九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
萬葉歌人の國家思想
田中, 晃
https://doi.org/10.15017/2557039
出版情報:文學研究. 18, pp.56-98, 1936-12-23. The Kyushu Literary Society バージョン:
権利関係:
観﹂と呼び得るであらう︒
序
言
萬 薬 歌 人 の 國 家 思 想
︵二
0
一四
︶
私 は 國 文 私 の 素 養 に 乏 し く
︑ 且 っ 旅 葉 の 研
究
が咄及徹底
して
︑ そ れ に 脳 す る 文 献 も 幣
しい
数に上
つて
ゐる今
日︑か4る未熟な
る研究を浚
表
することは
︑
徒らに
識
者 の 咄 笑 を 買 ふ に 止 る か も 知 れ な い
︒ た ゞ
︑一
般に
國家 思 想 に 脳
して
興味を有する
私 は
︑ 萬 茉 を 一 貫 す る 國
家
思想に就て
︑
是 非 と も こ れ を 要 約 し て 餃 く 必 要 を 感
じ︑こ
の概戟的考
察
を 得 た の で あ る
︒ も と
︑ 自 己 の 畳 害 に 過ぎないも
の
ではあるが
︑
幸に専門
家の叱正
を賜るならば
︑今後
更に研
究を進め
た い と 念 願 す る 次 第 で あ る
︒
およそ民族の有する泄界観は
︑こ
れを次の如き観貼によつ
て二
大別
する
ことが可能である︒
その一は︑経験的泄界の根腺をなすものを︑経瞼的拙界との連絞態に於て把握する恩想である︒日本民族や希朧人
の泄界観がこの範圏に昴することは︑それらの帥話に於ける紳の観念が︑
態に於て把握され︑帥
の批界と人間の世界との間に原郡的諏別のなかったことに
よつ
て明かである︒この種の世界観
に於
ては
︑
経験的世
界を
﹁有
﹂
とすれは︑その根拙をなすものも﹁有﹂である︒故にか4る批界観を総稲して﹁有の連緞 文晶研究
t
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‑t ,
^ー釘
i ‑
l i i
いかに超人的とはいへ︑
田
五 ブ<
中
なほ人間との連紹
晃
郎 葉歌
人の
國一 永 思想
五七
︵二
0
一五
︶
一
︑
萬葉には勿論外来思想 ば︑小異に拘泥して大同を逸するに至るであらう︒
一次 的に
その超越者が﹁有
﹂と
異れる限りに於て︑それを その
二は
︑
経験的祉昇の根腺をなすものと
して
︑
経験的泄界と原理的に異れる超越者を定立する思想である︒キリ
スト数的泄界観がその典型であることは言ふまでもない︒そ
こに
於て
は︑
経瞼的泄界としての
﹁有
﹂を
いかに連紐的に
遡つても︑その根腺として
の超
越者に到逹することはないが故に︑
﹁無
﹂と して
規定し
得る
︒
し
かし
︑この
﹁無
﹂は
︑
﹁有﹂と原理的に異ることによつて﹁有﹂の根掠を典へるのであるが故
に︑
﹁
有﹂
と対
等
に並
ぶ
﹁無
﹂
ではなく︑か4る﹁有・無﹂を同時に可能にするものとして︑﹁絶鉗有﹂または﹁絶封無
﹂で な
ければならぬ°希殿哲根の
﹁布
﹂ の思想を享けながら︑
不連絞観﹂と
呼ぶ
ことが可能である°勿論︑
と闊聯せし
めて
ゐる
︒
しか
し ︑
キリスト数的超越帥を媒介する西洋思想は︑宜在を
﹁絶
到有
﹂ と
するに傾き︑主閥的自党の極所に
在在を考
へる東洋思想は︑一般
に﹁
絶 封無﹂を哲在とする傾向がある︒いづれに
して も ︑ その在在は継瞼的泄界としての﹁有﹂とは不連絞的であるが故に
︑か
4る宜在を定立する世界
穀を総稲
して﹁無の
か4る枇界観
に於 ても
︑
種々の仕方
によ つて
︑
その超越者を経験的冊界
その闘聯がいかに行はれてゐるかは既に二次的観幽に屈するもの
であ って
︑
︑ ̀
は︑経瞼的泄界の根腺を︑経験的祉界と蓮絞的に把握するか︑不述絞的に把握するか︑といふ観貼を賀くのでなけれ
さて
︑吾々が日本恩想の特色と考へる﹁有の述絞観
﹂ を
︑直接に寓葉梨に卸し︑特に國家息想の側面より解明するこ
とが︑この小論の目的である︒さうして吾々の未熟なる見解ではあるが︑日本思想の特色たる﹁有の連絞観
﹂ は ︑
萬葉
に於て最も純粋に現れてゐると考へ
るの
でめる︒それにはおよそ三
の理
由が拳けられる︒
の影懇があるが︑未だ決定的に萬薬人の人生観の根祗を動揺せしむるには至らす︑外来思想の影懇を受けながらも︑
克く日本思想の本流を維持
して
ゐた
こと︒二︑﹁有の蓮絞観
﹂が
﹁無
の不連絞観﹂と到残させられるのは國家生成の説明
に於てであり︑こ
の貼
︑古事記
︑日
本轡紀締の重嬰性は
言ふ
までもない︒しかし︑國家生成の説明に於て思辣を費す
とき︑不紐不識の間に外来の
﹁ 無
の不連緻観
﹂が 混入
する
に
至る
︒それは國家生成の説明が︑その限り思辮的であり︑
恩癬的態度にとつては﹁無の不述絞観﹂の方が説明の便宜を提供するからである0
書日本紀には既にか4•
る影
懇が疲見
されるのである︒古事記は幸
に﹁
有
の連緞観
﹂を堅持するのであるが︑萬葉に
至つ
ては
︑
それが直接に國家生成の説明
を必要としないことによつて︑古蔀記の﹁有の
述緻
観﹂
の側面が涙厚に顕示された0人腔はその代表者である°憶良︑
旅人を経て家持に至れば事術は異つてくるが︑なほ﹁有の連緞観﹂の本流を逸しない︒三︑萬葉は文學であるが故に︑
上代の帥話を受けとるに裳つても︑思辮的でなく感術
的で
あっ
た︒そして︑ここに注意さるべきことは︑日本思想そ
のものが︑本来︑情的型に膨することである0も
と︑
﹁
有の連絞観
﹂な
るも
のが箭的文化の地盤に於て最も健かに育成
されるのであるが故に︑上代の帥話を駕葉人が感悧的に受容し表現したことは︑
疲見したことになるのである
︒萬
葉が
文屈
子
であり︑特に感術の直接的表現としての歌であることは︑日本思想そのも
のの性格と照合するとき︑殊に重大の意疵を認めなければならない︒希殿の思想も﹁有の連絞観﹂であるが︑
的型に恥するが故に︑希脱哲學を通路としてこれを把握することは︑最も齊合的であらう°勿論︑希職哲學の背景を
なす文學ル至宗数を研究することの重要なるは言ふまでもないが︑その場合にも︑それが固有の希戦思想であるか否
かを選り分ける標準を典へるものは︑卑ろ哲梨である︒東方の宗敢思想に躙れたであらうと思はれるプラトンが︑そ 文
學 研
究
第十八輯
そこに日本思想が全面的頸現の道を 五
i i . .
︵二
0
一六
︶
それは知
班葉歌人の國家思想
二
柿 木 人 麿
く︑これを
ミト
スの形に於て語ってゐるのは︑
如き一線を辿ることが可能であり︑ そ
の興
味ある例證
であ
らう
︒
これに反して日本恩想は︑
ものであるか否かを決定するには︑寧ろ文學を
標準 とし
なければならない︒特に抒情詩を重要親しなければならない
勿論︑時代が下るに飴つては︑文
固宅
その
ものが紙に多分に外来恩想の地盤に成長
して
ゐる
の
であ るか ら︑
を一概に断定することはできないであらう︒
しか し︑
萬葉に於ては︑外来の思想と固有の感術との間に︑なほ潮目の
そこに廊葉の重要性があるのであ
る ︒
以上の如き理由によつて︑篤葉の國家
恩想
は︑
五九 それが固有の
かかること
その自然観乃至態愛設と共に︑深く研究されなければならない︒そ
れと共に︑この理由はまた︑吾々の研究態度を規制する営為でもある0日本恩想の性格を度外親して︑知的な哲學の
照準を以てこれを見ること︑或は萬葉の文學であることを忘れ
て ︑
箪純にイデオロギ
ー的
考察を以てするこ
と ︑
らは何虚までも避けられなければならぬ°吾人は歌の生命として
の墜
調を通
して
のみ
︑
を打診することができるのである︒
それ
その思想の生けるか死せるか
︵ 一
︶
萬葉集に於ける人底の歌は︑
持統
一
二年に始まり︑和銅二年︑死に臨んで詠んだ歌に至るまで︑約二十年間に亘るも
のである︒さう
して
萬葉歌人は
︑こ
れを各人について見れば︑作歌道程
の痰
展
とい
ふことは︑さして明瞭に示しては
ゐない︒後に述べる大伴家持の如きに至っては︑そこになほ幾何の登展過程を跡づ
ける
こと
が可能であるが︑人麿に
︵二
0‑. 七 ︶
例へばファ
イド ン
篇の
最 後 に ハ デ ス の 警 望 な せる
場合の如充分に消化し得すして︑の宗敦思想を自己の哲駆に於て
(1•
三六) タ川わたる•——
.t この川
の 絶 ゆ ることなく
.この山の
いや
高
卸 ら す
の國の やすみしし
おはさふ
吾大
王の
ち
花散らふ
9ペ
秋 津
の野辿に
宮柱 天の下に あめ
ふとし太敷きませば
朝川渡り
ぁ
見れど飽かぬかも
Aこも
問し食す
國は
しも さは多
にあれども
も も し
︑
百磯城の みこころ御心を
よしg
吉 野
ふにぎは
舟競ひ
先づ
﹁ 幸子吉野宮之時柿本朝臣人
腔作歌﹂四首を以て考察の出痰としよう︒ 一首直ちに人腔
の全容を鋸呈するによるの
於ては︑前
後二十年
を通じ
て
首 尾 一 虹
して
ゐるといつてよい︒それ故に
︑
︵二
0
一八
︶
いま人
腔の 歌を見るに裳つては︑作歌年代 次に︑人
腔はあらゆる意味で偉大な歌人であり
︑
國家息想の中核をなす天
皇
諧歌に於て抜群の存在であ
ったのみな らす︑相問歌に於ても自然観照の歌に於てもまた
卓 抜 の 存 在 であった︒しかし︑いま吾々はそ
の全
面に亘らす︑たゞ
天
皇 讃 歌を中心として取扱ふことが可能である︒それは︑人
腔の
歌が年代的に
恙 異 をもたないといつたのと同じく
︑
問題的にも
差異を
示さないからで
ある
︒吾々が天皇讃歌
に於て姉
り得
る人
歴の 開験と
︑相間乃
至自然観照
の
歌 に 於
て
知り得るそれとは︑
歌が
︑
その性格に於て全く同一のもの
である︒これは勿
論
いかなる歌人に就ても云ひ得ることであらう が︑しかしたとへば旅人︑家持の
如く
︑
相間そ
の他
の歌を背暴
に置かなければ︑
もの
と異つて︑人
腔
に於ては︑直ちに天
皇
讃歌に就て
︑
その國家思想を如宜に把握する
ことができる︒これは人
歴の
いかなる鉗象
乃至心境を
詠むのであらうとも︑常に全力的であり︑
である︒
かくて吾々は躊躇なくそ
の天皇諧
歌に到してよい
のである︒
その國家思想を充分に把
握し 得な
い
山川
の
大宮人は
はし
水激る
かうち
洲き河内
と
鬱 め て
みC•こ
瀧の宮虐は
の前後脳係を姑<度外視する
ことが許されるであらう︒ 文學研究
. , っ
‑fFF釘1
j i l u
六0
後の二首に至っ
ては
︑
吾々は既に三個の問題を抽出することができる︒
そ
こに
現帥の思想のある
こと
︒二︑山祇︑川の紳等の
如く
︑
郎葉歌入の國家思想
初めの
二首
は︑
ノ
.
そこに自然帥の観念の現れてゐること︒三︑さうして自 然紳もまた現帥としての天皇に仕へまつるといふ恩想の歌はれてゐること︒ 第一の黙は吾々がこの小論を通じて最も強調したい所であり︑それが人歴に於ていかに現れ︑爾餘の歌人に至って
いかに愛媛するかは
︑こ の小論の全閤を
以て
答へるよりほかはない︒成程︑﹁帥ながら﹂といひ﹁帥さぴせす﹂といふの
︵三
︶
は︑既にその限りに於て︑︳天皇
郎紳
﹂ の帥話時代とは異り︑限定乃至啓喩の法による︑天皇の帥性の表現であらう︒
しかし︑この
﹁軸
ながら帥さぴせす
﹂は 人 歴の皇室愈崇の念をいかにも李直に表現してゐると共に︑眼定乃至
啓喩の法
︵二
0
一九
︶
一
︑
天皇を﹁祠なから帥さぴせす﹂と讃し奉り 天皇に討
して
朝臣が忠節をいたす肱を具象
的に
詠じたもので︑この具象性は︑歌人と
して
の人
腔を論
︵二
︶
するに裳つては直要な問題であるが
︑こ の歌の息想の内容は説明するまでもなく明瞭である
とい
つて
よい
︒
しかるに
み よ
紳の御代かも
(1
•三八)山川もよりて奉れる帥ながらたきつ河内に船出するかも
゜ (
1•三九)・ ニ つ
奉れる
反 歌
よし0
とこ なの見れどあかぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた遠り見む 嘉 辛 鵬 な が ら 鵬 さ ぴ せ す と 翠 炉 叫
た た な や
2
つみ
t
つ み つ
y
独 は る 寄 桓 山 山
祗
の 奉
る御調と
大 御 食 に 仕 へ 奉 る と
上
つ瀬
に そヽふi j
一伯川の釉も鵜川を立て しも下つ瀬に山川も 見をすれば春ベは花かざし持ち秋立てばさ
1﹂
小網さし渡す
もみ
黄葉かざせり やすみしし か
︐ら
たぎつ河内に高殿を
(1
︒ 三 七 ︶
高しりまして登り立ち
依よ り 逝 ゅ て き 閾
による︑天皇
の帥性の表現であるとしても︑そ
の帥性が決して超越的なる絶封紳ではないこと
を 含 意 して ゐる
︒
﹁ながら﹂といひ
︑﹁
さぶ
﹂と い ふ詞は︑全く存在原迎を異にする二つのもの4間を結ぶものではない︒天智天皇崩御の 際、或る姉人の詠め
る歌には「叫組し紳に叩へねは…
…(2
•一万 0) 」といひ
、また「なゆ竹のとをよる 尉 デさザづ
おほさみこもりく
は つ せ か じ
らふ吾大王は慰國の泊瀬
の山に帥さぴに齋き坐すと·…••(3•四二0)」の例よりも明かなる如く、「帥さぶ」うつせみ
とい
ふのは︑既に現身と肺との匿別に立脚
して ゐるけれども︑その匿別は原理的で
はな
いが故に︑現身にまします天
皇も
﹁神
さ ぶ ﹂
と申しあけ得るのである︒特に人腔に於ては︑例
へば
﹁
親皇子の安騎野に宿りませる時﹂の歌に﹁やすみ
か む あ き つ
かみおはさみ吾大王日の皇子軸ながら帥さぴせすと·…・・(1•四五)」と詠んだ如く、天皇を現紳として翁崇し
奉るのが本領であり︑
︵二
0二
0)
それも︑現身にまします天髭の帥性を︑限定乃至竪喩の法によつて表現する
とい
ふよりも︑宰
ろ帥性そのものの秘極的顛現として讃し
奉っ
たも
のと解される︒
﹁さ ぶ﹂ は︑ 例へ ば﹁
男
さぴ す﹂
﹁乙 女さ ぴす
﹂
の如
く︑
うつ
せ み 諏 叩
ぃ仰ぎ︑紳そのも
のの
本領を痰輝する朕をい
ふの
であるが故に︑人腔の所謂﹁帥さぶ﹂は︑現身にまします天皇を
︑︑
︑
の校柩的顕現として諧仰したのであって︑紳性の或る限定が現帥であるといふやうに︑現紳の背後に抽象的帥性を考
第二の自然帥
の観
念を明かにするために︑吾々は寧ろこの自然帥が現帥としての天皇
に仕 へま つる とい ふ第 一︱ 一の 貼
より進まう︒これもまた人腔の天皇尊崇を現す重嬰な側面である︒
お ほ ら み あ
dぐ も い か づ ち
9へ い ほ り
皇は帥にしませば天
雲 の 雷 の
上に脱するかも
(3
・ニ
三五
︶
おほきふ皇は帥にしませば餌木の立つ荒山中に海をなすかも
へた も
のではない︒この黙は猶ほ後に隣れる︒ しし
高照す
文 學 研
究第十
八輯
(3
・ニ
四一
︶
̲.̲ ノ
この歌は必すしも人腔長歌の特色を端的に示してゐるものではないが︑
天見るごとく﹂以下の如き︑
木烏獣魚介に至るまで︑すべて現脚に仕へまつることを如宜に示してゐるのである︒それは何故であらうか︒吾々は
この理由の訛明に於て二つの道行を後見し得るやうに思ふ︒さうしてこの
二つ
の道 行の合一する所に︑人腔の思想の
特色
︑
ひいては日本思想の特色としての﹁有の連絞観﹂を的確に把握し得るやうに思
ふの
であ る︒
流 葉 歌 人 の 図 家 思 想
. いかにも荊麗の感を典へるものである︒さうして内容的には︑さき
の歌
と共に︑山川草
ぁ の お ほ き
︑6さ9がさひさかたの天行く月を網に刺し わ が 大 王 は 益
にせり も と
は やすみ
しし 反
仕へ
攀りて
(3
・ニ 三九
︶
歌
ひさかたの 長皇子遊撒路池之時柿本朝臣人腔作歌一首井短歌
吾 怠 耳 高 光 る
は な ろ
9づら
ぃ 勾 ひ 拝 が め 鶉 こ そ
みこわが日
の皇
子の
ほぃ伺ひもとほれ
わめ
天見るごとく
鱈土猪し
+ t .
鹿し馬鏡 芸 じ 並な
も め
の て
裳然であらう︒次の歌は︑その欣景を仰へ
るの
であ
る︒
形式に流れすして質宜であり
︑﹁ ひ
さかたの 仰ぎて見れど
(3
・ニ
0
四)
春草の かりたみ狼立たせる
は を ろ が
い勾ひ拝み
、,' , 鶉なす
︵二
01
= ‑
. ︶
おほさみいやめづらしき
わが大王か かり9をn狼路の小野に
はぃ勾ひもとほりかしこみ わかごb
弱猫
を
し し
猪鹿こそ この雨首の如きは︑その緊張せる膝調を以て︑現帥としての天皇の御稜威を端的に叙したもの
とし
て︑
最も注目さ
るべき思想である︒さうしてこの附首では
︑ ﹁
皇は紳
にし ませば﹂と明瞭に﹁天皇
帥紳
﹂
の観念を表現してゐる︒さて︑
かやう
に ︑ 天皇は自然乃至自然紳をも支配したまふのであるが故に︑生物乃至人間の祉界を支配した
まふ
ことは享ろ
第一は人腔の自然観で
ある
︒
可及的に人魁に劇する限りに止
めた
い︒先づ上記敷首の歌より知り得る所は︑山川草木応限に亘る全自然の間に何ら
の寓別がなく︑凡て生けるものとして︑且つ心あるもの
とし
て︑
詠まれてゐることである︒即ち自然も人間的に把握
されてゐるのであり︑裂面よりい
へば
︑人間が未だ自然より獨立してゐないのである︒そこには︑もとより叙述の綾
もあるとはいへ︑根本に於て︑廊薬人は︑自然を支配する法則と人間を支配する法則とが原皿的に
異つ
たものとは考
へな
か
った︒かかる自然と人間との融合は︑
風雷雨を防ぎ得す︑
彼等
の舟は疾風怒活に抗し得なかった︒それ故に廊薬人は︑強大な自然よりも寧ろ弱小な自然を
︵四
︶
愛した︒額田王の長歌(1
・ 十
六︶に於て春秋の仮劣が論じられてゐるのもこれに基くので
ある
︒
しかし︑上代人が強
大な自然に野したとき︑山には山の帥を︑海には海の帥を創造
して
︑
それを祀り︑
生活の安寧を期待したことを
以て
︑
る︒弱小な自然は人間に近かく ︑弛大な自然は人間に辿く感じられても︑
述緞態に於てある︒その間に深淵はない︒部葉
の時
代に
至っ
てもこの事梢は笈らない︒自然と人間との述紐的交流こ
そは日本古代の自然観の原理的特色であって︑この交流の様相に遠近の差はあっても︑それを以て原理問題と混同す
ることは許されない︒この連緞的交流に
於て︑人間
も自然の一部を形成したのであり︑自然も心あるものであったの
で
ある
︒
さ さ さ や
小竹
の葉
はみ山もさやに乱けども吾は妹おもふ別れ
来ぬれば
文學研究第
十八
輯
人腔
︵二
0ニ
ー
n
いまは一般に萬薬人の自然観を問題とするのではないから︑それを秤景には骰く
が ︑
いふまでもなく︑部葉人の生活より由来するのであって︑彼等の家は暴
それを拝んで︑
その
自然軸か人間より原顛
的に超越したものと考へるならば︑
それは距離の相違であり︑人期と自然とは
(2 .‑
︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ‑ ︶
六四
その好意によって
甚しい誤謬であ
部葉歌人の國家思想 それはその限り正しいのであるが︑
さて︑萬葉に於て︑自然
と人
間とが交流し︑
が自然の
側に
平皿
かれ
た
ことに相違ないが︑ しかも︑
六五 (
6・
九二 五 ︶
それが連絞的であったとするとき ︑
らしめたものは何であらうか︒自然
と人
間とが原理的に異つたものと考へられないときには︑
的に捉へた所に
ある
︒
これはいかに解すべきであらうか︒先づ︑強大な自然を捉へたことは︑
それは同時に︑他方に於
て ︑
gきさ4こQ
れ こ こ だ
み吉野
の象
山
の際
の
木末には幾許も駿ぐ鳥の膝かも
A‑.ふ3
さ ぎ お
しばぬばたまの夜の深けぬれば久木生ふる荊き河原に千島数鴫<
か4る強大な自然が人歴のうちに内在
して
ゐ
たことを意味するであらう︒それでなければ︑人腔のやうに
天地の大観を捉へ
てこ
れを縦横に駆使する
こと
はでき
ない︒同じく天地の大観を捉へても︑赤人が平面的であり︑人謄が流勁的であるのは︑人底に内在する自然の強大に
︑
︵六︶
よる
ので
ある
︒
これが︑そも/\人腔的腔調の由来する所であり
︑こ
の貼に於
て ︑
彼が萬葉歌人群を駆する貫録があ 赤人 赤人
. o
︵ 二ニ ︱
︱ ‑
︶
(6
・九 二 四 ︶
一方に
於て
︑ ﹁
ちか
ら ﹂
吾々はこれらの歌を鑑裳するに賞つても︑右の事箭を考應しなければならぬ︒﹁み山もさやに吼けど
も﹂
は
︑有心の自
然が人間に話しかけてゐるの
であ
る︒
更に赤人の歌の如きも︑人
々は
これを純梓な自然観照として宜楊するのであり
その自然観照なるものが︑現代の葛生の如きものと全く同一範略に屈
する
と考へ
︵ 五
︶るならば︑吾々は終同することはできない︒けれども︑いまはこの問題に深く立ち入るべき場合ではない︒
その交流を
して
連続的な
その根祗に通するもの
がなければならない︒か4る根本的存在とし
て ︑
萬葉人
の考
へたものは
︑﹁
い
のち﹂乃至﹁ちから
﹂と い
ふべきものであ
らう︒この﹁ちから﹂をいづれに骰くかによつて︑自然と人間との交流の様相が種々に現れるのである︒さうして人麿
の特徴は︑草花謳魚の可憐なる自然を除態的に愛するといふ萬葉集の一傾向とは全く異つ
て ︑
天地山川の大観を動態
を天皇に仰ぐとき可能となるので
ある
︒
これが現帥にほかならない︒若し自然と人刷とが深淵を靡てて不述緞的
とな
にし
ませば天雲の雷の上に虚するかも﹂の地盤に立つ
こと
がで
き
る ︒ 山川草木烏獣の全自然が天皇に朝宗するの
は ︑
素朴な自然が歌人に内在してゐたからである
︒ ︵ これ
を明白に示す
のは
相聞である︒︶
この
山 ﹂
は︑ しな思ひ
萎え
て
︵二
Or
i四 ︶
ると 共に
︑ また萬葉集が古今集以下を抑へる偉大さもあるのである︒人腔を代表とする寓葉歌
人に 於て は︑ 在する強い自然が未だ文化に弱められることなしに︑健康な脈を縛つてゐた︒裏面よりいへば︑萬葉集の健康性は︑
さて
︑人魁に於て特に強大な自然が内在
して
ゐ
たこ とは
︑
天地山川の大観を把握したといふ限り
に於 て
封象に樅か
際けこの山
(2
・ニ
ニ︱
)﹂ と
詠
んだ
︒﹁
靡け
れた
﹁ち から
﹂
の重貼を︑直ちに人腔内在
の自
然へ
還元し来る可能性をもつこともまた見易き道理であらう0人腔は妻
に別れて石見國より上京するとき「:…•こ
の道のバ ザ犀餌に叩〗びい や叫 に里は囮りぬ
し
む か
2}山
も 越 え 来 ぬ 偲 ぷ ら む 妹 か 門 見 む
いかにも人腔ら
しい 迫力を示して切宜である0人腔の自然観は︑かやうに自然と共に呼吸するのであり
︵七
︶
否︑人腔の呼吸に合せて自然が律動するのである︒赤人の有名な富士山の歌にも︑こ
の律
動美は求め難い︒かかる律
動は︑人麿が封象の自然を自己内在の自然に非つてくる所に︑しかも︑自然と人間とは連緻態に
あっ
て ︑
連紐態に添
さて
︑人
腔の自然観を
ここ
まで跡づけ
てく
るとき︑吾
々は
こ
の方向を一歩押し進める
こと
によつ
て ︑
﹁ い
のち
﹂乃至﹁ちから﹂の地盤に於
ける
自然と人間との連絞態に立脚して︑し
かも
︑
その
﹁い
のち
﹂乃
至﹁
ちか
ら﹂
の重勘
ったときには︑自然を支配するものは現帥ではあり得ない︑それは絶到帥であり︑目に見又ぬ樅威でなければならぬ ふ
﹁ち から
﹂
の重獣の移動によつて生れるのであ
る ︒
いや高に夏草の 文學研究第十八輯
かへりみすれど 六六
そこに内
かの﹁皇は紳
部葉歌
人の國家思想
反 歌
高知りま
して
朝ごとに
首 いかさまに
み こ と と
'
御言間はさす
六七 (2•一六七) そこ故に dゆそか館弓の岡に
宮柱
み︱)皇子
の宮
人 ゆくへ行方姉らすも 知ろしめしせば
翠つ
水仰ぎて待つに ふとし太敷きまし みあらか御殿を 春花の ぁめ天
の 下 四 方 の
人の おほふねたの大船の恩ひ憑みて きま
して
吾々
は人 塵の自然観の側而より︑
自然
と人 間との連絞態に立脚して現帥の自然支配を説明した︒けれども
︑こ
の説
明は未だ徹底を鋲
くで
あらう︒﹁い
のち
﹂乃
至﹁
ちか
ら
﹂の誼黙が現紳に齢かれるに就ては︑
い︒ここに人腔の念頭に動
いて
ゐたもの
は上
代の紳話である︒吾々もこれを追つ
て人
麿の自然観より脈史観に移らね
周知の如く︑人腔は眼前の二畢牲を詠むに紫つても︑天地間圃の古に
遡つ
て ︑
綿々
たる歴史的叙述を試みるのであ
るが
︑こ
れは吾々に
とつ
て最も重要な問題であるが故
に ︑
その
例と して
︑
﹁日
並 皇子珍の残宮の時﹂の歌は︑是非とも
ぁめ
つら
天地の
てら照す
ふ•Z‘も天雲の はじめ初の時
3るののみことあ〇
日蕊
尊天をば ひさかたの
八菫かき別きて
すめろぎ天皇の 知ろしめすと
かむくだ紳 下し
敷きます國と い4坐せまつりし
ぁd天の原
たふと箕からむと 岩戸を開き
もちづさ望月の
恩ほしめせか
3つさ日月の 葬原の
たた瀾はしけむと
敷2
多ね 1:11.っ
< 絲れ
な も り な ぬ き れ
天地の ぁd
か は ら
天の河原に つ3jいd
か む あ が あ が あ 土
ー ︑
ほよろづ集ひ坐
して
帥 分 ち 分 ち
し
時 に 八百寓す/ ゃ
よ
あ き は み み
こと警霞の 固 を 依 り 合
ひ
の極
知ろし
め す 帥 の 命
と
みこあす
か さ よ ふ
みでか
U .
4とし高照す日
の皇
子 は 飛 応 の 禅 の 宮
に帥ながら太敷
か む あ が お ほ き み み
こみこ
と あ の帥上り上り坐し ぬ わ が 大 王
皇
子の命の天の
下 ここに引用しなければならぬ︒ ばならぬ︒そ
こに
第二の逍行がある︒
ち︑一ろづかみ千部帥の かむつ)}帥梨ひ その理由がなければならな
︵二
0二五︶
研 第 十 八 輯
あ の み こ み か ど め
ひ
さか
たの天見る
ごと
く仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく借しも
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隈らく惜しも
かやうに人腔に於ては
︑ .
現紳の秤後には常に白姦統の述綿が邸識され︑これを遡つて紳代にまで至るのである︒この黙
は︑人腔の長歌を純梓に藝術的に鑑宜するものに︑あまりに形式に流れて感慨の切匹を訣く
とい
ふ非難をも起さしめ
︵八︶
るの
であるが︑
また
紙面よりいへば︑天地開闘以来を一氣に詠みあけて些の破綻を見せない所に︑人腔的控調
の冒
し
難き偉大さを偲ぶべきであらう0ともあれ︑吾
.々
にと
つて
正要なことは︑
至る人歴の脈史的意識である︒この無窮へのつらなりに於て︑
に﹁ い
のち
﹂の根源を仰ぎ得るのである︒現帥が自然帥を支配したまふとき︑その限りの事態は︑人腔的自然観による
自然
と人
間との述絞に立脚し︑この連絞に添つて﹁い
のち
﹂の力黙を現紳に仰ぐことによつて説明されるが︑更にこの
ことの可能根腺は︑人腔的屁史観に於
て ︑
現帥を遡る天地創造の紳が﹁いのち﹂の根源である
こと
によつて證示される
のである︒
さう
して
︑こ ヽ
に吾々の注意すべきことは︑人腔の信念に於て︑この紳代への遡及が官に皇統連綿の事宜にほかな
らなかったことである0人腔の長歌には明かに無窮への思慕がある︒あの力弛い流動は無窮を恩ふ心の糾律である︒
さうして︑それは宜に﹁無窮﹂を思ふのであって︑時間の次元を原耶的に超越し
た﹁
永遠
の今﹂を恩ふのではなかった︒
人歴の感激は︑時間の去来を消して永遠
の今
に獨れた感激ではなく︑時間の去来に
添つ
て無窮を慕ふ感激で
ある
︒
こ
わ か か じ
分れし
時 ゆ 帥 さ ぴ
てれは人腔のみで
はな
い ︑
赤人が不盛山を望める歌に︑﹁天地の
文
學
究
駿河なる
ふ じ
布士
の 現紳にまします天皇の皇統を遡つて紳代に
現帥は天地創造の帥に淵源したまふ故に︑人歴
はそ
こ
(2
︒一
六九
︶
(2•一六八)
ブ<
i
、
高く質き ︵二0
二六
︶
(九
︶ 高嶺を・・…•(3•三一七)」と詠んだのも同じ感慨である。この「帥さぶ」は師に「舒古」の意をも含むのであるが、秀脱な
る富狐が無窮
の時
間を買
いて
︑
そこに永劫の過去を閲
して
きたが故に︑帥さぴて感じられたのである︒それは古いの
であつて︑時間を超えたのではない︒
ただ
︑
赤人は眼前に窟狐を仰ぎ見てゐるのみであるが故
に ︑
その歌は
批大であ つても雄邪ではない°説野は炭くても内に葡つて脈ぅつものがない0人腔の整訓は無窮を慕ふ心
の開
動であり︑無窮
は︑形あるものの永緞で
あっ
て︑形なきものの永述ではない︒人腔の無窮は卸ち皇統連綿の事代であったのである︒
皇統によつて現代は帥代に述緞する︒この連緞に
添ふ
とこ
ろに人腔の整調が生れるのである︒連絞を絶つて絶酎帥に
や そ う ぢ 箆 ぁ じ ろ ぎ ゆ
くへ
到したとき︑人の心は人
腔的躙動を示さない0人腔的躍動は
︑﹁
もののふの八十氏作の網代木にいさよふ波の行方知
( + ︶
らすも
(3
.二
六四
︶﹂
の如く︑形あるものの流れる韻徘である︒
以上によつ
て ︑
吾々
は︑人腔の歴史観は髭統連綿の常識
であ
り︑
永遠ではないことを知
った
0人府の長歌は︑内容的にも形式的にも
︑こ
れを立證
して
ゐるのである︒乃ち人朕
は ︑
代の紳々も︑ それは時間に抑する無窮であっ
て ︑
時間を消した
したま
ふの
である︒連絞を絶ちきつて絶四紳に超越するとき︑現帥の信念は成立しな
い ︒
︵ 二
0
二七
︶
そ
の自然観に於ても歴史観に於ても︑何癖までも﹁述緻観﹂を堅持
して
ゐるのである0人
照が連絞
的に遡つて到達する紳
その遡及が述紐的
の故 に︑血緑の大宗としての祗先帥であった︒さればこの連綬を降下して現紳は現成
とはできない︒古甜記に於ても︑
﹁ 天
の帥
﹂ と ﹁
國つ帥
﹂ と
の欄係をいかに見
るか
によつて︑述紹観が究党まで維
持されるか否かが岐れるのであるが︑吾々はその闘係も迎緻的であると解する︒何となれば古事記によつて示
部
梨 歌
人の固家息想 人間の祉界から連続的に帥代に遡るとき︑
六九 天地創造はいかに説明されるか︒その問題
には
︑
いまは立ち入るI
反 歌
し が か
らさsさささざなみの志
賀の辛碕辛
くあれど大宮人の船待ちかねつ
し
が 七 ほ ゎ
1‑さざなみの志袈の大曲淀む
とも
血 日 の
人に亦も途はめやも
の される
﹁む
すぴ
﹂の
思想
は︑
ぴせす﹂といふ形容は︑
咬宮の時︑人府が上った歌で
あっ
た︒
卯ち現帥は然宮
とい
ふ悲
しむべき菓宜を避けたまふことはできなかったのであ
る0人腔の胚史的意識は︑府は︑
荒都を過る時﹂の歌は︑
た土だすさ•9ねび玉欅畝火の山の
知ろしめししを 第
十 八 輯
その文字通りの内宜をもつのである︒吾々はいままで表面よりこの問題を考察したのである
如是の心術
を侮
へ
て餘りあるもので
ある
︒
かしはら檻原の
七・﹂天にみつ
いはばし石走る恕
には
あれど
大 宮 は 此 庭 と 問
けども
大 宮 誕 見 れ ば 悲
しも たとへばキリスト数の
﹁無
よ
りの創造﹂とは︑原理的に異るか
らで
ある
︒
一肝
そ
の消息を明かにし得るであらう︒右に引用した長歌も︑
かかる事宜に直面して湖然として生じ来ったものにほかならない︒有名な
﹁ 近
江の
3じり日卸の御代ゆ 倭を附き
て
あ ふ み
淡悔
の國の
大殿は さざな
みの
距虞'c号︳Eへども
(1
・ニ 九︶
ぁこtましし
A1
へd
あをによし 帥のことごと
奈良山を越え
大津の宮に ぁめ天の下
(l•三
0)
(1• 三一)
か
やう
に︑人
麿の現帥の信念
にとつて矛盾するが如き事牲に直面して︑ 春草の
その歴史的意識は必然的に喚起されるので 茂く生ひたる おもほしめせか
郷 ろ し め し け む 天
皇の
も春日の霧れる霰
立つ
いかさまに
み︱
)と
帥の翁の
もムしさ
百磯城 天離る あ拿ざか 樫の木のいやつぎつぎ つが
に 天
の下 が︑進んで裟商よりの考察に移るとき︑
日並
皇子尊の 吾
々は
人 腔の照史観
によ
っ
て ︑
現帥の成立根腺を見た︒現帥は帥代の紳々と連絞したまふが故
に︑
﹁帥
ながら紳さ 文學研究七〇
︵二
0二八︶
碑 葉歌
人の國家思想
あ ふ み た
淡誨の海夕浪千烏汝が嗚けば心もしぬにいにしへ恩ほゆ
︑島門を見れば帥代し念ほゆ おほSみと
ほ み か ど あ が
よ大王の遠の朝廷と在り通ふ
(3
・ニ
六六
︶
‑[:;
(二
•
O二九) ある︒右の長歌の﹁春草の茂く生ひたる﹂以
下
の如きは︑恰も杜甫の﹁玉蔀宮﹂を思はせるやうな絶妙な窃打の手法であ
り︑附者倶に抑目の叙呆の底に俵古の箭を織りこんでゐるが︑杜甫は詠膜に終り︑人腔は無窮を偲んでゐる0人懸の
應史的誼識は︑現紳の信念に矛盾するが如き事究を止楊せむとするときに起つたのである︒さうしてこの止楊は︑
帥の秤後に無窮の皇統があることによつて可能であった︒それと共に︑この無窮は︑
現
現紳の崩御を含み︑
啓都の褻微 生死する存在者と存在原理を異
にすることによつて存在者を碁礎づける無
︵絶尉有または絶封
無 ︶
の永遠ではなく︑存在者と存在原迎を同じくしなから︑存在者がそこより生れそこに死すると
いふ意味に於て存在者を支持する有の無窮であった︒言ひ得べくんばェラン・ヴイタールで
あっ
た︒かかる﹁有の連紹
観﹂こそ吾々が人
歴の本牲
とするものであり︑また日本思想の特色とするもの
であ
る︒
人腔は悛古
の詩
人であっても︑5平なる詠嘆に終らないのは︑人腔の淡古が右の
如き連絞観
の感
箭的表現であったか
らである︒
(3
•三0四)この後の歌の如きは︑箪に悛古の箭に止るのではなく︑そこに長敬翁崇の念が節つ
て ︑
最もよく人
麿の本領を猿
抑
して
ゐる
︒
部目の景観に於て︑これほど深い感動を表現し得るものは︑萬葉集に於ても他に求めることはできない︒
しかも︑こ
の感
励が決して憫瞼の皮相に止るものでなく︑またこの表現が箪なる詩人的誇張でないことは︑この一首
がいかに必然的な楷成をもつて
ゐる
かを
見れ
ば︑
容易に迎解されるであらう︒
﹁大
王
の遠の朝廷と在り通ふ﹂といふ上 に製づけられる無窮であった︒それは︑
句を設み下してくる
とき
︑
( ︱
10
11︱0
)
島下句の﹁門を見れば紳代念ほゆ﹂し
( + ‑ ︶
は全
く必然的に喚ぴ起こ
され
てく
る ︒
﹁帥
代﹂
の字がこ
の必然的聯闘に支へら
れて
些
の浮
動も示さない︒各句均齊を保つて奴果相如き︑
感動のいかに深いかを語るのである︒さう
して
︑
島
門に
於て直ちに帥代を偲ぶ
こと
ができる
のも
︑赤人の官士山の歌
と同 じく
︑
そ
れが
過去の帥代を含んでゐるからである︒帥代の泄界が吾々の目に獨れる自然と原迎的に
異つ
てゐ
るな
らば︑水門の一
景観
に於て
直ち
に神代を念ふ
こと
はな
いで
あ
らう0人腔的感動は︑帥代と現代︑紳と人間︑帥と自然
人間と自然︑すべてそれらの述絞に赤つてのみ生するのである︒國家創造の紳と國家統治の天皇とが皇統に於て
連絞
したま
ふ故
に︑人歴の皇室に酎する純忠の態度があるcさきに述べ
た ﹁
帥さ
ぶ﹂
は
この純忠の表現である︒さう
して
萬
葉時代に
至っ
て﹁ 帥さ
ぶ﹂の形容詞の生じて
ゐる
こと
は︑ ﹁
天皇郎
帥 ﹂
の帥話時代と陥たり︑限定乃至啓喩の法
によ る︑
天皇の紳性の表
現で
ある
としても︑
•
そこに時代の隔りがある故に、「天學卯紳」の帥話時代と異つて却つて翁崇の念を強めたのであり、「紳さぶ」の形容詞を呼ぴ起
して
きたので
ある
︒
醜つて考ふれば︑この淡我的態度
と ︑
吾々が﹁有の
連紐
観﹂
と呼ぶものとは︑全く同
一恩
想の雨面である︒自我の自
覺は
︑
自我が︑それを支へる基儒を絶ちきっ
て ︑
絶到獨立的となり︑厳密な意味
にて
の個人が生誕するのである︒かAる個人は基個との連緻を絶つ故
に ︑
基骸は箪な
る自然となり︑人間自身に於ても︑
のである0人間
と自 然︑
精紳
と肉個︑ 文學研
究
それは人麿に闘する限り
︑こ
の純忠の態度より改
めて
解繹
され
ねばな
らぬ
︒抑ち
そ
れよ
り獨立する所に成立する︒基個との連緻を絶つ
故に
︑
自我は
それに内在する自然が分離せさるを得ない︒そ
こに
精帥と肉憫との破綻が生する
かかる不述釈に直面して︑この雨者を不述絞のままに可能にするものを求
める
第十八輯
一悛の間然する所なき
は ︑
底に簡る
‑I:;
萬 葉 歌 人 の 國 家 思 想
嘉 ぴ る か に 就 て は
︑種々の様相があらう︒しかし︑根本に於て︑自我の自畳と絶釘帥の定立とは ︑同一恩想の雨面
紐談
﹂に於て超越的絶封帥を求める態度は ︑
らである︒それが人腔の浚我的全閤主義である︒故に︑自己なくして如何にして全閤があり得るか︑
合に於ては最初より提出されない°吾々はここに人歴の全憫主裟的純粋性に深く留意すると共
に ︑
聰て憶良︑旅人
を経て家持に至るとき︑かかる問題
の提
出と解決とを見るであらう︒
さて
︑以上し於て吾
々は
人
歴の思想的背梨を略々明かにした︒﹁有の連緻観﹂によれば ︑現帥の信念は絶到である︒
それ以外に絶引者があるので
はな
い︒
ここに於て﹁有の述緞観﹂の必然的帥結は︑
味に於
て ︑
現質主義的でなければならない︒しかも現宜を支配したまふ現帥を拝
し ︑
現質との述緻に於て
無 窮 を 思
慕するが故
に ︑
人腔の現宜主義は︑同時に︑理想主義であったのである︒﹁紳さぶ﹂は
︑こ
の理想主義の表現である︒
けれども︑それは
地上
の椛威と原辿を異
にし
た天
上の椛威をたてたのではなく︑前者を連絞的に遡つて
後者
に到逹し
たのである︒かかる思想が國家の問題にいかに寄典するかは︑吾々の最早や多言を要しない所であらう︒
かかる入應の地盤に於て︑ もない︒人謄が﹁有の述絞談﹂に終始する
のは
︑
七
ヘプ
ライ
人が帥の前に脆くに至って生じたのである︒﹁無の不述
その
様相の如何を問は主根本に於て個
人主蕊的であることは疑ふべく
一方に於て絶到紳の恩想がなく︑他方に於て自我の自畳がなかったか
その現宜主義的側面を意識的に主張してくる所に︑山上憶良の立場がある︒さう
して
︑
であ
る︒
こ
の故
に︑
希戦になかつた自我の自党は︑
といふ問題は︑
それが不連紐的超越者を求めない意
︵ 二
01
︱ ︱
ー
︶
とき ︑それが超越的絶釘紳にほかならない°勿論︑自我の自畳がいかなる形式に於てなされ ︑絶到祉かいかなる性格祠 さ
ぶ
﹂が︑限定乃至比喩の法による︑現帥
の紳 性 の表現であ
るといふ見
解
は
︑ 武 田 祐 吉 氏 に 明 か で あ る
︒
武 田 眺 吉 四
︑ 寓 葉 の 自 然 戦 に 就
ては︑小
宮翌捺氏の低れた研究がある︒
小
宮 翌 降 五
︑ た と
︵ ば
︑ ア ラ ラ ギ 派の窃生論の
如 き も
︑ こ の 根 本 問
題
に 就 て 考 へ 及 ば な い の で は あ る ま い か
︒ 自 然 隈 照 と い ふ も
︑ そ の 根 本 の 態 度 に 於
て︑加築人と現
代人と
の間に差があるのである︒
それは裳
然で
ある
︒ 故 に こ の 紫 然 の 差 を 無 親 し て
︑ 今 日 の 窮 生 の 掘 貼 か ら 部 葉 の 歌 を 云 々 す る の は
︑館相を仙歪する
崖のである︒ 折口
信夫
﹁旅葉人と自然﹂
︵流
葉 集 齢 座 第
五巻︶ ﹁紳と紳を
祭る者
との文學﹂ ︵日本文
學 購 座 第
三巻︶
土品文
明 學
この意識的主張の由来に就ては︑外来息想をいかに虚耶すべきかの問題が含まれてゐたのである0人腔
は ︑ に ︑
その意識的主張の必要を認めす︑ 主義主張の側面に闘する限りに於ては︑なほ消極的であった︒彼の純日本息想は未だ釘立者をもつてゐなかったが故
︵十
二︶いはば感動的表現に終始したのである︒しかし︑外来思想の洗鯰を受けた憶良
に於ては︑最早や人既的感励をもち得ないと共に︑また
それ
のみに止ることもできなかった︒寓葉集は憶良といふ特
一︑人府の
死を和
銅二年とするのは︑部
葉考
別
記の頭飩による
︒
二︑か4る窃
箕 的 手
法
を以て︑人
府
が前人以外に開拓
し
た も の と す る 見 解 は
︑ 土 屋 文 明 氏 が 特 に 強 調 さ れ る
所である︒
﹁柿本人
窟﹂
﹁菰
葉 菓
研
究﹂
︵流
葉
簗 即 座 第
一巻︶
三︑﹁神ながら﹂には︑既に紳との陥りが
意識 さ れ て ゐ る と い ふ 見 方 は
︑ 折 口 信 夫 氏 も と っ て 居 ら れ る
︒
ニ 四 一 頁 ー ニ 四 八 頁
︵註︶
異な性格
と憫瞼とを藉つて︑この問題を解決さすのであ
る ︒
文
研 究
第十八輯
七四
︵ 二
0
三二
︶
その現質