現代演劇の課題
著者 田中 彌市郎, 田中 弥市郎
雑誌名 主流
号 15
ページ 33‑41
発行年 1953‑03‑05
権利 同志社英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016602
現 代 演 豪 t
の 課
題
田
中
爾
市
R μ
白H m
﹁過去三十有余年の私の批評作品を振返ってみて︑私は常にドラマへ
と立帰っていた乙とを知フて驚いて居ります﹂
一九
五
O
年︑
ハ
1グ
ァ
1ド大学に於けるさる記念講演に﹃詩と劇﹄
︵︑
もミ
ミ塁
︑b
苫E
由民
︶と 題し て諮 った エリ オヅ トは
︑彼 の劇 に対 ナる
並々ならぬ関心を︑此の様な言葉で述べている︒との講演の趣旨段︑
現代に於ける詩劇︵ポエティッグ・ドラマ︶の意義の強調であり︑エ
リオヅトは︑伎の考える﹁奈術の機能﹂を充分に発揮し得る媒体とし
て︑凡ゆる芸術形式の中でも︑劇・就中詩劇︑に多大の期待を寄ぜて
いる ので ある
︒後 はと の﹃ 詩と 劇﹄ の最 後を
︑次 の一 一言 案で 結ん でい る︒
﹁結局︑芸術の機能とは︑日常の実在︵リアリテ4︶の上に︑一つの
信じるにたる秩序を与え︑而して実在の中なる秩序に対する何等かの
知覚を引出し︑そうすることに依って我々をある平静︑静穏︑調和の
状態にまで導き︑最後に︑恰もずァ1ジルがダシテを置いて立去った
如くに︑我々から離れ︑この案内人が最平我々に役立たなくなる様な
所にまで︑我々自身が進んで行くに任せる働きに他ならぬのでありま
す ﹂
従フて︑芸術作品から受ける感銘が︑実在の秩序の知覚に結びつか
・な けれ ば︑ それ は真 の長 術と は一 式え ない
︑と 一疋 うこ とで あり
︑叉 勿論
上述の機能は全ての妄術の機能である︒則︑画家は﹁可視的世界﹂に
於て音楽家は﹁音の世界﹂に於て︑この機能を発揮しようとする︒
而乍ら︑この芸術の機能に関して︑でクオットの述べている所は︑全
ゆる芸術の理想を示すと共に︑同時に︑エリオットにとっては︑之こ
そ詩劇闘が共処に向って精進努力ナベき理想的状態なのである︒
怒に︑ェリオットが特に詩劇を重視するのは︑次の様な理由からで
ある︒即.散文劇が取扱うのは﹁人の意識的生活が行動に向けられた
時に︑明かに指摘し︑分類し得る情緒や動機﹂の領域である︒之に対
して︑之等の情緒や動擦を超えた向うに﹁語わばほんの院の一隅から
窺うことが出来るのみで︑而も決して完全には焦点が定まら歩︑偶然
行動から超脱した様な瞬間にだけ感得し得る様な︑無限に拡がる感情
の周辺が存在する﹂のでありJ
﹁感 性の この 特殊 な領 域は 劇詩 一の みが そ
の最も強烈な瞬間に表現し得るものなのであち﹂
詩劇の一室視がエリオットにとって︑決して一時的な輿味や単なる関
心に 止ま らな いこ とは 吋ど 同色 町砕
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品γ
ミミ
丸町
︑
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宮︑
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︵H Uω
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ミ − 3︵H
Cω cu w
から同
JK
W向
︒三 宮ミ 目︑
hW 4H
QU
品申︶へと連る一連の作品を通して見られる詩劇に払われた彼の不
断の実践的努力と︑中でも﹃カグテル・パ1テ
4
﹄に於ける形式と1
内容との︑成功した調和を知る時自ら明かとなるが︑更に︑一九二入
年に書かれた﹃劇詩に関する対話﹄︵ANM
白 山 口
hR目gbE
ミミ
rhup
hH
ミ︶は︑先の散文劇と詩劇の領域に関するエ可ノオヅトの見解をより
明瞭に示している︒彼は︑ウィリアム・アーチャーを代表とする演劇
のリアリズムの信奉者逮が︑韻文学︸目して劇に課ぜられた拘束とし︑
之に依って劇の情緒が制約されると考え︑そして散文のみが近代の感情に肉って広く開放され︑現実性に照応するものだと信じているのに
一矢 を報 いて いる
︒
﹁イスキラスの品目から我々の時代までに︑果して人聞の感情はそれ程
変化しただろうか︒否︑私はむしろ散文腐は韻文劇の副産物だと一式い
たい︒人間の心は︑感情が強烈になると韻文で自らを表現しようとするものだ︒・:散文醐闘が一時的念︑表面的・なものを強調しようとす
るのに対して︑若し我々が永遠な︑普遍的なものに達しようとするーならば︑我々は頭文に依って自己を表現しようとす九﹂
散文 では 語り 切れ ない 多く のこ とが ある
︑と 一式 う考 えと
︑詩 劇と 一云
う形式と︑それのもつ機能の問題が︑エリオットにとって三十年来の深い関心事であることは︑以上に見た通りである︒市し彼は必
AY
しも
全ての劇が︑直ちに詩闘でなければなら衣い︑と一去っているわけでは
ない
Q媒体としての詩が︑観客の意識に上ると一式う様なことは︑凡そ
劇の第一義を離れたことであり︑劇と劇の一言葉とは決してごつのもの
では なく
︑彼 自身 一足 って いる 様に
﹁散 文で あれ
︑韻 文で あれ
︑曲 闘の 言
葉に含まれる効果やスタイルや︑リズムは︑無意識的なものでなけれ
ばな らな い﹂
では冒頭の引用に帰って︑エリオットが︑一般に劇と一式う形式を長
年の中心諌題と考えている心の底には︑何がひそんでいるのか︑何故
にエリオットは他の芸術ジャシルi例えば小説に比して斯くも強い
関心 を一 疋ナ のか と一 疋う こと に就 いて は︑ 自身 多く を語 って いな い様 で
ある︒而し﹃詩劇の可能性﹄吋君︑む訟を忠岡︑ミhhubhHRNVE
ミ 白
なる一文に於て﹁エリザベス朝の醐闘は︑生のま与のエシタテエイシメγトを求める大衆を目標とした︑一郎も彼等はよくボエトリを守ったのである︒現代我々の課題はエシタテエイシメジトの形式をとり上げ︑
之を芸術の一形式とする発展過程にもち込むことである︒恐らくミユ
1ジッグ・ホールのコメデ4アシこそ最上の素材であろ九﹂と云って
いるが︑詩人としてエ
p
オヲトが︑劇場こそ社会的コミュニケ1ショ
シ
の場であると考えていることは︑例えば︑ハ1パ1ト・リードが︑や
はり 現代 詩を ミュ
1ジッグ・ホールの民衆の中に持込む可きだと提唱
すL
を通じての作家と民衆の結びつきを目指していることである︒ 両者の聞に相通歩るものは︑共に芸術の基礎としての社会︑即ち作口聞 のと︑確かに同じ観点から云っているのに違いない︒そしてこのd
このことを更によく理解する為にも︑加藤周一氏の二つの近著
11
l
﹃抵 抗の 文学
﹄︵ 一九 五一 年︑ 岩波 新書
︶﹃ 抵抗 の文 化﹄ ハ一 九五 二年
︑
末来
社︶
i
ーから氏の演劇観を抽出することは大きな助けとなるであろう
下の自我の直接的表現であった︒いL 超法であり︑実現の主義は意識方求﹁我象徴主義は自の探内一回の意識 ︒
ヂれ にし ても
︑浪 漫派 一以 来の 自我
中心主義が知的にまた属︑覚的に極端にまで追求された結果あらわれざ
るを得タして現われたものである︒:・::そしてもはや自我の内部に 探り 得べ き何 もの も喝 なく なっ たと きに 近代 の詩 は衰 えた ので ある
﹂
勿論︑それは詩だけの問問題ではない︒近代の喪術は例外なくそれを生み出した市民階絞の自我の哲学と運命を共にナる︒中でも近代小説
はそうした近代的人間観の申し子であり︑個人︑主義的自我中心の思想
と共に起り︑その同じ行き詰りの沼にあえいでいる︒
﹁個人主義とは一切の価値判断の益準を個人の中に求め︑個人をそれ自身で充足的な究極的価値と考える思想である︒測のことばで云えば人聞の運命を決定する原因が個人の中に︑具体的にはその性格と心理
の中にあり︑そのほかには友いと考える思猿である︒その場合に社会
はその様な個人の集りにナぎ夕︑それぞれの個人の自己実現の場所で
あるにすぎない︒近代小説は︑社会的背景のなかに性格を描き竃個人
の内部に心理を分析し︑そうすることによってその人間の幸福と不幸とを︑要するに一個の人生を説開閉することができると云う仮説の上に
立っ てい た﹂
従って次の様にも云えるであろう︒
﹁小 説は 本来 告白 であ り︑ 小説 の歴 史的 一人 の人 物の 血月 白に はじ まっ
て多数の人物の告白の組み合ぜに発展して行くが︑木来の原則には変
りが ない
︒:
::
:小 説は その 本質 によ り近 代的 な人 聞を 一示 し︑ 原則 的
には︑近代的な人間をしか示さない︒それこそ小説が近代と共に発生
した と一 疋う こと の内 面的 友意 味で あり
︑必 然的 衣理 由で ある
﹂ 認に
﹁告 白﹂ と一 式う 言葉 の連 想か らば かり でな く︑
﹁告 白﹂ と一 再う 方
法そのものL近代性と﹁告白﹂を読み立つ理解する近代人の心を解明した内容の点からみて︑エリオヅトの匂hN
誌な
︵H
UM SK
興味潔い一節
があ
る︒
﹁私
が遊
山山
叫
NW
一U
式う
時︑
怒は
ル
1ソ
ウの
2口
白﹄ の如 き警 を読 み乃
至は読み得た人々の心を意味している︒近代の心は告白なるものを︑
即ち夫々の一一撃さと自己理解の度合が違うに過ぎない文字通りの自己説明を︑理解することが出来る︒そして叉それば商閣を抽象として理
解出来るのである︒今日︑殆んと無意味な告白が新開からあふれ出し︑誰もが︑自分の心をさらけ出す
i l i
達同
時的
己主
円巴
室︑
bS Fl lか
︑さ
もなくば︑さらけ出している様な顔をしてい弘﹂
との引用はさらに今一人の名前を抽出い起させる︒それは英国の現代
批評に於て真先に︑而も激越にアγテ4
・ロ マシ ティ ジズ ム︑ ァ
γテ
4
−ヒ ュー マニ ズム を唱 えた
︑ T−E
・ヒ
ュ
1ム
であ る︒ ヒュ
1
ムは
遺著
者同
町宮
町民
同
h g h u
の中の多くの箇所でルlソウを近代ロマンティシズムの首魁として徹底的に弾劾している︒後にとってヒューマニズム
とは︑ルネッザシス以降の近代人が﹁絶対的価値の世界﹂︵吋E当
25
︒片
山富
CESS
−
5︶のあることを忘れ︑人聞の位置を見失った時に作り 上げ た︑ 世界 観の
﹁偽 りの 範臨 時
f一 ︵
P Z
由円
え認
25
であ り︑ ロマ
シテ
4
シズ
ムは
その
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白門
知吋
a u F 2 0 8 2 5
であった︒彼は言葉とし
て個
人︑
玉義
と一
足う
語を
使っ
てい
ιないけれとも︑ロマシテ4
シズ ムの 基 礎が
EDCEO
同 出 血 片
山 由 片 山
丘 町
Oロ
にあ ると 一去 って いる とと は︑ 先の 引用 で加 藤周 一氏 が恒 人主 義を
﹁畑 山人 をそ れ自 身で 充足 的ー な価 値と 考え る
思想﹂と定義しているのを考え合すまでもなく︑ヒュ1
ムは ロマ シテ
ィシズム︑或はヒューマニズムと一式う包括的なレイブルをはりつけて
自己中心的な近代の心の誤りをついているのである︒今や小説はこの個人︑王義的自我中心思想の沼を︑新しい人間観の抱
掻によって脱却しなければならない︒府しその困難さは︑更に自我の
告白と一足う小説的方法の麗史そのものに内在している︒散文小説に依
る表 現と 一五 う形 式に 必然 的に 附随 する 約束 は︑ 一人 の作 家の 告白 を一 人の 読者 が来 日々 の書 斎で
︑各 々の 孤独 の中 で読 むと 一式 う形 式で ある
︒
加藤周一氏はこの﹁小説の発展の歴史に結びついた障碍の多くを︑演
劇が 越え る事 はか なら やノ しも 困難 では ない
﹂と 考え る︒
近代に於ては演劇さえもより多くこうした小説的方向に向って進ん
で来たけれとも
1i
私は この
︑近 代劇 の趨 勢を こそ
︑エ リオ ッ
Fが
散文
劇のリアリズムを排して詩劇に赴かんとする一つの大きな理由だと思
うの であ るが 11 1本 来劇 的世 界と は﹁ エデ
4ポスの心理がとうあろうと︑アポルロンの神託が実現される世界﹂であり﹁問題は彼が運命をどう解釈するかではなく︑運命ととう戦うかでるる﹂ならば﹁劇的な
ものはもはや人聞の意識の中になく︑人物と人物を超えるものとの聞にある﹂︵﹃抵抗の文学ものである︒従って演劇が小説の困難な条件を
超えて︑昨日の小説一に代ヲて︑今日の人間と時代を表現しようとする
ならば︑演劇は木来の劇的世界に立婦らねばならない︒劇的方法と劇
的形式が演劇の真の機能を発揚するであろう︒それは小説的方法と形式即ち﹁木を読んでものを考えることとは舛蘭係でないまでも︑エほ
と性 質の 異う 行為
﹂で ある
︒﹁ まや ノ劇 場へ 入る と一 一
Aうζとが幕のあが
らぬうちから︑見物人のつくる特殊な社会えの仲間入り一である︒芝居を鋭ょうとするのはその仲間の−んであるわたくし︑つまり我々であ
って︑一人のわたくじではない︒本を読もうとするのがわたくしであ
って 我々 でな いの とは 大変 なち がい であ る﹂
︵﹃ 抵抗 の文 化﹄
︶
ぎて︑先に触れた如く︑劇的世界に本来︑異質的な小説的方法学︸採
り入れることが近代劇の木質的友誤りであったのであり︑エリオヅト
が詩
醐闘
を提
唱す
るの
は−
w
この 劇に 於け る誤 った 心理 主義 的リ アリ 一ス ム
を踏越え︑その誤った近代主義とた屯とを分とうとする意図であろう と思われる︒更にそれは決してエリオヅトの古典主義的意味に於ける詩形式の墨守では無論なく︑それはむしろ︑極度に高揚した精神のスポシテェイニュアスな流露として自然なものであり・観客にもその形式に抵抗を感じさすことなく︑受け入れられ幻ばならない︒そして観客大衆の心は近代的自我の意識を超えた瞬間に﹁実在の秩序﹂を知覚するであろう︒エリオットが特に詩劇と一再う形式に依って発揚されることを望んでやまない畏術の木当の意味での現代的機能である︒
では﹁実在の秩序﹂とはより具体的に何を指すのであるか︑我々は之を知覚さそうとする努力の実例を﹃カグテル・パIテ
4
﹄1
に見 る こと が出 来る
︒
この闘に就いては既にかなり多くの紹介がされて居るけれとも福
田恒存氏がその邦訳に加えた解説は巧みにこの劇と近代社会の問題の焦点を街いている様に思える︒
﹁﹃ カグ テル
・パ ーテ ィー
﹄は 一見 茶間 劇の 仮商 をか ぶり
ιな
がら
︑じ づ
は二十世紀の神経的な不安のいっさいを計量したうえでそれに堪える
精神の存在証明をもくろんだ作品である︒エリオットは現代の不安を
見おとしてはいない︒が︑それがすべて神経的な︑いいかえれば生理
的・肉体的な不安にすぎぬことを知っている︒なぜなら︑不安なる精神なとと一式うものはない︒なるほと︑われわれはよく精神的不安とい
うことばを口にする︒が︑不安とはあくまで神経のものであり︑肉体
のものである︒精神とは不安に対処して自己を確立し︑その存在を証
明す るも のな のだ
﹂
氏は︑との劇に於て最も重要なことはその﹁構成の秘密﹂であると
一式 フて いる
︒そ れは よの 精神 の存 在証 明の 仕方 を指 して いる
︒一
−つ ま
りそれは存在証明ではあっても︑あくまで不在一証明を方法としている
と一去うこと衣のである︒愛と精神と神とのみととなアリバイを作るた
診に︑エリオットには一分の際もない巧殻な構成が必要だったL
ので
ある︒そして﹁この劉の作図は観客の践に完全にかくされている︒観
客は自分を動かしている作図を知ることが出来ない︒それらしきものにぶつかると︑さらにそれを動かしているなにものかの存在に気づく作品のそとに完全に作図を閉め出してしまったために︑逆に作図がア
リバ イに よっ て確 乎た る本 在証 明を 得る と一 式う わけ だ﹂
最後に氏が︑との作品には現実性が稀薄であるところではなく︑む
しろその逆に﹁エリオットは現実の︑過剰の為に稀薄にさそられた精神にあえて現実性を与えようとしたのにほかならない﹂と一司っているこ
とは主しい︒とのことは先に詩劇を要請するヱりオットの真意を見た時に明かになっているが︑更にエリオット自身詩劇はその理想に向っ
て進むときにもやはり﹁闘がとり結ばねばならない普通の日常世界と
の接 触﹂ を忘 れて はな らぬ と一 式っ てい るの は︑ 同E a
の内なる秩序の知覚を念じているかめているのではなく︑リアリテ4 k 素材の日常性を求
らで
ある
︒
エリ
オッ
トは
実在
の内
なる
秩序
を!
!福
田信
存氏
の一
一一
回一
苦情
で云
えば
︑
震と精神と神の存在を︑劇的世界に於て証明しよう
ι
した︒そして更にその能粋な状態を求診て詩劇の形を採用したQ﹃カ
グテ
ル・
パー
ティ
ー﹄ はそ れが 見さ ずに 成功 した 実例 で︑ ある
︒市 しそ うし た良 呆は 先述 し た通 り必
︑ず しも 詩剖 割以 外の 形式 に不 可能 なわ けで はな く︑ 叉我 三詩 劇
の伝統をもたない同呉邦人にとっては詩劇も︑その充分な機能を期待出
来ない︒その意味で私にとって︑JeB
・プ
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1
スト
リー
の﹃
紘一
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志向
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︑町
民〜
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は一つの喜びでるった︒これは先の﹃カ
クテ ル・ パ
1テ
4
1﹄
に較 べて
︑そ の文 学史 的意 義と 一古 った 点で 一屑 を
並べる様なものではないでるろうし︑又かならやノしも神とか実在の秩
序とか云った次元の問題を正面から提示するものではない︒而も徒ら
に末機神経的な心理の上の言葉の遊戯では友く︑叉︑生のまL
の問 題
のひとりよがりな押売でもなく︑現代の問題を︑まっとうな演劇的感銘として与えてくれるものである︒﹃警部来訪﹄は一年差別に﹃夜の来訪者﹄として翻案︑上演された
ことがあり︵俳優座︶︑最近畿訳も出たけれども︑この戯曲に何等かの
形で援した人が﹃カグテル・パーティー﹄に較べて少いかとも思われるので︑一応筋を追ってその演劇的世界に触れて見たいと思う︒
裕一
富な
工場
主︑
ア
1サ1
・ メ 1 71プグの立派な食堂︒パ
リシ グと
夫人︑柏崎のシェイラと弟のエリッグ︑の家族に加えて︑今一人︑ジェラルド・グロフトの五人が明るい笑い芦の中に今しがた楽しい食事を
終っ た所
︒一 彼等 はシ ェイ 一フ とジ ェラ ルド の婚 約を 祝ぃ
︑こ の特 別の 日 を喜 び合 い︑ うき 立っ てい るの であ る︒ 両親 一は バ
1リ
シグ
・カ ムパ ニ ーに 劣ら ぬグ 胃フ ト・ ロノ ミテ
4ッドの御曹子を婿にすることにすっか
り喜び︑打寛いでいる︒ミスター・パ1リシグは︑萄萄潜の酔も手伝
って 雄弁 にな り︑ 又し ても 方一 一言 まじ りの 演説 を始 める
︒二 十才 あま り
のシェイラは美しい一線で︑幸福に酔って︑いさ誌か興奮している︒ジ
f一ラルドは育ちのよい︑三十ばかりの男らしい魅力を持った都会−的念
青年
︑工 予ヅ グも やは り二 十一 イそ こ/
\︑ 内気 だが 反面 白一
−訟 を主 張す るこ とも 強い
︒
バ1リシグにとってもこの﹁生濯での最も幸福なタ﹂には︑つい上
気繰 で﹁
︻こ のこ とだ けは 云っ てお きた いの だが
︑:
:
J:
・﹂
と一
足う
こと
にな る︒ ム
7や後にとって人生は幸福そのものである︒媛の婚約だけではない︒事業は成功している労r働問題のトラブルも大したことじゃな
いoA7にきれいに片が附くにちがい友い︒何しろ﹁我々は益々着実に
繁栄して行ってるのさ﹂戦争?それも心配するには当らない︒侭故なら﹁ドイヲ人だって戦争をしたがってはいないよ︑設だってそうだ一
何故って?戦争では全てを失って何も得られないんだからな﹂
11
1 一式 い落 した が︑ この 戯曲 の設 定は 一九 一一 一年
︑春
︑全 てを 失い 何も 得
なかった大戦の二年前と云うことに友っている︒
11
1けれともエザヅ グに は必
︑ず しも 釈然 とし ない もの があ る︒ 而し バ
1リγグはエリッグ
をさえぎって続ける︒﹁:・・:戦争の機会なんかないと一玄いたいね
との世界の発達があまり敏いから︑それが戦争を出来なくしてしまうんだ︒我々のこの進歩を見なさい︒一︑二年もすれば︑何処へで行け
る一飛行機が出来るだろう︒自動寧の進歩だってどうだ︑時々刻々に大
きく 速く 怠っ て行 くじ ゃな いか
︑そ れか ら船 だ・
:・
::
︒さ あ恥 点︑ 前方 若 い三 人︑ ム
7私
の一
買う
ζとを筒いえ忘れるんじゃないよ︑との二十年か
一二
十年
の中
K.まあ一九四
O
年としておこう︑君遠もこうしたパ1テ4ーを開いて︑君遣の息子ゃ︑娘が婚約しようとしているだろう︒いいかね︑その噴ーまでには諸君はこんな労資閣の悶着もなく︑ばかげた
戦争の怖れもない世界に住んでいることだろう︒そしてあらゆる所に
平和と繁栄︑急速な進歩が賛らされるだろう・::﹂そして叉この︑先の市長で現に市参事会員と裁判官を兼ね︑ム7や蕗位を受けようとしている成功せる実業家が︑大気嫁で︑彼が﹁実に苦しい経験と一式う学
校﹂ で学 んだ こと だと 一式 って
﹁・
−
a:
・い いか ね︑ 人間 は自 分の 仕事 に
気をつけて︑ぇ︑世話をやいていればいLのさ︑自分自身と︑そして
自分
l i
のL
とま で一 去っ た時
︑突 然王 国戸 口の ベル の音 がさ えぎ る︒
イシスベクター・グ1ルが這入って来る︒〜警部はバ1Fγグに︑今日
多量の消毒剤を聴んで担ぎ込まれた若い女が︑二時間前にその病院で
死ん だこ とを 告げ る︒ その 一女 の名 は︑ 旦グ ァ・ スミ ス
o
﹁エ グァ
・ス ミ
ス?﹂聞いた様にも思うが思い出せないでいるバ1リγグは警部から
7
双の写真を見ぜられてやっとその女が以前彼の工場にいたが解雇したととを思い出す︒ミスタ・パ1リγ
グ以 外は
︑エ グァ
・ス ミス と一 式
う名の女を知らないと一云う︒而し警部は女が必要上他の名を使ったことを教える︒女は警部の告げる所に依ると︑メ1リγグの工場をやめ
させられた後に︑良い機会を摘んで︑ある商店の売子として一犀われたのだが︑すぐに叉解雇された︒その原因としては他に何もなかったの
だが︑﹁彼女が知っていることは︑た宮︑一人のお顧客が彼女の苦情を一式っただけなのです︒それで彼女はその店を出なければならなかっ
たの
です
﹂
O﹁何時?﹂﹁どんな顔の?﹂とせき込むシ品イラに︑警部は例の写真を出して見せる︒先の時もそうなのだが警部は写真を今度
はγ ι
イラ一人にしか見せない︒彼女は写真の女を認めるや︑糊庁然と
して色を失い部屋から逃出ナ︒﹁我々は今夜楽しい家族のお視をしていたんだ︑君はそれを全く台無しにしてしまったね﹂と気色ばむパ1リングに答えて警部も一式う︒﹁私も今夜病院で︑エグァ・スミスの後
始末をし乍ら︑同じ様友ことを考えていました︒前途に望みをもった
一つ の生 涯を 誰か
z台無しにしてじま一ったんだと﹂再び這入って来た
シェイラの口から彼女が自分が作った蒼物の自分よりよく似合う売子を︑た古美しいと一式うことのしっとからやめさせたことがわかる︒
﹁女は最後のまともな仕事を失って︑全くちがった生活の仕方をし・な
ければならないと決心しました
LI
−−警部﹁英処で彼女は先タ名前をデイジイ・レγトγと変 えた ので す﹂ ジェ 一フ ルド
︵驚 いて
︶﹁ 何?
L警
部ペ 蓬宥 いて
︶﹁ 名前 をデ イジ イ− vy
トyと変えたと申し上げたので
す﹂警部は次の部屋に消える︒ジェラルドはシェイラが既にデイジイ
の名を聞いて驚いた自分を見抜いているのを知って︑警部にはそのこ
とを伏せておいてくれる様にとたのむ︒﹁何うして?﹂シェイラはややヒステリッグに笑いながら尋ねる︒﹁あの人は知ってるわ︑勿論知ってるわ︑私達が知らないζとをどれだけ知ってることか︑あなたも今に分るわ今に﹂その時警部が這入って来て︑二人をじっと見てい
る︒ 幕が 下り る︒
二幕目︑幕が上る︑その聞に時間的経過がない︒人物の位置も先の
幕切れと同じである︒シェイ一フには漠然と自分遠のおかれている位置
がわかつて来る︒ジェラルドも遂には︑四段球友バーで知り合ったデイ
ジイとの関係を︑そして彼女を救った後の短い問︑彼女は確かに幸福
であ った こと を︑
E
直に告白する︒その問︑彼は急がしい︑と一式訳してジェイラの許には現われていないのである︒市し彼女も今は︑むしろ彼の告白の正直さをいいことだと思う︒あくまでも関わるまいとす
るミ セス
・メ 1py
グも︑慈善協会の副会長として︑三週間会︑最後の救いを求めた妊婦の援助を拒絶した事実は認める︒市し彼女は決じ
て悪いとは考えない︒シェイラの何かを感じとった隠れと阻止にもか
かわ ら夕
︑責 任は 相手 の見 にあ ると 公言 する
︒極 度に 査ざ めて 崎氏 削閣 を
聞に表わしたエη
ノヅ グが 玄関 から 現れ る︒ 役は 頭を 冷や すと 芥に 山凶 て い た の で あ る
︒
− コエ 旦帯
︒幕 開の 処理 は先 と同 じ︒ エリ ック も全 てを 告白 する
︒女 との
関係を︑そしてその為に会社の金を費ったことを︑エグァ・スミスは盗んだ金で扶われることを潔しとせ歩︑ミセス・メ
1
pシグを頼った
ので
ある
︒
﹁このことだけは憶えていて下さいc
一人 のエ ずァ
・ス ミス は世 一を 去 り﹂ 百出 した
︒一 間し 幾百 幾万 とし れぬ エグ ァ・ スミ スや ジョ シ・ スミ スが
今命我々と共に生きているのです︒生活と望みや︑恐れと︑叉苦悩と
幸福の機会と共に生きているのです︑そして英等が又全て我々の生活
や言動と絡み合っているのです︒我々は一人で生きているのではあり
ませ ん
G我々は夫々一つの社会の一員なのです@我々はお互に責任を
持っています︒そして人がもしこのことを知ろうとしないならば︑焔と血と煽りで教えられる時が来るでしょう︒おやすみなさい﹂と一式い
残し て警 部片 山出 て行 く︒ 笠︿ 処え
︑ジ ェ一 フル ドが 帰っ て来 る︒ 彼の 話に 町よ れば 紘一 一一 部は 本物 では ない らし い︒ 問題 の女 も一 人の 女で はな いら し い ︒
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何故なら皆別与に訊問を受けたのであり︑一一人以上の人間が
同時に一枚の写真を見友かフたではないか︒更に調べて見ると病院に
は自殺した女︑いや死んだ人さえ居なかったことが判る︒
丸万事解決︑ほっとしてバIFYグとジェラルドはグラスを上げる︑
而し シ
f一イラとエリッグはそうした父親達の考え方について行け念い
そし てパ IF γ
グが彼等二人を若きジェネレ1
シ ョ
γは︑と一笑に附
す時
︑電 話が 鳴る
︑電
−話 は一 人の 女が
︑消 憲剤 を聴 んで 病院 への 途中 に
死んだことを︑そして警部が一入︑何かを尋ねにこ与えやってくると
乙ろ だ︑ と伝 える
︒ 以上 が壌 の荒 筋で ある
︒一 一一 幕︑ 警部 が立 去っ た後
︑ジ ェラ ルド が帰
って来る前︑警部の最後の言葉は等しく四人の胞に響くのであるが︑
一更 に︑
﹁あ の人
︑本 当に 警部 なの かし ら﹂ と一 古う シ
Aイ
一フ
の疑
いは
四 人の 登場 人物 の心 に各 人各 様に 浮ん で来 る︒ 少く とも
︑彼 が億 一一 一部 であ
ったかどうかr﹁勿論今となづては大したことじゃないけれとも;
﹂と 一式 内ノ 姑弟 の感 じ方 と︑
﹁若 しそ うで 友か った ら大 変な こと だ︒ 段々 の事 態に は大 いに 関係
︑ず る﹂ と一 云う 両親 のそ れと の二 様に 分れ る︒
そして爵の之までC進行は︑観客には当然前者の感動を輿える︒と一疋
うよりむしろ観客はこの家族の中誰が今それを感じとって居り︑設が
感じとっていないかは別として︑全員が等しく直面している何か或る異常なものに対するスリリγグを覚える答であJる︒それは未だに真の
事態を悟ろうとしない父親遠の考え方のタれや︑スノピズムを酬明うの
でもなく︑姉弟の心理的変化の控を追求するからでもないJ人物一人
了八 の考 え
v万が︑ではなく︑少くとも彼等が共通に抱いている﹁何か不思議だ﹂と一式う感動が︑観客全体に︑何か現実を超えた領域に︑百
も不自然に︑でなく浸透するからである︒
H之は︑警部と一式う特異な登場人物が︑スリラーのプロットで観客を
引張って行く︑信成上の劇的処理の巧妙さだけではない︒観客に与えるとの不思議な感動の自然さは徹頭徹尾心理的変化のない︑いわば一
木謂子に変化のない無性格な警部の線がこの劇全体に与える何か異
常なもの︶知覚
i i
之は第三幕の幕切れで︑突如として意識に上り︑
強烈な知覚としてひら珍くのであるが
11
1云わばこの超人格的な知覚
超人間的な何物か5ぐの非現実性ーをかへって自然なものとしたからで
ある︒私は思うのだが︑この超現実と現実との結合こそこの戯曲の構成の第一の要因である︒更に云えば幕切れ一応の合理的解決がついた
かに見えた直後の︑電話に依る超現実さへ−の飛躍電その非合理︑そし
てその非合理性が而も直ちに第一幕の発端に立帰る戯曲構成︑一式い換
えれば︑劇全体が予感に憧動する伏棋であり︑結末が即ち発端であると一式う構成の巧妙さが現実感を裏附けている︒観客は幕切れの瞬間に
直ちに発端の図築︑警部の来訪λ推理の発展︑事件の拡大︑を現実と
して ひし と感 じと る︒ そう だ︑ こう 一式 うこ とは あり 得る
︒
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いや 全
く同じことが起るかもしれない︑
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いや現に起りつLあるのだ︒と
一云う緊張︑現実感︒劇的処理について少しく細部に渉るが−多少なり とも文明病的傾向をもっわれわれにとって幕切れの電話は︑その音響効果だけでも何かを
11
戸口のペルの生理的連想を呼びおこすに充分
であ
ろう
︒
次にこの戯曲の劇的組立ての問題か
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離れて︑戯曲の内容そのものに立入るならば先ヂ英国社会に投げかけられた︑社会階級意識の問題があ る︒
﹁P G
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や連らべゃしけだに中の涜ズルエウ−G・しH
て一 おく こと は友 い︒ 我々 コチ コチ のビ ジネ スマ ンも
︑時 には 一一 言口 市中 さ なく ちゃ
﹂と 一足 って 始め るバ 1 F
Yグの演説には︑而乍ら︑勿論理想
主義的社会改良論の匂いさえなく︑役は︑あくまで十九世紀プルジョ
門 ソ ジ
1の︑そしてグィグトリアシ的進歩の概念の上に一泰然と践をすえているのである︒そしてそうしたもφえの批判が︑たとえ形の上では
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えば 役の
﹁焔 と血 と
憤りで:白﹂と一式った台詞を︑私は単なる階級的アジテ1
ショ シと のみ 受け とれ ない ので ある が︑ i i i h
u しろ︑シェイラやエリッグに依
って一訳されているのではなかろうか︒との若き姉弟の心の中に起った
疑いは︑例えば﹁皆は今日のことがなかったことにしておしまいになりたいのね?﹂とか又﹁そうすれば何も起らなかったことになるのね
何も後悔することはなし何も学ぶこともないのね︑た立︑前と同じ様
に暮 して 行け ばい いの ね﹂ と一 式う シェ イ一 フの 批判 は︑ 単・ に何 時の 時代 にも 起り 〆得 る親 と子 の二 つの
︑ジ 品ネ レ
1ションの食遣いを問題にし
ているとは思えない︒明かにそれは大戦前のオプテ4ミスヲと︑人聞の社会が決して彼等の限に映る様な楽園ではないととを少くとも感じ
とった人達とのギャップを示している︒議に︑私は作者が︑この戯曲
ミの 年代 設定 に当 って 一九 一一 一年 と一 式う 年を 選ん だこ との 器用 さと
︑多
少の便宜的な匂いを感そすにはいられない︒
而乍らそれにも拘ら歩︑又︑先にも触れた如く︑警部の台詞の或意味
では激烈な言葉にも拘ら夕︑私はこの戯曲の第一の問題はそうした社会意識︑或は階絞意識の提示に止まるのではないと考える︒之は結局
叉︑ 一泊 に還 るこ とに 友る けれ とも
︑警 部の 一示 す線 が︑ 我々 観客 に与 え
るものは︑現代はこの戯曲の人物が知ってか知らタか︑直面している
様夜︑無意識の罪におびえざるを得ない時代であると云うことであり
それは確かに病的な現実を一不すと共に︑人聞の善意と悪意を超えた何
もの か
zあ
ると 云う こと を啓 示し てい るの では
・な かろ うか
︒
以上︑この戯曲の二つの問題
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即ち︑社会意識に伴うジェネレl
yョシの問題と︑入閣の者自を超えた存在の知覚と云うことが何れも︑非常に自然にこなれていると一式うととは署目すべきである︒それは必ナしも其等の問題が解決されていることを意味しない︒その戯曲
構成から見てもむしろ問題は持越されているのであり︑エリオヅトの言葉で云えば案内人が案内することの出来ない地点にほうり込んでい
るのである︒そして又︑この問題の未解決と一式うこと自体︑実は病的
であり︑そのことが現在の病的な現実をふまえているとも一式えるであろうか︒私は最近のノ1トから︑生のまλではあるけれとも.一つの方向をもっと考えるいくつかの間題を取出して並べて見た︒詩劇の意義︑リアリズムの問題︑劇的世界と小説的世界の対比︑その根底にある近代の心︑何れも深く考究ナ可き多くの問題を含んでいるが︑最後に鰭れた﹃警部来訪﹄から︑エシタテエイシメシトと一式うことを見過すことは出来ない︒此の践曲の紹介に当って︑私は余りに手放しで讃め︑過ぎたと恩われるかも知れない︒而し私は決して之を︑第一経の芸術作
品と 一式 うつ もり はな い
cむしろ明かに之は多分の遥俗性をもっている︒而もそれが単に観衆を娯しますだけに終っていないことを強調する為に前言を繰返す必要はない︒この戯曲のもつエシタテエイシメヅトは 先の演劇の本質的諮問題と一つ一つ分ち難い関還をもつのであり︑むしろその性格そのものが本来の劇的世界を作り上げる基礎となっているo劇的世界を作り上げると一式うことは而し︑た立に戯曲の側の作業ではない︒創造の契機を戯曲が与えるとすれば︑それは観衆の積極的参与を意味するものでなければならない︒戯曲に依って播かれた種子が観客と云う土壌に落ちて如何に育まれるかが問題であり︑スリラーであるか通俗的であるかは問う所ではない︒もしそれが現代の人間を正しく創りあげ︑その劇的世界が偽の︑歪められたものでない限りは次の日により大いなる開花を見るであろうから︒観衆は彼の劇評家が考える以上に正しい判断を下すものである︒従って︑それに依ってユリ
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