史苑(第七一巻第一号) はじめに
戦後六五年を経過した現在、戦後改革について改めて様々な角度から分析が行われている。戦争直後、教育の場においては軍国主義の否定が教科書の墨塗り作業から始められ、一九三五(昭和一〇)年前後に生を為した人々の心に未だに大きな傷を残している。しかし、心の痛みは墨塗りを指示した教師達にもあった。子供達を軍国少年に育て戦場へ送ったことへの後悔は、その後長く教師達の平和運動の原点となった。 ここで、もう一つ忘れてはならないことがある。当時の 中堅以上の教員の中には、それ以前にも一度思想的転換を強いられた者がいたはずである。明治時代後半に生まれ、大正デモクラシー期に教育を受けあるいは若手教師として経験を積んだ人々は、敗戦後ほど急激ではなかったが、デモクラシーから軍国主義へと転換を強いられていった。 大正デモクラシー運動によって実現した政党政治は僅か八年にして崩壊し、次のファシズムの時代へと移っていく。大正デモクラシー期の自由教育の運動が盛んであった時期は短く、教員の思想傾向として多数派にはなり得なかったと言われている ︵1︶。それでもこの運動は全国各地に広がって行った。栄沢幸二氏は「一九一八年前後から、自学、自
時流への抵抗と限界 ― ある高等小学校長の昭和 ― 黒 田 康 弘
キーワード 中澤 留 大正デモクラシー ファシズム 抵抗
時流への抵抗と限界(黒田)
治、自由、個性の尊重、人格の完成を説く大正自由教育思想、さらにはこれを包含する大正デモクラシーの風潮の全国的な広まりと高まりの徴候が現われ始め ︵2︶」第一次世界大戦後の千葉県教育界を風靡した千葉県師範学校附属小学校の自由教育は、栃木県・秋田県・新潟県・埼玉県・福井県・山口県・愛媛県など全国各地の小学校で試みられるようになったとしている ︵3︶。 その後、自由教育運動が批判にさらされ軍国主義時代の少国民育成が推進されていく。東北を舞台に「昭和七、八年から昭和一三、四年までのころ〔中略〕生活の現実を綴方に表現させ、それを共同で研究させることによって、生活の勉強をさせようとした」「綴り方教師」たちは一九三六(昭和一一)年になると組織としては解体され、研究雑誌『北方教育』も廃刊となり、あとを引き継いだ『生活学校』も一九三八年八月号で終巻に追い込まれた ︵4︶。養蚕製糸を主産業とする長野県では、経済恐慌による困窮が甚だしく、児童の欠席・欠食や高等科の中途退学が増加し ︵5︶、一九三〇(昭和五)年の教員給強制寄付反対闘争を契機に青年教師の組織化が進んだが、一九三三(昭和八)年の「二・四事件」(長野県教員赤化事件)によって壊滅させられた ︵6︶。 大正デモクラシー下で自由教育を推進していた教員達は その後このような状況にあってどのように考え行動したのだろうか。以下で取り上げる中澤留 とむるは、一九三〇年前後の「自由教育の危機の時代 ︵7︶」以後も時流への批判的発言を続けている。校長として、また教員会・校長会の役員としても活躍し続けた中澤の、厳しい時代状況の中での教育人としての生き方と限界について考えることにより、民主主義の破壊者に対する社会の抵抗力について考察する。
一、高等小学校長中澤留
中澤留は一八八二(明治一五)年に長野県小県郡東塩田村(現上田市)に生まれ、高等科卒業後地元の小学校で準教員を二年勤めた後、一九〇一(明治三四)年に東京府師範学校(後の青山師範学校、現在の東京学芸大学)本科へ入学し、卒業後一九〇五(明治三八)年に青梅小学校へ赴任した。 一九〇八(明治四一)年三月、二六歳の若さで西多摩郡五日市町の五日市尋常高等小学校へ校長として赴任した中澤は、創造力と実行力を発揮して次々と新しい企画を実現した。実習教育に力を入れて養鶏の実習を児童に行わせ、貯金を奨励し、同窓会を組織して夜学や見学旅行を行っている。児童の作成した図案をそのまま校章として採用し、
史苑(第七一巻第一号) 他校に先駆けて男子にベースボール、女子にテニスを導入したのも中澤の校長時代である ︵8︶。その後、東京市立富士前小学校主席訓導として一〇年間勤めている。 公務外では、一九一六(大正五)年から一九二五(大正一四)年まで東京府師範学校同窓会の機関誌『初等教育』の編集長をしていたが、市の教員人事について毎号手厳しい批判を加え続けたことで、かえって教育課長から見込まれて、一九二一(大正一〇)年に市教育局の学務課に勤めることになった ︵9︶。その翌年、三九歳で千束小学校長になっている。 中澤の教員生活にとって大きな転機となったのは、一九二三(大正一二)年の関東大震災であろう。大地震とそれに伴う大火災によって発生した避難民のバラックで日比谷公園は一杯になり、その避難民の子供達の教育を日比谷小学校が引き受けることになった。この難事業を中澤が担当することになり、前年に赴任したばかりの千束小学校から、一年余で再び転任となった。当時、日比谷小学校は六学級の小さな小学校であったが、多数の子供達を受け入れるため三部授業を実施せざるを得ないことになり、この統制をとるために中澤の手腕が求められたものと思われる。 中澤は、校長として学校運営を円滑に進めるだけでなく、避難民のためにも心を配っていた。 学校の外に、避難民のために何等かの慰安を求めてやる必要のあることを見られた氏は、当時出来たばかりの新音楽堂を借りて、慰安の演奏会を催ほし、これが大いに人々に喜ばれたのであつた。それから、この慰安会といふことが盛んに行はれるやうになつた
︶₁₀
︵。
二、『可愛い芸術』の発行
震災後の混乱が落ち着くと、今度は新たな事業を始めた。一九二七(昭和二)年から文字通り身銭を切って始めた雑誌『可愛い芸術』の刊行である。校長職のかたわら「児童芸術協会」を立ち上げ、小学校から女学校までの教員を対象に、童謡・童話・音楽・児童劇・遊戯・舞踏・体育ダンス等の理論と実践の普及を目指して
︶₁₁
︵、月刊雑誌『可愛い芸術』を発行し、二年七ヵ月に亘って編集責任者を務めた。 第一輯の「編輯後記」に「児童芸術を中心とした、研究資料を豊富に提供し之に依つて刻々進みつゝある、芸術教育の筋道を明かにし、之が示 ママ針とも参考ともなつて、新興教育の第一戦 ママに位置せしめたいといふ希望の下に本誌を編纂致しました」とあるように、大変意欲的な編集がおこなわれ、次のように当時の一流の芸術家達が多数原稿を寄せている。
時流への抵抗と限界(黒田)
(児童文学)巖谷小波 (作詞)西條八十、北原白秋、三木露風、野口雨情(作曲)弘田龍太郎、中山晋平、本居長世、梁田貞、 山田耕筰 (舞踏)石井漠 (幼児教育)小林宗作 A四版よりやや大きめの版で、約三〇頁、毎号数曲の楽譜が綴じ込まれ、童謡の振付や体育ダンスには図解と解説が付けられていた。複写機のない時代であり、楽譜がそのまま使えるように、雑誌としてはかなり上質の紙に印刷されていた。定価は一部四〇銭。 本文を読んでいくと、たとえ時代風潮と対立しても子供達を円満な人格に育てようという中澤の強い信念が感じられる。魂を生かせ 現代の国民に欠けているのは質実剛健である。徒らなる文芸は、国民の思想を傷ける。〔中略〕柔弱にする。〔中略〕 此の説は現代の欠陥とし、病患とする処の一面を衝いている。然かし全部ではない。 新らしいヒントを得る。暗示を受ける。印象づけられる。吾等の心の内容は斯うして充実されていく、理屈をぬきにした内部への自らなる浸透作用の方が、理 屈より遙かに強い。撃剣や、柔道や、〔中略〕何や彼や身体を鍛へ、心を練るに充分ではある。併し単に之れのみで、本当の人生が建設されると思つたら間違だ。情操の陶冶を、内容的に充実して居らなかつたら、人間同士の交際が甘く行かない。団体生活が円満に発達しない。社会の病患はこゝに根ざす。 号令者があれば団体は動く、号令者がなくなれば意気阻喪する。先づ人間として立派に出来上がつた後の質実剛健でなければ、当てにはならない。真の偉さ、真の強さ、之を形にのみ求めな ママら失敗である。こんな有様では幾人あつても役には立たない
︶₁₂
︵。 国民の間に芽生えた利己的・自立的傾向及び反権威的傾向を、一律に「浮華軽佻」と捉えて批判するために用いられた「質実剛健」について、その本質を問いかけている。同じ号の編輯後記には次の一文がある。 文相閣下が童謡を非難されたと云ふ様なことを新聞が報道すると、すぐにも童謡を継子扱ひにしたり。学生取締りの禁令が出ると、児童の無邪気な表現さえも差控へると云つた様な調子がある。信念のないものが、人のまねだけしていると、いつも斯うした悲哀に襲はれる
︶₁₃
︵。 ここに見られるのは児童芸術についての安易な非難とそ
史苑(第七一巻第一号) れへの追従に対する批判だけではない。時の文部大臣岡田良平が一九二四(大正一三)年八月の地方長官会議で述べた「学校ニ於テ脂粉ヲ施シ仮装ヲ為シテ劇的動作ヲ演セシメ公衆ノ観覧ニ供スルカ如キハ、質実剛健ノ民風ヲ作興スルノ途ニアラサル論ヲ待タス。当局者ノ深ク思ヲ致サンコトヲ望ム所ナリ
︶₁₄
︵」との発言を正面から批判したものである。外見だけの質実剛健にありがちな強がりではなく、内面からの芯の強さを求め、バランスのとれた人格の育成を提唱していた。 このように意欲的な雑誌であったので、中澤の発刊意図への理解者は多数存在し、顧問・賛助員の中には文部省の役人、府県の教育担当官、師範学校長なども名を連ね、読者は千数百人に達していた。 しかし、読者開拓のため見本を送り、気に入ったら購読料を送って貰うという方法を取ったため、代金を回収できないままになったケースが多く、それが後々まで経営を圧迫した。激務のかたわら夜なべして編集作業を行い、期末の賞与は印刷所への借金返済に充てるという状態で、執筆者は無報酬で協力してくれたけれども、大変な負担だったようである。 中澤は一九二八(昭和三)年二月二〇日に実施された初の普通選挙による総選挙に、強い関心と期待を持ってい た。同年一月二一日の帝都教育会
︶₁₅
︵評議員会において、中澤は「今回の総選挙に際し、教育に理解ある代議士を多く議政壇上に送りたし。其の方法如何と提議」を行った。これが「衆議院議員候補者推薦の件」として、二月六日の評議員会で幹事会に委任され、九日の幹事会で審議された結果「推薦すべき候補者」八名が決定され、『帝都教育』に推薦状を印刷挿入して会員一同に配布された
︶₁₆
︵。この動きは東京に限ったことではなく、昭和初頭には山形県・千葉県・宮崎県など各地の教育会が「教育に理解ある議員」の選出を目指す運動を開始していた
︶₁₇
︵。 この他にも中澤は、自らの主宰する『可愛い芸術』誌上で、選挙の結果について編輯後記に大胆な記述を行っている。 普通選挙は施かれ、国民全般に政治的能力を認め、参政権を附与し〔中略〕階級の別なく皆平等一様に選挙権行使の機会を握つた。〔中略〕無産党を代表して八名は少なきに失するも、而も国民の自覚が次第に高まつて行かば今回よりは次回、次回よりは其次と云つた様に、其勢を倍加して行くことは火を見るよりも明かである。〔中略〕 帝国臣民の最大多数者は皆無産者である。地方地盤の悉くは農民党であるべき筈である。斯うした覚醒が、春の草木の芽ぐむ様に、純朴素淳なる地方人士の
時流への抵抗と限界(黒田)
脳裡を支配した時こそ、真に普選によつて、国家民人の福祉が増大せられる時が来たのである。 今回は名義は普選であつたが、其実は矢張り資本家の進出に終つた。いつかは名実共に普選となるの時が来やう
︶₁₈
︵。 第一回の普通選挙による総選挙は田中内閣のもとで行われたが、その実態はすさまじいものであった。政府は、選挙にさきだって、地方長官の大異動を実施して政友系でかため、露骨きわまる選挙干渉をおこない、与党の候補者には、買収などの悪質な選挙違反をみのがしたばかりか、秘密文書で脱法行為を指導する反面、野党には不当な圧迫をくわえて、その活動を封じた。とりわけ労農党にたいしては言語に絶する取締りをおこない、大山郁夫が立候補した香川第二区では、労農党が大衆運動をくわだてたとの理由で県下の支部役員すべてを検束し、応援弁士には県外退去を命ずるという暴挙を行った
︶₁₉
︵
このような状況下で行われた選挙について、文部省や内務省の局長級の人物が顧問となっているにもかかわらず、ここまではっきり書くというところに中澤の大きさを感じさせられる。 『可愛い芸術』は児童芸術についての雑誌だが、この他にも芸術以外について中澤らしい意見を載せている。 手ぬるくはない 生活問題が余りにも、まざまざと眼前に展開している。衣食足つて礼節を知ると大聖は唱破したが、果たして其通りである〔中略〕先づパンを与へよと叫ぶ。叫ぶもの悪しくして、叫ばしむるもの善なるか。或はもつと深く省念をめぐらして、叫ぶものよりも叫ばしむるものが先づ其恥を恥とし、其の不幸を不幸として考へ直ほして見るだけの寛大さを示してはどうか。〔中略〕 拘束もよい。圧迫もよい。処罰もよい。去り乍ら本当の処は、思想は思想を以て、濁れるは澄めるを以て、〔中略〕寒さは暖きを以て、空腹は食を以て、乏しきは足るを以て、するより外に、若し途があるとすれば、求むるなき愛の表象である芸術の高き香りを措いてはない。手ぬるい様に見えても決して手ぬるくはない
︶₂₀
︵。 共産党関係者が一斉に検挙された三・一五事件が二、三ヵ月前に起こったばかりであることを考えると、前半の部分はかなり勇気のいる表現だったのではないだろうか。 また、大半は上流階級の子弟であるはずの上級学校の学生・卒業生から多くの事件関係者を出したことに衝撃を受けた政府が、四月一七日「国体観念の涵養」に関する文部
史苑(第七一巻第一号) 大臣訓令を発し、学生・生徒の思想対策として様々な締め付けを行っていく。一二月一日には田中内閣として「思想善導に関する声明」が発表され、教化動員運動が行われていく
︶₂₁
︵。このような環境での後半部分の記述も又、それなりの批判的表現を含んだ見解の表明と言うことが出来よう。 この雑誌は一九二九(昭和四)年七月に第二三輯を出した後、しばらく休刊となり、一九三〇(昭和五)年一月から編集者・発行者が変更となって再刊された。第二四輯に添付された「謹告」によると第二三輯発行の時点で印刷所への負債は二千何百円に達していた。発送したまま会費回収不能となったものが二万余部、その分の郵送料四〇〇円が大きな負担となっていた。発行中断のきっかけは印刷所が債権処理を弁護士に委託したことにあった。 更生号として八ヵ月発行された後、新編集者も多忙となって辞退したため、再び中澤が編集を行わざるを得なくなった。『面白い理科』の編輯主任有坂勝久の協力を得て第三二輯から三回発行したが、第三四輯(一九三〇年一二月一日発行)は中澤の多忙から殆ど有坂一人で編集することになった。現在、第三四輯迄しか残っていないが、恐らく『面白い理科』を抱える有坂が次号も作成することは不可能だったのではないかと思われる
︶₂₂
︵。 三、『帝都教育』の編集
中澤は一九二八(昭和三)年一一月から一九二九(昭和四)年八月にかけて雑誌『帝都教育』に「時相」の題名で評論を六回書いている。その内、一九二九年八月号の「あは」〔泡〕という一文は思想善導について述べている。時相(其六)あは 思想善導の大看板を掲げて田中内閣は終姑 ママしたと云つてよい位、夫れ程思想善導問題については尽力したものである。けれどもこの泡の潜んでいる、圧迫、緊縛其物を除いてやらなければ駄目である。〔中略〕固い栓をしたまゝにおいて、放つたらかしておいて、夫れで思想善導を唱へ、見当違ひの方面にペーパーを貼つたり、レツテルの模様を工夫して見た処でどうにもならぬ。〔中略〕 権力者、資本家、地位ある者は、下積みを下積みとして平気でいる。この平気でいる無同情無理解が、下級者の力を圧縮する。固い栓が施されている間は事なく納まつていても、それは事なくあると云ふだけで、栓がとれさえすればいつでも飛び出す様になつている。〔中略〕下級者は抑へつけてもよいものだと思つている。上級権力者の都合のよい様に出来ている礼
時流への抵抗と限界(黒田)
儀作法許りを念頭においている。〔中略〕鐘太鼓で善導善導と騒いで許 ばかりいたのでは、決して核心に触れない。〔中略〕 本来ならば善導と云ふことが間違つているかも知れぬ。善導されるものがあれば、善導するものがある筈だ。一体誰が誰を善導するのだ。圧縮しておいて、瓶の中に入れておいて、栓をしておいて、善導のしやうがないではないか。 言論の自由の保障されてない社会のもろさを指摘し、思想善導対策の矛盾を明確に批判している。前に引用した「手ぬるくはない」の中で述べられている「思想には思想を以て」の信念がここにも現れている。 栄沢幸二氏の調査によると、「平和主義・国際主義・民主主義を唱道する大正デモクラシーに同調する教員」が一九二一(大正一〇)年前後から各地で出はじめたが、「一九二四年前後の教育界では、排外主義的・自国至上主義的態度や異民族蔑視観に批判的な意見がしだいに多くなりつつあった
︶₂₃
︵。」。 その後数年を経た一九三一(昭和六)年一月二三日、松岡洋右は衆議院において「満蒙は日本の生命線」であるとの演説を行った。六月には中村大尉事件、七月には万宝山事件が発生している。そして、九月一八日の柳条湖事件か ら満州事変へと移っていく。 この年の『帝都教育』八月臨時号において、中澤は愛宕高等小学校長として、来日中の中国教育関係者を自校に招いて行った日華親善教育の実践について報告している。日華教育提携の感激 立派な教育を受けらるゝ諸子は、支那の実情につきもつとよく知つて頂きたい。本当に理解しあつた提携によつて、全東洋の民族を綜合し、東洋文化を建設し、東洋精神を充実させて下さい。民国の少年はキツト皆さんのよいお友達になれると思ふ。 感激は一堂に溢れた。吾々民国人は条件付で圧迫されるのを嫌ふ。斯くなせ!・・・・然らざれば腕力・・・・(握拳を出して見せる)・・・・ 之れ嫌ひです。和衷協同、共存共栄、唇 しんしほしや歯輔車・・・・真に之れ喜びます。日本力あります、支那平和あります。天然の資源宝庫は至る処にあります。提携共同して開発するのに支那はお国に・・・・ お国は支那に・・・・ お友達となる・・・・ 之れ大いに喜びます。 本当に好会合であつた。吾々はもつと支那を理解しなければならぬ。碌な地図一つ持たない様な、碌な掛図一つ見出せない様な現今の有様ではならぬ。教育資料を豊富にする為にもつと努力すべきだ。又教科書に
史苑(第七一巻第一号) ついても民国を理解するに足る材料を多く取り容れなければならぬ。民国の教科書改訂を望む前に先ず所謂お国の教科書を改訂する必要がある。〔中略〕人種的偏見や、悪感情を一掃するに努め、真に同文同種の一体となる覚悟を持たねばならぬ。〔文中の点線は原文通り、以下同じ〕 一九三一(昭和六)年九月二四日、全国連合小学校教員会は、文部大臣に対して「教科書に関する建議」を行っている。その中で「中華民国々情ヲ理解スルニ足ルベキ資料ヲ豊富ニ国定教科書中ニ取リ入レラレンコトヲ望ム」とし、その理由の一つとして、「日本人ハ満蒙ニ在住シ民国人ヲ劣等民族扱ヒニス之亦大ニ誤レルコト」を挙げている。そして、「日本人ガ先ヅ民国ニ対スル感情ヲ平静ナラシメ」る要ありとして、「中華民国ノ材料ヲ豊富ナラシムル用意ヲ以テ国定教科書ノ改訂ヲ断行」することを建議している
︶₂₄
︵。 中澤は同年一〇月一〇日の『教育週報
︶₂₅
︵』紙上でも「日中両国の」教科書の改訂を主張している。 しかし、翌年六月の第一九回全国連合教育会総会では、「民国の排日教育防止の為適当の方法を講ずること」との議案をもとに、「支那の」教科書の排日的記述ばかりが非難されている
︶₂₆
︵。彼の発言もそのような形で教育誌上に掲載 されている。 一九三二(昭和七)年五月一六日、京都で開催された第四回大都市高等小学校長会
︶₂₇
︵に参加した中澤は、前日夕刻に勃発した五・一五事件について「本会として遺憾の意を表する態度を声明すると共に故犬養首相に対して謹で弔意を表すべく弔電を贈りたし」との緊急動議を提出した。 この動議は「満場総起立裡に可決」され、翌日次の声明が発表されると共に、犬養首相宅に弔電が送られた
︶₂₈
︵。声明 今回帝都に勃発したる襲撃事件は其の心事の如何を問はず真に聖代の不祥事として痛恨に堪えず。吾人はかゝる直接行動に出でんとする現代一部の傾向を頗る遺憾とし挙国一致以て之が絶滅を期す。右声明す第四回大都市高等小学校長会弔電 故内閣総理大臣犬養毅閣下不慮の薨去に遭ひ全会一致の決議を以て謹で哀悼の意を表す 五月十七日 大都市高等小学校長会臨時内閣総理大臣高橋是清殿
︶₂₉
︵。 大会宣言は草案があらかじめ作成されたものであり、事件に触れた文言は含まれていない。しかし、当日の提案理由の説明の中には「帝都には近時頻々として忌むべき暴力
時流への抵抗と限界(黒田)
行為の発生を見るは頗る遺憾なり」との言葉が見られる。 五・一五事件の際、軍部の圧迫を受けながら厳しい批判を書き続けた『福岡日々新聞』の菊竹六
︶₃₀ ろつこ︵鼓は、一九三二年五月一九日の社説で次のように高く評価した。 東京大阪等の諸新聞の論調を一見して、何人もただちに観取する所は、其の多くが、何ものかに対し、恐怖し、畏縮して、率直明白に自家の所信を発表し得ざるかの態度である。〔中略〕左顧右眄 べん、言ふべきを言はず、為すべきを為さゞるは、断じて新聞記者の名誉ではない。 京都に於て、恰も開会中の第四回大都市小 ママ学校長会が、今回の不詳事件に対し、声明書を発表し、心事の如何を問はず、聖代の不祥事として、之れを排斥し、斯かる直接行動に出でんとする現代一部の傾向を遺憾とし、協力一致之れが絶滅を期せんことを誓つたのは、甚だ時宜に適せる処置と謂はねばならぬ。 中澤はこの時五〇歳、校長として四校目の勤務であり、既に全国小学校教員会々長も経験したベテラン校長であった。緊急動議を出して大会声明に導いたことで、その後どのような影響があったかは分からない。しかし、その後一回転勤して六二歳まで勤めあげていること、二年後の一九三四(昭和九)年四月から一九三七(昭和一二)年四 月まで『帝都教育』の編輯主幹として、ほぼ毎号巻頭言を書いていることから見て、マイナスの影響があったとは考えにくい。 当時中澤が書いたものを次にいくつか紹介したい。許されざるもの(巻頭言) 非常時の声をきくこと久しい。抑 そもそも々非常時は何時始まつて何時終るのか・・・・誰人も之に対する確乎たる見解を持たぬものゝ如くである。人により時により処により、凡そ自由自在の解釈と、内容とにより塗り上げられる。〔中略〕非常時と聞けば何となくその様な気がする。壇上高らかに非常時と叫べば、主張なり講演なりに相当の箔がつく。述べる事、叫ぶ人によつて各違つた内包が繰り展べられても敢て怪まない。悉 ことごと
く夫れが許容される
︶₃₁
︵。 定義のあいまいな決まり文句を振り回して異論を封じ、緊張感だけを高めていく政治手法、それに便乗する国民の無責任さに批判の眼を向けている。 ワシントン軍縮条約・ロンドン海軍条約が失効して無条約時代に入ることを理由に、国民の危機感を煽っていたいわゆる「一九三五、六年の危機」についても次のように言っている。 三五、三六年の危機と称する実態が、果して国民全
史苑(第七一巻第一号) 体に正視されているであらうか。軍事専門家の間には既に論じ尽くされていることであるが、余りに専門的であつて国民全体の生活には縁遠い感がある。国民斉しく憂慮に堪へぬものありと称するも、実は夫れ以上に何ものをも知らぬ存ぜぬである。少くとも国民思想教導の任にある教育者が果して五、六年の危機の実態を掴むでいるであらうか。〔中略〕 民は頼らしむべし、知らしむべからず。之をモットーとした国政は悉く失敗に帰している。一時は経過するも、必ずや大過の因をなしている。〔中略〕外交に於ても既に国民外交の唱へられる今日、国家最大の危機は国民の総意によつて解決すべきである。軍政当事者、たとへ万夫不当の勇あると雖も、国民の支援なくして何するものぞ。〔中略〕軍政当事者の腕自慢には吾等信頼を惜しむものではない。去り乍ら軍政当事者は何を以て国民に信頼の意を表すべきか
︶₃₂
︵。 一九三四年九月号に掲載されたものである。民主政治の重要性を強く訴え、専制政治の誤りを指摘している。軍といえども国民の協力無くして何が出来るのか。軍は国民に信頼を求めるが、では一体、軍自身は国民への信頼をどう示すのか。大体、国民を信頼しているのか。「よらしむべし、知らしむべからず」と思っているのではないかと問い 詰めている。陸軍が新聞班から『国防の本義と其強化の提唱』と題するパンフレットを刊行し、全国にばらまいたのは一ヵ月後のことである。送歳記 国体明徴の声明は再度迄繰り返へされ、而も尚今日明徴の明徴を欠く、不可思議の事なり。されど静かに惟 おもふ。神国の事、上下悠々三千年、国体の尊厳燦 さんとして光輝を放つ。皇運翼賛、忠君愛国の至情に至りては何等変なし、而も尚之を憂患とせざるべからざるの状を留むるは遺憾なり。暗殺の剣、必殺の銃、何事も猪突の性を現はして止むことなし
︶₃₃
︵。 一九三五(昭和一〇)年一二月に一年を振り返って載せられたものであり、八月の相沢事件と三年前の五・一五事件を踏まえての言であろうが、翌年は更に深刻な事態に直面することになる。 中澤は、自分自ら考えるのではなく時流に便乗して発言することを最も嫌った。「非常時」「一九三五、六年の危機」「国体明徴」これらの言葉を繰り返し口にする時代風潮に厳しい眼を向けていた。 以上のような考え方をし、五・一五事件の時に前述のような勇気ある行動をとった中澤は、四年後の二・二六事件に際してどのような態度をとったのだろうか。これについ
時流への抵抗と限界(黒田)
て京橋高等小学校長時代の職員は、中澤が二・二六事件のことを『教育報国
︶₃₄
︵』に取上げたところ「雑誌は発売禁止で没収になるし(但し大部分は送 ママ発ずみでしたが)先生は憲兵司令部や警視庁に何度も呼ばれたりしたが、最後迄自分の書いたことが悪かつたとは言わなかつた
︶₃₅
︵」と手記に書いている。 『教育報国』第二巻第三号は一九三六(昭和一一)年三月一五日に発行され、四月九日に発行禁止処分を受けている。問題とされたのは「二・二六事変 ママ処分の弁」と題する記事で、その内容は次のようなものであった。 二・二六事件、未だ批判の時に非ずと雖 いえども大義名分を踏み越えて、大義を匡 たださんとしたる異常の手段であった。 政党は私党と化し、之と相結んで財閥は私を擅 ほしいまま
にす。斯 この情勢下に於て根本的建設、両断的改革を決行するの途他に求めて之を得なかつた。斯くして国体を擁護し、名分を匡 ただし、罪を闕 けつか下に待つの挙に出たと見るを至当とする、〔中略〕一時の汚名を懼 おそれ、一時の大義を滅するを哀しむ以上に、悠久永遠の建設の為に、進んで、反乱者名に甘んじたと観るべきである、其の行為は憎むべし、其の心事は多とすべし、国民道徳上之を厳正に批判すれば、不忠不義なり、一点弁 解の余地なし、恐らく反乱将校は之を甘受するであらう。而して国家の礎石を固むる点に於て、将来の史家は、必ずや国士として之を遇し志士として之を録するであらう。 この記事が「二・二六事件ノ反乱軍ニ対シ極メテ賞 しょうじゅつ恤的記述ヲ為」すものとされたのである
︶₃₆
︵。発禁処分をすることの善し悪しは別として、「反乱軍ニ対シ賞恤的」であるとされたことについては否定できない内容である。そして、五・一五事件の時の怒りは全く見られない。政党と財閥に対する非難、反乱者の精神に対する理解・支持は、四年前の同一人物とは思えない程である。 中澤の意見が変化する徴候は二年前に見られた。一九三四年一月一三日発行の『教育週報』において、「教材としての時事問題」というテーマで行われたアンケートに対して、中澤は次のように答えている。 五・一五事件の如きは一朝一夕に批判することの出来ない深さと広さとさうして意義とを持つている。之を簡単に取扱ふことは動 ややもすると新聞に読まれたり、評判に動かされたり、環境に支配されたりして、がつちりした人間性涵養の上に間違ひが生じ易い。今日の是は明日の非となり、昨の正は今の否となるの類を軽々しく云 うんい為するは最も慎むべきではありませんか。
史苑(第七一巻第一号) 五・一五事件の被告に対する民衆の減刑運動は、陸海軍の直接・間接にわたる援助と、内務省警保局の寛容な取締方針、法廷での被告の陳述を伝えるマスコミの扇情的な報道が加わって、事件一年後の記事解禁から急速に発展し
︶₃₇
︵、「はじめはやや冷淡であったが、公判の途中から急速にひろがり、減刑嘆願書は一〇月末(昭和八年)までに六九万七千余通に達し、うち血書が一〇二二通もあった
︶₃₈
︵」という当時の社会状況の影響を、中澤も又、受けざるを得なかったといえよう。
四、全国連合小学校教員会長として
このような事件があったが、同じ一九三六(昭和一一)年四月に中澤は東京市小学校教員会長に選ばれ、五月には全国連合小学校教員会長に就任する
︶₃₉
︵。 中澤は、『帝都教育』一九三六年一二月号の巻頭に、この年の締めくくりの言葉として次のように書いている。端歳小詞 異論異説あつてこそ政治は動くのである。如何に切り抜けるか・・・・如何に善処するか・・・・夫れが政治である。異論なき政治は初めから政治ではない。斯くして吾等は異論を迎へ、異論の中に育ち、あらゆる矛盾 を克服して、淡々たる大道を拓くに至らんがため、人生に培ひ、雑草あらば之を艾 ママ除〔芟 さんじよ除〕し、障魔あれば之を伏滅せしむる
︶₄₀
︵。 「問答無用」と発射された銃弾によって時の首相が暗殺されてから四年、民衆の安易な同情論の下で再び発生した暴動と民主主義否定の風潮を批判して書かれたものである。 『教育報国』第三号に書いた二・二六事件に対する論評とは明らかに矛盾している。 戦争が長引き、物資が不足してくると、学生・生徒の生活にも様々な影響が出てくる。『教育週報』一九三八(昭和一三)年七月二日号に次のような記事が載っている。学生用具に異変 下駄履き時代復活 跣 はだし足も飛出す、無帽はいかゞ 事変も第三期に入り、非常時下の国民にも愈 いよいよ々深刻なる覚悟が必要になつて来た。貯蓄報国、国家総動員法適用、資源の愛護、不用品の活用、等々。そこに突如表れた妙案は皮革の節約から靴の使用節約が叫ばれ、茲に学生生徒に下駄穿きが奨励せられるに至り、中にはいつそのことに跣足に堪へさせようといふ新案まで飛出して来た。 このような説明の後にいくつかの学校に問い合わせた結果を載せている。
時流への抵抗と限界(黒田)
東京府第九中学 靴は大事に穿け、雨降りにはゴム靴を、家庭では成 ママ
るへく下駄を穿けと勧めている。木造校舎で〔中略〕粗末な板ではトゲがあつて跣足では危険である。 東京府第一高女 ズツクのものと代用してもいゝと思ふ。〔中略〕女子には下駄よりも草履を用ひさせた方がいゝと思ふ。跣足ではガラスの破片などで負傷する虞もある。 東京府第一商業 教練の場合だけは靴でなければいけないのではないか。〔中略〕草履ばきでも出来ないこともあるまいが、この問題に就ては軍部の方の意見を聞く必要があらう。 各校の生真面目な回答を見ていると、教員達がいかに戦々恐々としていたかが良く分かる。こうした中にあって、「仰々しく騒ぎ立てるな」という中澤の回答は際立っている。 そんなことにまで国家が困窮しているのかと云ふことを前線の将士が知つたら皇軍の士気にも関することであらう。国民はもつと冷静にならねばならぬ、殊に教育者は、今穿 はいている靴をやめて新しい下駄を買はねばならぬことはない。穴があいても新しく買は ないで修理する程度でいゝではないか。 一九三九(昭和一四)年九月には次のような文も発表している。時局透視 小学校における勤労奉仕 勤労奉仕をしなければ異端者の如くに見られることのつらさに、中等学校に真似て、小さい学童に迄も、勤労作業をさせる。之にも程度がある。勿論時局の線に沿うて、全教育の機構が、勤労的行 ママ的教育に向つて、力強く流れることは、異議のない処であるが、程度を越えた、浅薄な模倣性の衝動に引きづられることは警戒を要する。其の性格と、程度の検討、児童過労の事実の有無、教授内容の低下等、慎重に考慮を要する。教育教授の中核は、教育内容の、より適正なる充実にある。精神力の向上も、体位の向上も、共に恒常的本質的に取扱つて、尖端的、刹那的に堕せざる用意の周到さを失はない様にあらしめたく思ふ
︶₄₁
︵。 このように述べている中澤も、一九三八年に創設された満蒙青少年義勇軍については、「必要性を力説し、それの具体化に努力していた」と当時の職員が『中澤留先生追憶録』に書いている
︶₄₂
︵。満蒙青少年義勇軍の募集は府県毎に割当があり、初年度の一九三八年度は、千葉県では四〇〇名の割当に対し一九九名の送出で四九・八%、神奈川県は
史苑(第七一巻第一号) 二〇〇名の割当に対し八七名で四三・五%など、関東地方の六県がいずれも割当数を割り込んでいたのに対し、東京府だけが割当二〇〇名に対し二四八名を送出し一二四%に達していた
︶₄₃
︵。中澤も全国連合小学校教員会長として、これに大いに関わっていたといえよう。 『帝都教育』一九四〇年五月号掲載の「内原よりかへりて」(高等小学校女教員興亜教育研究会の満蒙開拓道場訪問記事)の中で、中澤の前任校である愛宕高等小学校の卒業生が、入所後間もなく死亡したということが伝えられている。中澤はこの記事をどのように読んだのだろうか。 一九三一(昭和六)年に中澤が中国の教育関係者を学校へ招いたことは前述したが、『中澤留先生追憶録』には京橋高等小学校時代の職員によって次のようなことが書かれている。 国際関係の険わしかった昭和一四年頃、在京のアメリカの少年少女を学校に呼んで交換会をやつたり、ヒツトラーユーゲントが来朝した時には、これ又学校に呼んで交換会をやつた。これは世界の平和は小さい時からお互いに知り合い、信頼の情を持つところから始まる。これを実現させるのが教育者の務だという信念に基くものでした。それの延長は、日本の小学校生徒の成績品をアメリカに持つて行つて、アメリカの子供 に展覧させることだと言つて、京高の小池訓導をして、ルーズベルト大統領へのメツセージと成績品を持たせてアメリカに派遣したことだつた。このことについては外務省や文部省の事務官などによけいなことをするといつて非難された筈だ。単に教科をいじくり廻す教育ばかりでなく、大きな視野で教育のことを考えられた先生だつたからこそ出来たのだろう
︶₄₄
︵。 一九三八(昭和一三)年八月一七日、ヒットラーユーゲント一行三〇名が来日し、一一月一二日まで約三ヵ月滞在して各地を訪れた。その間、東京女子高等師範学校を訪問したり、愛知県立第一中学校では見学後サッカー交流試合を行っている
︶₄₅
︵。京橋高等小学校へも九月一四日に四名が訪問して、学校を見学し児童との交流を行っている
︶₄₆
︵。 小池訓導とは小池兌 なおしのことで、一九〇二(明治三五)年に長野県で生まれ、一九二五(大正一四)年に東京府青山師範学校を卒業し、内村鑑三に師事して伝道活動を行った後、一九二八(昭和三)年に渡米しカリフォルニア州パサデナ大学へ留学(ドイツ文化を研究)、ヨーロッパを回って帰国後、東京の小学校の教壇に立っていた。この時は中澤が校長を務める京橋高等小学校に在職していたが、一九三九(昭和一四)年に優待留学生の資格を得て、アイオワ州デビウク大学へ入学し、一九四一(昭和一六)年六
時流への抵抗と限界(黒田)
月に卒業するまでの二年間、全国連合小学校教員会の代表として、持参した児童の作品の展覧会を各地で開き、講演を行って日米親善を訴えた。 この時全国連合小学校教員会の募集に応じて全国から集まった児童作品は、絵画・書き方・手工・手芸等七万余点にのぼり、これに中澤会長のルーズベルト大統領夫妻宛メッセージを添えて、小池に託している。児童作品の募集が「日米親善のため」に行われたということ以外の詳しい経過は明らかでないが、二年前の一九三七(昭和一二)年八月に第七回世界教育会議
︶₄₇
︵が東京で開かれ、アメリカから多数の教育関係者が参加して、日本の教育関係者との間に多くの交流がもたれていた。作品を贈る企画が生まれ、それが盛り上がった理由の一つはここにあったと思われる。一九三九(昭和一四)年四月二〇日神田共立講堂でアメリカ児童代表・アメリカ大使・東京市長を招いて作品贈呈交歓会が行われ、六月一〇日京橋高等小学校でアメリカンスクール代表を招いて修祓式が行われた。小池は八月一二日に横浜を出港した
︶₄₈
︵。 小池は持参した作品を米国東部・中西部・南部の公立学校や博物館等に寄贈している。大統領宛メッセージがどのように処理されたかは不明である。小池が帰国直前の一九四一(昭和一六)年六月一〇日にアイオワ州のジェ ファーソン・ハイスクールに招かれた時には、「日米教育親善の根本は日米両国が相互の長所美点をより深く学び、相互の欠点宣伝を撤廃し以て両国の次代の国民が不変の友情の鉄橋を太平洋上に掛ける勇気を持つ事で有る」と説き学生達に感銘を与えた
︶₄₉
︵。小池は一九四二(昭和一七)年八月二〇日、第一次日米交換船で帰国している。 一九三九(昭和一四)年秋、帝国教育会と科学博物館・全国小学校教員会の共催の『全国児童理科展覧会』が中澤の提議立案によって、上野の科学博物館において開催された。全国三七道府県が参加して三週間にわたって開かれ、出品数は教員・児童合わせて一三二〇点、入場者数三万一二四四人という盛会で、科学教育の振興に大いに寄与したと評された。 この展覧会について、中澤は『教育週報』一九三九年一一月二五日号に次のように書いている。全国小学校理科展を顧みる 今度の理科教育振興展覧会は、科学の振興が時局の進展に伴ひますます必要になつて来たことが動機となつて開かれたのである。ノモンハン事件の報告に徴しても、我軍の兵器などが科学的に見て優位でなかつたことが、不利の原因をなして居る様である。若し我が兵器や軍隊の科学知識や技術が十分すぐれて居た
史苑(第七一巻第一号) ら、遺憾の歎声を発しないで済んだことであらうと思ふ。単にノモンハン事件のみでない。今後我が日本が東亜の新秩序建設を遂行し、世界の真の平和に貢献しようといふ理想を達成するには何が大切であるか。日本精神を発揚することの必要は勿論であるがその上に科学文明に就ての優秀な地歩を占めることが先決問題である。 ノモンハン事件が不利な結果に終わった、日本軍の武器が科学的に優位でなかったと、はっきり書いているところは如何にも中澤らしい。しかし、その後の「今後我が日本が東亜の新秩序建設を遂行し〔中略〕日本精神を発揚することの必要は勿論である」という部分は、この時代に全国小学校教員会長の地位にある現職の小学校長という立場から、やむを得ないという見方もできるが、理科展の約半年前一九三九(昭和一四)年四月には、文部省の人事異動で生え抜きの局長二名が退任し内務省出身官僚による浸食が更に進むことを批判して、「日本精神の強調、国民精神総動員の徹底等に全力を尽くさなければならぬ際に、斯様な失策をやるのは遺憾至極である
︶₅₀
︵」と述べている。先に述べた二・二六事件についての姿勢やその後の発言を見ると、この段階では考え方が変わってきていたと見るのが自然であろう。 一九四二(昭和一七)年六月二六日から三日間に亘って全国連合国民学校教員会主催の「興亜教育研究会」が神田一ツ橋で開催された。全国の教員会から幹部約一二〇名が参加している。協議題は「大東亜戦争と教育者の覚悟」「大東亜諸民族指導上の留意点」「東亜科設置に関する方策」で、会長の中澤は議長も務めている。東条首相の激励演説の他に、「大東亜戦争完遂の途」(元外務次官松本忠雄)、「興亜教育について」(教学局指導部長近藤壽治)、「翼賛政治と教育」(大政翼賛会事務総長後藤文雄)、「民族の興亡と大東亜建設」(永井柳太郎)などの講演があった。『教育週報』紙上で中澤は「皇軍の赫々たる戦火にこたへる教育者の任務は、興亜教育の振興徹底といふ点に帰結する。したがつて研究も講演もその点に集中、十分協議をする時間は得られな ママつたなつたが、感慨深い会であつた
︶₅₁
︵」と述べている。 一九四四(昭和一九)年三月末、中澤は六二歳で小学校長を退職した。一九四五(昭和二〇)年五月二四日、中澤の外出中に自宅が爆撃を受け、妻と三男を失っている。 戦後は全国PTA連合会や東京都退職公務員連盟の設立に関わり、ユネスコ運動にも活躍したが、一九五八(昭和三三)年一〇月一八日、七五歳で亡くなった。
時流への抵抗と限界(黒田)
おわりに 本論で取り上げた中澤留は校長として、更に首都及び全国の小学校教員のリーダーとしての立場にありながら、リベラルな立場を守りつつ、当時の教育その他のあり方について批判的発言を繰り返している。しかし、その内容は次第に教育問題に直接関わるテーマへと限定されていき、ある時点から政治的・社会的問題に関わる時はむしろ時流に乗っていくようになった。 丸山真男氏は日本のファシズム運動を分析するに当たって、学校教員特に小学校・青年学校の教員をファシズム運動の社会的担い手の一部とし、国家的統制乃至は支配層からのイデオロギー的教化を大衆へ伝達する上で、重要な役割を果たしたとしている
︶₅₂
︵。そのように言われる一方で、小学校教員(総数二五万人)は一九二六(昭和元)年六月から一九三二(昭和七)年一一月末までの間に社会運動関係で四六五名が検挙されており、総員数に対する比率は大学高等専門学校教員一六名(総数一万二〇〇〇人)よりも高い
︶₅₃
︵。 この現象は日本に限ったことではなくナチス・ドイツでも見られた。一九三三(昭和八)年一月三〇日にヒトラーが首相に就任し、四月七日に職業官吏再建法が成立すると 同年末までに約三〇〇〇人の教員が教職を追われた
︶₅₄
︵。そして同年一月三〇日まではナチス教員同盟とナチス党に参加していた者は教員全体の五%にすぎなかったが、春になると中産階級一般と同様に教員もナチス党に殺到し、五月までには全教員の約二五%がナチス党に入党した
︶₅₅
︵。 こうした動き以外に、中澤の場合は一学校の長としての制約のほか、全国小学校教員会長としての制約が加わり、時代の制約が厳しくなっていく中で、それに合わせてゆかざるをえなくなったのであり、発言の変化を一概に非難することは難しい。時代の流れの中で情報が限定され、役職の重みによる制約を受けながら、よく頑張り続けたと評価すべきではないか。むしろ、彼のような人物が極めて少数であったことに当時の日本社会の脆さがあったと考えるべきではないだろうか。 五・一五事件に批判的であった世論が、翌年軍法会議の進行過程で、被告弁護側の言い分が過剰に宣伝される中で、急激に逆方向へ変わっていった。このように、世論が激しく変化し、しかも、現在もその傾向が強く残っているように、異論を排除する日本の社会にあって、片寄った情報が溢れ、正しい情報が得られない中におかれると、如何に批判精神豊かな人物といえど長期に亘って自己の主張を守り続けることは困難である。中澤の言動はその証左であると
史苑(第七一巻第一号) 思う。 タイトルに「抵抗」の文字を入れたが、この程度のことは抵抗とは言えないという意見があるかもしれない。「反骨」という言葉を使うことも出来るが、個人の特異な性格という見方はしたくなかった。逮捕・拷問に耐え、職を失っても抵抗を続けた場合でなければ抵抗とは言えないのか。抵抗とは「強者が加えてくる抑圧、干渉、暴力にたいして、弱者が示す不従順、非妥協、非迎合の姿勢」である
︶₅₆
︵。 特別の資産を持たず、高度な専門職能もない、日々の生活を支えていかなければならない一般の市民にも、非協力・非迎合の姿勢を見せることはできる。もちろん、先頭に立って戦う人の存在は最も重要だが、それらの人々の周辺にあって、理解し、支援し、賛同する多数の人々が存在しなければ運動は弱いものとなり、社会的な影響力は持続し得ない。そのような活動の核となるのは、日常的な社会活動を続けながら、個々の場面で合理的な思考・理性的反応・批判的発言を表明できるオピニョン・リーダー達の存在である。こうした活動も、一般人による「広い意味での抵抗」として重視していく必要があるのではないか。事実を冷静に捉えて、時流に流されず、自己の信念を貫くべく努力する人々が対抗エリートの周辺にどれだけ存在するか、それによって社会の抵抗力が定まるのではないか。その意味で、 中澤留のような人物が社会の各所に多数存在することが、民主的社会を持続していく上で重要であると考える。
注(1)栄沢幸二『大正デモクラシー期の教員の思想』(研文出版、一九九〇年)。(2)栄沢前掲書、一九八頁。(3)栄沢前掲書、三二六頁。(4)津田道夫『国分一太郎 転向と抵抗のはざま』(三一書房、一九八六年)、九八頁、一三二頁、一九〇頁。(5)青木孝寿・上條宏之『長野県の百年』(山川出版社、一九八三年)、二一七頁。(6)二・四事件記録刊行委員会編『抵抗の歴史 戦時下長野県における教育労働者の闘い』(労働旬報社、一九六七年)、四〇頁、七〇頁。(7)中内敏夫「自由教育の終焉 ― 児童の村小学校の解散 ― 」『季刊現代史』八号(現代史の会、一九七六年)、五九頁。(8)『開校百年 五日市小学校創立百周年記念誌』一九七四。(9)『中澤留先生追憶録』茂串小市郎編集・発行、一九五九年一〇月一八日、一一一頁。『中澤留先生追憶録』は中澤留の初七日忌に集まった知己交友の総意で作成され、一周忌に配布された。(
10)帝国教育会『帝国教育』一九三六年六月号、六五頁。
(
11)中澤留「其の使命」
『可愛い芸術』第一輯、越元次良発行、一九二七年一月一日、一頁。
時流への抵抗と限界(黒田)
(
12)『可愛い芸術』第二輯、一九二七年三月二〇日、一頁。
(
13)同前、
「編輯後記」。(
14)『文部時報』一四六号、一九二四年八月二一日。
(
( して生まれた。 15)東京府教育会と東京市教育会が一九二五年一二月に合同 16)帝都教育会
『帝都教育』(一九二八年二月号)六四頁、(四月号)三六頁。(
17)栄沢前掲書、三〇七頁。
(
18)『可愛い芸術』第一一輯、一九二八年二月二九日発行。
(
19)黒田秀俊
「昭和言論弾圧史 第八回」『総合ジャーナリズム研究』一九六八年七月(夏季号)、一七六~一七七頁。(
( 一〇頁。 20)『可愛い芸術』第一三輯(一九二八年六月発行)、九~ 21)藤原彰編
『日本民衆の歴史八 弾圧の嵐のなかで』(三省堂、一九七五年)、一七六~八頁。(
22)『可愛い芸術』
の発行母体となった「社団法人 児童芸術協会」は終戦時まで継続し、特に体育ダンスの講習会は台湾・朝鮮も含めて全国から多くの参加者を迎え、七月は中等教員、八月は小学校教員、九月は都内小学校教員と分けて実施したこともあった。この事業の継続には、中澤が日比谷小学校長時代に労苦を共にし、それぞれ詩人・視学官・校長となった後にも無報酬で協力した三人の教員の働きが大きく貢献していた。 前掲『中澤留先生追憶録』二九~三五頁。(
23)栄沢前掲書、四一四~六頁。
(
九九六~九九七頁。 24)『全国連合小学校教員会報告 第八回』(一九三二、四)、 (
( た。 タブロイド版。一九八六年に大空社から復刻版が発行され 25)教育週報社『教育週報』一九二五(大正一四)年創刊。
26)『帝国教育』一九三二年七月号、五一頁。
(
( 多数来賓を迎えて盛大に開かれた。 名が参加し、文部省督学官・京都府学務部長・京都市長等 に京都市明倫小学校に於いて、全国一五都市の代表一三〇 年行われていた。第四回大会は一九三二年五月一六・一七日 尋常小学校への併設による問題などについて研究協議が毎 拡張され、中堅国民養成機関としての高等小学校の課題や 人口一〇万以上の都市による「大都市高等小学校長会」に 大都市高等小学校長会」を東京で開催した。これが翌年、 神戸の六都市の高等小学校長が、一九二九年に第一回「六 いて協議する目的で、東京・横浜・名古屋・京都・大阪・ 27)大都市に存在する高等小学校が共通に抱える諸問題につ 28)京都府教育会『京都教育』一九三二年六月一日。
(
29)同前。
(
( たことで知られる。一九三五年副社長。 の圧迫にめげず、五・一五事件について鋭い論説を書き続け 一九一一年から『福岡日々新聞』の編集主幹を務め、軍部 30)きくたけろっこ 本名淳〔すなお〕(一八八〇~一九三七)、
31)『帝都教育』一九三四年七月号。
(
32)同前、一九三四年九月号、
二頁。
(
33)同前、一九三五年一二月号、二頁。
(
とを記念して、同会の機関誌として創刊されたものであり、 飛行機「報国第八十五号(教育機)」を海軍へ献納したこ 34)この雑誌は全国連合小学校教員会が一九三五年一一月に
史苑(第七一巻第一号) 中澤は編輯主幹であった。一校一部講読の運動を進め、茨城県だけでも「五百余部」(一九三七年二月号)を講読していたので、個人購読者を含めるとかなりの部数が発行されていたはずだが、現在はごく僅かしか残っていない。(
35)前掲『中澤留先生追憶録』
、六六頁。(
36)警保局
『出版警察報 第九十二号』(不二出版、一九八年)。(
( 質」『一九七一年歴史学研究会大会報告』。 37)粟屋憲太郎「日本ファシズムの形成と戦争準備態勢の特 38)茶本繁正『戦争とジャーナリズム』
(三一書房、一九八四年)、 二八五頁。(
( に重任している。 連合国民学校教員会となった後も会長を務め、一九四二年 は一九三六年五月に会長となり、一九三八年に重任、全国 九日号) 一九四一年全国連合国民学校教員会と改称。中澤 に増加。(『教育週報』一九三二年一〇月二九日号、一一月 を受けるようになった。一九三二年一一月には一五〇団体 団体が、一九三一年には一三〇に増加し、文部省の補助金 一一月に設立された。発足時には三〇に達しなかった参加 市・名古屋市など一一の小学校教員会が設立を呼びかけ、 39)全国連合小学校教員会は一九二四年八月、東京市・京都 40)『帝都教育』一九三六年一二月号。
(
41)『帝都教育』一九三九年九月号。
(
42)前掲『中澤留先生追憶録』
七〇頁。(
43)高かった茨城県でも八九
・五%。内原訓練所史跡保存会事務局『満州開拓と青少年義勇軍 創設と訓練』(内原訓練所史跡保存会、一九九八年)、三六一頁。(
44)前掲『中澤留先生追憶録』
六八頁。 (
( (一九三八年九月二四日号)、一〇月一五日号。 45)『教育報国』(一九三八年六月号)四頁。『教育週報』 46)『教育報国』
(一九三八年一〇月号)二五~二七頁。(
( 大学出版部、二〇〇五年)。 ― 一『国際主義の系譜大島正徳と日本の近代』(早稲田 国教育会の理事として会議の運営に関わっていた。後藤乾 日本代表一五〇〇名が参加した。中澤も開催責任者たる帝 わたり東京帝国大学安田講堂で開かれ、外国から八六九名、 いた。その第七回会議が一九三七年八月二日から六日間に 一九二五年から隔年で各国持ち回りの国際会議を開催して 47)世界教育会議は一九二三年にアメリカで創立され、
( 二二日。 48)『教育週報』一九三九年四月二二日、六月一〇日、七月 49)『教育報国』
(一九四一年一〇月号)、四八頁。(
50)『教育週報』一九三九年四月二二日。
(
51)同前、一九四二年七月四日。
(
( 治の思想と行動』上(未来社、一九五六年)、五八~五九頁。 ている。丸山真男「日本ファシズムの思想と運動」『現代政 小地主、自作農上層、下級官吏、神官僧侶などが挙げられ 52)他に小工場主、土建請負業者、小売商店主、大工棟梁、
懐を見るに至るものか」と分析している。同書五三頁。 ては比較的恵まれざるものあるため、並に改革的意志の抱 年齢も若く熱し易き年配であり、又その生立、給与等に於 生活に直面し、社会の悲惨面を直視し易き立場に在り、且、 動に多数参加している原因は、「平素一般貧家庭の子女の実 一九七五年)、五三頁。『特高月報』は小学校教員が社会運 53)明石博隆・松浦総三『昭和特高弾圧史1』(太平出版社、
時流への抵抗と限界(黒田)
(
54)ウルリヒ
・アムルンク著、対馬達雄・佐藤史浩訳『反ナチ・抵抗の教育者』(昭和堂、一九九六年)、二七七頁。村瀬興雄『ナチズムと大衆社会 民衆生活にみる順応と抵抗』(有斐閣、一九八七年)、一〇七頁。(
55)村瀬前掲書、一〇三~一〇四頁。
(
56)同志社大学人文科学研究所
『戦時下抵抗の研究Ⅰ』(みすず書房、一九七八年)、五頁。(本学会会員)