寧国

  府﹂﹁黄山﹂の条で﹁有三十二峯﹂としている︒南宋期の﹃方

  輿勝覧﹄が﹁有峯二十六﹂︵宋本による︶とし︑﹃輿地紀勝﹄が

  ﹁有峯三十六﹂としているにもかかわらずである︒ちなみに現

  在では三十六峰︑あるいは七十二峰に落ち着いている︒﹁四千

  傍﹂にせよ﹁三十二蓮峯﹂にせよ︑李白当時すでに当地におい

  てよく言われていた数かもしれないが︑現存の文献では︑李白

  の言及が最も古く︑従って︑後世のこの表現は︑やはり李白の

  句を意識したものと考えられる︒

白鷲峯 ﹃黄山志定本﹄﹁形勝志﹂﹁峰﹂﹁白鴛嶺﹂の条に︑﹁唐温伯

  雪隠此︑李青蓮有詩贈之︑称白鴛峰︒﹂とある︒ちなみにこの

  ﹁唐温伯雪﹂というのは︑李白の﹁送温処士帰黄山白鴛峯旧居﹂

  にある﹁亦聞温伯雪﹂という句に引きずられた誤りである︒李

  白は処士であった温某に敬意を表して︑姓を同じくする﹃荘子﹄

  ﹁田子方篇﹂に登場する隠者温伯雪子を彼に喩えたにすぎない︒

  誤解が新たな伝承を生むという好例として興味深い︒なお現在

  では︑白鷲嶺ロープウェイで知られる白鷲嶺の東の白鴛峰︑標

  高一七六八メートル︑黄山小三十六峰の一つがその山と言う

  ︵黄松林等編著﹃黄山導游大全﹄︹黄山書社︑一九九三年︺等︶︒

(7)

黄山温泉 黄山の南に位置する︒常秀峰等著﹃李白在安徽﹄︵安徽

  人民出版社︑一九八〇年︶及び﹃黄山導游大全﹄によれば︑

  ﹁送温処士帰黄山白鴛峯旧居﹂中の﹁渇飲丹沙井﹂という句は︑

  この温泉の描写であるという︒

煉玉亭 温泉景区の古祥符寺の旧趾に一九五七年に建てたもの︒亭

  名は李白の﹁送温処士帰黄山白鷲峯旧居﹂中の﹁仙人錬玉処﹂

  から採っている︵﹃黄山導游大全﹄による︶︒むろん︑これは李

  白遺跡とは言い難いが︑当地での李白人気を窺う一つの例とし

  て紹介する︒この建築物から後世新たな李白伝承が生まれると

  も限らない︒温泉地区の中心︑非常に目立つところに建てられ

  ている︒

碧山 前掲﹃黄山旅游指要﹄によれば︑李白は黄山東北に位置する      こ  き  後山軒韓峰下の碧山村において︑胡家の高士胡暉の飼っていた

  二羽の白鵬を交換した︑と言う︒ここで登場する﹁胡暉﹂なる

  人物が問題である︒これはおそらく﹃黄山志定本﹄﹁賦詩志﹂

  が李白の﹁贈黄山胡公求白鵬井序﹂を﹁贈黄山胡公暉求白鵬有

  序﹂に作っているのに端を発する︵李子龍﹁李白新安之游質疑﹂

  によれば︑後の嘉慶﹃寧国府志﹄﹁文芸志﹂も﹁胡公暉﹂に作っ

  ている︶︒王碕も当該の詩の注にこの﹃黄山志定本﹄を引き︑

  ﹁﹃志﹄中亦載李白向胡公求白鵬事︑以胡公名暉︑未詳何拠︒存

  之以広異聞︒﹂としている︒李白の主要な別集類には︑一切︑

  このように作るテキストは存在しない︒従って︑出処は極めて

李白と黄山ー伝承の系列化をめぐってー ︵寺尾 剛︶   疑わしいのであるが︑この地方の地志類では︑李白と白鵬を交  換した人物が﹁胡暉﹂なる人であったということは︑ほとんど  常識に属していたらしい︒ちなみにこの伝承は︑著名人である  郭沫若が一九六四年に黄山を訪れ︑﹁黄山之歌﹂を書き︑その  中で﹁又聞唐時李白曽来此︑碧山間路訪胡暉︒為何不為黄山作  歌謡︑只為白鵬作謝辞︒﹂と歌い︑﹃李白在安徽﹄が﹁胡公︑名  胡暉︑黄山山民︑家住碧山︒﹂︵いずれも傍点寺尾︶と注するに  至って︑決定的なものとなってしまっている︒李白学者ならば︑  この伝承が疑わしいものであるということは︑すぐに指摘でき  るのであるが︑伝承というものは︑学者がいくら声を大にして  も︑ひとり歩きしていくものである︒また︑さらに興味深いの  は︑この﹁碧山﹂である︒﹁贈黄山胡公求白鵬井序﹂に﹁我願  得此鳥︑翫之坐碧山﹂とあることから︑李白が彩県の碧山なる  山にしばらく留まったという伝承が生まれている︒李子龍﹁李  白新安之游質疑﹂の考証によれば︑これは明の弘治十五三五  〇二﹈年の﹃徽州府志﹄に始まるようであるが︑この地方志は︑  さらに﹁問余何事棲碧山﹂の句で知られる﹁山中問答﹂もこの  時の作であるとしている︵﹃李白在安徽﹄もこの説を踏襲︶︒ま  さに伝承が伝承を呼ぶという好例であろう︒なお︑この﹁碧山﹂  も前掲﹃黄山之謎﹄﹁李白黄山游縦之謎﹂によれば︑黄山の北  麓だけでなく南麓にもあるそうである︒問余亭  ﹃黄山導游大全﹄は︑胡暉は碧山のふもと胡家村に住んで

四三

(8)

   愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇ー 第二七号

  いたとし︑この亭の説明として以下のように述べる︒﹁相伝李

  白訪胡暉時︑曽在碧山村頭問路︑後人即建亭以資紀念︒亭門両

  傍対聯云﹃緑柳橋辺山径︑青蓮馬上詩機﹄︒今人亦有詩詠道

  ﹃問余亭畔仰詩仙︑昔日至此曽訪賢︒緑柳橋辺山径遠︑游人千

  載憶青蓮︒﹄﹂

太白書院遺趾 同様に﹃黄山導游大全﹄は次のように述べる︒﹁位

  於碧山胡家村内︒因李白曽到過此村︑後人即在村内建太白書院︒

  今書院難殴︑但遺趾尚存︒﹂全国各地に分布する太白書院・太

  白読書台の類が︑この黄山においても存在していたという点︑

  非常に興味深い︒

酔石 おそらく黄山の李白遺跡の中では最も著名なところ︒﹃黄山

  志定本﹄﹁形勝志﹂﹁石﹂の条によれば︑﹁在香泉渓瀞側︒弁而

  逸︑若不勝杯捲者︒昔青蓮游此︑続石酔呼︑故名︒下澗即丹井︒﹂

  とあり︑現在の黄山関係のガイドブックのほとんどが︑この岩

  のことに言及している︵ちなみに﹃李白在安徽﹄に写真が掲載

  されているので参照されたい︶︒黄山温泉の西︑桃花渓の畔に

  ある︒例えば﹃黄山旅游指要﹄は以下のように述べる︒﹁鳴弦

  泉近傍有一石斜立︑名﹃酔石﹄︒鳴弦泉下有一処細小的泉水名

  ﹃洗杯泉﹄︒相伝李白当年在此一辺飲酒︑一辺観景︑一辺聴泉︑

  後来自然是渇酔了︑寛然続石三圏︑大呼三声︑酔臥石傍︑酔石

  之名由此而得︒又伝李白渇酒之後曽在泉水中洗杯︑故此泉名洗

  杯泉︒﹂興味深いのは︑いったんある一つの場所が李白ゆかり        四四  の場所とされると︑その近辺の場所までもが影響を受けて︑新  たな李白遺跡となり︑さらには︑それらが有機的に結び付けら  れて︑一つのまとまったストーリーを持つに至るという︑いわ  ば系列化とも称すべき現象が見られるという点である︒李  白伝承の一つの特徴である︒なお︑この﹁酔石﹂伝承は︑おそ  らく︑あの著名な盧山の陶淵明﹁酔石﹂から着想した附会であ  ろうと思われる︒﹁盧山イコール陶淵明﹂という図式に対抗し  て︑﹁黄山イコール李白﹂という図式を強調しようと考えた好  事家の命名であろうと想像される︒なお︑王埼もこの酔石に関  心を持ったらしく︑﹃李太白全集﹄巻三六﹁外記﹂に︑上記の  ﹃黄山志定本﹄の記述と︑注瀬﹁遊黄山記﹂の﹁有酔石︑酩酊  層巌上︑行者催其迎風堕也︒相伝李諦仙曽踏歌其芳︒﹂という  記述二則を挙げている︒鳴弦泉 酔石の近くにある︒傍らの石壁にある﹁鳴弦泉﹂の行書は︑  ﹃黄山導游大全﹄によれば︑﹃黄山指南﹄︑安徽通志館﹃黄山金  石表﹄︑いずれも李白の手筆であるとしているという︒洗杯泉 鳴弦泉の傍らにある︒李白が杯を洗ったところという伝承  がある︒﹃黄山導游大全﹄によれば︑﹁鳴弦泉﹂の刻字の傍らに  ある﹁洗杯泉﹂の行書も︑安徽通志館﹃黄山金石表﹄は李白の  手筆としているという︒白馬源馬 石 黄山北部の芙蓉峰下にある︒﹃李白在安徽﹄に次の  ように言う︒﹁﹃黄山志﹄︑﹃宛陵郡志﹄記述︑﹃芙蓉峰下有白馬

(9)

  源︑渓南有馬 石二三十︑深者盈尺︑浅者二三寸︑相伝為黄帝

  馬行 ︑李白到此遊覧︒﹄﹂ただし︑この伝承は﹃黄山志定本﹄

  や近来の黄山ガイドブック等には記載されていない︒そもそも︑

  李白と結びつける根拠が稀薄である︒総じて李白伝承︵むろん

  他の伝承もそうであるが︶が定着するには︑その地に︑李白の

  足跡なり︑性格なり︑詩文・作風なりと結びつきやすい何らか

  の要素が存在している必要がある︒

筆峰 現在の黄山北海地区の代表的山峰の一つ︒散花鳩にある︒

  ﹃黄山導游大全﹄は︑今の人は皆この山を﹁夢筆生花﹂︵周知の

  通り﹃開元天宝遺事﹄に見える李白のエピソードから生まれた

  言葉︶と呼ぶとして︑次のような興味深い二つの李白伝承を掲

  載している︒﹁相伝黄山的﹃夢筆・生花﹄也与李白頗有縁分:一

  説李白少年時曽夢遊黄山︑見松海中有一只巨筆聾出雲表︑一朶

  絶艶的紅花在筆端開放︑便伸手去章︑醒来却是春宵一夢︒於是

  人椚称此景為﹃夢筆生花﹄︒男一説是︑李白遊黄山時来到獅子

  林︑為謝長老盛情款待︑揮毫題詩後︑ 酒興順手将毛筆榔出︑

  其筆頓時化作一座山峰︑筆端余墨変成了筆花松︑後人即謂此景

  為﹃夢筆生花﹄︒難然史料中井無李白遊散花鳩的記載︑但民間

  伝説巧妙地将他与李白結合在一起︑却也使他更具神奇的芸術色

  彩︒﹂この二つの伝承の出自は明らかでない︒むろん附会にす

  ぎない伝承である︒しかし︑まさしく生きた民間伝承であ

  り︑まことに微笑ましい︒黄山における李白伝承が︑今後も豊

李白と黄山ー伝承の系列化をめぐってー ︵寺尾 剛︶ かに膨らんでいく予感を感じさせる例として︑敢えて︑ここに掲載してみた︒筆者の言うように︑民間伝承における李白と黄山の結び付けは︑まさに巧妙と言う語に尽きるであろう︒

 以上︑黄山における李白に関わる地名︑あるいは遺跡をおおまか

に列挙してみた︒通観してみるとわかるように︑その多くは清朝以

降に生まれた︑比較的新しい伝承ないし遺跡である︒ただそれも︑

ある意味で当然と言えば当然で︑黄山の名が広く全国的に知られる

ようになるのが明末清初以降だからである︒王克謙選注﹃歴代黄山

遊記選﹄︵黄山書社︑一九八八年︶の﹁前言﹂に﹁由於黄山﹃不当

通都大邑舟車之走集﹄︑地所偏僻︑加上過去交通不便︑所以開発較

遅︑一直到十七世紀纏開始聞名於世︑真是﹃霊縦悶千載﹄︒﹂と言う

が如くである︒むしろ︑それほどの短期間に︑多くの李白伝承や李

白遺跡が生成されてきているという事実にこそ︑我々は着目すべき

であろう︒

四︑黄山一帯の李白伝承の系列化について

 すでに前節で見てきたように︑黄山の李白伝承・李白遺跡は︑あ

る一つの伝承︵あるいは憶測︶が確定すると︑それを起点に︑また

次の伝承が加えられる︑といったように︑伝承が次々と連鎖的に結

び付けられてゆき︑ついには個々の伝承どうしが序列を成し︑一つ

の一環した物語のような形態となる︑といった現象が見られる︒例

四五

(10)

   愛知淑徳大学論集−文学部・文学研究科篇− 第二七号

えば︑﹁贈黄山胡公求白鵬井序﹂に端を発する伝承の展開を見てみ

ると︑

①﹁贈黄山胡公求白鵬井序﹂の﹁黄山﹂を徽州黄山とみなす

 ︵実際は前述の如く特定できない︶︒

②﹃黄山志定本﹄等の記載から︑﹁胡公﹂は﹁胡暉﹂という人

 物である︑とみなす︒

③胡暉は黄山の山民であり︑黄山近くの胡家村に住んでいた︑

 とする︒

④﹁贈黄山胡公求白鵬井序﹂中の﹁碧山﹂は黄山附近にある碧

 山のことである︑とする︒

⑤李白は黄山にある碧山にしばらく住んだことがある︑とする︒

⑥その時に作ったのが︑名作﹁山中問答﹂である︑とする︒

⑦李白は胡暉の家に出掛けようとして︑途中︑人に道を尋ねた︑

 それが﹁問余亭﹂である︑とする︒

⑧碧山村が李白の住んだところと認定され︑そこに太白書院が

 造られる︒

といったように︑伝承は次々と積み重ねられてゆき︑最終的に李

白は黄山を訪れて︑碧山に住み︑﹃山中問答﹄を詠み︑その別天地

のような環境を楽しんでいたが︑ある時︑近くの胡家村の山民で鳥

飼の名人胡暉なる人物の話を聞き︑道を尋ねつつ︑彼の家に着く︒        四六胡暉も李白の名を慕っていたので︑﹃白鵬﹄二羽と交換に李白に詩を求め︑厚い友誼を結んだ︒といったような︑完結した一つのストーリーを構築することになる︒ この﹁胡暉伝説﹂ほどのまとまりはなくとも︑﹁酔石伝承﹂﹁筆峰伝承﹂も︑大なり小なり複数の伝承が複合化・系列化して生じたものと言えるであろう︒ さて︑この李白伝承の複合化・系列化という観点から見て︑非常に興味深い事象がある︒それは︑この李白の黄山伝承が︑この附近全体にわたる︑さらに上位︵メタレベル︶の李白伝承の申の一つとして組み込まれているという点である︒ まずは︑すでに幾度も引いた﹃黄山志定本﹄の﹁人物志﹂﹁李白﹂の条を引いておきたい︒

 李白︑字太白︑瀧西人︑翰林供奉︒天宝間︑訪道江漢︑会故

人章仲堪︒為青陽令︒僑寓九子山︑因訪許宣平︑至新安︑遊黄

山︒黄山胡暉有双白鵬︑蓄久馴押︑蓋禽之秀而文者︒聞白愛之︑

携鵬以贈︑惟索一詩︒詩成︑遂篭鵬帰︒

 この短い一文︑一見すると︑この院南︵安徽省南部︶の地での李

白の足跡を︑明確な一本の線として描き出しており︑実に周到であ

る︒そこに︑何ら筆者のためらいは感じられない︒李白は旅の途中︑

(11)

①青陽︵宣州青陽県︶に至り︑②九子山︵九華山︑青陽県南部にあ

る︶に仮寓し︑③許宣平を訪れるため新安︵新安郡︑つまり歎州︑

宋代以降の徽州︶に至り︑④︵徽州︶黄山に遊んで胡暉から白鵬を

もらった︑というストーリーである︒

 しかし︑実のところ︑この①〜④のうち︑事実と認定できるのは

①のみであって︑以下はすべて伝承︑ないしそれに限りなく近いも

のを積み重ねて︑巧みに序列化したものなのである︒以下︑そ

の点を今一つ踏み込んで検討してみたい︒

 まず︑①は一応事実である︒李白に﹁望九華山贈青陽章仲堪﹂と

いう作品があり︑制作地は書かれていないものの︑詩題から考えて

﹁青陽﹂での作と考えてよいであろう︵この作品の詳細は拙稿﹁李

白と九華山の﹃詩跡﹄化について﹂︹﹃愛知淑徳大学国語国文﹄第二

十号︑一九九七年︺を参照のこと︶︒ただ︑章仲堪を﹁故人﹂とす

るのは︑いささか勇み足であるが︑これは王埼﹃李太白全集﹄巻三

六﹁外記﹂所引の﹃九華山志﹄にも﹁会故人章仲堪︑為邑令︒﹂と

あり︑九華山方面の地方志には常識的に取り入れられていた認識で

あろう︒ ②の九子山︵九華山︶仮寓については︑・事実として認定し難い︒

九華山に関する李白の現存作品は︑前掲の﹁望九華山贈青陽章仲堪﹂

と﹁改九子山為九華山聯句﹂の二首だけであり︑その中で九華山に

隠棲したいという願望は述べられてはいるものの︑実際に隠棲した

という記述は︑一切ない︒しかし九華山には李太白書堂も存在し︑

   李白と黄山ー伝承の系列化をめぐってー ︵寺尾 剛︶ 当地では︑李白がこの山に仮寓したということは︑ほとんど常識として受け取られている︒ ③の新安訪問については︑著名な﹁李白訪許宣平﹂故事に基づいている︒これは﹃太平広記﹄﹁神仙﹂二四﹁許宣平﹂所収の﹁続仙伝﹂にある話で︑概略を述べると︑許宣平は﹁新安︑歎の人﹂で︑唐の容宗景雲年間に﹁城陽山南鳩﹂に庵を結んで住んだ︒何も食べていないかのようであったが︑顔は四十ほどの人のように見え︑行けば奔馬の如くであった︒時には薪を売りにまちに出ることもあったが︑常に﹁一花瓠﹂と﹁曲竹杖﹂を持っていた︒以来三十年︑人の危急︑病気などを助けたりしていたが︑まちの人が訪れても会うことができず︑ただ庵の壁に﹁隠居三十載︑築室南山顛︒静夜翫明月︑閑朝飲碧泉︒樵人歌随上︑谷鳥戯巌前︑楽 不知老︑都忘甲子年︒﹂とあるのを見るばかりであった︒好事家はその詩を愛唱した︒長安を訪れる者がいて︑途中︑駅路や洛陽︑同州︑華州の伝舎にこの詩を書き付けたが︑天宝年間︑たまたま翰林から出た李白が東遊して︑伝舎を経た時︑この詩を見て︑﹁此れ仙人の詩なり︒﹂と激賞し︑人に訊ねて許宣平の詩であることを知る︒かくて李白は﹁新安に遊び﹂︑幾度も訪問するが会うことができず︑やむなく庵の壁に﹁我吟伝舎詩︑来訪仙人居︒姻嶺迷高跡︑雲林隔太虚︒窺庭但粛索︑椅杖空躊躇︒応化遼天鶴︑帰当千歳余︒﹂と詩を題す︒許宣平は庵に帰ってからその詩を見て︑また﹁一池荷葉衣無尽︑両畝黄精食有余︒又被人来尋討著︑移庵不免更深居︒﹂と吟じた︒後︑その庵は

       四七

(12)

愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇ー 第二七号

野火で焼失し︑許宣平の消息もわからなくなったーというもの︒

 このエピソードは古くから非常に広く知られ︑全国レベルの地志

である﹃輿地紀勝﹄﹃大明一統志﹄﹃大清一統志﹄等にも採られてお

り︑許宣平もまた︑歎州を代表する著名人として紹介されている︒

むろん王埼も﹁外記﹂に引用している︒

 ちなみに﹃太平広記﹄では︑結局︑李白と許宣平は会うことはな

かったのであるが︑当地では︑実はこの両者は出会っていた︑とい

う話になる︒というのは︑李白が許宣平宅へ赴こうとして︑川︵新

安江支流の練渓︶を渡る際に乗った粗末な舟の︑老いた漕ぎ手こそ

が︑許宣平であった︑というわけである︒飲県には︑この故事に関

わる遺跡が数多く存在する︒例えば︑許宣平が隠棲していたという

﹁紫陽山︵また﹁城陽山﹂︶﹂︑李白が庵を探して俳徊したという﹁涜

紗埠﹂︑李白が渡し場を尋ねたという﹁太白間津処﹂︑李白が許宣平

のいる紫陽山を顧みたという﹁望仙橋﹂︑李白が許宣平を訪れたと

ころという﹁太白楼︵太白酒楼︶﹂等々︑枚挙にいとまがない︒な

お︑以上の遺跡は林東海﹃詩人李白・下﹄︵美乃美︑一九八四年︶

に写真が掲載されているので参照されたい︒

 細かな考証︵およびその批判︶については︑すでに李子龍﹁李白

新安之游質疑﹂が的確に行なっているので︑そちらに譲るとして︑

いずれにせよ︑出処は北宋初めの﹃太平広記﹄ということで︑大変

古いものであるにせよ︑内容については︑よくある伝奇小説風の作

品であり︑とても事実とは認定し難い︒しかし︑この故事によって︑ 四八

後世︑李白が新安歎県を訪れたという伝承は︑あたかも既成の事実

であるかの如く語り継がれていくことになるのである︒

 ④の李白の胡暉訪問伝承についても︑この李白訪許宣平伝承にあ

やかって︑従属的に組み込まれた可能性が高い︒

 この青陽〜九華山〜新安〜黄山︵なお﹃李白在安徽﹄は︑李

白が黄山に赴いたのは﹁旋徳﹂からであるとするが︑これも李子龍

﹁李白新安之游質疑﹂の批判する如く︑事実に即しているとは言い

難い︶という︑壮大な架空ルートの構築は︑まさに李白伝承ならで

はのスケールであり︑その豊かな膨らみには︑驚くべきものがある︒

※ 今日の考証では︑例えば郁賢皓﹁李白三入長安質疑﹂

 ︵﹃天上調仙人的秘密〜李白考論集﹄︹台湾商務印書館︑一

 九九七年︺所収︶に﹁是年︵天宝十三載︹七五四︑寺尾注︺︶

 深秋︑到秋浦︑写有﹃秋浦歌﹄十七首︒還到過青陽県︑淫

 県︑登過黄山︒﹂とあるように︑黄山へは青陽・浬県を経

 て︑そこから南下して赴いたというのが︑李白の現存作品

 を踏まえた上での︑最も穏当な解釈であろう︒

 他の詩人においては︑このようなケースはおそらく稀有であろう︒

李白の場合︑実際に彼が詩に詠じた場所あるいは実際に足跡を残し

た場所が︑後世﹁詩跡﹂として︑歌い継がれていくケースがまこと

に多い︒しかし︑本稿で取り挙げたように︑まったくの架空の足跡

(13)

離○

○秋浦 ○青陽県

・酬

〈図〉黄山周辺略図

が創出され︑その架空のルート線上にある数々の地までもが﹁詩跡﹂

化されていく︑という現象もまた︑非常に李白的であり︑特筆に値

するのではないだろうか︒

李白と黄山ー伝承の系列化をめぐってー ︵寺尾 剛︶ 五︑結語

 李白は本当に黄山に登ったのであろうか︒第一節でも述べたよう

に︑李白の現存作品中﹁黄山﹂の語が見える詩は全部で八首である︒

﹃李白大辞典﹄はうち三首の﹁黄山﹂を徽州黄山を指すものとして

いる︒しかし︑そのうち︑﹁自梁園至敬亭山見会公談陵陽山水兼期

同遊因有此詩﹂に見える﹁黄山﹂は︑﹁⁝為余話幽棲︑且述陵陽美︒

天開白龍潭︑月映清秋水︒黄山望石柱︑突兀誰開張︒⁝﹂と︑北地

から宣州敬亭山に到ったばかりの李白に対して︑会公が院南地区の

名勝を誇らしげに紹介している場面に登場しているにすぎない︒ま

た︑﹁至陵陽山登天柱石酬韓侍御見招隠黄山﹂も︑詩題からわかる

ように︑韓侍御なる人物に黄山を来訪するよう勧められているにす

ぎない︒してみると︑李白が徽州黄山に登ったということの唯一の      ヘ   へ根拠は﹁送温処士帰黄山白鴛峯旧居﹂中の﹁伊昔昇絶頂︑下窺天目

松︒﹂の句のみと言うことになり︑はなはだ心許ないのである︒

 もし仮にこの作品が後人の偽作ないし他者の作品であったなら

︵むろん有力な李白の別集全てに掲載されており︑その可能性は低い

が︶︑あるいは︑﹁伊昔⁝﹂の句が︑李白一流の空想か︑あるいは温

処士に対する単なる追従であったとすれば︑李白黄山登肇説自体が

根底から崩されることとなろう︵ちなみに︑現在の中国でも李白が

黄山に登ったか否かについての議論も盛んらしく︑それに関する論

著については王輝斌﹁李白在安徽研究総述︵1949〜1993︶﹂

四九

(14)

愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇ー 第二七号

〔『

?送對柱、究﹄一九九五・一九九六年集︑安徽文芸出版社︑一九

九七年︺に紹介されているので参照されたい︶︒さらに言えば︑か

りに登ったのが事実であったとしても︑﹁送温処士帰黄山白鷲峯旧

居﹂中の黄山の描写はあまりにも少なく︑また︑それほど強烈な句

もない︒この作品自体︑黄山を正面から取り挙げたものというより︑

主題はあくまで温処士への送別の意である︒まことに李秋弟﹃詩仙

游縦〜李白与名山勝景﹄︵中国戯劇出版社︑一九九六年︶が﹁大詩

人李白也確曽到過黄山︑但却没有留下人佃所期待的那様多︑那様美

的詩篇︑許多人都為此感到深深的遺憾︒﹂と述べる如くである︒

 しかし︑この山が天下の名山として名を知られているかぎり︑お

そらくは李白伝承も揺らぐことなく発展してゆくものと思われる︒

その一つの理由として︑黄山に限らず︑他の多くの著名な山々にも

見られる現象であるが︑名山を愛した李白が︑この著名な山に登

らなかったわけはないという発想が根強く存在している︑という

点が挙げられる︒例えば︑拙論﹁李白における河東・河北の意義﹂

(『

、知淑徳大学国語国文﹄第二二号︑一九九九年︶にも取り挙げた

が︑李白の訪れたことの全くない渾源恒山にも︑李白伝承が強固に

存在している︒李白の名声を借りて︑その山に一層の箔を付けたい

という心理であろうか︒

 さらに忘れてならないのは︑李白の生み出した山岳に関する無数

の名句である︒後世の詩人文人が︑ある山を訪れ︑その山を形容す

る際︑しばしば李白の句を引用したり︑あるいは換骨奪胎する︒山 五〇

を語るのに︑李白の奇抜な詩句を無視できないのである︒例えば

﹃黄山志定本﹄に掲載されている歴代の詩文を参照しても︑李白の

詩句を意識したと思える山岳表現が随所に見られている︒いくつか

例を拾ってみると︑﹁青天倒挿紫芙蓉﹂︵陳宣﹁遊黄山﹂︶︑﹁九天削

出青蓮峰﹂︵方秀﹁遊黄山﹂︶︑﹁峰峰削出青芙蓉﹂︵江九皐﹁山中月

夜聴猿﹂︶などは︑いずれも李白の﹁望盧山五老峰﹂の﹁青天削出

金芙蓉﹂の句を意識したものであろう︒また︑﹁日照丹峰紫気浮﹂

︵謝鳳﹁遊黄山﹂︶︑﹁飛泉桂壁銀河流﹂︵釈此村﹁遊黄山﹂︶︑﹁天上銀

河落﹂︵方大治﹁百丈潭﹂︶などは︑李白の﹁望盧山爆布︑其二﹂の

﹁日照香炉生紫姻﹂や﹁疑是銀河落九天﹂の句を踏まえたものであ

ろう︒﹁奇峰半天出﹂︵杜叔元﹁黄山作﹂︶︑﹁蒼崖半椅天﹂︵劉概﹁遊

黄山﹂︶などは李白の﹁登金陵鳳風台﹂の﹁三山半落青天外﹂の句

に着想を得たものと思われる︒また︑﹁上有天仙棲逸之玉洞金庭︑

下有日月呑吐之虞淵陽谷﹂︵釈大墾﹁天都行﹂︶などは李白﹁蜀道難﹂

の﹁上有六龍回日之高標︑下有衝波逆折之回川﹂を意識したもので

あろう︒また︑詩題で言えば孫一元﹁夢遊黄山吟﹂は李白の﹁夢遊

天姥吟︑留別﹂をもじったものであろう︒

 このように︑李白の山岳に関する表現は︑他の詩人が他の山岳を

表現する際にも応用されやすい︒李白の詩が様々な地で応用され︑

それがいつしか︑李白がその地を訪れたからこそ︑その詩人は李

白の詩句を用いて歌ったのだといった誤伝となり︑そこにまた新

たな李白伝承が発生していく︑ということもありうるであろう︒

(15)

 そういった︑一つ一つの李白伝承が︑

時︑李白伝承は︑一つの大きな物語

とになるのである︒ 互いに連動し︑系列化するとなって︑展開していくこ

李白と黄山ー伝承の系列化をめぐってー ︵寺尾 剛︶五一

参照

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