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真宗研究28号全

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(1)

ISSN 02880911 

員宗連合學會研究紀要

‑―第二十八輯一一

昭 和 59 3

諷 索 碑 合 墨 會

(2)
(3)

宗 研 究

真 宗

連 合 学 会

(4)

ー│'放埓の系譜ー̲

薩 摩 藩 の 封 建 支 配 と 真 宗 禁 制 政 策 ⁝

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⁝ ⁝ 星

ー—疑心暗鬼の社会の醸成ー—

﹃ 正 信 念 仏 偽

﹄ の 研 究

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⁝ 浜

ーー已能雖破天明闇に関してー—

親 鸞 と 海 人 ⁝

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⁝ 河 信 の 研 究

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⁝ 花 親 鸞 父 系 の 研 究 ⁝

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⁝ 畑

﹁ 絹 袈 裟

﹂ と

﹁ 織 物 袈 裟 ﹂

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⁝ 西 教 行 信 証 の 教 行 関 係 ︵ 三 ︶

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⁝ 藤

真 宗

研 究

第二十八輯

目 次

J I   I 

井 性

田 光

田 耕

生 ︵ 一 七

夫 (

‑ ︱

︱ ‑

寛 ︵

塔 ︶

英 ︵

き ︶

‑ ︵

店 ︶

訓 ︵ 二 四

野元貞︵一︶

(5)

会 員 名

学 会 彙

親 鸞 と 蓮 如 の 信 仰 構 造

⁝ 山 ー そ の 思 想 的 対 比 ー

̲

東関流寓………•………••藤

如 来 に 等 し

⁝ 桐 ー 一 益 法 門 を め ぐ り て ー

明 (

‑ ︱

︱ 写

︶ 朗︵

一四

0 )

忍︵ 一翌

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .   t

q

^

︶ 

沼与••………•-1

記 念 講 演

渓順

島 逹

崎 龍

(6)
(7)

衆知の如く︑薩序藩は他の諸藩にくらべてとくに強固な封建支配が行われた︒近世封建社会を通して目立った一揆 が一件も発生していないことも︑その事実の一端を物語っているといえよう︒その要因を極言すれば︑封建支配の根 幹たる民衆の分割統治に成功したこと︑換言すれば外城制度・門割制度・真宗禁制政策等の薩摩藩独自の制度と政策 をもって︑疑心暗鬼の社会を醜成して︑民衆の連帯を徹低的に阻止した点にあったと考えられる︒

小論ではとくに日本仏教史上他に類をみない近世封建社会を一貫した薩摩藩の真宗禁制政策が︑封建体制の維持に 如何に機能したか︑薩州内場仏飯講の動向を検証しつつ考察してみたい︒それにさきだって︑藷摩藩の真宗禁制政策 を概観しておこう︒

薩摩

藩の

封建

支配

と真

宗禁

制政

は じ め に

ー 疑 心 暗 鬼 の 社 会 の 醸 成

陸摩藩の封建支配と真宗禁制政策

︵鹿児島県立短期大学︶

(8)

薩摩藩の封建支配と真宗禁制政策

薩摩地方に真宗が伝幡したのは室町時代中期の蓮如・実如の頃であった︒ところが真宗が流布するとまもなく為政

者の間に一向一揆を畏怖して真宗排斥の気運が生じた︒島津家中興の祖といわれる島津忠良︵明応元・一四九ニー永禄

十一・一五六八︒号日新︶は﹁魔のしょいか天眼おがみ法華しう一向しうにすきのこさしき﹂と詠じ︑キリスト教・日

① 

蓮宗・真宗に対して嫌悪感をあらわにしている︒そしてこの歌を﹃日新菩薩記﹄︵慶長二年・一五九七編纂︶に紹介した

曹洞宗日新寺八世泰円は﹁諸所に一向宗起って︑父母を軽んじ︑仏神に疎ずる者︑人間の作法にあらず︑是等の徒党

成敗に根を断ち葉を枯さる事︑悪逆無道は天魔の所行︑天下国家を乱す︑此の魔賊を誅滅する政道は︑身を忠孝に砕

き︑心を寺社に繋きて︑子孫長久の隠徳を梢む人道ぞ云々﹂との論評を加え︑

事実︑島津領内においても一向一揆の萌芽があった︒永禄五年(‑五六二︶︑

日向佐土原の伊東義祐と日向真幸院

︵宮崎県えびの市︶の北原民部少輔の争いで︑北原民部少輔は領民を強制的に真宗に改宗せしめて︑その結束力を利用

② して伊東義祐に対抗しようとしているのである︒このような在地における真宗の展開は三州統一を急務とする島津氏

にとって充分に危機を感じるものであったと考えられる︒その後︑島津義久の老中上井覚兼の日記︑天正十三年︵一

五八五︶九月十五日条には﹁次に当所なと皆々一向宗と聞得候︒然者此前より之事に候条︑無届二御成敗はいかかに

候︑先々彼宗旨を替可>申之由︑欄被仰︑其後も一向宗に候いずる者ハ︑是非以生害させ申候て可>然之由被

11

出一

也﹂とあり︑具宗信者を摘発し成敗するにあたって︑まず宗旨替を命じて︑その後もなお真宗に固執する者は生害せ

しめるという厳しい方針がうちだされており︑上層家臣団の中で真宗の禁圧が話題にのぼってきたのである︒このよ 排繋しているのである︒ 一向一揆という事態を想起して真宗を

(9)

うにして真宗排斥の気運はいよいよ高まり︑遂に慶長二年(‑五九七︶︑島津義弘は再度の朝鮮出兵に際して二十ニヶ

③ 

条を置文して︑その最後の条で﹁一向宗之事︑先祖以来御禁止之俊二候之条︑彼宗鉢になり候者は曲事たるへき事﹂

として真宗禁止令を発布した︒ここに真宗は正式に禁止されたのであった︒その後︑

しばしば禁止令は発布され︑

た宗門取締りの制度も確立整備され真宗禁止政策は明治九年に至るまで一貫したのであった︒

ところで真宗信者の処分の実態が具体的に明らかなのは︑寛永十一年︵一六三四︶︑

日向山之口︵宮崎県北諸県郡︶の

④ 

郷士四人が一向宗の科によってそれぞれ持高没収のうえ︑移百性︵所替︶の処分を受けたのを初見とする︒その後︑

明暦元年︵一六五五︶︑宗門取締りのために宗門座が創設されて本格的に信者の摘発が行われ︑明暦・万治・寛文初年

⑤ 

にかけて︑主に郷士層の信者が持高没収・名跡刻奪・移百姓の処分を受けている︒﹁一向宗統領﹂といわれ薩摩の初

⑥ 

期真宗の展開に重要な役割を果した宮原真宅が礫殺され︑はじめての殉教者がみられるのもこの頃である︒ところで︑

この時期は﹁明暦ー寛文のころまで外城の分合・新設を完了して家臣団の所替︵所

l I

外城から別の所に移住させる︶を断

⑦ 

行して在地的・同族的靱帯を断ちきり近世的家臣団を編成した﹂といわれる時である︒この頃とくに士族の真宗信者 が摘発されて持高没収・名跡剥奪・移百姓の処分が行われているのは薩摩藩の兵農分離政策と無関係ではなかったと

⑧ 

おもわれる︒その後︑江戸時代中期にもしばしば禁教令が発布され︑取締りの制度も整備されているが︑信者の摘発

⑨ 

と弾圧は後期のそれと比べてはるかに軽いものであった︒

ところが幕末期の天保六年(‑八三五︶に至ると門徒の取締りが大規模に行われて本尊二千幅・門徒十四万人が摘

⑲ 

発されて弾圧も苛酷を極めた︒門徒はその情況を﹁南国諸講々︑去未年御法難蜂起仕︑国中不>漏根葉を枯︑厳重の乱 明︑誠に以前代未聞の振に座候︒先男子は宗門座︵中略︶の庭に木馬を紡り︑割木の上に座しめ︑膝上に五六拾斤の 石を乗︑或は隠門に大縄を挟ませ︑双方前後より挽倒し︑棒揚いたし︑呵責に逢ひ候得共︑元来堅固の族は不惜身命

薩摩藩の封建支配と真宗禁制政策

(10)

このようにして薩摩藩の真宗禁制政策は︑ には排仏論の興隆も念頭におかなければならないであろう︒ 薩摩藩の封建支配と真宗禁制政策

⑪ に覚悟仕云々﹂等々と本願寺に報告している︒

そしてこのような弾圧の匝接の原因を︑本願寺使僧妙光寺等は﹁此節は先例有>之候法難とは違候由︑元来東目姻

草講井浦生の白和に去春敷法難の硼︑御改革上納輯被

1

奪取

一︑

猶又

1一諸所一御印書類彼方より吟味仕候より事起り︑

⑫ 

莫大に国財他国へ漏候に付︑自然と国中及ー一困窮ーと申吟味根跡に相成候由︑誠に以苦々敷存申候事﹂と本願寺に報告 している︒また門徒も﹁仕置当職家老津所庄左衛門︵調所笑左衛門︶︑国財のけんせん事を嫌︑中村新助と申候役人

⑬ 

を同行となし︑長々京地に置︑御献上の金子高井に人名一・一にしらべ︑夫より吟味に相成先年の大変に及候問云々﹂

といい︑天保六年の大弾圧の原因が本願寺の財政改革と薩摩藩の調所広郷による財政改革とが相侯ったことを指摘し ている︒幕末期に門徒を弾圧したのは︑門徒が本願寺に上納する金品を阻止しようとする経済的理由もあったといえ るであろう︒また門徒の信仰組織である講は数ヶ村にわたり連絡を有するものであり︑それは産摩藩の支配組織であ る外城制度をおびやかすものであった︒それに加えて講の中心人物である講頭は下級士族が多く︑そのような講の組 織は兵・農が連帯する可能性が内在しており︑兵農分離が不完全であった薩摩藩の村落構造にあっては憂慮すべ含も

ので

あり

︑ とくに支配体制が弛緩してきた幕末期には一層の危機を感じて弾圧したものとおもわれる︒また思想史的

一向一揆の勃発を危倶して禁止され︑

いたのであった︒そして藉末期には経済的理由や︑講の組織が支配組織をおびやかすものとして弾圧したのである︒

つまるところ真宗禁制政策は門徒の連帯を畏怖して近世封建社会を一貫して断行されたものといえよう︒事実︑薩摩 門徒は禁制下にもかかわらず講を結成して本願寺と連絡を密にし信仰を保持しつづけようとしたのである︒それは瞥 見するとき門徒が強固な連帯を遂げた形態ともみることが出来よう︒

また兵農分離政策の一糞を担って

(11)

法物こ御本尊︑本如・広如両上人御影︑祖師・蓮師連座御影 設立認可二各政元年七月十九日 所在地ニ宮崎県小林市直方新田島 ように現況が報告されている︒ 薩州内場仏飯講の動向を検討してみよう︒

しかしながらそのような為政者の危倶とは別に真宗禁制政策は封建支配にきわめて有効に機能したのであった︒す

なわち真宗佃仰が非合法であったが故に伯者の間で種々の問題をめぐり互いに猜疑心が生じてくる︒

初期においては︑慶長十一年︵一六0六︶︑島津氏の重臣大口外城主新納武蔵守の家臣五十人は三カ条の起請文を提

出しているが︑その初条に﹁今度一向宗就一一御糾明

1︑互心底不>存候︒我々事は彼宗に不二罷成一候︒勿論向後別心有

⑭ 間敷事﹂とある︒ここに﹁互心底不存候﹂とみられるが如く︑士族の間に真宗信仰の有無をめぐって互いに猜疑心が

生じていることを知ることが出来る︒真宗信仰有無の糾明は家臣団の分離に有用であったといえよう︒

そして前述の如く幕末期に至り弾圧が厳しくなると門徒は互いに懐疑的になってくる︒とくに文政年間(‑八一

i

)

以降︑本願寺使僧が法義引立と本願寺財政改革のための募財を目的として入薩すると︑上納金や手次権をめぐ

り︑本願寺使僧・手次寺・講員の間に内紅が惹起し連帯は肌害されたのであった︒ここで比較的史料が残存している

薩州内場仏飯講︵以下仏飯講と略す︶は現在でも本願寺直属の講として活動しており︑﹁本願寺講社台帳﹂には次の

薩州内場仏飯講一番組

薩摩藩の封建支配と真宗禁制政策

(12)

設立認可二大明元年五月二十四日 所在地二暉際郡財部町南俣 講員居住範囲こ鹿児島県肝属郡・姶良郡・囃際郡以上の一部︑宮崎県北諸県郡・西諸県郡の一部沿革?本講は明和三年頃に始まり︑寛政五年五月上旬上京し講名を賜り祖師・蓮師の御影を下付される︒尚大幅の

名号一幅を下付されたり

常例の行事二止月・報恩講・春秋彼岸会を在家で勤める︒法物は一一一年毎に預る︒

藷州内場仏飯講三番組 講員数二九

00

人 法物る御真筆六字名号、親鶯・蓮如連座像、文如•本如様各御影 設立認可?氷正十年十月十八日 所在地~宮崎県北諸県郡一二股村

薩摩

藩の

封建

支配

と真

宗禁

制政

講員居住範囲了小林市︑同直方︑同提︑西諸県郡高原町︑西麓横折︑高原町後川内︑北諸県郡高崎町大牟田︑同山

田町中霧島

沿革"天明元年頃仏飯講の講名を賜り︑寛政十年一・ニ.︱︱一番組のひとつとなり現在に至る

常例の行事こ班月二十日永代経上納金集め︑三月二十七日彼岸会︑七月二十三日色干︵虫供養︶︑十一月三十日報

恩講︵各寺を巡回参拝する︶

薩州内場仏飯講二番組 講員数~一六00人

(13)

相果候︑御年六十三才病死 右の如く仏飯溝は講員三四

00

人︑その範囲は二県一市五郡にわたり︑三組に分れて宗教活動を行っている︒

⑮ 

ところで﹃仏教飯講系図﹄はその来歴をおよそ次のように伝えている︒すなわち明和三年︵一七六六︶頃から日向 諸県郡勝岡郷蓼池の藤左衛門を中心に信者が結集し︑安永二年︵一七七一︱‑︶に仏飯講を結成した︒その後︑寛政五年

︵一七九一︱‑)には本願寺から親鸞・蓮如連座御影︑本如筆六字名号を下付された︒そして寛政十年には一・ニ.︱︱一番組 に分かれ︑各組に二名の惣代がおかれた︒文化三年(‑八

0

六︶には一番組物代高原邑の四元次郎右衛門が上山し御 裁断御書を受け︑同十二年に本如御影を下付された︒天保六年︵一^︱‑五︶は前述の如く︑藤摩藩全土にわたり信者 の取締りが断行された時であり︑仏飯講もその例外ではなく三人の惣代が次の如き法難にあった︒

二番組惣代桑畑熊次郎︵藤岡新馬場︶ー都城会所二被引出︑無百訳切復シテ死ス

︱︱一番組惣代山崎七左衛門︵財部末吉深川村柳谷︶ー宗門改役中村新助殿歳計二値ヒ一通リ申伸置︑終二同七年申三月

︱︱一番組惣代徳峯疸右衛門︵財部末吉村深川新原︶ー我家ヲ外シ欠落居候得共︑同十二年ノ四月被召捕︑都城会所二於

テ致切復相果候

薩摩

藩の

封建

支配

と真

宗禁

制政

常例の行事品叙恩講︑春秋彼岸会 沿革"明和三年より始まり現在に至る 講員数~―――

100人

溝員居住範囲こ鹿児島肝属郡・姶良郡・囃際郡 御消息二安政七年四月三日下付 法物二今如・文如御影︑祖師・蓮師連座御影

(14)

候段︑奇特の至に付︑思召を以被>下>之候︵薩摩国諸記︶

このような信者の取締りは弘化元年(‑八四四︶に至る九年間断続し﹁仏法も絶々﹂になったが︑

年の頃乎静をとりもどした︒しかし安政四年(‑八五七︶再び取締りが開始され一番組惣代四元長八・同広木清右衛

門の二人が﹁宗門改役川口市左衛門厳敷歳計二付︑驚キ無︱︱詮方

1卜格護相極メ︑御真影様身代リト思ヒ︑同六年未四

月切復シテ死ス︑清右衛門事ハ被>招︑鹿児島会所へ被引出三年ノ苦ミ﹂との法難にあい︑また二番組惣代筆成十右

衛門・原口嘉市も﹁御絵伝様御友シテ我家ヲハ︑スツ︑低肥領辺逃去リ居候得共︑同ク五年九月被

1

召捕

一︑

鹿府

会所

被引出︑永ノ苦ミ︑十右衛門事ハ相果テ︑嘉市事罷帰候﹂との弾圧に遭遇した︒またこの時︑仏飯講の親鸞・蓮如連

座御影︑本如筆六字名号等の法物は野尻甘柏山の建札十次郎宅に隠匿したが安政六年に露顕し没収された︒このよう

な龍明は慶応元年︵一八六五︶まで継続して行われたという︒

かくして︑仏飯講は再々の摘発を受け︑数名の犠牲者を出し︑法物等を没収されながらも本願寺と連絡をとり執拗

に組織を維持したのであった︒それは真宗信仰を中心とした紐帯の強靭さを示すものとも評価されるであろう︒ と︑﹁御板形法名﹂を下付している︒ 右は至て強信の者に候処︑

御 板 形 法 名

薩摩藩の封建支配と真宗禁制政策

なお︑この他にも数名の殉教者がいたようであり︑本願寺は嘉永三年(‑八五

0)

三月に

薩州仏飯講同行九人

一昨夏以来︑法難の硼︑国法より厳敷拷問有>之候得共︑白状不>致︑終に其節致1

終︱

よう

やく

嘉永

︱︱

(15)

あっ

た︒

しかしながら外面強固な連帯を逐げたかのように見られる薩摩の諸講にも種々の内肛があった︒仏飯講の場合も本 願寺の使僧重誓寺︵明勝寺探玄︶の言行をめぐり講内に軋礫が生じ︑また重誓寺と直純寺︵宮崎市柏田︶とは仏飯講の 手次権をめぐり対立し︑仏飯講は分裂し︑直純寺は東派への転派を画策するにいたったのである︒その間の事情は複 嘉永四年(-八五一)、仏飯講惣代久太郎、金助•徳次の三人は上山して本願寺使僧重誓寺の言動を「元来、御姻草

講・焼香講•仏飯講等、信明院様御書御染筆被

1一成下一、右三講一和仕、御法義相続仕来申候処、重誓寺依枯の取計

有>之講内機辺捐︑相互に争︑

一和不>仕︑終に法難の基にも可

1

相成1

1と歎ヶ敷奉>存候間︑不>得>止事奉

1

申上

一候

旨 申居候︑然処余国とも違︑国政厳密の所に御座候へは︑難

1一捨置一御用状を以︑早々被召登候ては如何御座候哉︑此段

⑯ 

奉伺」と言上した。御姻草講・焼香講•仏飯講は互いに緊密な連絡が保たれてきたが重誓寺の「依枯」によって亀裂 が生じたのである︒重誓寺の依枯が如何なるものであったか不明であるが︑ともかく重誓寺の言行によって三講は不 和となり︑それが原因となって法難の恐れがあるので︑重誓寺を召還するように歎願したのである︒

﹁内場仏飯講・内場姻草講︑右両講の所講一二つ四つに相分︑互に相論止時なく︑依て和談の取計致呉候様︑度々歎願 等差出候︑右講内は法談杯致者数多有>之故︑互に嫉妬心狭︑夫故の事二候へは︑御殿へ向如何様に申立事難>計候へ

⑰ 

︑ 為 御 心 得 奉

1甲上一候﹂といい︑三講分裂の原因は講員の﹁嫉妬心狭﹂きところにあると本願寺に上申するので

また仏飯講の手次寺であった直純寺と使僧重誓寺は手次権と本願寺への上納金をめぐって対立した︒安政一︱︱年︵一

薩摩

藩の

建封

支配

と真

宗禁

制政

雑であるが慎末を概観すれば次の通りである︒

一方︑重誓寺は

(16)

⑳ 

乍>

恐奉

1

歎願

1口上覚 願寺に提出している︒ と︑内申するのである︒両者の争いは憎悪に満ちたものであった︒

薩摩

藩の

封建

支配

と真

宗禁

制政

八五六︶︑重誓寺は直純寺の行状を﹁日向直純寺江御下文御附早々差送置候得共︑乍>致

11承知

1偽御使杯申立︑且御皆

済ノ名目ヲ難シ︑種々相妨言語同断ノ儀二候︒党蜀同寺事従米ノ不行状二付︑寺内必至ノ困窮ニテ︑内場三講江時々

⑱ 

無心申越︑昨冬モ御堂修覆申立︑金舟両ッ︑無心申越︑夫二相障候故カト被

1

相考

1候﹂と厳しく批判し本願寺に報告

するのであった︒これに対して直純寺も重誓寺の素行を 一重誓寺殿御巡在御立ノ節︑酒焼酎等過分二呑︑猥二丸裸二相成︑踊リ廻リ候様ノ振舞︑毎々有>之候 一同寺儀︑山二入獅子狩被>致︑終二獅子ヲ打留︑巡在先へ持被>巡候 一同寺事︑七昼夜御講座ノ節︑猥二酒狂不如法成算引杯被

1

1相催

1

一御殿様用卜申︑伽羅壺斤︑但シ壷斤二付弐両弐歩位︑沈香半斤︑但シ壼斤二付壺両弐歩位︑大黄七斤︑但シ壺斤ニ 付壼両ッヽ︑右ノ品買入︑内金五両焼香講ヨリ為

1

1差出一︑右ハ上納物二差引二相成候様被>中ン之︑右品々当正月九

⑲ 日伴僧二為>持被11

差登一候︑実二御殿ノ御用二御座候哉︑猶又右金子五両ハ如何被

1

成下

1候哉︑奉

1

伺上

一候

そして︑直純寺と重誓寺の紛擾は仏飯講を二分した︒安政三年︑仏飯講の荒井直左衛門ら六人は左記の歎願書を本 一私共儀︑従来内場仏飯講々頭ノ人数二被二仰付

1在︑日向宮崎直純寺殿取次二候処︑同寺事先代卜相替リ酒揺博突公

事等邪行計ニテ︑朝タノ勤行モ無>之︑御影様迄入質被>致︑寺門悉及

11廃壊一候得ハ︑立入候門徒無>之︑誠以浅間

敷事二候︒夫故年々無心申来︑御本山ョリ御使僧御差向ノ節ハ︑種々故障中立︑講内ノ悪者ヲ相カタラヒ御請不

11

出来一様被>致、同行一同深相歎申事二候。其上御本山ノ御称号ヲ借リ、偽附箱を講中へ廻シ、或ハ嘉市・源六•長

10  

(17)

六月廿六日

荒井伝五左衛門 鉄袈裟 助四郎 吉蔵 荒井直左衛門 仏飯講 八•新兵衛等悪者ヲカタラヒ、御使僧重誓寺へ無実ノ悪名ヲ及=言上1、入真房殿ヲ種々被五致11迷惑へ奉ン対11御本

山ふ

1

恐入

1事候︒当春重誓寺殿ョリ厳敷御掛合二相成︑始テ御使僧御差入二相成︑同行一同難>有奉二存上↓御手

伝方金五百両大御請成上置候処、御使僧御引取ノ後へ嘉市・源六•新兵衛•長八中合、以11廻文1御皆済方決テ御取

持不

レ及

ー一

申上

1旨触流シ︑自身御堂修覆料トシテ金舟両申付︑門徒査軒二付百五十文ッ︑出金仕候事二候︒然二直純

寺ノ触書︑且悪者共種々悪ロニ付︑人気両方へ跨リ︑御取持不>任

1一心底一︑右ノ鉢ニテハ︑以後御用ノ御妨二相成︑

且美敷御正意ノ御法義聴聞難11出来一候得ハ︑後生ノ一大事二候得ハ︑誠以歎敷奉

1一存上一候︒右ノ訳合二付如法ノ同

行丈申合、当度少々奉1一献上一候事二候。然処嘉市・源六•長八•新兵衛杯申者申合、直純寺卜相計、御講様ヘハ御

拝礼

モ不

ー一

出来

1様仕候得ハ︑同意ノ同行丈申合︑仏飯講ヲ引分︑南方仏飯講卜仕︑直純寺ノ取次ヲ離レ︑御本山へ

匝上納仕度︑且御新借御手伝ノ儀モ五百両ハ右ノ者共へ任置︑私共ハ別二百両丈御講仏様無

1御座

1テハ︑同行中モ

相歎可丘申候間︑御本尊様四百代︑御開山様御影四百代︑信明院様御影四百代︑当度以

1

思召

一御

差向

奉盃

如上

一候

尤明春ハ御献上ノ節︑右三尊様御冥加ハ御定式通急度上納可>仕候︒御時節柄奉

1一恐入一仕合二候得共︑国柄ノ事ニ

候得ハ︑格別ノ以

1御慈悲一願ノ通被1一仰付弘緊下候ハ︑難>有之奉>存候︒以上

薩摩藩の封建支配と真宗禁制政策

(18)

島田様御役所

こうして︑仏飯講は直純寺を支持する嘉市グループと︑直純寺の手次を拒否する荒井直左衛門のグループに分れ︑

荒井直左衛門の反直純寺派は南方仏飯講を別立し︑ 新蔵 薩摩藩の封建支配と真宗禁制政策

ついに仏飯講は二分されたのである︒そして︑隣講の焼香講︵義

助・重助︶︑歓喜講︵盛右衛門・新助︶・御姻草講︵新八︶らも連名して︑本願寺に﹁仏飯講ョリ言上ノ次第相異無>

之︑願ノ通出格ノ思召ヲ以︑御免被

1

成下

1候ハヽ︑同講ハ勿論︑隣講I私共︑爾今迷惑ノ筋モ多ク有>之候処︑美敷

⑳ 御法義相続出来可申候通︑御聞済ノ通奉11願上一候﹂と︑南方仏飯講の別立を認可するように歎願しており︑仏飯講の

肛争は隣接の講にも影響を及ぼしたのであった︒

⑫ ちなみに内場焼香講においても深刻な内肛があった︒その経緯は次のようなものであった︒

此度ノ始末内場焼香講・内場姻草講・内場仏飯講右一二講ハ直純寺先々代ョリ帰依ノ上︑御殿向万事取次代上納ノ内︑

半丈乎或一一一乎一乎同寺へ寺納仕来︑其外正月・盆・両度彼岸・報恩講杯度︑寺納多分ノ事二御座候︒然処七・八ヶ 年前焼香講ヨリ献上上京ノ節︑講頭澤右衛門其硼ハ忠助卜申者居候︒同寺ニテ凡︱︱一百両計金子逢11

盗難へ其筋不正

ニ付︑澤右衛門ヲ講内ヨリ追出候︒然二五十寺計ノ内五寺丈澤右衛門二組シ︑別二相成在︑然処出役度当時講頭ヲ

退テ如>本自分講頭取立呉様願出候得共︑只今迄同人講頭中御取持薄︑且出役ヲ相コバミ不津合ノ人故不

1

取上

一︑

依>之以臼計御講仏井講中ノ宝物悉奪取︑講中ヲ横領可丘仕企候故︑講内大二混雑イタシ︑昨年三月頃致

1

11上京以

1一 書

付一当時講頭井出役ノ拙寺迄ノ事様々二御殿へ申立候得共御取上無>之︑依>之東本山へ出入願立候得共︑東派ニハ

⑳ 

11取合

1由︑昨年惣代上京焼香講俊劫ョリ承リ候

嘉永ニ・三年の頃︑焼香講講頭澤右衛門が上納金三百余両を直純寺で盗難にあい︑その嫌疑が直純寺と澤右衛門に

(19)

策は徒労の政策であったともみられるであろう︒

お わ り に

闘誇堅固の社会であったというべきであろう︒ 一人が切復したので

かかり︑澤右衛門は講を追放されたのである︒その時︑宮崎近在の本願寺末寺約五十寺のうち五ヶ寺が澤右衛門に組 し対立した︒澤右衛門は再び講頭に復帰すべく画策したが拒絶された︒そこで澤右衛門が講の法宝物を奪い取り︑講 の横領を謀計したので講中は混乱した︒さらに澤右衛門は安政三年(‑八五六︶三月頃︑上山して当時の出役寺や講 頭の悪口を陳述したが無視された︒この期に及び真純寺と澤右衛門は東派への転派を企てたが︑東本願寺はこれを受 けつけなかったというのである︒そしてこの内肛で犠牲者がでた︒

昨春澤右衛門江被

1

1奪取

1候御宝物為>願︑喜左衛門始十壼人金子彼是三百両相調上京仕候処︑筑前松崎ニテ両人被>

捕︑壼人ハ切復︑其内壺人ハ直ノ

御本山逃込居候事御座候︒全直純寺︑澤右衛門申合︑嘉左衛門同行ノ内向方ノ 者入ヲ置︑役人共卜馴合︑金子ヲ始書類前以取受置︑後捕方仕候趣︑国境小野番所ノ者共ョリ内々申来候︒猶追々

⑳ 上京講中ョリ右ノ次第申出候

法宝物の再下付を受けるために上山を企てた焼香講の講員二人が筑前松崎において捕縛され︑

あった︒そしてこの事件の背後には直純寺と澤右衛門の謀計があったというのである︒ことここにいたってはまさに かくして︑薩摩の門徒は厳しい弾庄のもとに多くの犠牲者をだしながらも講を結成して︑本願寺と連絡を密にして

信仰を保持しつづけたのであった︒それは政治権力に対するひとつの抵抗ともいえよう︒そして藷摩藩の真宗禁制政 しかしながら︑上述の如く講の内実をみるとき︑講頭の職をめぐり争い︑あるいは本願寺使僧と隣国末寺とは手次

薩摩

藩の

封建

支配

真と

宗禁

制政

(20)

外城制度は︑諸藩にくらべて異常に多い士族人口を擁した︵たとえば明治初年︑藤摩の士族は全人口の二六・三八

⑯ 

%をしめている︒これに対して全国的には士族は五・七%である︶薩摩藩が士族を鹿児島城下に集中して居住させる ことなく各郷︵外城︶に配置し︑給地を自作させ︑各外城主の下に掌握した屯田制的行政組織である︒外城の数は時

⑳ 

代により若干異なるが延享元年︵一七四四︶には百十一︱一の外城があった︒そして各外城には地頭館︵仮屋︶があり︑

これを中心として麓とよばれる郷士の居住地があった︒また下級士族は在︵村︶に百姓と共に生活し村方郷士とよば れた。このようにして薩摩藩の村落構造は士族と百姓•町人・漁民が各郷で生活の場を共にするといった特異なもの であった︒このような村の形態は瞥見すれば下級士族と百姓が揆を一にした抵抗が惹起する恐れがあるとも考えられ

よう

︒ しかしそのような連帯は身分の差別意識から遂げられることはなく︑逆に郷士と百姓とは牽制しあい封建体制 を補完したものと考えられよう︒

ほうぎり

門割制度は一村を数方限︵組又は部落にあたる︶に分け︑方限をまたいくつかの門という百姓のグループに分け︑

百姓の作職地を門単位で班給し︑門の連帯責任によって貢組するという土地制度である︒一門は普通四︑五家部︵戸︶

で構成され︑作高は二

0

石から四

0

石であった︒門地は各門の用夫(+五オー六十オの壮丁︶と家族数に応じて配分 し︑また原則として検地の際に交換されることになっていた︒そして門割すなわち各門の名子に作職地の配分を行う

それは外城制度・門割制度にも同様なことが指摘出来よう︒

を阻止していたのであった︒

薩摩藩の封建支配と真宗禁制政策 権をめぐり陰険な肛争がくりかえされたのであった︒換言すれば︑彼らは目前の利害を追い闘争し︑このような陰湿 な社会を生み出す原因となった真宗禁制政策に批判の目を向けることはなかったのである︒こうして一見徒労の政策 であったとおもわれる真宗禁制政策は︑

その効果が為政者の意識にあったかどうかはべつとして結果的に門徒の連帯

一 四

(21)

② ① 註

④  ③ 

のは門の代表者である名頭であった︒それは一見︑門の自主性を認めた制度ともおもわれる︒

の配分権をもつ名頭と名子の間に不信感が生じるのである︒そこで︑

しかし︑ここに作職地

たとえば享保︵一七ニハ

i )

の内検中には

依>所名頭計門高請取︑名子之者江は一向作職地不相渡所茂有>之︑此節之儀は用夫廻リニ作高銘々被

1

1仰付

1候︑名

頭之儀者依レ所手隙を費之俊有レ之候付︑名子汐は用夫壱人前之当高五部一程度相重配分高被

1一仰付一候︑名頭重作職

⑮ 

望無乙之所は平等二高割を以相渡候︑用夫迦幼少老人二茂名頭筋二而候は諸名頭並可

11

申付

一候

と達している︒ー従来は名頭ばかり門高を受けとり︑名子に作職地を渡さないところもあるので︑用夫の人数に応じ て作職地を配分すること︑名頭は場所によっては手隙がかかるので名子一人分の配当高の五分の一を多く受けとるこ とを認めるーとして︑名頭の門高の独占を禁止するとともに︑その職種︵役得︶を再確認しているのである︒このよ うな布逹がなされたのは名頭と名子の間に軋鰈があったがためであろう︒

また耕作地の配分にあっては土地の品質をめぐって名子相互間にも不満が生じたであろうことは相像に難くない︒

むしろ耕作地の配分が上意下達であれば名子も納得せざるおえない︒あるいはそれが不満であれば不満は上意に向け

られるのである︒

しかし︑直接︑耕作地の配分に当るのが︑同じ耕作者仲間である名頭であったが故に︑不満は上意 に向けられることなく︑門内部の問題にすりかえられて不信感に満ちた共同体が成立したのであった︒

こうして︑藤摩藩独自の制度である真宗禁制・外城制度・門割制度は民衆に猜疑心をうえつけ︑疑心暗鬼の社会を 醸成し︑近世薩摩藩の封建支配体制をより強固なものとし︑その維持に有効に機能したのであった︒

﹃日新菩薩記﹄︵﹃島津氏史料焦﹄第二期戦国史料叢書

6)

﹃島津国史﹄︑﹃一向宗御禁制由来﹄︵鹿児島県史料集

w )

薩摩瑞の封建支配と真宗禁制政策

﹃島津家文書﹄︵﹃大日本古文書﹄家わけ第十六︶

日州山之口地頭所旧記戸立戸︵小野寺鉄之助﹃近世御仕

(22)

﹁薩藩例規雑集﹂︵宮崎円遵﹁カヤカベ教の系譜﹂︑﹃カヤ

カベーかくれ念仏ー﹄所収︶

原口虎雄﹃鹿児島県の歴史﹄

初期真宗禁制政策については︑拙稿﹁薩摩藩の初期真宗 禁制政策﹂︵﹃仏教の歴史と文化﹄所収︶で詳述したが︑

ここでは文脈上再び略述した︒

福間光超﹁禁教下の薩摩門徒﹂︵﹃カヤカベーかくれ念

⑩︑⑪︑⑫︑⑬﹃薩摩国諸記﹄(﹃

H本庶民生活史料集成﹄

﹃近世御仕置集成﹄︒なお仏飯講の組織については千葉乗 隆「真宗の道場と道場主—とくに薩摩地方の講道場につ いてー﹂︵﹃龍谷大学論集﹄第三九一号︶において論究さ

⑮  ⑭  ⑨ 

⑧  ⑦  ⑥  ⑤ 

薩摩藩の封建支配と真宗禁制政策

⑯︑⑰﹃薩摩国諸記﹄

⑱︑⑲︑⑳︑⑪﹁安政三丙辰年窺書控﹂︵﹃日本庶民生活史

料集成﹄第十八巻︶

⑫日向大隅内場焼香講も現在本願寺直属の講として活動し ている大講であり︑本願寺の﹁鹿児島地区講社台帳﹂に は︑講員居住範囲宮崎県︵日向市・小林市・飯野町・加 久藤町︶︑鹿児島県︵大隅町・栗野町・加治木町・姶良

町︶︑講員数五五

00

⑮原口虎雄﹃鹿児島県の歴史﹄

⑳﹁薩藩政要録﹂

⑰原口虎雄﹃鹿児島県の歴史﹄

⑱﹁享保支配全書﹂

(23)

閻﹂に見出されないであろうか︒

﹁己 能﹂

の句に関する懸念 第一にこの一句は﹁すでに能く無明の閤を破すと雖ども﹂と訓読されていて︑﹁雖已能破無明閤﹂という文章の訓 読と同様によまれる︒﹁雖﹂の位置が問題視されしばしば論議され︑﹃説約﹄﹃帯倶記﹄などには臥雲老人なる人の﹃蓮 窓座壺﹄という古人の書の用法をのべて転位していても誤ではないと会通している︒今日はそれが確認されず︑また それが確認されても極めて稀な例となろう︑単にそうした用例が認められるというにすぎないであろう︒そうした特 殊用例としてみるのでなく一般的な用法として理解することはできないであろうか︒﹃偽﹄の訓読において奇異に思 われるものに﹁替如日光覆雲霧﹂︑﹁諸有衆生皆普化﹂がある︒前者の場合は﹁覆はるれども﹂と宗祖自身の訓が施さ れていて容認せざるを得ない︒後者の場合は﹁諸有衆生皆な普く化す﹂であって句面の如く理解すれば﹁諸有衆生﹂

は主語であり﹁化す﹂は﹁化転する﹂であって﹁楽邦に帰す﹂の言に対応する︒このような合理性が﹁已能雖破尤明

﹃正

信念

佛低

﹄の

研究

﹃正信念仏偽﹂の研究

ーー巳能雖破元明闇に関してーー

一七 ︵

同朋

大学

(24)

第三に﹁雖﹂であらわされる意味がとりあげられる︒﹁すでによく無明の闇を破すと雖ども﹂とは︑無明の闇を破 すという既存の条件を出し︑そうであっても破し切られずに貪愛眠憎の雲霧がある︑このことを表現するのである︒

すなわち︑摂取の心光常に照護したもう︑それによっても貪瞑があるということで︑通常の考えではないであろう︒

更にその雲霧が真実信心の天を常におおうと続けられている︒その信心はどうしてここに出されねばならないか︑そ

の環境は見出し得ない︒無明を破す︑破し切れないでのこる︑

には信心をいうべき環境が設けられてあった筈である︒それは一体何であろうか解明されねばならぬところである︒

第四にあげたいことは︑﹁臀如日光云々﹂の菅説が何をたとえているかということである︒日光が何を意味するか も問われるが︑特説全体がはっきりすれば解決するところである︒特説の怠志は﹁明らかにして閻きなし﹂を主張す るにあるといえよう︒﹁明らか﹂は無明の闇に光がさしこんだとこる︑そこには﹁くらさはない﹂ということである︒

﹁無闇﹂は﹁闇﹂という実体の存在を否定するのではない︒訓からいえることで﹁闇い思い﹂の否定である︒そうした ありようは爾前の文としてはどこにあるであろうか︒常に照護するところにあるともいえるのであるが︑﹁闇い思い﹂

は闇かった状態においてあるのであって︑それが破られ安らぎを見出したときにいえる︒これは何を菅によって表現 る︒いずれが合理性にとむかを見定める必要があろう︒

﹃正

信念

佛i l

﹄の

研究

このように伺っていくと︑第二に﹁已能﹂と表現されてくるものは何かということがあげられる︒﹁能﹂は先に

③ 

﹁能発一念喜愛心﹂とあり︑その﹁能﹂について﹃愚禿抄﹄の﹁対不堪也﹂の解釈を引用して︑欠け目なく︑すっか り丁載する︑という意に解することがで含るとする︒若しそれと同じ﹁能﹂であるとすれば﹁能発一念喜愛心﹂を承

④ 

けているとも考えられる︒これに対して︑﹁摂取心光常照護﹂につづく句であるところをみて︑摂取の光明におさめ

⑤ 

とられるときに先明の闇がはれることとなるので休前の句を承けているとみているものもある︒この二つの見解があ

というだけでは信心はいいえない︒しかしながら宗祖

(25)

されたのであろうか︒﹁特如﹂といわれる前にある筈である︒

一 九

かくの如くあげてみると︑﹁已能﹂の一句の意味すると

ころを厳密にするにはかなりの句とのかかわりを検討し︑語のもつ意味を再吟味する必要があるのである︒

‑﹁己﹂の語義及び宗祖の用例

⑥ 宗祖は﹁すでに﹂には﹁己に﹂と﹁既に﹂とを使用されるが﹁己に﹂の方が多い︒この﹁已﹂ほ﹁この上に言いた

⑦ る趣にて︑その貨の詮義にかかる筋はもはや跡へのこらず埓の明きたる事にせんとて置く字﹂ともいわれる︒この場

合は﹁⁝⁝已﹂の意味であって︑句のはじまりに使用される﹁己﹂の場合﹁既に﹂が尽くる義であるのに対し﹁記

R

 

也﹂といわれる︒これは﹁ある所までいきついて止まる﹂と解されるが︑つまって屈曲しながら出てくるさまを描い

⑩ ているとされ︑﹁按ずるに已は尽きて又始まるの義なり﹂といわれる︒円乗院は﹁おわるとおわらざるとの問におく

⑪ 字ときこえる﹂と諒解して釈しておられる︒

このような﹁已﹂の義は宗祖の用法に妥当であろうか︒使用例をみることとしよう︒﹃信巻﹄に次の用例がある︒

l ‑

言>断者発11起往相一心故、元一一生而当盃又>生、元11趣而更応>到趣→己六趣•四生因亡果滅、故即頓断二絶一――有

生死

↓故

曰>

断也

︵聖

全一

一︑

七四

頁︶

これをみれば﹁已﹂の前段で断の義がのべられているのであるが︑後段でその理由を詳しくし︑断の義を確かにし

この

他︑

ている︒断について前段でつきているわけであるが︑﹁己﹂を使ってまた始めて詳しくしているのである︒

﹁如米本願己発

1一至心信楽欲生誓一何以故論主言二心也﹂︵信巻︑同五九頁初︶も︑本願の中に三つの誓もふくまれるの

であるがこの三心をいうことにより本願の涅槃の真因なることを具体化するのである︒このように実例をみると字義

﹃正

信念

佛偶

﹄の

研究

﹁已 能﹂

の意義を求む

(26)

めて表現する役割を果たすこととなっているのである︒

﹃正

信念

佛偶

﹄の

研究

をそこなうこともなく使われていることが知られるのである︒こうした使い方は﹃大経﹄にしばしばみられるのであ るが︑宗祖が﹃論註﹄を﹃証巻﹄にひくところをみると特色が知られる︒﹃証巻﹄の訓と﹃論註﹄の訓とを比較して

是故先観>座︒

是故

先観

>座

みると

既知>座︑已宜>知1

主↓

是故

次観

;一

仏荘

1

厳身

業↓

︵聖

全二

既知>座已宜>知痙主↓是故観一仏荘厳身業一︵聖全一︑三三四頁︶﹃論註﹄

この両者をみると︑後者の場合は座を知ることが座の主を知ることの前提でしかないものが︑前者においては︑座 を知ること自体に座主を知ることが内にあらわれていることを表現しているのである︒すなわち前段の内景をあらた

経典あるいは宗祖の用例には以上の使い方とは多少異なるものがある︒

︒法蔵菩涯今己成仏現在西方

I(大経︑聖全一︑一五頁︱二行︶

l

︒汝従

1一無数劫一来修二菩薩行盛匹度二衆生

1其已久遠︒従レ汝得レ道至

‑1

子泥

恒示

竺称

一数

︵同

︑同

一‑

]四

1 0 行 ︶

︒ 而 彼 衆 生 未 及 成 仏 菩 蕗 巳 自 成 仏 云 々

︵ 論 註

︑ 同 三

四0

頁 一 一 一

行 ︶

などがそれであって︑これらは﹁已﹂

域師釈難>遇今得>遇︑難>聞已得>聞﹂︵聖全二︑

10

九頁

︶﹃

証巻

の後段は前段の内容を承けつくしたことをあらわしている︒宗祖は

一頁十行︶とのべておられる︑その﹁已﹂はこの意を物語っている︒

これらは先の内景をあらわすものの変形であると考えられて︑ある状態の成り立ってきていることを意識しての用法

⑫ 

であるといえよう︒その場合︑﹁今,,﹂がつけられたりして﹁もはや﹂の義に解されるのである︒

n

﹁已能﹂をみる二つの立場

前項において﹁已﹂以下は先行の概念をうけてその内屎をあらわしたり︑なかには全体をうけたことを示している

0

﹁東

夏日

(27)

と考えたのである︒こうした一般的にいえることを参照して﹁已能﹂以下の句を検討したい︒特に﹁已に能<云々﹂

とは先にどうした概念があって︑それをどううけとめているか︑こうした点に注目したいのである︒

田﹁すでによく無明の闇を破すといえども云々﹂と一般的に訓ぜられていることをまず考えてみよう︒この湯合﹁す でに﹂は﹁よく無明の闇を破す﹂に関係するのみである︒所謂法の徳を示すのである︒

いかなる法徳かについては︑

先の﹁能発一念喜愛心﹂であるとするもの︵﹃会抄句義﹄︑﹃帯侃記﹄︶︑﹁不断煩悩得捏槃﹂であるとするもの︵﹃私記﹄︑﹃略 述﹄︑﹃丙午記﹄他︶︑﹁摂取心光常照護﹂であるとするもの︵﹃顕通記﹄﹃講義説約﹄香月院﹃講義﹄開悟院﹃乙未記﹄︶の三様 になるが︑科のたて方からいえば﹁摂取心光常照護﹂が有力である︒仏力住持を強調することが目立つのである︒し

⑬ 

かしながら﹁破﹂して﹁雖ども﹂が使われていて奪われていく︒破しつくされず貪瞑が遺るのである︒遺った貪瞑は 常照護に眼をつぶるのである︒真実信心を常に覆う状態となるのである︒これは法に対して機のありようを強調する こととなり﹁常照護﹂に対して﹁常覆﹂を出す結果となっているといえる︒すなわち法の深信の内容を先にし︑機の 深信を知らしめることとなりかねないのである︒先輩の釈にはこのような見解は見出し得ぬところ︑存覚師は﹃論

⑭ 

註﹄の盲者不見の臀を引いているが大悲無倦の損護をあらわすのである︒﹁常照護﹂に対する﹁常覆云々﹂を出され たとするならば︑﹁已能﹂以下の二旬は法の尊とさを対象にして機の罪悪深重性を知らすつなぎの句ということにな ろう︒こうすることによって﹁常覆真実信心天﹂と示して︑回向の信心を拒否しつづける機のすがたと顕はすのであ る︒さて︑法と機を確認したのにつづく﹁替如日光云々﹂は何を意味するであろうか︒先輩もここはただ替説のみに

⑮ 

して法説はないと指摘しているが︑そこから法説を引出してみると︑﹁雲霧におおわるれども﹂とあるは前の﹁常覆 云々﹂をうけての言葉にして覆はるるは直実信心︑これは仏力住持の光照であって日光にたとえる︑この信心は機の 煩悩を往生にとっての障りとはせず明るくかがやくというのである︒こういうのをふりかえるに︑一一種の深信あれば

﹃正

信念

佛俣

﹄の

研究

(28)

﹃正

信念

佛偶

﹄の

研究

往生疑いなしというが如く︑しかも起承転合のパターンによっていて十分注目されるところである︒

しかしながらそれはこの六句を単独に考察したときの見方であって︑前後を配慮するときどうなるであろう︒まず

﹁摂取心光常照護﹂はどうして説き出されたかが問われる︒この句は念仏衆生摂取不捨といわれる如く︑二尊の勅命

にしたがうときの真実の利のすがたをいうのであって︑﹁能発一念喜愛心﹂からの一連の句の結句である︒宗祖は教

えを明かしつつ必ずわが身の往生にとっていかなる意味があるかを問いつづけておられ︑それを最後に明かされるの

である︒依経分は勿論︑依釈分においても然りにして︑自信をもって﹁唯可信斯高僧説﹂と仰せられるのである︒

ような全体的な構成からながめていくと﹁雲霧之下明無闇﹂は更に次の句において結ばれると見られるのである︒次

に︑先輩の多くは﹁能発一念﹂以下の句について︑諸種の益をあげられたと解するのであるが︑何ら順序性が見られ

ない︒﹃六要紗﹄︑﹃正信偽大意﹄の考え方は基本的に信心をあきらかにされたという見方に立っているのである︒

以上︑二つのことを考慮していくとき︑﹁已能﹂を﹁摂取心光云々﹂を承けたものと考え︑﹁摂取﹂以上六句を一科

としてみることは︑摂取の心光が無明を破するとすること自体疑問であって︑﹁己能﹂をみなおすと共に﹁已能﹂以

下のまとまりを検討すべきである︒

m

われわれは次に﹁已能﹂を﹃偶﹄の如く﹁雖﹂の外にして考えることとする︒﹁雖﹂でゆるされたり奪われたりし

ないところに﹁己能﹂を考えるのである︒この場合考えておくべきは﹁能﹂がいかなる義であるかということである︒

﹁能﹂は力を出してはたらくことを示すムを中心にした字であってねばり強くたえてはたらくを義する︑そこで﹁已

能﹂は﹁すでに力を発揮している﹂を内容とすると考えられ︑

いかなる力を発揮したかは具体的には次にゆずるので

あるが︑﹁難>聞已得>聞﹂︵総序︶の用法と同様前段の用がはたらいているとせられるのである︒先に考察した如く

B

﹂は前段をうけてその内景をあらわしていることを示すのであるから︑﹁己能﹂のあとの語から具体的な力用を求

(29)

﹁已能﹂の直後には﹁雖破無明閻﹂といわれている︒この﹁破無明閻﹂については先輩も苦心し︑その無明とは何

か︑何によって破なる状態がもたらされるかと論ぜられたところである︒しかし︑単に言葉・文の解釈だけでは容易

に論述の筋道ほ見出し得ない︒依釈分をみれば各祖師の実践行蹟を冒頭にたたえ︑そこに見出される浄土の念仏的意

義を解明していかれる︒勿論それは各祖師が顕わされたところの念仏義であって︑依経分の最後に﹁難信﹂とされた

ところをそれによって導びかれたとされるものである︒かように体験と教義とをきわめてたくみに結び合わせて正信

念仏の教法を説きたたえているのが﹃渇﹄であって︑依経分にもいいうるところである︒特に依経分では宗祖が法然

のもとにいたって師から弥陀の本願の念仏の義︑それは善導によって開顕せられた念仏する仏法を法然の眼によって

選択された教法である︑それを讃仰し信楽受持せんとせられるところの文である︒しかれば仏道体験が︑或いは念仏

環境が組み込まれているとみなければならない︒単なる言葉︑教義の展開だけでは解明し得ぬものを含んでいる︒

般に詩や歌などの類がある環境雰囲気における感情を言葉に托すのと同類である︒

宗祖は法然によって浄土の法門に入った︒それまでは法然の存在に耳をかさずにいた︒道綽が玄中寺に参って曇鸞

の帰浄を知るまでと同様である︒それが法然にあうことにより弥陀の誓願に目覚めることとなった︒その機微をいい

⑯ つくしているのが龍樹章ではないであろうか︒弥陀仏の本願を憶念するところに今まで有無の邪見を破すべく努めた

ことを問うこととなったのである︒先輩は無明が破せられるのは信楽があらわれ信心決定することと解し︑つづいて

⑰ 煩悩の用が説かれることとの調整に苦慮された︒﹃会紗句義﹄は﹁信解を発した﹂ところとし︑﹃講義説約﹄では﹁摂

⑱ 取照護の初位﹂﹁報心いまだ転ぜざるところ﹂などと会通する︒これによれば信の一念においての不断煩悩得涅槃と

いう直前の義があやしいものとなってくる︒われ/\は宗祖の意識の中から求めてみたい︒﹃偶﹄には﹁得涅槃﹂﹁成

﹃正

信念

佛偶

﹄の

研究

めることがでぎよう︒

(30)

﹃正

信念

佛偽

﹄の

研究

等覚証大涅槃﹂をはじめ︑﹁得至運華蔵世界即証真如法性身﹂﹁証知生死即涅槃﹂﹁証妙果﹂﹁即証法性之常楽﹂など︑

語そのものからは直ちに仏教共通の証を示す表現が目につく︒これらは聖道門にあればすべての行者が目標とし︑そ

の達成の条件として無明を破することが必須である︒宗祖自身もそれのための修行があった︒にもかかわらず法然に

あって弥陀の悲願を聞くことによって︑無明を破することの意義を問いなおさざるを得なくなった︒そこに﹁雖破無

明闇﹂といわれてくる理由があると考えられる︒信心発したから無明が破られたとか︑弥陀の常照護によって無明を

破することがあらわれたということではない︒むしろ破無明を否定的に見て︑聖道的仏教を看破することとなるので

ある︒ここに︱つの﹁已能﹂があると見ることが出来よう︒

次に﹁貪愛瞑憎之雲霧常覆真実信心天﹂を考える︒いうまでもなく︑前句にあるように無明を破することを見直

すことによっての発言であるが︑どうしてこのような結論を出してこられたかを推察するに︑宗祖が法然の下で弥陀

の本願を憶念するようになった頃をふりかえると︑﹃化巻﹄末の記述などに見られる宗外からの弾圧或いは法然門下

中の議論等からいえる如く︑そこには凡聖逆謗斉回入の道をさえぎるものがあり︑貪瞑の惑が渦まくものと眼に映っ

たことであろう︒何ら破無明の仏教本来の道は見当らないのであって︑あるものは貪隕の煩悩であった︒

この煩悩を雲霧にたとえられた意味は何であったであろう︒

⑲ 

ある

この雲霧の喩は宗祖独自のものと評価されるところで

さりながら拠りどころがあったのではないかと考えられる︒﹃本朝文粋﹄第十二巻﹁西方極楽讃﹂︵後中書王︶に

9

︵略︶六八弘誓変成地︒観>之者皆除二巖労一念>之者悉至

1

覚位

↓雖

1

十悪

みヮ

猶引

摂甚

>於

品疾

風排

二雲

霧︱

︵略

︶︒

とあるのをみる︒平安期の文章の典範でありこれが唱導家の引用するところとなったといわれ︑宗祖は当時随一の唱

導師聖覚を先輩として尊敬していたことを思うとき︑耳の端にとどめていたかも知れぬ︒特に﹃無斌寿経﹄をよりど

ころとしての﹁西方極楽諏﹂であることは注慈させられるのである︒ここでは十悪が弥陀の誓願にいとも簡単に引摂

ニ四

(31)

こととなっている︒﹁覆﹂はかざさってふせる︑

二五

おおうであって︑﹁蓋う﹂がふたをするようにするのとは異なる︒

されていくのをたとえて雲霧を排くというのであって︑虞霧ほ頑固に居坐わるものではなく︑

る︑背願の前にあってはあってもなきが如き存在であることをいうのである︒宋祖の﹁煩悩﹂には﹃正象末和讃﹄な どに出ているところの悲嘆述懐の対象となる﹁煩悩﹂と︑﹃末灯紗﹄二条︑﹃高僧和限﹄に説かれるところの誓願には 問題とならぬ﹁煩悩﹂とが考えられる︒前者は﹁暴風駿雨にことならず﹂とも︑﹁煩悩のこおり﹂ともいわれて︑煩 悩の悪性を強調するところである︒これに対し後者は往生には邪魔にはならぬところ︑藩手のカーテンの如く容易に 披らかれるところをいう︒雲霧は後者であって︑﹃歎異紗﹄九条に﹁よろこぶべきことをおさえてよろこばせざるは 煩悩の所為なり﹂とあるがそれで︑﹁いそぎ浄土へもまひりたくさふらはんには煩悩のなきやらんとあやしくさふら ひなまし﹂︵同︶とある如くになるところを指すのである︒しかれば既に同様の喩が存在することとなるのである︒

この煩悩を雲霧に喩えることは誓願の功用不思議を知ることにおいていいうることであって﹁已能﹂の思いの中にあ

らわされたことである︒

次の﹁常覆真実信心天﹂はその雲霧にたとえられる煩悩の所為を明かすのであるが︑

そこで﹁天におおう﹂とされ︑真実の信心の輝きを認めてーこれ﹁已能﹂といわれた理由である︒ーそれの輝きをさ えぎろうとすることを指す︒それは日蝕の太陽を見ようとするに黒いガラスで光をさえぎって見る如き貌である︒こ れは宗祖が意をつくして用いられる﹁顕﹂ーアラハスーとは逆の作用を意味するのである︒

かような﹁覆う﹂の内容については直接的には﹃偽﹄の上ではふれられてはいない︒覆うことは依経分の最後に指 摘された難信に通ずる︑その難信を信へ導びいたのは三国の祖師であった︒就中︑﹁顕﹂を使って師教をのべるとこ ろには偶主が誓願の光を見出すこととなった点が示されていると見られるのであって︑ここから逆観すれば覆うてい

﹃正

信念

佛偶

﹄の

研究

たやすく押しのけられ かえって悲願をみつめさせる

参照

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