ホ‑フマンスクール『エレクトラ』の日本初演をめぐる諸事情
一松居松葉のホ‑フマンスタール宛未発表書簡の翻訳紹介‑
関 根 裕 子
序
7‑ゴ・フォン・ホープマンスタール(1874‑1929 の『ェレクトラ』が日本で初演されたのは、 1913 (大正
2)年10月帝国劇場における公衆劇団の第一回旗揚げ公
(1)
演においてである。このとき『ェレクトラ』は、ベアリ ング作、駿河町人(松居松葉の筆名)訳の『マクベスの 稽古』、大久保二八子(松居の筆名)作の『茶を作る家』、
森鴎外作『女がた』と一緒に上演された。
この劇団の指導者であり、 『ェレクトラ』の翻訳者でも ある桧居松葉1870‑1933 は、公演に先立ち、原作者ホ
‑フマンスタールに少なくとも3通の手紙を送り、ホ‑
フマンスタールからは、 ‑通の手紙を受け取っている.
ゥ1913年発信日不明 桧居‑Hofmannsthalへ
②1913年6月29日 Hofmannsthal‑松居へ
③1913年8月(日付なし) 桧居‑Ho血Iannsthal ‑ (む1913年8月25日 松居‑Ho血Iannsthalへ
この中で②のホ‑フマンスタールからの1913年6月29 日付の返信と、 ④の松居がホ‑フマンスタールに送った 長文の第三倍(1913年8月25日付)の日本語訳は、松尾
(2)
の翻訳書『エレクトラ』 (大正2年)に掲載されている。
このたびフランクフルトのFreiesDeutsches Hoch‑
stiftをホ‑フマンスタールの資料調査に訪れたところ松 居がホ‑フマンスタールに宛てた第二倍と思われる未発 表のドイツ語の書簡③が、同所に保管されていることが わかった。本稿ではこの書簡の翻訳を試みるとともに、(3)
松居訳『ェレクトラ』に収められ発表された書簡2通と の対応関係を調べ、公衆劇団による『ェレクトラ』日本 初演と当時の日本の演劇界の諸事情を考察する。
なお今回翻訳紹介する書簡の前半部分には、 6月29日 付ホープマンスタールからの書簡③の内容を確認し、ド イツ語の表現がそれと重なっている箇所が多い。ゆえに 翻訳にあたっては、桧居が②の書簡を訳した際の訳語を できるかぎり使用するようにした。下線部が、ホ‑フマ ンスタールからの返信内容を松居が確認したと思われる 部分である。
I.松居松葉からホープマンスタールに送られた未発表 書簡
1)書簡訳
1913年 8月 東京にて 謹啓
1913年6月29日付けのご親切な手紙ありがとうご
ざいます。このお手紙で先生より御傑作『ェレクト ラ』の公衆劇団による日本語上演を許可していただ き、さらに好むままに何度でも繰り返し上演するこ とについても許可をいただきました。戯曲『ェレク トラ』の問題について先生からいただきました塵遡 上の注意にはたいへん感謝いたしますとともに今後 の参考にさせていただきたいと存じます。そして主 の題材が公衆の心を直接掴むであろうと、すでに確 信しています。また先生がお手紙で触れておられた このドラマの問題は私たちにとって身近なものです が、とりわけ死者に対する無限の忠実は、日本の仏 教信者と神道信者には昔から最高の美徳として尊重
されているものです。この英雄的女性の高潔な運命 は大衆的な観客にも訴えるものと思われます。それ ゆえ私たちのこの試みは、単なる文学的実験を超え たものになるであろうと考えております。
舞台に関しまして、背景はできる限り単純に、古 代の雰囲気をかもし出すつもりです。私たちは近々 役柄を、日本の第‑線で活躍する役者ばかりの出演 者に割り振り、この作品に100回以上の稽古をつけ る予定です。
この機会に解釈上の質問をさせていただきます。
お答えいただければたい‑んありがたく存じます。
先生は28ページ15‑18行のエレクトラとクリテムネ ストラとの対話で、クリテムネストラのたいへん特 異な性格描写として隠隙をお使いになりました。海 のようなクリテムネストラは、エレクトラや父親や 兄弟の人生を吐き出し、飲み込んでしまったので す。私がまちがって理解していなければ、この海は
コロス
巨像と同じくらい巨大で不気味なもの、かわいそう なエレクトラの運命を翻弄するものなのでしょう か。私には確信が持てないのです。
カヤノハタイチ
先生の戯曲の賛美者である萱野二十一氏を紹介さ せていただきます。先生のお許しが願えれば、彼は 数カ月後に先生を訪問し、先生のご指導のもとで御 作『ェレクトラ』の拙訳を改訂したいと望んでいま す。この点につきましては、彼が日本を出発するこ とがはっきりしましたら、もう一度ご連絡させてい ただきます。
最後になりましたが先生のご好意にもう一度心か らの感謝を申し上げます。おかげさまで私の企画が 何倍も楽になりました。
敬具 S.M.松居
1913年8月(日付なし)
松居松葉からホープマンスタールに宛てた書簡(FDH蔵)
この書簡の発信日は「1913年8月」とだけ記されてい る。ホ‑フマンスタールからの6月29日付の手紙に対す る礼を述べたり、その手紙に対応する内容が多いこと、
さらに後の1913年8月25日付の手紙で松居は、 「私はこ こに三たび先生に付して書を里するの光栄を得たことを
mw.
深く自ら悦んで屠ります」と書いていることから、この 手紙は松居がホ‑フマンスタールに宛てた第2倍と見て
(5)
まちがいないだろう。
2)書簡についての解説 〜他の書簡との対応関係〜
松居のホ‑フマンスタールに宛てた第1信は消失して いる。第二信と思われる手紙が今回見つかったことによ
り、ホ‑フマンスタールからの返信1913年6月.29日 付)と松居の2通分を合わせて、二人の間に交わされた 書簡3通分の内容が明らかになった。 (ただし8月29日 付の松居の手紙は日本語訳のみ)。第1信の内容はわか
らないが、ホ‑フマンスタールからの返信の冒頭、 「『ェ レクトラ』を好むままに日本語にて演出し、尚君が好む ままに幾回にても其演出を繰り返すべき権利を公衆劇団
(6)
に委任す」)と書かれていることから、第1信には少な くとも桧居がホ‑フマンスタールに公衆劇団が『ェレク トラ』を日本で上演することの許可を願う内容が書かれ たことだけはわかる。
今回発表した松居の第二信は、 『ェレクトラ』上演許 可への返礼から始まり、内容的には三つの段落に分けら
れる。最初の段落(ドイツ語一枚冒)は、ホ‑フマンス タールの手紙に対する返礼とその内容の確認である。真 申の段落は(2枚冒11行目まで)、 『ェレクトラ』の解釈 に関する質問である。最後の段落(2枚目12行目から最
カヤノハタイチ
後まで)では、萱野二十一という人物をホ‑フマンスタ ールに紹介している。
まず最初の段落で、ホ‑フマンスタールからの直前の 返信とどのように対応しているのかを見ていく。 「戯曲
『ェレクトラ』の問題について先生からいただきました 脚色上の注意はたいへんありがたく参考にさせていただ きます」は、ホ‑フマンスタールの6月29日付けの返信 で、演出に関して、 「彼書に記しあるトガキ以外、何等 の戯曲的注意をも余は必要なしと考ふ」 (松居訳。松居
(7)
はdramaturgischを「戯曲的」と訳している)を受けて いる。さらにホ‑フマンスタールは、エレクトラの「題 材は、永遠に人間的なもので、大海を越えて、直接日本 の観客の心を掴む数少ないものの一つだと思われる。な ぜなら死者に対する無限の忠実が扱われているかでらで
(8)
ある。」と書いているのを受けて、桧居は「なかでも死 者に対する無限の忠実は、日本の仏教信者と神道信者に は昔から最高の美徳として尊重されています」と答えて いる。松居はホ‑フマンスタールの「公衆劇団の公演が、
(9)
単なる文芸的な実験に留まらないであろう」という意見 に賛意を表している。
舞台装置について松居は「背景はできる限り単純に、
古代の雰囲気をかもし出すつもり」だと書いているが、
これはホープマンスタールの指示「この作品がすでに数
百回も舞台で上演されているにもかかわらず、手元には 何の資料もない。しかしできるだけ単純にするべきであ る。すなわちキュプロブス(一つ目の巨人)がいた古代 の柱のない宮殿の背後を表す壁、扉、そこから降りる数
(10)
段の階段、小さな狭い窓があれば十分である」を受けて いると考えられる。
真申の段落で松居は、エレクトラとクリテムネストラ との対話について、解釈上の質問をしている。この部分 はオレスト死亡という虚報を利用して、クリテムネスト ラへの復讐が決行される前に交わされる母娘の長い対話 の一部分である。松居は使用テキスト"Elektra, Tragodie in einem Aufzug" von Ho血Iannsthal,ベルリン・フィッ
シャー版1909年)、 28ページのエレクトラのセリフに ある「海dasMeer」の隠暁を「巨像derKoloβ」の隠暁
と同じように解釈できるかとホ‑フマンスタールに尋ね ている。
Elektra.:‑(...) Du bist ja wie ein Koloβ aus dessen ehernen Handen ich nie entsprungen bin. Du hast mich ja am Zaum. Du bindest mich, an was du willst.
Du hast mir aus ien, wie das Meer, ein Le‑
ben, einen Vater, und Geschwister: und hast
e schlun en, wie das Meer, ein Leben,einen Vater und Geschwister. Ich
weiβ nicht, wie ich jemals sterben sollte‑als daran, daft du(ll)
stiirb e st.
エレクトラ:(略‑‑・)あなたは私をその鉄のような手 から決して逃がさない巨像のようなもの。
あなたは私を手綱で繋いでいる。
あなたは、自分の思うところに私を結びつ ける。
あなたは海のように、私を、ひとつの命を、
父や兄弟を吐き出して、海のように、父や 兄弟の命を飲み込んでしまった。
あなたが死なないかぎり、いったいどうや って私は死んだらよいのか、わからない。
‑‑ (略)
この質問内容の是非については問わないが、松居は書 簡の中で男性名詞の巨像der Koloβの姓を勘ちがいし、
中性名詞の冠詞dasをつけている。 (書簡オリジナルコ ピー2頁目10行目参照)
書簡の最後で聡居がホ‑フマンスタールに紹介してい
カヤノハタイチ
る萱野二十一というのは、郡 虎彦1890‑1924)のペ
(12)
ンネームである。文芸雑誌『白樺』の異色作家として耽 美派系の人々に歓待された郡(萱野)は、ホ‑フマンス
タールの初期の作品の特徴である耽美な部分と、病的な までに繊細な心理描写に関心を持っていたのだろう。『白 樺』第一号(1910年4月)所収の「エレクトラ梗概」、
続く第二号1910年5月)に「歌劇としてのエレクトラ」
(13)
では、たいへん詳細な作品解説を行っている。
郡(萱野)は1913年8月に渡欧し、 1920年10月に帰国 するまでミュンヘン、ロンドン等を拠点にして執筆活動 を行ったO松居はこの第二信で萱野というホ‑フマンス タールの作品を敬愛する若き詩人が原作者の教えを乞い ながら『ェレクトラ』翻訳を改訂するために近々ウィー ンに行く予定であると紹介し、第三倍では、萱野のこれ までの活動をさらに詳しく紹介している。そして『ェレ クトラ』を託すのは、ホープマンスタールと同様に早熟 な詩人である萱野が一番ふさわしい。ゆえにホ‑フマン スタールの指導の下で『ェレクトラ』の完全な日本語訳 を作り上げさせるため、紹介文を持たせるので、指導を
(14)
お願いしたいと書いている。この第三信の発信は1913年 8月25日付けであり、郡(萱野)が8月16日神戸からヨ ーロッパに向けて出発した後のことである。
郡がホ‑フマンスタールの門をたたいたという報告は ない1914年第一次世界大戦勃発前まで、郡はミュンヘ ンとベルリンに滞在していたが、戟争の難を避けて大戦 中はロンドンに滞在していた。ホーフマンスタールを訪 問する希望は、大戦を機に消えてしまったのだろうか。
松尾は「『ェレクトラ』上演覚書」の中で「遠からず 此戯曲のレヴアイヴァルをLやうと思ふ。共時にはもつ と維也納的情調に満ちたプロダクションをやって見たい
(15
と思ふ」と書いている。それにもかかわらず、結局『ェ レクトラ』の再演も改訳も実現されなかった。松居の計 画の挫折には、郡がホ‑フマンスタールを訪問しなかっ たということも影響したと考えられる。
Ⅰ.公衆劇団の『エレクトラ』公演
1 )松居松葉と公衆劇団の旗揚げ
マサハル
桧居松葉(1870‑1933、本名真玄、大正13年に桧翁と 孜める)は、国民英学会で英語を学んだ後坪内造遥の主 宰する『早稲田文学』の編集を経て、寓朝報などの記者 として劇評及び執筆活動をしていたが、明治32年市川左 団次(初代)の請により執筆した戯曲『悪源太』が歌舞 伎の門外漢の作品の上演として初めて明治座で上演され たことにより、一躍脚光を浴び大正期にかけて活躍した 劇作家である。左団次(初代)没後は明治座の相談役と
なり、左団次(二代員)を助けた。
1906年4月には演劇視察のため渡欧、数ヶ月遅れて渡 欧してきた左団次を連れてヨーロッパ各地の劇場を視察 する。 1907年4月ウィーンで松居と左団次は、 A.シュ ニッツラーを訪れているo そのときの模様は、シュニッ ツラーの日記に次のように記されている。
4月2日‑‑2人の日本人がグランヴイルーバーカー
(ママ) (ママ)
の紹介で訪問してきた。 S.N.マツイと俳優シカメ・サ ダンジだ。英語で会話。ウィーンには3日しか滞在し ない。ミュンヘン以外には初めてのドイツの都市らし い。オーストリアとドイツの演劇界の状況についての
16)
調査だという。
当時松原は、数年後にシュニッツラーと並ぶウィーン 世紀転換期の作家ホ‑フマンスタールの『ェレクトラ』
を翻訳脚色するとは夢にも思っていなかったであろう。
松居からホ‑フマンスタールに宛の第三信には、ウィー ンでシュニッソテーを訪問したにもかかわらず、ホ‑フ マンスタールに会わなかったことについて後悔してお り、滞在当時まだホ‑フマンスタールについてほとんど 知識がなかったという旨が書かれている。IB宅
同年(1907) 月帰国後桧居は、建設中の帝国劇場か らの役員への招碑を断り、左団次のために明治座改竜を 推し進める。 1908年(M41)自らの作品『袈裟と盛遠』
では舞台監督もしたが、松居の意見に基づく興行法の改
18)
革が災いして大失敗を招き、明治座を去った。その後神 経症を病み、静岡に敷居する。 1909年(M42)坪内道遥
の勧めで、松居は再び上京し、坪内の主宰する文芸協会 の賠助になった。 1911年(M44)の帝国劇場開場にあた り新劇主任として入社したが、一ケ月で辞任、しかし帝 劇との緑が切れたわけではなく、同年桧居が台本を書
き、柴田(三浦)環が出演した歌劇『胡蝶の舞』がそこ で上演され、 1913年(大2) 6月には坪内遭遥の文芸協
(19)
会第六回公演『ジュリアス・シーザー』の演出も行って いる。
同年(1913年) 7月、桧居は河合武雄や小織桂一郎と
トウル
公衆劇団を組織した。息子桃多郎(桃楼)によると、公 衆劇団という名称は、洋行中イギリスの自治制度に興味 を覚え、自由主義的な思想に高い関心を示していた松尾 が、自治体における公衆を意識してつけたとものだとい
20
う。
その後松居は松竹キネマ部設立に貢献するが、総じて 彼の幅広い活動の源にあるのは、芸術家気質というより も、むしろ時代をリードした演劇事業家たる性格だった
(21)
といわれている。このような経歴から見て、公衆劇団の 旗揚げと第一回公演としての『ェレクトラ』日本初演は、
当時44歳の松居にとって人生のちょうど中間地点にあた る。明治座改革の失敗後、目をかけてくれた坪内遭遥の 文芸協会も解散直前というような状況下、明治末期から 大正初期にかけて新劇の群小劇団が次々と出てきた中 で、松居にとっては再起をかけた興行であったといえよ
う。
2) 『ェレクトラ』初演への流れ
松居の「エレクトラ上演覚書」 (以下「覚書」と略記 する)やホ‑フマンスタール宛書簡によると、桧居自身 はホープマンスタール作品を翻訳するほどのドイツ語の 読解力がないため、アーサー・シモンズの英訳を底本に
(22)
して翻訳し、 20日ばかり要したという。
当初予定していた1913年3月か4月の上演は、エレク トラ役の俳優(河合武雄のこと)が、練習のし過ぎで病 気になったため10月にまで延期された。練習は一日5、
6時間づつ、仝二ケ月行われ、さらに地方公演で実践を
(23)
積んだ後、東京の帝国劇場で上演すると書いている。ま た河合の記憶によると、練習は「7月から60日間、朝の
(24)
6時から日暮の6時まで続いた」という。
舞台監督は、イタリア人オペラ・バレエ演出家のジョ ヴァン二・ヴイツトリオ・ローシーに頼んでいる。ロー シーは25年間俳優として各国で活動した後、ロンドンで 舞踊と演劇の学校を開いていた。日本には、 1912年10月 に来日し、 1918年アメリカに去るまで帝劇や浅草オペラ で演劇やオペラの演技指導に尽力した。ローシーについ ては様々な批判があるが、松居は手紙の中でも、 「覚書」
の中でも一貫して、ローシーの立場や演技指導力や読解 力などの能力を擁護している。
主役の河合武雄は、ローシーの稽古を「鞭を振るって 団員に懇切丁寧なる」と表している。演技の指示は、ロ ーシーのイタリア語を稔居が通訳して行われたらしい。
河合は、桧居がホ‑フマンスタールに宛てて「先月の 二日から再びエレクトラの稽古にとりかかって以来、ろ くろく眠ったことはない」と書いているのを読み、責任 の重さに初日は身が1栗えたと言っている。 (河合『女形』
275頁)
3)女形か女優か ‑女形河合武雄のエレクトラをめぐ
って一一
公衆劇団第一回興行(1913年10月1日、於帝国劇場) の『ェレクトラ』の主な配役は以下のとおりである。
クリテムネストラ:武村 新
エレクトラ:河合 武雄 クリソテミス:英 太郎 エジスタス:岡本 五郎 オレステス:小織桂一郎
(251
オレステスの養父:久保田 甲陽
公衆劇団の上演では、新派で女形の河合武雄がエレク トラ役を演じたことをはじめクリテムネストラ、クリソ テミスなど主役級の女性役から、さらには侍女や召使い の女役にいたるまで全て男優が演じている。これは当時 歌舞伎から流れた新派では、ほとんどの場合女形が女役 を演じたこと、新劇とはいえ主に新派の俳優達で構成さ れていた公衆劇団には女優がいなかったという事情から である。しかし近代劇の上演では松井須磨子や森律子な ど女優の活躍が見えはじめてきた時期とも重なり、それ を気にかけてか、松居松葉は、 「覚書」の中で、女形河 合武雄をあえてヒロイン役に起用したことについて、「無
(26
性の女としてのエレクトラ」という理由をあげている。
つまり女でも男でもない、 「性を失った」 「性を超越し た」ただ一人の人間として描きたかったからだというの で右'iTl ‑,
そして女性役を女優が演じるのが必ずしも容易だとは 限らないとし、とくに「西洋女優の現す様な、興奮し切 った、強烈な感情の発現を」日本の女優に求めることは 無理だったが、女形の河合なら強烈な感情の送出を表現
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si開戦Q個帝'IL蝣>ト.>レtてIDt公阿一婦増到来公)1・巧トrレ王の薄紙告河
『演芸画幸剛大正2年第11号(早稲田大学演劇博物館蔵)
LTDnrmi;ll:Jj.i詣ほ蝪nい輔は弼ETO二日J ni n i コ ロLijjznjLj
aa jj rE PI JL ii LE 珂臨 空3 稲田 鎚K L. I: J. .t M‑ H. U. IT TT IT .I IU l阻 az E
できると思い、河合を起用したと書いている。しかし河 合が「余りに興奮極全く本然の男性に還ってしまふ事は あるまいか」という不安もあったとしている。 (松尾「覚 書」 158頁)
河合を起用した重要な理由として松居はさらに、女形 の本質についての考えを述べ、当時の女優の能力不足を 挙げている。 「女でさへあれば直に女優になれると信じ ない。女形が多年の練磨と修養との後に初めて俳優にな れると等しく、女優でも多年の修養がなければ左様巧く なるものでないと信じて居る。だから若し女形が西洋劇 に不適当と分る時が来たとしても、急に無練磨、無修養 の女優と取かへ得るとは恩はない」 (松居「覚書」159頁)
というのである。
ところで近代劇における女形か女優かの論争は、この 公衆劇団の『ェレクトラ』公演の行われた明治末期から 大正初期に再び白熱していることに着目したい1880年 代の演劇改良運動の中で、 「男女合同改良演劇」や「女
(27)
形廃止論」などで、女優の必要性は叫ばれたものの、す ぐに優秀な女優が育成されるはずはなく、その後も新派 では、市川旭梅や市川翠扇などの少例を除いて、女形が 女役を演じるのがほとんどだった。
きちんと演技教育を受けた女優の活躍が冒だってきた のは明治末期である。 1908年(M41)川上貞奴が桜田本 郷に創設した帝国女優養成所は、帝劇によって帝国劇場 付属技芸学校として引き継がれた。帝劇がその第一期卒 業生の発表の場として初めて女優劇を興行したのは1911 午(M44 5月である。帝劇女優養成所の卒業生森律子 や、文芸協会の公演で松井須磨子がオフィーリア役やノ
ラ役で人気を集め始めたのもほとんど同時期である。し かし帝劇女優養成所で発声法も教えて女優たちの能力を よく知っていた松居松葉は、女優の演技力の水準はまだ 低すぎて使い物にならないと考えていた。
(28)
『演芸画報』 (1914年、第7号)では、最後の純女形の 一人、市川門之助の亡くなったことを機に特集「女形観」
を組み、女形の問題を議論している。この特集には、小 山内薫、松居桧葉、岡本絡堂、楠山正雄、長谷川時雨と いう当時の演劇界をリードしていた人々が寄稿してい る。なかでも小山内薫の「女形に就いて」では、 「女そ のものになるのではない」女形の修業の本質を語り、女 優が育成されながらもまだ技術的に未熟で、女形と女優 が近代劇の配役をめぐって争い合った時代がよく表れて いる。
小山内は架空の対話形式を用いて、 「歌舞伎劇は型の 芸術であり・‑‑女形の修業は『女になる』というよりは
(29)
『女形になる』」と自らの考えを述べている。
演ぜられた歌舞伎劇中の女性は女其者であってはなら ないのです。女形といふ手段に依って表される女性の 理想的或は象徴的描写でなければならないのです。歌 舞伎劇に表れる女は‑から十まで技芸が象徴する女で なければならないのです。女らしい美しきも女らしい 醜さも、悉く技芸でなければならないのです。 ‑‑・然
るに女優が「女」になると、そこに技芸以外の「女」
が出て来ます・・・‑ (小山内「女形について」 85頁)
さらに小山内は、新作歌舞伎や翻訳物の場合は、女優 が演じなければならないといい、翻訳物の近代劇などに 従来の女形を使うのは、将来は滑稽なことになるにちが いないが、今の様子ではそれがいつになることか見当が つかないと述べている。しかし今日の日本の女形が西洋 の近代劇の女性に扮する「無理」は、日本の女優が日本 の歌舞伎劇の女性に扮する「無理」より。遥かに罪が浅 い」 (小山内:88頁)という問題を提示している。結論 として小山内は「日本固有の歌舞伎劇の為に女形の養成 を目下の急務とすると共に、日本の女優を早く歌舞伎劇 の無駄な努力と喜劇‑実は俄のようなもの‑の遊び半分 な研究から放出したい」 (小山内:88頁)と書いている。
松居の女形か女優かの問題の考えは、小山内の考え方 に近い。松屈が河合の「エレクトラ」に求めたのは、技 芸が象徴する性のない女だったのだろう。松居が女優の 育成に反対していたわけではないことは、彼の女優論か
(30
らも知ることができる。島村抱月と松井須磨子の恋愛問 題で文芸協会が揺れ動いたことも、事件を坪内造遥の間 近で見ていた桧居を女優の起用に慎重にさせた一因かと 推測される。このように新派の女形である河合が新劇運 動の中でエレクトラ役を演じたことは、近代劇上演にお いて女役は女優によって演じられるのが当然となる直前 の移行期の現象として着目したい。
Ⅱ.公演の反響 〜小宮豊隆の批判と松居のホーフマン スタール理解〜
『ェレクトラ』初演は劇団内部の声や『演芸画報』な どの劇評によると、一応成功だったように書かれてい
(31
る。とくにエレクトラ役の河合武雄にとっては印象に残 る舞台だったらしい。河合は、復讐が達成されてエレク
トラが狂ったように歓喜して踊る最後のシーンで、 「興 奮しきって‑‑心臓の破裂を覚悟して踊り‑‑そして失 心したように打倒れていると」、ローシーが彼を抱き起 こすように、脊を軽く叩かれて褒めてくれたと書いてい る。松居もそのとき舞台に飛んできて「成功、成功!」
と叫んだという。 (河合『女形』 276頁)概して当事者た
(32)
ちは涙を流し合っての感動の舞台だった。
生田長江は、 『演芸画報』の「私の見たマクベスとエ
(33
レクトラ」という劇評で,前の月(9月)に帝劇で上演 された近代劇協会の『マクベス』と並べて批評している。
生田はこの日の公演開始時間を一時間まちがえていたの
(34)
で、最初の演目の『マクベスの稽古』を見過ごしたと述 べ、 2番目の『茶を作る家』の批評から書いている。生 田は『茶を作る家』の粗筋の幼稚さを批判し、脚本が、
「大久保16番地に住む桧居桧葉」のものだという噂を聞 いてもまさかと思ったほどひどいと書いている。それに(35)
対して『ェレクトラ』については、俳優たちの演技の一 生懸命さに感心したといい、この作品の上演の難しさを
考慮しても、公衆劇団の旗揚げとして立派な成功である と思うと書いている。ただしその俳優達の一生懸命さが
「平生の『女がた』としての矯飾を殺してしまひ、女声 とも男声ともつかぬ妙な声を出させたのは、止むを得な いとして」という条件つきである。
このように好意的な劇評がある一方で、小宮豊隆は、
桧居の翻訳についても公衆劇団の公演についても、酷評
36)
している。
小宮は、 「『言葉』に『魂』を与え、 『魂』に『言葉』
を与えむとして焦る者、殆どホ‑フマンスタールに如く はない。 ‑‑・豊富な感情と細微な透徹な頭脳との継起的 なる共働を、最も活発に最も新鮮に経験するこの作者 は、今まで残骸を抱いて宇宙を祐径していた、多くの「言 葉」に生命を与え、更にこの蘇生りたる「言葉」に依っ
て、あらゆる現象の上に漂う陽炎のような影に、的確な 表現を斎らした者である」と、自己のホ‑フマンスター ル理解から述べ始める。 『ェレクトラ』については「『魂』
の芝居」といい「魂と魂が触れ合って火花を散らし、戦 い、噸り、恐れ、驚き、嫡び、笑い、悲しみ、歓び、惇 え、戦き、擦れ合い、融け合う、猛烈な芝居」と捉える。
ホ‑フマンスタールは、 「敵討ということに突進する一 つの魂の奥底深く入って、その魂と他の多くの魂との交 渉から惹起される種種相を、極めて端的に、極めて微妙 に表現しようとした」というのである。小宮はホ‑フマ ンスタール作品の翻訳や演出をする者の心構えを次のよ うに規定する。
ホ‑フマンスタールの言葉は透明に、精微に、理解す る義務を負わされる。故にホ‑フマンスタールを舞台 に上はせんとする者は、ホ‑フマンスタールの言葉の 魂と言葉の音楽以上の気分とを尊重する義務を負わさ れる。この義務を負う事なしに、あるいはその義務を 意識する事なしに、ホ‑フマンスタールを翻訳し、ホ
‑フマンスタールを上演するものは、仮令ホ‑フマン スタールに深甚の愛情を捧ぐと言うとも、それはホ‑
(37
フマンスタールに対する大きな侮辱である。 ・・‑・
このような前置きの後で、小宮は鋭い批判の矛先を松 居の翻訳や松居の舞台に向けて、 15ページにわたって徹 底的に酷評している。小宮は、松居の翻訳者としての欠 点を四つ挙げる。 1.エレクトラの伝説を知らないで翻 訳するので訳語が不適切、不正確である。 2.言葉に対 して無神経である。 3.ドイツ語はもとより、英語も含 めて外国語能力が低い。 (小宮は、松居がホ‑フマンス タールにアーサー・シモンズの誤訳を報告している点に も嫌悪感を抱いているようである。) 4.登場人物の心 情を読み取らずに訳している。
小宮はそれぞれ具体例を挙げながら批判した後、訳書 については、 「『ェレクトラ』は、翻訳者として持ってい なければならぬ大事な資格を悉く欠いていたがために、
芸術としては誠に貧弱な、翻訳としては誠に偽りの多い 作品を発表する事になってしまった」と結論づけてい
る。
松居のホ‑フマンスタール理解が一面的であることは たしかに否定できない。松居は、 「覚書」の中で『ェレ クトラ』について、同じ題材を扱ったギリシャの劇作家、
エスキラス、ソフォクレス、ユーリピデスらの名をあげ、
簡単に相違点を述べ、ホ‑フマンスタールの『ェレクト ラ』がウィーン世紀末文学の特徴を顕著に帯びた作品で あるとしている。すなわち「維也納詩人の目を以て希臓 の事件を見るのに過ぎぬ。 ‑維也網の詩人の目を以て、
希腹の少女を見た。 ‑‑希膿の王宮の情調を描き出し た。而して其日と其筆とは少なくとも今の泰西の劇団に ユニックなものであるのだ」という。そしてその「椎納 の目と筆の」本質は何かというと、 「神経衰弱」だとい い、シュニッツラーなど同時代ウィーン世紀転換期の作 家を挙げて、この時代の特質だとしている。そしてエレ
クトラだけでなく、クリテムネストラ、クリソテミスな ど主要な登場人物全員が神経衰弱に陥って、まるで「精 神病院」のようだと形容する。
個々の登場人物の複雑な心理が、母娘や姉妹、姉弟ら の対話の中に表現されているのが世紀転換期の詩人ホ‑
フマンスタールの『ェレクトラ』の特徴である。それを
「神経衰弱」という形容で十把‑絡げに捉えるところが、
小宮の指摘する松尾の無頓着さと共通する点なのかもし れない。
ところで小宮の鋭い批判の背後には、松居の長所であ る行動力や事業力に起因する派手な行為に対する反感感 情もあるように感じられる.つまりウィーン世紀末文学 の代表的存在である原作者との往復書簡を訳書に数十ペ ージにもわたって掲載するような自己アピール性の強い 行為が、自己のホ‑フマンスタール理解の深さを自負す る小宮のような文学者の奥に潜む感情を刺激したのでは ないだろうか。
さらに小宮は松居が舞台監督としても資格がないと結 論づけるために以下の4点を挙げては、 1. 「装置はで きる限り単純に」というホ‑フマンスタールの指示を誤 解して、粗末でぞんざいな背景を作っている。 2.L原作 の一幕を勝手に二幕分けて演じさせたことにより、劇の 流れが切れただけでなく、原作の内面まで変ってしまっ た。 3.上演ではセリフをむやみにカットしたため、近 代詩人ホ‑フマンスタールの『ェレクトラ』の特徴であ る各登場人物の「人間」らしさが表れたセリフがなくな ってしまった。 4.ホ‑フマンスタールの韻文劇にある 音楽性を無視して「ただ筋を運ぶに必要な事件があるの み」の舞台にしてしまった。
ところで小宮の批評で着目したいのは、ホ‑フマンス タールがエレクトラの踊りに期待していることを、日本 人に対する買いかぶりだと批判している点である。小官 は、ホ‑フマンスタールが、日本の役者は「まさに死な んとするエレクトラの舞踊に対し、あらゆる欧羅巴の女
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優よりも、すぐれた表情をなし得べき事を確信す」書い たことに半ばあきれ、ホ‑フマンスタールの「西洋より 見たる東洋的性質」が、今の日本にも猶ほ溌刺として生
動していると思惟し、日本の舞台に於て初めで恰好なる 表現を見出し得るものと信じていると批判し、現実の日 本の演劇界は物質的な利益の追求に走っていると述べて
いる。
しかしホ‑フマンスタールが日本人の身体表現に対し て持った関心は、小宮の想像を越えていることを指摘し たい。ホ‑フマンスタールは、 1902年の貞奴のヨーロッ パ巡演で彼女の演技を見たらしい。また日本人の顔の表 情や身振りにある表現力に関心を抱いていた。いわゆる(39)
『チャンドス卿の手紙』 (1902)に代表されるヨーロッパ の二元論的思考の行き詰まりから生じた認識の危機とも 読み取ることのできる言語危機の克服手段として、精神 と身体が統一された全的表現を模索していたホーフマン スタールは、日本人の身振りにある全体表現にたいへん 興味を示していた。したがってホ‑フマンスタールの日 本人に対する見方には、西洋から東洋を見る眼の多少の 誤解はあるにせよ、小宮が指摘するほどの、お世辞や買 い被りとはいえないのではなかろうか。
Ⅳ.日本でのホープマンスタール受容史における『エレ クトラ』公演の位置
最後にこの『ェレクトラ』上演と翻訳が日本における ホ‑フマンスタール受容史上でどのような位置にあるか について述べたい。ホ‑フマンスタールの戯曲の最初の 舞台上演は、 1911年明治44年4月(13日初演)、有楽座 における新時代劇協会の第三回公演の『痴人と死と』 (蘇 鴎外訳)である。森鴎外訳の『痴人と死と』は、 1912年 (M45) 5月に有楽座で土曜劇場第三回公演でも上演さ れている。公衆劇団による『ェレクトラ』上演は、ホ‑
フマンスタール作品の上演としては二作目となる。
翻訳書として出版された作品では、 1912年(大1)鶴 外の翻訳による『痴人と死とDerTor und derTod』に
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続く2作目である。
ところで松居は、ホ‑フマンスタールに宛ての手紙 で、 「2人の若きすぐれた文学者が、ほとんど相続いて
『ェレクトラ』を翻訳しており、そのうちの一人は、日 本最大の劇場の作者主任をして居られる青年文学士の手 になるものではあるが、この人の翻訳はむねと上場を目 的とせられたため、余りに省略が多い」、また「もう一
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方も、ただちに台本とするにはちと蒔踏する」と書いて いる。したがってエレクトラの翻訳を試みたものは松居 が初めてというわけではないらしいが、出版には至らな かったようである。
その後、 『ェレクトラ』は、大正9年、大正13年、昭 和3年にいずれも楠山正雄の翻訳で出版されている。前 述した郡虎彦の『白樺』に掲載された『ェレクトラ』の 梗概などを含めると、大正、昭和の初期に出版されたホ
‑フマンスタールの作品の中で、 『痴人の死』、 『謎』 (『オ イディプスとスフィンクス』)鴎外訳と並んで、日本で 紹介された回数の多い作品といえる。
結び
松居松葉とホ‑フマンスタールとの間で交わされた書 簡を契機に、 『エレクトラ』の日本初演にまつわる諸事 情を見てきた。松屠松葉については、翻訳の水準の問題
などの批判もあるが、原作者ホープマンスタールと書簡 を数回に渡って交わしながら、その作品を日本の舞台に かけた情熱と行動力は再評価されるべきである。劇評か らだけでは評価の定まらないこの『ェレクトラ』の日本 初演であるが、小宮の鋭い批判も、別の見方をすればこ の上演がどれほど注目されていたかを物語っているとい えよう。
注(1)ホ‑フマンスタールの戯曲『ェレクトラ』は、ドイ ツ語圏においては1903年10月ベルリンで初演され
‑>
(2)松居松葉 訳:『エレクトラ』鈴木書店、大正2年、
1頁‑31頁。ホ‑フマンスタールが松居に宛てた手紙 のドイツ語原文は、当時日本で刊行されていたドイ ツ語雑誌"Zeitschrift fur deutsche Sprache"(Jg.6, Tokiol. Sep. 1913)に掲載され、ホ‑フマンスター ル批判版全集第7巻に転載された。 Vgl.Hofmannsthal, H.v.: Samtliche Werke VII, Dramen 5,Frankfurt a.
M.1997, S. 462‑463.以下SWVIIと略記する。
(3)今回FDHの許可を得て書簡の写真を掲載させていた だいた。 FDH内にあるホ‑フマンスタール・アルヒ ーフ(Ho血Iannsthal‑Archiv)所長ヨアヒム・ゼング (Joachim Seng)氏のご厚意に感謝する。なおこの書 簡は、 1992年にフォルクスヴァ‑ゲン財団からFDH への寄贈品の一部である。フォルクスヴァ‑ゲン財 団は、 1960年代にホ‑フマンスタールの孫のライン ハルト・フォン・ホ‑フマンスタール氏からこの手 紙を買い取ったという。
(4)松居松葉 訳『エレクトラ』、 1頁。
(5)桧居の手紙は、松居白身が第三信で述べているよう に、 「ドイツ語の教師に書いてもらっている」。この 手紙が、ドイツ語の教師に下書きしてもらい、松居 が清書したものなのか、ドイツ語の教師の筆なるも
のなのかは現在のところ不明である。
(6)原文は以下の通り ‑ mit grossem Vergn臼gen au‑
torisiere ich den Verein Koshu‑Gekidan, mein Drama
"Elektra" in japamscher Sprache aufzufiihren und diese Au瓜hrung beliebig oft zu wiederholen.‑ (.
SWVII. S.462)
(7)松居松葉訳: 『ェレクトラ』、 1頁、原文はSWVn.S.462
f.
( 8 ) SWVH. S.462f.
9 SWVII. S.4621 10 SWVn. S.462f.
(ll) Ho血Iannsthal, H.v.: Elektra, Tragodie in einem Aufzug. Berlin 1909, S.28.
(12)萱野二十一という筆名は、郡の養祖父の姓と年齢か ら取ったという。
(13)郡 虎彦:『白樺』第1号、洛陽堂、明治43年4月、
38‑51頁。および『白樺』第2号 明治43年5月、
42‑46頁。
(14)松居松葉訳: 『エレクトラ』、 27‑28頁。
(15)松居桧葉: 「『ェレクトラ』上演覚書」 『続劇団今昔』
所収、中央美術社、大正15年156頁。
(16) Schnitzler, Aれhur: Hg.v.Welzig, Werner: Tagebuch
1903‑1908, Wien 1990. S.265.
(17)松屠松葉訳: 『エレクトラ』 9‑13頁。
(18)芝居茶屋と出方制度の廃止など。
(19)松井須磨子の退会後で、淋しい雰囲気が漂った文芸 協会最後の公演となった。
(20)尾揮良三: 「松居松葉に関する覚書」 『女形今昔葦』
筑摩書房、昭和16年所収、 209頁。
(21)帝国劇場における歌劇部創設、ロシャ管弦楽団招碑、
三越衣装部建設、操人形芝居の利用などの業績が挙 げられる。
(22)松屠松葉訳: 『エレクトラ』 22頁。
(23)松居松葉訳:『ェレクトラ』 2‑3頁。松居は第2信 で「100回以上の稽古を積む」と書いている。
(24)河合 武雄: 『女形』、双雅房、昭和12年、 274頁。
(25)松居 松葉 訳:『エレクトラ』に初演の配役表が挿 入されている。
(26)松居 松葉: 「『エレクトラ』上演覚書」 156‑160頁。
(27)女優論及び女形廃止論については、小植万津男: 『日 本新劇理念史』明治中期編及び続明治中期編、未来 社1998、 2001年に詳しい。
(28) 『演芸画報』、大正3年、第7号、 82‑103頁。
(29)小山内薫: 「女形について」 『演芸画報』大正3年、
第7号、 82‑88頁、なおこの論文は後に『小山内薫 全集5』春陽堂、昭和6年に収められた。
(30)於居松葉: 「女優論」 「女優のいろいろ」 『続劇団今 昔』上掲書所収。 190‑254頁参照。
(31)秋葉太郎は、 「『ェレクトラ』は旗揚げ興行の眼目と した演目で、河合も松葉も、いろいろと心身をくだ いたにも拘らず、上演の結果は上乗ではなかった。」
としている。秋葉 太郎著、 『日本新劇史』下巻、理 想社、昭和31年、 331頁。
(32)河合武雄:上掲書、 275頁。
(33)生田長江:「マクベスとエレクトラ」、 『演芸画報』、
大正2年、第11号、 66‑77頁。
(34)これは前月(1913. 9)上漬された近代劇協会の『マ クベス』にひっかけての演目だといわれている。
(35)この作品の作者は、松居の匿名で「大久保二八子」
とされていた。
(36)小宮豊隆「エレクトラ」 『演劇論集』東京聖文闇、昭 和12年、 450‑469頁。
(37)小宮豊隆:上掲書、 452頁。
(38)松居松葉 訳:『エレクトラ』 7頁参照。原文は、
SWVII.S 462.
(39)関根裕子: 「ホーフマンスタールと非西欧的身体表現
‑言語危機克服の試み‑」、 『オーストリア文学』第 17号、 2001年参照。
(40)詩作品の数篇は雑誌で翻訳紹介されている。例えば 茅野粛々訳: 「訳詩二幸」、 『スバル』、明治43年8月 また森鴎外は雑誌「歌舞伎」や『スバル』の「椋鳥 通信」で多くの戯曲の梗概やドイツでの批評を紹介
している。
(41)松居桧葉訳: 『ェレクトラ』上掲書、 15頁。
その他の参考文献
桑野正夫『女優論』三芳屋書店、大正2年。
松居桃多郎「桧翁年譜」 『舞台』四一九所収。
松居桃楼(桃多郎) : 『市川左団次』、高橋登美昭和16年。
戸板康二: 『演劇五十年 ‑20世紀日本文明史9‑』時事通 信社、昭和25年。
国立国会図書館編:『明治・大正・昭和 翻訳文学目録』風 間書房、昭和34年。
戸板康ニ: 『演芸画報・人物誌』青蛙房、昭和45年。
富士川英郎、小堀桂一郎: 「日本における7‑ゴー・フォン・
ホ‑フマンスタール翻訳・研究書誌」、岩淵 達治編
『ドイツ文学』第52号、 1974年春号所収153‑157頁。
杉山正樹著『郡 虎彦 その夢と生涯』岩波書店、 1987年。
三瓶達司: 「松居松葉一軍記者中心の戯曲‑」 『国文学 解釈 と鑑賞』第57巻、 1992、 5号、至文堂、 56‑63頁。
高嶋雄三郎: 『日本女優史』川柳新聞社、平成7年。
川戸道昭 他2名編、 『明治期翻訳文学総合年表』、大空社、
2001年。