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ポーラ美術館のポール・セザンヌ

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(1)

ポーラ美術館のポール・セザンヌ

その他のタイトル Paul Cezanne from the Collection of Pola Museum of ART

著者 奥村 まき

雑誌名 関西大学哲学

25

ページ 89‑107

発行年 2005‑10‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/11932

(2)

ポーラ美術館のポール・セザンヌ

ポーラ美術館は箱根仙石原に二

00

二年九月六日に開館した︒印象派のモネやルノワール︑エコール・ド・パリ

のフジタ︑ユトリロ︑シャガール︑二0世紀を代表するピカソやマティスなどの作品を有するコレクションは︑一

九世紀後半から二0世紀前半にいたるフランス美術の流れをたどることができる︒モネやルノワール︑ピカソなど

重要な作家の作品を多数収蔵しているが︑点数のみならず︑画家の典型的な作例︑主題︑モティーフを中心に画業

の展開に沿った作品を網羅し︑体系的なコレクションとなっている︒例えば︑モネの作品には︑印象派の揺藍の地

となったアルジャントゥイユで描いた風景画や︑彼の画業を語る上で欠くことのできない連作シリーズの﹁積みわ

ら﹂﹁国会議事堂﹂﹁睡蓮﹂﹁ルーアン大聖堂﹂など計一九点を有している︒さらに実際に印象派展に出品されたこと

が確認されている作品も数点含まれ︑そのなかでも第八回印象派展に出品されたカミーユ・ピサロの︽エラニーの

花咲く梨の木︑朝︾

(1 88

6年︶は︑彼が新印象派のスーラに影響を受けて点描を採用して描いた短い時期の貴重な作

例である︒また西洋絵画だけでなく︑黒田清輝︑岸田劉生︑梅原龍三郎を含む洋画︑日本画︑東洋陶磁︑日本の近 はじめに ポーラ美術館のポール

. 

セザンヌ

(3)

代陶磁︑ガラス工芸︑古今東西の化粧道具など約九五

00

点にも及ぶ作品を収蔵している︒

本コレクションは一部を除き︑ポーラグループの会長であった故鈴木常司が収集したものである︒常司会長は︑

父親であるポーラグループの創業者鈴木忍の急逝により︑昭和二九年︑二三歳の若さで社長に就任し︑昭和三0

代には忍社長が着工していた当時東洋一とうたわれた静岡工場を完成させ︑昭和三五年にポーラ銀座ビルを完成さ

せるなど次々と事業を拡大していった︒そしてこの躍進の時代︑昭和三0年代から美術作品の収集を始めている︒

その後も美術品の収集を続け︑平成八年︑創業七0周年を機に﹁財団法人ポーラ美術振興財団﹂を設立した︒この

ころにはすでに美術館建設をかためていたようで︑収集する作品も大型のものが多くなる︒常司会長は作品収集に

あたって︑大原美術館の作品を収集した児島虎次郎のようなアドバイザーを持たず︑自ら勉強し︑作品を選び︑購

入していた︒蔵書のなかにも美術に関するものや︑コレクションに含まれている作家のレゾネが多数含まれ︑その

勉強の一端がうかがえる︒自ら作品を選ぶという姿勢は︑社長就任前に留学していたアメリカのマサチューセッツ

州︑ウィリアムズ・カレッジに在籍していた頃に培われたものであろう︒ウィリアムズ・カレッジには大学附属の

美術館があり︑そこで美術品に親しむことで審美眼を養っておられたのであろう︒実際に︑コレクションを見渡し

てみても︑その審美眼や重要な作家︑またその作品を押さえた体系的な作品の収集には驚かされる︒また︑作品を

購入する際にはオークションを介してではなく︑もっぱら画商を通じて︑自分の希望する作品を求め︑購入を決め

る際もしばらくの間︑自分の部屋にかけ︑じっくりと作品と向き合った上で購入するか否かを決定していたようで

本論で紹介するポスト印象派の画家ポール・セザンヌ

(1 83 8 19 06 )

は当コレクションの中心を占める重要な画家

のひとりであり、もっとも体系的に収集することに成功した画家の一~人でもある。二0歳ごろ、まだセザンヌが画

ポ—ラ美術館のポール・セザンヌ

(4)

ポーラ美術館のポール・セザンヌ

fig.Iセザンヌ《宗教的な場面》

家を目指しパリに向かう前に故郷エクス

1 1

1 1

プロヴァンスで過ごしていた頃の作品から︑一九

00

年の傑作と

うたわれるにふさわしい静物画まで︑人物画︑風景画︑静物画︑水浴図とセザンヌの重要な主題と時代の作品をコ

レクションに加えられている︒惜しむらくは︑サント

1 1

ヴィクトワール山を描いた作品が欠けていることだが︑

そらく会長はそのことに気づいておられ︑美術館完成前の二

00

0年に亡くなることがなければ︑きっと買い求め

ていたことであろう︒ただしかしながら︑セザンヌの画業の転機に描かれたものや様々な主題の作品が収集され︑

これだけでセザンヌの一生をたどることのできるコレクションである︒このコレクションのなかから9点のセザン

ヌの作品を取り上げ︑年代を追いながら述べていくことにする︒

初期絵画ー︽宗教的な場面︾

(1 86 0

18 62

年 ︑

27

.522.2cm

R .

20 /V .1

3

f i g . I )

H

小品ながら︑彼の画業の中でも貴重な作例である︒彼が一八六一年に画家

になる決心をして初めてパリヘ行った二0歳前後に描いたもので︑現存す

る油彩画の最初期の一枚であり︑一九九六年にジョン・リウォルドによっ

て編集されたカタログ・レゾネでは二0番に掲載されている︒セザンヌの

若い時期に特徴的な黒を多用した画面に︑深い緑や赤︑黄色の絵の具で粗

目のキャンバスに荒々しくうねるような筆使いで描かれている︒部分的に

(5)

セザンヌは1870年代初め︑アカデミー・スイスで知り合った九歳年上のカミーユ・ピサロ

(1 83 0 19 03 )

と約二年

間制作をともにする

(4

︒このピサロとの制作はセザンヌにとって彼の芸術を飛躍的に発展させる大きな転換点と)

なった︒一八七二年︑セザンヌはパリ近郊のポントワーズに住むピサロのもとを訪ね︑まもなく程近いオーヴェー

1 1

オワーズに居を定めた︒年上であるピサロは︑青年期の不安定な心の奥底を吐露したような作品を描1 1 I J

ピサロから学んだこと

(1 80 8

18 79 )

フ・ジョセフ・トマ・モンティセリ

(1 82 4

18 86 )

の影響を窺わせる

(2

︒四人の人物が空を指差し仰ぎ見る先には︑)

光り輝く顔がある︒その光を発している顔の周りを︑七つの頭部が取り囲んでいる︒最上部にある頭部はケルビム

のように黄色の翼が備えていているが︑その顔は天使というよりも骸骨に近く︑黒い眼窟の底からこちらをみてい

るようだ︒この中央にある頭部の準備素描

(1 85 8

1862

年 ︑

C. 23

が二つ残されているが︑髭のないふっくらとした)

輪郭のなかに軽く微笑むような表情と︑もうひとつは目を伏せて眉根を寄せた困惑したような表情で描かれており︑

油絵にみられる厳しい表情とは異なっている︒デッサンでは後光らしきものがあるものの︑それを取り囲む頭部は

はっきりとは確認できない︒この奇妙な構図をもつ構図に関して︑1936年にレゾネを編集したリオネロ・ヴェン

トゥーリにより

18 55

5

6年の﹃ミュゼ・デ・ファミーユ﹄誌に掲載された版画﹁中国人とその産物﹂をもとに描いて

いることが指摘されている

(3 )0

厚く塗られた画面は︑

ポーラ美術館のポール・セザンヌ

(6)

ポーラ美術館のポール・セザンヌ

fig.2セ ザ ン ヌ 《 オ ー ヴ ェ ー ル = シ ュ ル = オ ワ ー ズ の 藁 葺 き の 家》

いていたセザンヌを戸外の明るい光の下に連れ出し︑外光のもとで描くことを勧め︑二人は絵の具箱やイーゼルを 背負い︑しばしばモティーフを探しに出かけ︑同じ風景を前に画架を並べて制作することもあった︒このときセザ ンヌは︑ピサロから明るい色彩を用いること︑自然を注意深く観察し︑その観察から得られた光を色彩に置き換え ることなどを学んだ︒この教えが自己の内面を見つめ︑暗く陰鬱な画面を描いていたセザンヌの眼を自然へと向け させ︑描きたいものがあるにもかかわらずその方法論を知らないがために感情に赴くまま筆を走らせていた画面に

秩序を与え︑色彩の効果を熟考しながら︑慎重にタッチを重ねられていくようになった︒︽オーヴェール

1 1

シュル

1 1

ォワーズの藁葺きの家︾

(1 87 2 19 73

年 ︑

72

.3

59 .3  

c m

R. 18 8/ V. 13

5

fi g. 2)

はそのピサロの教えを実践し︑自らの

ものにする過程に描かれたものである︒薄く塗られた絵の具︑短く規則性のある筆致にその成果がみられるだろう︒

この作品の最初の所有者はピエール・オーギュスト・ルノワール

(1 84 1

19 19 )

であった︒セザンヌとルノワールは

制作をともにしたり︑互いの家を行き来したりするなど家族ぐるみの親しい付き合いもしていた

(5

)

一八八二年一月にイタリア旅行に出かけた帰り︑レスタックにいるセザ

ンヌのもとに数日間滞在したおりに制作をともにしたが︑二月初めに肺 炎に罹り︑セザンヌとその母に看病を受けている︒その翌年の︱二月末

にはマルセイユからジェノヴァに旅行していたルノワールは︑

もにレスタックのセザンヌを訪ねるなど︑

会っていた︒また︑

ショケはセザンヌの作 モネとと

たびたび二人はパリ以外でも

セザンヌを高く評価していた彼は︑自らのパトロン

であったヴィクトール・ショケを紹介している︒

品を買い集め︑死後の売り立てではセザンヌの作品が三五点も含まれて

(7)

本作品では︑両脇に緑の残した道が︑大きく画面下から右へ力強くカー

ブしている︒一見分かりづらいが︑正面には緑色の屋根とオレンジ色の

煙突を持つ屋根が重ねあわされて描かれている︒その後ろの一段低く

なったところには家々の屋根が連なり︑煙突からは煙が出ている︒左か

ら家を覆うように大きな木が枝を伸ばしているが葉はすでに落ち︑空は

どんよりと重く曇っているため︑おそらく描かれた季節は秋の遅い時期

であろう︒この風景画にも準備素描

(1 87 4

C. 73 8)

が一枚残されて

いる︒横長のスケッチブックに右手前に大きな土手が描かれ︑それをまわりこむように道がのび︑正面には油彩画

と同じように二つの屋根が重なって描かれている︒季節を違えて同じ場所を描いた︽オーヴェール

1 1 シュル

オワー1 1

ズの藁葺きの家︑冬︾

(1 87

3年頃︑東京富士美術館蔵︑

R. 18 9)

にも︑同様に重ねあわされた屋根が描かれているこ

とから︑セザンヌがこの二つの屋根の重なりに興味を持って描いたのであろう︒

この少し後に描かれたのが︽アントニー・ヴァラブレーグの肖像︾

(1 87 4

18 75

年 ︑

64 .1

52 .8  

c m

R. 21 8/ V. 12

8

fi g. 3)

である︒モデルとなったアントニー・ヴァラブレーグ

(1 84 4

19 00 )

はエクスの出身であり︑幼馴染で︑後に

小説﹃居酒屋﹄や﹃ナナ﹄で名を馳せたエミール・ゾラ

(1 84 0

19

2)

とともにセザンヌの少年時代からの友人であ

る︒詩と美術批評を書き︑とくに彼の死後︑一九0四年に出版されたル・ナン兄弟について書いた研究書で知られ

ている︒彼の母方の叔父にあたるドミニク・オベールとともに︑彼はセザンヌの初期肖像画の重要なモデルであっ

た︒一九三六年にレゾネを制作したリオネロ・ヴェントゥーリは︑本作品を一八七0年ごろに描かれたものだと位

fig.3セザンヌ《アントニー・ヴァラ ブレーグの肖像》

)

°

t ポーラ美術館のポール・セザンヌ九四

(8)

ポーラ美術館のポール・セザンヌ

fig.4セザンヌ〈プロヴァンスの風景》

一九九六年に油彩画のレゾネを編集した美術史家ジョン・リウォルドは︑顔が小さくほぼ四角に近い

タッチを使って描かれていること︑それまでにない微妙な色彩の変化を用いられていることから︑ピサロから自然

の見方︑絵の描き方を学んでいた一八七四ー一八七五年頃の作だとしている︒背景やジャケットには︽宗教的な場面︾

にみられるような勢いのある長いストロークで描かれているが︑なるほどヴァラブレーグを描いた一八六六年の作

品と比べると顔の造作やひげの表現には細かなタッチがみられることから︑ピサロとの制作を経験したあとのもの

5c

m

セザンヌはピサロに誘われた第一回印象派展に︽首吊りの家︑

R. 20 2/ V. 13 3)

を含む三点を︑第三回印象派展には︽ヴィクトル・ショケの肖像︾

蔵 ︑

R. 29 2/ V. 28 3)

を含む一六点を出品した︒

18

79 年の第四回展にも参加を予定していたが︑セザンヌがサロン︵官

展︶にも作品を提出することに反対の声が上がったため︑出品を見合わせ︑その

後︑パリを離れて制作を続けた︒︽プロヴァンスの風景︾

(1 87 9 18 82

年 ︑

54 .7

65 .  R. 44 0/ V. 40 3年 ︑

fi g. 4)

は︑生まれ故郷のプロヴァンスに戻ったときに描い

たものである︒強い陽射しが照りつけるからりと晴れた空の下︑吹き抜ける風が

斜面に立つ木々を揺らし︑その上にはざわめく葉と対比されるようにどっしりと

した家が建っているi︒色彩はより強く鮮やかになり︑斜めの四角いタッチで描

本作品はかつてワイマール大公美術工芸博物館の館長を務めたハリー・ケス

(1 86

8

19 37

)が︑画商ヴォラールより一九0六年の一月に六

000

フランで オーヴェール

1 1

1 1

(1 87

3年頃︑オ

(1 87

年︑個人6

(9)

I I I  

風景と人物の調和—《四人の水浴の女たち》

セザンヌの風景画には︑初期作品を除いて人物が描きこまれることはほとんどない︒しかし唯一︑同一画面に描

かれている主題がある︒水浴図である︒セザンヌが描いた水浴図で残っているもっとも古いものは︑まだエクス

1 1

1 1 プロヴァンスにいた一八五九年︑パリに住んでいる幼馴染のゾラに宛てた手紙に二人で過ごした思い出とし

て描いた挿絵である︒それから亡くなる直前まで︑油彩画︑水彩画︑リトグラフ︑素描なども含めて約三

00

点描

いている︒セザンヌにとって水浴図とは︑少年時代の大切な思い出であるだけでなく︑彼が絵を描く上で学んだ成

果を纏め上げる重要な主題でもあった︒それというのも︑自然を目の前にして描いた風景画と︑知人や家族をモデ

fig.5セザンヌ《4人の水浴の女たち》

が写真によってわかっている

7 )0

買ったものである︒彼はロンドンで﹁マネとポスト印象派﹂展を開催したロ

ジャー・フライ

(1 86 6 19 34 )

の学友であり︑自身もベルリンのケラー・ウント・

ライナー画廊で初めてのドイツにおける新印象派の展覧会を開き︑セザンヌだけ

でなくスーラやゴーガンの作品を収集するなどフランス近代絵画のコレクターの

草分けの一人であった︒そしてロダン以後の二0世紀彫刻を代表する彫刻家アリ

スティド・マイヨールのパトロンとしても知られている︒セザンヌの絵は︑

ポーラ美術館のポール・セザンヌ

(1 87

 0

19 43 )

などの作品とともにケスラーの書斎に飾られていたこと

(10)

ボーラ美術館のポール・セザンヌ

(1 90 4

1905

年︑チューリヒ美術館蔵︶ ルであろうとしている

(9

︒その根拠として︑)

九七 ルとして描いた肖像画や作品の模写を通じてそれぞれ学んだ成果を︑構成と色彩の調和を追求して描くことのできたからだ︒ポーラ美術館が収蔵する︽四人の水浴の女たち︾

(1 87 7 18 78年 ︑

38

.046.2cm

R. 36 3/ V. 38

4

fi g. 5)

も ︑

︽オーヴェール

1 1

1 1 オワーズの藁葺きの家︾

(f ig .2

)や︽プロヴァンスの風景︾

(f ig .4

などの風景画を描くと)

きにも研究したと思われる︑両側から内側に傾く木や明る<輝く緑色の葉の表現がみられる︒一八七九—一八八二年にかけて、それまでに描いていた水浴図のまとめでも行うように、ほぼ同じ大きさのカン

ヴァスに︑人物のポーズも場所もほとんど同じ五点の作品を制作する︒この五点には︑大きな樹木が画面の両側か

らアーチを描くように内側に傾き枠づくるなか︑緑の生い茂る斜面を背景に裸の女性たちが三角形の構図を作って

ただずんでいる︒その三角形の頂点には︑左手に持った布で体を拭くようなしぐさをした女性が立ち︑その足下に

はしゃがんで足を川の流れに浸す女性︑彼女の左に布を手に持ち画面中央へと歩いてくる女性︑右側には膝を立て

て座っている女性がいる︒その他に︽五人の水浴女︾

(1 87 9

18 82

R. 36 6/ V. 38 2)

には川の中に立つ女性

(1 87 9

18

82年︑ピカソ美術館蔵︑

R. 36 5/ V. 38 5)

では下辺に座る女性と向き合うように座った

女性がいる︒これら五点の作品は非常によく似た構成をとっているが︑特にポーラ美術館収蔵の︽四人の水浴の女

たち︾とバーンス財団所蔵の︿四人の水浴女︾

(1 87 6

18 77

年 ︑

R. 36 2/ V. 38 6)

は︑体を拭く女性の顔の向きが左向き

と右向きだけの違いであり︑ほとんど同じ構図をしている︒これら五点の作品はバーゼルの︽五人の浴女たち︾

(1 88 5

R. 55 4)

に結実された水浴図群のひとつとみなされている

(8 )0

ヴェントゥーリは名前をあげていないが︑リウォルドはこの作品の最初の所有者を画商アンブロワーズ・ヴォラー

ピエール・ボナール

(1 86 7

19 47

)が描いた︽アンブロワーズ・ヴォラー

に画中画として描きこまれていることをあげている︒ボナールは

(11)

セザンヌは一八八

0

年代から一八九

0

年代にかけて︑風景を描くことよりも人物を描くことに惹きつけられて

いったようだ︒この時期︑自画像や肖像画だけでなく︑﹁カルタ遊びをする人々﹂や﹁赤いチョッキの少年﹂︑﹁アル

ルカン﹂といった優れた人物画が数多く描かれた︒

プーシキン美術館が所蔵する︽マルディ・グラ︾

(1 88 8

アルルカンを描いたものは現在四点が確認されているが︑

I V

二回目の所有となった折に︑本作品は一九一三年のアーモリー・ショウに 出品されたと思われる︒そのカタログにヴォラールからの借用したものとして︑ニ︱六番に掲載されている︒また

一九六︱︱一年に開催された第五回アーモリー・ショウにも出品されたことも確認されている︒

fig.6セザンヌ《アルルカン》

ヴォラールの肖像を描く際︑セザンヌとこの彼の初個展を開催した画商を 結び付けたいと考えていた︒ところがボナール自身はセザンヌの作品を所 有していなかったため︑ヴォラールに肖像画を描くために持ってくるよう

頼んだに違いないとしている︒

この最初の所有者と思われるヴォラールの手をいったん離れて個人コレ クションになった後︑一九〇八年五月一六日のオテル・ドゥルオでの売り 立てに出品され︑再びヴォラールの手元に戻ってきている︒おそらくこの

ポーラ美術館のポール・セザンヌ九八

(12)

ポーラ美術館のポール・セザンヌ

fig.7セザンヌ《ラム酒の瓶のある静物》

ものであろう︒

年 ︑

R. 61 8/ V. 55 3)

が最も早いものであろう︒この作品にはイタリア即興喜劇に登場するアルルカンとピエロが描か

れている︒アルルカンのモデルをつとめたセザンヌの息子ポールによれば︑彼が一七歳であった

18 88

年に︑ピエロ

のモデルをつとめた靴屋の息子である友人のルイ・ギヨームとともにパリのヴァル

1 1

1 1 グラスのアトリエにて

ポーズをとったという︒この作品には二人を描いた数多くの準備素描

(C .9 38

9

41

が残され︑そのなかには耳だけ)

を描いたものもある︒これほどの素描をして描かれた人物画はほかにはない︒この作品はしっかりとした絵の具に

全面を覆われており︑アルルカン一人を描いたほかの三点よりも先行して描かれたと考えられる︒

ポーラ美術館の収蔵する︽アルルカン︾

(1 88

8

1 89 0年 ︑

62

.3

47 .2  

c m

R. 61 9/ V. 55

5

fi g. 6)

は︑四点アルルカ

ンを描いた作品の一点であるが︑白い杖を持つ手が変わっていたり︑他の三点の背景に掛けられたカーテンが帽子

の後ろの壁に映る影で暗示されるにとどまっていたり︑足元には奇妙な巻物のようなものがあるなど︑他の作品と

異なる点が多い︒このようにアルルカンの姿勢や道具立ては同じではあるが少し

ずつ変化させて描かれたのは︑セザンヌが求める効果に近づくために試行錯誤を

した結果であろう︒これら単身のアルルカンは同じ年に描かれたのか︑二年かそ

れ以上の間をあけて描かれたものかはわかっていない︒しかしながら︑本作品は

薄い絵の具を用いて軽やかな筆致で描かれており︑アルルカンのポーズも力みの

抜けたもっともしなやかなものとのなっているため︑アルルカンを描いた最後の

(13)

fig.8セザンヌ《砂糖壺、梨とテープルクロ

> 

静物画の研究ー︽ラム酒の瓶のある静物︾︑

梨とテーブルクロス︾

ポーラ美術館のポール・セザンヌ

10 0 

現在︑アメリカにはセザンヌの作品が数多く所蔵されているが︑セザンヌを

所有した最初期のアメリカ人にメアリー・カサット

(1 84 4

1

92 6)

がいる︒彼女

はアメリカの富豪の家に生まれ︑フランスで絵を学んでいたときに見たドガの

作品に心惹かれ︑彼の勧めによって一八七四年の第四回印象派展から第八回印

象派展まで計四回参加した︒セザンヌが出品したのは第三回展が最後であるた

め︑二人が出会うことも作品が同じ会場に並ぶこともなかった︒彼らが出会っ

たのは︑ジヴェルニーに行われていたモネの誕生日を祝った一九八四年のことだった︒

彼女は印象派展に出品し画家として活動する一方で印象派の画家たちをアメリカに紹介し︑彼らの作品を多数購

入したパトロンでもあった︒カサットが所有していた作品のなかには︽ラム酒の瓶のある静物︾

(1 89 0

54 .2

65 .7  

c m

R. 68 1/ V. 6 06

fi g. 7)

が今口まれていた︒この作品を一八八五年頃手に入れたという彼女の記憶を信じるなら

ば︑最も早いセザンヌのアメリカ人コレクターになるのであろうが︑落ち着いた深い色彩や滑らかな筆触などの様

式から見て︑この作品の制作年は一八九0年頃と考えられるためカサットの言葉には疑問が残る︒

この作品は一時期︑カサット邸のダイニングに飾られていたことが一九一0年の手紙に書かれている︒「何年か前、彼は私のダイニングに飾っていたセザンヌの最もすばらしい一枚の絵(筆者註~《ラム酒の瓶のあ

る静物︾︶を見たけれど︑その中に何ものも見出せなかった︒しかし今や彼はセザンヌ以外目に入らず︑その他大勢

(14)

カサットが書いているように︑

その資金で新たなセザンヌの作品を購入した︒

1894年 ︑

ポーラ美術館のポール・セザンヌ

10  

セザンヌの作品を買うためにドガの作品を売っている!︵

1 0

このように書いたのであろう︒ちなみにカサットは︑ の人びととともにセザンヌをとても高く評価し︑

手紙にある﹁彼﹂とは︑セザンヌを収集した最初期のコレクターの一人︑画家エジスト・ファブリ

(1 86 6 19 33 )

である︒彼はニューヨークでイタリア人の父とアメリカ人の母のもとに生れ︑一八九六年から一九一三年にかけて

パリで絵を描きながら絵画を収集していた︒アンブロワーズ・ヴォラールが一八九五年に開催したセザンヌの初個

展終了後に購入した三点を皮切りに︑約三0点もの作品を所有していた︒一八九九年には自分はセザンヌの作品を

一六点所蔵しており︑﹁自分の受け取る感動をじかにあなたにお話したいものだ﹂とセザンヌに書き送っている

(1 1) 0

セザンヌに熱中していたファブリは︑以前収集したドガやドーミエの作品を売り︑

カサットは敬愛するドガの作品を売りに出したファブリヘの苛立ち

この︽ラム酒の瓶のある静物︾を一九︱0年に手

放している

(1 2) 0

本作品は淡い褐色を基調とし︑テーブルクロスの白色や梨の緑やオレンジ色が穏やかに彩りを添えた上品な画面

になっている︒瓶の右側に落ちた影から壁に近づけて置かれたれたことがわかるテーブルに︑製をよせたテーブル

クロスをのせ︑その上に皿︑ラム酒の瓶︑梨を配置している︒おそらくこの画面でもっとも注目される箇所は︑瓶

の口の部分であろう︒そこには瓶の口とコルクの形が下書きされているものの︑色が塗られていない︒この瓶は一

0年頃に初めて描かれ︑私見の限りでは本作を含めて油彩で六点描かれている︒興味深いことに︑本作品も含

めそのうちの三点でこのコルクの部分が完全には描かれておらず︑オルセー美術館所蔵の︽青い花瓶︾

(1 88 9 18 90

年 ︑

R. 67 5/ V. 51 2)

で瓶自体が半分しか描かれていないものも含めれば︑四点にものぼる︒︽りんごのある静物︾

(1 89 3

メトロポリタン美術館蔵︑

R. 77 0/ V. 59 8)

このコルクが画面に収まりきらずに半分しか描かれてお

(15)

らず︑︽ナスのある静物︾

(1 89 3 18 94

年︑ポール・ゲッティ美術館蔵︑

R. 76 9/ V. 59 7)

ではコルクの輪郭だけが青色

の壁紙の上に薄茶色でひかれている︒それはまるで平面のキャンバスの上では︑瓶とその上にある薄茶色の机の天

板をつなぐはしごのようにもみえる︒セザンヌはコルクの部分に塗るべき色が見つからず単に描けなかったのか︑

あるいは背景と前景を繋ぐ位置に立つ瓶にコルクを描くことで背景と隔絶してしまうことを避けたのかーあえて栓

をしなかったのか︒この問題については別の機会に論じたい︒

0年代に入り︑セザンヌは静物画において︑それまでの白い布から︽砂糖壷︑梨とテーブルクロス︾

(1 89 3

1 89 4年 ︑

50 .9

62.0cm

R. 77 1/ V. 62 4, fi g. 8)

にみられる模様の入った布を使いはじめた︒グレー地に濃紺で抽象的

な模様を施された布は︑机の上にテーブルクロスのようにひかれたり︑美しい裳をつけて置かれたり︑背景にカー

テンのようにかけられたりしている︒本作品ではひだや折り重なる部分で線が中断されたり︑新たな線につながっ

たりと複雑に入り組むことで画面に装飾性を与えている︒中央に置かれた砂糖壷もこの時期に初めて描かれたモ

ティーフであるg︒ロココ風の取っ手のついた丸いフォルムは︑果物の丸みや布に施された丸い模様に呼応してい

る︒画面に対して斜めに置かれた机に置かれた丸い砂糖壷や果物は右下に︑転げおちそうになるところを微妙なバ

ランスで配置されている︒砂糖壷や果物︑布の模様の丸みが︑机の端や布に施された襄の直線に支えられた構築的

な画面になっている︒ ポーラ美術館のポール・セザンヌ

10  

(16)

ポーラ美術館のポール・セザンヌ

蔵 ︑

R. 74 6/ V. 24 5)

を描いている

(1 5) 0

パリのヴォラールの画廊でセザンヌの回顧展が開かれた︒一八七七年の第三回印象派展以来︑作品

を所有していた数人の画家仲間やタンギー爺さんの画材店以外でセザンヌの作品が目に触れることはほとんどな

かった︒ジェフロワやピサロ︑モネ︑ルノワール︑ギヨマンなどの画家たちに勧められ︑画商ヴォラールはセザン

ヌの回顧展を開催する︒この展覧会を訪れた印象派の画家たちも改めてセザンヌの絵の素晴らしさに驚き︑魅了さ

れている

( 14 ) o

こののち︑セザンヌの作品はサロン・デ・ザンデパンダンやサロン・ドートンヌなどで次々と展示さ

れる︒これらを通して︑セザンヌの評価はさらなる高まりをみせ︑彼を賞賛するモーリス・ドニやエミール・ベル

ナール

(1 86 8

19 41

) といった若い画家たちや画商たちがエクスを訪れるようになった︒ポール・ゴーガン

(1 84 8

19

3)  

が所有していたセザンヌの︽コンポートのある静物︾

(1 87 9

18

80

R. 41 8/ 34 1)

を取り囲む画家や画商を

描いた︽セザンヌ礼讃︾

(1 90

0年︑オルセー美術館蔵︶をサロンに出品したドニは︑セザンヌの︽静物︾

(1 88 8

18 90

27

.740.9cm

R. 65 2/ V.

20

0

 

fi g. 9)

の最初の所有者であった︒この作品は︑

18

60年代から

18

7年代初めにド0

ラクロワやヴェロネーゼの影響を受けて描いた︽饗宴︾

(1 86 7 18 72

年頃︑個人蔵︑

R. 12 8/ V. 92 )

を描きかえたもの

のようにも思える︒これはフロベールの小説﹃聖アントワーヌの誘惑﹄中のバビロンの創設者ネブカドネザルの宴

の記述が典拠としている︒こうした初期作品に通ずるものは︑一八八0年代後半から一八九0年代にかけて盛んに

描かれる︒これは若い頃強い影響を受けていたドラクロワの評価が︑

18

90年頃に再び高まっていたことも無縁では

ないだろう︒セザンヌもこの時期︑ドラクロワの模写を多数残し︑︽ドラクロワ礼讃︾

(1 89

0

18

94年︑グラネ美術館

V I

若い画家たち

10

(17)

ポーラ美術館の収蔵作品はセザンヌが油彩画を描き始めた最初期のものから晩年にいたるまでの作品を含み︑風

景画から人物画︑静物画︑そしてセザンヌの重要な主題であった水浴図と多岐にわたって収集されている︒ならび

0歳頃に描かれた︽宗教的な場面︾

( f i g .

I

から︑自然を注意深く観察し︑その観察から得られた光を色彩に)

置き換えるというピサロの教えに従って大きく描き方を変えた︽オーヴェール

1 1

1 1 オワーズの藁葺きの家︾

( f i g . 2 )

や︑パリを離れて故郷エクスIIアン

1 1 プロヴァンスで制作に励んだ︽プロヴァンスの風景︾︑二0世紀のキュ

ビスムを予感させる静物画︽砂糖壷︑梨とテーブルクロス︾

( f i g . 8 )

とセザンヌの生涯の中で重要な時期に描かれた

作品が多く︑彼の生涯をたどることができるコレクションとなっている︒

セザンヌの画業において初期に描かれた︽宗教的な場面︾は︑鈴木常司会長によって早い時期に収集されたこと

が分かっている︒この作品が早い時期にコレクションに加えられていることは︑ポーラ美術館のセザンヌ作品の特

徴でもあろう︒本作品はいわゆるセザンヌらしい作品ではなく︑どちらかといえば常司会長がとくに興味をもって

結びにかえて

本作品とよく似た構図の水彩画と同じモティーフを扱った油彩画ある︒国立西洋美術館の︽水差しとスープ容れ︾

(1 89 0

RWC.294)と国立国際美術館の︽宴の準備︾

(1 88

0 0  

1 89 0年 ︑

R. 64 0> 

V. 58 6)

である︒これらには︑テー

ブルの上に大きなブロンズの水差しや色鮮やかな果物︑鳥のような形をした置物などが共通して描かれている︒し

かしながら︑その主題や意図は不明であり︑今後の研究を待ちたい︒

ポーラ美術館のポール・セザンヌ

10

(18)

い研究は今後の課題とし︑ こ °

る ︒

いたと思われるルオーに通じる作品ではあるが︑

後に描かれた︽四人の水浴の女たち︾ セザンヌが画家としての一歩を踏み出そうとした重要な時期の作

5)

( f i g . 9 )

にも表われる生涯変わらない気質を有してい

モネの連作とまではいかないまでも︑ある時期に集中して描かれた︽オーヴェール

1 1

1 1 オワーズ

の藁葺きの家︾や︽アルルカン︾︵曰

g. 6)

︑同様の構図で研究を重ねた︽四人の水浴の女たち︾が収集され︑それらの

なかでも特に完成度の高い作品がコレクションに加わっているのも特徴といえるだろう︒

これまでポーラ美術館の収蔵するセザンヌの作品9点について︑彼の生涯に沿って簡単にではあるが紹介してき

それぞれの作品についての調査はまだ十分とはいえない︒個々の作品についてのさらなる詳し

この文章を閉じることにしたい︒

( 1 )

セザンヌの作品の作品名︑制作年は基本的には以下のカタログ・レゾネによっている︒本文では以下の略字を用いた︒

R . :

R e w a l d   ̀ T h e   P a i n t i n g s   of a   P u l   C e z a n n e :  

C a t a l o g u e   R

am

Ne wY o r k , 1 9   9 6 .   V . : L i o n e l l o   V e n t u r i , C e   z a n n e :   So n  a r t ,   s o n  

u v

r e ,  

v o

l s .  

`  P a

r i s , 1 9   3 6 .   RW C. :  J h o n   R e w a l d   ̀  P a u l   C e z a n n e : T   h e

  J , J a t

e r c o l o r s

,

C a t a l o g u e   R a i s o n n e , o   B s t o n   ̀ 1 9 8 3 .   C . :   A d r i e n   C h a p p u i s ,   T h e   D r a w i n g s   o f a   P u l   C e z a n n e :

  A 

C a t a l o g u e   R a i s o n n e ,

  2 v o

l s . ,   G r e e n w i c h ,   C o n n e c t i c u t ,   1 9 7 3 .  

( 2

)  

F r a n c e s   F o w l e ,   "

P a i n t i n g i k   l

e  

Proven~!:

C e z a n n e , a  V n  G og h  a n d   t h e   s e c r e t o f     M o n t i c e l l i ' s ' a l c h e m y "

' ,   p p . 1 3 5 ‑ 1 5 2 .   F r a n c e s   F o w e l e   an d  R i c h a r d   Th om so n  ( e d s . ) ,   S o i l   a nd   St o n e :  

I m p r e s s i o n i s m ,   U r b a n i s m ,   E n v i r o n m e n t ,   A s h g a t e ,   2 0 0 3 .  

( 3

)

若い頃のセザンヌが︑複製版画や雑誌の挿絵を利用していたことはすでにメアリー・トムキンズ・ルイスが指摘するとおりである︒

M g

 

T o . m p k ' i n s   L e w i s   ̀C

⑱ 

n n e ' s   E a r

l y   I m a g e r y , e r   B k e l e y ;   L o s   A n g e l e s C a ;   l i f o r n i a   ̀ 1 9 8 9 .  

しかしながら︑版画﹁中国人とその産

物﹂は︑画面下部に人物が円形に集ってはいるが︑室内の場面であり︑上部に光輝く頭部は描かれていないため︑セザンヌはこれ以

ポーラ美術館のポール・セザンヌ

10

J o h n  

参照

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