中国木刻から版画へ――戦後日本の民衆版画運動・序説
友常 勉
はじめに
1. 北関東版画運動-その形成と志向性
1.1. 日本美術会北関東支部から日本版画運動協会へ
1.2. 北関東版画運動の形成
2. 中国木刻から版画へ 2.1.〈中国木刻の版画化〉
2.2. 共同制作「押
お
仁
すに
太
た
」
2.3. もうひとつの論争
3. 終りにかえて――国際展覧会のネットワーク
はじめに
戦前のプロレタリア芸術大衆化論争を総括した林淑美にしたがうならば、プロレタリア芸術 運動において、芸術は結局のところ「芸術を利用しての大衆の直接的アジテーション」という 位置づけしかあたえられなかった 1)。林の総括をふまえて、五十殿利治は、そこでは、芸術の 価値が量的な機能に置かれたため、芸術そのものの質は意味をもたなかったと指摘している2)。 例えば中野重治も、党と大衆の一方通行的な関係のもとに文化・芸術運動をあてはめた蔵原惟 人との相違はあるとしても、このような芸術論から自由ではなかった。1928年『プロレタリア 芸術』に掲載された中野重治の「絵について」は、「生きたわれわれの労働者」を絵画は把握し ているかと問い、こう述べる。「われわれの絵画は労働者階級のなかに入りこまなくてはならな い。…われわれの絵画は労働者をその日常の姿において、その特定の姿において真実に客観的 に写しとらなくてはならない」3)。なるほどここにはリアリズム芸術論の正論が展開されてい る。しかし、問題は「労働者のなかに入」り、さらに「労働者のなかに絵画がもちこまれる」
ための具体的方策が、芸術の質ではなく、形式主義的に理解された点にあった。中野はつぎの ように方策を提起する。「一 作品が最も多量に創られること。二 作品が最も短時間で創られ ること。三 作品が最も廉価に創られること」。したがって中野が注目するのは印刷技術であり、
その条件は、「一 絵画の絵画としての重要原因である色彩が制限されないこと。二 最も単純 な手続きそのものであること。三 可能ならばそれの特質そのものが絵画的に駆使されうるこ
と」。そして、こうした条件をみたす手段として、「われわれは必然的に石版印刷術に突きあた る」とするのである。桑原規子による整理を参照するならば、中野の提起は「生産性」「能率性」
「コスト」そして「技法的な効果」に集約される 4)。絵画芸術の独自性を残してはいるが、中 野は芸術創造を形式化し、その役割を生産力主義的な機能に単純化したといえよう。
こうした戦前のプロレタリア芸術運動の方法論の問題についての、林、五十殿、桑原の整理 をふまえた上で、私が付け加えたいことは、ここには、労働者や農民を表象するにあたっての 表象・表現の質を問う視角がないことである。いいかえれば、表現者が創作にあたって直面す るはずの葛藤がない。すなわち、表現者とその対象とのあいだの距離が意識されていないので ある。
これに対して、日本の創作版画から遅れて出発しつつも、抗日戦争期の研鑚を経て、メキシ コの人民版画とともに、戦後の国際的な民衆版画運動に決定的な影響を与えた中国新興版画の 場合には、初発の方法論においてなによりも問題にしたのが、この木刻(版画)作家とその対 象である労働者や農民との距離であった。
ここではこの分野における共同研究の成果である、滝本弘之・奈良和夫・鎌田出・三山陵『中 国抗日戦争時期 新興版画史の研究』(研文出版2007年)を参照する。中国新興版画運動の祖 である魯迅の提起からはじまり、抗日戦争期の延安における魯迅藝術学院の魯藝木刻集団によ って花開くことになる中国木刻の要は、「深入民間」(民間に深く入る)の方針にあった。1931 年に内山完造の弟・内山嘉吉を招いておこなった「創作版画講習会」など、日本の創作版画の 吸収につとめながら、魯迅は中国の伝統的な技法を奨励した。たとえばこういう。「ヨーロッパ 名家の作品を研究するのは当然だが、中国の古典籍にみられる挿画と画本、および新しい一枚 刷りの花紙(年画)により多く注意すべきである」5)。魯迅から始まるこの新興木刻(版画)
運動は、木刻=抗日・共産党という認識が成立するほど、抗日運動と一体化するようになる6)。 とりわけ、「小魯藝から大魯藝へ」と、都市ブルジョア的な作家たちを、農村大衆のもとに赴か せる整風運動を提起した、毛沢東の「文藝講話」(1942 年)を経て、魯藝の木刻作家たちは、
すすんで農民たちと対話し、農民たちからの批評を受けながら制作するという創作方法を確立 した。版画の〈中国化=木刻化〉はこうして実現した。それは伝統的な説話的題材や演劇的な 構成を咀嚼したものでもあった。その優れて自立したスタイルのゆえ、戦後日本の民衆版画運 動が中国木刻の影響のもとで始まったのは当然であったといえよう。そしてまたそのために、
翻って、中国木刻の模倣ではない、独自性をもった日本の民衆版画の創造が常に問われること になった。
本稿の目的は、直接的には中国の「新興版画運動」の影響から出発した戦後日本の版画運動 が、中国木刻との自己区別のために経験した葛藤に留意しつつ、どのように自らの個性を形成
したかを検討することである。そこで、機関紙『日本版画新聞』を発行し、代表的な版画作家 を擁することで、戦後民衆版画運動を領導した日本版画運動協会の運動をとりあげる。この日 本版画運動協会の中心メンバーは北関東在住の版画作家たちであった 7)。本稿ではこの北関東 の版画作家を中心とした日本版画運動協会の運動を、戦後民衆版画運動と総称する。まず、北 関東の戦後版画運動の人的ネットワークを概観し、その運動スタイルが前衛党―大衆運動とい う組織論になじまない作風を有していたことをしめしたい。その際に鈴木賢二と滝平二郎をと りあげることで、戦後民衆版画運動の人的ネットワークの背景と特質、さらにその外延をはか ることとしたい。つぎに、版画運動にかかわる展覧会・作品・作品評を時系列的に検討する。
つづいて、北関東版画運動内部の論争――それは日本共産党における「50 年分裂」(国際派と 所感派の分裂)と、文化運動におけるその表現である『人民文学』と『新日本文学』との対立 の余波――と、「人民文学」的な方法論の遂行といえる版画共同制作集団「押仁太」の活動を検 討する。そして最後に今後の課題として、戦後民衆版画運動の特徴のひとつである、版画展覧 会をとおした国際ネットワークを紹介し、研究の可能性を展望しておきたい。これらの検討に よって、戦後民衆版画運動の個性をうかびあがらせてみたい。
1. 北関東版画運動-その形成と志向性
1.1. 日本美術会北関東支部から日本版画運動協会へ
日本美術会の機関誌『美術運動』創刊号(1947年1月20日)「創刊の言葉」において、永井 潔はつぎのような方針を提起していた。「一、民衆的美術文化を創造し普及する。二、美術を人 民 え(ママ)開放しその美術的資質の高揚をはかる、三、美術に関する封建的な制度やその因襲を排 除する、四、美術家の自由な創作生活を擁護する、五、内外の進歩的な文化活動と積極的に提 携する」。1946年4月に結成された日本美術会は、内田巌を初代書記長とし、岡本唐貴や鈴木 賢二など戦前のプロレタリア美術運動の経験者も参加して、「民主日本の建設」に呼応する美術 運動の組織化をめざした。藤田嗣治ら芸術家の戦争責任を追及したことでも知られている。
日本美術会北関東支部は、日本美術会最初の支部として、同年6月に結成された。以下、栃 木県立美術館『野に叫ぶ人々 北関東の戦後版画運動』(2000 年)所収の年表を参考に作成し た年表・展覧会史をもとに、この間の経過を時系列的にたどっておく〔年表1〕。鈴木賢二、
久保貞次郎、新居広治、飯野農夫也ら、のちの北関東版画運動のメンバーはすでに日本美術会 北関東支部の段階から参加している。8 月には滝平二郎も北関東支部に参加した。北関東支部 は、創設後間もなく、宇都宮で北関東美術第1回公募展を開催し、さらに、日立、水戸、高萩 で職場移動展を開催している。翌年の1947年には、版画の創作と普及を目的として、鈴木賢二、
飯野農夫也、滝平二郎らによって刻画会が結成される。1947 年は戦後民衆版画運動において
早々と訪れた最初のピークであったといっていいだろう8)。この年の5月31日から6月3日に かけて、栃木県の真岡町(現・真岡市)で中国木版画展が開催された(主催は日本美術会北関 東支部、芳賀美術会、中日文化研究所)。さらに同年10月18日から19日にかけて、茨城県の 大子町において、「魯迅先生11周年全日本新木刻運動会議」および「木刻まつり」が開催され た(中日文化研究所、造型版画協会、刻画会、日本美術会、職場美術協議会、奥久慈版画会、
内山書店、大子町教育委員会)〔写真1〕。
〔年表1〕戦後民衆版画運動・主な展覧会と作品(1946~1955)
年 展覧会 主な作品
1946 日本美術会結成 6.日本 美術会北関東支部結成
北関東美術第一回公募展(宇都宮)、日本美術会北関東 支部職場移動展(日立、水戸、高萩)
1947
全日本職場美術協議会結 成、刻画会(鈴木賢二、飯 野農夫也、滝平二郎)、前 衛美術協会結成
日本美術会北関東支部による茨城県下各労働組合での 巡回美術講演会〔23 回)、5/31-6/3 中国木版画展(真岡 町、日本美術会北関東支部、芳賀美術会、中日文化研究 所)、中国木刻画展(茨城県久慈郡大子町、中日文化研 究所)、10/18-19 魯迅先生 11 周年全日本新木刻運動会 議(大子町、中日文化研究所、造型版画協会、刻画会、日 本美術会、職場美術協議会。奥久慈版画回、内山書店、
大子町教育委員会)同時に「木刻まつり」、12.第1回日本 アンデパンダン展
中国木刻画展・王樹芸
「老人」
1948 日本新版画懇話会創立総
会 第1回平和美術展、第 2 回日本アンデパンダン展
1949
日本版画運動協会発足
(鈴木賢二、小野忠重、上 野誠、福本和夫、永井潔、
飯島俊一、大田耕士、三 井寿雄)
読売アンデパンダン展、4.中国版画展覧会(日本美術会 大阪支部)
1949 「アメリカの新興人民美術」紙上展(美術運動第 7 号)
連作版画「黒人の歴史」:
アントニオ・ブラスコニ
「奴隷船」「農場労働」、ナ レオード・バスキン、ジ ム・シュレッカー「最初の 犠牲者」
1950 日本共産党、「50 年分裂」 第 3 回アンデパンダン展
上野誠「小憩」、飯野農 夫也「村の人 A」、鈴木賢 二「おかみさんたち」、久 米宏一「北京の街角」、
新居廣治「日立にて」、佐 藤清「おふくろ」
1951 第 4 回アンデパンダン展、5.第一回日本版画運動協会展、
押仁太(大山茂雄、鈴木賢二、新居広治、滝平二郎)
小口一郎「わが町わが 村」、新居広治「秋田スケ ッチ」「芳賀貧農」、上野 誠“平和をかたる農民の 版画”、滝平二郎、鈴木 賢二、小野忠重
1951 『花岡ものがたり』完成
1951 6.1-3 中国版画展(茨城県土浦市)
木刻 90 点、新年画(極彩 色)30 点、映画スチール 38 点
1952 日本版画運動協会の声明
「御挨拶」 第 5 回アンデパンダン展 新居広治「版画集」
1952 6.2-13 平和のための美術展
日本木刻集団「1952 年メ ーデー」、奈仁刻太「5 月 1 日」(大学生たちの合 作)、油井正次「早大事 件」、梅村一美「街角(国 際子供デーに」
1952 職美展
小田和衛「石川島」、山 田信一「都庁」、「灯画サ ークル合作」、朴周烈「版 画集」(「傷ついた老人を 背負う青年」「虐殺された 愛国者」)
1952 10.26-30 新中国美術展 新年画 47 点を含む 149
点
1952 3.1~3.31 日本人民版画展(ニューヨーク) 15Japanese Woodcuts (Nisei Progressives, New York, 1952)を出版
新居広治「日立闘争」「高 萩炭鉱」「日立」「団体交 渉」(日立大闘争)、上野 誠「戦前最後のメーデ ー」、大田耕士「メーデー
(1951)」、小口一郎「傷 痍軍人」、鈴木賢二「ぶた のうた」、「?」?、北岡文 雄「『水を!水を!』満洲 紀行」、「?」新?、滝平 二郎「農夫」「?」「秋田ス ケッチ」
1952 平和のための美術展
日本木刻合作集団、鈴 木賢二、新居広治「水兵 物語」
1952 6.25-7.1 朝鮮人平和美術展(東京朝鮮高校講堂) 新居広治、滝平二郎
1953 第 6 回アンデパンダン展
久米宏一「子供たち」、上 野誠「役牛」、中山一路
「工場のみえる風景」、片 岡昌「一九五二・五・
一」、塚原淳夫「顔」、飯 野農夫也「土の詩人」、
上野省策「変な雲」三浦 次郎「船をつくる人々」、
大田耕士「ジェット機」、
小口一郎「座談会」、佐 分大夢「アルファ」、小野 忠重「家・道」、中山正
「老人夫」、浜田知明「山 をゆく砲兵隊」、小谷博貞
「習作(コラージュ)」、金 田政之助「裸婦」、朴史 林「朝鮮戦争」、鈴木賢 二「切紙絵」
1953
日本銅版画協会結成、リ アリズム懇話会(須山計 一、岡本唐貴)
5.5-5.18 日本人民芸術家木刻展(北京)
新居広治、鈴木賢二、滝 平二郎、上野誠、大田耕 士、久米宏一、小口一 郎、呉炳学、朴史林、矢 野耕治、油井正次、北岡 文雄、他 94 点
1953 6.第1回ニッポン展
1954
鈴木賢二、益子に移住、
12.小野忠重の提唱により 版画懇話会結成
6.第 2 回ニッポン展、第 7 回日本アンデパンダン展 1955 日本共産党、六全協 現代版画展、6.第 3 回ニッポン展
写真1 全日本新木刻運動会議(1947年10月18~19日)
戦前から魯迅との交流で知られている内山嘉吉や、日本の民衆版画運動でも活躍する李平凡 も参加している。こうして中国版画が本格的に紹介されるとともに、同時に開催されたワーク ショップ「木刻まつり」で、鈴木賢二や飯野農夫也、小野忠重らが実技指導をおこなっている。
こうした活動を経て、1949年12月に日本版画運動協会が発足する。メンバーは、鈴木賢二、
飯野、新居、滝平ら日本美術会北関東支部に加えて、小野忠重、上野誠、福本和夫、永井潔、
飯島俊一、大田耕士、三井寿雄らであった。
1.2. 北関東版画運動の形成
北関東に集中した芸術家・版画作家らは、みずからを「北関東支部」と名乗った。こうした集 団としてのアイデンティティはどのように形成されたのだろうか。まず、その中心に鈴木賢二を 置くことができる。鈴木賢二(1906~1987)は栃木市に生まれ、東京美術学校彫刻科木彫部に入 学、1929年、軍事教練反対のビラをまき退学、同年に21歳でプロレタリア美術家連盟書記長と なった。このころから『戦旗』『ナップ』などに表紙絵・カット・漫画を掲載するなど活躍、ま た、プロレタリア美術研究所にも出入りしていた。そのときの年下の同期生たちには、飯野農夫 也(茨城県真壁郡五所村、現・筑西市生まれ、1913~2006)、新居広治(東京都豊島区生まれ、
1911~1974)、大田耕士(兵庫県赤穂市生まれ、1909~1998)らがいる。1938年には滝平二郎(茨 城県新治郡玉川村、現・小美玉市生まれ、1921~2009)も賢二の自宅に出入りしている9)。
飯田晶夫がいうように、北関東版画運動のメンバーたちにとって、鈴木賢二は戦前からの「兄 貴分」であったといえよう10)。しかしまた鈴木賢二の人間的度量や魅力に還元されないつなが りが、この人的ネットワークを支えていた。それは、第一に、鈴木賢二が1933年から栃木に帰 住したことや、戦後、一時、益子に移住するなど、都市ではなく、常に農村社会の農民・民衆
への志向性を持っていたことである。また、農民文学者・農民版画家・詩人でもあった飯野農 夫也の存在も看過できない。さらに、竹山博彦が指摘したように、長塚節『土』が投げかけた 風土という主題に対する、鈴木・飯野・新居・滝平らの関心である 11)。『土』を集団的な版画 作品とする試みは実現せず、個々の作品が残されているだけである。しかしこの態度には、北 関東に生まれたがゆえに、郷愁を抱きつつも、『土』が表現している農民世界と自分たちとの距 離を抱え込んでいる作家たちの葛藤がうかがえる。もちろん、そのなかでも、竹山博彦がいう ように、理論家としての鈴木と農民版画家・飯野のちがいは考慮されるべきかもしれない 12)。 とはいえ、北関東版画運動の作品の素材に都市的な風物や人物を見出すことはほとんどない。
やがて少し遅れて小口一郎(栃木県下都賀郡絹村・現小山市生まれ、1914~1979)が参加する。
小口も、「川俣事件」をはじめとして、足尾鉱毒事件のシリーズ化を手がけたことで知られ、郷 土に固執した作家であった。一方、単純に農村に還元できない政治的要因も北関東には存在し た。戦後最初の争議であった高萩炭鉱争議(1946年)や、同様に、日立争議(1949~1950年)
――朝鮮戦争への地ならしとしてのレッドパージであり、5,555名の首切り攻撃がかけられ、全 国の闘争の天王山と呼ばれた――など13)、戦後初期、北関東には社会運動の争点が集中してい た。そして、新居広治をはじめとしたメンバーがそれらの闘争に、職場美術運動を通して積極 的にかかわっていたことも、この集団の輪郭を規定することになっただろう。すなわち、この メンバーたちは、政治課題や啓蒙的な関心にとどまらず、北関東という農村社会と農民大衆を 表現するというテーマを、内面的な責務として背負っていたと考えられるのである。しかも、
それが同時代的な政治闘争の関心に支えられていた。
さらに、北関東で展開された戦後の芸術運動・文化運動は、戦前型の党―大衆という一方通 行的な関係に還元されない作風を有していたことを指摘したい。鈴木賢二は1933年に栃木に帰 郷した際に、下都賀工芸同好会というサークルを組織している。また、戦後にも「郷土玩具の 会」に名を連ね、頒布会などを組織している14)。これらは政治闘争が圧迫された結果、都市に 居場所を失い、地方に落ちのびた文化活動家の身振りにみえるが、しかし、この多面的な運動 スタイルには何らかの表現を与えておく必要がある。それは、こうした文化運動のスタイルの 契機に、プロレタリア美術運動の時代から生涯にわたって鈴木賢二が私淑していた、橋浦泰雄
(1888~1979)が介在していると考えるからである。
マルクス主義者であり、芸術家であり、文化活動家として生協運動などで多面的に活躍した 橋浦は、同時に柳田国男に師事し、1935年に結成された「民間伝承の会」の組織者として、さ らに戦前から戦後にかけて多大の足跡を残した民俗学者であった。橋浦は1929年に結成された 日本プロレタリア美術家同盟(AR)の中央委員であったが、鈴木賢二は1929年4・16の共産 党弾圧の際に、信州浅間温泉に画会の準備のため出かけていて、難を逃れた橋浦に葉書を出し
ている(1929年4月21日付)15)。それにはこうある。
又々去年の三・一五を繰りかえした、より組織的に計画された今度の彼奴警供の襲撃は 表面的にはそれほどの狂暴さを見せない。…やり方が馬鹿に落ち着いているのだけに底気 味が悪い いよ\/我が国の斗いも先鋭化して来たと云ふものです。ブル新はさかんに支 那出兵をあふってゐる。 おかげで新同盟の大会も五月上旬まで延期のやむなきに到りま した。しかし今回は直ちに決行するつもりです。健康を祈ります。16)
文中の「新同盟の大会」とは、上部団体である全日本無産者芸術連盟(NAPF)から全日本 無産者芸術団体協議会に改組され、日本プロレタリア美術家同盟(AR)が日本プロレタリア美 術家同盟(PP)に改編された大会を指すと思われる。ところで、これは若き書記長・鈴木賢二 がいかに橋浦を慕っていたかがよくわかる文面であるが、それにしても、弾圧の直後にその情 報を逐一伝え、これからの方針までそのまま書き記している無警戒ぶりに驚かされる。ここか らむしろ、政治弾圧の渦中でも、まるで身辺の近況をやりとりするような、秘密主義とは無縁 の、無頓着な橋浦―鈴木の関係がうかがえる。実際、鶴見太郎によれば、橋浦の信州訪問も、
地下活動ではなく、自身の画会の開催を契機に、同地の民俗学の活性化をめざすものであった
17)。このような橋浦を介して、鈴木賢二もまた、柳田国男の民俗学が志向していた、民俗や郷 土への関心を抱いていたと考えられる18)。民俗学という人々の心意伝承に依拠した方法を実践 的な組織論に生かした作風は、橋浦泰雄が身を持って体現していたものであった。橋浦は、民 俗知識の収集だけでなく、展覧会のための作品公募・作品集の出版と頒布を組織し、さらに訪 れた家に書画を残していく。この橋浦のスタイルについて、鶴見太郎は、「“モヤヒ”の思考」
と呼んでいる19)。橋浦において体現され、そしてそれを継承した鈴木賢二の戦前・戦後の活動 は、前衛党知識人による、大衆を量的な啓蒙の対象とみなす組織論とは対極的な、融通無碍な 不定形のつながりをしめしている。
民俗的な物語への関心は、北関東版画運動の他のメンバー、とりわけ滝平二郎の場合にもあ てはまる。
滝平二郎は1921年に茨城県玉川村(現・小美玉市)の富裕な農家の二男に生まれた。曾祖父 は幕末の天狗党事件に連座した神主でもあった。少年時代から風刺漫画のグロッスの影響を受 け、画業を志していたが、農学校を卒業後、代用教員をつとめたあと、先述のように、1938年 には鈴木賢二のもとを訪ね、版画の手ほどきをうける。戦時下の作品には「増産競争」(1941 年)のような翼賛的な作品もある(なお戦争協力という点では、鈴木賢二も、1940年に宮崎県 宮崎市の平和台公園にある「八紘之基柱」制作に参加していた(設計は日名子実三))。応召し
て沖縄戦に参加、復員後に地元・玉川村で兄たちとともに青年団活動やサークル運動を組織し た20)。そして 1947年に鈴木賢二、飯野農夫也、大田耕士、李平凡らの刻画会に参加する。刻 画会は版画集「刻画」を3号まで発行したあと、発行を滝平の地元の支部サークル運動に引き 継いでいる。滝平は玉川村で「刻画・春耕会」を組織化し、地元の青年男女24名(一部は刻画 会にも参加)を集めて版画集「刻画・春耕」と名を変えて、第4号(1948年1月20日)と第5 号(1948年3月20日付)を発行している〔写真2〕。
写真2 「版画・晴耕」第5号(1948年3月20日付)
滝平の文責と思われる「刻画・春耕」第5号に次のような後書きが書かれている。「まごまごし ているうちに梅が咲いて、散ってしまった。/なまぬるい風が流れて、道ばたの草が息づきは じめた。/一方民草は無類の重税に押しつぶされ乍ら春を迎へようとしてゐる。/いつまでも いつまでも人民の喘ぎは果しないものか。/決してそんなことはない。/どれが人民のもので あり、どれが人民の害悪であるかをはっきり知った時、人民の上にそれこそ明るい太陽が輝く のである。/ひとり我々の祖国ばかりではない(以下略)」21)。
ここに盛られている心情は、戦前のプロレタリア文化運動や、戦後、共産党に指導された文 化運動にみられるそれと特に変わりがないようにみえる。しかし、この刻画集団は、前衛党の フラクションであるより前に、創作を共有しながら持ち回り形式で組織を継承していくサーク ル運動である。それはサークルとサークルとを点から線に結ぶが、地下指導部がそれらを指揮 しているわけではない。また、掲載された作品はすべて肖像画・人物画であり、特に政治的な 意匠が凝らされているわけではない。もちろんそれが習作にふさわしい方法であるという事情
もある。また、組織者である滝平も、フラクションの形成というよりは、新しい時代の主体に 向けた素直な共感と期待に促されていたようである。刻画会のあと、滝平の日本版画運動協会 の活動に触れて、大田耕士はつぎのように回想している。「(1949年12月の日本版画運動協会 機関誌『版画運動』の創刊号に)TAKとサインされた「若い農婦」という手刷り作品が貼りこ まれている。自作について、タキさんは、熱っぽく農村の若い女性を激励し、その健康さと聡 明さと勇気に明るい未来を期待している」22)。滝平は、この後、日本版画運動協会で活躍した あと、1960年代に「日本教育新聞」の連載などを手がけ、斎藤隆介と組んで童画や絵本に比重 を移すようになり、1969年からは朝日新聞に「きりえ」を発表、翌年9月から同紙の日曜版の 一面に「きりえ」を連載し、国民的なきりえ作家となる(1978 年12 月末まで連載)23)。この
「きりえ」は、もともと中国切り絵をベースにしたもので、鈴木賢二にそうした様式の習作が あることから、技術は鈴木賢二から指導を受けたものだと思われる。ただし、「霞ヶ浦暮色」(1975 年)〔写真3〕が、彩色版画「茨城百景・霞ヶ浦からみた筑波山」(1952 年)〔写真4〕の構図 をそのまま用いているように、北関東版画運動時代の画面構成をそのまま踏襲した作品もあり、
きりえ作家時代の滝平には、意匠や主題の革新という意味での冒険がなくなる 24)。とはいえ、
滝平が創作したものも、版画運動が到達をめざした農民大衆であることはまちがいない。それ は階級としての民衆というよりも、郷愁の物語に浸された民衆であったが。しかし、滝平の場 合には、白黒の二色刷りを中心とした木版画の表現が有している制約を、過剰な物語によって 埋める方向を選んだということもできる。その意味では中国木刻の様式美と物語性との差異化 をめざした研鑚の結果といってもいいのではないだろうか。
写真3「霞ヶ浦暮色」(1975年) 写真4「茨城百景・霞ヶ浦からみた筑波山」(1952年)
こうして、生涯にわたって「モヤヒ」に類した融通無碍で不定形の組織論・創作論を実践し た鈴木賢二と、版画運動が有していた農民世界への思慕を物語化していく滝平とは、北関東版 画運動が有していた志向性の内延と外延といいうる。そしてこのような展開を促した契機が中 国木刻にあったのではないかと推定したい。次章では、作品評と作品の関係をとおして、そう した中国木刻との差異化がどのように追求されていったかを検討したい。
2. 中国木刻から版画へ 2.1.〈中国木刻の版画化〉
日本版画運動協会発足の1949年、第3回アンデパンダン展に出品された新居広治、上野誠、
飯野農夫也らの版画作品に対して、岡本唐貴、井上長三郎、永井潔は『美術運動』の合評会で 次のような感想を寄せている。「岡本『テーマは面白いが成功していない』、井上『中国版画の 影響がある 表現が弱い』、永井『版画は白と黒がはっきり出てその中間の調子が出ないので あるが、その中間を日本の版画はうまくつかんでいない』」(『美術運動』第10号、1949 年 2 月 10 日)。中国版画との比較はこの時期の版画に対する常套的な批評であった。次は、職場サ ークル運動として全国的に有名であった東芝小向工場のメンバーの文章である(東芝小向版画 サークル・堀川宏平「民衆のための絵画芸術 中国の版画について二年前の回想」(『版画運動 通信』第2号、1951年6月25日))。
…この中国はもう既に開放され、アジアの各国民族の民族独立・平和擁護運動の偉大な先 導者としてわれわれを勇気 ず(ママ)けていてくれる。私はその建設中国における労働者の逞し い事業を刻んだ古元(クー・ユアン)の『鞍山鉄鋼廠』をみるに及んで、版画が人民と共 にどこまでも発展していくものであるということを強く感じた。/私は二年前の版画展を 基礎にこれを書き始めたのだが、中国農民・民衆の姿は私の脳裏から消え去ることがない。
と同時に私の脳裏にあまりはつきり残されていない日本の版画運動は一体どうしたこと だろうか。私は一つに新居広治氏などに見られる中国の民衆と日本の民衆の混同にも大き な原因があると思う。刻れる人間が中国タイプになりがちなことは私も経験してきたがこ れを突抜ける処に新しい日本の木刻版画の使命があるのではなかろうか。同時に日本の版 画を凡ゆる機 回
(ママ)
を通じ大衆の中に持込むことが必要だと思う。
古元『鞍山鉄鋼廠』(「鞍山鋼鉄工場の修復」)は鄒雅・李平凡編、小野田耕三郎訳・解説『中 国開放区木刻』(未来社 1972 年)でみることができる〔写真5〕。機械美と人物の正確な造型化 によって構成された重厚で採色の美しい作品である。古元(1919~1996)は魯藝の出身であるが、
農民からの批評を受けて創作するスタイルを、毛沢東の「文藝講話」に先立って、早くから完成 させた作家であった。こうした中国木刻の優位というプレッシャーにさらされて創作を開始した のが、日本版画運動協会のメンバーであり、北関東版画運動だったということである。
写真5 古元「鞍山鋼鉄工場の修復」(1941年)
しかし、こうした中国木刻の卓越性は、外部からの批評だけでなく、版画作家たち自らも内 面化していた圧力であった。第3回アンデパンダン展の合評会が掲載された『美術運動』10 号 には飯野農夫也が反論を展開している。飯野はこういう。「たとえば新居君が、斗争の激化し ている日立や高萩にかけつけてその経験を絵画化することは、非常に勇気のいることであり、
この油絵の名手が版画に立向かったことと共に、特筆されていいことである」。しかしこの時 点では飯野も新居に厳しい批判を寄せる。
作者の良き意図にもかかわらず、労働者が典型として描かれず、しかも日本的に制約され ている作家の生活事情によって、明るいたくましい労働者が、むしろ卑小化され、暗くみ じめな類型化されたものになっている。これを比較してみると、中国の北方木刻画やソヴ ェト版画よりも、むしろ二十数年前のプロレタリア版画発生時代のドイツのものに共通す るような、一種の観念性、自然主義的 個(ママ)立性ともいうべきものがその姿態表情にただよ っている。躍動的な現実に正面から取組んだこの画面にふさわしくない労働者的体臭の欠 けた人民の姿は、美術のもつ否定面を明らかにもっている。(「版画について二・三のこ と」『美術運動』第 10 号)
新居の作品は中国木刻と肩をならべるだけの表現力をもたず、むしろケーテ・コルヴィッツ のような初期リアリズムを模倣した観念的表現にとどまるというのである。飯野はこのあと、
「技術や造型性の練磨だけでは解決しがたいものあること」に触れ、小野忠重の評を参照し、
「民間伝承の版画」をめざすべきこと、郷里の正月の魔除けの版画にみるような怪異さを参照 してはどうかと示唆する。ここには中国木刻の民俗的な物語性や演劇性が念頭にある。こうし て飯野は、中国木刻を規範として、日本の民衆版画が中国木刻の水準に達することを期待する。
「遅生まれの中国木刻画がなぜあれだけ成長したか。日本では大衆の間に『持ち込む』のに性 急であったし、その為に石版が先ず提唱された。中国では、大衆の間から『生み出される』こ とを求めた。大衆が敵の圧迫を受けている最悪の生活条件の中でも作りうる木刻画が、終始一 貫して唱えられたのだ」(同前)。そして、「いよいよ腰をすえて木版画の大衆化に努力する ことが必要ではあるまいか」と結ぶ。飯野が対峙しているのは、第一に、観念的なリアリズム 表現にとどまる版画運動協会の版画であり、第二に、中国木刻を錦の御旗として称揚するだけ の批評である。その方法論が単純に「大衆の中へ」というスローガンにとどまっていない点が、
飯野の卓見であっただろう。
こうした立場は、戦前のプロレタリア版画運動と新版画派運動を経験していた小野忠重と共 通している。小野によれば、浮世絵とは異なって創作行程のすべてを一人の作家がになう戦前 の創作版画は、方法や題材を革新しながらも、自己の内部の美意識に「逃避」し「遊び」に身 をゆだねたと総括される。そのうえで論じられる小野の作品評は、中国版画を称揚するだけの 他の批評のような紋切り型ではない。
たとえば飯野農夫也君の『村の人 A』の黒と白の配分、上野誠君の『小憩』の墨と灰二版 による群像の妥当な説明、鈴木賢二君の『おかみさんたち』の無理のないうごき 久米宏 一君の『北京の街角』の簡潔、いずれもゆるみない成果とみる。とくに新居廣治君の『日 立にて』の連作、佐藤清君の『おふくろ』を中心とする一連の多色版を注意したい。版を 手がかりとする自由な絵画の表出、これは佐藤君の努力だし、そのまま数量性とつながる 新居君の新しい意欲にみちた諸作、その群集描写のムーブマンに敬服する日本の民主的な 版画がはじめて得た力ずよい里程標だと思う。…アジア的形式としての木版画に思いおよ ぶと、まだまだ広く、積極的にさまざまのメチエを学ばなければならない。…さしあたり の問題はプレスなのだが…デッサンに直結するのびやかな版画の技術、清新な探求、ふる い創作版画の袋小路からの解放はだれそれがみないまの版画にのぞんでいるはずだ。…た とえば民画のとりあげはどうだろう。あの創作版画にみた逃避や遊びはこまる。正しく日 本の民画を摂取したい。…民主的な版画家なら正しく継承できる。農村の民間伝承のうち
に製作の立場をもとめて、版画の明るいいぶきに役立てることができる。中国でのあの年 画や春連が新しく呼吸づいたように。(小野忠重「版画の場合 第三回日本アンデパンダ ン展の版画を見て」同前)
小野忠重は、ここでは版画のもつ素材の制約から、いかに自由な表出を生み出すかを基準と して論じている。そして、さらに自由な表現を可能にするためには、「さまざまのメチエ」、と りわけプレス=印刷技術と「デッサンに直結する」ような「のびやかな」線の創出が必要だと 指摘するのである。そしてそれは確かに、物語性と演劇性をもった伝統的な中国年画の様式に おいて発見され、洗練されてきた〈線〉であった。こうした指摘や自己批評がどれだけ版画作 家たちの研鑚や工夫に反映したかを証明するのは難しい。ただし、暗い画面の炭鉱夫を描いて いた新居の日立闘争や高萩炭鉱闘争は、翌年の 1950 年の「高萩にて1」〔写真6〕「高萩にて 2」
「日立にて」「失業者」などにおいて、より演劇的な構成をとるようになり、人物たちがダイナ ミックな動きを表現するようになる。そして 1952 年の「土地をうばわれた人々」〔写真7〕に いたるまでに、人物の表情のふくらみを表現する木版画の線は石版画のように細く繊細になる。
もともと彫刻家であった鈴木賢二の場合には、『ぶたのうた』(文・タカクラテル、理論社 1952 年)のように、漫画のようにわかりやすい表現を選ぶこともあったが、一枚ものの版画では、
人物の立体感が彫刻で切りだされたような数々の断面によって表現される、抽象画とリアリズ ムをあわせた独創的な作風となり、自由に移動する視点と、絵画的あるいは映画的に切り取ら れた構成を駆使するようになる。洗練された構成や線を削り出すようになる点では滝平二郎も そうであった。滝平もまた『裸の王様』(1951 年)のような童画・絵本の創作を手がけながら
――それは後年のきりえの作風を先取りしている――、「橋」(1951 年)、「泥船」(1952 年)を 経て、1953 年には版画集『むすめたち』〔写真8〕にみられる的確なデッサンに支えられた柔 らかい線の版画にいたる。中国の〈版画の木刻化〉を追いかけていた日本の〈木刻の版画化〉
は、こうして端緒についたといっていいだろう。
写真6 新居広治「高萩にて1」(1950年) 写真7 新居広治「土地をうばわれた人々」(1952年)
写真8 滝平二郎「むすめたち」(1953年)
2.2. 共同制作「押
お
仁
すに
太
た
」
もうひとつ作品評との関係で忘れてはならないのは、「大衆の中へ」というスローガンがどの ように実現されたかであろう。この方針は日本美術会 1950 年の運動方針でもあった(『美術運 動』第 8 号 1949 年 12 月 10 日)。この運動方針を言動一致で積極的に実践しようとしていたの は新居広治であったが、先の第 3 回アンデパンダン展に触れて、「私たちの創作生活がか烈な大 衆の現実からまだ遊離したところにあり創作実践の主題的な足場が人民の斗争をはらむ現実の 場に密着していない」と総括していた(「アンデパンダン展の作品傾向について」『美術運動』
第 10 号)。
「大衆の中へ」というスローガンが、創作方法の飛躍を生んだとすれば、それはこの方針の 具体化が、コミンフォルム批判による日本共産党の「50 年分裂」と重なったからである。そし てここで試みられた新たな創作方法が集団制作であった。その集団は、大山茂雄、鈴木賢二、
新居広治、滝平二郎の頭文字をとって、「押
お
仁
すに
太
た
」と名付けられた。表現形式は中国の紙芝居 である連環画にならった。野添憲治が記すところによれば、「押仁太」は、大山茂雄・鈴木賢二・
新居広治・滝平二郎らによって 1950 年 8 月発行の絵本『日立ものがたり』(全労連・全日本金 属労働組合の共同編集)を発行、つぎに日立物語姉妹編として『常東ものがたり』を発行した
25)。そして、1950 年の秋から冬にかけて、秋田県毛馬内町に滞在し、1945 年 7 月に秋田の花岡 鉱山で発生した中国人・朝鮮人労働者の蜂起である花岡事件に題材をとった、『花岡ものがたり』
制作のための取材を開始した26)。木刻連環画『花岡ものがたり』は 1951 年 5 月に 112 頁で価 格は 50 円、日中友好協会編で発行された〔写真9〕。なお制作メンバーには版画家・牧大介も 参加している。
写真9 『花岡ものがたり』(1951年)
「押仁太」は「50 年分裂」に際して、所感派に属し、雑誌『人民文学』を主要な表現の場と していた。その活動宣言「押仁太『美術における大衆路線――「押仁太」について――』」(『人 民文学』第2巻第2号、1951年2月1日)にこう書いている。やや長いが引用しよう。
押仁太という名称は、五十年春頃から、アカハタやその他でボツボツ発表され御承知の方 もありましよう。…押仁太とは個人の名称でも作家グループの名称でもありません。押仁 太とは今のところ日立労働者二千五百名、常東農民四万の文化的なエネルギーの結晶の別 の名です。そのエネルギーが押し出した名称です。/直接的には、あの日立大争議の試練 の中から誕生したのです。…版画を彫るもの、インクをぬるもの、刷るもの、流れ作業で 大合唱の中で一夜にして数百枚が作られ、市内に、工場に飾られた。/作家と、美術サー クルと行動隊の共同の作業であった。このなかから、この大争議を絵本にしてはという話 が持ち出され「日立物語」が誕生した。/日立分会が農民と団結しようと、常東や常総へ
文化工作隊や農機具修理班を送り出したのも、この美術サークルを中心とした行動隊が押 し出したのであつた。/ここから、常東農民組合が「常東物語」を指令として取りあげ活 用するようになつたきつかけが生れた。…
押仁太の仕事は、このような絵本を作ること、このような絵本の作り方をすることにだけ あるのではなく、…労働者農民の文化的成長とエネルギーの組織化のなかにこそ本当の仕 事があり、そして真実の意味のリアリズムをうちだしてゆくところに目的がある。/押仁 太とは、それらの行為の総称として生きているし、そのように理解して戴いてよいと思う。
/だから押仁太の成員はせまく考えても絵描きに限られておらず、現実に写真家もいるし、
印刷出版関係者もいるし、文筆家も音楽家もいる、美術サークル員もいるし、組合の人々 もいるし、一つ一つ批判や意見を出してくれた、労働者や農民も、直接の参加者である。
…人民に服務し、人民の利益を代表し、人民の言葉で、人民の感情と感覚とで作りだして ゆく仕事、…これが押仁太の方向でありその使命である。/だからこの様な方向で働く人々 なら誰が押仁太と称してもかまわないし、また押仁太といわずに、どのような名称でやつ ていつてもこれまた少しもかまわないばかりか、どんどんやつていつてほしいのである…。
最後に、押仁太の仕事は、この春以来東京を中心として、特に文化運動のなかで、いわゆ る分派の問題が起り、全く混乱をきわめ、立派な経歴と有能な力とを持つ大部分の小説家 や美術家が自分の力に思いあがり、人民に服務することを忘れ、ほとんど仕事をサボター ジュしているその時期になりたち、成長してきたのは意味深く、人民こそ総ての土台であ るということを実に立派に説明しているということ…。(傍線引用者)
『日立ものがたり』の4人が、『花岡ものがたり』では新居広治・滝平二郎・牧大介の3人に 変わっているように、あくまで集団制作の場合のペンネームとして「押仁太」という名前が用 いられた。そしてこれらの版画家たち以外に、多数の協力者を得て取材や制作がおこなわれて いる。大衆運動の「エネルギーが押し出した名称」という自負は誇張ではないだろう。だから こそ、「この様な方向で働く人々なら誰が押仁太と称してもかまわない」というのである。そし て、この引用部分の最後に「50 年分裂」が参照され、敵対していた国際派を批判することで、
この集団制作の正当性が主張されている。「分派の問題が起り、全く混乱をきわめ、立派な経歴 と有能な力とを持つ大部分の小説家や美術家が自分の力に思いあがり、人民に服務することを 忘れ、ほとんど仕事をサボタージュしているその時期になりたち、成長してきた」。
なお、この宣言文では「日立分会が農民と団結しようと、常東や常総へ文化工作隊や農機具 修理班を送り出したのも、この美術サークルを中心とした行動隊が押し出したのであつた」と、
日立闘争と、茨城県の先駆的な農民組合運動として知られた常東農民組合との結合が試みられ
たなど、今後の調査が必要な事実関係への言及もあり、興味深い27)。
ところで、北関東版画運動内部において、「50 年分裂」はどのような対立をもたらしたのだ ろうか。『人民文学』1巻1号~4巻11号(1950年11月~1953年11月)誌上の「押仁太」メ ンバーの活動は、つぎのようになる。
表紙: 新居4点、押仁太2点、鈴木賢21点、滝平1点
カット: 新居7、鈴木賢二10点、滝平13点、小口一郎2点、押仁太1点
これに対して、上野誠は国際派が依拠した『新日本文学』にカットを寄稿している。さらに、
飯野農夫也は国際派の中野重治と懇意であった。実際、『人民文学』に飯野が協力した形跡はな い。とはいえ、排除された茨城県党委員会の国際派メンバーが滝平二郎の版画の販売に協力し たなどの証言もあり、分裂が版画運動という文化運動にどこまで深刻な対立を招いたかは測り がたい部分がある28)。今後の課題としたい。
ところで集団制作という創作は、「50 年分裂」後の日本共産党の「民族解放民主革命」路線 にもとづく、「文化工作隊」の活動において実践された手法でもあった。版画作家たちも参加し た、小河内ダムの反対闘争に参加した桂川寛らの前衛芸術家たちは、文化工作隊の活動の一環 として、『週刊小河内』を共作で作成し、ガリ版と木版で7人の共同制作による絵入りのパンフ レットも作成している29)。
政治路線の対立が文化闘争を巻き込んだこの〈政治の季節〉の経験は、北関東の版画運動作 家たちに何を残したのだろうか。集団制作はこのあと試みられた形跡がない。しかし、闘争の 現場に取材し、それを版画として創作するという、この当時の文化工作隊に共通するルポルタ ージュの作風は、鈴木賢二、新居広治、小口一郎によっても継承された手法である。また、上 野誠も平和運動や労働運動に題材を得た佳品を多く残した。だが、こうした創作方法を、自立 した芸術論として残すことができただろうか。『日本版画運動新聞』紙上にて、1955 年に社会 主義リアリズム論の再確認がおこなわれるが、それは戦前の社会主義リアリズム論争の水準を 超えるものではなかった30)。そこには、集団制作の経験はいっさい言及されていない。その意 味で「押仁太」の活動の成否は検証が待たれる。確かに、滝平二郎と斎藤隆介のコンビによる
『八郎』などの創作民話の共同制作や、版画運動協会による、さまざまな国内外の展覧会への 共同出品、さらに版画集の発行などにこの経験が継承されているのではないかと推定すること はできる。しかし、「押仁太」による集団制作は、鈴木賢二が体現し、サークル的な運動が有し ていた、融通無碍の関係づくりとはやや異質な運動であろう。それは『人民文学』における宣 言がしめすように、あくまで党派性を有した政治的な結合である。その意味で、北関東版画運 動のメンバーそれぞれにとって、数万の未曾有の大衆のエネルギーを語り、「人民に服務し、人 民の利益を代表し、人民の言葉で、人民の感情と感覚とで作りだしてゆく仕事」を強調するこ
とが、はたして身の丈にあっていたかどうか。それは、それぞれに相違はかかえながらも、鈴 木賢二や飯野農夫也の両者にも共通する、農民大衆との結合にかかわる葛藤を、帳消しにする ような誇大な表現にみえるからである。また、それゆえに、飯野農夫也はここには参加しなか ったといえるのではないか。実際、飯野と他のメンバーとの乖離は、次に述べる版画運動内部 の論争においてはっきりと打ち出されることになる。それは版画運動の進め方をめぐって、創 作の深化か政治運動の拡大かをめぐる論争であった。
2.3. もうひとつの論争
1952年1月、日本版画運動協会から、版画運動を国民運動にひきあげようという方針が提起 される。少し長いが引用しよう。
日本版画運動協会「御挨拶」
工場や農村の版画サークルの諸君は、職場での自由な活動を、種々な障害のために妨げら れています。地方農村では、文字どおり、草の汁をしぼり、絵の具のカスをはぎとって摺 るような、血みどろな努力なしに、版画は作れなくなってきました。…摺師、彫師のみな さんは、たとえば、東京では百人中、九〇人までが、手内職の賃仕事に追いかけられてい ます…創作版画家も一部をのぞいては生活に困なんしています。もとから、版画は二義的 な様式だとされて、片すみにとじこめられてきたためもあり、二重に、制作や発表の条件 を失いかけています。しかも、こういう人々こそ、偉大な民族版画の伝統をうけつぎ、新 しい国民版画の世界をきり拓いていく、絵画的思想と様式を発達させる能力をもっている のです。
一方、版画は現在、国民の間に、依然として愛され、親しまれていますし、日常生活の 中でもなお息づいています。版画こそ、民衆の芸術の一つとして一そう発展する力をもっ ているのであります。/こうして偉大な、力強い能力が、たくわえられ、存在しています。
にも拘わらず、外部的な障害のために健全に伸びられない。これが現状です。
私たちは、文化的な国家をきずいていく上に、こんな怖るべきことはないことを力説し たい。版画を愛し、版画にたずさわるすべての人たちの力をあげて、この障害をしりぞけ、
破かい的な現状を打破したい。これこそが切なる願いであります。
そして、具体的な方針として、次の九項目が掲げられた。
一、日本民族の版画を尊重し、民衆的版画を作り、ひろめよう/一、版画の伝統的な技術
を保存し、合理的に発展させよう。この仕事を国家に保障させよう/一、良心的なすべて の技術者、版画作家、版元に社会的保障制度を與えること。重い税金をかけないこと。/ 一、職場サークルに、政治的、思想的圧迫、干渉を加えないで、サークル活動の自由を保 障すること。/一、職場サークルに、政治的、思想的圧迫、干渉を加えないで、サークル 活動の自由を保障すること。/一、展覧会入場税のてつ廃、作品の内容に対する干渉反対。
/一、版画家・版元の版権を確保しよう。/一、古美術、版画の保存、保障のための予算を ふやすこと。海外流出には断固反対。/一、各都市に美術館をつくり、国民に公開するこ と。/一、創作の自由、生活の安定、国の平和と独立をうちたてよう。
従来、私たちも微力ながら、民族の伝統と要求に根ざした人民版画の運動を提唱して来ま した。人民の中へ、という合言葉を強調して来ました。しかし、その反面、版画にたずさ わる作家、技術者、愛好家のみなさんの利益を軽視し、みなさんの意志や要求をないがし ろにし、互いに立場を尊重し合い、力強く連けいしていくための努力を充分拂わなかつた ことを、ここに反省する次第です31)
この文章を書いたのは滝平二郎ではないかと推定しておく。それは、滝平二郎が編集兼発行 人にあたっていた『日本版画新聞』第10号(1952年9月(ママ)3 1日)の記事「〔指標〕版画時代は 果たしてきているか」に、ほぼ同じ表現があらわれているからである。
児童版画に対しては官庁その他が目をつけているまた官庁やヂャーナリズムに仲立ちさ れて、アメリカその他の国へ、わがくにの創作版画が紹介されている。…ところが実情は どうだろう。草の汁をしぼって辛うじて刷つている人がいる。ナイフ一本をたよりに辛う じて刻んでいる人がいる。…新しい国民版画の前途は、この人たちと良心的な版画作家と の協力によつてきりひらかれようとしているのでわないか (傍線引用者)
ただし、日本版画運動協会「御挨拶」は組織としての運動方針の提起であり、誰が書いたかを 特定することにあまり意味はない。この方針はどう読めるだろうか。ここでは、「50 年分裂」後 の共産党主流派の文化方針である1951年1月「文化闘争における当面の任務:全国文化工作者 会議の報告と結語」(日本共産党臨時中央指導部)と翌年5 月の「当面の文化斗争と文化戦線統 一のためのわが党の任務」を参照したい32)。これはすでに道場親信が検討しているが33)、この方 針では、「文化活動は党の戦略戦術に従属するという原則を具体化し、実践に移さなければなら ない」として、文化サークル活動を「地域人民闘争を発展させるための文化工作活動に出動する」
ことを求めた。そして翌年の「当面の文化斗争と文化戦線統一のためのわが党の任務」では、「サ
ークル協議会の結集と確立」「文化活動家集団」の「確立」を語り、「このように広汎な文化人が、
国民の熱望する平和のためにたち上がったことは、高く評価されなければならない」として、原 爆展、反戦平和の映画・文学作品、詩人集団や組合運動の取り組みを称揚した。こうした、いわ ゆる「51年綱領」のもとでの文化闘争方針によって、「国民の歴史学」や「国民の科学」の運動 への展開が生まれ、それまでの武装闘争方針からの転換がすすんでいくことになる。
そこで「挨拶」と「版画時代は果たしてきているか」を引き合わせてみるならば、ここでの 基調は、サークル組織が普及したことをふまえて、民衆版画の創作論や芸術論を論じるのでは なく、政治的自由への闘争や版画にかかわるすべての人々の「社会保障」=生活闘争への動員、
さらに国家の美術政策の要求まで、総花的な要求項目が羅列されている。他方で、なるほど「国 民版画」は繰り返し主張されているが、その内容についての規定がない。ここに「51年綱領」
と共産党の文化方針への応答をみないわけにはいかないだろう。
この時点で、日本版画運動協会の会員は34名であった 34)。頻繁に展覧会を開催し、それぞ れの会員がサークルを組織していたとはいえ、まだ運動は駆け出しであっただろう。そうした 脆弱な主体をさしておいて、大所高所からの方針への動員が提起されたのであった。そして、
これに対して飯野農夫也が批判を書き起こす。これは中野重治の校訂を経て、『新日本文学』に 掲載される予定であったが、未発表のままになっていたものである35)。次に引用しよう。
飯野農夫也「版画運動のために」
あれやこれやの題目を羅列し、芸術自体の問題を、芸術自体の中で深めることを怠り、一 般的な「政治的」問題に解消させている。…摺師、彫師の手工業的職人技術は、いかに優 秀であろうと…現在残されているそれは、すでに頽廃した末期的技術である。…考えても 見給へ、一体この彫師、摺師の技巧が、第一次大戦以後の日本版画史に、どのような形で 自己変革を行つていたというのか。/また、とつてつけたように、「版元」というものをい まごろ持ち出すに至つては時代錯誤も甚だしい…
ここに至つて、批評と創作との統一が必要になるが、版画運動協会の挨拶は、批評につい て一言も述べない。批評からの友情を拒絶するがのごとく…
日本版画における近代を抹殺し、版画革命の問題を卑俗な版画の世界に押し縮め、その世 界の特殊性を強調することによつて、美術革命との連けいを絶つところに危険が横たわっ ている…
「中・日進歩的木刻是親密的朋友」の呼びかけに、襟を正して答へることをせず、革命陣 営における官僚的位置、寄生的存在を合理化せんとの魂胆が「御挨拶」にありはしまいか。
…良心的な作家、版画理論家、版画研究家と心から話し合い、…真の統一戦線に踏み出す
べきである。
飯野が対置しているのは、国民版画ではなく、創作と批評の統一であり、それによって創作 の質を向上させ、美術革命と連携する「版画革命」をなしとげることである。それは、版画運 動が課題としてきた、中国木刻画との実質的な連帯であり、その連帯にふさわしい内容をつく りあげることである。要するに、版画の技術的で質的な課題を問題にしたのである。ここでは 省略したが、この提起では、戦前の石版画論の再提起、さらに版画表現の素材に即した固有性 の尊重などの主張が盛り込まれており、そこに中野重治の手が入っているものと推定する。そ れは中野の「絵について」とまったく同じ主張だからである。そのせいか、「御挨拶」と「版画 運動のために」は、本稿の冒頭で参照した、戦前のプロレタリア芸術をめぐる芸術大衆化論争 の再燃にみえる。「御挨拶」の立場は、芸術の質的向上ではなく、芸術を大衆の量的獲得・量的 拡大の手段としてあつかう硬直した党―大衆組織論に等しい。飯野が述べる「美術革命」の内 容はここでは主要に論じられてはいないが、伝統的な画法や民俗伝承の参照が念頭にあったで あろう。そしてそうした試みを批評と結びつけることを提起した点で、飯野の主張の方に、版 画運動の固有性に即した、一日の長があったと考える。それはまた量的拡大に収斂してしまっ た戦前のプロレタリア版画運動を克服する視点でもあっただろう。
しかし、この異議は結局のところ発表されずに終わった。ただし、この草稿は鈴木賢二ら近 しいもののあいだでは回覧されていたと推定される。ここにも、文書として残されている政治 方針とは異なる人的ネットワークが、機能していたことが想定される。しかし、この対立を期 に、飯野農夫也は日本版画運動協会の活動から次第に距離を置くことになる36)。飯野は一貫し て一言居士のようなポジションにあった。
とはいえそれは版画作家たちのつながりを断ったわけではない。一例として 1959 年 8 月 30 日付の上野誠から飯野農夫也にあてた手紙を参照しよう。上野はこう書いている。「この度二回、
懇話会展に出品していただきここで久闊の便を一挙に埋められた事となり、大兄の積極性に感 激したものでありますが、同時に、又文句も出て来たしだいをどのようにお伝えすべきかと迷 いつつ日を経てしまいました。…この度の作品では、「飯野農夫也」的体質を感ずることのでき なかった事が最大のショックでした。…今日の作品では、技法的には、若干の新工夫が見られ るとしても、その技法そのものも既に古くなって見えるのは、創生期の創作版画から幾何も出 て居らず、…「土」の喪失から生じた内容の空疎の然らしむる所といわざるを得ません」37)。 上野が批評しているのは、懇話会展に出品された飯野の作品をめぐってである。久闊を叙しな がら、しかし、容赦のない、しかも二心のない批判が率直に表明されている。上野は 1953 年 7 月 10 日の『日本版画新聞』第 11 号から編集兼発行人となり、的確な批評で各地のサークルを
指導していくが、その批評眼をここでは飯野を相手に存分にふるっている。ここにみられるよ うに、〈政治の季節〉の路線論争や対立に関係なく、北関東版画運動のメンバーたちが、そのつ ど作品評を交わす関係を継続していたことを指摘しておきたい。ここにも不定形だが無償で真 摯な知的ネットワークがある。そしてそのネットワークの中での作品のやりとりや相互批評は、
直接的に相手の内面に飛び込むことで、空間的で時間的な距離を一気に埋める――それはおそ らく国境も。なお、作品評を介したそれぞれの作風の成長をみとどけることは、今後の課題と したい。
3. 終りにかえて――国際展覧会のネットワーク
最後に、日本版画運動協会が中心となって組織した数々の展覧会や頒布会は、戦後民衆版画運 動の特質であることを指摘しておきたい。それは 1947 年 10 月に茨城県大子町で開催された「全 日本新木刻運動会議」をはじめとして、国内外で開催され、豊かな国際性を有していた。そのな かで、1952年3月にアメリカに作品を出展して開催された「日本人民版画展」をとりあげておこ う。アメリカでこの版画展を主催したのは、二世プログレッシブス〔Nisei Progressives〕である。
二世プログレッシブスは、1948年のヘンリー・ウォラスの大統領選挙の支援運動を目的として組 織された進歩党〔Progressive Party〕の日系二世組織である38)。ニューヨーク、シカゴ、サンフラ ンシスコ、ロサンジェルスに組織があった。ウォラス候補は反戦・エスニックマイノリティの権 利要求などを掲げ、その支援者には労働運動活動家、共産主義者も含まれていた。そうした背景 から考えれば、アメリカにおけるこの「日本人民版画展」は、国際的な反戦平和運動の世論を生 かしながら、アメリカにおける大統領選挙の側面支援という位置付けを有していたのではないか と推定される。この版画展は全米各地の70ヵ所で開催され、作品はメキシコ人民版画工房[Taller
de grafica popular]に託されたとされている39)。マッカーシズム直前の日系二世らによるユニーク
な国際文化闘争の調査も、また、今後の課題である。なお、デイリー・ウォーカーに掲載された 展覧会評は直ちに翻訳され、『美術運動』26号(1952年4月1日)および『日本版画新聞』第8 号(1952年5月30日)に掲載された〔写真10〕。記事はその盛況ぶりをこう伝えている。