大行院文書からみた「鳴物停止令」 : 大行院文書
「解題」にかえて
その他のタイトル Narimono‑choujirei on the Last Stage of the Baku‑han Regime
著者 朝比奈 修
雑誌名 關西大學法學論集
巻 61
号 6
ページ 1719‑1624
発行年 2012‑03‑10
URL http://hdl.handle.net/10112/6578
目 次 は じ め に
・
﹁嗚 物停 止令
﹂に関する研究の整理
二寺社奉行の﹁嗚物停止令﹂解釈
︱︱ ‑
﹁嗚
物停
止令
﹂が民衆に与えた影響 四﹁嗚物停止令﹂の意義
この文書は︑近世尼崎藩の城下町の
︱ つである宮町において醍醐寺派 三
宝院の袈裟頭を務めた大行院という修験道 寺院で作成された天明八年︵一七八八︶から塵応
三 年
(
‑ 八六七︶までの記録である ︒ これは尼崎市立地域研究史料
館が所蔵するもので、全体で七冊からなり、寺社奉行への各種届出の写し・寺社奉行からの通達や御触書の写し•そ
の他︑日記・明細書などの覚 書
がほぼ年代順に記載されている︒したがって︑ここに含まれる情報は多岐にわたって
は じ め に
大行院文書﹁解題﹂にかえて││
←大行院文書からみた
﹁ 嗚 物 停 止 令
﹂
朝 比 奈
五四
︵
一 七 一 九
︶修
大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂
五五
おり︑山伏の婚姻や養子縁糾等・寺院経営・藩の領民管理・時事問題・自然災害など典味深い事柄が見受けられるが︑
(4)
なかでも近年論じられる機会が多い﹁嗚物停止令 ﹂ に関連した記述に注目すべき論点があると思われる︒ただし︑そ
の他の記述にも随所に重要性を秘めていると思われるものがあり︑本来ならば大行院文書の全体像を明らかにしなけ
ればならないのであるが︑これは今後の課題としつつ︑ここでは︑この﹁鳴物停止令﹂に焦点を当ててささやかな考
江 戸 幕府は将軍・天皇などの支配層およびその近親者が死去した際に︑鳴物などを 一 定期間禁じる御触いわゆる
﹁鳴物停止令﹂を出していた︒たとえば︑寛永九年
( ‑
六 三 二︶正月 二 四日の第二代将軍秀忠の死に際しては ﹁
天 下
(5)
万ノ鳴物悉ク打チ止マリ﹂と形容される事態に至 っ
た よ
う で
あ る
︒
(6)
黒田日出男は︑これを評して中世の﹁天下触械 ﹂ の延長線上にあるものとみなし︑全国的規模で民衆に静謡を強い
るがゆえに中世をはるかにしのぐスケールで為政者の存在を民衆に知らしめ︑結果として︑将軍だけでなく天 皇
の 存
在も全国的に知らしめる契機となり︑将軍消滅後は﹁歌舞・音曲停止令 ﹂ として受け継がれ明治天皇制国家の樹立に
も 寄与 したとする ︒
(7)
林紀昭は︑享保から
宝 暦年間の日記を手がかりとして小松藩における﹁鳴物停止令 ﹂ を分析しているが︑この
﹁鳴物停止令﹂を支配層レヴェルの問題として限定的に捉え︑封建関係の維持に向けて礼を示すことにより封建関係
を確認するもの︑すなわち幕府権力に対する諸藩の側の問題とみる ︒ しかしながら︑この見解では︑﹁鳴物停止令 ﹂ 察を試みてみたい ︒
﹁鳴物停止令﹂に関する研究の整理
︵一七一八︶
静 謡
﹂
に拘束される各藩の領民と幕府との関係も封建関係とみなさざるを得なくなるし︑また天皇およびその近親者の死に 際して出される﹁鳴物停止令﹂の位置付けが困難になってしまうように思われる︒
(8)
林由紀子は︑これを﹁様のヒエラルヒー﹂の確立により幕藩制秩序を補強する﹁服忌令﹂と補完関係にあるもの とみなしているようであるが︑林紀昭と同様に支配層レヴェルで捉え︑
はないとしている ︒
村田路人は︑主として享保から延享年間に大阪周辺地域で出された町触形式の﹁鳴物停止令﹂を中心に分析をおこ ない︑これを﹁音声面での統一的な秩序維持﹂にむけて出されたものとしているが︑後述するように単なる﹁音量規
制 ﹂ とみなすことは 一 面的すぎるように思われる ︒
( 1 0 )
中川学は︑これについて最も専門的かつ包括的な研究をおこなっており︑これを中世の﹁天下触椴﹂から﹁天下 へと論理転換したものとし︑﹁為政者の死﹂という政治的危機に対してとられた秩序回復のための政策とみな しており︑﹁鳴物停止令﹂が出される前提条件として﹁為政者の死﹂以外の事例を例外視している︒また都市の発展
が︑その機能維持のために﹁鳴物停止令 ﹂ を緩和させていったとみなし︑規制の対象となった民衆の認識・対応を解
明する必要性を説く ︒
(1 1
)
大平聡は︑この中川の問題提起を受けて︑嘉永期の遊行上人の日記を手がかりとして︑第︱二代将軍家慶の死を 契機として出された﹁嗚物停止令﹂に接する遊行僧たちの動向を分析した︒このなかで大平は︑屋内での活動は許さ
れるという遊行上人の期待に反して﹁鳴物停止令 ﹂ が屋内・外を問わず徹底して実施されたことに対して︑遊行上人
が日記のなかで﹁迷惑﹂と述ぺていることを高く評価している︒仮にこの言葉が幕府だけでなく朝廷との結びつきを
関 法 第 六 一 巻 六 号
一 般民衆にいかなる影響を与えたかは定かで
五六
︵一七一七︶
大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂
十 四日迄被差留候︑此節別而火之元入念可被申付候︑以上 寺社奉行の
五 七
︵一七︱六︶
寺社奉行 も背景にして出てきたものであるにせよ︑所詮は日記のなかでの眩きであり︑寺社奉行の指示には完全に従っている のである ︒
﹁ 迷
惑
﹂
との思いは多くの人々がいだいていたことであろう ︒ むしろ︑この時期に遊行僧から熊野の﹁神
勅御札﹂を配布してもらうために集まった多くの民衆のほうこそ消極的ながら評価できるのではないか︒いずれにせ
﹁ 鳴
物 停
止 令
﹂
はその動機が宗教的であるがゆえに︑幕藩体制下において宗教部門を統括する寺社奉行の﹁鳴物停
止令﹂解釈は重要な意味を持つのではないかと思われる︒ところが従来の研究では︑寺社奉行がかかわった事例はほ
とんど見あたらず︑先述した大平の考察でも寺社奉行の動向に対する関心は低いように思われる︒寺社奉行が︑民衆
の宗教生活に多大な影響を与えた寺檀制度の統括機関であったという事実は無視できないのではないか ︒
(1 2
)
大行院文書には︑﹁為政者の死﹂を契機とする﹁鳴物停止令 ﹂ の事例が一五例あり︑このうち寺社奉行独自の解釈
( 1 3 )
が付加されていると思われる事例が六例ある ︒
本件文書では﹁鳴物停止令﹂の初見の事例が左の御触︵史料番号︹九四︺︶である︒
紀伊大納言様︑去月廿七日被成御逝去候二付︑昨十二日ガ来ル 十 八日迄︑嗚物・高盤・殺生御停止候︑普請者明
四 月
十 三
日
﹁鳴物停止令﹂解釈
よ︑ここでは中川の﹁緩和説﹂は否定された ︒
去ル八月
山伏衆中 社家衆中
御城下
これは嘉永二年(
‑ 八四九︶四月
一 三
日に﹁紀伊大納言﹂︵徳川斉彊か︶の死を契機として出された﹁嗚物停止令﹂
(1 4
)
である︒ここでは﹁鳴物・高磐・殺生・普請・火之元﹂といった町触形式の﹁鳴物停止令﹂でもみられる一般的・概
括的な項目が列挙されているが︑さらにこれを受けて出された御触︵史料番号︹九五︺︶ 厄 社方役人のより宗教的な側面からの解序が付け加えられている︒
別紙之通︑御停止被仰出候︑初之賑之儀者勿論︑神事・法事・托鉢・湯立・円燈二至
四月十三日
(1 6
)
ここでは﹁神事・法事・托鉢・湯立・円燈﹂といった表現で規制がなされているが︑これ以外の事例ではまた異
なった表現も見られ︑それが窺える次のような一連の御触︵史料番号︹一九
0. 一
九
一 ︺
︶ が
あ る
︒
迄被指留二付︑此段御心得可有之候︑以上
口 説
関 法 第 六 一 巻 六 号
では左のように尼崎藩の寺
五八中 川 蔵 作
笹間喜久太郎
︵一 七 一
五 ︶
大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂
右之通可被相心得候︑以上 二可被相慎候事
公方様被遊甍御候二付︑普請・鳴物・高磐・殺生堅御停止候︑日数之儀者追而可相鯖候︑諸事相慎︑此節火之元
於寺院平日被相用候釣鏑・半鍮・太鼓
□者勿論︑其外音高キ鳴物・讀経之朗盤等迄も此節
□二付︑不被相用候事
但し夜念佛・托鉢修行等有之分可被相止候事
五九
︵ :
七一四︶
寺社奉行
一︑湯立・百燈・釣挑灯等二至迄も可被相止候事︑右別段被仰出者無之候得共︑諸嗚物・佛事二用候品等も質素
八月十五日
第一三代将軍家定は安政五年(‑八五八︶七月六日に死去しているが︑政策上その事実は一ヵ月後の八月八日に公
表された︵この措置については後述する︶ ︒ これを契機として出されたのが右の二通の﹁鳴物停止令 ﹂
である
︒ 前者
では一般的に﹁普請・鳴物・高磐・殺生・火之元 ﹂ といった文言が見られるが︑後者では寺院向けにより詳細な表現
で規制がなされ、その対象が「釣鐘・半鐘・太鼓•音高キ鳴物・讀経・夜念佛.托鉢・湯立・百燈・釣挑灯」といっ たレヴェルまで表示され︑さらには﹁別段被仰出者無之候得共︑諸鳴物・佛事二用候品等も質素二可被相慎候﹂と
いった具合に範囲がよりいっそう拡大されている︒ 八月十五日 別而入念可被申付候︑以上
寺社奉行
寛政六寅年十一月八日 意識に多大な影響を及ぼすものとなっているといえる︒ この金昆羅大権現に浄瑠璃を奉納すべく︑寛政六年︵一七九四︶
一 ︑宮町大行院金毘羅尊を心願御座候二付︑此度講中之者共申合︑右金毘羅尊前二おゐて来ル十 一 日
5日数五日
之間︑口古浄瑠璃奉納支度︑尤︑九ツ時方暮時限り迄奉納支度奉願上候︑且火之元者勿論︑喧嘩・ロ論等無之
様︑講中之者共井二私一統取締世話可仕候︑何卒右願之通被為仰付被下候ハヽ難有可奉存候︑以上 乍恐書付を以奉願上候
番号︹二四︺︶を提出している︒
﹁鳴物停止令﹂が民衆に与えた影響
関 法 第 六 一巻 六 号
中在家町 しらかノ九右衛門 中在家町 講中名代 ︱一月八日付で郡代官所に左のような許可願︵史料
︵一 七 ︱
︱ ︱ ‑ ︶
これらの事例は﹁鳴物停止令﹂を契機として宗教生活が包括的に凍結されたことを示すものである︒したがって︑
これにより宗教者だけでなく一般民衆の宗教生活も 一 時的に拘束されることになり︑すでにこの次元において民衆の
先述したように大行院は修験道寺院であったが︑金毘羅大権現も祀っており︑隣町︵中在家町︶の﹁講中﹂町衆が︑
六〇大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂
御郡代様
右之通願出候二付︑乍恐奥印仕候︑已上
このなかで町衆は﹁火之元者勿論︑喧嘩・ロ論等無之様︑講中之者共井二私一統取締世話可仕候 ﹂
と 述
べ て
い る
︒
﹁喧嘩・口論﹂は︑いわゆる﹁高声﹂に該当し町触形式の﹁鳴物停止令﹂で見かけられる用語である︒この時期﹁鳴
物停止令﹂が出ているわけではないのであるが︑これらの言葉遣いは明らかにこの規制を意識したものとなっている
ように思われる︒これに合わせて主催者たる大行院からも同 一 の日付で寺社奉行へ同様の許可願︵史料番号︹
二 三
︺ ︶
が出されている︒ここでは前者のような表現は見当たらないが︑おそらく浄瑠璃の奉納が﹁賑之儀﹂︵史料番号︹九
五︺参照︶に該当することを意識してのことであろう︒
また︑尼崎藩の城下町︵築地町︶
せて﹁軽わざ・鳴物﹂などの﹁典行﹂を行う際に万延元年(‑八六
0 )
︹一五五︺︶を提出しているが︑これには大行院も奥印を施している︒それを次に示す︒
乍恐以書付奉願上候
‑'‑‑‑ ノ
で大行院と同様に修験道寺院を営んでいた宝珠院が厄除祈藷を実施するのにあわ
五月三日付で寺社奉行へ許可願︵史料番号
︵一七︱
二 ︶
惣代 名主
印
しらかノ九右衛門印
れている︒
一︑当院金剛尊前二おゐて心願之者御座候二付︑来ル五日力十五日之間︑昼夜厄除祈藤仕呉候様頼来候二付︑執
行仕度奉願上候︑然ル処︑右為賑先達而奉願上︑御聞済被為成下︑当院内裏建家二於て︑軽わざ・鳴物差加︑
右日限夜
□
ツ時限典行ヲ仕度︑同町大和田やちま川
6申出候二付︑助成二
□相成可申儀二御座候間︑用逹遣し
興行相仕度奉願上候︑何卒右両様︑乍恐御聞済被為成下候者御慈悲難有奉存候︑以上
万延元申年 寺社御奉行所
五月 三 日
右之通願出候二付︑乍恐此段奉伺候︑以上
ここでは﹁鳴物 ﹂
以外に﹁賑
﹂ という言葉も見られ︑平時であるにもかかわらず明らかに﹁鳴物停止令﹂が意識さ
さらには右と同年の出来事であるが︑大行院の堂内で﹁普請﹂をするにあたり﹁御神体
﹂を別の場所へ仮安置して
いたが︑﹁普請﹂が終了したのに伴いもとの場所へ﹁御神体﹂を 戻 すための儀式をする必要が生じた ︒ この際に左の 右之通相違無御座候二付︑奥印仕候︑以上
関 法 第 六
一巻 六 号
惣 代 瓢
次 印
名 主 右 貝 七 五 郎 印
大 行 院 印
築地町 山伏
賓
六
珠 院 印
︵ 一 七
︱ ‑
︶
大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂
文書中にいくつか見受けられる︒ 右之通願出候二付︑乍恐奥印仕︑奉伺上候︑以上 ような許可願︵史料番号︹ 一 六八︺︶が九月 一 七日付で提出されている︒
乍恐以書附奉奉願上候
釣挑灯差出申度奉願上候︑右願之通り御聞済被成下候ハヽ難有奉存候︑以上
万延元年申九月十七日
寺社御奉行所
六
ここでも﹁普請 ﹂ という言葉や﹁為賑︑釣挑灯差出申度奉願上候 ﹂ といった文言が見られ︑やはり平時にもかかわ
(1 7
)
らず﹁鳴物停止令﹂が意識されているように思われる︒付言すれば︑この史料以外にも﹁普請﹂に因んだ届出は本件
以上の事実から︑﹁鳴物停止令﹂は平時の民衆の心にも深く深刻な影を落としていたといえるであろう︒ 惣代
︵一七一
0 )
吉 左 衛 門 印
名 主 渡 邊 守 右 衛 門 印
大 行 院 印
宮町 一︑拙院堂内神前向普請中︑御神林東手仮拝所江安置申候処︑普請出来仕候二付︑来ル廿五日・六日両日正遷宮
︵マ マ︶
仕度︑右日限中乍恐︑御上様御武運長久井御家中御成下家内安全・商売繁承御祈蒻護摩終行仕度︑尤も為賑︑
る ︒ 上
先述した中川に限らず︑ほとんどの研究者が﹁鳴物停止令﹂が出される前提条件を﹁為政者の死
﹂ に限定している
於江 戸 表︑殿様御実母於美濃殿病気差余り候趣申来候︑依之諸 事 穏便二致︑火之元入念可被申付︑其旨可被相心
得候︑以上
このなかの﹁諸 事 穏便﹂とか﹁火之元 ﹂ といった用語に象徴されるごとく︑これは内容的にみて明らかに﹁鳴物停
止令﹂に準じるものであるが︑まだ﹁為政者の死﹂ではなく﹁為政者の病﹂の段階の御触である ︒ 後日﹁殿様御実
母
﹂ ︵ 具 体的に誰のことを指しているのか不明︶
番号︹二
三 ニ
・ ニ
三 三
︺︶が出されているので︑それを次に掲げる ︒
於江 戸
表於美濃殿死去二付︑
殿様御定式之御忌服被成御請候︑依之︑普請・鳴物・高磐・殺生御停止候︑此節別而火之元入念可被申付候︑以 たとえば︑慶応元年 (
‑ 八
六 五
︶ ようであるが︑本 当 にそういえるのであろうか ︒
四﹁ 鳴 物 停 止 令
﹂
関 法 第 六
一巻 六 号
︱二月二四日付で寺社奉行から次のような御触︵史料番号︹
ニ ニ 八 ︺
︶ が出てい の意義
の 死
去 により同月 二 九日付で本来のスタイルの﹁鳴物停止令
﹂ ︵
史料
六四
︵一 七 0 九
︶大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂
るものであったにちがいない︒ 山伏衆中 社家衆中
御城下 十二月廿九日
別紙之通︑御停止被仰出︑初之賑之義ハ勿論︑神事・法事・托鉢・湯立・百燈二至迄被差留候間︑其段御心得可
有之候︑以上
十二月廿九日
この一連の経過は﹁為政者の死﹂に先行して﹁鳴物停止令﹂が準備されていることを示す︒すなわち︑日頃﹁鳴物
停止令﹂にたびたび接している人々の眼には﹁為政者の病﹂の段階で出た御触が本来のスタイルの﹁嗚物停止令﹂と
同様の緊張感をもった御触として映じていたことであろう︒さらにいえば︑この御触の段階では具体的な規制の対
象・程度・期間といったものが明示されていない分だけ﹁為政者の死﹂後に出された御触以上の心理的圧迫感を与え
また︑座応元年(‑八六五︶
口 説
六五
︵一七
0
八 ︶
五月
二 五日付の寺社奉行の御触︵史料番号︹二
0六︺︶は︑第一四代将軍家茂が長州
笹 間 慶 次
久保田安次郎 寺社奉行
候︑以上 また︑慶応二年(
‑ 八
六 六
︶
五月廿五日
さらに︑同年九月 ニ ︱日に家茂が京都で長州再征の勅許を得た後︑大阪に到着した際にも寺社奉行は御触︵史料番
一昨廿三日京都御発駕︑大坂御城被遊着御候︑尤︑兼而相触候通︑諸事相慎︑可致穏便候︑其旨可相心
得候︑以上
九月廿三日
︱二月五日に徳川慶喜が京都で征夷大将軍宣下を受けた後︑京都を発ってから大阪城
に到着するまで同三年二月五日付の寺社奉行の御触︵史料番号︹二五八︺︶は次のように述べる︒
上様︑今五日京都御発駕︑大坂御城迄可被遊着御候間︑兼而相隅候通︑諸事相惧︑可致穏便候︑其旨可被相心得 公
方 様
︑
号︹ 二
二三︺︶で次のように述べている︒
候︑巳上 再征のため江戸を出発するにあたり左のように述ぺている︒
公方様︑去ル十六日江戸表被遊御進発候二付︑御凱陣相済候迄︑寺社家之面々下二迄弥御諸事相慎︑致穏便︑別
而火之元入念可被申付候︑右之通被相心得︑下仕之者迄扇口可被申付候︑尤︑追而御凱陣被済候ハヽ其段可相触
関 法 第 六
一巻
六 号
六六
寺社奉行 寺社奉行
︵一 七 0 七
︶大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂
九月七日 た政治情勢を踏まえて出された事実上の﹁鳴物停止令﹂という他はないであろう︒
六七
︵一七 0
六 ︶ 寺社奉行 右の三通の御触でも本来のスタイルの﹁鳴物停止令﹂でよく見かけられる﹁諸事相慎﹂とか﹁穏便 ﹂ あるいは﹁火
之元﹂といった用語が登場する︒ここでも具体的な規制の対象・程度・期間等の明示がないので︑これに接する人々
に与える心理的圧迫感は穏やかなものではなかったと思われるが︑これらの御触は﹁幕府存亡の危機 ﹂ という緊迫し
さらに︑慶応二年(‑八六六︶九月七日付の寺社奉行の御触︵史料番号︹二五〇︺︶は次のように述ぺる︒
今般︑御末家松平靱貞様御役被免︑背口請入︑御高之内半知被召上︑逼塞被仰付候︑芸州表
方被申越候︑右二付︑
殿様御老中様江御内之口被成御伺候処︑御指控御伺被差出候様︑御附札を以︑御指図被仰候段申来候二付︑御指
控御伺被仰立候︑依之︑今七日 左之通相慎候様被仰出候︑
右之通︑追而相触候迄被差留候︑此節御停止中二候得共︑別而火之元入念可被申付︑其旨可相心得候
ここでは︑芸州で﹁松平靱貞﹂という人物が役職を罷免されたうえに御高を半分没収され逼塞まで命じられたこと
︵長州再征に対する賛否の動向に起因する制裁か︶︑さらには老中の指図で﹁御指控御伺﹂すなわち﹁鳴物停止令﹂が 一︑湯立・百燈・托鉢・夜念佛井釣挑灯等差出候義可被相止候事 一︑鳴物・高磐・普請無用事 卯二月五日 寺社奉行
とになるであろう ︒
出されるに至ったことを伝えた後︑寺社奉行の判断で﹁鳴物・高盤・普請・湯立・百燈.托鉢・夜念佛・釣挑灯等
﹂
を禁止し﹁別而火之元入念可被申付﹂という文 言 で締めくくっている ︒ この﹁松平靱貞﹂が如何なる人物であるかは
不明であるが︑これも﹁幕府存亡の危機 ﹂ もしくは 一 種のお家騒動を原因とする﹁鳴物停止令﹂といえるであろう ︒
また︑この御触では鳴物等の停止期間は明示されなかったが︑後日︑次のような御触 ︵ 史料番号︹ 二 五 三 ︺ ︶ が同年
兼而被仰出候松平靱貞様逼塞被仰付候二付︑於江 戸 表︑去ル十六日御差控御伺書朝当井上河内守様迄松平陛之助
様ヲ以被差出候虞︑同夕御附札を以︑不及其儀候条御差圏有之候︑依之︑兼而被仰出置候慎之義
右之通︑今日被成御免︑尤御停止中慎之義者是迄之通可被相心得候︑已上
九月廿四日
これは先の九月七日に出された﹁鳴物停止令﹂が九月 二 四日付で﹁御免 ﹂ 扱いになったことを伝える御触 ︵
い わ
ゆ
る赦免令 ︶
である
︒
しかしながら︑この御触の末尾にある﹁御停止中慎之義者是迄之通可被相心得候
﹂ という 言
い 回
しは町触形式の﹁鳴物停止令﹂でも見受けられるところであるが︑この解釈しだいでは恒常的な静謡を強いられるこ
ところで︑第一四代将軍家茂は実際には慶応二年(‑八六六︶七月 二
0日に大阪城で没しているのであるが︑長州
征伐の戦略上その 事
実は
一 ヵ月間秘されて翌八月 二
0日に公表された ︒ これを受けて寺社 奉 行は翌
ニ ︱
日に次のよう 一 ︑鳴物・高磐・普請之事
一 ︑
湯
立 ・百燈・托鉢・夜念佛井釣り挑灯等之 事 九月 二 四日付で寺社奉行から出されている ︒
関 法 第 六
一巻 六 号
六
八
寺社奉行
︵一 七 0 五
︶大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂
八月廿一日
ここでは︑先ず前者で概括的に﹁普請・鳴物・高磐・殺生﹂を禁止し︑﹁火之元入念可被申付候﹂と結び︑併せて
後者で具体的に﹁正鐘・半鐘・太鼓・オと高キ鳴物・讀経・夜念佛.托鉢・湯立・百燈・釣挑灯﹂を禁じたうえで︑
その範囲を「諸鳴物•仏事二用候品等も堅禁可被相慎候」と拡大している。これは一見「為政者の死」を前提とする
﹁鳴物停止令﹂のように見えるが︑先述した第一三代将軍家定の場合と同様に﹁鳴物停止令
﹂が現実の﹁為政者の 右之通︑可被相心得候︑以上 一︑湯立・百燈・釣挑灯等二至迄も可被相止候事 昨廿日︑公方様被遊甍御候旨申来候︑依之︑普請・嗚物・高磐・殺生御停止候︑日数之儀者追而可相触候︑諸事 於寺院平日被相用候正鐘・半鐘・太鼓等者勿論︑其外オと高キ鳴物・讀経之節繋なとも此節
□二付︑可被相止候
但︑夜念佛.托鉢修行等有之分可被相止候事︑
右別段之仰出者無之候得共︑諸鳴物・佛事二用候品等も堅禁可被相慎候事︑ 事 ︑
八月廿一日 相惧︑此節別而火之元入念可被申付候︑以上
な二つの御触︵史料番号︹︱‑四四・二四五︺︶を出している︒
ヽLナj︵一七
0
四 ︶
寺社奉行 寺社奉行
一九
八七
年︶
︒
慮のほうに比重のかかった法令であることを示しているといえるであろう︒
︵一七0
三 ︶
死
﹂と容易に切り離しうるということは︑﹁嗚物停止令﹂が﹁為政者の死﹂よりも明らかに治安維持という政治的配
かくして︑近世の﹁鳴物停止令﹂は極めてご都合主義的な法令であり︑宗教生活・宗教的感情に深く介入して幕府
法秩序︵国法秩序︶を浸透させようとするものであり︑身分の上下にかかわらず権力への恭順を強いるものであった︒
幕末の﹁嗚物停止令﹂は﹁幕府存亡の危機
﹂が産みだした例外的なものではなく︑むしろ﹁幕府存亡の危機﹂であっ
たがゆえに本当の姿が露見したといえるのではないか︒換言すれば︑この﹁鳴物停止令﹂をイデオロギー的に継承し
た明治政府が﹁国家神道﹂によって﹁臣民﹂
(1 8 )
は仏法を凌駕したのである︒
関 法 第 六 一 巻 六 号
の宗教生活を束縛したことに象徴されるように︑近世の王法たる幕府法
︹ 註 ︺
( 1
)
﹃尼崎地域史研究事典﹄参照︒なお明治︱
二 年
(‑八七九︶の﹁寺院明細帳﹂︵﹃地域史研究﹄第七巻第一
号 ︑
一九
七七
年︶
によれば﹁元和年中行泉中興﹂とあるにもかかわらず﹃尼崎志﹄(‑
九三
0
年︶では歴代住職名中に見あたらないとされていた﹁行泉﹂なる人物が﹁大行院文書﹂のなかの一連の史料︵史料番号︹一
五 ・
一六
︺︶ に見 出さ れる
︒
(2)史料番号〔四四・五五・五六•五七・六七〕等がこれに該当する。
(3)これについては近藤浩二﹁尼崎城門の領民通行﹂︵﹃地域史研究﹄第三八巻第二号︑二
0
0
九年︶に興味深い報告があり︑﹁御門通札﹂・﹁夜行札﹂・﹁夜舟札﹂といった﹁城域パスポート﹂とでも表現すべき制度の存在を明らかにされている︒
因み
に本件史料番号〔四・一八・一九•五一・ニ三八〕中の記述はこれに該当するものと思われる。
(4)これに関する本件文書中のすべての御触書を﹃幕末御触書集成﹄︵石井良助・服藤弘司編︶の第二巻︵および他の巻︶と
照合した結果︑史料番号︹二五二︺以外は同じものが全く見あたらなかった︒
(5)﹃舜旧記﹄寛永九年二月八日条︒(6)黒田日出男「こもる・つつむ•かくす」(『日本の社会史』第八巻所収、 七〇
大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂
一九 九
二
年 ︶
︒
七
(
7
)林紀昭﹁法社会史的にみた藩
(‑
) ﹂
︵
﹃
法 と
政 治
﹄
第四
三巻 第
四 号
︑
(
8
)林由紀子﹃近世服忌令の研究
﹄(‑九 九
八 年
︶
︒
(
9
)村田路人﹁非領国地域における鳴物停止令﹂
︵ ﹃
大阪の歴史﹄第五六巻︑
二0 0 0
年 ︶
︒
(
1 0
)
中川学﹃近世の死と政治文化﹄
︵二
0
0 九
年 ︶
︒
(
1 1
)
大平聡﹁嘉永六年の遊行上人と鳴物停止令﹂︵﹃新しい歴史学のために
﹄第 二
0
八 号
︑
一
九九二年
︶ ︒
(12)史料番号〔九四・ニ―-.―二五.―二七・一五六・一五七•一六四・一八O·一
九 0 .
一九四・ニ
三ニ
・ ニ
四
0 ・
ニ四
四 ・
ニ
四 六
・
ニ
五七︺参照
︒(
1 3
)
史料番号︹九五・
一九
一・ ニ
ニ
四・ニ三
三・
ニ四五・ニ四七︺参照
︒(
1 4
)
これは火事を発
生させないように注意を喚起しているだけではなく︑火
事によって人が大勢集まり騒動になることを警戒
しているのである
︒(
1 5
)
その他︑同様の御触として史料番号︹
一八
0 .
︱
八
一・
ニ三
ニ・
ニ三
三︺参照
︒(
1 6
)
この用語は本件文書では最初の使用例であるが︑﹁湯
立神事﹂ないし﹁湯立神楽﹂のことを指しているものと思われる
︒これは神前で大釜に入れた水を煮えたぎらせ︑その湯に笹の葉を
浸し︑それを人前で振り払
ってしぶきをかける儀
式の こ
と で あ る
︵
吉田徳夫教授のご教示による︶
︒(17)史料番号〔ニ―•六七・―-0.――一.―-四・一五三・一六三・一六七・ニ五五〕等、参照。
(
1 8
)
この観点からの研究は︑吉田徳夫﹁中世の触稿政策﹂
︵﹃ 関
西 大
学
法学論集﹄第四 0
巻 第
六 号
︑
一
九
九
0 年
︶・同﹁中世末 期の聖と寺院社会近世賤民の起源によせて﹂︵﹃同朋大学佛教文化研究所紀要
﹄
第
一九号︑二 0
0
0 年
︶・ 同
﹁ 中 世
の 被
差 別
民 ﹂
︵ ﹃
新修大阪の部落史﹄上巻所収︑
一九九五年︶・同﹃部落問題の歴史的展開
﹄︵ 二
0
0 九年︶等に詳しい
︒︹附記︺吉田徳夫教授には︑大行院文書を﹁発見﹂するきっかけを
与えていただいた上に︑本件考察を展開するにあたり数々の
ご 教
示
を賜り︑深く感謝いたします
︒︵一
七 0
二 ︶
大
︻ 史 料
︼
一
九 ︺
の付箋のみ年号が明確であるに
︹ 凡 例
︺
•この史料は尼崎市立地域研究史料館に所蔵されている原本を
翻刻したものである
︒・旧字・旧かな遣いは︑そのまま残した
︒・ 俗
字 は
︑
一
部を除いて原則的に正字に改めた
︒•読点は原本には存在しないが、読みやすくするため適宜施し•原本の訂正箇所は、可能な限り訂正前・後の文字が確認でき t こ ︒
るようにし︑訂正前の文字の左へと記号を附した︒
•原本の欠字箇所は、原則として文意を損なわない限りなくし、後続の文章をつめた︒•原本の加箪・挿入箇所は、そのまま再現した。
・虫損等により判読しがたい文字は口で
示し︑推測可能な文字
は口の右に
︵︶
で 示
し た
︒
•原本の記載順序が年号と一致しない場合があるが、原本の記
載を優先した
︒・例外的に史料番号︹
一行 院 文
︵尼 崎市 地立 域研 究史 料館 所蔵
︶
書
もかかわらず︑まったく無関係な箇所に挿入されていたので︑
年号的に矛盾のない箇所へ移し変えたが︑本来の場所は明記
してある
︒・通し番号は原本には存在しないが︑史料の性質上
.体のものと見倣しうるものを除いて︑個々の史料ごとに施した
︒•原本は七冊からなるが、すべてにおいて整然と年月日順に記載されているわけてはない
︒尼崎市立地域研究史料館によっ
て添付されているラベルの番号順にしたがって翻刻した
︒・参考までに︑各冊ごとに含まれる年代の大まかな分類を左に
掲げる
︒第
一冊
︵ 天
明・享和・寛政・文化︶
第
二冊︵文化・文政・
天保 ︶
第三冊(弘化・嘉永•安政)
第四冊︵安政五年九月から同六年︶
第五冊︵安政七年から万延元年︶
第六冊︵安政五年正月から同年八月︶
第七冊︵元治
二年から慶応
三年 ︶
朝 比 奈
七
︵ 一 七 0
; )
修
︹
︳ 一
︺
(表紙)
大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂
御奉行様
口状
寺社 ︻
第︳
冊︼
願書差出覚窮
乍恐以書付奉願上候
一︑私義来七月中旬大峯為修行登山仕︑且官職等仕度奉存候︑
尤之於大峯小笹護摩修行仕︑別而殿様御武運長久御息井延命 与御家中安全御祈蒻仕︑御札献上仕度存候︑乍恐此段御許容 被成下候ハヽ難有奉存候︑以上 文化十四年
丑三月
︹
︳
︺
寛政年中 享和元年より
願上三日内二御聞済
宮町
大行院
印
御村方御役人衆中
︹︱︱‑︺
︵マ
マ ︶
一︑今般拙院配下摂州川邊郡成就院泰勢儀︑此度大般若経健立
仕度由二付︑其御地為勧進往通仕候間︑無滞徘廻之義頼入存
︵意力︶
候︑為
□
別勧進往来如件 享和元年
同所々
酉五月日
御支配人衆中 諸國騨所
天明八年
醍醐山御直講
未︱
︱︱
月日
七
某
右今般醍醐御殿御用之儀二付︑其御園筋吐罷越候間︑人馬等無
滞御出し可被遣候︑自然行浩之硼旅宿之義宜敷御世話頼入存候︑
為其御願御座候︑以上
大行院泰厳
︵一七
0
0 )
醍醐御殿
当山方修験道 役院摂州厄弁
何や
役 院 印
印
当院門内稲藤明神江心信之方より今晩燈明ともし井口尊少々献
し申度様申候二付︑乍恐御断奉申上候︑以上 ︹ 五 ︺ 一︑夜船札壱枚︑右備口仕候義相違無御座候︑尤明日御通弁可仕候︑以上 ︹ 四 ︺ 所々 諸
駁
覺
酉二月日 乍恐口上
酉︱
︱︱
月日
宮町御役人中様
御役人中 御修験中
関 法 第 六 一巻 六 号
大行院 宮町大行院
印
大 行 院 印
︵ マ
マ︶摂州厄弄役院
︹ 七 ︺
乍恐口上書
[︑戸田左衛門守様当御城被為成御築︑寛永年中始而御城入被
遊候二付︑大行院義依而袈裟頭職被為請︑御祈躊札指上︑御
目見江候趣被仰付難有承口仕候相績し︑青山様御代々尚亦当 御奉行所
寺
社
四月日 天明八年
乍恐口上書
去極月願文之口書差出候而醍醐御殿御役所江罷出︑宗旨之義何
卒古来より之宗門相績御許容可被成下之趣願上候所︑御聞済無
之間︑御尋候二者御地頭様御役所江納来候帳面之趣書上候様被
仰候二付︑則別紙之通相認差出し候所︑弥不相済由被申聞︑追
而相礼し被為成候而被仰聞︑先帰國被仰付候︑依之︑累年差上
︵ 告
力︶方候帳面是迄宗門之大出寺名目無之候故︑此度二而も右同様仕置
︵書 力︶
度奉存候︑何卒日来大出寺名目書添出シ度二依︑御断奉申上候︑
乍恐右之御趣御聞済被成下候得ハ難有可奉存候︑以上 ︹ 六 ︺
七四︵一
六九 九︶
宮町大行院
︹ 九
︺
以上
大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂ 乍恐口上 御奉行所 月
日
乍恐口上書
︹ 八
︺
未極月日寺社御奉行所
大行院 大行院 御城主様御代々不相替右之□通相勤来候︑猶又吟味御祈藉之
硼ハ弟子筋山伏相□当院□二おゐて
一︑績修行仕︑御祈輯札指上候︑御口に御座候︑勿論外山伏よ
り各別御札等献上之義古来5一向無御座候由及承候︑右今般
御尋被為成候二付︑御断言上仕候︑以上
去ル霜月付ヲ以言上候宗門之儀二付︑此度江州飯道寺岩本院室
江明廿日方罷越︑当院主之御口簡相窺︑其上品二より帰り掛醍
醐御殿江罷出候而奉存候□私俄者老年与申︑遠方江罷越義如何
与奉存候得者代智道差越度奉存候︑右二付乍恐御断奉申上候︑
奉差上一礼之事
一︑累年御改被為成候宗門人別帳面︑唯今迄中本山口書来候得
共︑以来大本寺称号書加江度奉存︑別紙下帳を以奉伺候処︑
願之通御聞済被為在被下難有奉存候︑尤右大本寺書加江之儀︑
去ル亥八月院室江罷越候醐︑則岩本院主被申付候二付︑今般 ︹一︳
︺
御役所 乍恐口上書
兵庫津関屋町山伏大蔵口弟子口勢与申者︑当院法用繁多二御座
候故︑暫相頼罷越候二付︑御断奉申上候︑以上
子正月十二日
︹
o
︳︺ 御奉行所 寺社 子正月四日七 五
︵一
六九
八︶
大行院 大行院 一︑私儀昨夜不圏持病差覆︑療養仕罷在候得者未夕相治り不申︑難儀仕居り候︑右二付候而者明日御殿辻罷出候儀難相成様奉存︑御断奉申上候︑乍恐右之段御許容被為成被下候ハ︑難有可奉存候︑以上
来七日︑如御例年始御祈蒻札差上奉存候処︑此節少々不快二御
乍恐口上
累年御改被為成候宗門人別帳面︑是迄中本山口書上候得者以来 別紙書記仕候様大本寺称号書加江右之趣二相認度奉存候︑尤岩
本院王茂私方ガ右之段御願可申上与去ル亥八月院室江罷越候硼︑
︹一
六︺
ロ ②
御奉行所
︹︳
二︺
申聞被置︑抜又只今迄之岩本院同行与御座候得共︑是亦岩本院 末而書改度候二付︑右之両様乍恐奉伺︑宜敷沙汰被為成下候
ハヽ難有可奉存候︑以上
寛政三亥冬 子正月十二日
︹一
三︺
大行院泰厳
印
通二而御座候
' ︹
一五
︺
. ︵
付箋
①︶
墓地かへ之事
宮 町 惣 代 江
初而如件
乍恐口上
右毎年切支丹宗門御検施被仰付︑五人組判形井二宗判仕指上申 候︑少シも帳内二壱人も無御座候︑不断心を付申候節︑脇力訴 人御座候ハ︑五人組者不及申上︑名主組頭惣代迄死罪可被仰付
候︑兼而誓詞被仰付候上者囲ひ申心毛頭無御座候︑為後日判形︑
一︑寛永五辰年二月
︵マ マ ︶
御上様たうすを被下置候︑則地祭り者大行院被致候︑右之
菩提寺——―
︹一
四︺
子十二月
寺社
御奉行所 而如件
年号月日
寺社
大 行 院 印 御 奉 行 所
大行院 願出候趣二相違無御座候︑右二付為後々年奉差上候
一礼︑依 関 法 第 六 一巻 六 号
座候故︑二代之を以献上仕度奉存候二付︑乍恐奉伺候︑以上
七六︵一
六九
七︶
︹ 一
八 ︺
大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂ 乍恐口上 趣乍恐奉窮候︑以上
寛永四年
寺杜
御奉行所
︹ 一
七 ︺
三月廿七日 乍恐口上
大行院 一右之通︑菩提寺記録二有之︑其棚拙院ガ行泉法印参り︑地祭一 り致し候由︑以上 明廿八日社家組御改印形被仰付奉畏候
□私俄︑此頃少々不快ニ
而罷在候故︑奉承御容赦二代之を以為替度奉存候二付︑右口の
一
︑御城内通札壱枚去ル宝暦年中宮町会所ガ借用仕罷在候処︑
如何致候事休哉今般紛失致候故︑家内無残所相尋候得共︑
一向相知レ不申︑不調法之段入当惑仕居り候︑右二付言上仕候
間︑乍恐御憐慇之御沙汰被為成下候様奉願上候︑以上
寛永四子年 大行院
七 七
大久保波江殿江差出
其後大鵠七右衛門殿江差出ス
子四月廿八日
寺社御奉行所
以 上
乍恐口上書
一
︑御城内諸士様方ガ正五九月井二陰時急成法儀杯御巾越被下
候節︑右御祈藷札納私持参仕候得者御門通行前々より御断相
立御座候得共︑法用繁多之硼︑無掟弟子小者札守為持︑越度
︵乗 力
︶
之節御門通札無御座故︑及遅滞候而者御施主方之思召甚口之
口口奉存候︑右二付御当地寺町猶又
一向宗同様自分印鑑札を
以右使之者御門御通シ被為成︑施被下候様奉願上候間︑乍恐
憐慇之上︑右願之通被仰付被下候ハ︑御思慮難有可奉存候︑ ︹
︳ 九
︺
御郡代様
寺社御奉行様 四月日
︵
一六 九
六 ︶
︹ニ
ニ︺
乍恐口上 寛政六寅年三月日寺社御奉行様へ
大行院
寛政六寅年
十一月八日
︹二
〇︺
一︑本山江州飯道寺岩本院今般大峯登山被致候二付要用御座候
故︑乍恐埒明何分より二代智道差越度存候願︑右二乍恐御改
奉申上︑以上
︹ニ
ー︺
乍恐書附を以奉願上候
一︑当院跡及破損修覆仕度候得共︑難及自力御座候二付︑何卒
︵番 力
︶
奉承御慈悲︑御当地町中口寅四月
5来辰四月迄右三ヶ年間毎
夜和讃を唱︑講中之もの共相廻り十方之志ヲ請︑追々修覆之
助カヲ仕度趣奉願上候︑乍恐右願之通被為仰付被下候ハヽ難
有可奉存候︑以上 子七月十二日寺社
御奉行所
寛 政 六 寅 年 十 月 十 日
乍恐口上
関 法 第 六 一巻 六 号
月日
町役人奥印 大行院 一︑来ル十日当院金昆羅尊會式二付︑信心之方方九日・十日之両夜百燈灯致様申来︑猶又信□口返他所壱人少々罷越候二付︑
此段御断奉申上候︑巳上
年号
寺社
御奉行所
︹二
三︺
右之通差出シ候
乍恐書付を以奉願上候
一︑当院金毘羅講中之内︑若者共心願之儀御座候二付︑金毘羅
尊前二おゐて口古浄瑠璃奉納仕度段巾出候二付︑奉納為致度
奉願上候︑御許容被為成下候ハヽ来ル十一日ガ同十五日迄五
日之間昼九ツ時力暮限り奉納為致申度奉存候︑右願之被為仰
付被下候ハヽ難有可奉存候︑以上
寺社 御奉行所
七八︵一
六九
五︶
宮町大行院
︹二
五︺
大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂ 乍恐書付奉願上候
御郡代様
右之通願出候二付︑乍恐奥印仕候︑巳上 十一月八日
寛政六寅年
︹二
四︺
乍恐書付を以奉願上候
惣 名
代 主
印
中在家町しらかノ
九 右 衛 門 印
一︑宮町大行院金毘羅尊を心願御座候二付︑此度講中之者共申
来 ル
︵藝力︶
合︑右金毘羅尊前二おゐて日数十
一日
6
日数五日之間口古
A
︑
A︑
浄瑠璃奉納仕度︑尤九ッ時6
暮時限り迄奉納仕度奉願上候︑且火之元者勿論︑喧嘩・ロ論等無之様︑講中之者共井二私一
統取締世話可仕候︑何卒右願之通被為仰付被下候ハヽ難有可
奉存候︑以上 中在家町しらかノ九右衛門 講中名代
寺社
御奉行所
八月日
七 九
︵一
六九
四︶
宮町 乍恐奉願上口上書
一︑私儀︑老衰二罷成候二付︑隠居仕︑二代智道江院跡相続為
致︑法用万端為相勤申度奉存候︑乍恐右願之通被為御聞済成
被下候ハヽ難有可奉存︑以上
寛政九巳年
大行院泰厳
︹ 二
六 ︺ 御奉行所 寺社
十一月日 ︵マ
マ
︶一︑当院金毘羅講中之内若者共心願之儀御座候二付︑金毘羅前
︵坐
力
︶
尊前当月十
一日5今十五日之処︑口古浄瑠璃奉納仕度段出候
ニ付︑先達而御願申上︑早速御許容被成下︑奉納仕候虞︑急
ニ心願之者も出来仕候二付︑尚又猶又来ル十六日
5
廿日迄何口間日延仕度︑此段御願奉申上候︑差掛御願申上候義恐多御
座候共︑何卒右願之通為仰付被下候ハヽ難有□口存候︑已上
寛政六寅年
当山派修験道
町 役 人 印
大行院
︹二
七︺
乍恐奉願上口上書 一︑当院二代智道義︑来七月上旬力大峯修行与して︑登山為致︑
且官職之願届等為相続度存心が御座候︑乍恐右之通奉願上候間︑
御憐慇之上︑御許容被為成被下候ハヽ難有可奉存︑以上
宮町
寛 政 八 辰 年 大 行 院
寺社
御奉行所 差上申請負證文之事
一︑御当地宮町大行院智道与申者我口存之者二御座候︑右智道 此度大行院相続願之通被為仰付︑依之由緒證文差上候二付︑
請負二相立可申処︑相違無御座候︑宗門之儀者則天台宗二紛 無御座候︑然上大行院儀兼而被為仰付候御郡法堅相守︑邪法
請用為仕間敷候︑其外如何様之義御座候とも私罷出急度埒明 ︹
二八
︺
六月日
右之通願出候二付︑乍恐奥印仕候︑以上
関 法 第 六 一巻 六 号
名主"惣代
E
名 王
十郎右衛門
奥印惣代
永 次
郎 印 印
寛政九巳年
︹二
九︺
t︑長々晴天二而渇水仕諸事難儀之由二御座候二付︑乍不及雨
︵賑 力
︶
乞祈願致度︑右二付︑則今十二日夜︑同十三日両夜之間口り 之 漂 筋 江 罷 出 執 行 仕 度 心 願 二 御 座 候
︑ 尤 就 右 二 袈 裟 下 山 伏 少々相招助法力為致候︑右之段︑乍恐奉願上候︑右願之通被 為仰付被下候ハヽ難有可奉存︑以上
︹三
〇︺
︵病 力
︶一
︑先達而者御苦労被成下添奉存候︑私儀此節口氣少々宜敷御 座候間︑明日御奉行所様初御家中様年始御祝儀相勤度存候︑
右之段乍憚御願奉申上候︑己上
乍憚口上
寛政九巳年七月十二日
乍恐書付奉願上候
宮町
大行院
八月日
寺 社
御奉行所 様
梶 ノ 源 右 衛 門 印
可申候︑為其請負證文︑依而如件
八〇
請負人
︵ 一
六九
三︶
︹三
︳︺
︹ = ︳ 二
︺
大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂ 一︑此度大坂御奉行所ガ御用之趣︑醍醐御殿江被仰立︑右二付私御召被為成候二付︑上京仕候所︑未夕御用相障不申候得共︑急御用与御座候間︑則今十二日方又々上京仕︑御断申上候而帰國仕候︑勿論別書相添奉差上候︑右之段︑乍恐御断奉申上 乍恐口上
月 日
七月 乍恐口上書
︵マ
マ
︶一︑長々晴天二而渇水仕候故︑先達而在方祈願煙方
5
被相頼於口川雨乞祈願仕度趣︑当院ガ御断可申上処︑右願主濱田村・
今北村・東大嶋村・東新田村・右之四ヶ村御願奉申上候間︑
当院
5
決而御断不申上候段︑恐口奉存候︑右之御尋御座候故︑以書付言上仕候︑此度之心違之段︑宜敷執成奉願上候︑乍恐
右之趣︑書付ヲ以奉差上候︑以上
寛政十二
未年
金澤五百右衛門殿
大行院 大行院
寛政十一
未年 寺社
御奉行所
︹ 三 ︱ ︱
‑ ︺
寺社御奉行所
︹三
四︺
乍恐奉願上候口上書
一︑去未年人別御改之糊︑井上屋きん伯父冨松︑右両人者共奉
願上候而私方江同家二加江御座候処︑段々不埒之義共申候間︑ 九月廿六日 寛政十一未年 候︑以上
八月十二日
八
︵一
六九
二︶
宮町大行院 乍恐口上書
一︑於此度醍醐御殿︑私江度々御用之趣被為仰聞候得共︑如何
仕候而宜鋪御座候哉与乍恐口案二相障不申奉存候︑右二付︑
本山岩本院室江罷越︑右之趣申上候而御請申上度様奉存候︑
依之明廿七日江州飯道寺江罷越度奉存候︑此段乍恐御届奉申
上候︑以上 宮町大行院
︹ 三
六 ︺
日 芸 ︶
寛 政 十 二 申 年
寺社
御奉行所 以
上
正月四日 十月日 同家帳面相除キ申度奉存候︑右二付︑乍恐此度奉願上候︑願 上之通被為仰付被下候ハヽ難有可奉存候︑以上
寛 政 十 二 申 年
寺社
御奉行所
︹ 三
五 ︺
乍恐奉願上口上書
︑来ル四月六日七日
︵変力
︶
︵ マ
マ︶
役行者神
□大 菩
薩 ︑
一
千百廻忌二付︑於下醍醐伽監内︑三賓
院御門主︑右御執行在之候︑右二付︑当院門主二前紙奉入御
免御通之立札差出候様︑本山一二賓院御門主方被申上候二付︑
差出度奉願上候︑右願之通被為仰付被下候ハヽ難有可奉存候︑
関 法 第 六
一巻 六 号
菩 提
寺
J 大行院 大行院
宮町一
︑従来ル十五旦二日之間︑庚申供養相勤申度奉存候︑乍恐此
段御窺申上度奉存候︑何卒御聞済被為成下候ハヽ難有可奉存
候︑以上
寛政十二申年
︹ 三
八 ︺
ロロロ
□御座候ハ︑奉賀候︑口者御役兼□安静被□
□
長々御口偏
難有奉存候︑宜御反則返上仕候︑宜御取斗奉願上候︑ロロ
A A︑︑A
︹ 三 七 ︺
乍恐口上書
.︑従明後十三日︑要用御座候二付︑醍醐御殿江罷登リ申度奉
存候︑右二付︑此段乍恐御断申上候︑以上
享 和 元 酉 年
寺社
御奉行所 四月十
一日
乍恐口上書 野口様 卯十
一月六日A
︑
八
︵一
六 九
一︶
宮町
大行院 大
行 虚
' ﹂
乍恐奉願上候口上書 一︑来ル十日︑金毘羅尊會式二付︑九日・十日両日︑御地頭様 御武運長久︑為御統治安全・五穀成就︑大般若経韓読仕度奉 存候︑右二付︑乍恐此段︑御願奉申上候︑右願之通被為仰付
被下候ハ︑口偏二趣口可奉存候︑以上 ︹
四〇
︺ 上
大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂
享和元酉年 御郡代様
︹三
九︺
一︑例年之通九日・十日︑金毘羅尊會式相務申度奉存候︑右二 付︑他所壱人少々罷越候二付︑此段︑乍恐御断奉申上候︑以 寛政十二年
寺社 御奉行所
申十月七日
乍恐口上
寺社 御奉行所
七月九日
宮町
大行院
宮町
大行院
十月五日 享和元年
十月五日
︹四
一︺
寺社 御奉行所 例年之通︑九日・十日︑金毘羅尊會式相勤申度奉尊候︑右ニ
付︑十日
一日□
他所壱人少々罷越候二付︑此段︑乍恐御断奉 申上候︑以上 享和元酉年 寺社 御奉行所
︹四
二
︺
乍恐口上 乍恐口上
︵マ
マ
︶一
︑来ル十日︑例年之通︑金比羅尊會式二付︑信心之者占九 日・十日両夜︑百燈灯度様申来候口亦十日
一日者他所商人 少々罷越候二付︑此段︑乍恐御断奉申上候︑以上 寺社
御奉行所
六月五日
八
︵一六九
0 )
右之通両通︑壱通者 上二御郡代様与記也
宮町
大行院 宮町
大行院
宮町
大行院
印
正月 寺 社
御奉行様 所
A︑
享和二戌年
︹四
四︺
︹四
三︺
乍恐以書付奉願上候
関 法 第 六 一巻 六 号
町 役 人 奥 印
宮町
大行院 右之通願出候二付︑乍恐奥印仕候︑己上
名主
十郎右衛門
惣代
ロ ロ ロ ロ
宮町
大行院
印
一︑御領分濱田村寛右衛門妹つ
f F と申︑年廿七オニ罷成候もの︑
此度︑拙僧妻二仕度奉存候︑尤宗旨者代々禅宗二而西宮順心 寺旦那二紛無御座候︑自今︑御当地人別御帳面江御書加へ奉 願上候︑御使客被成下候ハ︑先方送リ
一札取之可奉差上候︑
右願之通被為仰付被下候ハヽ難有可奉存候︑以上
印
乍恐奉願上候口上 一︑今日︑人別御改被為仰付奉畏候︑然ル所︑私義病気二御座
︵マ
マ
︶
候二付︑何卒落印二被為仰付被下候得ハ難有奉存候︑此段︑
乍恐奉願上候︑以上 寺社 御奉行所
印
戌
︹四
六︺
乍恐書付を以奉願上候 一︑御代官御支配所摂州武庫郡今津村蔵六弟宗助︑とし六十
一
歳二罷成候者︑此度︑拙僧侶代二召拘申度奉存候︑依之︑御 当地人別御帳面へ御書加へ奉願上候︑宗旨者代々
一向宗二而 御座候得共︑拙僧方江罷越候上者拙僧同宗二仕度︑奉願上候︑
尤寺請者別紙取置可申候︑御使客被成下候ハ︑先方送り
一札
取之︑可奉差上候︑右願之通被為仰付被下候ハ︑難有可奉存 候︑以上 年号月日 寺社 御奉行所 一︑従明後十四日︑要用御座候二付︑醍醐御殿へ罷登リ申度奉
存候︑右二付︑此段乍恐御断奉申上候︑以上
右之通︑寺社御奉行所江差出候 ︹
四五
︺ 乍恐口上書
四月十二日
八四
印
町 役 人 奥 印
宮町
大行院
宮町
大行院
︵一
六八
九︶
印
大行院文書からみた﹁鳴物停止令﹂ 十月八日 寺社奉行所
乍恐以書附奉願上候
一︑先達而御届奉申上候今津村正徳院弟子洞仙義︑法用為手伝︑
罷在候処︑急病気差覆︑段々服薬等相用︑為致養生︑罷在候
処︑不相叶︑死去仕候二付︑早速︑正徳院へ掛合申候所︑遠
方之義二御座候故︑常院二而葬呉候様申之候︑万事者正徳院
請負二而名前氏ガ送り一札差越申候二付︑奉入候︑院当所ニ
おゐて葬遣度︑奉願上候︑右願之通為仰付被下候ハヽ難有可
奉存候︑己上
享和三亥年
︹四
八︺
十月七日
享和三亥年
︹四
七︺
乍恐口上書
大 行 院 印
大 行 院 印
一︑今般嘗院法用繁多二御座候二付︑同廠今津村正徳院弟子洞
仙与申者︑法用為手僻習︑逗留為致度候間︑右二付︑乍恐此
段御断法申上候︑以上
文化二丑年
以上 ︹五〇
︺ 年号
︹四
九︺
三月 乍恐御届 寺社奉行所
寺社御奉行所
八五
(︱
六八
八︶
澄悲
︵花 押︶
︵晴 力
︶
ロ
則別紙一札一︑常院弟子洞仙儀︑死去仕候二付︑其御地二而御葬可被下
候 ︑
此者儀︑元来中縁者二而御座候得者其外5何之差構無御座候︑
万一外方違口妨申者有之候ハ︑私方迄も罷出︑急度埒明︑其
院江少し茂御難有口申間敷候︑為後日一札︑伯而如件今津村正徳院
一︑来ル十三日ガ心願御座候二付︑讃州金毘羅山へ参籠仕︑右
︵無 力
︶ニ付︑所々口料執行仕罷通り度奉存候︑乍恐此段御届奉申候︑
越後國苅羽郡相崎宿
乍恐 一礼
一︑此度摂院弟子井家来︑御城内︑自分鑑札二而通路為仕度段︑
先達而奉願上候処︑東西追手御門通路御免被成下︑難有仕合 二奉存候︑名鑑札奉拾上候︑自今以後︑弟子井家来之外︑余 人江猥二札借シ仕来為致間敷候様被仰付︑承知奉畏候︑右被 仰付候通︑急度相守︑心得違仕間敷候︑為後日
一札︑乍恐奉
差上候︑以上 文化二丑年四月 寺社御奉行所
嘗時︑堀房右衛門様御役中二而御披露被下︑願之趣相叶候
︹五
二︺
︹五
一︺
松平越中守殿御領分 営山派修験触頭
乍恐口上
関 法 第 六 一巻 六 号
宮町
大行院 不動院弟子
一此度︑了山与申者罷越︑習賞院二おゐて逗留被致申度奉存候︑ 寛政四子四月願出候自分鑑札願書□二有之候二付︑妥二宛
印
︹五
四︺ ニ往来相添奉差上候︑以上 尤妻召連︑両人罷越候二付︑此段乍恐御断奉申上候︑則別紙
文化二丑年
寺社
御奉行所
︹ 五 ︱ ︱
‑ ︺
乍恐口上 乍恐口上 四月廿七日
例年之通︑来ル十日金毘羅尊會式相勤巾度奉存候︑右二付︑信
︵マ
マ ︶
心之者九日・ト日両夜︑百燈灯度様巾来り候︑猶又十日
一日他
所壱人少々罷越候二付︑乍恐此段御届奉申上候︑以上 文化四卯年 十月七日 寺社 御奉行所
右之通︑今一通認︑名当無二て惣代へ遺ス但し︑右之通認︑奥へ右之通寺社御奉候所へ御断奉申上候写し口
]︑今般当院繁多二付︑川邊郡
□
口成就院法用為相勤習
□逗留
為致度候二付︑乍恐此段御願奉申上候︑以上
八 六
宮町
大行院
宮町
大行院
︵
一
六 八 七 ︶
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