「世(ユゥ)」をむすぶリョングブン(霊供盆) :
「霊供盆」から見える八重山の自然と人々の係わり
著者 内原 英聡
出版者 法政大学国際日本学研究所
雑誌名 国際日本学
巻 9
ページ 175‑200
発行年 2012‑03‑30
URL http://doi.org/10.15002/00022653
内 原 英 聡
はじめに
沖縄県の八重山諸島には「リョングブン(霊供盆)」と呼ばれる道具がある。
この道具は仏事と神事の両方の場面で供物を供える食器として用いられる。道 具自体はもともと仏教思想の伝来とともに、八重山に伝わったことが推察さ れる。ただ、いつごろ当該地域に普及したかなど、具体的なことはまだ明ら かにされていない。
本稿の目的は、このリョングブン(霊供盆)が八重山の年中行事でいかなる 意義をもち、生活者に受容されてきたかを明らかにすることにある。仏事と 神事の際では使用上の「区別」が見られるものの、その基底には、「神々」と 人間を結びつけるメディアとしてのリョングブンの姿が横たわっている。
この道具の最大の特徴は、八重山で採れた食材を中心に調理がなされる点 にある。大型量販店の氾濫や家電製品の普及、自動車数の増加等に伴い暮ら しが著しく変容しつつある現代において、なおもリョングブンに関しては「一 定の方式」が維持されている。八重山の人々はそこに何を見つめ、何を託そう としているのか。本稿では仏事の面から「盂蘭盆」・「焼香」を、神事の面から「新 築祝い」・「世の首尾(豊年祭)」の事例を取り上げ、この意識について考察を 進めていく。
本稿の主題に関連した先行研究を先に挙げておく。代表的な研究としては、
門上秀叡、金城須美子、宮城文、得能壽美の論文と著書がある。
門上秀叡の論文には「コメンタール 宮良殿内『祭之時膳符日記』について」
(『人文自然科学論集』第 41 ~ 44,47 号・東京経済大学・所収)がある。門上
「世
ユゥ」をむすぶリョングブン(霊供盆)
-「霊供盆」から見える八重山の自然と人々の係わり-
論文は上・中・下の三部構成であり、石垣島の旧士族「宮良殿内」に伝わる『祭 之時膳符日記』の翻刻と注釈が主題となっている。さらに現地で古老たちか らの聞き取り調査も加えられた点に特徴がある。「弔之時膳符次第」に関する 記述が論旨であり、八重山の法事(焼香)の全体像や、実際に弔いを営む人々 の意識にまで及ぶ内容となっている。
金城須美子の研究には、①「沖縄の焼香(法事)の行事食の特徴と変遷-
八重山の膳符日記を中心に-」(共同研究者:宮良小夜子,1988 年,日本生活 文化史学会『生活文化史 13 号』所収)、②「八重山諸島における焼香(法事)
の行事食に関する研究-実態ならびに主婦の意識-」(1988 年,『琉球大学教 育学部・紀要・第 33 集(Ⅱ)』所収)、③『近世沖縄の料理研究資料 宮良殿内・
石垣殿内の膳符日記』(1995 年,(財)九州大学出版会)の 3 本がある。門上 論文の成果を踏まえたことに加え、③では新たに「宮良殿内」と「石垣殿内」
の膳符日記の原典(複写版)、及びこれらに対する翻刻、解説などが収められた。
また①と②では、「リョングブン」に対する石垣市地区「主婦」層への意識調 査や、市内の農家における事例の紹介がなされた。
得能壽美は金城須美子の③が出版された際、東京八重山文化研究会にて「新 刊紹介」と題し、「『宮良殿内・石垣殿内の膳符日記』-近世八重山の食生活史 を探る」(1995 年 11 月 19 日)を発表している。金城の③を補う形で、実際に 八重山で扱われてきた「伝統的な食素材」を古文書から抽出し、解説を加えた。
なお宮城文のリョングブンに関する研究は、『八重山生活誌』(1982 年(第 4 版)、1972 年(初版),沖縄タイムス社)第五編、「年中行事」の項に記述があ る。「宮良殿内の膳符写し 寅年文祭膳符の次第」を引用しつつ、材料と料理 に関する簡潔な解説がなされている。以上の著作・論文を重点的に参照しつつ、
本稿の考察を進めていく。
八重山における仏教思想の受容と変容
八重山では現在も「焼香(法事)」や「ソーロン(盂蘭盆)」といった仏事を 展開する一方で、各地域に残る祭祀・年中行事の大半は、シマ(ムラ)の「御嶽」
を中心に執り行なわれる。御嶽は共同体にとっての聖地である。八重山をは
じめ沖縄各地では、現在、この御嶽を軸として為される行事を神事と位置づ けている。とはいえ仏事と神事の双方に対する信仰は完全に分離しておらず、
その習合を示唆する芸能や、媒体となり両者を結びつける「物」も存在する。
本稿ではその一事例として「リョングブン(霊供盆)」を取り上げるが、ここ では八重山における仏教の伝播について記していく。以下の引用文は、それ を示唆する古文書の一節である。
検地のため大和役人が八重山に来た。首里へ帰って国王に話されるには、
「八重山には邪術がある。何宗なのか」と不審を抱き、王府へ訴えて寺を 建立し、桃林寺と号した。鑑翁西堂に住持を仰せ付けて改めたと旧記に 見えている。
(『八重山島年来記』,1611 年の条,264)
『八重山島年来記』には 1609 年の薩摩島津氏による琉球侵攻から 2 年後、「大 和役人」が琉球国内の検知を目的として八重山を訪れたと記されている。こ の地は 1390 年以来、琉球王府に進貢する地域であった。しかし 1500 年のオヤケ・
アカハチによる年貢納入拒否(反乱)の討伐を契機として、本格的に琉球国 の版図に組みいられることとなった。時を経て 1611 年、大和の役人が現地を 訪れたのは、新たな年貢徴収システムを構築するための下見であった。上記 の通り、大和の役人たちは島々を調査するうち、現地に寺社がひとつも見当 たらないことに疑念を抱いた。さらに「邪術」に対する島民の信仰を訝しく 思い、首里に戻った後、時の尚寧王へ「八重山に寺社を建てるよう」進言した。
この進言は直ちに採用され、王府は 3 年後の 1614 年、八重山諸島の「大地(最 も大きな島、島々を結ぶ中継地)」であった石垣島に、「南海山桃林寺」と「権 現堂」を創建した。以後、桃林寺は主に公的祈願所としても機能を果たすよう になる。しかし八重山諸島で建立された寺院はこの一箇所であり、八重山諸 島全域をまかなうには限界があった。それでもこの地域には仏教が浸透した。
最大の要因は、「ニンブジャー(念仏者)」の存在に拠るところが大きい。「桃 林寺」と「念仏者」の位相に関して、新城敏男は次のように述べている。
桃林寺と念仏は、初期の段階を除いてはそれぞれ独自に展開し、桃林寺 が常に公寺として機能したのに対し、念仏の場合は念仏者と念仏歌とい う二つの面を持って作用した。桃林寺と念仏は種々の相違点を持ちなが ら、八重山にあって補完的に機能し、特に祖先祭祀の面ではその影響が 顕著である。
(新城,1973 年,209 頁)
念仏者は、主に葬礼を司る僧侶の代役を果たしていた。各村に一人ずつ、そ の報酬は村の中でもとりわけ良質の田畑が付与されたという。こうした役割 を担う人々の存在が、民間に仏教思想を普及させる働きを果たした。さらに「念 仏歌(念仏踊り)」は、沖縄全域で現在も盛んに行われている「芸能」のひと つである。八重山もこの念仏踊りの系譜として「アンガマ」が伝承されている が、ただし、アンガマは沖縄でポピュラーな「エイサー」とは異なる性質を 持ち合わせている。アンガマには「面」が使用される。これはエイサーとは 相違する点である。またアンガマには物語があり、この面を被ったウシュマイ、
ンミー(一組の翁媼)を筆頭に、盂蘭盆の時期、約 20 名の覆面集団が「あの世」
から訪れるという設定になっている。夜、アンガマ一行は招かれた家を訪問し、
その家の仏前で口上を述べ、演舞を披露し、観客との珍問答を展開する。こ うした一定のプログラムを消化しつつ各家を門付けしていくのであるが、こ の形態は古来より八重山に残る「来訪神」系統の祭りにも、共通する性質を 帯びている。
外来の文化であった仏教思想と、「古来」信仰が長い時間をかけ徐々に習合 し新たな文化を創造してゆく。八重山にはアンガマの他にも、こうしたケー スが多数確認されている。次項からは「リョングブン(霊供盆)」について述 べるが、これもまた、そのひとつの事例である。
祖霊と人々をむすぶリョングブン(霊供盆)
年間降水量約 2000mm、平均気温摂氏 24.3℃、太平洋と東シナ海をのぞむ大 海の中に位置するのが八重山諸島である。現在、各種交通の中継地点として
機能している石垣島は、東京から約 2000km、沖縄本島から約 450km、台湾(基 隆)から約 280km の地点にある。気候は亜熱帯に属し高温多湿な地域である。
主要作物の一つである稲は旧暦の 9、10 月に種子を播き、1 月に植え付け、5 月に初穂を刈取、6 月にすべての収穫が行われる。このため日本の収穫祭にあ たる秋祭りは夏に行われる。
八重山の暮らしは「自己完結」を知らない。諸島間で密接な相互関係を構 築し、さらに遠方の地域からも多大な影響を受ける形で営まれている。その 過程でいったん取り込まれた「文化」も各地域の実情に合わせ変容を遂げ、こ れまで独自の歴史も育まれた。ゆえに八重山は「島と海を総体とする文化圏」
と称されることもある(崎山直,2000 年)。
本稿で取り上げる「リョングブン(霊供盆)」は、その文化圏ならではの特 色を有する「物」である。これを「道具」として捉えた場合、霊供盆は高膳と 9 つの椀(皿)から成る食器一式のことを指す。本来「仏具」として大和から 伝承したと推測されるが、現在では仏事の他にも神事の場面で、リョングブ ンは重要な働きを兼ねている。
「リョングブン」には「道具」の他にもう一つの意味がある。それは仏前に 供える「精進料理」をも含めた総体としての名称、ということである。八重山 において仏事の際はこの精進料理等を指して「リョングブン」と呼ぶが、一方、
この道具そのものは神事の際に、同じ道具に盛り付けられる食素材が変えら れ、それに合わせて名称も「ブンヌスー(盆の和え物)」と改められる。さら にこの時は「盆」そのものの呼称も、「ブン」、「クバン」、「スナイ」などと呼び、
「リョングブン」という名称はほとんど用いられることもなくなる。
そもそも八重山の「リョングブン(霊供盆)」という名称はどこからきてい るのであろう。たとえば日本では、精進料理をさして「御霊供(オリョウグ)」・
「御霊供膳(オリョウグゼン)」などと呼ぶことがある。天皇や皇后の法要の膳 を指すこともあれば、開山の祖をはじめ、歴代住職や創建檀那、その他縁起 深い故人に供えられる料理を指すこともある。ちなみにこのとき出される御 霊供膳の内容は九椀菜(9 つの皿に盛り付けた膳)であり、八重山に伝わる「霊 供盆」もこの型にあてはまるのではないか、といわれている。
ところで寺院以外の家々では、仏壇に供える小型の本膳のことを「霊膳(レ
イゼン)」ともいう。文化庁文化財保護部から発行された『民俗資料選集 盆 行事Ⅰ』には、岡山県岡山市阿津でかつて「オリョウグ」が盂蘭盆の際に供え られていたこと、同市今治においては「オショウジン」という呼称があった こと等も記されている。こうした呼び名は日本各地にあることが推察される。
琉球、沖縄に視点を移した場合はどうか。蔡文薄が 1736 年に著した『四本 堂家礼』では、仏事の際の供膳として「御霊供」の名称が登場する。首里で はこれを「グリーグ」と呼んでいたという。ちなみに蔡文薄は中国から渡来 した人々の子孫であり、この家礼書には中国的要素も多分に含まれている。
いずれにせよ「御霊供膳」、「御霊供」などの名称はあるものの、「霊供盆」
という名称は八重山独自のものであるらしい。「御霊膳の供える食膳の意から それを盛る器の名に転じ、それに盛る料理を含めて霊供盆というようになっ た」と金城須美子は指摘している(金城,1995 年,19 頁)。
霊供盆の構造とその普及率
八重山で使用されるリョングブ ン(霊供盆)の構造を見ていこう。
まずは高膳部であるが、基本的な 寸法は、365 × 365 × 245(縦×横
×高、単位/ mm)と言われている。
また膳部上に載せられる 9 つの椀 は、飯椀がもっとも大きく、汁椀 がそれに続く。
これ以外の 7 つの椀は「糸目椀」
と称され、寸法もほぼ均等に調整 されている。すべての椀には蓋が
備わっており、天目台がつく一式もあれば、ない場合もある。材質の多くはリュ ウキュウテリハボクが使用され、塗りは黒漆が主流をなすが、その他にも朱漆、
拭き漆、春慶塗などが見られる。
ところで 1986 年、八重山の石垣市に住む主婦層に対し、「霊供盆」の意識 リョングブン 出典:『琉球料理全書 2』
調査が行われた。調査票を配布し、得られた回答は 81 人分で、回収率割は 85.5%であった。地区別の内訳としては登野城地区 20.0%(16 人)、石垣地区 17.5%(14 人)、大川地区 16.2%(13 人)、大浜地区 13.7%(11 人)、平得地区 11.2%(9 人)、新川地区 10.8%(8 人)、その他 11.2%(9 人)とあり、さらに 年代別には 20 ~ 30 代(22.2%)、40 ~ 50 代(39.5%)、60 ~ 70 年代(38.3%)、
石垣市の全地区、全世代からほぼまんべんなく集計された。
調査を実施した金城須美子の報告によると、その中で「リョングブン(霊 供盆)」の存在を知っていると答えた者は 92.6%となっていた。また、実際に 調理を経験した者は 93.8%であり、自宅にこの道具があると答えた者は 79.7%
と、いずれも高い数値を示していた。このアンケートの実施からすでに 20 年 以上経過しているものの、当該地区におけるリョングブンの普及率の高さを 示す上で、なお、有効な記録と位置づけられよう(金城,1988 年。なお回収 した回答は 81 人分であり、地区別人口分布図の合計は 80 人であるが、参照し た文献のママとした)。
精進料理の基本型(大和の場合)
リョングブンは「精進料理」の系統を汲むものとされている。詳細は後述す るが、実際、植物性の食材のみを使用して調理される献立も存在する。そもそ も精進料理は、肉食(にくじき)を避け、野菜や豆腐など植物性の食材を用い て調理される献立をいう。動物性の食材は使用しない前提となっているため、
汁物の出汁も煮干や鰹節は用いられず、代わりに椎茸や昆布等が使用される。
調味料の場合も「五辛」は避けられる。五辛とは、ニンニク、ニラ、ネギ、ラッキョ ウ、ハジカミ(生姜)など、刺激臭を発する薬味のことである。精進料理の配 膳については、次の形式が多数を占めると言われる。まず膳を手前に箸を据え、
左に飯椀、右に汁物、後部左に煮物の壺、後部右は煮物の平椀、中心に腰高坏(漬 物)を並べるタイプである。「霊供膳」の場合、料理が盛りつけられたあとは、
仏前に箸が向くように供えるとされている。なお、八重山のリョングブンでは、
9 つの椀を扱っている。この点について、金城須美子は京都の精進料理との関 連を示唆している。竹富島では「リョングブン」と同様の形態を有した膳を
「クーバン」とも呼ぶことから、禅宗系の本膳様式である「九椀菜(くわんさ い)」との関連性も指摘されている。この九椀菜の形態は次の通りである。手 前・左から、①親碗:菜飯、②香のもの、③汁椀:国生汁、中・左から④小皿:
京がんも・五三竹・むき芋、⑤平椀:巻き湯葉揚げ出し・大根おろしのみぞれ、
⑥小皿:青菜浸し、後・左から⑦木皿:擬製豆腐・山芋茶巾絞り・梅干の甘露煮・
雁金椎茸、⑧坪:胡麻豆腐、⑨木皿:港焼・牛房のゆば巻き・干柿羹の順である。
この基本事項を抑えた上で、次項では八重山のリョングブンに用いられる食 材を見ていく。
リョングブンには精進・不精進の献立が混在する
金城須美子の実施したアンケートには、「料理は何に倣ったか」という質問 項目がある。回答結果を見てみると、72.6%が「言い伝え」であるとしている。
ただ、次いで多かったのが「膳符次第」の 17.8%であり、「膳符次第」・「言い 伝え」など複数の回答者が 6.8%の割合で存在した(金城,1988 年②)。ここ で約 25%の人々が答えた「膳符次第」とは一体、いかなるものなのであろう。
金城の解説によると、膳符とは①食膳に携わるもの。膳符を扱うもの。即ち 料理人とか料理方法に関すること、②膳に供える食物や料理とある。特に② の場合、「膳符は冠婚葬祭などにおける食事のメニューであるから、日常のも のとはおのずと異なるもの」と得能壽美は指摘している(金城,1995 年;得能,
1995 年)。八重山には『宮良殿内祭之時膳符日記』(以下、『膳符日記』)が残 されており、この内容については、冒頭で述べた 4 名の研究者が先行して調 査を進めてきた。
「宮良殿内」は八重山の旧士族であり、代々、頭職を担当した家であった。
そこの『膳符日記』には、1862 年から 1972 年の約 110 年間、実際「祭之時」
に調えられてきた献立内容が記録されている。そこにはリョングブンに関する 記述事項も残されており、この変遷を検証する上で貴重な古文書として捉えら れている。「祭之時」とは、弔之時、文祭之時、彼岸、洗骨など、仏事に関連 する儀礼のことをいう。「弔之時」は前述の焼香(法事)のことであり、文祭 は盆祭(盂蘭盆)のことを示している。本稿ではこの2項目に沿って、『膳符
日記』の内容を検証する。なお、この史料における弔之時と文祭之時の記録は、
前者が 1862 年から 1885 年にかけて、後者が 1870 年から 1890 年まで残されて いる。すなわちリョングブンに関する項目の期間は、両者を合計した 28 年間分、
ということになる。
弔之時(焼香)は「前日」と「正日」の 2 日間実施される。一方、文祭之時(盂 蘭盆)は「御迎之日」・「仲之日」・「御送日」の 3 日間営まれる。双方の仏事が 展開される期間、仏前には数々の供物が捧げられる。その中でリョングブン が供えられるのは、弔之時の場合は「正日」の「昼飯」の 1 回、文祭之時に おいては、「仲之日」の「昼飯」と「夜半之物」、そして「御送日」の「昼飯」
の計 3 回となっている。『膳符日記』には「弔之時」の事例が 10 件、「文祭之時」
の事例が 15 件掲載されている。本稿ではこれらの中から項目ごとに一つずつ、
任意の事例を抽出して検討を進めていく。
今回は 1879 年(光緒 5 年、明治 12 年)の「弔之時」と「文祭之時」を事例 として用いる。この年は琉球処分により沖縄県が設置され、琉球国の配下に あった八重山諸島でも激動の「世替り」を体感した年にあたる。その時期に どのような仏事がなされていたのか、関心がわいた。
まず「弔之時」のケースを〔例- 1〕として、次に同年「文祭之時」の献立 を〔例- 2・3・4〕として抽出する。『膳符日記』によるとこの年は、宮良殿 内において「亡父宮良親雲上・御内室・三十三回忌」と「亡父西表首里大屋 子・亡姉真樽武十五回忌」の焼香が合同で為されている。とりわけ前者にとっ ては最後の焼香年であり、以後「神」になる人であった。この時リョングブ ンには次の食材(料理)が用意された。前出「精進料理」の項の配膳に従って、
左下方から列挙していく(下線・注釈などは筆者)。
〔例- 1:1879 年 12 月 7 日の「弔之時」(精進料理)〕
①飯、②糸目椀:浸ふう(麸)・蓑牛房・〆とふふ(豆腐)・半餅、③御 汁:縮ふう・木之子・皮牛房・胡麻豆腐・ここの葉、④糸目椀:焼ふう・
二色花生・揚素めん・糸人参・おやし(もやし)・官草白こけ・三嶋ぬり・
□地、⑤糸目椀:漬物二色・煮梅・花塩、⑥糸目椀:さらすふう・浸昆若・
しらとふふ・官草白口・生姜のた、⑦糸目椀:色ふう・川茸・酒煮とふふ・
□芋・川しり(せり?)、⑧糸目椀:芋れんかく(田楽)・陳皮(みかんの皮)、
⑨糸目椀:色餅ふう・二色所天(ところてん)・みみくり(きくらげ)・
花れんこん・にが菜・きんかん・しら地
〔例- 2:1879 年の文祭之時「中之日」の「昼飯」(不精進)〕
①御飯:餅米、②糸目椀:れんかく(田楽)、③糸目椀(御汁):加籠麸・
揚とふふ・丸み冬瓜・牛房・角しんしゆ・ここの葉(クコ)・味噌地、④ 糸目椀: 蒸豚 、⑤糸目椀:漬もも・漬らつきふ(らっきょう)・焼塩、⑥ 糸目椀:糸みみくり・所天・糸官草・笋子・紫のり・冷汁、⑦糸目椀:笋子・
色付ふた(豚) ・和しんしゆ・龍地頭麸・ふさとふふ・浸田昆布、⑧糸目椀:
てんふら、⑨糸目椀:糸みみくり・同角 B 瓜・おやし・しら菜・近六十(豆 腐)・餅麸・所天・ 一しゆたい(薄塩の魚) ・長命草
〔例- 3:1879 年の文祭之時「中之日」の「夜半之物」(不精進)〕
①御飯:釈米、②糸目椀: 阿屋ひざいるき(山羊) 、③糸目椀(御汁):
焼玉 子・細しらとふふ・紫のり・摺生姜、④糸目椀:浸茄子、⑤糸目椀:
漬もの二色、⑥糸目椀:砂糖半餅、⑦糸目椀: 色付ふた(豚) ・筋しんしゆ・
色付冬瓜・糸昆布、⑧糸目椀: 玉子 ・のたい、⑨糸目椀: 魚差味(刺身) ・ 長命草
〔例- 4:1879 年の文祭之時「御送日」の「昼飯」(精進料理)〕
①御飯:餅米調、②糸目椀:酒煮茄子、③糸目椀(御汁):くり牛房・加 籠麸・胡麻とふふ・鶴之子・糸冬瓜・ここの葉・味噌地、④糸目椀:所天・
筋麸・官草・笋子・紫ぬり・梅汁冷、⑤糸目椀:煮梅、⑥糸目椀:こん やく・さんきかや芋・おつら麸・みみくり・糸瓜・葛引、⑦糸目椀:花麸・
龍地頭麸・竹之子・ふさとふふ・浸おんさ、⑧糸目椀:れん楽、⑨糸目椀:
餅麸・近六十・所天・官草・みみくり・おやし・胡麻地
『宮良殿内祭之時膳符日記』にはリョングブンに関する記録が 60 例ある。今 回は 1879 年のみ取り上げているが、この1年の事例を通してみても、得られ る情報は少なからずある。たとえば〔例- 1〕には「三嶋ぬり」が出てくる。
これは大阪三嶋郡下で創製された三島のりのことであり、当時から大和の食 材が八重山にも流入していたことが伺える。また北陸産の昆布や数の子といっ
た食材もその他の事例で登場するが、こうしたものは南西諸島では産出され ない。さらに 1866 年の事例には「江戸煮」なるものも現れる。『膳符日記』を より詳細に追っていくことにより、八重山の産物のみならず、外来の食品が どのような経緯で流入してきたかを検証することも可能となる。
一方、リョングブンには地産地消、自給自足を基盤とした島の生活が常に 横たわっているのも事実である。琉球や中国、日本(大和)等からの情報(文 化)がこの地で編集され、独自の産物を有効に生かす工夫がはかられている。
『膳符日記』にはリョングブンの材料として、オオタニワタリ・アダンなど島 独自の食材も新たに加えられた形跡が見受けられる。
また本稿で取り上げた事例の中には、「色付きふた」・「蒸豚」・「玉子」・「魚 差味」・「焼玉子」・「阿屋ひざいるき(雌山羊肉)」などが登場する。その他の 箇所では海馬(ジュゴン)などの「肉食」食材も使用されている。これは「精 進料理」として伝来した「霊供膳」が変化した結果、「精進・不精進」の混在 する形態を生み出したことを物語っている。『膳符日記』は「弔之時の正日の 昼飯」と、「文祭之時の送之日の昼飯」に限っては「精進料理」が供えられ、
文祭之時仲之日の昼飯と夜半之物は「不精進料理」が献立にあがったことを 記録している。この「区別」は全体を通してみられる意識と受け止められ、リョ ングブンに「一定の様式」が存在したことの証左として扱うことができる。
習慣の変化
門上秀叡の「人文自然科学論集 47 号」に寄せられた論文では、『宮良殿内膳 符日記』の「文祭」と「焼香」の献立がすべて表にまとめられている。さら に行事の期間、どの食材が精進・不精進であったかの分析が施されている。
門上の分析結果では、「文祭」の時期、特に精進の膳を供することになって いたのは、①迎日の夜半の吸物、②仲日の朝膳、③仲日の間之御吸物、④送 日の朝膳、⑤送日の昼の霊供盆であることが明らかにされた。だがその結果 を現地の古老に確認したところ、「強い異論」が方々から寄せられたという。
たとえば宮城信は「宮良殿内」の家人であったが、彼女は「文祭の際に今 まで精進料理を供してきたのは、仲日と送日との朝膳、及び仲日の昼膳である」
と反論した。これに対し門上は「仲日の昼が精進であったことは一度もなく、
むしろ送日の昼膳こそ精進というべきである」と史料を提示した。しかし、当 時八重山の料理に関する見識が高いとされた花山孫位、崎山まつの両氏いず れも、「一般に士族の家庭では信女史の言われる通りである」と門上の見解を 退けた。こうした記録と実態の不一致について門上は、明治 30 年代中頃以降 のある時期を境に、八重山でリョングブンの習慣が一部変わったのではない かと推測し、それ以上の言及を避けていた(門上,1977 年)
一方、宮城文の『八重山生活誌』にはその「ズレ」の原因を示唆する一文 が記されている。盂蘭盆の実施期間について宮城は、「大正の頃、生活改善の 名目で二日盆にして、14 日に迎えて 15 日に送るようにとの村役所からのきび しい指令があって、2、3 年間は実行していたが、足なみ不揃いで次第に三日 盆に復し、二日盆を継続している家庭は僅かで殆ど旧来通りの三日盆をする ように」なったと記述している(宮城,1972 年,536 頁)。
この「生活改善」の導入により、それまで継続されていた習慣が一時的に乱 れ、何らかの変化をもたらす一因になったと考えることも可能であろう。とは いえ、こうした「生活改善」に類似する社会の風潮は、現代もなお進行中である。
金城須美子のアンケート結果には、年代が若くなるにつれ、「伝統的な行事食 は簡素化すべき」と考える人々が多いことも提示されていた。1986 年の段階 でリョングブンを「是非とも継承していくべき」と答えた 60 ~ 70 代の人々 が 61.3%いたことに対し、20 ~ 30 代では数値が 23.5%に留まっている(金城,
1988 年②)。当時から 2000 年代に至るまでの間に、八重山を取り囲む社会状 況も大きく変容した。金城の研究以降、こうした「意識」調査は実施されてお らず、現代ではまた新たな回答結果が得られることも予測される。近世から近・
現代にかけての八重山社会の変容と合わせ、この点に関しては、さらに調査 と検討を進めていきたい。
以上、仏事の場面を中心にリョングブンの諸相を見つめてきた。ここからは、
神事の際、これがどのように扱われるのか考察を進めていく。
「土地の神々」に捧げるブンヌスー(霊供盆)
リョングブンの道具一式は神願い(神事)の際にも用いられる。この神願 いは「ブンニガイ(盆願い)」と呼ばれており、供物に対する「リョングブン
(霊供盆)」の呼称は使用されない。改められた盆の名称は、たとえば竹富島な らば「シュナイブン(供え盆)」、旧石垣四箇村では「ブンヌスー(盆の和物)」
などと呼ばれる。
使用する道具や 9 つの皿が高膳に盛りつけられる様式そのものに変化はない ものの、ただし、この供物では仏事(霊供盆)の際と異なる食材が調達される。
この項では宮城文の著書『八重山生活誌』を参照しつつ、八重山のシュナイ ブンやブンヌスーが、当該社会的においていかなる価値観の象徴として機能 してきたか、考察を進めていく。なお、本稿ではこの供物の名称を「ブンヌスー」
に統一して扱う。
では、ブンニガイの際に捧げられる供物から見てみよう。ここで供えられる 物は、①ブンヌスー(1 飾り)、②ミシャグ(神酒・スリミシャグ)一対、③ウチャ ヌクー(鏡餅)一対(三つ重ね)、④洗い花(七回洗った米)一対、⑤生花(ま さき五本)一対、⑥燈明(藺草の芯五本ずつ)一対、⑦お茶湯一対、⑧ウグシ(御 酒)一対の、9 つとされている。その中から①のブンヌスーに焦点を絞る。
ブンヌスーを盛り付ける際には、必要不可欠とされる野菜と海草があらか じめ定められている。これを「カンズー」(神ズー、神和物)という。カンズー にはそれぞれ意味が込められている。宮城文の『八重山生活誌』には「新築落 成記念日願い」の祝詞が掲載されているが、ここでツカサ(神官の女性)が 述べる事柄では、カンズーがいかにして集められたか、また、ブンヌスーが どれほどの手間をかけ、準備されたかが語られる。やや長くなるが、本論の 考察を深めるため全文を引用する。
事例:「新築落成記念日願い」の祝詞 一、ブンヌスーヌ、チキトゥドゥキ
(盆和物献上祝詞)
一、七日マイ、五日マイカラ ユシチケールブンヌスーヌ、シダイシサリ
ルンユー
(七日前、五日前から取り寄せて作った、盆の和物の趣旨を申し上げます)
一、 タバルハタギナンガ、神ヌマイヌツクリトーレーリ、地ヌ神ヌムタイ サカイヌ、
イシャヌメーカンズーウイ
(田原畠で神さま、土の神が太く肥え栄えさせていただいた、いぼぐさ の和物)
一、 山バタ、キチバナ、石ヌジンガ、カンヌマイヌスダテートーレーリ、
ムタイサカイヌ、サフナカンズーウイズー
(山辺、崖上、石の頂に太く肥え栄えさせていただいたぼたんにんじん の神の和物、尊い和物)
一、海バタ、島バタナンガ、カンヌマイヌツクリトーレーリ、ムタイサカ イショール、インミズナ、カンズーウイズー、
(海辺で太く肥え栄えさせていただいた、水ひゅうの神の和物)
一、 リュウグウヌ神ヌ、ナディスダテーシトーレーリ、ムタイサカイヌイー シ、カーナ
(竜宮の神が大事に栄えさせてくださった、つのまた、おごのり)
一、シチヌナリムヌ、サカイヌ、マンジュマイ
(四季の果菜として栄えるパパイヤ)
一、マリムヌ、マリマミナ
(繁盛のもやし)
一、 五日マイカラヌ、ミシュカニジ、ビンカニジ、バリクダキヌ、
アイズー、ブンヌスー
(五日前からの味噌の味つけ、にんにく味つけ、割りくだいての和物、
盆の和物)
一、子ヌファヌ、イシャヌメーカンズー、ムトゥキ
(子の方向の、いぼぐさのかみの和物を本にして)
一、寅ヌファヌ、サフナカンズー、ムトゥチキ
(寅の方向のぼたんにんじんの神を和物の本にして)
一、午ヌファヌ、インミジナ、カンズームトゥツキ
(午の方向の水ひゅうの和物を本にして)
一、 九升ヌバリグマ、五升ヌウキグマ
(九升の砕きごま、五升のせたごま)
一、中ヌ大ズーマーズー、リュウグウヌ、カンヌマイヌ、ナディスダテー シートーレール、ミジュヌ、パラダ、七日マイカラ、トゥリクシャー ヌ、アンタテー、ピキマーシ、ウイマーシ、トゥリキー、プシ、サラシ、
ウフズーマーズーカクマーシ、三カラヌウキクバンヌセー、イッチュ ウビ、マンウビマカシ、ナミヌハナ、サイヌハナ、ヌセンユ
(中央の大和物、真和物は竜宮の神様が撫で育てていただいたいわしや 藤五郎いわしで、これは七日前から、獲り上手の者が網を立て、引きま わし追いまわしとったもので、これを乾し晒し、大和物、真和物を囲み、
三匹の小魚をのせ、絹帯、真絹帯を巻いて、海の幸で飾ってあります)
一、箸、ウムトティラシヌ、ムタイサカイ、ショール、パシンガラ、サイフ、
ダイグヌ、カナクシライセール、ミュートバシシルハシ
(箸は、おもとてらすの神が大事に育てて下さった箸材で細工、大工が 鉋をかけて作った夫婦箸の白箸で、ございます)
一、 九斗ヌミシャグ一チイ、角皿一チイ、シキダイ一チイ、
クンゴーパナピトゥカザリ
(九斗の神酒(泡盛酒)一対、角皿一対、のせる台一対、九合のお米一飾り)
一、ヤーニンジュ、ブバマ、ブナリヌ、ククルカラ、スダセール、ククヌ ツブンカザリ、ニンガーバ、ウキトゥーリトーリ
(家族のものや、叔伯母、姉妹が心をこめてこしらえた、九つの和物を 飾ってお願いしますからどうぞお受けください)
一、フーオーヌ鳥ヌ、アガロールソンヤー、クイイズヌ、ヌブロールソンヤ、
サカラシメトーリ、神ヌウフ役、キドゥン、フナグン、リッパニ、ツトゥ メトーリ
(鳳凰の鳥が舞い上がるように、鯉が滝を昇るように繁盛させてくださ い。神のお使いのしれなしじみ(キガジョウ)や、船子(かに)も、
よいおつとめをさせてください)
(出典:宮城,1972 年,439 ~ 442 頁・筆者が一部改行)
この祝詞のあと会場の人々はパイ(拝)をあげ、ウクジピキ(米占い)をし、
願いの儀式を終える。儀式の後は供物(馳走や神酒)を食すことになってい るが、かねてよりブンヌニガイヌスー(盆願いの和物)は、女性たちにのみ 食すことが許されてきた。上で引用した祝詞には、「カンズー」についての報 告が「神」になされているが、ここでその内訳を確認しておく。
祝詞では第一に「イシャヌメー(イボグサ)」が挙げられている。この植物 は旱魃にも強く成長することから、田畑で神が作り、地の神が育ててくれた 食物の象徴とされてきた。第二は「サフナ(ぼたんにんじん)」が挙げられる。
サフナは山辺や崖上、岩の頂上に生える植物である。別名「長命草」とも呼ばれ、
無病息災や長寿を象徴として扱われる。第三は「インミズナ(ミズヒユ)」で、
この植物は海辺(島の端)で神様が作り育ててくれたもの、あるいは海水を 浴びても丈夫な植物の象徴として捉えられている。八重山は島嶼社会であり、
海風や台風などによる塩害にもしばしば見舞われる。こうした気候に対する 思いが、切実な願いに結びついたのであろう。
第四は「イイシ(ツノマタ)」、「カーナ(オゴノリ)」、あるいは「アラナ(ク ビレオゴノリ)」といった海草類が登場する。これらは「竜宮の神が大切に育 ててくれた海草」と考えられている。第五の食材は「マンジュマイ(パパイヤ)」
である。マンジュマイは四季折々に栄えるものの象徴とみなされている。最後、
第六に「マーミナ(もやし)」が登場する。もやしは発芽も早く大量にできる ことから、繁盛の象徴として用いられてきた。以上がカンズーの基本 6 品で あった。この他にも薬草として植えられた「パンソー(甘草)」や、魔除けと して用いられる「ニンニク」など、適宜野菜や調味料を加えてもよいことになっ ている。
新築落成記念願いの際に捧げられたという「ブンヌスーヌ、チキトゥドゥキ」
(祝詞)では、カンズーの種類のほか、次の 3 点の内容がツカサによって強調 されていた。1 つは、島の田畑のみならず、崖上から海中、島端に至るまで、
すべての空間(生活者が把握しうる地理)に「神々」の面影を見出しているこ とである。2 つは、人間の収穫物はすべからくその神々によって創造されたも のである、という認識である。そして 3 つ、人間はこの神々の力(生命力)によっ て生かされているということである。
ここで「神(神々)」という概念が登場する。渡邊欣雄は琉球文化圏の神観 念に関して、「沖縄の人々は、自然界にあって超自然的な、人間界にあって超 人間的な宗教的宇宙を構成し支配する森羅万象に対して、独自の神観念を保 持し神との交渉にあたってきた」と指摘していが(渡邊,1983 年)、これは先 にも述べたとおり、祖先崇拝や、「御嶽」信仰などのアニミズム的要素が複雑 に絡み合った形で、人々に受容されていることを意味している。
「ユゥヌシュビ(世の首尾)」を象徴するブンヌスー(霊供盆)
神事に用いられるブンヌスーの食材について考察を進めてきた。ここから は「世の首尾(以下、ユゥヌシュビ)」とブンヌスー(霊供盆)の関わりにつ いて論を展開する。
ブンヌスーが供えられる共同体祭祀で最大の行事は、「ユゥヌシュビ」とさ れている。この祭祀でブンヌスーがいかなる意味を持ち、また象徴として機能 しているかを明らかにしたい。まずは「ユゥヌシュビ」のことから見ていこう。
「ユゥー(世)」は琉球諸島全般に浸透している時間認識の概念である。八重 山諸島ではこれを「ユゥ」と発音し、その意味は大別して 2 つある、と言わ れている。
ひとつは「一定の期間」の表意である。鈴木正崇はこの場合の「世」を、「『同 じものは繰り返さない』という継起的なときの経過を意味する時間認識であ り、時間イメージで言えば、始めがあって終わりがある『有限直線』にあたる」
と指摘している。
次に想定される「世」の意味は「豊饒」である。鈴木によるとこの「豊饒 としての世」は、「『同じようなものが繰り返す』という、周期的な循環を示す ものであり、時間イメージで言えば、始めも終わりもない『円環』にあたる」
ものであるという(鈴木,1991 年,455 頁)。
「世の首尾」は前述したとおり豊年祭の一環として行われる儀式であり、そ の「世」の意味は上に記した概念の後者にあたる。一方、「首尾」は「始めと 終わり」、「結果」などと解説される。では「循環」の「始めと終わり」、「結果」
とは何(いつ)を指すのであろう。八重山の各地域では「ユゥヌシュビ」を
太陰暦(旧暦)の 5 月から 6 月と定めている。この時期は当該地域において「稲」
と「粟」(農耕作物)の収穫が一旦終了する頃である。また新たに農耕が開始 される太陰暦の 9・10 月は、「年の始まり」とみなされる。
これは「暦」の存在とは別に、農耕暦、すなわち生業の形態に基づく時間感 覚の存在があることを示唆している。農耕を中心に暮らしてきた島の人々は、
太陽や月、星座の動き、潮の干満、動植物の営み、回遊する魚や渡り来る鳥 の種類、季節風などあらゆる自然現象を敏感に読み取ってきた。さらにその 情報を身体に織り込むことで、「神々」を感じることができたのである。いず れにせよ、こうした感性のもとに定められた「ユーヌシュビ」では、ブンヌスー も「この世の象徴」・「豊饒の象徴」として捉えられる。
ここからは実際の流れにそってブンヌスーの意義を考察していく。ユーヌ シュビとは「循環する年」の節目を祝う儀礼である。このとき行われるのは次 の二つの願い立てとなる。1 つは前年度の収穫(稲・粟の収穫)を無事終えた ことの報告と感謝であり、2 つは翌年の豊作に対する予祝(祈願)である。こ の儀礼は、共同体全体で催されるプーリィ(豊年祭)の約一週間前に、各地 域の御嶽で行われる。
ユゥヌシュビ- 1997 年・石垣四ヶ村の事例
2000 年に沖縄県石垣市教育委員会から刊行された『石垣島四ヶ村のプーリィ
-民俗文化財地域伝承活動報告書』(以下、『四ヶ村のプーリィ』)によると、
1997 年度の登野城・大川・石垣・新川の 4 地区で行われたユーヌシュビは、
新暦の 7 月 10 ~ 12 日(旧暦の 6 月 6 日~ 8 日、癸丑・甲寅・乙卯)の期間であっ た。登野城・大川・石垣・新川は旧・四ヶ村と称される地区で、それぞれが 村を形成し、各地域には御嶽(聖地)が置かれている。四ヶ村の実施日の内 訳は以下の通りであった。
まず、登野城村はアーマーオン(天川御嶽)で旧暦 6 月 6 ~ 7 日(癸丑・甲寅)
にかけてユゥヌシュビが行われた。大川村には御嶽が 2 ヶ所あり、うちウシャ ギオン(大石垣御嶽)では旧暦 6 月 7 ~ 8 日(甲寅・乙卯)に、ミシャギオン(美 崎御嶽)では旧暦 6 月 6 日~ 7 日(癸丑・甲寅)の両日に儀礼が行われた。石
垣村はメートルオン(宮鳥御嶽)で、旧暦 6 月 7 ~ 8 日(甲寅・乙卯)に為さ れている。大川村と同じく新川村にも 2 ヶ所の御嶽があるが、ナースクオン(長 崎御嶽)、マイツバオン(真乙姥御嶽)双方ともに、旧暦 6 月 7 日~ 8 日(甲寅・
乙卯)の日取りで儀礼が開催された。
八重山で行われる神事の日取りの多くは、干支の組み合わせで定められる。
中でも東から三十度北を指す「寅」と真東方向の「卯」は重視され、「甲寅」
は最大の吉日といわれる。これは、「虎は千里を歩いてまた元の所へ戻る」と いう伝承に由来があるとのことである。さらにこうした方位の選定は、ブン ヌスーにおいても同様、「一定の方式」があるといわれる。宮城文の『八重山 生活誌』に掲載されていた盆全体の配置を要約すると以下になる。
ま ず 向 か っ て 手 前 左 方 の 角 を
「申」の方角に合わせる。つづいて 向う側右上を「午」にして、同左 上を「子」の方角にもってくる。
カンズー(神の供え物)にも方式 があり、「子」の方にイシャヌメー
(イボグサ)、「寅」の方にサフナ(ボ タンニンジン)、「申」の方にイイ シ(ツノマタ)、「午」の方にイン ミジナ(ミズヒユ)、「子寅」の間 と「申午」の間はマーミナ(モヤ シ)、そして「子申」の間と「寅午」
の間にマンジュマイ(パパイヤ)を配置する(宮城,1972 年,438 頁)。
こうして盛りつけられた盆上の 8 皿は周囲に並べられ、中央には「ウフズー
(大ズー)」と呼ばれ、すべての食材を混合した大盛りの和物が据えられる。大 ズーの上にはガジュン、ミジュン、ミーバイといった呼称をもつ小魚が 3 尾 のせられ、9 尾の小魚が周囲に立てられる。そしてこのウフズーの周囲を 2 本 の藁芯でしばった状態がブンヌスーの完成形となる。
ユゥヌシュビは、御嶽で初日の宵から始まるユネンヌニンガイ(夜の願い)
と、翌朝のアサニガイ(朝願い)の二部からなる。祭祀はツカサ(神女)が 出典:『八重山生活誌』
(干支は内原が追加した)
子 寅
申 午
中心となり、主に女性たちによって取り仕切られる。ブンヌスーが供えられ るのは翌日のアサニガイにおいてである。引き続き『四ヶ村のプーリィ』を
参照にしつつ、現代のブンヌスーを検証していく。以下は各御嶽で用いられ た食材を示す図である。
1997 年度の事例を表にまとめた。各御嶽とも『八重山生活誌』の「カンズー(神 ズー)」とほぼ同様の食材が用いられていたことがわかる。ただし登野城村天 川御嶽の「白菜」など、新たに加えられたと推察される食材もある。さらに『四ヶ 村のプーリィ』からブンヌスーに関する記録を抜き出してみる。
まず、調達方法や調理(下拵え含む)に関しては大川村大石垣御嶽と石垣 村宮鳥御嶽の事例があった。大川村大石垣御嶽では「前日、公民館で婦人た ちがつくった」とあるのに対し、石垣村宮鳥御嶽では、下拵えは女祭事係り の自宅に婦人たちが集い、4 日前から準備されたとあった。石垣村宮鳥御嶽の 場合、保存は冷蔵庫を使用し、当日、味付けをして椀に盛ったことも記され ている。保存法に冷蔵庫が用いられるのは現代的な特徴といえよう。電化製 品が普及する以前は、食材集めから調理にかけて相当の手間が必要とされた。
この時代の差にひとつ、ブンヌスーの変遷をみることができる。
揃えた食材の分量については新川村長崎御嶽と登野城村天川御嶽の記録が あった。前者はモヤシを約 10 斤、マンジュマイを 15 斤、サフナを 2 斤、イイ スを 2 斤半、クバン(小魚)を 40 尾、準備したという。一方、後者はイシャヌメー
登野城 大川 石垣 新川
① ツノマタ イイス イイス イイス
② サフナ サフナ サフナ サフナ
③ マンジュマイ マンジュマイ マンジュマイ マンジュマイ
④ イシャヌメー イシャヌメー イシャヌメー イシャヌメー
⑤ 白菜 マーミナ マーミナ マーミナ
⑥ インミズナ インミズナ インミズナ インミズナ
⑦ パンソー パンソー パンソー パンソー
⑧ ジャコー 9 匹 揚げ魚 蒲鉾・ジャコー3 匹 揚げ魚
作成・筆者 表1 1997 年の石垣四ヶ村「ユーヌシュビ」、ブンヌスーの食材
とパンゾーを 30 ~ 60 斤、サフナ・マンジュマイを 90 斤、白菜は 20 束、イイ ス 400g を個人栽培者の寄贈や、商店からの購入品でまかなっている。ブンヌ スーは参加者にも振る舞われるため、大量に食材が用意される。新川村長崎御 嶽と登野城村天川御嶽の分量に差があるのは、御嶽を囲む「共同体」の規模や、
地理的要因(住宅地・商業地区)の違いによる。また、現地で調達できる食 材以外も用いられるためか、「店で購入する」ケースも増えつつあるのが現状 である。
その他の事項として、登野城村天川御嶽ではブンヌスーが神前に対し二膳準 備されたこと、石垣村宮鳥御嶽では 4 膳用意されたことが記録にあった。石垣 村宮鳥御嶽でブンヌスーが 4 膳用意されたことについて、ブンヌスーは 2 膳 で 1 対をなしており、2 対用意されるのは士族と百姓の供え物が 1 対ずつであっ たから、との意味づけがなされていた。この点は興味深い。
先に宮城文の『八重山生活誌』に記された「一定の方式」を取り上げ、こ こまで記述してきた。『四ヶ村のプーリィ』からは、その「一定の方式」を踏 襲しつつも、それぞれの用途、状況に従って対応されている現代の営みが伺 い知れる。ブンヌスーは本来「その島で採れる食物のすべて」を象徴しており、
翌年もそれらが「豊かに稔ること」を祈願して供えられる「神食」であった。
将来、この神食がいかなる変遷を遂げるか、今後も注目していきたいと考え ている。
おわりに
リョングブンを取り囲む八重山の現状は、近年、劇的な変容を遂げつつあ る。これについて鈴木正崇は次の 4 点を指摘している。第一に、従来の米・粟・
麦を中心とした農耕からサトウキビなどの単一栽培へ変化したこと。第二に、
貨幣経済の浸透に伴い、生業形態もあわせ変貌を遂げたこと。第三に、そう した形態に合わせ人々の価値観も変化し、従来の神祭祀が意味を失い、生業 と密接に関連していた相対的時間が変化しつつある、ということである(鈴木,
1991 年,477 頁)。
確かに神祭祀の場面において、「合理化」がはかられ、時間が短縮され、簡
素化された(切り捨てられた)項目は少なからずある。またプーリィ(豊年祭)
など共同体による祭祀も、「全体の都合」が考慮され、週末に執り行われる地 域も増加している。さらに加賀谷真梨の調査によると、八重山では「祭祀」の「見 世物化(エンターテイメント化)」も進行しつつあるという。ここからは当該 社会の祭祀が、観光産業の集客材料になることと合わせ、各種メディア(媒体)
にとっての「ネタ」と化しつつあることも伺える。実際、八重山に数多くあ るとされてきた年中行事のうち、「人が集まる祭り」は盛り上がるが、そうで ない素朴な行事は衰退に陥るといった「二極化」も指摘されている(加賀谷、
2005 年)。それがまた、リョングブンの偽りのない現状でもある。そうした現 状を見据えた上で、私は改めて、リョングブンに残された「力」は何であるかを、
本稿で見つめ直したいと考えてきた。
この考察を通じて知りえたことは次の三点である。第一に、「神々」と人間 を結びつける媒体(メディア)としての機能が、リョングブンには備わって いるということである。本稿では仏事・神事の双方からこの道具および食材に 託された「祈り」を見つめてきた。時にそれは祖先崇拝の観念と結びつき、また、
土地の神々に対する信仰の供物として扱われてきた。このことを踏まえ、第二 に、異なる「文化」を結びつける機能を発揮してきた点に、リョングブンの 意義を見る。仏事と神事は元より宗教と信仰の差異を為すものである。しかし、
そこ生じる違和感の緩衝材としてリョングブンが用いられた。八重山の人々 は外来・古来の「文化」をその手で編集し、自らのものとしてきたのである。
リョングブンに見る第三の意義は、この「様式」が世代をこえて人と人を つなぐ力を持ち合わせている、という点である。このことを示す事例がひと つある。2003 年、石垣婦人会の主催で「地域に伝わる精進料理講習会-霊供盆」
が行われた。そのとき資料として配布された冊子には、次のような趣旨が綴 られていた。「時は流れていきます。私は、霊供盆を法事や必要に応じて、母 や地域の先輩、親戚の叔母に教わってきました。自分流に書いた資料は今も 大切にしています。嫁に台所を渡す日も来ることですし、娘に教えていくこ とも母親の務めだと認識しています」。
猛烈な勢いで捲くし立てられる時代であるからこそ、自分たちの「様式」を 見つめ直したい。講習会に集った人々からはそうした思いも感じられる。「ユー
ヌシュビ(世の首尾)」の項で「世」にまつわる時間の概念として、「円環」・「循 環」を取り上げた。円環とはすなわち、「何度でも立ち返る」ということであ る。そうした「世」を志す社会にとっては、「本来」が「将来」への指標とな りうる。またその本来と将来をむすぶ力を、リョングブンは持ち合わせている。
本稿では概観を示すに留まったが、各項目で浮上した課題も踏まえ、今後も さらに調査を継続していきたいと考えている。
高膳に据えられる 9 つの椀は、どれも小さく素朴な佇まいである。しかし そこに盛り付けられる食材には、今日もなお「世」を願う人々の思いが息づ いている。
<引用・参考文献>
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・ 新星図書編集部編『琉球料理全書- 2 ふるさとの伝統料理』1978 年 新星図書
・ 鈴木正崇「八重山群島における時間認識の諸相」植松明石編『環中国海の民俗と文化 2 神々の祭祀』1991 年 凱風社 所収
・ 住谷一彦・クライナー = ヨーゼフ著『南西諸島の神観念』1977 年 未来社
・ 高谷重夫『盆行事の民俗学的研究』1995 年 岩田書院
・ 得能壽美「『宮良殿内・石垣殿内の膳符日記』-近世八重山の食生活史を探る」(新刊 紹介) 1995 年 11 月 19 日 東京八重山文化研究会
・ 豊田謙二『九州・沖縄 食文化の十字路』2009 年 築地書館
・ 鳥居本幸代『精進料理と日本人』2006 年 春秋社
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2005 年『沖縄県史 各編論 4 近世(第三部「近世琉球の社会・第一章」)』所収
・ 農文協編『伝承写真館 日本の食文化⑫ 九州 2・沖縄』2006 年 農山漁村文化協会
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・ 石垣婦人会『地域に伝わる精進料理講習会 霊供盆』2003 年 石垣婦人会
<図版出典>
・ リョングブンの図
新星図書編集部編『琉球料理全書- 2 ふるさとの伝統料理』1978 年 新星図書(140 頁)
・ ブンヌスーの配置図(干支の文字は内原が再入力したもの)
宮城文『八重山生活誌』1982 年(第 4 版)・1972 年(初版)沖縄タイムス社(438 頁)
<ABSTRACT>
Ryon-gu-bun as a Medium:
Religious Beliefs and People’s Worldviews on the Yaeyama Islands
U
CHIHARAH
idetoshi On the Yaeyama islands in the Okinawa prefecture, a holy tablet called“Ryon-gu-bun” is used for offering food to gods during ceremonies at religious sites. These holy tablets appear at two distinct religious settings:
First, at several annual Buddhist festivals and second, at Yaeyama’s animist rites.
The Ryon-gu-bun was spread along with Buddhism throughout the Yaeyama islands. This paper explains the background in the spreading of the Ryon-gu-bun. While the use of the Ryon-gu-bun differs according to a religious Buddhist setting or an animist setting, in both cases the Ryon-gu-bun functions as a link between nature and people.
One more significant point about the Ryon-gu-bun in Yaeyama is that despite of the drastic transformation of modern society, due the spread of electronic goods etc., the Yaeyama people still treasure the tradition of Ryon- gu-bun. This paper attempts to trace what people entrust and seek in this tradition.
This paper elaborates on the value of Ryon-gu-bun from two viewpoints by giving four concrete case examples: First viewpoint, an examination of Buddhist ceremonies, represented by the Bon Festival and the memorial service. Second viewpoint, an examination out of the animist context, dealing with the celebration of newly built houses and the celebration for a rich year for crops.
For the writing of this paper, the research of famous references such as
papers by Kadokami Shūei, Kinjō Sumiko, Miyagi Fumi, and Tokunō Toshimi was of enormous value.
This paper explains three functions of the Ryon-gu-bun. Firstly, Ryon- gu-bun acts as a link between nature and people. Secondly, it Ryon-gu-bun transcends more than two different religions and beliefs shaping the Yaeyama culture. Thirdly, Ryon-gu-bun being independent from age and generations creates power among people.