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いけじま ふくまんじ
大 阪 ︒池 島 ・ 福 万 寺 遺 跡
1 所在 地 2 調査 期間 3
発掘 機関 4 調査 担当 者 遺跡
の種 類 遺跡 の年 代
大 阪府 東大 阪市 池島 町
・八 尾市 福万 寺 町 ほか 一二 一 一九 九七 年
︵平 9︶ 月五
︱ 一九 九 九年 月三 一 一九 九 八年 1 0︵平 六︶ 月
︱ 一九 九九 年 一〇 月
⑪大 阪 府文 化財 調査 研究 セ ンタ ー 一 岡本 茂 史
︒市 村慎 太郎
・清 水 哲 一一 戸岡 哲 紀
︒中 尾智 行 福・ 田和 浩 一 川瀬 貴 子
・亀 井 聡
・岸 本 広樹 水 田跡
・︵住 居址
︶ 縄 文時 代晩 期
︱近 世 7 遺 跡 及び 木 簡出 土遺 構 の概 要 本 調査 は︑ 恩 智 川治 水緑 地建 設 伴に うも ので あ る︒ 遺跡 は旧 大 和 川 の形 成す る 沖積 低 地 であ る河 内 平 野 の 東南 部 位に 置 す る︒ 遺本 跡 は︑ 弥生 時 代前 期 か ら現 代 ま で の水 田耕 作 地
であり︑調査においても約三〇の水田遺構面を確認している︒古代 から現代にかけての条里型水田が顕著にみられ︑中世以降は島畠と 呼ばれる浮島状の畑地が形成されるなど︑当地周辺の農業発達史を 考える上で貴重な資料となっている︒ 今回報告する木簡は︑ 一九九七年度以降に調査を行なった︑その 七︱九調査区より出土したものである︒それぞれ出土した遺構面は 異なるものの︑いずれも中世に属する水田面や︑これを被覆する洪 水砂層ょりみつかっている︒ 一︑﹁その七調査区﹂では︑中世後半と考えられる層中より卒塔 婆が一点出土した︒なお︑放射線炭素年代測定では一四〇五︱一四 五五年という結果が得られている︒ 二︑﹁その人調査区﹂では︑六枚の塔婆を連ねたものが︑中世と 考えられる条里水田面を被覆する洪水砂下部から出土した︒ 三︑﹁その九調査区﹂では三点の木簡がみつかっており︑③は中 世末頃︑④①は一四世紀頃の各耕作土層中より出土した︒ 8 木簡の釈文・内容一 その七調査区
ω ︒﹁︵梵字︶﹂
・ 環 梵 字 力 こ 卜慾
× 盟
× 釦 畠 牌
表
・裏 とも 墨 書 の残 存 は極 め 悪て く 肉︑ 眼 でわ ず か 梵に 字 が観 察
(大阪東南部)
1999年出上の木簡
でき る程 度 であ った 形︒ 状 は五 輪塔 形 で︑ 下部 にむ か い矢 板 状 細に く 薄︑ く な る︒ な お︑ 風輪 部 と地 輪 部 の 一部 を欠 く︒ 表 面 は︑ 五輪 の各 輪 に胎 蔵 五大 の種 子 であ る
﹁■ 1 玉 耳 R﹂ が 書 かれ て るい と 推定 さ れる
︒ そ の下 にも 文︑ 字 が続 く こと が観 察 で き るが 解︑ 読 不可 能 であ る︒ 裏 面も 上︑ 半 部 に梵 字 と思 わ れる 何 ら か の文 字 が書 か れ て いる こと は か ろう じ てわ か るが 解︑ 読 不は 可能 であ る︒ 一一 そ の人 調査 区
︹形 明力
︺
︹也
︺力 ω
﹁︵ 梵字
︶ 奉 為
□
□ 霊 頓 證 チ ロ
﹂
︵一 枚目
︶ ズ梵 字︶
今 世後 世 能 引導
﹂
︵一 萩 目︶ 蒙梵 字︶
無 仏 世 界 度 衆 生
﹂
︵一 一蔽 目︶ 巽梵 字︶
入諸 地 獄 令 離 苦
﹂
︵四 枚目
︶ 巽梵 字︶
毎 日晨 朝 入諸 定
﹂ 五谷 目枚
︶ 環梵 字︶
文 明 十 三年 月二 十 四
﹂日 エ︵ ハ枚 目︶
横︵ 木
・裏 面 にも 梵 字 あ り︶
∞卜ol∞∽o×∞﹈︱∞∞×トー⇔ o⇔P
塔 婆 が出 土し た のは 中世 と考 え ら るれ 条 里水 田面 で︑ 厚 い洪 水 砂 に覆 わ れ て遺 構 の検 出 状況 は良 好 であ る︒ 塔 婆 は遺 構 面 貼に り付 く うよ に洪 水 砂 の底 部 から 出 上 した
︒ 六枚 の塔 婆 が 二本 の横 木 よに っ
て束 ねら れ︑ 表 を 下 にし て埋 没 し て いた 表︒ 裏 面と 横木 に墨 書 が認 めら れ る︒ 表 面 の墨 書 の残 りは よく
︑ 六枚 す べ ての 上 部 に胎 蔵界 大 日真 言 の 質T ミ こ 領 R
︵ケ ン
・ウ ン とフ
・ビ
・ア と 書が か れ て お り︑ そ の 下 には そ れぞ 違れ った 文言 が続 く︒ 右端 の塔 婆 には 戒名 が︑ 左端 の 塔婆 には 文 明 一三 年
︵一 四八 こ の年 号 が 記 さ れ て いる
︒ そ れ に挟 ま たれ 四本 の碁 婆 には
﹁延 命地 蔵経
﹂ が書 か れ て いる 廷︒ 命地 蔵経 は鎌 倉時 代頃 成に 立 たし 和製 の偽 経 と され て るい が︑ 地蔵 信仰 の盛 行 伴に てっ 広 く用 いら たれ と いわ れ る︒ 本来 の経 は
﹁毎 日⁝
﹂ から 始 ま って
﹁⁝ 引導
﹂ へと 続 くも ので あ るが 当︑ 例 では 逆並 び にな っ て るい
︒ な お︑ こ の延 命 地蔵 経 使を たっ 例 は岡 山県 百 間 川米 田遺 跡 の板 塔 婆 にも 見 ら れ る
︵建設 省岡 山河 川工 事事 務所
・岡 山県 育教 員委 会
﹃百間 川米 田遺 跡﹄ 三
︹一 九八 九年
︶︒ 裏 面 に は識 大 の 盲﹁
︵バン と を 始 めと し て︑ コ尋
・母
︵ボ ロン
・ド バン
︶﹂
以 下六 字 ほ ど の梵 字 が書 か れ て いる よう であ るが 判 読 は難 し い︒ ま た︑ 上 段 の横 木 の表 面 には 地蔵 菩 薩 の種 子
﹁蜀
︵力と が 六宇
︑ 下段 の横 木 の表 面 には 阿 弥陀 如 来 の種 子
﹁傘 リ︵キ ーク こ が 四字 書 かれ て いる
︒ これ ら は一異 面 もに 同様 のも のが 書 か れ て いた 可 能性 があ るが 状︑ 態 悪が く確 認 でき な か たっ
︒ これ ら の塔 婆 は︑ 真 言宗 など 行で なわ れる
﹁流 れ灌 頂
﹂ 用に いる 塔 婆 と考 え ら るれ 流︒ れ灌 頂 は小 川 など の清 流 塔に 婆 を立 るて 供養
二 (1)
― (1)
三(2)
三(3) 三 (1)
1999年出上 の木簡
法 で︑ 主 に妊 産 婦 など の死 亡 や水 死者 為の に行 なわ れた 平︒ 安 末 か ら鎌 倉 代時 始 め頃 に始 ま たっ も のと 考え ら れ︑ 庶 民 の間 盛で 行 した が︑ 近代 にな てっ 廃 たれ 今︒ でも 高 野山 奥 の院 では 見 る こと が でき る︒ 本来 は ひと き わ大 き い塔 婆 一本 中が 央 加に りわ
︑ 七本 の塔 婆 を 用 いる 形 にな るが 当︑ 例 では 洪水 流で さ れた 際 に大 塔 婆 が失 わ れた も のと 考 え ら るれ 上︒ 段 の横 木 中央 大に 塔 用婆 の木 釘 が残 って るい
︒ 一 そ の九 調査 区
︹ム ア ミヵ
︺ ω o﹁ 百 ぐ q ぐ 寺 南
□
□
□
・﹁ Ч しガ
︵μ卜牌
︶﹀︵P
∞×
﹈ oPΦ 代﹁
ミ ミ 領
×
︵豪
︶挙 のX o常
︹生 減力
︺
﹁□
□
︵P P頓
︶益 o益 常Φ 0は 短 冊形 を呈 す る木 簡 であ る︒ 上端 は加 工痕 が みら れ︑ 原形 を と
ど め て いる が︑ 下端 は欠 損 し て いる 表︒ 裏 面 墨に 書 が認 めら れ︑ 表 面 には 金 剛 界大 日真 言を 示 す梵 字と 経︑ 文 と思 わ れ る墨 書 がみ ら るれ 裏︒ 面 は︑ 上 端付 近 大に 日如 来 の種 子 示を す掩 字 が 一字 のみ 記 され て いる
︒
② は上 半 が 五輪 塔形 を呈 す る塔 婆 の 一部 であ り︑ 下半 の大 部 分を 欠 損 し て いる 文︒ 字 部分 の塗 膜 は完 全 にと ん で いた が︑ 風化 よに っ て文 字 部分 のみ が凸 状 に残 存 し て いた た め︑ 木 質部 分 残に る凹 凸 か
ら文 字 を判 読 した
︒ 胎蔵 界 大 日真 言 を示 す梵 字 のう ち︑ 末 尾 一字 が 欠 損 し て いる も のと 思わ れ る︒ 裏 面も 同様 に︑ 赤 外線 真写 か ら文 字 存の 在 たし 可能 性 が考 え られ るも の の︑ 詳 細 は不 明 であ る︒
① は② と同 一地 点 より 出土 たし 木簡 であ る︒ 上端 は山 型 加に 工 し てお り︑ 下半 を欠 損 し て るい 片︒ 面 に前 述 の墨 書 が認 めら るれ 木︒ 下密 運氏 によ る と︑ 経 文 の 一部
﹁諸 行 無 常 是 生 滅 法 生 滅 々已 寂滅 為楽
﹂を 墨書 たし 木簡 では な いか と のこ と であ る︒ 本資 料 では
﹁生減
﹂ の部 分 のみ が︑ か ろう じ て認 めら れ る︒ 同様 の資 料 の中 に は表 裏 半掲 ず つ記 載 す るも のも あ ると のこ とか ら︑ 本 例 は裏 面 の墨 書 みの 確が 認 され たも のと 考 え られ る︒ 釈 読 にあ た てっ は木 下密 逗氏
︵奈H 大学
︒千 手寺
︶ のご 教示 を得 た
︒
︵一 市村 慎太 郎︑ 三 尾中 智行 三︑ 亀 井 聡︶