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第 5 章 日本の華南教育調査

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(1)

第 5 章 日本の華南教育調査

高田 幸男 はじめに

 清末以来の教育改革や中央教育行政,各地の教育の状況については,教育関 係の雑誌にしばしば報じられている。ただその多くは短い記事で,断片的な印 象はぬぐえない

1

。しかも,個別の調査・視察報告には謄写版などによって少 部数印刷されたものも多く(文献目録を参照のこと),広く教育界全般の関心を喚 起したとは思えない。

 一方,華南各地に対する全般的調査の中にも,教育に関する内容が含まれて いる。たとえば,各省の状況を調査した東亜同文会『支那省別全誌』(1917-1920 年)も,その内容は政治・経済が中心で,各都市の教育・学校に関する記述は 極めて少なく,表面的である

2

。同書は東亜同文書院生による実地踏査記録で あり,現地の教育行政機関(県勧学所など)や法定団体である県教育会で教育統 計を入手したり,各学校を視察したりしなければ,表面的にならざるを得なかっ たのである

3

 中国における近代教育の本格的導入は,変法運動期に日本をモデルとする学 制改革に始まる。以後,新政期にかけて大量の留学生が渡日するとともに,多 くの日本人教習が中国へ渡り,また日中合弁の商務印書館が教科書を出版する など,日本は中国の教育改革に深く関わっている

4

。その後中国では,政治情 勢や財政が不安定な中,

1922年にアメリカの教育制度にもとづく 6

3

3

4

制(壬戌学制)を実施して日本式モデルからの転換を図り,1927年に南京国 民政府が成立すると,大学院・大学区制を実施するなど,大胆な模索をおこな いながら,教育は徐々に発展していた。

(2)

 だが,日本の教育界にはこうした動向に注目した研究書は見当たらず,南満 洲鉄道株式会社(以下,満鉄)や台湾総督府の調査報告があるのみである。日本 側の中国教育改革に対する関心は必ずしも高くなく,しかもその関心が,中国 の教育の全体的動向把握より,特定の問題に偏っていたことが考えられる。

 そこで本章では,

1900年代から1940年代前半までの中国教育に対する問題関

心を概観した上で,

1930年代の日本側の調査・視察記録から,台湾総督府文教

局編『南支南洋ノ教育施設』と東亜高等予備学校関係者による視察記録を取り 上げ,中国,特に華南の教育の実態についてどのように把握・認識していたの か,検討することにしたい。

 なお,日本の近代中国教育に対する認識については,復刻資料である『現代 支那満洲教育資料』や『中国近現代教育文献資料集』に解説・解題があり,ま た排日教育に対する認識については高柳峻秀の研究がある

5

。だが,本章第

2

節以下で取り上げる文献に対して考察したものは,管見の限りないようである。

1  中国の教育に対する視線

 それでは,先行研究に依拠しつつ,近代日本における中国の教育に関する著 作を概観することにしよう。

( 1 )1910年代日本人教習経験者の著作

 中国における近代教育の導入は,19世紀半ば,いわゆる洋務運動の一環とし て本格化し,新式学堂の設立や留学生の海外派遣がおこなわれた。そして日清 戦争後,日中間の教育交流が大きな潮流となり,中国から日本への留学生の大 量派遣や「日本人教習」(中国語は「日本教習」)とよばれる日本人の学務顧問や 教員の中国への招聘が展開される。その日本人教習の一人,中島半次郎が著し たのが『日清間の教育関係』である。同書は,「光輝ある」中国の伝統教育とそ の日本への影響(「其両国の教育関係は,因縁最も深きものあり」)

6

,停滞の原因

(国土の広大さ,人口の多さ,易姓革命による前朝文化の破壊,士人養成目的の教育,孔

(3)

教「尊信」による自由討究の阻害,「自尊の念」の強さ)を指摘し,日清戦争後の新 教育の進展について簡潔に述べた上で,新教育における各国外国人教習の活躍 状況や外国人自身の経営する教育機関について詳述する

7

。阿部洋も指摘する ように,中島の視線は,欧米と日本の外国人教習の比較や外国の在華教育事業 の広汎な展開に注がれており,清の教育発展には日本の協力が必要だとして,

日本側にも「清語の学習を奨励」して交流を深め,中国の教育を研究すること を提唱している

8

 おそらく当時の(そして今も)日本の教育界の視線は,多く欧米の先進的な事 例に注がれており,「後進的な」中国の教育に注目していたのは,中国との教育 交流に従事した教育関係者や教育機関,対中国関係の一環として教育に注目す る外務省やアジア主義者,あるいは満鉄や台湾総督府といった日本の在外権益 に敏感な機関であった。

 そして,日中関係が変化していく中で,中国の教育に対する問題関心も変化 していくのである。

( 2 )中国近代教育史の理解

 日本における中国の教育に対する関心の低さは,中国教育史に端的に示され る。中国の近代教育を歴史的に通観することは,中国の教育の現状や方向性の 把握に不可欠であるが,中島のよびかけにもかかわらず1940年まで本格的な中 国教育通史は書かれていない。わずかに中島自身が前掲書とほぼ同時にまとめ た『東洋教育史』(1910年),および三浦藤作『参考東洋教育史』(1929年)があ るだけだが,いずれも近代教育史の記述はわずかだった

9

。これに対し,中国 では1920年代以降,中国教育通史が次々と上梓され,

1930年代に入るとその邦

訳も出版される

(10)

。これらも刺激となり,1930年代にようやく中国の近代教 育の全体像を把握しようとする動きが出てくる。

 そのまとまった成果が『中華民国教育其他ノ施設概要』(1931年)であり,や や遅れるが前掲『現代支那満洲教育資料』(1940年)である。前者は各省市の主 要な学校・教育機関や教育学術団体,関係法規,教育文化界著名人士を列挙す

(4)

る本文1194頁,索引70頁の大著だが,データ資料集であり,特に分析考察はお こなっていない

(11)

。一方後者は,支那篇(全396頁)と満洲篇(全60頁)に分か れ,支那篇はアヘン戦争以来の近代教育史をまとめた「現代支那教育小史」,歴 代の教育宗旨(教育方針),法規,学制,教育統計,年表,参考文献目録を掲載 し,満洲篇も沿革や宣言・詔書,法規規程類,年表,参考文献目録を掲載する 資料集である

(12)

。このうち「現代支那教育小史」(全96頁)は,「近代に限定さ れてはいるが,日本人になる通史として最初のもの」(多賀秋五郎)とされる。

だが内容的には,時期区分や個々の教育思想・実践の記述などの多くを陳青之

『中国教育史』などの中国で出版された教育通史に依拠するものだった

(13)

。  ところが,中国の叙述を踏襲しつつ,第八節総括では,五・四運動以降,「か くて支那に於て,民族主義と民主主義と共産主義とが並び唱導されるに至った が,これらの思想は,国民革命による南京政府の成立とともに,三民主義とし て一応の統一を見た」と,三民主義が共産主義を包含するものとし,国民政府 下の教育の特色を以下のようにまとめる。

三民主義は民族・民権・民生の三原則を基調とするもので,教育上の民生 主義は,社会教育・農村教育・生産教育の強調となって現はれ,民族主義 は満洲事変以来著しく強く民族教育の色彩を濃厚にし,遂に排外的,特に 排日教育を進展せしめたのである。而してこの間,民権主義による教育は 未だ発達せず,公民教育も決して民権主義による政治参与への公民教育で はなくて,民族主義の一形態と見るべきものであり,公民訓練が主眼とな つてゐたのである

(14)

そして,「現今の支那の青少年は,大抵抗日教育の陰鬱なる雰囲気の中に純真な 天性を歪曲されて生長した」として,「過去の誤れる教育方法を究明して現在を 知り」,将来に対処すべきだと結んでいる

(15)

 すでに日中開戦から

3

年が経過し,汪精衛により南京国民政府が樹立される 中での総括なので,日本の国策に沿った見解は当然であろう。大森直樹は,同 書編纂の筆頭で東京文理科大学東洋史教室の基礎を築いた有高巌が,東京高師 から京都帝大史学科を卒業し,同大助手,満鉄地方教育研究所勤務,フランス・

(5)

アメリカ・中国留学を経て,東京高師教授,東京文理科大教授に就任した経歴 を持ち,満洲国肯定論者だったため,中国教育史から中国東北教育史を切断し て,満洲国の教育政策を合理化したとする

(16)

。ここでは,行論の関係で「現代 支那教育小史」が三民主義教育を排日教育と同一視する一方,それを満洲事変 以来としている点に着目したい。

( 3 )欧米教育事業への注視から「排日教育」の喧伝へ

 日本側の清朝支援,教育交流の背後には日清戦争後の日清提携論・支那保全 論があった。そのため,前述のように中島半次郎も日本人教習として欧米の動 向を注視していた。清朝が実施した留学帰国者登用試験において欧米留学者の 成績が日本留学者を上回ると,拓務局が試験の実情や各国留学生の地位,欧米 宣教師の教育事業を調査し『北清ニ於ケル諸外国ノ教育上ノ効果ニ関スル調査』

にまとめるなど,敏感に対応している

(17)

 次いで1916年には,満鉄総務部交渉局が『支那ニ於ケル外国人経営ノ教育施 設』を出版する。同書は全733頁で,前年度に出た

と を中心に,満鉄地方課飯河道雄が収集

した資料に伝聞を交えて編纂したという。上篇全76頁で1915年度の「洋人」経 営教育施設の状況を列挙し,下篇全313頁で東北地方を除く各省の「外国人」経 営の学校を省ごとに列挙し,さらに附篇全343頁で香港の教育状況について掲 載する

(18)

。佐藤尚子は,当時の各国の在華教育活動に関する資料の多くは,英 文資料と個人の収集資料にもとづいており,外務省も同様だったことを指摘した 上で,「中国の教育をめぐって,日本は諸外国に対する強いライバル意識をもつ とともに,それらの活動を見習うべきモデルとしても捉えていたことがよくわか る」とする

(19)

 1910年代,辛亥革命の勃発で急減した中国人留日学生は,革命の終息で一旦 増加に転じたものの,二十一か条要求や五・四運動,第一次世界大戦後の不況 の影響で再び減少していった。

 一方,アメリカは中国の教育に対する日本の影響力に対抗し,義和団賠償金

(6)

による中国人のアメリカ留学奨励,英米系在華教会学校の大学昇格などにより,

中国人留米学生を増やし,留米帰国者の台頭で,中国教育界への影響力を増加 させていった。1922年の壬戌学制施行は,中国教育界の主体的な模索の結果で あるが,アメリカの影響力の増大を示すものでもあり,学制の共通化で制度的 には日本留学よりアメリカ留学が有利になった。

 このような趨勢に対抗して結成されたのが中国人留日学生を支援する日華学 会(1918年設立)であり,外務省の義和団賠償金による対支文化事業(1924年発 足)であった。

 このアメリカを中心とする欧米の教育活動についてまとめたのが平塚益徳『近 代支那教育文化史  第三国対支教育活動を中心として  』(1942年)

(20)

であ る。同書は,中国の近代教育を

5

つの時期(「阿片戦争」以前,「団匪事件」まで,

辛亥革命まで,壬戌学制公布まで,「日支事変」まで)に分け,それぞれ教育全般の 状況を述べたのちに,「第三国」すなわちアメリカを中心とする欧米の教育活動 について中国基督教教育会等の史料を駆使して詳述する。「結語」において,

「若し支那の教育形態そのものが近代化の傾向を必然的にとらざるを得なかった ものとするならば,第三国関係の教育活動は程度の差こそあれ支那の教育の発 展に貢献したものと言ひ得る」

(21)

としつつも,アメリカ人宣教師の教育活動が アメリカ主義の宣伝であり,中国教育のアメリカ化をめざし,日本による東亜 新秩序の構築を阻むものと批判している

(22)

 平塚自身はキリスト教教育思想史を生涯の研究テーマとし,そこから日本,

中国,インド等アジア諸国におけるキリスト教教育の比較へと研究の幅を広げ ていった。中国に関しては1930年代半ばに

2

篇の論文を書いており,そこで は,プロテスタントを中心とする教会学校が,1920年ごろまで順調に発展した が,1922年以降,「反キリスト教運動」の「反動の時代」を経て,国民政府の 教育政策に従う「順応の時代」に入ったとする。教育の欧米化は「反動」を招 き,教会学校は中国に「順応」したと捉えられ,日本におけるキリスト教系学 校の順応と比較されるが,前述の「結語」のような批判はない

(23)

。この批判は 日米開戦により付加されたものと思われる。

(7)

 一方,教育権回収運動の矛先はキリスト教教育だけでなく,中国東北部では 日本の教育に対しても向けられた

(24)

。それは,こののちナショナリズムの高ま りに対する満鉄や現地日本人の反発,「排日教育」批判へとつながっていくので ある

(25)

2  台湾総督府文教局『南支南洋ノ教育施設』

 こうした中,

1935年に出版されたのが台湾総督府文教局編『南支南洋ノ教育

施設』

(26)

である。

 同書には編纂の目的や経緯等について一切書かれていない。本書序章で久保 亨が述べたように,台湾総督府は1910年代から華南・東南アジア調査の体制を 整え,官房調査課により不定期の叢書『南支及南洋調査』を刊行しており,華 南・東南アジアへの関心の一環として教育も取り上げられたことは間違いない。

 ただ横井香織の分析によると,『南支那及南洋調査』240号別号

3

のうち中国

(香港を除く)の教育を扱うものは合計

10号のみで,しかもほとんどが諸事情

の一環として教育を含むにすぎず,そ れも1917-21年に

5

号,1926年

1

号,

1937-39年 4

号と,国民政府成立後,

1927-37年の10年間が空白となってい

る。数少ない教育に焦点が当てられて いる号は,第13号『福建広東両省に於 ける外国人の勢力扶植的施設』(1917年

12月)

および第113号『第一回海外学事 視察団復命書』(1926年

7

月,南支・香 港・比律賓を視察)である。また教育に 関する内容を含む1937年の

2

号は第

234号『最近の海南島事情』

(実地調査), 図I-5-1 『南支南洋ノ教育施設』の表紙

(8)

第236号『台湾と南支那』(文献調査)である

(27)

。したがって,

1935年に出版さ

れた同書は,国民政府期の福建・広東・広西の教育状況を調査した報告書とし て特異な位置を占めるといえる。

 同書の構成は表I-5-1のとおりである。全291頁で,第一部「南支に於ける教 育施設」111頁,第二部「南洋に於ける教育施設」179頁となっており,「南洋」

の比重が高い。以下,第一部の内容を見ていく。

( 1 )中国教育制度の概観

 まず第一編第一章では,「特殊の発達を遂げて来た」前近代の教育制度が,日 清戦争後に日本の学制を研究して新学制に改められ,民国元年(1912年)に全 国の教育行政を統括する教育部が置かれ,

1927年に教育部を大学院に改め,大

学区制を試行したものの,反対運動のために教育部・省教育庁を復活し,現行 学制を制定したとする(

1

頁)。ここでは,壬戌学制について言及がないことが 注目される。

 次いで第二章では,現行のいわゆる三民主義教育宗旨の全文「中華民国の教 育は三民主義に依拠して,人民の生活を充実せしめ,国民の生計を発展せしめ 且つ民族の生命を拡充せしめ,以て世界大同を促進するを以て目的とする」を 掲載し(

2

頁),その実施方針を列挙する。そして,

1931年の満洲事変および翌

年の第

1

次上海事変の衝撃を受け,同年10月に救国教育実施案を全国に発令し たことにも言及する(2-3頁)。国民政府の教育方針については詳述するが,歴代 の「教育宗旨」の変遷に触れていないことも興味深い。

 続く第三章は教育部―省教育庁―県教育局という行政系統の一般的な説明(6-7 頁)に加え,「特殊機関」として国民党党部を取り上げているのが目を引く。党 部は「特に社会教育又は国民的訓練機関として根幹を為すもの」として,下の 図を示し,

       県 党 部

中央党部  省党部      区党部  区分部        特別市党部

(9)

表I-5-1 『南支南洋ノ教育施設』目次 第一部 南支に於ける教育施設

 第一編 中華民国教育概観

1

  第一章 沿革

1

  第二章 一般教育方針

2

  第三章 教育行政機関

6

  第四章 学校教育

8

  第五章 社会教育

29

 第二編 福建省に於ける教育施設

33

  第一章 沿革

33

  第二章 学校教育

34

  第三章 社会教育

42

  第四章 教育費

43

  第五章 学術研究機関

46

 第三編 広東省に於ける教育施設

47

  第一章 沿革

47

  第二章 学校教育

48

  第三章 社会教育

54

  第四章 教育費

58

  第五章 学術研究機関

59

 第四編 広西省に於ける教育施設

60

  第一章 学校教育

60

  第二章 社会教育

63

 第五編 外国人経営の教育施設

64

  第一章 欧米の対支文化事業

64

  第二章 外国人経営の教育施設現状

69

  第三章 香港に於ける教育施設

70

  第四章 澳門に於ける教育施設

80

 第六編 邦人経営の教育施設

83

  第一章 沿革

83

  第二章 現状

87

  第三章 台湾総督府の施設

108

第二部 南洋に於ける教育施設

 第一編 比律賓における教育施設

113

 第二編 仏領印度支那に於ける教育施設

147

 第三編 暹羅に於ける教育施設

181

 第四編 英領馬来に於ける教育施設

197

 第五編 英領ボルオネに於ける教育施設

224

 第六編 蘭領東印度に於ける教育施設

229

 第七編 緬甸に於ける教育施設

262

 第八編 邦人経営の教育施設

273

出典)台湾総督府文教局編『南支南洋ノ教育施設』1935年,

目次

1

-16頁。第一部は節以下を,第二部は章以下を 省略した。

なお,第二部第五編の“ボルオネ”は“ボルネオ”の誤 りだと思われるが,原文のママ掲載した。

(10)

訓政期においては,「党部に依る社会教育は,概して国民党の宣伝・民衆の党化 或は特殊の目的の下に行はれる対外運動の如きものを主とし,一般民衆に対す る純正なる社会教育は省政府以下の教育官庁に依つて行はれてゐる」(

8

頁)と,

党部が社会教育を通じて排日運動を展開していたことを示唆する。

 第四章では,現行学校系統図を示した上で,初等・中等・高等教育の制度を 示す。初等・中等教育では,カリキュラム表や教員の資格・待遇等を簡潔に説 明し,職業学校や師範学校のカリキュラムは種類ごとに表を付す(10-28頁)。だ が高等教育(大学と専科学校・大学専修科)は表もなく,わずか

5

行の記述にとど まっている(29頁)。

 第五章では,特に「年長失学者」(教育を受けずに成人した民衆)に対する民衆 学校を「民国特有の社会教育機関として近年極めて重要な地位を占めるに至つ た」とし,

1932年から強制識字運動を展開した結果「一般民衆の文化水準は漸

次向上しつゝある」とする(30頁)。

 その上で特記するのは,中国童子軍と新生活運動である。

 童子軍はボーイスカウトのことであるが

(28)

,1928年創始の「青少年修養団 体」で「最近全国各地に於て厳格な統制の下に目覚ましい活動を示しつゝある。

之を中心とする青少年教育は,将来相当の効果を挙げ得るものと認められる」

とし,「童子軍総会籌備処工作報告」による「童子軍歴年比較表」

(29)

を掲載して いる(30-31頁)。ただ,いかなる「効果」なのか,説明はない。

 新生活運動については,「礼・義・廉・恥」以下の趣旨説明ののち,「青少年 に対しては体育学習を通じ,又成年に対しては郷村保甲の自治団体其の他を通 じて実行に向はしめ,兼ねて共同自治・国産愛用の風を養はしめるを目的とす る」(31頁)。運動の由来や提唱者蔣介石の意図については,「最近沈滞に陥つた 三民主義に替るべきもの」,「蔣介石独裁傾向の一表現」などの見方を紹介し,

「要するに儒教復興の時運に伴い一面国民の簡易生活を要求するもの」とし,

「日本の国民生活に例を採つて礼儀・廉恥・清潔・簡単を奨励した事実は特に注 意すべき点である」とまとめている(31-32頁)。

 国民政府が教育の早期普及のため,学校教育だけでなく社会教育にも力を入

(11)

れていたことを評価し,童子軍や新生活運動に注目している点も,教育を政治・

社会との連関で捉えており,教育界より視野が広い。だが,ここでも排日運動 のような政治的民衆運動への言及はない。

( 2 )福建・広東・広西の教育状況

 次いで,第二編から第四編では福建・広東・広西

3

省の状況について述べて いる。本書序章で久保亨が述べたように,当時台湾総督府で,狭義の「南支」

はこの

3

省を指すことが多かった。ただ

3

省の記述は必ずしも統一されておら ず,個々の調査報告を寄せ集めた観がある。

 以下,項目別に

3

省の記述を比較することにしよう。

 沿革 福建省では清末民国初期の新教育導入について述べ(33-34頁),広東省 では清末の近代式学校教育の開始から現在までを簡潔に述べる(47-48頁)が,

広西省には「沿革」という章自体がない。この中で注目すべきは,広東省の,

広東省における行政は,中華民国成立以来現在迄殆ど独立状態を維持して 来たが,独り教育のみは其の方針全く中央と一致し,現に民衆教育及び職 業教育の振興に特に意を用ひつゝある。(47-48頁)

という記述である。壬戌学制の原案が議決された1921年10月の第

7

回全国教育 会聯合会も広州で開催されており,教育界には政治情勢とは異なる統一性があっ た

(30)

 学校教育 初等教育に関しては,

3

省とも学校数,生徒数,教職員数,経費 など統計表を掲げ,若干の説明を付す。特に生徒数と学齢児童数から就学率を 算出しているのが興味深い。福建省(1934年)は「22パーセント強」(34頁。数 値に誤りがなければ21.3%が正しい),広東省(1932年)は「私塾其の他の施設に於 て初等教育を受けてゐる者を合算すれば……37パーセント弱」とし(48頁。た だし小学校生徒のみで計算すると29.8%),そして広西省は「四十パーセント強に達 し,他の各省に比し良好である」とする(60頁。正確には40.2%)。広西省政府は

1928年から全省歳入の 1

割を教育経費に充てて,教育建設を強力に推進してい

(31)

。統計の信憑性(特に学齢児童数)の問題はあるが,就学率が上昇しつつ

(12)

あったというのは一般的な認識であろう。このほか広東省では就学児童を男女 別で示しており,それによると女子13.6%である(48頁)。また福建省で盲学校 の項目を立て,イギリス聖公会系経営の男女

2

校(生徒計140名)を紹介してい ることが特筆される(36頁)。

 中等教育に関しては,

3

省とも統計表(中学校・師範学校・職業学校の学校数,

教職員数,生徒数,広東・広西は経費,教員経歴も)を掲げるのみで,説明はない

(36-37,49-51,60-62頁)。

 高等教育は,福建省では概ね学校別に文章で「設立及経営」,「入学資格」,

「組織」,「教職員及学生」,「教科書」,「学費」についてそれぞれ

1

3

行で説 明する。興味深いのは「教科書」で,私立厦門大学(厦門)は「教務会議に於 て必要なものを選定して使用してゐる。但し党義〔三民主義教育〕に関するも のは教育部編纂のもの,軍事訓練に関するものは訓練総監部編纂のものを用ひ てゐる」とし,私立福建学院(福州),福建協和文理学院(福州)も厦門大と同 様とするが,華南女子文理学院(福州)は「教務会議に於て必要なものを選定 する」と記すのみである(38-42頁)。これに対し広東・広西は学校別の統計表で

「教職員数」,「学生数」,「経費」を示した上で説明を付す(広東

9

校,51-54頁,

広西

3

校,62-63頁)。このうち広東省の教会系大学である私立嶺南大学のみ男女 別学生数(男子282人,女子81人)を記載しており,女子の比率が22.3%に達して いたことがわかる(53頁)。

 社会教育 

3

省の記述のばらつきは大きく,福建省は沿革を説明し1934年の 統計を掲示するが,広東省と広西省は1932年度の統計表を掲げ,併せて広東省 は広州市の社会教育機関を紹介するものの,広西省は統計表を掲げるのみであ る(42-43,55-58,63頁)。

 福建省は「教育経費困難の為社会教育を顧みる遑がな」かったが,

1928年に

「初めて教育費を増加し,社会教育費を予算に計上」し「其の面目を一新するに 至つた」とする(42頁)。次いで福建における新生活運動について述べ,

1934年

4

月福州で大会を開催,促進会を設立し「講演会・街頭宣伝・家庭訪問・標語 普及等の方法に依り極めて活潑に実行」し「之が為福州等に於ては官庁・学校・

(13)

諸団体の気風も大いに改まり,一般衛生状態も改善せられるに至つた」と国民 政府下の発展ぶりが強調されている(43頁)。

 広州市に関しては,

1923年に市教育局が党部と協力して平民識字運動委員会

を組織し,民衆学校で年長失学者への教育を展開しており,その収容者は女子 が多いこと(1932年度前期:男1094人,女1548人,後期:男521人,女1140人),市 立図書館の建築費の大部分は南洋華僑の寄付によること,北京語の国語講習所 で800人以上の修了者を出していることなど,やはりさまざまな事業の展開が 紹介されている。その一方で,

1926年に国際的人材養成のためエスペラント講

習所が創設されたが財政難で有名無実化していること,市当局が私塾漸廃の方 針を採っているにもかかわらず,なお201か所も残存し「相当の潜勢力を持つ てゐ」ることも指摘している(55-58頁)。

 このように社会教育に関しても,国民党統治下での発展が強調されている。

 教育費 福建省と広東省のみ記載がある。福建省は,

1934年度予算のうち省

と各県の教育費負担分を表で示す(43-45頁)。省の教育費総額は174万8804元で 歳出総額の11.41% を占め,各県の教育費総額は174万1908元で同じく21.61%

を占める。ただ備考として「省政府負担金額中ニ中央政府所管ノ塩款ヨリ年額 百三十二万元ノ補助ヲ含ム」(45頁)とあり,約75%は塩税等の収入に依拠して いたことがわかる。

 一方広東省も,「三箇年施政計画」により,省の教育経費が1930年度の213万

4425元から1934年度の433万2270元に倍増しているとされ,うち国外留学費が 5.6%を占めている点が目を引く。また,各県市の教育経費の総額は1934年度は 1325万6083元に達し,「別に広州市のみで226万に達して」

(59頁)いるが,そ れでも前述のように財政が必ずしも潤沢とはいえず,福建省との財政規模の違 いが際立っている(58-59頁)。

 学術研究機関 これも福建省と広東省のみ記載がある。前者は福建学術会(福 州),福州中医学社(福州),福州自然芸術会(福州),芸術与教育社(福州)を列 挙し(46頁),後者は,政府設立の両広地質調査所(現在中山大学に合併),中山大 学経済調査処,昆虫研究所,蚕桑研究所等のほかは,大学や教会に付設された

(14)

ものが多く,独立機関はほとんどないとする(59頁)。

( 3 )外国人経営の教育施設

 最後に,第五編外国人経営の教育施設,第六編邦人経営の教育施設を見てみ よう。

 欧米の文化事業 第五編では,イギリス,アメリカ,フランスの対支文化事 業の沿革と教育権回収運動について述べたのち,欧米系教育施設や香港,澳門 の現状を紹介する(香港,澳門については省略する)。そしてイギリスについては,

高等教育に重点を置き,各地のカレッジから優秀な学生を香港大学へ進学させ,

さらにイギリスへ留学させており,「日本の対支文化事業特別会計法に刺戟せら れて」,義和団賠償金を1932年に返還し,文化事業を開始したことを紹介する

(64-65頁)。

 アメリカについては,「米国資本の民国進出は教育・病院其の他布教事業への 投資を以て其の特色と」し,教育・医療のほか,中国人学生のアメリカ派遣も おこなっているとした上で,「最近に於ては,民国の排外的国民運動の結果教育 権回収問題或は反基督教運動が発生した為,昔日の隆盛を見ることは出来ない」

とする(65頁)。そして義和団賠償金による中国文化事業の嚆矢であるアメリカ が,第一次世界大戦後,極東に一層関心を加え,1924年には義和団賠償金元利 合計1254万ドルで「民国々民の科学知識を発展せしめ又此の知識を民国の情勢 に適用せしめる為に使用し,技術・教育科学の研究及び科学教授法の訓練を増 進し,又永久性ある文化事業例へば図書館の類を促進せしめることゝとし,尚 其の一部を永久基金として積立てる」とし,現在の事業を列挙したのち,その 金額が1930年度に174万元に達したとする(65-66頁)。

 フランスについては,「天主教会系の民国全土に於ける教化事業は最も古い歴 史を有するものであるが,其の他の事業としては見るべきものが少い」とし,

1925年に義和団賠償金に関する協定を結び,返還額7556万ドルから1926年以

降毎年20万ドルを,「支仏間の教育慈善事業」に充てているとする(66頁)。  教育権回収運動 教育権回収運動については,その根源に外国人経営の教育

(15)

施設が勢力を増大する一方で「民国人一般の国民的自覚の勃興」があり,一部 宣教師の政治活動や治外法権を利用した「利慾専擅」の行為から,「一部の民国 人から」キリスト教は「列強帝国主義の走狗」と嫌悪されるようになり,「国民 政府が漸次勢力を得て其の基礎確実となるに従ひ民国人の国民的自覚を促進し た結果,反帝国主義思想並に反基督教思想を醸成するに至」り,「急進革命主義 者及び扇動政治家」の刺激により多数の青年学生が狂奔するに至ったとする(66-

67頁)

。そして,

民国十四年(一九二五年)国民軍が広東を出発点として汕頭に進出して以 来,北伐を完成するに伴ひ反基督教運動は更に教育権回収運動を加ふるに 至ったが,之は同軍が一国一主義に則り国民教育を其の手中に統制して党 化運動の徹底を期せんとした為に外ならない。(67頁)

とする。教会系中等学校は治外法権に守られていたが,学生の騒動に屈し,一 方民国側の中等学校も「程度極めて低く」「多数の教会系中等学校及び大学が事 業を停止する場合子弟教養上一般に非常な不便を感ずるに至」り,しかも「其 の後の情勢は国民の自覚を促し,求学の念熾となり,之に国民党政府の政策的 意図も加はって,反基督教運動等漸く緩和せられ,教会の事業は再び其の軌道 に復することを得,却って堅実な進展を遂げるに至った」とする(68頁)。  教育権回収運動の開始は国民政府の成立に先行しており,またこの運動に大 きく関わった国家主義派に関する言及もない。これが何にもとづく記述なのか 不明であるが,あるいは教会側の資料に依るのかもしれない。

 欧米系教育施設の現状 「対岸南支那」の教会経営の学校は,現在すべて中央 政府教育部の認定を受け,「民国人」の校長の下にあるとする。

 ただ,「校費の大部分は,本国教会よりの送金及び民国人信者の寄付金を以て 之を充てゝゐる。学校の経費は総て秘密にせられ,校内職員と雖も其の内容を 知る者なく,民国人校長は名のみで経費の収支・学校経営の方針は専ら外国人 宣教師の掌握する所」(69頁)となっているとし,教会が依然実権を握っている ことを示唆する。

 その一方で「宣教師の多くは男女共に土語に通じ,……其の対民国人態度は

(16)

懇切を極め教化上真に敬服すべきものが多い」(69頁)と評価もしている。もっ とも教育権回収運動の記述の最後には,「現在の教会経営学校の状況を観るに

……其の設備は概ね貧弱で,専門学校の如きも其の専門的知識を授けること困 難と認められるものが尠くない。……斯くして之等教会経営学校は,学術指導 よりも寧ろ人心収攬に特別の意を用ひてゐるのではないかとすら見られるもの がある」(68頁)などと酷評しており,評価にブレがある。やはり依拠した文献 の違いによるものであろうか。

 日本人経営の教育施設 第六編邦人経営の教育施設では,まず華南が対岸の 台湾と古来密接な関係があり,「本島人」(台湾人)で対岸に生業を持つ者も多い ため,台湾総督府は1899年に厦門に東亜書院を設立し,本願寺の泉州彰化学堂 などを援助していたが,一時廃絶したという。だが「対岸在留本島籍民に対し 教育を施し漸次忠良の日本国民たらしめ且つ彼等を介して日華親善の基礎を固 めることは東亜に於ける帝国々運の伸展上極めて須要事たるのみならず,本島 統治上にも好影響を齎す」(83頁)として,1908年福州に東瀛学堂(福州台湾公 会設立。のち東瀛学校),10年厦門に旭瀛書院(厦門台湾公会設立),15年汕頭に東 瀛学校(汕頭日本居留民会設立)を設立したという。これらはいずれも台湾人向 けの初等学校で,台湾から公学校(台湾人学校)の教員を派遣しており,生徒か らその父兄への教育効果も目標としていた(83-85頁)

(32)

 だがその後,「本島籍民の親族又は縁故ある民国人其の他一般民国人子弟」の 入学希望者が増え,「日華親善」のため施設上支障のない範囲で入学を許可した が,「民国人の修学熱」が高まり,上級の教育を求めるようになったため,福州 東瀛学校では専修科を,厦門旭瀛書院では高等科と商業科を,汕頭東瀛学校で は商科と日文専修科を設置したが,満洲事変と第

1

次上海事変で生徒が激減し,

専修科や商科は一時閉鎖したもののその後回復しているという(84頁)。またこ れら

3

校は,いずれも台湾や日本内地への留学のため日本語専修科などを置い ていた(84-85頁)。

 ところが,これら日本語科の入学者は少なく,修了しても「我が国に留学す る者は極めて少数であるのみならず,福州又は汕頭に在つては日本語関係の事

(17)

業に従事する機会も少く,之が為今日に於ては殆ど予期の効果を挙げ得ない実 情」(88頁)だった。

 興味深いのは,「中華民国人」の入学者・卒業者の増加に伴い,彼ら彼女らの 要望に応え,中国や欧米系の中等学校へ進学できるよう,「漢文」の時間数を増 やし「英語」を増設して,「本科と雖も現在に於ては開設当初とは稍々其の教育 方針を異にするに至つた」(88頁)という記述である。在住台湾人への教育から スタートし,中国への影響力拡大・日本留学促進を企図して中国人を受け入れ たが,かえって中国人の動向(修学熱や抗日意識)と中国系・欧米系の学校との 競争の中で,本来の目的から逸脱していく状況がうかがえるのである。

 以上『南支南洋ノ教育施設』からは,1930年代半ばの華南の教育は,中央の 統制と制度的整備と財政支援の下に学校教育,社会教育ともに発展しつつあっ たという印象を受ける。ただ収集した情報の粗密の関係もあるのか,資料の内 容を紹介するだけで独自の分析はあまりおこなっていないようであり,どこま で実態を示しているのかわからないところがある。日本の関心事だった欧米系 の教育やそれに対する教育権回収運動については,ある程度踏み込んだ記述が あるが,一方で「排日教育」に関する記述は一切なかった。これはどう理解す べきだろうか

(33)

3  東亜高等予備学校の 3 つの視察報告

 最後に見るのは,東亜高等予備学校関係者

3

人の視察報告である。

 東亜高等予備学校は,松本亀次郎が1914年に東京神田に創立した中国人留学 生向けの学校で,入学者は日本語のほか英語・数学・物理・化学等を受講して 大学・高等専門学校の受験をめざした。そこで学んだ中国人は

2

万人を超すと されるが,前述のように中国人留学生は増減が激しく,さらに関東大震災で打 撃を受け,

1925年に日華学会と合併し,松本は校長職を辞し教頭となっている

(さらに1935年校名を東亜学校と改める)

(34)

。中国人日本留学生の減少の背景には,

日中関係や景気動向のほか,壬戌学制の施行など中国側の教育改革の進展があ

(18)

り,日本側も中国人留学生受け入れ体制の見直しに迫られていた。

 東亜高等予備学校は,1927年以降,表I-5-2のように少なくとも

6

回(外務省 文化事業部の委任による●を加えると

7

回)の中国教育視察をおこなっている。そ の目的も,中国の教育改革の実情把握と中国教育界との交流,および東亜学校 の教育活動の成果である卒業生との再会などにあった。

 このうち

4

は松本亀次郎・吉澤嘉寿之丞・小谷野義方『昭和五年春季 中華 民国教育視察報告書』として,

5

は有賀憲三『昭和六年春季 中華民国教育視 察報告書』として,謄写版で印刷されており,東洋文庫には合綴されて東亜高等 予備学校〔編〕『中華民国教育視察報告書』

1930-1931年として所蔵されている (35)

6

は「昭和十年春 南支那教育視察旅行報告書」と題して,

2

は「昭和三年秋 北支旅行雑感」と題して,椎木真一『支那教育視察報告』に

6

2

の順で収録 されている。これら

4

報告はいずれも謄写版で印刷されており,部内資料のよ うである(

1

3

,●については未見)。

 それでは紙数も限られているので,華中南を視察した

4

5

6

について,

興味深い記述を拾ってみることにしたい。

( 1 )松本亀次郎の視察

4

は「視察感想概括」が増補加筆され,松本亀次郎等「中華教育視察紀要」

(以下,紀要)として「中華留学生教育小史」とともに旅行記『中華五十日游記』

の付録として公刊されている。松本は,同書の公刊により,この視察旅行にお ける中国の教え子たちや教育関係者との交流を示すことで,日中の共存共栄に 貢献しようとしたと思われる

(36)

 そこで松本は,視察旅行における教え子との再会やその他日本留学経験者と の出会いを詳細に記録するとともに,各地の学校・教育機関の視察でも,評価 すべき点を明記する。なぜなら日本人の中国旅行の感想は往々にして「悪処」

ばかり紹介し,美点長処に言及しない。そこで,中国側を傷つけ,「日本から

〔視察に〕人が一人来れば一人来る程,感情を悪くさせる」(紀要124頁)ことに なる。そこで「新興民国の潑剌たる発展振りを正視する事を忘れては何にもな

(19)

表I-5-2 東亜高等予備学校関係者の視察報告

期間 視察者 視察地 出典

1 1927年 9

月〜

11月

三輪田輪三

大連・旅順・奉天・

天津・北京・済南・

青島・上海・厦門・

広東・香港

小史62頁

2 1928年 9

月16日

11月 4

椎木真一・泉喜一郎 同行:濱田武夫(日華学 会)

奉天・長春・吉林・

哈爾賓・大連・旅順・

天津・北京・済南・

青島・上海・杭州

小史84頁 椎木1935

3 1 9 2 9

4

月1日

5

月15日

三戸勝亮・高仲善二 同行:稲垣稔(日華学会)

奉天・長春・哈爾賓・

大連・旅順・天津・

北京・済南・南京・

蘇州・上海・杭州

小史84頁

4 1930年 4

3

5

月25日

松本亀次郎・吉澤嘉寿之 丞・小谷野義方 同行:中川義弥(日華学 会)

上海・杭州・蘇州・

南京・漢口・武昌・

青島・大連・旅順・

天津・北平・遼寧・

哈爾賓

小史84頁

1931年 1

2

2

月10日(外 務省文化事業部 の委任)

竜山義亮(文部省督学 官)・奥田寛太郎(東京 工業大学)・三輪田輪三

(東亜)

同行者:椎木真一(東亜)

遼寧・天津・北平・

済南・青島・南京・

上海・杭州

小史

89-90頁

5 1931年 4

3

5

月28日 有賀憲三

奉天・天津・北平・

漢口・南京・上海・

杭州・蘇州

小史85頁 有賀1931

6 1935年 4

9

6

月10日

椎木真一・泉喜一郎 同行:濱田武夫(日華学 会)

台北・基隆・廈門・

汕頭・香港・広州・

梧州・戎墟・鬱林・

南寧・福州・上海・

杭州・南京・鎮江・

無錫・蘇州

椎木1935

地名は原文のママとした:広東(現・広州),哈爾賓(現・ハルビン),遼寧(現・瀋陽)。

出典)「小史」は松本亀次郎「中華留学生教育小史」(同『中華五十日游記附中華留学生 教育小史,中華教育視察紀要』東京:東亜書房,

1931

年)

椎木

1935

は,椎木真一『支那教育視察報告』出版者不明,

1935

年序

有賀

1931

は,有賀憲三『昭和六年春季 中華民国教育視察報告書』東京:東亜高等予 備学校,

1931

(20)

らぬ」と訴える。

 松本は,視察した各学校の全体の印象が「予想外によかつた」,「教師生徒共 に緊張して,真面目に,熱心に,協力一致して,如何にも新興国らしい気分が 漲つて居た」と高く評価する(91頁)。特に一流学校の充実ぶりは「殆ど外国に 留学する必要は無」く,学費も「東京在住の留学生に比し,三分の一乃至五分 の一で足りる」(95頁)とし,日本留学を振興するには,「本国に居つては,到 底修得の出来ない或物を齎らさしめて,帰国の土産にさせねばならないという 覚悟と,準備が,必要」(96頁)だと,日本側の対応改善を提起する。特に壬戌 学制に対応し,欧米留学より便利で短期間に効果を挙げる留学予備教育が急務 だとする(103頁)。

( 2 )有賀憲三の視察

 有賀も松本と同様に中国の教育の発展を指摘する。

今回視察したところの一流の学校は,設備,教授,訓育等等相当に完備し,

一面,多数外国に留学する必要もない様に思はれ,殊に学資の点に於て,

東京在留学生の五分の一で足りるのである。しかるに日本の留学を志す者 の真意,目的は何れにあるかといふ点も察知すると同時に留学生の学習状 態に兎もすると遺憾の点有るは何に基因するか,日本に於ても施設其の他 に欠くるところなきかを反省し将来数に依らず質に於て優良有為の士を養 成することに努めなければならんと深く感ずるものである。(24b-25a)

これに対しアメリカ留学帰国者は,教育界において優位になりつつある。その 理由として,有賀は,壬戌学制により制度的にアメリカの方が日本より上級学 校への連絡が容易で,英語は必修の上,教授者が「日本のそれに較べ実用的」

で,「教科書,参考書までも米国式に編纂されてゐる」(24a)こと,アメリカの 方が日本より入学資格が厳格ではないこと,「北京に於ける清華,燕京,天津に ある南開大学の如きは成立当時から米国留学予備にも便し,留学二年も居れば 学士となり,尚在学すれば碩士博士にもなり得る」(24b)ことを挙げる。

 ただ漢口中学総務長の齋藤重保は,日本留学の困難さを指摘しつつも,一方

(21)

で「日本研究熱,日本留学熱,日本語学習の希望者は非常に多く,年を追つて 増加する傾向」(19b)があり,その背景に国民政府が明治維新を参考にしてい るため明治維新史研究が隆盛していることがあるとし,量より質を重んじ,優 秀な学生を育てるべきだと述べている(19b)。

( 3 )椎木真一の視察

 最後に椎木の視察旅行であるが,松本と有賀と異なるのは,まず満洲事変後 の視察旅行ということである。椎木は「2,各地の触感」の冒頭,「蓋し東亜学 校の立場程デリケートなるものはあるまい。それは極めて複雑せる満支両国か ら来る学生を否応なく取り扱つて行かねばならぬからである……殊に近来の支 那は抗日の支那であつて決して歩き心地がよい筈のものでない。がしかしそこ を歩いて見る所に「東亜」の使命がある」(17頁)とする。

 華中南を広く視察する目的は,「教育の一般概況」,「日本出身者の活動情況」,

図I-5-2 椎木真一『支那教育視察報告』の活版表紙(右)と謄写版の本文前書き(左)

(22)

「日本語教育の情況」,「支那自体の国語教育の情況」,「文化方面に於ける日本人 の活動状況」,「支那自体の一般文化工作と其の施設状況」を把握することで,

これは本人の希望であった(15頁)。

 椎木もまず注目したのは,国民政府下の教育の拡充であり,一方で大学偏重 を是正し,また教育に関する「全調査」(全国調査?)をおこない,『第一次中国 教育年鑑』を刊行したことも評価する(44頁)。

 ただ依然として識字率は低く,今年度から予算を立てて義務教育を実施しよ うとしているが「支那もなかなか容易ではない」(52頁)と述べる。このように 椎木は,同じく東亜学校の教員であっても松本や有賀と異なって「支那」とい う呼称を使い,その視線にも中国に対する優越意識がいささか感じられる。

 その椎木が注目するのが,教育制度統一化の進展である。

 政治上は,福建までが中央系,広東広西は西南派と,くつきり分かれて 居る。福建は完全に中央の配下にあるが,西南派の方は中央に対しては共 同戦線の形でも,内部では広東広西がぴつたり融合しているのではない。

その関係は通貨がよく之を示して居る。江蘇,浙江,福建は共通であるが,

広東省は広東省の札,広西省は広西省の札でなければ通用しない。ところ が教育の方は完全に貫通して居つて,何処へ行つても教育部の制度に拠つ て居る。(52-53頁)

 そして,各省市の高等教育を比較し,「数に於いては上海以北に学校は多いや うであるが,しかし其の意気に於いては,西南なかなか侮り難きものがあるの である」(54頁)とし,特に広西省について「非常な意気込で更生運動に着々実 績を挙げつゝあるといふことは,かねて聞いて居つたが,来て見てその真面目 なのには敬服した」(55頁),李宗仁ら領袖のリーダーシップの下,広西では「政

〔政治〕教〔教育〕が完全に一致して」(57頁)政治の根本は教育にある,とし て教育に最大の努力を払っていると高く評価する。

 椎木は,このような民衆全体を教育・訓練によって統合・動員する方式に,

「広西が長く支那の模範とならんことを祈つて息まぬ」(59頁)と期待するので ある。

(23)

 広西省は1933年より,軍政統一の原則の下に,「軍事化・大衆化・生産化」さ れた義務教育と民衆教育を推進する「国民基礎教育」制度を強力に推進してい た。それは梁漱溟の郷農学校や陶行知の暁荘師範などの方式を発展させたもの で,内容的には三民主義的教育宗旨に則っていた

(37)

。はたして教育制度の統一 化がそのままストレートに政治的統一化につながるか,大いに疑問であるが,

教育の統一化は長い目で見れば国家観念を扶植するものであり,国家統合を推 進するものであったといえるだろう。

おわりに

 以上,華中・華南の教育に対する日本の認識を,『南支南洋ノ教育施設』や東 亜高等予備学校関係者の視察報告を中心に見てきた。中国の近代教育に対する 日本側の調査研究は,中国自体の調査の立ち後れや日本教育界の関心の低さな どにより,系統立てておこなわれず,中国との教育交流に従事した教育関係者 や教育機関,外務省やアジア主義者,あるいは満鉄や台湾総督府といった機関 が主体であった。また,その関心は,中国の教育の全体像を描くより,中国情 勢の変化により欧米の中国に於ける教育事業や中国側の教育権回収運動,「排日 教育」などへと移っていった。

 『南支南洋ノ教育施設』においても,欧米の動向や教育権回収運動について ページを割いて述べているが,その記述にはブレがある。他方,中国側の教育 に関しては,概して肯定的で,学校教育や社会教育の目覚ましい発展が描かれ ている。ただし分析の記述は抑制的で,日本側の分析なのか入手資料の分析な のか判然としないところがある。

 さらに,東亜高等予備学校関係者の視察報告は,日中交流の発展を前提とし ており,中国の教育発展を評価する姿勢が明確であるが,ここでも教育の発展 が教育における国家統合の進展を伴っていたという見方をしている。

 今回の考察はまだ表面的なものである。今後は,視察報告作成者の背景など を探るとともに,未見の調査報告を収集し,考察を深めることにしたい。

(24)

1

) 近代アジア教育史研究会編『明治後期教育雑誌にみられる中国・韓国教育文化関 係記事目録』東京:龍渓書舎,1989年。

2

) たとえば,教育の先進地帯である江蘇省を扱う『支那省別全誌第十五巻』(東京:

東亜同文会,1920年)では,第二編開市場第二章南京及下関では

5

頁にわたって主要 な学校を列挙するものの(79-83頁),それ以外は鎮江(98-99頁),松江府城(159-160 頁),呉淞(161頁),無錫県城(167頁),通州城(南通)(213頁)に学校や教育会等 の機関の名を若干数挙げるだけである。

3

) 中国最初の全国教育統計は清朝学部総務司編『第一次教育統計図表 光緒三十三 年分』で,以後1909年(宣統元年)分まで編纂された(丁致聘編『中国近七十年来教 育記事』南京:国立編訳館,1935年,台北:台湾商務印書館,台二版,1970年,22,

29,31,34頁)。中華民国政府も民国初年は編纂していたが,1916年度以降断絶し,

南京国民政府によって再開される。これらは各省の統計をまとめたものであり,年度 によって空白の省があり,さらに省統計の基礎となった県レベルの統計にも精粗のば らつきが大きかったと推測される。ただ,教育の比較的発展した地域では,比較的完 備された教育統計が早くから公刊されており,たとえば,江蘇省南通県の『民国三年 度南通県教育会年報』(南通:南通県教育会,

1915年)には「本県教育統計表一(民国

三年学年度)」が掲載されている。

4

) 阿部洋『中国の近代教育と明治日本』東京:福村出版,1990年など。

5

) 大森直樹「『現代支那満洲教育資料』における中国教育観の特質  「満洲国」教 育の把握を中心に」(東京文理科大学・東京高等師範学校紀元二千六百年記念会編「現 代支那教育小史」『現代支那満洲教育資料』東京:培風館,1940年,大空社復刻版,

1998年),阿部洋監修,佐藤尚子ほか編『中国近現代教育文献資料集』(以下,『資料

集』)東京:日本図書センター,

2005年所収の阿部洋「第 I 部日中両国間の教育文化交

流 解説・解題」,佐藤尚子「第 II 部欧米諸国の在華教育事業 解説・解題」,橋本学

「第III部国民政府下の民族主義教育 解説・解題」,佐藤尚子「第IV部日本占領下の中 国教育 解説・解題」,蔭山雅博「第 V 部中国教育通史 解説・解題」,および高柳峻 秀「満洲事変前後の「排日教育」問題と日本・満洲における日本人教育界」(『史学雑 誌』第127編第

8

号,2018年)。

6

) 中島半次郎『日清間の教育関係』東京:中島半次郎,

1910年,

『資料集』第

2

巻所 収復刻版,

4

頁。なお,中島半次郎(1871-1926)は東京専門学校(早稲田大学の前 身)卒で,雑誌『教育時論』の記者を経て,東京高等師範研究科で教育学を専攻した のち,早稲田大学の教授となり,1906年,当時の直隷総督袁世凱の招聘で北洋師範学

(25)

堂の教習となり,

3

年余勤務した(阿部,前掲解説・解題,『資料集』第

1

巻26頁)。

7

) 中島半次郎,同上書。

8

) 同上,113-114頁,および阿部,前掲解説・解題(『資料集』第

1

巻)26-28頁。

9

) 中島半次郎『東洋教育史』東京:早稲田大学出版部。多賀秋五郎は中島『東洋教 育史』を名著と評した上で,「この書は,第一篇は日本,第二篇を支那としてありま す。当時の東洋教育史は,近代などほとんど問題にならず,古い時代ほどくわしかっ た」とする(多賀秋五郎「日本における東洋教育史研究の歴史」『日本の教育史学』第

2

巻,1959年,281頁)。三浦藤作『参考東洋教育史』(東京:太陽堂書店,1929年)

も,「本書は,一般の東洋史や支那思想史や支那思想に関する特殊の研究を参照し,東 洋諸国の国情と思想上の背景とを明らかにして,教育及び教育思想の大要を述べる」

2

頁)とするように,大半の記述が前近代に当てられ,近代教育に関する記述は全403 頁中,30頁足らずである。

(10) 1930年代に翻訳された中国教育史には,舒新城著,銭歌川訳『近代支那教育思想 史』上海:中華書局,1930年(舒新城『近代中国教育思想史』上海:中華書局,1929 年の全訳),陳青之著,柳沢三郎訳『近代支那教育史』東京:生活社,1939年(陳青之

『中国教育史』上海:商務印書館,

1936年の近代部分の訳),任時先著,山崎達夫訳『支

那教育史』上・下,東京:人文閣,

1939-1940年(任時先『中国教育思想史』上海:商

務印書館,1937年の全訳)がある(蔭山,前掲解説・解題,

6

頁にもとづき確認)。

(11) 外務省文化事業部編『中華民国教育其他ノ施設概要』東京:外務省文化事業部,

1931年。

(12) 前掲,『現代支那満洲教育資料』。

(13) 大森,前掲論文,1-5頁。多賀秋五郎の引用も同上による(原典は,多賀秋五郎

「東洋教育史研究史」『教育学論集 第一集』東京:中央大学教育研究会,1959年)。

(14) 「現代支那教育小史」94頁。

(15) 同上,96頁。

(16) 大森,前掲論文,6-8頁。

(17) 拓務局編『北清ニ於ケル諸外国ノ教育上ノ効果ニ関スル調査』(拓殖局報第18),

東京:拓務局,1911年,復刻版,『資料集』第

2

巻所収,および阿部,前掲解説・解 題,20-23頁。同調査報告は,経緯学堂の主事樋口秀雄が,拓務局の依頼を受けて,北 京・天津でおこなった視察の報告書である。経緯学堂は明治大学が別法人として設立 した清韓留学生向け学校であり,樋口は留学教育の当事者であった(高田幸男「近代 アジアの日本留学と明治大学」高田幸男編著『戦前期アジア留学生と明治大学』東京:

東方書店,2019年,11-15頁)。

(26)

(18) 南満洲鉄道株式会社総務部交渉局編訳『支那ニ於ケル外国人経営ノ教育施設』大 連:同局,1916年,復刻版,『資料集』第

4

巻所収。

(19) 佐藤尚子,前掲解説・解題,17-19頁。

(20) 平塚益徳『近代支那教育文化史  第三国対支教育活動を中心として  』東京:

目黒書店,1942年。

(21) 同上,338頁。

(22) 同上,340-345頁。

(23) 平塚益徳「中国に於ける基督教主義教育  主として新教中等教育に就いて」,同

「中国に於ける基督教主義教育  主として新教高等教育に就いて」および「解題」(平 塚博士記念事業会編『平塚益徳著作集第II巻中国近代教育史』東京:教育開発研究所,

1985年)。

(24) 阿部洋「一九二〇年代満州における教育権回収運動:中国近代教育におけるナショ ナリズムの一側面」『アジア研究』第27巻第

3

号,1980年。

(25) 高柳峻秀,前掲論文。

(26) 台湾総督府文教局編『南支南洋ノ教育施設』台北:台湾総督府文教局,1935年。

東洋文庫所蔵。

(27) 横井香織『帝国日本のアジア認識  統治下台湾における調査と人材育成  』東 京:岩田書院,2018年,28-49頁。

(28) 孫佳茹「中華民国時期におけるボーイスカウト運動の展開(1926-1934年)  「童 子軍」の「党化」過程に焦点を当てて 」『早稲田大学教育学会紀要』第15号,

2013年。

(29) 1930年から34年の間に,団数が290から1010に,参加童子が

2

万3250人から

8

6536人に増加している。

(30) 高田幸男「江蘇教育会と清末民初の政治構造」『明大アジア史論集』第10号,

2005

年,48頁。

(31) 朱浤源『従変乱到軍省:広西的初期現代化,

1860−1937』台北:中央研究院近代

史研究所,1995年,481頁。

(32) これ以外に日本人向けの初等学校が福州・厦門・汕頭・広東(広州)・香港に各

1

校あり,総督府はこれら台湾人学校・日本人学校に台湾から教員を派遣し,また経費 補助をしていた(前掲『南支南洋ノ教育施設』86-87,108-111頁)。

(33) ちなみに国会図書館所蔵の台湾総督府熱帯産業調査会編『南支ニ於ケル教育施設・

南洋ニ於ケル教育施設』第一部〜第三部,熱帯産業調査会調査書,台北:文教局,刊 行年不明,謄写版は,『南支南洋ノ教育施設』と章立てや内容がほぼ同じで,後者の元 になった調査書であると思われる。だが,前者は漢字カタカナ交じり文で,文体もよ

(27)

り漢文調であり,何より第一編に「第三章 排日運動ノ実相」,第五編に「第二章 赤 露ノ進出ト共産主義ノ施設」,第六編に「第三章 日本居留民会及台湾公会」という後 者にはない章がある。このうち「排日運動ノ実相」は,排日運動は民衆の総意ではな く,ソ連・コミンテルンや知識人・学生の煽動によるとする。前者の表紙には「㊙」の 印が押されてあり,『南支南洋ノ教育施設』は前者から政治性の強い記述を削除した公 開版と考えられる。

(34) 二見剛史『日中の道,天命なり  松本亀次郎研究  』東京:学文社,

2016年,

7

-

8

,163,185-197頁。

(35) ちなみに,松本亀次郎「中華留学生教育小史」は有賀の名を誤って憲一としてお り(85頁),二見氏もこれを踏襲している(二見,前掲書,91頁)。

(36) 松本亀次郎『中華五十日游記附中華留学生教育小史,中華教育視察紀要』東京:

東亜書房,1931年,二見,前掲書,90頁。

(37) 朱浤源,前掲書,479-489頁。

調査報告書・教育史リスト

有賀憲三(1931?)『昭和六年春季 中華民国教育視察報告書』東京:東亜高等 予備学校,謄写版

外務省文化事業部編(1931)『中華民国教育其他ノ施設概要』東京:外務省文化 事業部

外務省文化事業部編(1932)『支那ニ於ケル排外教育』東京:外務省文化事業部 編

外務省文化事業部編(1938)『満洲及支那ニ於ケル欧米人ノ文化事業』東京:外 務省文化事業部

実藤恵秀(1939)『中国人日本人留学史稿』東京:日華学会

椎木真一(1928?)「昭和三年 北支旅行雑感」(椎木真一1935?a所収),謄写版 椎木真一(1935?a)『支那教育視察報告』出版者不明,謄写版

椎木真一(1935?b)「昭和十年春 南支那教育視察旅行報告書」(椎木真一1935?

a所収),謄写版

台湾総督府文教局編(1935)『南支南洋ノ教育施設』台北:台湾総督府文教局

(28)

台湾総督府熱帯産業調査会編(19--)『南支ニ於ケル教育施設・南洋ニ於ケル教 育施設』第一部〜第三部,熱帯産業調査会調査書,台北:文教局,謄写版 拓殖局編(1911)『北清ニ於ケル諸外国ノ教育上ノ効果ニ関スル調査』(拓殖局報

第18),東京:拓殖局

東京文理科大学・東京高等師範学校紀元二千六百年記念会編(1940)「現代支那 教育小史」『現代支那満洲教育資料』東京:培風館

中島半次郎(1910a)『日清間の教育関係』東京:中島半次郎 中島半次郎(1910b)『東洋教育史』東京:早稲田大学出版部 楢崎浅太郎(1940)『三民主義の教育精神』東京:目黒書店 西尾信治(1929)『新興支那の国民教育』東京:東京堂書店

平塚益徳(1940)『近代支那に於ける基督教々育の概況』(調査資料第19号),東 京:興亜院

平塚益徳(1942)『近代支那教育文化史  第三国対支教育活動を中心として』

東京:目黒書店

松本亀次郎(1931a)『中華五十日游記』東京:東亜書房

松本亀次郎(1931b)「中華留学生教育小史」(松本亀次郎1931a所収)

松本亀次郎(1931c)「中華教育視察紀要」(同上)

松本亀次郎,吉澤嘉寿之丞,小谷野義方(1930?)『昭和五年春季 中華民国教 育視察報告書』出版者不明,謄写版

三浦藤作(1929)『参考東洋教育史』東京:太陽堂書店

南満洲鉄道株式会社総務部交渉局編訳(1916?)『支那ニ於ケル外国人経営ノ教 育施設』大連:南満州鉄道株式会社総務部交渉局,1916年例言

陳青之(1936)『中国教育史』上海:商務印書館

参照

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